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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

いつかどこかで見たような・・・・。

2009-11-13 19:06:13 | いま・むかし

このところマスメディアが伝えているように、民主党・社民党・国民新党の連立政権が、「事業仕分け」なることを進めています。これはマスメディアの伝えるところを見る限りでは、国のさまざまな施策のなかから、廃止すべきもの、予算を大幅に削減すべきもの、地方自治体の施策へ移行すべきものを選び出す作業のようです。

ですが、「廃止・予算の大幅削減・地方自治体の施策へ移行」という3つの選択肢しかないことからもわかるように、「そもそも、仕分けの対象にのせる・のせない」の段階で、何か行政当局内でいろんな駆け引きがあるんじゃないか・・・・と思われてならないのですが。

つまり、各省庁にとっては「仕分け」され、「廃止・予算の大幅削減・地方自治体の施策へ移行」のどの結果になっても、「さほど、本体部分には大きな影響がでそうではないもの」が、今回の「仕分け対象」のなかにいくつか含まれているのではないか、ということです。「枝葉を切り落とされるかわりに、幹が守られたらそれでいい」ということでしょうか。

しかし、そういうときに、例えば文部科学省関連では青少年教育施設だとか女性教育会館のような施設、子どもの読書活動に取り組むNPOへの支援のための補助金といった、社会教育・生涯学習領域での子どもの取り組みや、人権関連の取り組みのことが、まず真っ先に取り上げられるのは、なぜなのでしょうか?

しかも、その事業の「仕分け」の様子は、インターネットなどを通じて公開されるとともに、マスメディアにもくりかえし情報発信される。また、マスメディアなどでは、各省庁などからの担当者の最初の説明の風景のほか、たとえば事業の費用対効果や数値目標の達成度などを各省庁側に問い合わせる民間からの「仕分け人」や、それにうまく答えられない各省庁担当者の様子、そして、その議論を受けて「廃止」等々の結論を粛々と伝えていく民主党系国会議員の「仕分け人」の様子が伝えられる。

そんなところから、私の印象では、こうしたマスメディア、特にテレビその他映像で流れる事業「仕分け」の様子は、まるで「劇場」的な政治の手法。つまり、「官のよくない部分を、政と民とでたたききっていますよ」という「スペクタクル」を映像を通じて見せることに、最大の目的があるような印象を持ってしまいます。と同時に、一大「スペクタクル」を見せることによって国民の目をひきつけている間に、何か別のことが隠されているのではないか・・・・。そんな風に思ってしまいます。

・・・・ところで、この「事業仕分け」の様子って、いつか、どこかで見たあの風景に似ていませんか? 私には、あの橋下知事就任後しばらくの間、大阪国際児童文学館や大阪府立青少年会館などの一連の施設の存続が問題になった、あの時期の風景に、どこか似ているように思うんですよね。

ちなみに、あれだけ「府の財政は倒産寸前の会社みたいなもの」と言ってきたわりには、大阪市のWTCセンタービルを買うとか、私立高校に通う低所得家庭の子どもへの授業料補助をだすとか(もちろん、後者の施策は大歓迎です)、今頃になって、橋下知事からこんな話が出てくるんですよね。ということは、「もともとさほど、大阪府は財政的には困っていない」か、もしくは「大阪府には近々、国からの補助金か何かがまわってくるから、心配ない」ということなのでしょうか?

そして、そんなことから考えると、「大阪市内や大阪府内の青少年会館等、子どもに関する公的施設への補助金なんて、今までの国の予算や大阪市・大阪府の財政規模から考えると、あんまりたいしたことなかったのでは?」とか、「それをあえて打ち切る等というのは、財政再建路線を人々に印象づけるためのパフォーマンスなのでは?」とか、そんなうがった見方すらしてしまいます。

しかし、国や地方自治体の長、あるいは国会議員や地方議員、そしてそのブレーンになっている民間の人々は、そうやって「財政再建」に向けての「パフォーマンス」をしていれば、一定の支持が得られていいのかもしれない。マスメディアを通じて、そんな「パフォーマンス」で支持を呼びかけていれば、自分たちのポジションは安泰なのかもしれない。

でも、こういう人たちにはぜひ、自分たちのその「パフォーマンス」によって施策が打ち切られた後、それぞれの住民の生活が、あるいは、かつてその施策を担当してきた職員の暮らしがどうなっているのかまで、しっかり見守り続けてほしい。たとえその人たちになじられ、罵声を浴びせられても、自分らの「パフォーマンス」によって人々の生活にどんな「痛み」が出ているのかを、その人たちの暮らす場まで降りてきて、きちんと見てほしい。

「それが、事業仕分けや施策打ち切りを決定した、あなたたちの責任でしょ? 責任という文字は、誰かに『責められる』仕事を『任される』と書くのだから」 少なくとも私は、そう思います。

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