できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

最近読んだ本から(1)

2011-01-10 11:16:21 | いま・むかし

今日は最近読んだ本の内容から。

今週末に仕事でハンセン病療養所に行く関係もあって、昨夜、畑谷史代『差別とハンセン病 「柊の垣根」は今も』(平凡社新書、2006年)を読みました。この本の第6章「内田博文さんインタビュー」に、次のような文章がありました(以下、文字色を変えている部分は、この本からの引用部分です)。ちなみに内田博文さんは、この本によると、ハンセン病問題の歴史的検証と再発防止のために、国が設置した第三者機関「ハンセン病問題に関する検証会議」で、副座長と最終報告書起草委員長を務めた方とのこと。また、内田さんの本職は刑事法が専門の大学教員だそうです。

 検証会議では、「検証と裁判の関係」「研究と検証の違い」について整理しなければいけないと発言しました。裁判は、法的責任を追及する限りにおいて過去の事実に光を当てるので、法的責任になじまないものは扱わない。一方、検証は歴史の事実を明らかにする目的なので、法的責任の有無にかかわらず重要な事実は事実として解明しなければいけない。また、検証は再発防止に結びつかなければいけません。

 多くの研究者にとって、研究は第三者の立場に立つことです。これに対して、検証に第三者の立場はない、と私は思う。徹底的に被害者の立場に立たない限り、検証はありえません。だから、机の上で考えていては検証にならない。被害の現場でものを考えなければいけない、というのが私の考えです。(以上、『差別とハンセン病』146~147ページから引用)

これを読んでパッと私のアタマに浮かんだのが、学校事故・事件をめぐる研究の動向、特に教育法学や教育行政学の立場からの研究の動向のことです。

学校事故・事件の問題については、教育法学や教育行政学の領域で、長年、さまざまな研究が行われてきました。また、このような研究領域からは、事件・事故発生時の公的第三者機関設置に関する提案や、事実究明のあり方などについて、さまざまな提案も行われてきたところです。だから、今まで行われてきた教育法学や教育行政学などの学校事故・事件関係の研究のなかには、被害者の救済や被害者遺族支援という観点から見て、意味のあるものもたくさん含まれています。

ただ、これまでの学校事故・事件に関する教育法学・教育行政学の研究では、訴訟となった事例を軸に研究をすすめてきた面があるゆえに、どこか「裁判」という枠でしか、起きた学校事件・事故に関する事実を取り上げてこなかった面があるのではないのでしょうか。あるいは、これらの領域での研究においては、今まで学校事故・事件について、事実の「検証」という面からのアプローチは、どこまで徹底されていたのか、という疑問が私にはあります。

また、これまでの学校事故・事件に関する研究において、「被害者の立場にたちきる」形での「検証」が弱かったとすれば、従来の研究は、内田さんの意見をふまえていえば、どこまで行っても研究する側の利害・関心にもとづくもの(それが全部、ダメというわけではないのですが)であったということになるのではないでしょうか。

このような次第で、私はこの内田さんインタビューの文章に触れることで、いままでの学校事故・事件に関する研究に何が足りなかったのか、ということにハッと気づかされたような次第です。そのことを、今回、書き記しておこうと思います。

なお、この本の最後に「Ⅱ 資料編」という位置づけで、検証会議報告書の概要紹介が行われています。このなかにある「4 各界の責任」という節には、医学・医療界、法曹界、宗教界、マスメディアとともに、ハンセン病者の隔離政策に「依存」してきた福祉界、この政策と「表裏一体」の教育界の責任が指摘されています。たとえば、次のような内容です。

 近代の社会事業は、公衆衛生とともに治安政策としての側面を持っていた。それは「近代国家の体面維持」という目的があり、社会事業、公衆衛生ともに内務省の所管だったからでもある。こうした背景から、社会事業を担う福祉界は、強制隔離政策に初期段階から全面的に同調し、患者の入院援助や隔離政策への募金協力などに具体的に取り組み、民生委員は無らい県運動の推進役となった。 (同上、207ページ)

 療養所内の普通教育は、子どもたちがあくまでもらい予防法の体制を受け入れ、療養所内で生きることを前提としていた。このため、獲得されるべき学力の目標も「新聞が読めて、手紙が書けて、園内通用券の計算ができる」という水準にとどまっていた。その意味で、教育は隔離政策と表裏一体をなしていた。(同上、209ページ)

昨日は学校ソーシャルワーク(SSW)について、SSWの関係者が本気で「子どもの人権と社会正義の実現」にこだわるのであれば、必ずしも「学校・教育行政との協働」とばかり言ってられないこともあるのではないか、という話をしました。

かつて日本政府が積極的に進めてきたハンセン病者の強制隔離政策の実施に、教育・福祉・医療などの専門家、研究者がどのようにかかわってきたのか。SSW関係者が本気で「人権と社会正義の実現」という言葉にこだわっていくのであれば、このような強制隔離政策の歴史的な事実の重みに謙虚に向き合う必要もあるのではないのでしょうか。それこそ、かつてのハンセン病者の強制隔離政策だって、行政と専門家を含むさまざまな人びとの「協働」で進められた面もあるのではないでしょうか。

なんのための行政との「協働」なのか、行政との「協働」は無条件に、常にすばらしいことなのか・・・・。本気でSSW関係者が「人権と社会正義の実現」にこだわるのであれば、そこを問う必要があるのではないかと思います。

<script type="text/javascript"></script> <script src="http://j1.ax.xrea.com/l.j?id=100541685" type="text/javascript"></script> <noscript> AX </noscript>


最新の画像もっと見る