なんでも自由だとか、民主主義という言葉で誤魔化すような人や団体、組織の言葉は無視したいものだ。なにせ責任を担わないような人ばかりなので、言いたい放題。その真意は自国や自国民のことなどまったく意識のひとかけらもないのだ。そんな人たちが本当に平和を目指し、人権の土台となる平等という認識を実行できるとは自分は信じることはできない。まだ存在の実在性が不確定な宗教上の神の方が信じられる可能性もあるし、人々を救っている分、存在意義はあると考える。
人は自らの都合で非論理的な思考だろうが、証拠がなかろうが、信じて、それを人に広める。その代表が宗教だ。宗教における神にはハードエビデンスがない。それでも多くの人が信じている。だが、ネガティブな面ばかり昨今は取り上げるのだが、良い面だってある。日々の生活が生きるために逃げ、食料や水のために罪を犯す。そういった人の心を日本人はどう見ているのだろうか。希望なんてある持てる訳がないのだ。なにせ希望が何で、どうやれば明るい未来だとか、希望を想像できるのか。教育すら受けられないような子供たちにどんな希望を持てと言いたいのか。そこで唯一の救いが宗教だ。だが、救いは現生ではなく、来世、つまり死んだ後に天国に行けるのかどうかなんて、誰が想像できるのか。
地球上すべての人を救うため、人に平等な機会を与えるため、って言葉を自分は信じない。できるという根拠がないのだ。
宗教ですら統一できなかった。イデオロギーもできなかった。どうして理想が高いような思想であっても成功しないのか。そう、人間としての業であり、欲。理想の共産、社会主義でさえ、幹部は莫大な富を手にしている。反面、民主主義は当然ながら一部に富が偏る。別にそれで何が悪いのか。そもそも経済なんて人間が生み出した仕組みであって、それを変えることもできる。問題は国という単位の中ですら、すでに貧富の差が開き、日々の生活ができない人が増えている点だ。これが地球上という大規模な範囲とすれば、すでに解決できる範囲を越えていると思えるのだが、それでもあきらめないで救済活動を続けている。国連とかユニセフ?否。一般の宗教活動だったり、日本でいう海外青年協力隊のようなボランティアレベルでの活動だったりする。国連という存在がありながら、国境なき医師団なんて組織も生まれている。どうしてなのか。
どんな立派な方針を掲げた組織であっても、継続して活動するためには資金が必要だ。この資金がどこからなのかによってはこういった立派な組織や団体であっても、偏向した行動を起こす。もしかしたら偏向というのが間違いで、本来の彼らはできる範囲として目標を絞っているだけなのかもしれないのだ。
日本の教育において、世界に誇れることが一つだる。それはリスペクトという言葉を常時意識して集団の中で行動するように教育していることだ。金太郎飴とは違う。一人一人が担う責任を認識するためには、こういった意識を常時持てるかどうかで変わってくる。言葉や習慣が同じであっても、責任を担っているという意識がなければただのオブジェとしての存在でしかない。だが、個として、集団を支えると認識できるのなら、一人一人の小さい力が大きな力になる、と知っているからできる教育とも言える。だからこそ、どうでもよいような甘い言葉に惑わされず、事実と実績を見てからどうするのか、どういった未来に進めるのか、と決めればよい。外国人にはこういった教育を受けようという気もないようで、ひたすら自らの民族だとか文化ばかりを教える教育を望んでいる。だが、そんな教育は日本国および日本人、しいては世界においても何の価値もない。ゆえにそんなものに税金を投入することは、泥棒におい銭となるだけだ。
外国人による日本国の政治への関与、注文についても、正式な外交以外には認めない。民間?そんなものが何の役にたつのか。経済が低迷したり、災害にあっても、それぞれの国の外交関係がしっかりしてないと、民間交流なんて何の役にも立たない。そろそろ民間交流により理解をしあうという幻想を捨て去りたいものだ。これも義務教育で国際関係の基礎すら教えない弊害とも言える。どちらにしても外国人による政治関与には実刑および処罰として、強制退去を早急に実現したいものだ。
人は自らの都合で非論理的な思考だろうが、証拠がなかろうが、信じて、それを人に広める。その代表が宗教だ。宗教における神にはハードエビデンスがない。それでも多くの人が信じている。だが、ネガティブな面ばかり昨今は取り上げるのだが、良い面だってある。日々の生活が生きるために逃げ、食料や水のために罪を犯す。そういった人の心を日本人はどう見ているのだろうか。希望なんてある持てる訳がないのだ。なにせ希望が何で、どうやれば明るい未来だとか、希望を想像できるのか。教育すら受けられないような子供たちにどんな希望を持てと言いたいのか。そこで唯一の救いが宗教だ。だが、救いは現生ではなく、来世、つまり死んだ後に天国に行けるのかどうかなんて、誰が想像できるのか。
地球上すべての人を救うため、人に平等な機会を与えるため、って言葉を自分は信じない。できるという根拠がないのだ。
宗教ですら統一できなかった。イデオロギーもできなかった。どうして理想が高いような思想であっても成功しないのか。そう、人間としての業であり、欲。理想の共産、社会主義でさえ、幹部は莫大な富を手にしている。反面、民主主義は当然ながら一部に富が偏る。別にそれで何が悪いのか。そもそも経済なんて人間が生み出した仕組みであって、それを変えることもできる。問題は国という単位の中ですら、すでに貧富の差が開き、日々の生活ができない人が増えている点だ。これが地球上という大規模な範囲とすれば、すでに解決できる範囲を越えていると思えるのだが、それでもあきらめないで救済活動を続けている。国連とかユニセフ?否。一般の宗教活動だったり、日本でいう海外青年協力隊のようなボランティアレベルでの活動だったりする。国連という存在がありながら、国境なき医師団なんて組織も生まれている。どうしてなのか。
どんな立派な方針を掲げた組織であっても、継続して活動するためには資金が必要だ。この資金がどこからなのかによってはこういった立派な組織や団体であっても、偏向した行動を起こす。もしかしたら偏向というのが間違いで、本来の彼らはできる範囲として目標を絞っているだけなのかもしれないのだ。
日本の教育において、世界に誇れることが一つだる。それはリスペクトという言葉を常時意識して集団の中で行動するように教育していることだ。金太郎飴とは違う。一人一人が担う責任を認識するためには、こういった意識を常時持てるかどうかで変わってくる。言葉や習慣が同じであっても、責任を担っているという意識がなければただのオブジェとしての存在でしかない。だが、個として、集団を支えると認識できるのなら、一人一人の小さい力が大きな力になる、と知っているからできる教育とも言える。だからこそ、どうでもよいような甘い言葉に惑わされず、事実と実績を見てからどうするのか、どういった未来に進めるのか、と決めればよい。外国人にはこういった教育を受けようという気もないようで、ひたすら自らの民族だとか文化ばかりを教える教育を望んでいる。だが、そんな教育は日本国および日本人、しいては世界においても何の価値もない。ゆえにそんなものに税金を投入することは、泥棒におい銭となるだけだ。
外国人による日本国の政治への関与、注文についても、正式な外交以外には認めない。民間?そんなものが何の役にたつのか。経済が低迷したり、災害にあっても、それぞれの国の外交関係がしっかりしてないと、民間交流なんて何の役にも立たない。そろそろ民間交流により理解をしあうという幻想を捨て去りたいものだ。これも義務教育で国際関係の基礎すら教えない弊害とも言える。どちらにしても外国人による政治関与には実刑および処罰として、強制退去を早急に実現したいものだ。