ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 今西錦司著 「生物の世界」  中公クラシックス

2008年12月31日 | 書評
棲み分け理論からダーウインの自然淘汰進化論批判ま 第13回 最終回

第5章 「歴史について」 (2)

 種の起源は遺伝学の範疇にあるが、ダーウインの自然淘汰進化論には今西氏の世界観が立脚する進化論と相容れないという。支配者階級の生物(人間)には頭を押さえつける生物が居ないため進化を続ける所謂創造的進化ができるが、被支配者階級の動物は家畜や栽培植物のような変異が利用されるに過ぎないと今西氏はいう。ダーウインの云う気まぐれな無方向な変異は人為淘汰のことを云うのだろうか。気まぐれな無方向な変異の中で生存競争という篩をかける適者生存のみが栄えるという自然淘汰説は間違っていると今西氏は訴える。自然淘汰説は生物の環境への働きかけというものを全然認めないで、環境の生物への働きかけだけをt里あげていると今西氏は非難するのである。生物の主体性には選択の自由があり、環境の生物による選択であり、本能でもあるのだと云う。要するに自然淘汰説ではあまりに生物が悲しい存在に過ぎないといいたいのだ。生物には環境の主体化という創造性がある。これを適応の原理とも云う。初めから変異は生活の方向性に導かれている。360度の全方向変異はありえない。そして今西進化論の本論に入る。「種自身に変異の方向が決まっていて、種自身が変わるのである。」これを種変異論といい、個体変異論と対照をなす。生物には現状維持主義・保守主義があって、種の維持強化作用とも言われる主体性の表れがある。そして変異があっても統計的に変異が中庸を保つ、変異の集中化というのが種の維持強化作用である。これは遺伝的形質の均質化になっている。生物にあっては種の歴史が生物の歴史であると、今西氏は確信した。生存に直接関係しない形質の変異は特殊化・適応に向かい、種の文化的特徴を形成するのである。種は交雑しないから種の純系を守るので、種としての独立分離が確立するのだという。当たり前のことかもしれない。


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