棲み分け理論からダーウインの自然淘汰進化論批判まで 第4回
序(4)探検家と猿人類研究家しての今西錦司
今西氏は戦前には京都学士山岳会や京都探検地理学会などを組織し、人と金を集め事業計画を立てることに抜群の才能を示したらしい。今西氏の戦後の組織つくりと業績・人脈を拾って行こう。1948年自然歴史学会を組織した。戦前の京都探検地理学会を継承する会であった。会報誌「自然と文化」を発行し1952年まで続いた。宮崎県都井岬で半野生馬の調査には河村俊蔵氏、伊谷純一郎氏を同行し、馬の個体識別の方法を採用し動物社会学的アプローチをおこない、さらに徳田喜三郎氏らと野生ニホンザルを調査して霊長類学研究がスタートした。1951年霊長類研究グループを作り、宮路伝三郎教授をヘッドに、今西、河村、伊谷、徳田、河合雅雄氏、間直之助氏らが中核メンバーとなった。このころ「生物誌研究会」を作りネパール学術調査を計画した。未踏峰のマナスル登頂を目標にしたヒマラヤ遠征計画が立てられた。木原均農学部教授、西堀栄太郎(南極探検で有名)が現地と交渉しネパール国王の快諾を得て、日本山岳会を中心としたマナスル登山隊を結成した。1952年今西氏は偵察隊長としてネパールにゆき情報を集めた。1956年第3次登山隊(槙有恒隊長)が登頂に成功した。1955年生物誌研究会を中心にカラコルム山脈学術探検隊(木原隊長)が実行された。1956年犬山に財団法人「日本モンキーセンター」が発足した。1958年日本モンキーセンター第1次アフリカ類人猿ゴリラ学術調査隊が今西、伊谷によって第3次まで予備調査が行われが、コンゴ動乱で中止となりチンパンジーに切り替えて、1961年から第1次京都大学類人猿学術調査をタンガニカに派遣された。今西氏が隊長であった。1962年にはカボゴ基地を設営し、1964年第3次調査隊まで参加した。1962年には京大理学部の中に自然人類学講座を創設して初代教授になった。1967年には犬山に京大霊長類研究所を創設した。これは今西氏が京大を退官した2年後の事であった。
序(4)探検家と猿人類研究家しての今西錦司
今西氏は戦前には京都学士山岳会や京都探検地理学会などを組織し、人と金を集め事業計画を立てることに抜群の才能を示したらしい。今西氏の戦後の組織つくりと業績・人脈を拾って行こう。1948年自然歴史学会を組織した。戦前の京都探検地理学会を継承する会であった。会報誌「自然と文化」を発行し1952年まで続いた。宮崎県都井岬で半野生馬の調査には河村俊蔵氏、伊谷純一郎氏を同行し、馬の個体識別の方法を採用し動物社会学的アプローチをおこない、さらに徳田喜三郎氏らと野生ニホンザルを調査して霊長類学研究がスタートした。1951年霊長類研究グループを作り、宮路伝三郎教授をヘッドに、今西、河村、伊谷、徳田、河合雅雄氏、間直之助氏らが中核メンバーとなった。このころ「生物誌研究会」を作りネパール学術調査を計画した。未踏峰のマナスル登頂を目標にしたヒマラヤ遠征計画が立てられた。木原均農学部教授、西堀栄太郎(南極探検で有名)が現地と交渉しネパール国王の快諾を得て、日本山岳会を中心としたマナスル登山隊を結成した。1952年今西氏は偵察隊長としてネパールにゆき情報を集めた。1956年第3次登山隊(槙有恒隊長)が登頂に成功した。1955年生物誌研究会を中心にカラコルム山脈学術探検隊(木原隊長)が実行された。1956年犬山に財団法人「日本モンキーセンター」が発足した。1958年日本モンキーセンター第1次アフリカ類人猿ゴリラ学術調査隊が今西、伊谷によって第3次まで予備調査が行われが、コンゴ動乱で中止となりチンパンジーに切り替えて、1961年から第1次京都大学類人猿学術調査をタンガニカに派遣された。今西氏が隊長であった。1962年にはカボゴ基地を設営し、1964年第3次調査隊まで参加した。1962年には京大理学部の中に自然人類学講座を創設して初代教授になった。1967年には犬山に京大霊長類研究所を創設した。これは今西氏が京大を退官した2年後の事であった。