〇こちらも「予約投稿」です。先にフェイスブックに書いたことに加筆修正をして、こちらにも掲載しています。
3月5日(水)に兵庫県議会の百条委員会で、例の文書問題に関する調査報告が出ました。その報告で、亡くなった県民局長の出した文書で指摘された斎藤知事やその側近らの問題について、大筋で事実認定されました。これで亡くなった県民局長の出した文書には「公益通報」としての側面があり、退職取り消しの上懲戒処分という対応には問題があることになるわけですが…。しかし、斎藤知事は自分の行ったことについて、頑なに認めようとしない態度をとっています。そこで3月5日の定例記者会見で、報道各社やフリーの記者たちから知事の態度や認識について厳しく詰められたわけですが…。これに対して、なぜか3月11日(火)、東日本大震災から14年の節目の日に定例記者会見の変更が行われました。このことについて、私が思ったことをフェイスブックに書いたのが、以下の文章です。
<以下、フェイスブックからの転載>
政治家や官僚としての実力がないくせに、「この世で何よりも自分が好き」で「常にイケてる自分でいたい」がゆえに、「やっかいな仕事は人任せ」かつ「誰かに自分のことをぼろくそに言われるのが嫌」なんでしょうね。まあ、兵庫県の斎藤知事のことですが。
だから総務省の一官僚よりは、地方自治体の幹部級職員。大阪府の財政課長よりは、兵庫県知事。そういう社会的地位の上昇みたいなことに常に意識が向いている。そういう点でいえば、この人を知事候補として担ぎ出して来た県政の会派には、「あんたら人を見る目ないな」ですね。
就任後の県政においても、観光キャンペーンでコスプレみたいなことはやりたがる。でもその準備で苦労する県職員のことは一切おかまいなし。また、自分が目立てないような場面づくりだったり、自分がイケてる感じに見えないとか、気分よく動けないような事前準備だったら、県職員を怒鳴りまくる。
阪神オリックス優勝パレードも、吉村知事・維新体表を前にして、自分がええかっこできる場面として引き受けたけど、資金繰りがうまくいかず、その補填などの対応を副知事任せ。
亡くなった県民局長の文書が出回り始めたら、すぐに「処分じゃ!」と公益通報保護法そっちのけで大騒ぎ。でも実際に処分等々に手を染めるのは、当時の副知事らの側近たち(このへんでは当時の副知事や側近たちが、知事に輪をかけてひどい対応をしている)。
そして、知事としての自分自身の気まぐれな判断で当時の副知事以下の側近もふりまわされ、県職員も疲弊。
百条委員会がはじまったら、ひたすら「自分は悪くない」と言い続けて、周囲を呆れさせる。
県議会で不信任決議が可決したあとは、今度は知事の座に長く居座るために、失職・出直し選挙への出馬を決める。ひたすら「自分は悪くない、ひとりからの出発だ」みたいなイメージを描いて示しつつ(これは誰か選挙アドバイザーみたいな人の手も借りてると思うけど)、他方で汚れ役をする人(立花氏プラス躍動の会に行った3県議、一部の県内市町市議、その他有力支援者)に誹謗中傷や怪文書の流布などをやらせる。
そして再度の当選を決めたあとも、マスコミなどの批判・追及を前にして「自分は悪くない」を連発。
こういう経過のなかで…。「イケてる自分」を演出しつつ、他方で「鋭い指摘をする取材陣から逃げる」口実として、昨日の3.11への知事定例記者会見の実施日変更が行われたのだと思います。「東日本大震災の復興に向けて、3.11に1.17の兵庫県知事としてのメッセージを発する」というかたちで、「自分がイケてる姿を見せられる場面づくり」というインセンティブも働きますからね。
なので、私は「鋭い指摘をする取材陣から逃げる」だけでは昨日に変えたという理解は、どうも知事のメンタルの状態や思考のあり方を理解するスジとしては、いまひとつ弱い印象ですね。今までだってヘンテコな説明をして、取材陣の鋭い指摘から逃げてきたわけですから、定例記者会見の実施日をどこに移そうが、あまり大差ないかと。それよりは「東日本大震災の復興に向けて、1.17の兵庫県知事としてのメッセージを3.11に発する」ということが、「イケてる自分づくり」に役に立つ。そこに私はやはりこだわってしまいますね。
なにしろ、今もネット上などでは、一部の斎藤知事支持層などが、取材陣を相手に頑なな態度をとる知事を見て「がんばってるぅ~」などと声援を飛ばしてくれるわけでしょ? 彼にとってはマスコミの批判や無視よりも、ネット界にいる「斎藤さんかわいそう~」「知事はがんばってるぅ~」という人々の声でちやほやされるほうが大事なのではないかと。少なくとも私はそう思うわけです。
兵庫県知事の彼が一貫してやっていること。それは「自分の思う<イケてる自分>」でいるためには、どんな手段だって使うということ。取材陣を相手に、これまでの事実経過を無視して「前いうたことと今日いうてることがちがう」とか、「空疎なことばを連発して時間を稼ぐ」とか、そういうことなんて平気。誰かの追及をかわしきれず、自らの非を認めるくらいなら、まわりがどれだけ不幸になろうが、人が亡くなろうが、県政全体が大混乱になろうが、一向にかまわない。そのくらいしてまで「自分の思う<イケてる自分>」を維持したい。そういう頑なな動機、信念がいまの兵庫県知事を突き動かしていると考えると、だいたい、これまでも、これからも、彼のやりそうなこと、言いそうなことがほぼ、予想できるのではないかな…って思いますね。
と同時に、先にも書きましたが県政で彼を知事に引っ張り出して来た会派の「人を見る目のなさ」と、彼の尻拭いをやらされた面はあるとはいえ、その尻拭いがかえって傷口を広げたり、自分たちがさらに悪事を拡大する方向に動いた元副知事以下知事側近にも、やはり問われるべきものが多々ありますね。そして、これだけいろいろ問題が指摘されていても、いまだに「斎藤さんがんばってるぅ~」とか「知事がかわいそう」とかいうてはる、一部の「信者」のような斎藤支持層の人々。この人々こそ、県政の刷新の最大の妨げになっているのではないかと思いますね。