できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

中井久夫「いじめの政治学」を手がかりに

2019-10-27 21:45:34 | 受験・学校

今日も朝、プリキュアを見てから来客対応でした。

神戸・須磨の教員間いじめの問題について、このところ連日、いろんな方から私のブログを見ての問い合わせや「意見を聴かせてほしい」等の動きがあります。たいへん、ありがたいことです。この場をお借りして、ひとことお礼申し上げます。

さて、今日はまた今までと少し切り口を変えて、この間「教育学的・心理学的な調査・検証」といってきたうちの「心理学的な」の部分にこだわった話をします。まあ、精神科医の中井久夫氏の本を紹介するから、心理学的というよりも精神医学的と言えばいいかもしれませんが。

私のかかわったいくつかのいじめの重大事態の調査委員会で、中井久夫氏の「いじめの政治学」(『アリアドネからの糸』所収。みすず書房刊)が参照されている例が見受けられます。また、同じ中井氏がこの「いじめの政治学」という論考を子どもたちにも分かりやすくまとめたものとして、『いじめのある世界に生きる君たちへ』(中央公論新社刊)という本もあります。どちらの本も、いじめの被害にあった子どもの側から見て、「いじめ」がどういう経過をたどるのかについて、中井氏の見解をまとめたものです。

具体的に中井氏は、被害にあっている子どもの側から見て、「孤立化」⇒「無力化」⇒「透明化」の3つの段階をたどると言います。中井氏は「いじめは、他人を支配し、言いなりにすることです。そこには他人を支配していくための独特のしくみがありそうです」と言います(前出『いじめのある世界に生きる君たちへ』)。その最初の段階が「孤立化」です。

この「孤立化」は、誰をターゲットにいじめるかを決めること。また、そのターゲットになった相手に対して、周囲へのPR作戦に出ることで構成されます。すなわち、いじめる側はいじめられる側に対して、さまざまなことで難癖をつける。また、教員を含めたまわりにいる人びとに対しても、自分のしていることを正当化する理由を主張し、巻き込んでいきます。このプロセスのなかで、被害にあった子どもの側も「いじめられてもしかたがない」と思わせていく。また、まわりにいる人びとを被害にあった子どもから遠ざけていきます。そして、被害にあった子どもはいつ、どんなかたちでいじめられるか分からず、常に緊張を強いられる状態になるといいます。

次は「無力化」の段階です。この段階では、いじめている側は被害にあった子どもに「反撃は一切無効だ」という気持ちにさせていきます。そのために、被害にあった子どもが反撃に出れば過剰な暴力で罰し、誰も味方にならない状態にしていきます。ただし、ここで対応に失敗すれば、いじめている側は自分の威力を失います。なので、ここで最もひどい暴力がふるわれることになります。

なお、中井氏によると「加害者は勝手気ままにふるまっているようですが、じつは最初から最後まで世論を気にしています。それも先生などの大人の世界と子どもの世界の両方の世論をです」とのこと(前出『いじめのある世界に生きる君たちへ』参照)。ただ孤立化に一旦成功したら、前ほど世論は気にしなくなると言います。また、この「無力化」の段階で暴力をふるっておけば、その後は脅すだけで相手を動かすことができるようになります。

そして最後の段階が「透明化」です。この「透明化」は、目の前でひどいいじめが行われていても、誰も気に留めなくなるということ。また、ここまでくると被害にあった子どもは、いじめている側にその日その日やられないようにするだけで精一杯になります。いじめている側の機嫌一つで運命が決まるような毎日のなかで、ますます被害にあった側は、いじめている側に隷属していくようになります。また、「今日だけはかんべんしてやる」と言って、おとなの前では仲良くしているように見せかけることもあるでしょう。

ちなみに、いじめの被害にあった子どもへの対応について、中井氏は「まずいじめられている子どもの安全の確保であり、孤立感の解消であり、二度と孤立させないという大人の責任ある保障の言葉であり、その実行であるとだけ述べておきます」(前出『いじめのある世界に生きる君たちへ』参照)と言います。

あらためてここまで中井氏の「いじめの政治学」の概要を紹介して、気付かれた方もいるかと思いますが…。

神戸・須磨の小学校の教員間いじめの経過を、このような心理学的(精神医学的)な観点から調査・検証してみると、加害教員と被害にあった教員、管理職や他の教職員の関係において、被害にあった教員へのケアや加害教員への対応、今後の再発防止策等々に関して、いろんな示唆・気づきが得られると思います。

おそらく「コンプライアンス」「懲戒処分」に関する事項などを中心に、「法的対応」だけを念頭に置いた調査・検証作業を行うと、上記のような孤立化―無力化―透明化の段階がいかにして進行したのかなどは、あまりよくわからないのではないかと思われます。特に、周囲の教職員や管理職が加害教員の論理にどのように巻き込まれたのか(=それが被害にあった教員の「孤立化」を招いたのでは?)。また、加害教員が被害にあった教員を「かわいがっていた」かのようなことを言っていた点についても、それは「透明化」の時期のいじめていた側の気まぐれなことばでないかなど、さまざまなことを考えることができるかと思います。さらに、職員室のなかの世論をもしも加害教員側が気にしていたとするならば、今後、教職員間でどれだけ「こういうことをやめよう」という声を高めることができるかが、再発防止のポイントになるでしょう。そして、被害にあった教員にはまずは静かに、心身の安全が確保できる環境を整えることこそ先決という話になるかと思います。

その一方で、先の「孤立化」段階のPR作戦の話などを見ていると、実は「加害教員憎し」で「一日も早く処分を」や「実名をさらせ」等々の声を挙げている人々もまた、「いじめの政治学」の第一歩を踏み出しているように見えます。あるいは「神戸市教委が許せない」といって感情を駆り立てられ、「市教委から博物館等の社会教育部門を切り離す」ことを提案したり、条例改正で「加害教員に分限休職、さらには給与支給の差し止め」といったことを可能にすることを主張している市長もまた、実は「孤立化」段階のPR作戦を始めているかのようにも見えます。そして、市長を含むこのような人々が、今「世論」を気にしてこのようにふるまっているのであれば、その「世論」自体が別のかたちでの「いじめ」を助長する「政治」プロセスに入っているようにも見受けられます。

だとすれば・・・。私としては、当初の教職員間いじめの問題に関する諸課題の解決に全力を注ぐとともに、「加害教員憎し」や「神戸市教委が許せない」等々の別の「いじめ」の政治は極力抑制すること。そのことが、最も被害教員の回復に必要な「静かに、心身の安全が確保できる環境を整えること」につながるのではないかと思います。

このような次第で、ある「いじめ」の問題に対する解決を求めることが、別のかたちでの「いじめ」を誘発するような道筋をたどることなく、まずは冷静に、事態の推移を見守る必要があるのではないかと思うのですが…。また、神戸市長を含む行政当局は、今の法令で可能なことから着実に、被害にあった教員や当該の学校に通う子ども・保護者への支援に乗り出すと共に、加害教員への対応を「法的に」行うだけでなく、「教育学的・心理学的」にも行っていただきたいと思う次第です。






この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日(10月27日)のプリキュ... | トップ | 神戸市長のいう「異例の対応... »
最新の画像もっと見る

受験・学校」カテゴリの最新記事