ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

日本社会は捨てたものではない  大恐慌時代を生き抜く智慧を出し合おう

2008年12月20日 | 時事問題
asahi.com 2008年12月20日14時5分
無料の寮、入居したその日に「一緒に働かないか」
 東海地方の派遣会社でつくる「中部アウトソーシング協同組合」(名古屋市)が、派遣を打ち切られた非正規労働者に無料で提供する愛知県豊橋市の寮に19日、5人の男性が入居した。その寮に1人の社長が現れた。「一緒に働かないか」。入居からわずか約3時間、ここ1カ月、仕事にありつけなかった1人の男性の就職先がほぼ固まった。

この困難な時代に社会の手が行き届く日本社会に!! 神戸淡路大震災でボランティアが災害からの復興を手助けした  冷酷な資本の論理からいまこそ助け合いの社会に 


「ビルマの竪琴」水島上等兵 逝く

2008年12月20日 | 時事問題
asahi.com 2008年12月20日3時4分
「ビルマの竪琴」水島上等兵のモデル 中村一雄さん死去
 小説「ビルマの竪琴」の主人公、水島上等兵のモデルになったとされる僧侶、中村一雄(なかむら・かずお)さんが17日、老衰で死去した。92歳だった。同県松井田町(現安中市)生まれ。13歳で仏門に入り、1938年に召集された。フィリピン、タイなどを経てインパール作戦に参加し、終戦をミャンマー(ビルマ)で迎えた。戦後は、英国軍の捕虜として収容所生活を送った。

戦争を語り継ぐ人が、又一人亡くなりました。ご冥福をお祈りします。

読書ノート 今西錦司著 「生物の世界」  中公クラシックス

2008年12月20日 | 書評
棲み分け理論からダーウインの自然淘汰進化論批判まで  第2回

序(2) 戦前の 今西錦司
 
 今西錦司氏は少年時代から昆虫採集と登山にのめりこんでいった。1925年第3高等学校を卒業し、京都大学農学部農林生物学科昆虫学教室に入学した。氏の登山好きは生涯世界の1552座に登頂するだけでなく、京都北山登山をこよなく愛したという。彼の山好きは修験者のような厳しさを備えた求道の行為であったといわれる。今西氏の学問、思索は実はこの山行や遊行の中から生まれたようだ。1932年30歳の時、南樺太東北山脈を踏査する。1931年京大山岳会を設立しヒマラヤ登山計画を練り始めていたが、1934年京大白頭山遠征隊隊長として、現北朝鮮の白頭山に出かけた。1936年京大山岳部木原均を隊長とするヒマラヤK2遠征計画を立てるが、日中戦争の勃発で中止となった。1938年木原均を隊長とする京大内蒙古学術調査隊は5000キロの行程を踏破した。1938年京都探検地理学会を組織して今西氏は幹事に就任した。京都大学理学部・農学部・医学部・文学部と東方文化研究所の関係者が中心になった。京都探検地理学会は1939年北支蒙彊調査計画、イラン遠征計画、1940年にはニューギニア探検計画を立てたが、戦線拡大のため実現しなかった。太平洋戦争勃発にもかかわらず、1942年北部大興安嶺探検計画を梅棹、川喜田、吉良、藤田らと軍の支援を受けながら実行した。1944年内モンゴル張家口にできた西北研究所所長として赴任した。石田、藤枝、中尾、梅棹ら10名の所員で構成され、後の人文科学研究所のように幅広い学際研究を志したが、1年3ヶ月で敗戦を迎え帰国した。

読書ノート 堂目卓生著 「アダム・スミス」 中公新書

2008年12月20日 | 書評
「道徳感情論」、「国富論」への案内 第10回

第二部 「国富論」
4、重商主義の経済政策


スミスが「国富論」を書いたのは、ヨーロッパ或いはイギリスが「国富論」の一般原理に従って発展したからではなくて、自然な成長とは顛倒した歴史を持つからである。「国富論」は、これを正してより良い経済の発展を促そうとする意図の下に書かれた「歎異抄」である。歴史の発端は476年の西ローマ帝国の滅亡から始まる。ローマ帝国の繁栄と交易システムは蛮族の侵入でズタズタに引き裂かれ、商業と製造業は衰退し、土地は少数の非生産的な諸侯に分断された。大土地所有者は貴族と称して、貴族は土地の剰余生産物を不生産的労働にしか使わなかった。長い中世的封建的領主制が世界を沈滞させた。ルネッサンス時代なって商業の場として都市が形成され、自治都市はさまざまな手工業と交易を始めて資本蓄積の時代に入った。独立自営農民は土地改良に取り組み、耕地の拡大と生産性はしだいに増加し、その結果として剰余生産物の増大は農村地帯に製造業を発展させた。このようにヨーロッパの経済は外国貿易から、製造業、農業と正反対の順序で展開した。封建領主に代わって権力を集中させた絶対君主は特定の商人と製造業者と結びついて、特権を与えて貿易および貿易用製造業の振興を図った。貿易の決済手段としての金銀貨幣を重視し、植民地の獲得に走った。初めから歪んだ経済振興策がとられたのである。植民地政策は本国の利益独占のため、さまざまな規制を作って、植民地自体の正常なバランスの取れた経済発展を阻害し(単品経済)、他国との交易を禁止した。そして権益を独占するため軍隊を派遣し、本国の軍事的支出が増大した。経済発展を促すのではなく阻害するだけの経済政策を威信を掛けて実施したのである。これを重商主義の経済政策という。規制の結果、本国の国民は規制がなければ買えた筈の安い外国産品を買う機会をなくし、高い外国産品或いは高い国産品を買う事になった。特権商人や大製造会社の貪欲と、政府の虚栄心を満たすために、国民の財産を侵害する政策、それが重商主義政策の本質であった。戦争のため国債発行は国民の負担する税を増加させ、これが正常な資本蓄積を阻害し、産業活動を遅らた。ヨーロッパの大航海時代以来の覇権国家は国債のために、次々と破綻したのである。


文藝散歩 「ギリシャ悲劇」

2008年12月20日 | 書評
啓蒙・理性の世紀、紀元前5世紀都市国家アテネの繁栄と没落を描く 第21回

アイスキュロス 「縛られたプロメテウス」 呉茂一訳 岩波文庫 (1)

 アイスキュロスは前525年、エレウシーヌで生まれた。彼は早くからディオニューシア大祭の4篇組の戯曲に参加していた。最初の優勝は40歳ごろといわれる。生涯13回優勝をしたという説もある。彼の作品としてはおよそ79編の名が伝えられているが、現在完全に残っているのは次の7編のみである。
① 「ペルシャの人々」 前472年上演
② 「テーバイへ向う七将」 前476年上演
③ 「救いを求める女たち」 前463年上演(推定)
④ 「縛られたプロメーテウス」 前462年上演(推定)
⑤ オレステーヌ三部作「アガメヌノーン」 前458年上演
⑥ オレステーヌ三部作「供養する女たち」 前458年上演
⑦ オレステーヌ三部作「恵みの女神たち」 前458年上演

 「縛られたプロメーテウス」は「プロメーティア」三部作の一つとして、「開放されたプロメーテウス」、「火を運ぶプロメーテウス」とともに一応の陣立てを構成するものと理解されている。笑劇サチュロス劇は不明である。劇上演の順序は「火を運ぶプロメーテウス」、「縛られたプロメーテウス」、「開放されたプロメーテウス」であったかどうかは確証がない。学者によっては「縛られたプロメーテウス」はアイスキュロスの真作ではないという人もいる。語法・語句、歌について激論が戦わされた。そのようなことはラテン語の分らない私どもには興味の外であるので紹介しない。