The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

青少年インターネット規制法案によって子供は甘やかせることになる。

2008-04-24 17:24:22 | Weblog
青少年インターネット規制法案ってのは、まるで検閲そのものではないか。
性行為だろうが、爆弾の作り方であろうが、子供に害があるかどうかは、大人が決めることではないだろう。
あふれる情報の中から情報を選別する能力こそ、これからの時代必須だと思う。

こうやって、温室育ちにするから、自爆テロのような自殺が流行するのではないか。
自殺や事故の死体を見せるべきだと自分は思う。アニメやドラマとは違い、本当にインパクトは強い。だからこそ、子供にも見せるべきではないか。
ゲームやアニメを批判するのはいいが、現実世界にフィルターをかけて情報を提供していることは、彼らが批判するフィグション世界のきれごととなんら変わらない。

死とは、きれなものでもないし、ましては自然死でなければ相当なショックを受けることは間違いがない。考えて欲しい。内戦などで死体を踏み分けてきた子供たちはどうなんだ?みんな何か問題があるのか?誰も自殺したいなんて思わないだろう。
死とは、生きるものにとっては、恐ろしい敵でしかない。あえて、それを美化するから若者の自殺はなくならないんじゃないのか?

それと、児童ポルノは別だが、一般のアダルトと言われるポルノなんて、昔から年頃になれば興味もでる。所詮やることは同じだろう。規制するってことは、性に興味を持つことは悪いこと、って感じがするんだが。。。どうだろうか?

出会い系サイトや自殺サイトを規制したとしても、なんらかのソーシャルコミュニケーションというのは生まれてくる。高市議員は子供をわかってないようだ。
重要なのは、こういったネットワーク社会でいかに自己防衛させるかって教育をすることの方が必須なのではないか? 外国では児童ポルノも関連して、小学生に「年齢、名前、学校、住所」を聞かれても簡単に教えてはいけないと教える。
いじめにしても同じである。サイトを閉鎖しても、別なサイトが生まれるだけだ。
それをプロバイダごと規制するってのは、検閲と変わらない。

日本だけ規制しても、あまり意味はないと思う。
前向きに考えるなら、役立たずの教師をなんとかして(授業よりデートの準備とか、テストの採点で月たった100時間残業とか)ではなく、本当に子供たちを指導できるような資質をもった教師を育てることが急務だろう。
だいたい生徒に児童ポルノの危険性を説明できる教師っていないもんなぁ。
先日は、逮捕された教師もいたし、算数、理科、社会なら、パソコン相手にゲームしながら覚えた方がずっといいと思う。
インターネットについても操作は教えても、違法ダウンロードが何故いけないのか、ちゃんと説明できないだろう? 
爆弾の作り方があっても、それを実際に使うことがどうゆうことか、生徒といっしょに考える先生はいるのか?

情報の選別ができないってことは、これからの未来、役に立たない人間を育てるってことだ。生き残るためには子供であっても売春をする。自分の家族のために子供の臓器を売る。こんな世界が現実には存在している。それを教えてることの方がうんと重要だろう。

自爆テロは、自分だけではなく他人を殺傷することで自分の存在をアピールしているに過ぎない。先日も自爆テロで死んだ子供の親のドキュメンタリーを見たが、子供は英雄とされるのだが、母親は目に涙していた。父親も決して誇らしい顔をしている訳ではなく、悲しい顔だった。あの状況では本心は言えないだろうが、あきらかに悲しんでいるんだよ。巻き込まれて死んだ人の家族は、公で罵倒はできないが、名誉の死とは思ってない。その父親は怒りと悲しみの顔で、母親は声をあげて涙して泣いていた。(中東には泣き女って風習もあるが、涙して泣くってのは本当に悲しいからでしょ。)

子供たちや若者たちで、自分たちのコミュニケーションの場にうまく適用できない、または排除されている人たちがいる。自己の存在がないってこと。
親も教師も大人のくせにこういった子供の信号がわからない。ここの部分に対して、親や教師にトレーニングする方が規制するよりうんと役立つと思う。

プロバイダを規制しても海外までのプロバイダは規制できないだろうし、サイトは生き物ってことを知らないようだ。利益のための国際運動会で声明を発表して騒ぐわりに国境なき記者団は騒がないようだ。まあ、彼らの利益にならないから騒がないだけとも言えそうだ。

結論としては、無駄なことに税金を費やして議論しないで、さっさとネットワーク時代へのテロ対策を考えて欲しいもんだ。
温室育ちの植物も動物も、厳しい気候の中では生き残れないで自ら死を選んで果てていくってのは、誰かの小説にあったが、まさに今の日本にあてはまるのかもしれない。

補足:
野党のある党で外国人向けにBC戦犯への見舞金を300万払うとかあった。
何で払うのか? 戦犯指定は日本がした訳ではなく、かつ外国人の彼らに関与させたのが日本であったとしても、見舞金を日本が払うってのはよく意味がわからない。
関与しなければ彼らはどうなったのか? どんな犯罪で戦犯となったのか?これをあきらかにした上でなければ、賛同できない。まあ、国民が反対しようとしても理屈をつけて払うって法案を無理やり通すのかもしれないのだが。。。
そもそも韓国に対しては占領時の賠償をかねて援助金が払い続けられたのではないのか?中国も同じだ。
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平和を守るために戦うこと、または、自分は戦わないで他国に依存する平和

2008-04-23 23:50:03 | Weblog
革命ってどうして歴史において起こるのか?そんなこと学校の社会や歴史で教えてはくれませんね。ひたすら年代の暗記ばっかりだから、役に立たない。

スイスは永世中立国というのは知っているとしても、軍を持っていて、兵役の義務もある。ちなみにスイスは民主主義の国だ。自分たちの国は自分たちで守るという常識を持つ国だ。ほかにもヨハンシュトラウスを国であるオーストリアも永世中立国だ。お城とかで有名なリヒテンシュタインも永世中立国といってのスイスの保護国だからね。
でも、みんな軍は持ってる。

民主主義とは多数決で物事が決まるとかだけではない。民を主役だから、自分たちの国は自分たちで守るというあたり前の理由で軍を持ってるだけ。

日本国憲法9条は、敗戦後米国(勝戦国)に押さえつけられて、軍を持てなかったためにこんな内容になったというのは、日本以外の世界でも有名な話だ。
確かに軍事にかかる経費をすべて経済活動に投じたから戦後の復活が成功したという説もある。

日米安保というのは、どうして米国に利益があるかといえば、当時ソ連と中国の監視をするのに都合のよい場所に基地をコストは日本持ちで設置できるという点で結ばれました。このあたりは高校レベルの歴史では先生も大学入試にでないから教えないんじゃないかな。しかし、グローバル化する現在は、知らないと恥をかく事になる。

日本の憲法では決して永世中立国との言っているのではなく、「戦争放棄」となっている。非武装中立主義とすれば、自衛隊は違法になる。非暴力主義で、他国からの侵略に対応するという非武装中立主義。殺されても、何をされても非暴力で対応するってことらしい。ガンジーみたい首相自ら、命をかけて抵抗するとは思えないんだが(笑)。非暴力による独立運動や人種差別撤廃運動は、可能かもしれないが、他国からの侵略に対して効力があるのだろうか。
今なら米国や国連軍が助けてくれるのだろうか?他人まかせの平和ね。

自分は決して戦争賛成ではない。他国を侵略することは大反対だが、第2次世界大戦がどうして始まったのか。本来はここの部分からちゃんと近代史って教育するべきだと思う。米国のハワイには、多くの日本人移民が住んでいた。それを知っていながら、奇襲攻撃をかけた。ハワイに旅行して、パンチボールに行った人はどれだけいるのだろうか。そこには日系人の部隊が米国への忠誠を証明するためにほとんどが戦死した兵士の墓がある。明治生まれの日系人なんかは、日本の天皇誕生日にはお祝いするぐらいに日本人だったが、二世はバナナと呼ばれるように教育は米国で受けているので日本語が話せても米国人なのだが、日系ということで大変だったと聞いている。
だから、日本が嫌いな日系もたくさんいる。これは米国だけではなく、韓国や中国に戦後残って生活をした日本人は本当に大変だったと頭が下がる。
日本も引き上げなどいろいろな策を講じたようだが、中国残留日本人と呼ばれる人たちは本当に苦労したと思う。小説でも山崎豊子著「大地の子」があるが、実際は大変だったようだ。それは決して中国が悪いというのではなく、戦後の中国は毛沢東や共産党やらいろいろあったからね。

戦争は反対だが、何もしないで非暴力でただ殺されるのは嫌だ。国を守るというより、先ずは役に立たないとしても、自分のことは自分で守るしかない。
恐らく第2次世界大戦中も同じように抵抗した日本人はたくさんいたと思う。
本来は、国民にこんなことさせるまで降伏しない国の責任者に問題がある。
本当に国民のことを考えるならば、長崎の原爆投下以前に降伏する必要はなかったのか?資源もなく、多くの命を無駄にすることを知らなかった程、当時の日本軍は馬鹿だったとは思わない。だが、お国のために散っても花見は咲かない。
わずかな数で命をかけて特攻したところで、数に勝てる訳はないだろう。
決して、戦死した特攻隊を馬鹿というのではない。彼らを死なせた軍の国の責任者に対して怒りが収まらないだけだ。

今はどうだか知らないが、グアムやハワイには多くの戦闘機が沈んでいた。
不思議なことに米国の観光者が花を投げている光景に出会ったことがあって、「どうして?」と聞いたことがある。そのときに「戦争は終わったのに家に帰れないでしょ。彼らに罪はないから。」と言われて、ショックを受けたもんだ。
勿論、敵国ということで喧嘩もたくさんした。
シドニーの近くに日本の特攻隊の潜水艦が沈んでいて、豪州が引き上げて、なんと日本に連絡して家族を呼んで慰霊祭をしたってこと聞いて、ショックだった。

日本は当時戦略する側の国だったから、確かに今のアフガニスタンとかに近い立場だったと思う。原爆投下は、戦争を終結させるために投下した、とThe National Air and Space Museumには説明があった。実はここにB-29を展示するための有名な騒動もあった。米国の中では正義を実行したB-29と結果を歴史として展示しようと戦った人もいた。

愛国心とは、国のために死んでもいいのではなく、国、そこに住む家族や友人を悲しませないようにできるだけ生きて返ることを先ず考える人だろう。
本当に国を愛するなら、国を支える労働力を減らさず、被害は最少に結果を最大にすることを考える人だろう。

映画や小説ではないのだから、一人、二人が特攻したとしても戦争は終わらないのだよ。10、20年後の日本を考えて、有事はいつかありうるかもしれない(資源もないし、占領してメリットがあるとは思えないのだが。)ために備えて憲法は改正して欲しい。

兵役がない日本は帰化したら得って考え方もあるなぁ(苦笑)。

補足:
12月7日に日本人というだけで石を投げられてその傷が自分には残っています。
そのときに喧嘩相手だった友人の米軍士官だったお父さんは「もう戦争は終わった。日本はその責任を取ったのだから、君は未来だけ見なさい。」と言われたことだ。
だけど、軍部そのものが馬鹿であれば、馬鹿な命令で死んでいく兵士たちはどうすればいいのだろうか、とずっと思っている。国を守るために死ぬのではなく、命はかけるが家族や恋人、友人のためには必ず生きて戻って欲しい。

戦争時には敵であっても、それは国レベルであり、個人では敵にはなりえない場合もある。これが必ず個人=国として敵としての認識しかできないならば、人類は平和を手にすることはできないと思う。

戦わずに負けるような非暴力主義は反対だ。しかし、多くの犠牲に見合うだけの戦いでなければ素直に降伏するのも自分の立場。降伏したら虐殺されるかもしれないが、非暴力で抵抗して殺されるよりは生き残る率が高い降伏を選択する。
しかし、家族や友人がいるので、彼らの命が保障されるまで戦いを選択することになると思う。別に国の名前が主義が変わろうが、言語が変わろうがかまわない。
先ずは、自分の家族、友人が生き残れればいいだけだ。
家族や友人という小さな集団、それが集まった社会を、民を守れない国ならば、自分は愛国心を持てない。

これが民主主義なんじゃないのか?多数決だけが民主主義ではない。
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報道の自由、スポーツの純粋なんてありえない。

2008-04-22 12:50:40 | Weblog
報道の自由を元とした国境なき記者団の訪日を拒否できないと鳩山さんはいったそうだ。確かに、テロリストという訳じゃないだろうが、もめごとの種になることは間違いない。国の保安からすれば条件付の入国許可というのが出せないものだろうか。

かつて麻薬で処分されたとかの犯罪者は入国拒否となる。
ピザがないために祖国に送り返された外国人もいた。
(正確には、強制送還されて祖国に戻ると死刑だったかで命の危険があったにもかかわらず、決まっただったと思うが、ソースで確認できなかった。確認したら訂正します。)

しかし、もめごとの種である代表人物を条件付もなく入国許可ってのは何かおかしくないか?
例え、元麻薬常習者であっても、麻薬が簡単に入手できなければ揉め事の種になる率は低いだろうが、あきらかに確信犯である人物を法に適用しないというなら、大臣や総理の権限などで公安の監視付とかできないものだろうか?

たかが運動会に関する他国のトラブルのために、何故、日本が危険にならなければいけないのか、という点を誰も論じない。
オリンピックは運動会だけではなく、企業の営利目的というのも誰もが暗黙で了解しているだけだと思う。優勝することでそれなりの利益を手にする点もなんか好きになれない。そもそも競技で勝つ意味とは、世界に自分および国の力を固持するために国費で参加する。経済状態の芳しくない国も参加する。

これらは自由の賜物か? 貧困で餓死する民族がいる一方で、国の宣伝のために運動会に参加し、その運動会を自由の名で利用する人々。
本当に報道をするのであれば中立の立場を維持し、無知な記者の意見など反映しない記事や作品を発表するべきであろう。
自由という言葉の自分たちの都合で利用しているだけで、結局利益のための作品をつくっているだけにすぎない。
個人の意見ですら私見が含まれる。これは決して中立でもなければ十分な情報を読者や視聴者に提供できる訳ではない。自分は報道とは正確なデータのみで十分だと考える。
データをもとに判断する必要があれば、専門の勉強をすればいいだけだ。
報道といってもゴシップ情報となんら変わらない。
報道とは、ノンフィクションではなく、フィクションだという意味だ。

補足:
火に油をそそぎ、世間の注目を浴びさせる。それはマスコミがますます利益を手にできるってことであろう。人権、自由という言葉は幽霊だ。誰も目にできず、踊らされる。実際は中国とチベットとの関係については、われわれが直接関与するべきではない。何故ならば当事者であっても正確な情報は持っていないで、踊らされているだけかもしれないからだ。もし、中国が、チベットが、どちらかに問題があればそれはやがて歴史上で判断されることであり、当事者以外が行動することではない。

戦争は当事者間だけではなく、おせっかいな国が介入することで大戦となると思うのだが。。。



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日本の食品なら安全ですか。

2008-04-22 05:27:47 | Weblog
賞味期限切れであっても、それほど害はない、というのは添加物がたくさん含まれているという意味だと思う。
中国製品だから危ないとかいうのも、これだけ大量の食材や加工食品を輸入しているうちのわずかな量においての問題だと思う。

一番腹がたつ噂は、うなぎの養殖で人糞や死体を餌にしているというような内容である。そもそも海老や小魚は人間の死体を食べる訳で、自殺の名所と呼ばれる場所の近くの魚とか海老は間違いなく人間の死体を餌にしているはず。人糞については、どこの国か忘れましたが、排泄物を海に落とすようなトイレを作り、その場所には糞を餌にする魚がたくさんくるので、人間の餌にするとか、排泄物を豚の餌にするなど、まさに無駄なく利用している国が何十年も前からある。

そもそも人間を餌にしてはいけないってのは、土に返すという表現からすれば植物の肥料にしてもいいが、動物はだめということなのだろうか。
添加物という化学物質よりは安全だと思うのだが、確かに病気などでウイルスが感染する可能性もないともいえない。しかし、それよりは感情として否定したいというだけのように思う。

欧米人が日本の銭湯は非衛生的で利用できないというが、プールと同じように塩素がたくさんで雑菌が繁殖しないようになっているという点の方が健康に悪いと思う。

人の表面にはたくさんのバクテリアがいる。手洗いしても手にはかなりの雑菌が残っている。人間はこういった細菌や菌と昔から共生しているといっても過言じゃないと思うのだが、きれい好きも度が過ぎると病気になる。
例えば、子供などは雑菌や寄生虫のおかげで抵抗力がついたり、アレルギー体質にならないとも言われる。そもそも、原住民のような民族は、公衆衛生についても高深刻のように徹底している訳ではないから病気や怪我で死ぬ人の方が多いかもしれない。衛生面からすれば人間はなんと丈夫なんだろうと、思うぐらいに雑菌とは共生している。

勿論、致命的な菌やウイルスもたくさんいるので、すべてが大丈夫とは言い切れないが、きれい好きもそこそこってのが一番いいのではないだろうか。

日本のように食の自給自足ができない国の場合は、輸入に頼るしかない。しかし、日本製だからといって安全だとも断言はできないという点を強調したい。
塩は人間には必要だが、取りすぎは毒になる。余談になるが、はまちやうなぎの養殖には、抗菌剤を餌に混ぜるのは当たり前。だから、たくさん食べれば、摂取量は増えることになる。
魚に水銀が蓄積されているなら危険だという話もある。そこからすれば鯨は魚を餌にするので、重金属が蓄積されているのではないだろうか、という懸念もある。

つまり他の生き物を自らのエネルギーにするために犠牲にしているのが人間や動物である。安全とかきれいとか条件つけて餞別できるだけの余裕があるうちはいいが、人口が増えて食料自給もできないようになれば、どうなるのだろうか。。。
これだけ騒いでも誰も自分のことは自分たちで供給しようと提唱する政治家もいないというのが本来国民が攻めないといけない部分だと考える。


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抗議の不買運動って何だろう

2008-04-17 02:52:56 | Weblog
よく抗議するために不買運動というのを目にするのだが、いったいこれは何だろうか。
例えば、日本国に抗議するために不買運動をすれば、日本国は抗議されたとわかるもんだろうか? いや、そもそも製品を作るのは国ではなく企業だろうから、せいぜい、企業が月次売り上げで「なんで下がったのか。」と気づいて、原因まで調べるかな?

思ったのは、日本国民も日本製品の不買運動でもすれば政府は抗議していると気づくか? 民主主義の皮をかぶる日本では、国民が抗議しても、政府の反応は誰に説明してもわからない言葉で応答することもなく無視というのが正しい反応だと思う。
日本文化というか、都合の悪いことは聞か猿、見猿、言わ猿ってことでしょう。
そして、眠り猫って態度が日本文化代表の政治家や経営者だと思う。

従来は言葉で言わなくてもみんなわかってくれる、という低コンテキスト文化ですんだのかもしれないが、異国の文化がたくさん融合されて外国なみに高テキストでのコミュニケーションが必要になったのではないだろうか。

何かのニュースに書いてあったが、これからの老人は長生きするな、と言われているようだとか、姥捨山とかの言葉がよく目につく。

SF映画「ソイレントグリーン」で、老人を食料とする物語があった、ふくよかでないと食料にもならないなだろうし、無茶なテーマと思って読んだ記憶がある。
まあ、雑食の人類だから、ありうるのかもなぁ、とも言えるんだが。。。
確かにディープインパクトでも50歳以上は、シェルターに入る権利はなかったしね。
老人とは50歳以上ってことなんだろうか。。
「老人と海」をひさびさに読んだ感想は、複雑な思いでいっぱいだった。

老いるということは、誰もが人生において迎える時間だ。1つは老いという圧力に逆らって生という戦いを続けることだ。2つ目は社会からの疎外ってことだなぁ。

日本人の道徳心がなくなったとか、いろいろ言うが、それは例えば今までは暗黙の了解で「まじめに社会に貢献していれば大丈夫」という保障があったように思う。
それが悪をなさず、税も納め、老いたら年金だけじゃ生活できない、病気になっても治療も受けられず、痛みに苦しみぬいて死ぬだけという生き地獄が見えてくる。
なら、楽して金を儲けて、パーと散った方がいい、とやけくそ気味の生き方を選ぶってのもわからない訳ではない。

不買運動とか、署名とか、やたらと意味のない運動が多いように思うが、これはやり場のない思いをやつあたりしているからなのだろうか?
まあ、そんな政治家を選択したのは自分たちなので、抗議してもいいのだが、なら国会解散ぐらいまで真剣に抗議すればいいだけのこと。

民主主義は数の理論だからね。自分は好きではないが。。。
例えば、船が沈みかけて、救助がくるのを待つ方法として、2つの意見にわかれて、多数決で決めるなんてのはまっぴら御免である。
考えないで決めるような人たちの数で、自分の命を左右されるのは嫌だ。

本当に抗議をするのであれば、しっかりと自分の声を伝えるというのが自分の姿勢だ。勿論、抗議したからって必ず通る訳じゃない。だが、抗議をする限りは、自分が正しいと信じているなら、証拠をあつめ、自分の声をあげるしかないと思う。
不幸なことに民主主義にはサイレントマジョリティってのは無効でしかないんだよね。

でも、相手がわからない抗議行動ほど無駄はない。

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オリンピックは単なる国の運動会

2008-04-09 23:46:55 | Weblog
国境なき記者団が各国の最高代表に北京オリンピックをボイコットするように声明を出したそうだ。
なら、F1やほかのイベントはボイコットしろ、とは言わないところがおかしい。
そもそもジャーナリストであれば、彼ら自身が北京オリンピックを一切報道しないなどのボイコットを示せばいいことではないか。
扇動するような内容の声明を発表して、抗議行動を促し、逮捕、処罰されるのは彼らではない。

別な方向を観察すれば、「オリンピックを利用するべきではない。」と意見を述べるオリンピック代表に選ばれた選手。自分が勝てる試合を中止にされたくなからという気持ちでの発言だと思うのだが、たかが運動会を政治目的に利用することに対して、自分が試合に出て、注目を浴びたいという自己利益のためというのが笑わしてくれた。

結局は、周囲が騒げばそれだけ盛り上がるのがイベントってものだろう。
自分は運動は興味がないのだが、もうひとつ笑わせてくれたのが国境なき記者団の声明だった。イベントで一番得をするのは彼らジャーナリストだからね。
だから、大そうな声明を言ってくれるくせに、誰もこのイベントに対して、一切の報道をボイコットしようとは言わない。報道の自由というのだろうか?
ならば、スポーツに参加する自由もあるのではないか。

正義のふりをしてはいるが、それは自分たちが得するためだけの騒ぎとしか感じない。抗議文や署名を集めたところで、それが一国の政策を動かすかどうか、子供でもわかることではないだろうか。
本当に抗議をするのであればまずは自らが行動を表すべきだろうし、扇動声明で火に油を注ぐような行動をするころをいかにも正義や自由という言葉を振りかざした行動というのが、まさに腐った林檎のような思想だと思う。





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悪いのは本当に自分じゃないのか、考えよう。

2008-04-07 19:37:56 | Weblog
政府が悪いのは、やはり有権者の責任ではないのか。
自分たちが選んだ議員に問題があるのであれば、それは自分が選んだ政党や議員に文句を言うべきである。しかし。それでは自分が選ばない政党や議員に対しての文句はどうすればいいのだろうか? 結局は自分が選んだ議員に依存するしかないってことだろう。これが民主政治ということです。

民主主義ね。社会主義、共産主義の崩壊とか言われているのだが、社会主義も共産主義も、はじめはすべての民に平等な利益をということだったのではないか? ではどうして、崩壊したのかである。
つまるところ、上位にいる人々の汚職じゃないのだろうか? 民主主義といっても、多数意見が必ずしも正しい方向を示しているとは限らない。つまり、どんな政治の仕組みがあったとしても、それを運用する人々の心しだいということなのである。

腐った林檎がある限り、どんなに崇高な理想を理論を掲げても、運用する人が腐ってしまえば崩壊する、という子供でもわかる理論だと思う。

資本主義は国を強くするというが、経済としてはそうかもしれないが、国内は決して一般の民にとって住みやすいとは限らない。経済を豊かにするには生産性をあげる必要とか、ひたすら消費をしてもらうお客様が必要となる。
これは考え方によっては、暴走すると地球にとっても迷惑なこととなる。
消費をすることは、古いものはさっさと捨てて、新しい品物を買うことを推進する。
ゴミが増える。ゴミの中には人間や自然に有害な物質もあり、簡単にゴミ処理ができない。便利な器具は人に時間を与えてくれるというメリットもある。しかし、そのメリットは、より生産性を挙げるために費やされる。
まさに戦後日本がたどった道のりそのものである。

そして、戦後の日本を支えてきた世代は、もはや使い物にならない、むしろ国の負担という評価をされているように思えて仕方がない。

自然を慈しみ、人との調和を大切にするという文化は、もはやかけらも残ってないのが今の日本だと思う。明治、大正の世代からは、「モノは大切に」とか「無駄なく使う」ということをよく言われた。同じく、「年寄りはかつて国を支えてきた人だから敬意を持って大切に」とも言われた。だから、電車やバスでも「年寄りに席を」なんてのは当たり前だと思っていた世代が昭和後半の世代だ。

しかし、日本は社会主義的な民主主義を取り入れた国だったと思ったが、いよいよし本主義にシフトしようとしているのかもしれない。

さて、それでは中国のような共産主義や旧ソ連やフランスの社会主義が本当に崩壊と言われているように失敗だったのか? いや、ちゃんとそれなりに変革を続けているから国はまだ残っているし、中国は経済的にも成功しつつある。
勿論、中国にしても古来からの文化や習慣を守りたい人々はいると思うのだが、そのあたりは日本と違って命がけなんだろうなぁ、と思う部分もある。

結論としては、単純にxxは駄目ではなくて、何がどの部分が駄目でそれを改善することができるのか、できなければどの報告にシフトするのか、その影響はどうかと考えていく力こそ、国を崩壊させないのではないだろうか。

選挙のときには、口当たりのいい政策ではなく、10年、20年後にその政策がどのような影響を与えるのかまで語れる政治家を自分は信頼する。たとえそれば、自分たちにとって厳しい状況になろうとも、未来のために選択する、という決断を促すだけの政策であれば、自分は選択する。失敗したら、それはその政策を支持した自分の責任である。まあ、それが与党ではなく野党であっても、未来のために戦いぬく政策を出し続け、実行しつづける政党であれば自分は支持する。

国が10年ぐらいで景気も回復する、なんてことはありえない。しかし、今よりも少しづつ国が生き返るのだればそれは本当に素晴らしいことだと思う。



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公立大学とは誰にでも門を開かれているのでないのか。

2008-04-06 22:30:00 | Weblog
昨年だったか、群馬医大を受験した高年齢(はっきり記憶にないが、50歳以上)の女性について、賛否両論の意見が飛び交った。
自分が一番疑問に思ったのは、医者になるためには金がかかり、高齢者には肉体的にもきついこともあり、合格にするべきではない、という点である。

税金による公立大学がこんな理由で受験生を拒否するのか。学問の自由はないってことだ。同じく、公立でありながら金がかかるというのは、奨学金もでないってことか?
たとえば、外国人が増えている日本だが、日本で学問を目指す外国人も多いいる。
医者になりたいということで、あるフィリピンの女性が勉強していた。彼女の自宅は裕福ではなく、水商売をしながら、勉強していた。彼女は医者になって日本や祖国のためになりたいという目的でがんばっていたのだが、アルバイトが水商売という理由で学校から処罰を受けて、最後には退校となった。

学校は公立である。アルバイトがふさわしくないという理由はどうしてだろうか?
フィリピンパブには、政治家や大学教授ですらお客様でいるというのに、不思議だ。
彼女は自分とは比べ物にならないぐらいに、日本語だけではなく英語の専門書も中古やアマゾンなどで入手して読んでいた。理由は金儲けではなく、本当に病気を人を救いたいという理想からだ。日本に来たのは金が稼げて大学にいけるという点である。
決して、楽ではなかったと思う。だけど、そうしないと勉強もできないし、家族への若干の仕送りもできないからという理由であって、好きで酔っ払いのスケベ親父の相手をしている訳ではない。

ほかにも日本で日本語の勉強していて、フィリピンで学位を持っていた女性が就職活動をしたのだが、面接時にかなり屈辱的な発言をされていた。
彼女たち二人が言った言葉は「日本人はどうして私たちを理解してくれないのだろう。」という共通だった。
どうもアジアの女性は、性の対象でしか評価しない、というような雰囲気がまだ残っている。たまたまフィリピーナだったけど、これはタイや韓国の女性に対しても似たような意識が残っているとも聞く。真面目に大学で勉強している彼女たちに「単位あげるから今夜どう。」と実際に言う教授もいるそうだ。それを訴えないのは、学校で騒ぎを起こせば退学になるし、将来の就職に影響するからと言う。

大学とは学びの場所ではないのか。そして、上記のような出来事は決して表にでない。しかし、現実には外国人の女性(もしかしたら男性もあるのかもしれないが、自分は耳にしたことがないだけかもしれない。)たち、そして、社会に出た人や定年後の人たちが安心して学べない公立大学というイメージが自分にはある。
確かに外国の大学は、誰でも学びたいと思ってたずねにいっても国籍(英語国であれば英語ができないとちょっと難しいが)、性別、年齢の差別はない。
高齢で医学を学びたいといっても、金がかかるとか年齢が高齢という理由だけでは拒否されない。
国民の税金で維持される公立の大学や高校が、差別することに問題がある。
税金を返せともいいたい。そして、そんな態度でふんぞりかえる教師や教授の下では決して学びたいとも思わない。なぜならば、自分もどこかで彼らの影響を受けて知らないうちに差別をするかもしれないと考えるからだ。

道徳の教育が必要なのは子供ではなく、政治団体になっている教師や教授だろう。
権威主義という言葉が正しいのかはわからないが、実践主義の教育を目指すようなそんな大学であれば生徒は決して辞めないと思う。
医者は法律や算術ではなく、科学であり、ほとんどの人が親に言われて、金儲けということではなく、人のためになる仕事として選択している、という点である。
看護士も同じように志を持って勉学に励めるような、そんな教育現場が必要なのではないだろうか。

公立病院が私立病院のように効率化を考慮した経営になる点も問題がある。
保険制度はそもそも病院が儲かる仕組みにできているはずなのに、どうして赤字になるかという点である。患者の数は高齢化と共に増えてきているのに、なぜ?
道路だけではなく、社会に必要な施設に対して、税金を使うような政策こそ、今は本当に必要なのではないのか? そして、そんな政策を提唱する政党はどこもないってのは本当になさけない。

たとえ、40歳、50歳であっても医者や看護士を目指すのであれば、門は開かれるべきだろう。医者や看護士は人間であって、医療マシーンではないので原価計算で金がかかるという意見は何か間違っていると思う。

最近お世話になった外国でのお医者さん:
前日、39度の高熱2日続いて、外国で医者にいった。先生は「風邪だから、リンパ線が腫れているから抗生物質だすので、風邪薬のんで寝ていなさい。」というだけ。
熱が下がらないんだけど、といったら「ただの風邪だからね。39度なら大丈夫。」と言われた。注射してくれたら楽なのに」となんど頼んでも「熱は菌が体の抗体と戦っているから出る。39度なら正常だ。苦しくて息ができないなら、頭を冷やして、横になりなさい。息を吸うのが苦しいならこれを胸に塗ってねなさい。」となつかしいベポラップをもらいました。おかげで部屋の中はメンソールの香りがしばらく取れなかった。

数週間後、内耳炎で同じ先生にあったら「まだ、手術しないでも大丈夫だから、抗生物質を飲んで安静に寝てなさい。」といって、3日後に予約を取らされた。
3日後「薬が効いて炎症も治まっているけど、もう3日ほど服用するように。菌はまだ残っている可能性もあるからね。手術しないでよかったね。」という次第だ。
薬代とあわせても安くってよかったんだが、抗生物質がこんなに頻繁に出てくるのにびっくりした。
どうも自分には地元の菌の免疫がないのか、よく雑菌に感染するのだが、内耳炎の原因は日本人独自の耳掻きによる傷からの感染だった。先生がゆうには「あんな危険はやめてこれを使いなさい。」とくれたのは「水のような薬がまじった液体を耳の中に入れて、20秒後に出す。」というもの。薬品ではなくスーパーで売っている品物でした。耳かきが危険だとは知らなかった。耳の傷から雑菌が感染して、リンパは腫れるし、目や頭まで痛くって、眩暈がして歩けないという症状でした。

たかが風邪で医者にくるのか?という感じでしたが「抗生物質は自分で買えないでしょ。」と言い返したら「このぐらいなら日頃ちゃんと免疫つけていればここまでひどくならないよ。」と言い返されました。
つまり、健康管理をしない自分が悪いってことらしい。耳も同じで「そんな危険なことを今まで習慣でやっていてよく今まで大丈夫だったね。」とまで言われました。
「だけど、大人になって初めて菌に感染したんだけど。」といったら、案の定「ちゃんと健康管理しないからだよ。バランスのいい食事と運動しないとね。」と笑われました。

老後健康でいるには、若いときからのバランスのいい食事、規則正しい生活習慣、そして、定期的な運動、だそうだ。どれも日本人には向かない治療方法だよね。
健康な老人を増やすなら、国はバランスのいい食事、規則正しい生活習慣、なによりも定期的な運動と推進した方が医療制度変革よりいいと思った。
まあ、自分は運動が嫌いなので、老人になる前に雑菌などの感染症で死ぬのかも(苦笑)
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暇な員たち。おお、若者よ。祖国を捨てて外国に出よ!

2008-04-03 22:18:21 | Weblog
外国人に選挙権を与えることのために、公聴会ですか。。。税金の無駄遣いでしょ。それよりも1億4000万を超える国民のうち、最低な暮らしもできない人たちがいることの方が重大な問題ではないのだろうか。

絶望的な未来を想定させる政策は、国を荒廃させていきます。
若者よ。国を変えるだけの意気込みがないならば、国を捨てて、外国に出でよ。

優先順位がわからない大人を手本にしていては、これからの世の中、生きてはいけません。自給自足も確保できない島国で、あちらこちらにおべっかい政策しか提案できない政治では未来は決して明るくありません。
企業も外国人労働者に頼らないと維持できないほど、弱体化しているようです。
うわべだけ真似した経済対策で企業の役員は肥えていき、まったんの社員には強制労働のように「不満ならやめていいよ。」と態度で安い賃金で使うだけ使って、捨てられます。こんな国はさっさと捨てて、本当のビジネスの修羅場を経験できる外国へいきなさい。きっと、すばらしいスキルを身につけることができます。そのスキルはどこにいっても役立ちます(日本にいるより絶対に役立ちます)。

まあ、企業ならこんな議員はプロフィット出せないだから、首でしょね。

プロフィットとは、国の将来に明るい希望が持てる政策です。だから、今が厳しくても、明るい希望を目指してがんばれるんじゃないですか。
それを戦後の日本を支えてきた世代になんという仕打ちをするのか。。
国のためにがんばっても、自分の老後にどうなるか考えると、さっさと国をでるべきだと迷わず、決断できます。

**二世議員の親は、裕福だから、こんなこと心も痛いと思わないのかもしれません。
老人に病気をさせない方法の1つは定年をなくすことです。
企業の害というなら、十分な人材を活用できない企業の責任です。
刑務所暮らしなら、食事も最低の医療も保障される、というならその方が老後は暮らし易いという理由で犯罪を犯す老人についてドキュメンタリーを見ました。

母に言われたのは「自分もやがて老いて、他人の世話にならざる得ないのだから、手を貸してあげましょう。」という言葉です。病気がちのくせに、おばあさんの荷物を持ってあげるような、そんな母でしたが、老人と言われる前に難病でなくなりました。戦後の修羅場を生き延びて、本当に苦労した人でした。
まあ、愚痴もたくさん言って批判もする人でしたが。。。いないと喧嘩相手もいないでさびしいもんです。
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プレゼンテーションスキルって何か。

2008-04-01 23:56:26 | Weblog
自分の主張をきちんと聴衆に伝えるスキルのことです。

例えば、喧嘩をして「どうしてこんなことしたの?」と聞かれて、経過を話すと「弁解はしない。」としかるのが日本の習慣です。
しかし、これは外国では違います。はっきりと論理的に第3者の立場で冷静に説明できるスキルこと、重要です。感情的になってはそれだけで誰も耳を傾けてはくれません。

しつけが厳しく育てられた日本人ほど、揉め事のときに、冷静に事情の説明ができないのです。いいわけではありません。事情を説明するだけだというのに。。。

勿論、Noというときには、はっきりNOとは言いますが、あたまからNOでは相手も「何?」と構えてしまいます。だから、湾曲な表現やここは同意するけど、この部分は自分は違う、理由は、というように説明します。

人間だから、意見の違いは当たり前だし、なんでもかんでもYESでは誤解の素になります。その点、中国は世界を相手にがんばっています。正直いって、日本も少しみならって欲しいと思うぐらいに、努力して、自国の正当化をプレゼンテーションしています。この姿勢は大切です(事実は自分は知らないのでコメントしません)。

だけど、どこの国にしても同じ人間ですから、まったく理解できないってこともないでしょ。もし、自分が中国の立場であれば、きっと、大イベントを控えて、同じようにSpeak upするに違いないからです。

日本みたいに言い訳はみっともない、という文化は事態を何も変えることはできません。大切なのは、いかに自分は自分の利益を守るためにがんばっているか、という点を誰もに同意してもらえるように伝えるのが重要なんですよね。

個人、企業、そして国、すべては自分の利益ためです。これは決して悪いことではありません。自分が犠牲になって他人が幸福になれば、というのはそれこそお話の中だけです。自分がちゃんと幸福でなれば、決して、他人も幸福にしてあげることはできません。

神の子だから、その犠牲によって、人々は幸福になった、という宗教がありますが、戦争や犯罪があって幸福だと思いますか。思うなら、それは不幸を楽しむだけで、幸福ではないのかもしれません。心が満たされて、というのなら、あなたの心は病んでいるのかもしれません。

幸福とは、誰もが心を満たされて、言葉で表現できませんが、忙しくって一日何も食べないでいて、空腹も極限のときに食べる食事は、「おいしくご飯が食べられてなんて自分は幸なんだろう。」という感じです。
そんなときには、素直に「Speak up」して「おいしい」といいましょう。

文句をいうことよりも自分の喜びや楽しむを人に伝えることを練習する方がプレゼンテーションのスキルには役立つそうです。

**感動や感謝の気持ちを言葉で伝えるってのは、難しいもんです。文句も同じです。
でも、この練習が自己表現の練習なんですよね。

今日の幸福は、何事もなく一日が過ぎたことでしょう。平和ってありがたいです。
でも、この気持ちをプレゼンするのは。。。。。できないなぁ。
現実的な現象、例えば、宝くじ一等が当たるなんてことがあれば、そりゃもう、プレゼンのネタには最高!

愛は金がなくては育たない。
しかし、金は愛があっても手に入らない。

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