ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

非正規社員のみならず大量失業時代到来  政府自治体はきめ細かい対策を

2008年12月18日 | 時事問題
asahi.com 2008年12月18日12時39分
非正社員支援のハローワーク、各地でオープンへ
 非正社員の就労支援を行う「東京キャリアアップハローワーク」(非正規労働者就労支援センター)が18日朝、東京・新宿に仮オープンした。失業に伴い社員寮を退去させられる人には、雇用促進住宅(1万3千戸)への入居あっせんや、住宅・生活資金の低利融資(上限176万円)の紹介もする。
 キャリアアップハローワークは、派遣社員や期間従業員らを対象に正社員就職などに向けた重点支援を行うため、厚生労働省が開いた。19日には大阪市で開設し、名古屋市では仮開設する。東京、名古屋の本格的なオープンは来年1~2月。今後、札幌と福岡にも設置する方針だ。 東京キャリアアップハローワークへの問い合わせは電話03・5909・8609。

金融資本の猛威は国家を根底から破壊する 金融資本主義って本当に残酷だ
ソ連邦・東欧の社会主義が亡んだ時、資本主義は無敵になった。そして本来の恐るべき牙をむき出した。金融資本はもはや国家や企業を飲み込んで、ひとり勝利を謳歌している。これから本当の恐慌が始まりそうだ。金融資本にとってもはやアメリカさせ必要としない化け物に変身した。金がスペインからイギリス、フランス、アメリカと渡り歩いて、次々と国家を破壊しつくして、次の宿主を探している。今の中国の様に、徹底的にドルに対して防衛(鎖国に近い)をしなければならない。金融ビックバンと称してアメリカ金融資本のいい餌食になった日本はまだまだ反省が足りない。

読書ノート 堂目卓生著 「アダム・スミス」 中公新書

2008年12月18日 | 書評
「道徳感情論」、「国富論」への案内 第8回

第二部 「国富論」


2、繁栄の一般原理(1)分業

 繁栄の一般原理、すなわち物質的豊かさを増進するための自然的原理は、分業と資本蓄積である。極めて単純に宣言している。分業の技術的側面は今では機械化と資金といっていい。もっと単純化すれば資金だけでもいいのではないか。スミスが重視する分業の効果は、社会全体の生産性が向上するだけでなく、増加した生産物が社会の最下層にまで広がることである。分業の社会的側面には分業と交換とは裏表の関係にあることだ。これを「商業社会」、「市場社会」という。人には「交換性向」があるといい、分業の前に既に交換の場が存在している事が必要である。市場では人々は自分の持ち物と相手の持ち物を説得しながら交換する。その場を市場という。交換とは同感、説得性向、交換性向、そして自愛心という人間の能力や性質に基づいて行われる互恵的行為である。財産の道を歩む人々が市場に参加する事によって競争が発生する。「フェアプレイ」の精神は競争に勝つことは赦されるが、不正や独占は赦されない。現実の価格は市場価格に一致すると考え、市場の機能は第1に人々が欲する商品を市場価格で供給する事である。第2に市場では誰もが相対的に優位な状態を維持し続けることは不可能である。第3に市場を支えるのは利己心である。市場全体のことを個人が知っているわけではなくとも、自分自身の利益を追求する事で社会の利益を促進する事になる。これをスミスは「見えざる手に導かれて」と表現する。「国富論」で「見えざる手」が出てくる唯一のところである。最期に交換の手段として貨幣が生み出されたが、貨幣を富と思い込む錯覚「貨幣錯覚」を引き起こす重商主義を批判した。今では中東の石油産出国が膨大なオイルダラーを有しているが、反面国民の貧困生活や他の物質の生産手段の欠如から来るアンバランスな生活を思い起こさせる。

読書ノート 辻井喬 上野千鶴子対談 「ポスト消費社会のゆくえ」 文藝新書

2008年12月18日 | 書評
セゾングループの歩みから日本の消費社会を総括し、ポスト消費社会の姿を探る
 第14回 最終回


2008年の今  共同体・産業社会の変遷(2)

 戦後日本社会は国家とその中間組織という共同体(国家、会社、官僚、地方自治体、学校、組合、野党、学生運動などなど)は全部信用を失墜した。メディアは内輪化して共通言語は殆ど通じない状況にある。匿名性と同調性が高く、マニア的ノイズに極端にセンシティブな集団の形成が起きている。IT分野でいえばホームページ、ブログ、イントラ、ソネットなどである。インターネットからイントラへという、閉鎖集団(蛸壺集団)に埋没することしか意義を認めない。日本にも良い意味でも悪い意味でも「私」が根付いたようだが、「私を生きて何が悪い」と威張っていると、公共性をよからぬ集団に全部利用されてしまうという危険性が待ち受けている。日本では、高度経済成長が終わった時点で企業集団が理想主義を掲げた時代は終わってしまったようだ。世界は産業社会の終末を迎え、東西冷戦が終わってから1990年代は自由主義経済のモラル崩壊(堕落)は、予想以上に深刻化している。金融市場の堕落は「金融工学の技術の進歩」によって、止まるところを知らない。自由主義という名において、対抗軸(健全野党)を追放してしまった結果である。アメリカはすでに産業社会を放棄し、大量消費を金融市場操作で可能にしているに過ぎない。ヨーロッパ型の「調整型経済(レギュラシオン理論)」はネオリベラリズムの規制緩和政策とは反対の理論で動いている。修正型というかよりましな政策として、ヨーロッパ型の社民型シナリオが存在する。日本は橋本、小泉の自民党内閣以来アメリカ型ネオリベラリズムの規制緩和政策で動いているが、伝統の産業経済が股裂きに会っている。ヨーロッパ型の社民型シナリオを採用するかどうか、民主党の政策が注目されるところだ。

 最期に堤清二氏と辻井喬氏の関係について上野千鶴子氏は面白い見方を示している。辻井喬氏は堤清二氏の「自己意識の人格」であるという。企業家の堤清二氏に対して、文明批評家としての辻井喬氏という存在である。辻井喬氏は「思想としては、いまでも共産主義をやめてはいるわけではない」という。それはセゾングループの総師として、自己破壊と革新性の経営方針を持ち続ける堤清二氏の姿でもある。しかしその姿勢は成長期の資本市場に極めてマッチしたが、成熟期の今では滑稽にしか映らないという宿命に遭遇している。


文藝散歩 「ギリシャ悲劇」

2008年12月18日 | 書評
啓蒙・理性の世紀、紀元前5世紀都市国家アテネの繁栄と没落を描くギリシャ悲劇 第19回

丹下和彦編 「ギリシャ悲劇」 中公新書 (18)


8) エウリピデス 「オレステス」

 アイスキュロス 「オレステイア三部作」でオレステレスは父アガメムノンを殺した母クリュタイメストラとその愛人アイギストトスを殺して父の復讐を果たした。その直後からのオレステレスの母殺しの大罪からの脱出を描くのが本編である。上演は前408年である。アイスキュロスの描くオレステレスは母親殺害後のアテネの陪審裁判において、共同体の正義という規範に則って主体的に行動する自己肯定的な生年であった。ところがエウリピデスが創造するオレステレス像はそれとは対照的に、神の命じるままに行ったので悪いのは神だと非難する逃げの姿であった。法の正義に基づくポリス社会が崩され行くなかで、既になんら確固たる規範を持たない一個人を捉えて描いている点が特徴である。オレステスは母親殺しの罪で死刑の宣告を受けるかも知れないという生命の危機と、罪を知る事から始まる自意識シュネシスの苦悩という魂の危機に脅かされるのである。そしてオレステスは尚生きることを第一義として助命嘆願に終始する。叔父メネラオスへの助命嘆願の期待が裏切られた時、利害を共にするピュラデスの協力にたよることになる。血縁関係あるいはは恩義という概念に基づく連帯感ピリアーはもはや存在しない。利害関係に基づく連帯関係、党派のつながりが支配する人間関係に移行している。最期は神アポロンの調停でアルゴス市民との和解が成立し生命の危機はなくなるが、魂の危機はアポロンからは救われない。恐らく自意識という魂の危機は生きている以上は続くであろう。オレステスは人間独自の自立する精神をもつことである。