ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 堂目卓生著 「アダム・スミス」  中公新書

2008年12月12日 | 書評
「道徳感情論」、「国富論」への案内 第2回

序(2)

 アダム・スミスの経歴を簡単に見てみよう。アダム・スミス(1723年 - 1790年)は、イギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・哲学者。主著は『国富論』、「経済学の父」と呼ばれる。グラスゴー大学で哲学者フランシス・ハチソンの下で道徳哲学を学び、1740年にオックスフォード大学に入学。1748年からエディンバラで修辞学や純文学を教えはじめ、1750年ごろ、哲学者ヒュームと出会う。その後、1751年にグラスゴー大学で論理学教授、翌1752年に同大学の道徳哲学教授に就任する。1759年にはグラスゴー大学での講義録『道徳情操論』(または『道徳感情論』The Theory of Moral Sentiments)を発表し、名声を確立。1763年には教授職を辞し、家庭教師としてフランスに渡り、そのころパリのイギリス大使館秘書を務めていたヒュームの紹介でチュルゴーやダランベール、ケネーをはじめとするフランス知識人と親交を結んだ。スミスは1766年にスコットランドに戻り、1776年3月9日に出版されることになる『国富論』の執筆にとりかかる。アメリカ独立の年に発表された『国富論』はアダム・スミスに絶大な名誉をもたらし、イギリス政府はスミスの名誉職就任を打診したが、スミスは父と同じ税関吏の職を望み、1778年にエディンバラの関税委員に任命された。1787年にはグラスゴー大学名誉学長に就任し、1790年に死亡した。享年67。

読書ノート 辻井喬 上野千鶴子対談 「ポスト消費社会のゆくえ」 文藝新書

2008年12月12日 | 書評
セゾングループの歩みから日本の消費社会を総括し、ポスト消費社会の姿を探る 第8回

1950年代ー1960年代  激動の成長期 (2)

 日本の百貨店は非常にユニークな存在で、欧米の大衆型というよりはプレステージストアーで、明治以来旧呉服店型百貨店は舶来文化のショーウインドーであった。いわば非日常の世界を提供するテーマパークのような存在であった。百貨店に行って食堂で西洋料理をたべ、屋上遊園地で遊ぶ事が子供の夢であった。集客効果を狙った催し物会場での文化行事(美術展)を、西武百貨店は意外性を狙って(辻井喬氏の趣味で)抽象画で話題性を取る戦術であった。それ以来西武の文化行事は現代絵画と抽象絵画を中心に企画する方針が確立した。これはイメージ戦略でもあり、西部はビジネスの上ではベンチャー体質、趣味の上でもアバンギャッルド(前衛)体質である。

 1975年には池袋店の隣に西武美術館(後のセゾン美術館)を建てた。高度経済成長を迎えて東京オリンピックが行われた1960年中頃渋谷へ出店計画が持ち上がった。当時は東急百貨店一店しかなかったが、テレビブームで映画館が潰れてあいた駅前の土地に出店した。西武の出店で渋谷が明るく魅力ある町へ変身したと言われる。1960年代後半高度経済成長の成果が国民レベルに届いた時で大量消費の時代となった。これを第1次流通革命という。1963年にはスーパーストアー部門に西友ストアーを創業し、量販店の時代となった。しかし日本の消費者は量販店を利用しながら、一方で百貨店も利用するので並存の形となった。日本の消費生活が多様性を持っていることであり、安くて大量の食品を買い込んで大型冷蔵庫に入れておくという生活はついに日本では根付かなかった。量販店は商品の大規模仕入れが原価を下げるというマネージメントに徹した商売であるが、日本の百貨店は顧客の嗜好や動向をきめ細かく捉える,消費のマーケッティング能力が重視される。

 たしかに百貨店と量販店の二足のわらじで百貨店は生き延びる事ができるけれども、パイを二分するにすぎず、大きな百貨店以外はやっていけなくなっている。西武百貨店は首都圏では先行投資型の多店舗展開、関西方面はショッピングセンター展開で出店が続いた。地方都市への出店はその地方の小規模百貨店との提携が多かったため、地域密着型、地域貢献型のノーハウが必要である。この時期の西武百貨店の多店舗展開の成功率を総括して辻井喬氏は成功6、失敗4だという。やはり量販店の多店舗展開であったイトーヨーカドーやイオンのほうがうまくやっているようである。


文藝散歩 「ギリシャ悲劇」

2008年12月12日 | 書評
啓蒙・理性の世紀、紀元前5世紀都市国家アテネの繁栄と没落を描くギリシャ悲劇 第14回

丹下和彦編 「ギリシャ悲劇」 中公新書


3) ソポクレス   「アンティゴネ」ー人間賛歌 (2)
 ソポクレスの「アンティゴネ」は前442年の上演とされる。時はペリクレス治下、アテナイの繁栄には翳りは見えない。人間のあるべき姿(理想像)を正面から見据えたソポクレスの作品が登場した。一つの信念(神の法に殉じきることによってその行為を崇高の位置まで高めた一人の強い女性のありようを描いた作品である。劇のストーリを見ておこう。オイディプスの死後、テバイの王位をめぐって二人の息子エテオクレスとポリュネイケスが争い、争いに敗れたポリュネイケスはアルゴスに逃れ、アルゴスの軍勢を率いて祖国テバイを攻めた。一騎打ちで二人とも討ち死にをする。叔父のクレオンが王位について、エテオクレスは国葬を持って葬るが、外国勢の加勢で祖国を攻めたポリュネイケスは逆賊であるとして埋葬を許可せず、埋葬したものは死刑とすると布告した。二人の兄弟の姉アンティゴネは禁制を犯して弟ポリュネイケスを埋葬しようとして捕縛され投獄される。アンティゴネは最期は獄中で死を選ぶ。アンティゴネの許婚でクレオン王の息子ハイモンは助命を誓願したが赦されず自分も自殺する。これを知った母親エウリュディケも後を追って自殺する。残ったのはクレオン王ひとりである。

 劇は最初から死の匂いに満ちている。自分の死刑が避けられない事を知っている確信犯のアンティゴネは神の法を述べ、現世の人間の法との論争を繰り返すのである。アンティゴネを「死のエロス」と言った人がいる。根源的なエロスでもある。ここに許婚者ハイモンを登場させた事は、作者が生の世界に繋がっているアンティゴネの側面を引き出すためである。死を躊躇するアンティゴネの戸惑いと愛を見せることで、さらにつよいアンティゴネの神の法への願望を際立たせるためである。強い死への願望の間に綴られる生への想いは「弱いアンティゴネ」を暗示し準備するものであった。アンティゴネとハイモンは舞台上で遭遇することはない。つまり成就することのない愛を描くのである。このように人間味溢れる英雄像は、叡智が生み出す最高のものであり、芸術が描くことが出来る最高のものである。これが文学の極意である。


自作漢詩 「蔬畦農夫」

2008年12月12日 | 漢詩・自由詩
江城菊老草堂     江城菊老い 草堂の霜

結凍蔬畦農務     凍を結ぶ蔬畦に 農務忙し

晩照帯黄新橘柚     晩照黄を帯ぶ 新橘柚 
 
耕夫如墨旧衣     耕夫墨の如き 旧衣裳

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(赤い字は韻:七陽 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 バッハ 「カンタータ選集3」

2008年12月12日 | 音楽
バッハ 「カンタータ選集3」BWV171,65,124,13
カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団と合唱団
ソプラノ:エディット・マティス アルト:ヘルタ・テッパ 
テノール:ペーター・シュライヤー バス:フィッシャー・ディースカウ
ADD 1967-1972 ARCHIV

BWV171 「神よ、汝の誉れはその名のごとく地の果てまで」
BWV65  「みなシバより来るらん」
BWV124 「われ、わがイエスを離さず」
BWV13  「わがため息、わが涙」