角館草履の『実演日記』

〓袖すり合うも多生の縁〓
草履実演での日々の出会いには、互いに何かしらの意味があるのでしょう。さて、今日の出会いは…。

「学校」を考える(後編)

2008年02月05日 | 地域の話


今日の草履は、彩シリーズMグループ24cm土踏まず付き〔4000円〕
昨日と同じベースに、緑・青・黄を合わせた四色使いです。ベースは比較的落ち着いた色合いですが、カラフルな無地が合わさると楽しい配色になりますね。

昨日のブログでは「学業」について触れましたが、今日は学校そのものを書いてみます。これは学校ばかりでなく、社会全体世間そのものに云えると思ってるんです。
私は「人」が好きです。これが嫌いで商売はできませんし、まして不特定多数の方々と日々出逢う実演なんてできるわけがありません。これを冒頭申し上げるのは、これから書くことに誤解が生じるのを歓迎しないからです。
昨今私が考えるのは、他人やモノあるいは施策をアテにし過ぎてるんじゃないかということなんですね。

最近のニュースで国民が憤っているものに、「社保庁問題」や「薬害問題」があります。これらは自らになんの責任もないところで不利益を被ったわけですから、怒って然るべきでしょう。
もっと日常の出来事で「腹が立つ」ことがあります。その心理の裏には、「アテにしていた」とか「期待していた」ことが思う結果にならなかったときに多いですよね。そんなとき『だからアテにしなきゃイイんだよぉ』なんて言葉を使いますが、案外これって重要なんじゃないかと思うんです。

これを「学校」に当てはめてみます。率直に申し上げて、学校や先生に対して期待が大き過ぎると思うんです。アテにし過ぎていると言ってイイかも知れません。前編の「学業」もここに行き着くんですが、頼りにし過ぎているから「腹が立つ」ことが多くなるんじゃないですかね。
中には「アテにし過ぎている」を通り越し、常識を逸脱していると思える親もいますね。

最近よく言う「モンスターペアレント」。幸い私の娘たちが在籍した学年では、そういう親ですぐ名前が浮かぶ人はいませんでした。別の学年では母親が徒党を組んで校長室へ怒鳴り込み、『担任を代えろっ』なんてことがありましたね。
明らかに「不適格教師」なんていう先生は、そうそういるもんじゃありません。そのときも私にはとてもそこまでとは思えませんでした。

親が学校を批判する具体例はいくつもあるんでしょうが、『なんで給食費を払わなければならないんだ』とか、『修学旅行なんて頼んでないから金は払わん』といった訳の分からない主張には付き合っていられません。ここでは担任の日常的な教育活動に対する不満について、想うことを書いてみます。

小学校というところは、これから長い人生を歩いて行くあるいは闘って行く序盤戦です。まずここで覚えはじめなければならないのは、「世の中にはいろんな人間がいる」ということじゃないですかね。
それは先生と呼ばれる人たちも同じで、そりゃあいろんな人がいますよ。中には子どもや親が好まない先生もいるでしょう。でもウマの合わない人とだって、一定時間あるいは一定期間付き合わなければならないなんてことは、世の中当たり前のようにありますよね。そんなことはいくつも体験しているはずの親も、帰宅したわが子の口から先生への不満を耳にすると、親のほうが怒り狂って問題に発展するわけです。

だからといって、わが子へ「我慢」だけを強いるのは酷ですから、子どもの生活が学校へ過度のウェイトになるのを避ける必要があります。学校以外の場所、それは塾だったりスポ少だったり祖父母の家だってあるでしょう。出来るだけ多くの人との接点を設けることで、「楽しい時間」と「ツラい時間」をうまく相殺できればイイと思うんです。言ってみれば、「リスクの分散」でしょうかね。

かつてサラリーマン時代、最もお得意先が多かったときは一千軒を超えていました。田舎のちっちゃな企業にしてはたいへんな数です。でも一軒一軒の取引額を見てみると、ひと月に1万円とか2万円なんてお店がいっぱいなんです。当時一番取引があった顧客への売上額でも、わが社年商の5%程度でした。これは「リスク分散」を考えた戦略のひとつで、仮に最大取引の企業が行き詰ったとしても、それだけで連鎖はないんですね。

学校も世の中にある「ひとつ」に過ぎないわけです。そこへなんでも集中的に押し込むのは、逆に自らを危険にさらすことだと思うんです。
たとえば「年金」、もちろん老後を迎えるうえで大切なひとつです。でももしこれに大きな依存をせずに暮らせたとしたら…とは実際思いますね。
最近の「ギョーザ事件」はどうでしょう、輸入品に依存しなければここまで大きな問題にはならなかったはずです。日本の食糧自給率を想えば簡単ではないのですが、反面毎日捨てられる大量の残飯はどうなんでしょう。
日常に使うパソコンやケータイなんかもそうですよ、過度に依存してる分だけ使えなくなったときの狼狽ぶりは滑稽なくらいです。「それがダメなときにはこの手がある」のような工夫、これも「リスクの分散」じゃないですかね。

これは「人」に対しても云えると思いますね。夫婦や家族といった「核」になる人間関係は別にして、他人を頼り過ぎるのはやはり危険と思います。
私が会社を辞めて独立する際、お得意先であったある店主に言われたのは、『確固たる人を見つけて、その人を頼ればイイ』。確かにその店主はある実力者を味方につけて、一定の受注額を得ていました。でも私はとても素直になれませんでしたねぇ、ひとたび情勢が変れば共倒れでしょう。

ただ実際の人生の中では、他人に助けられることやお世話になること、あるいは感動をいただくことがしばしばあります。これを稀にしかない「めっけもの」と考えるのが自然じゃないかと思うんですね。
最初からアテにしていれば、「やってもらって当たり前」になります。するとそこに本当の感謝は生まれません。稀にしか出逢えないことをしてもらえたからこそ、人は心から『ありがとう』が言えると思うんです。

学校に話を戻しますが、「アテにし過ぎない」からと言って「学校なんてどうでもイイ」なんて考えてるわけじゃありません。少なくとも小学校のPTA役員を九年間務めてきて、学校から依頼された事案で断ったケースはまずないはずです。
先生に対して過度の期待をしないとか、学校以外にもウェイトを置くといった考えは、むしろ先生と呼ばれる人たちあるいは学校を好きだからとも言えるんですね。

九年間でいろんな先生と出逢いまた酒を酌み交わし、先生も極フツーの人間であることを知りました。そのうえで、「学校の先生」は面白い仕事ですよ。前編のように各家庭が勉強を教えてくれさえしたら、私も学校の先生になりたいくらいです。
まぁ、たとえばの話そんなチャンスがあったとしても、私は草履職人の道をまっとうする気持ちに揺るぎはありませんけどね。

実演開幕まであと40日、今年も「稀な出来事」が楽しみです。

コメント
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