ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

母恋し

2013年05月17日 | 今日この頃

             「アマリリス」   白は珍しいですね  西宮     (13-5-17)


唱歌の学校に行きました。6月の初めまで、約1ヶ月お休みです。始まると、音
楽会まで1ヶ月もありません。歌えるのかしらね~。


近頃、自分で自分の感情をコントロール出来ない事があります。特に「涙」。
涙腺が緩んでいるのか、一寸、心に響く事を見たり、聞いたりすると、処かま
わず、泣きそうになってしまう。

この間は、大阪駅の陸橋を渡って、紀伊国屋に本を買いにいった。その時、何
気なく母のことが思い出された。すると、群集の中で在るにもかかわらず、涙
が止め処もなく流れ、嗚咽まで喉を駆け上がってきた。

人に気づかれないように、帽子を深く被り、人波の途切れた場所で、声を出し
て泣いた。驚いたのは私自身です。周りの人は気づいていないと思うが、知っ
たらビックリするでしょうね。80才に近い老婆が、母恋しくて、道の真ん中で、
しくしく泣いている。自然に任せて、気分の落ち着くのを待ちました。

母との、懐かしい思い出に涙したと言うのではないのです。「母」と言う一言
が、私を泣かせたのです。皆さんも「母恋しくて」涙することがあるのでしょう
か? 私だけがヘンなんでしょうか? 子供に帰ってしまったのでしょうか? 
今も、書きながら涙が流れています。

いつも「母恋し」と思っているわけではないのです。その感情は、時として待
ったなしに、津波のように押し寄せてくるのです。

母の側に行きたいと思っているわけでゃないのです。もう少し、この世にいたい
と思っています。デモ、なんだか無性に母が恋しいのです。可笑しいですか?



        「ペチュニア」   新種でしょうか? 珍しい色でした   西宮   (13-5-17)     
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ボストン美術館 日本美術の至宝

2013年05月16日 | 一寸そこまで

         上:入場券   中:入り口   下:館内正面     (13-5-16)




天王寺の大阪市立美術館へ行ってきました。アメリカでも古いボストン美術館
には、日本画が10万点も海を渡っているそうです。数えるのも大変な数ですね。
蕭白の「雲龍図」はこのたび修復をおえて、世界初の展示だそうです。迫力あ
りましたね。デモ、私は「蕭白」と言う人の絵は始めてみたように思います。
ボストン美術館のコレクションには彼の実力を認め、沢山の作品がコレクショ
ンされているそうです。

世界初公開と言う言葉の為か、今日は平日と言うのに、思いがけない人出でし
た。広い会場、初めのほうは、人で埋まっていると言う感じでした。2重3重の人
垣ですから、車椅子の方は見えているのかと心配しました。お一人、ストレッ
チャーの方がおられましたが、車椅子より視点が高いですから、見れたと思い
ますが、寝たままこられた方を見たのは初めてでした。





展覧会横のお店で、食事を済ませて、公園に戻りますと、遠足の子供たちが
いました。皆「暑いな~!」という顔をしていました。

残念ながら「バラ」は盛りを過ぎて、痛んでいましたので、遠目だけ写しました。
あまりの人に疲れがひどくて、温室の花はパスしました。



公園の出口には「カーネーション」が鉢に投げ込まれていました。もしかして
「母の日の残り物?」

    

伊藤若冲の「鸚鵡」の絵葉書を買いました。今、東北に来てるんですよね。や
っぱり里帰りした「若冲」の作品が。是も個人所有で、波のかなたに渡ってい
るんですよね。とっても見たいのですが、東北は遠すぎますよね。東北が終わ
れば、せめて東京か京都の国立博物館に立ち寄らないのでしょうか? ひそか
にそうあってほしいと願っているのですが…。



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香淳皇后

2013年05月15日 | 読みました

          日向の 「シラー」   今年も沢山咲ました     (13-5-5)




今日は何となくしんどくて、去年までは肩こりなんてしらなかったのに、好きな
編み物も、長時間していると、肩のアタリが、ずきずき痛みます。これが肩こ
りでしょうか?

日曜日から3日遅れの今日、新しい「Iパット」手元に届きました。やっぱり古い
のより、画面が綺麗ですし、カメラまで付いています。早速手元を写してみま
した。目視する画面が、デジカメの10倍ぐらいの大きさが在りますから、とて
も見やすいです。しんどさも、何処かに吹き飛んだ感じです。


香淳皇后(昭和天皇と歩んだ20世紀)  工藤美代子

香淳皇后様は歌がお上手なんですね。難しいものではなく、す~っと心に染
み入るようなお歌です。

   次の世を 背負うべき身ぞ たくましく 正しく伸びよ 里に移りて

このお歌は、私たちが親元を離れて、集団疎開していた時に、何かお菓子を
頂いて、その時に添えられた歌なんです。

この歌が70年経っても私の心に残っているのは、疎開先の先生が、この歌
に曲をつけて、私たちに歌わせていたからだと思います。今でもちゃんと歌え
ますよ。

当時疎開した児童は何十万人もいたと思いますが、果たして、この歌を覚え
ている人は、幾人いるでしょうか? 小学3年生(私)から6年生までの児童
です、私だって、一度聞いたくらいでは覚えてはいないでしょうし、曲をつけ
て歌わせてくださった先生のお陰だと思っています。

美智子皇后をいびった人と言う感覚でいました。しかし、貞明皇后(大正天皇
の妃、下々では姑にあたる)とのお仲もよくはなかったらしい。貞明皇后は平
民の出、香淳皇后(良子=ながこ)は宮家の出、と言う身分の差が元であった
らしい。美智子皇后については、やはり母親としては、宮家の姫との結婚を望
んでおられて、美智子様が庶民の出であることにご不満がおありのようです。

良子さまが皇太子妃にと言うときも、色盲因子保有者と言う事で、危ぶまれた
が、久邇宮家当主(父君)の熱意でもって、婚約者となられた。

良子女王は本当に美しい方だったそうです。私が「皇后様」と教えられた頃に
はもう6人もお子を生まれた後で、太っておられました。

4人も王女様ばかりで、男子の欲しい皇族としては天皇に第二夫人を持たせ
ようとしたが、天皇様は頑として受け付けられなかったようです「退位してもい
い」とまで言われた模様。皇太子様がお生まれになった時はどんなにお喜びだ
ったことでしょう.

お子さまを手元に置いて育てられたのは、美智子皇后が初めてだと思ってい
ましたが、香淳皇后が始めてだそうですね。勿論、学齢期に達するまでですけ
どね。それでもお子様を手元に置くと言うことは、皇室では初めてだったそう
ですよ。

その後は、内親王さまは「呉竹寮」に住まいを移されましたが、天皇が研究所
に行かれている間は、皇后様は「呉竹寮」に行かれて、過ごされたそうです。

宮城内の建物は全焼したそうですね。この本を読むまでは、宮城は焼けなかっ
たと思っていました。アメリカは京都などの文化遺産的建物は焼かなかったと
聞いていたので、宮城も焼かれていなかったと信じていました。

だから、テレビや映画での「御前会議」の場面は実際は防空壕でなされたそう
ですね。

無条件降伏したのだからと、天皇陛下自らが、マッカーサーを訪ねられて「私
は、国民が戦争遂行に当たって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に
対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだね
るためおたずねした」という。この天皇の言葉を聞いた時、マッカーサーは大
きな感動に揺さぶられた。天皇は命乞いをするどころか、自分が全責任を負う
と言い切ったのである。マッカーサーは「個人の資格においても日本の最上の
紳士」と絶賛したそうです。

天皇は国民に謝すべく、全国行脚をされた、私も道路に並んでお迎えした覚え
があります。先生は「決して、頭を上げるな」と言いました。今とは大違いで
すね。 

この本を読んでよかったと思いました。天皇陛下は初めから戦争には反対だっ
たと聞いておりました。しかし、そのことには触れず、「責任のすべては我に
あり」と語られた天皇に感謝。上に持つべきものは、立場を弁えた人と思いま
した。




               日陰の 「シラー」   日陰の色のほうが私は好きです




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良い記念日を!

2013年05月14日 | 一寸そこまで


暑いですね! テレビを見ていると、日曜日だけの雨マークが、火曜日まで延
びていました。「もしかして、是って、もう梅雨違う」と話していると、テレビが沖
縄の梅雨入りを告げました。やっぱりね~。なんだか心地よい「春」と言う時期
がなかったような…。そう思いませんか?


5月11日(土曜)大阪フェスティバルホール・ひらまつにいくために、10時に立
花駅ホームに集合しました。今回は7名です。生憎の雨です。でも待ちに待っ
た日ですから、皆さんニコニコ顔で集まりました。

雨が降っているので、地下街を歩きました。時間が早かったので、と言うより、
お店を見るために、早めに集合しました。フェスティバルホールに地下は、上
の写真のように、お花があちこちにあり、目を奪われました。お花屋さんも「母
の日」のカーネーションのお花で一杯です。変わった色のカーネーションも目
に付きましたが、テレビで見た「七色のカーネーション」は見当たりませんで
した。

「ひらまつ」は少し早く到着したので、廊下の椅子で待つことになりました。今日
は結婚式があるとかで「ウエディング・マーチ」がかすかに聞こえてきました。
花嫁の入場かしらとか、想像しながら、聞いておりました。

化粧室では、花嫁の友人でしょうか、目の覚めるような、美しいドレスを着た人
も目に着きました。あまりにそのブルーの地にキラキラスパンコールがきらめく
ドレスが美しすぎて、お顔を見るのを忘れたくらいです。


食事が始まりました。満席の所為でもあるのでしょう、結婚式の披露宴もあっ
たでしょうから、以前来た時よりは、ご馳走の間があいたようです。お話をす
るには好都合でしたけどね。

このグループの皆さん話し上手で、引き込まれるように聞いているうちに、私
はポカをしました。お料理の写真も撮っていましたが、メイン料理がポッカリ
と抜けております。それも、ブログに載せるために捜していて、やっと気がつ
くというお粗末です。選りによって、メイン料理をですよ! 「あ~ぁ年は取りと
みない」とつくずく思い知りました。


          卓上花の 「ラン」 しっくりとした色で お部屋の雰囲気にぴったりでした





今日のメンバーのお一人、白井アヤさんが誕生月だという事を、伝えたので、ア
ヤさんのデザートには、チョコレートの上に「ボン アニバーサリー アヤ」と書か
れて、とても喜んでくださいました。ことばの説明を受けておられましたが、
私の席には聞こえませんでした。私流に約しますと「良い記念日を! アヤ」
でしょうか?

そんなこんなで、2時までという時間制限が、大幅に延長されました。3時近
かったと思います。白井さんは次のお約束?に、他の皆さんは、近くだからと
言う事で「東洋陶磁美術館」へ、雨の中いかれました。

私は一人、地下を通って「阪神」「阪急」で買い物をして帰宅しました。立花駅
を下りた時には、雨は止んでおりました。




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尼崎花いっぱいの会

2013年05月13日 | 一寸そこまで
  
               「球根ベコニア」   尼崎上坂部・西公園     (13-5-13)

                「ゴーヤの苗」   尼崎上坂部・西公園


今日は又、歩くのには暑いくらいでした。その中を尼崎の西の端まで行きました。
何時もは、労働会館であるのですが、労働会館が老朽化のため修理?取り壊
し?のために使用禁止になったために、西公園まで行きました。

塚口から歩いて、さ~ね、15分か20分かかります。その距離を歩くのが暑い
です。同じバスに乗り合わせた4人でテクテクと歩きました。

「尼崎・花いっぱいの会」の総会があったからです。総会と言っても、人数が
どんどん減っていますし、寂しいものですが、上の写真のように、いつもお花
の苗をいただけるので、それが楽しみで、出席しています。

総会は、頂いた冊子を読み上げて、私たちが認めた証しにパチパチと拍手して、
シャンシャンと終わります。

2時からだったものですから、終わるとさっさと帰って来ました。帰ってすぐ、お
風呂を沸かして、汗を流しました。時計を見ると夕食の用意の時間です。チマ
チマと用意しました。

一皿に同じものが沢山はいらないので、近頃は小さな食器しか使わなくなりま
した。チョビットずつ色々あればいいのです。

歩きつかれて、お腹の満腹の食後は、一時眠ってしまいました。今までだった
ら、花苗はすぐ植え替えていましたが、今日は写真だけ撮って、そのままです。
明日にでも植え替えてあげましょう。

ベコニアは、色んな色がありましたが、わたしはクリーム色を選びました。ゴーヤ
は、ツタンカーメン側にでも植えましょう、ツタンカーメンの花が終わった頃には、
今度はゴーヤの緑のカーテンが広がる予定です。


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写真の整理

2013年05月10日 | 今日この頃

               「バラ」    尼崎・立花     (13-5-8) 

 「ツタンカーメンと蝶」 この蝶の右下半身の羽?がありません でも元気に飛んでましたよ (13-5-9)


午前中は、主人の関係の深い故に、一人では整理出来ない身内や、友人、会
社関係、仲人等の結婚式の写真などの整理をしました。主人の方は多産系で
(何しろ、11人兄弟と言う従兄弟の家庭も在ります)その又子供のと、ダンボー
ル一杯の結婚写真です。「これだれ?」と言うのもあったりして、「こんなに結婚
式に出たの!」と今更ながら驚いています。残したいものはCDに取り込むとし
て、思い切って処分しました。

今は息子たちのアルバム整理をしているのですが、次は私たちの二人旅(是も
相当あります)。そして最後が私と友人たちのもの。二人旅も私の分も、もう何
年も前から、CDに取り込んでいますが、それ以前の写真がアルバムに残って
います。やっぱり今年中は掛かるでしょうね。

残された家族の、一番処分しにくいのが写真だと聞いています。ですから大体
は処分して、少しだけCDに入れておけば捨てやすいと考えて整理しています。


午後からは雨の降る中、唱歌の学校に行きました。今日は、6月の発表会の時、
伴奏してくださる先生がこられ、練習に参加してくださいました。

舞台に立つ時と同じ位置に座って歌う練習が始まりました。こんなことは始め
ての経験です。隣の方の声になじむと言うことでしょうか?

帰りに「藤」の写真を撮るのを楽しみにしていたのですが、帰りには雨がひど
くなっていましたので、西宮まで歩かないで帰って来ました。

今日もごとうさんが「ラディッシュ」「さやえんどう」を持ってきてくださいました。
「さやえんどう」の収穫は一つ一つ鋏で切り取るそうです。400個とるのに
2時間掛かったそうです。だから「さやえんどう」は高いのですね。茎が細い
から引っ張ったら切れてしまうからでしょうか。鞘自体は数多く付くと思うの
ですが。収穫に時間が掛かるので、手間賃が高くしているのでしょう。

上の「ツタンカーメン=この種も、何年か前にごとうさんから頂いた種です」も
マメ科ですから、花の跡に赤黒い枝豆が一杯出来ています。食べることも出
来るそうですが、色が綺麗でないし、中の豆も小さいです。これはやはり花を
楽しむものでしょう。

「ラディッシュ」は早速、晩のサラダに加えて、おいしく頂きました。
ありがたいことです。
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花談議

2013年05月08日 | 今日この頃

          「ペチュニア」   尼崎・立花      (13-5-8)



図書館に行ってきました。頼んだ本の順番はまだまだ先のようなので、今日は
本棚から3冊選んで来ました。

何時もの通り、綺麗な花は咲いていないか? とキョロキョロしながら歩いてい
ると、見つけました。「一寸痛んでいるのもあるし、撮ろうかな?」と考えて見つ
めていました。

人の気配がしたので、そのほうを見るとおじいさん(私よりは若い?)が出て
こられました。「綺麗ですね~、お花が一杯咲いているので、見させていただ
いています」と言いました。嬉しそうに「どうぞどうぞ」と言われました。
「写真を撮らせていただいてもいいですか?」「どうぞ」「ガザニアがまだ蕾で
すが、咲きましたら、黙って撮らせていただいていいですか?」「どうぞ、3色
ありますよ」

「今一番綺麗なのは、このバラですよ」指し示されました。「もうじき、大井戸
公園もバラが満開になりますね」とか花談義に話が弾みました。

「ランも育てているのですよ」そこには小さな温室がありました。窓を開けて
くださったのですが、花は残念ながら横顔です。でも立派であることは見て取
れました。「座敷から見えるように、そちらを向けて置いてあるのです」

温室には小さな扇風機があったので「換気ですか?」と聞きますと「蕾がつき
ますと、風を当ててやらないと咲かないのです」え! そんなこと初めて聞い
たわ!と驚きましたが、この方の経験から、それが正解なのでしょう。それで
ないとあんなに立派なランは咲かせられないもの。

何時もより半時間早く家を出たのですが、花談議に花が咲いて、何時もの時
刻に図書館に着きました。

そこで、久しぶりの知人に、ぱったりと会いました「お元気そうですね」と声を
かけました。「「元気じゃなかったんですよ。でも少し元気になったようです。
お互い元気でいましょうね」「図書館にはよくこられますか?」と聞きますと
「割と、よくきますよ。声をかけていただいてありがとう」

こんな機会がないとお目にかからない人でした。これが私が「花談議」で来る
のが遅かったからの出会いでした。人との出会いはこんなものなんでしょうね。
不思議なことです。ご縁があったということでしょうか。
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未完の贈り物

2013年05月07日 | 読みました

     「アッツ桜」   ことしこそ植え替えてやらなければ…     (13-5-5)


暖かくなりましたが、風が強くて、冷たいです。読む本がなくなり、主人の月刊誌
を読んでいます。連休の間は夕刊がお休みでしたし、昨日は朝刊もお休みでし
たから、寂しい朝でした。今日からやっと、私にも普通の生活が初まります。

  未完の贈り物(娘には眼も鼻もありません)   倉本美香

私は、この本を興味本位で手に取った。しかしそのような気持ちはすぐ消え去
りました。若いご夫婦が、肉親のいないアメリカであまりにも重症の娘を一生
懸命育てている。それだけではない、後に2男1女をもうけ。2男2女を育て
ている。世の中にこんな頑張り屋の女性も居るのだと感心しました。

彼女は大学卒業後、日航の乗務員として、世界を飛び回っていた。「順風満帆」
の人生から、昇り詰めたジェットコースターが急降下するように、私の人生は
激変した。と書いています。8年前の3月、初めての子、娘、千璃(せり)を
出産した時のことです。

娘には「目も鼻もなかった」とは、なかなか知人に話せなかった。話せるよう
になったときには、話を聞いて、離れていく友もいた。でも彼女はそれを悲し
む時間はなかった。目がなくて、夜昼の区別のない娘に、全ての時間を捧げて
いたから。

産婦人科の医師を選ぶ時「日本語が話せる」と言うだけで選んだのが、間違い
だったと言う。検診の時に、何かしら予感めいたものはあったと言う。でも出
産して、赤子の顔を見たとたん。親子をそのままにして、逃げていった医師が
許せないと言う。

後に訴えるのだが、相手が示談を請求してきたから、それに応じたが、36回
の手術(眼球がないので義眼を入れるために、空洞を造っていく手術や、鼻の
骨がないので、頭蓋骨を開けれ、鼻らしくなるような手術)に掛かった費用の
1/10にも満たない、保証金だったが、何よりも、早く裁判を終わらせたいため
に示談に応じた。

日本ではあまり聞いたことがないのですが、「無眼球」「小眼球」と言う病気
はアメリカには案外多いらしくその子供を持つ親の集まりもあるらしい。

彼女は、そんな環境にあっても、4人の子等の母親業、主婦業と仕事は続けて
いた。日本のような保険がないアメリカでの医療費は凄い金額らしい。その上
に、千璃の教育費も、特殊な学校ゆえにすこぶる高い。

後の3人の子は公立の学校に入れることしか出来ないから、良い公立の学校に
ある区域に転宅する。

「無眼球」「小眼球」の子供たちはほとんどが、眼球部分のみの奇形のみとい
う単一障害であるのに対して、千璃の場合は先天疾患と重複障害である。その
彼女が障害に負けずに一生懸命頑張って生きているのだから、私も頑張らなけ
ればという。

こんな人生もあるのかと思えば、当たり前と思っていた自分の人生が、幸せな
ものだったと、不平を言えば罰が当たると思うようになりました。

                          (2090回)



          「ナデシコ」   去年のこぼれ種が1本咲きました     (13-5-4-)
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色々な免許

2013年05月06日 | 思い出話

     「ハナニラ」     薄いブルーが白にのみこまれつつあります     (13-4-15)


とうとう長~い連休も終わってしまいましたね。私はじ~っと家にこもっておりま
した。おいしいおやつを側に、本を読んだり、取溜めていたビデオを見ながら
編み物をしたりで、あっという間に、5月の1週間が過ぎてゆきました。


先日から、色々と片付けをしているのですが、いらないものは捨ててしまうつ
もりです。随分さっぱりして来ましたが、そうですね~、今年いっぱいはかか
りそうです。

まずは靴を…、主人と私のはかない靴で、ビニール3杯分ありました。私は草
履も(喪用、留袖用色紋付用)と3足だけ残して、他はみな処分しました。下
駄箱が1つ空っぽになりました。

次は小物の整理です。私はハンカチが好きで、随分集めていたのですが、今は
タオルのしか使わなくなりましたから、買わなくなりましたけど、一度でも使った
ものはみな処分することにしました。

そして、色々な「免許書」も出て来ました。捨てる前にコピーして、ここにも載せ
ておこうと思います。


 

左は「アマチュア無線免許」です。45歳の時です。何故取ったかといいますと当
時、寝たきりの姑の世話で、日々の食料の買い物以外、一歩も家から出られな
い状態でした、3.4年は、それでも好きな本を読んで暮らしていたのですが、だん
だん、人恋しくなりました。友達も私の立場が分かっていますから、電話も遠の
きました。

人と話したい、社会と繋がっていたいと言う気持ちが強くなりました。そこで思い
ついたのが「アマチュア無線」です。日曜日、家族に頼んで2ヶ月?ぐらい、大阪
の寺町まで通いました。お陰さまで一発でテストに合格しました。しかし発射する
ことはありませんでした。器機を揃える前に、姑が他界したからです。

今のようにパソコンが普及していれば、習いに行かなかったと思います。

右は運転免許書をとる為の教習者手帳です。免許は70過ぎた頃、返納しました。
若くないので、努力が必要と、ほぼ毎日通いました。校内の技能テストは1度で
パスしない事もありましたが、教科試験と最終路上テストは一度でパス、本人が
一番驚きました。始めてから6ヶ月の猶予がありましたが、4ヶ月で取得しました。
明石でのテストも一度でOK、48歳にして運転を始めました。楽しかったです。 


 

これは還暦祝いに、ニュージーランドを自動車旅行するために取得した「国際
運転免許証」です。実際には神戸の大震災が起こったために、1年延期しました。
かの地で、「北島」「南島」ともレンタカーは、還暦にふさわしい真っ赤な車でした。
勿論外車ですよ、ハハハハ。

         

是は私が2度目にハワイに行ったときのパスポートです。今では0歳児からパス
ポートはもらえると聞いていますが、1973年(私38歳)頃は中学生になるまでの
子供はこのように親と一緒にしか取れなかったのです。長男は中学生でしたか
ら、一人でした。

この年、私が、心斎橋の売り出しのガラガラで特等のハワイが当たって、一人
でいったので、義弟が行きたい、と言い出して、姑、義弟家族4人、我家3人、
8人で行きました。主人一人は留守番でした。

丁度トイレットペーパーが店先からなくなったと言う大騒ぎの時期で、家族4人
で、持てるだけのペーパーを買って来ましたよ。ハワイから、トイレットペパー
ですよ、今は笑い事ですが、その時は真剣でした。懐かしい思い出です。

後の免許書は、和裁、洋裁、あみもの、英検等々ありますが、今ではもう使用
期限切れ、思い切って処分しようとしています。

捨てるものにも、色々と思い出が在り、中々捗りません。思い出を楽しみなが
らゆっくりと、過去を捨てていきます。




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エスカルゴ

2013年05月03日 | 思い出話

                「シャガ」    大谷美術館     (13-4-23)


このような季節の戻りを「若葉寒=わかばざむ」と言う相です。またまた、いい
言葉を覚えました。それにしても寒いです。

図書館に行ってきました。今日は空いていました。お父さんたち、今日、家族
サービスしたとしても、後3日ゆっくり出来ますものね。今日ふっと考えたん
ですけど、私は春の連休だからと言って旅行した、と言う覚えがないんですよ。
せいぜいが、六甲山に登って、帰りに神戸に出て、夕食を食べると言う感じで
した。

そんなときはたいがい「エスカルゴ」と言うお店に行ってきました。子供たちが
好きだったのでね。一番初めに食べるのが「エスカルゴ」です。ニンニクの味付
けのエスカルゴ、お皿に残った、お汁は、トーストされたフランスパンでしたし
て食べるんです。もう一度たべたいな~。

お店がなくなってから、何年たつでしょうか? エスカルゴ食べてないのです。
フランス料理店でも、中々エスカルゴを出しているお店ってないでしょう? 
今度ネットで調べてみようかしら。あ~ぁ、食べたいな~、エスカルゴ。

そういえば「焼き鳥」もよくいきましたね。ここも店主が病気で店が無くなりまし
た。息子たちは「つくね」その店では「だんご」と言っていましたね。大好きで
したね。





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