あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

犯人は某中佐

2018年05月23日 02時15分23秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


東京朝日新聞夕刊

【 
昭和十年八月十二日午後零時陸軍省發表 】
軍務局長永田鐵山少將は軍務局長室に於て執務中、
本日午前九時四十分某隊附某中佐のため軍刀を以て障害を受け危篤に陥る。
同中佐は憲兵隊に収容し目下取調中なり。


永田中將遭難に關し、
部内統制の善後措置を協議する陸軍三長官會議は十四日午後一時半から開會、
閑院參謀總長殿下の御臨席を仰ぎ、林陸相、渡邊敎育總監出席し、
林陸相から永田中將遭難に至る迄の情勢を説明した上
今回の事件は 事件そのものが極めて重大なるのみならず斯の如き事件を發生せしめたる原因が、
全く部内に於ける錯雑せる誤解や感情の疎隔等に基いた一種の雰囲氣により醸成せられたものであるから、
その根本原因を糺し 國軍をして眞にその本然の使命に立ちかへらしめる様、
今後凡ゆる適切な方法を講じ 肅軍の實を擧げる様にしたい。
其の爲には如何なる犠牲を払ふも敢へて介意すべきでないと思ふ。
・・旨の鞏硬なる信念を披瀝した。


満井佐吉中佐 ・ 特別辯護人に至る經緯

2018年05月22日 14時55分21秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


満井佐吉 
相澤中佐公判の特別辯護人となりたる經緯に就いて申上げます。
相澤中佐同期生よりの依頼に依り起ったのでありますが、
當時私の心境は、
近來 軍中央幕僚と靑年將校との間、
竝 靑年將校中所謂皇道派と稱せらるゝものと
「 ファッショ 」 派 と 稱せらるゝものとが互いに感情的對立を持ち、
軍の精神的結束を困難ならしめつつあるを憂慮せられ、
偶々 私は所謂皇道派の靑年將校とは比較的意思疎通可能なるに依り、
彼等靑年將校と 「 ファッショ 」 派将將との感情の疎隔を緩和し、
對立観念を除去し、軍幕僚と靑年將校との感情をも融和せしめんことを欲し、
之等の爲、
重要人物たる石原大佐 (幕僚方面)、橋本大佐 (ファッショ派) と 屡々意思の疎通を計り、
全軍一致して、時勢に善處するの必要を力説し、
蔭ながら軍の結束に關し貢献しつつありました折柄、
相澤中佐の同期生たる赤鹿中佐(士官學校)、牛島中佐(士官學校豫科) 外二名(氏名不詳)
の人より、特別辯護人たるべき交渉がありました。
最初來訪の時は私が留守であつたので、再び來訪せられて、
私に對し、
「 同期生中には種々の立場上及其他に依り適任者なき爲、特別辯護人に是非起って貰ひたい。
 鈴木貞一大佐は、永田閣下の部下なるが故に辭退せられ、
中央部には村上大佐、西村大佐、牟田口大佐等が居られるが、
中央部で立場が惡いからとのことであり、
又、聯隊附將校には中央の事情を認識するものがないので、是非引受けて貰ひたい 」
との交渉があり、困っておられましたので、
私は個人としては上司に於て許可があれば出てもよいと申しました処、
同期生から、陸大幹事岡部少將は、其時は許可せられない様な口吻を漏らされ
「 考へて置く 」 とのことでありましたので、參考迄にと思ひ、
私より 次の様な許可の可否に關し意見を申述べました。
「 若し相澤中佐の特別辯護人を受諾するならば、
一、目下靑年將校同志の間に、互に實力行動に出づるが如きことは絶對に避けたい。
二、軍裏面の歴史的な旧事実、例へば十月事件、三月事件等、相澤事件と直接關係の
   少なきものは、成るべく必要最小限度に言及することに依り、軍内に騒動を起さざる様に努めたい。
三、靑年將校の氣心も、軍中央部幕僚の立場も、克く心得て居るから、
   兩者の立場を無視して、正面衝突をせしむる如きことは避ける。
之を要するに、
相澤公判は一歩を誤れば軍を破壊に導く虞れ多きを以て、
私が起てば靑年將校も成程に信頼してくれるであらうし、
又、軍全體の爲を考へるから或は事なく公判を終了するかも知れない。
之に反して隊附靑年將校中より起てば、軍中央部の立場を理解せざるを以て、
感情的となる虞あり、其の結果は事件を巻き起すやも知れない。
寧ろ、私が起った方が靑年將校も穏便に濟むかと思ひます。」
との意味を具申しました処、
岡部幹事は、其の心持ちは自分も克く判ると申されました。
それから約一週間位經ってから、岡部幹事より口頭を以て御許しを受けました。
其間に幹事は參謀本部、陸軍省と交渉せられたものと思ひます。
以上のような經緯で引受けたのであります。

私が相澤中佐の特別辯護人を引受けましてから、
赤鹿中佐、牛島中佐より、
公判に関して龜川哲也より手續他法理的のことの援助を受ける様にとのことでありました。
龜川哲也は荒木大將閣下を顧問とする農道會の主任であり、
法律、經濟方面に詳しき人物で、會計檢査院に長く居た人であり、
荒木大將の陸相當時、私が陸軍省調査班に居た頃、
農村問題にて意見の交換をしたることがありまして、
同氏と公判手續其他に付いて互に一、二度往來しましたが、
私としましては龜川氏に公判の全部の指導を受ける意思はありませんでしたので、
五 ・一五事件の辯護人であつた菅原祐は日本精神の主張者であり、
平泉博士と親交り、此の人に法律上其他、辯護士に關する指導を受くることゝしました。
爾來相澤中佐に面會し、
手續及辯護に關する材料の蒐集其他公判の研究に入り、
其頃より村中、磯部とも面會し、
尚 公判開始前、陸大岡部少將に、陸相以下幕僚に私の意見を申上げ、
軍の実情を収拾せらるゝ必要あることを進言し、
其の結果、公判開始前四日程前に開かるゝ処、行違ひにて不能となり、
公判開始前日陸軍省にて大臣、次官、參謀次長、軍務局長、調査部長、軍事課長に對し、
軍の実情容易ならざるものあることを申述べ、実情と相俟って公判を進めざれば危険なり、
故に参議官会議を本日即刻開き、私の意見を聞かるる必要あるを申上げたるも、
遂に容れられることなく公判開始となつたのであります。

次に
私と靑年將校との關係に就て申上げます。
私が久留米歩兵第48聯隊大隊長より陸軍省調査班に轉出せる頃、
調査班に私を訪ねて昭和維新を慫慂せる將校に天野大尉(當時士官學校)、
常岡大尉 ( 広嶋電信隊陸地測量部修技生 ) あり、
當時磯部主計も亦來訪したることがあります。
當時調査部長東条少將は私に將校の動靜に注意して居る様に申されたこともありますので、
私は時々天野大尉、常岡大尉の自宅及磯部主計の下宿を訪ねて其の動靜に注意すると共に、
其の行動を誤らしめざる如く着意し、
村中大尉、栗原中尉とも、磯部主計の下宿で、一、二度會ったこともありました。

當時天野大尉、常岡大尉は十月事件組にて、
其の主張は理論よりも實行主義にして稍矯激の嫌ありしが、
磯部、村中等は十月事件當時の自重派にして、
其の主張は堅實に軍首脳部を信頼して上下一致維新に向ふことを目標とし、
逐次斯かる空氣の擴大を希望しありたるが如く見受けられ、
當時の陸相荒木大將に對し、常岡大尉、天野大尉等は
「 荒木爲す無し 」 との感を抱き、
東條少將、池田純久中佐、田中清少佐、片倉少佐の軍中央幕僚亦
反荒木的氣勢を示しありしが、
磯部、村中等は
國體信念を有し且つ維新氣分を有する時の長官たる荒木陸相に信頼して
上下結束して進むことを希望しありしが如く、
又、私の信念は軍の組織の本質に鑑み、
時の大臣を排撃し、実力行動を慫慂するが如き 天野、常岡両大尉等の思想には同意する能はず、
又、當時陸相を更迭せんと企圖せる如き軍中央幕僚の政治的態度にも同意し難く、
時の長官に信頼し、
全軍上下結束して進まんとする磯部、村中等の主張に比較的多く眞理の存するを認め、
此の点に關しては共鳴しましたが、
何れの色彩の靑年將校に對しても、實力行動を是認し又慫慂したことは無く、
常に之を否認し自重を促すの態度を持し、
天野、常岡等の思想に對しては特に反對の意圖を主張し、
當時著しく半荒木的なりし軍幕僚竝に天野、常岡等十月事件組の靑年將校は、
私の態度をみて荒木派なりと誤認し、露骨に反對を表明し、
當時無根の事實を怪文書として私を攻撃せるものすら出でたることがありました。

私が陸軍大學に轉任するに及び、是等靑年將校との面接の機なかりしが、
所謂十一月事件の發生を見て靑年將校等憤激し、肅軍パンフレットの筆禍に依り、
村中大尉等突然免官となるに及び、
村中退校に關する大學幹事の注意に見ても、
軍中央部の處置は必ずしも公正ならざるを感じ、も村中に同情し、
一度村中大尉を其の自宅に訪ね、慰撫して自重を促したることがありました。
續いて永田事件の公判迫るに及び、前述の如く相澤中佐の特別辯護人を受諾後、
村中は自宅に二回位、又、辯護人控室に來訪し、辯護に關し希望を述べ、
或は私より材料の蒐集を託したこともありました。

尚、手續等を中心とし
村中、磯部、栗原、香田、其他二、三名の將校及相澤中佐の同期生等の希望に依り、
昨年末一夕新宿本郷バーに集りて座談せることありしも、
實力行動等の話は全然ありませんでした。

永田事件の公判は、其の原因動機の性質上及び軍全體の實情のわだかまり上、
之が取扱に注意を要するのみならず、
軍首脳部に於ても軍の實情収拾に關し大いに注意を要するものもあるを認め、
公判開始前日、陸相、參謀次長、陸軍次官、軍務局長等に引見せられ、
忌憚なき意見を述べたるも、遂に容れられるに至らず。

公判中、村中は一、二回自宅及辯護人控室に來りたることあるも、私は其都度、
合法的に公判を成功せしむる確信あるを以て自分を信頼し、斷じて情況を悲観し、
思ひ詰むる等のことなき様と自重を促したるが、
當時、村中等には特に不穏の計畫等を爲しつつあるが如き態度は認めませんでした。

公判は漸次順調に進み、好結果を示し居り、又、中間に於て公開禁止續きたる爲、
公判の中頃以來は暫らく村中の來訪なく、
又、兵力迄も使用して實力行動に出ずるが如きことあるべしと全く考へず、
油斷し居るたるが、二月二十六日突如本事件を見るに至り、私の主義に反し、
辯護人として出たる甲斐なく、誠に遺憾に堪へざる処であります。

本事件突發前日二十五日に證人申請しましたことは、
私は次回に申請する希望でありましたが、裁判長より是非今日との事で、急遽鵜澤辯護人
と相談の上證人を申請し、其の理由を述べたのであります。

對馬中尉とは、同中尉が陸大受験に來りし際、私を訪問したるが、
其時試験に關することに就ては、應接することは出來ざる旨告げたるも、
敬意を表したしとのことにて面會したる外、特殊の關係はありません。

澁川善助とは、私が九州に在りし頃、九州の愛國運動者たる靑年と澁川とが同志的交友ある
關係上、二、三年前私宅を訪れたること二、三回あり、
公判開始後は相澤中佐の家族傍聽券にて數回傍聽し、
又、辯護の資料たるパンフレット等の蒐集を依頼する等、三、四回面會したることもあるも、
澁川は佛教家の如く、甚しく慈悲心ある靑年と観察して居りまして、
今事件の如き實力行動に出づるが如きことありとは全然見受けませんでした。


永田伏誅ノ眞相

2018年05月20日 12時28分03秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )




陸海靑年將校ニ檄ス
永田事件來頻々ヒンヒントシテ吾人ノ耳朶 ジダ  ヲ撃ツモノハ
「 遁ゲ出シタ人ガアツタソウデスネ 」
「 憲兵隊長ハ腰ヲ抜カシタトイフデハナイカ 」
「 軍人モ近頃ハ 餘リ町人ト違ハナイ 」
等々ノ不快なる嘲笑ナリ
「 永田潜伏誅の眞相 」
ナル一文ヲ接手シテ軍人腰抜論擡頭タイトウノ由來ヲ知リ 痛嘆慷慨禁ズル能ハズ 
偶々
千葉市内〇〇〇ニ相會セル有志十七名徹宵悲憤通論
自戒自奮ヲ誓ヒタリト雖モ 皇國皇軍の爲メ 尚意ヲ安ンズル能ハズ
僭越ヲ顧ミズ
敢テ陸海全軍靑年將校諸覧ニ檄シテ憂憤ヲ漏シ奮起ヲ翼望ス

一、永田伏誅ノ眞相 ( 全文  八月十九日入手 )
時は昭和十年八月十二日午前九時稍々過ぎ
動□を帯び 軍刀を佩いて陸軍省に現われた相澤三郎中佐は
先ず調査部長、山下少將と整備局長、山岡中將の許に行き慇懃に臺灣赴任の挨拶を述べた。
整備局長室を離する時、居合せた給仕に永田局長の在室を問ふた處
給仕は小走して直ぐ歸つて來て
『 居られます 』 を復命する、
中佐は莞爾として悠々迫らぬ歩調を以て軍務局長室に向った。
( 以下左爛に就いて劍光一閃永田天誅の顚末を説明する。)

説明
( 1 )
整備局長室から軍務局長へと向った相澤中佐はこの附近で抜刀して局長室へと侵入した。
一説には局長室へ入った後、左手の帽子掛に軍帽を掛けてから抜刀したとも云ふ。
( 2 )
相澤中佐は室内に這ると三名を壓倒する精悍せいかんな勢を以て永田に迫り、
椅子から立ち上がった永田の兩肩を見事袈裟懸に斬った。
( 3 )
永田、痛手によろめきながら遁のがれて此處に來る。
隣室に逃れようとしてハンドルに手を掛けたけれども扉は開かない。
相澤中佐は永田に追及して左手を軍刀の刀背に掛け銃槍か短槍を持った時の身構えで
永田の背後から心臓部目がけて拳も通れと突き刺す、
此の時相澤中佐は左手に輕傷を受けた。
( 4 )
永田は隣室に逃れられぬと思ってか反轉し泳ぐが如く逃れて、この位置まで來たが、
丸机の下へ、ヘバリ込んで即死した。
( 5 )
憲兵隊長新見大佐は左上膊に相澤中佐の一撃を受けてこの附近に倒れる。
新見は相澤中佐に抱きついたといっているが相澤中佐はこれを否定している。
相澤中佐は亦、在室の他の二名に危害を与えることのないように努めた由である。
兵務課長山田大佐は凶變に狼狽し、周章として此處を逃げた。
山田は最初から軍事課長室にいたといっているが、橋本大佐はこれを否認し、
凶變直後に入って來たと明言しているし、相澤中佐も又當時永田の前に二名の將校がいたと陳述している。
又 山田大佐は凶變の現場に居合わせ乍ら其場を逃れたと云ふ自責の念から
自殺の懼れりと云ふので警戒されている。
( 6 )
橋本大佐と徴募課長とが局長室でゴトゴトと 音のしたのを不審に思ひ
局長室の扉を開き見ると扉から床にかけて、一面眞紅な鮮血が悽□面を打つのみで
室内は森閑として靜まり反つている、
兩大佐が室内に入って見ると無惨永田は半身を机の下にして、
數ヶ所の傷に横になつて斃れて居り、又室の一隅に新見憲兵隊長が尻餅をついて口をフッフッして
何事かを云わんとしているのを□見した。
( 7 )
永田の受創は次の通りである。
一、
兩肩に各一カ所、深さ各々頸動脈に達するもの
二、
心臓部に刺創
三、
左腕に斬創、腕が殆んど切り離れる程度のもの
右は軍医學校から最初に馳せつけた細田軍医長が、實に見事な切口であったと感嘆し乍ら語っている。

以上の様な阿修羅の如き奮闘は一瞬の間に終ったのである。
相澤中佐は刀を型の如く納めて悠々と室を出て、更に一、二の先輩に轉任の挨拶を述べ、
同期生某中佐と一會議室で快談した。
この前後、神色自若として少しも平常と異なるところがなかったと云ふ。
相澤中佐はその後医務室を探し求め看護婦に左手の繃帯をさせ、
「 とらんく 」 を片手に悠々と表門まで來た。
恐る恐る附いてき來る憲兵が
「 中佐殿あちらへ參りませう 」
というや、
「 ヂャア行かふ 」
と 輕く云ひ 自動車で憲兵隊に行ったのである。

天神劍を相澤中佐に輿へて斬奸の事をなさしむ。
然り、神意天業と□する以外に相澤中佐の行動を判斷する事は不可能な程
超非凡的なものである。

一、志風振起ヲ要ス
櫻田門外落花ノ晨あした、
井伊ハ 戞々カツカツ劍戟 ケンゲキ ノ中輿中ニ留リテ自若タリシニ非ズヤ
大久保甲東ハ刺客島田一郎ニ左腕ヲ斬リ落トサルルヤ
大喝一聲シテ島田ヲ僻易逡巡セシメ 
犬養首相ハ拳銃ヲ擬セル闖入者ヲ制止シテ對談セルニ非ズヤ
然ルニ何事ゾ
永田ノ醜状陋態 ロウタイ
 子女徒卒ニモ劣レルハ
然モ兇徒 
奉行ニ迫ルヤ輿力ハ遁走シ
目明シハ腰ヲ抜カス態ノ銀幕、
舞臺ノ悲喜劇其儘ナル山田、新見ノ醜ハ殆ンド聞クニ堪ヘザルモノアリ
嗚呼、昌平久シクシテ士風の頽廃 タイハイ 弛緩 チダン茲ニ至レルカ
而シテ何ンノ奇怪事ゾヤ
鯉口三寸ヲ寛ゲ得ザリシ懦夫ニ叙位叙勲ハ奏薦セラレ
或ハ自決退官ノ引責ヲ厚顔免カレントシテ 「 體力及バズ 」 ト辯明是レ努メ
又 「 事件當時在室セズ 」 トノ事實歪曲隠蔽ヘト百萬奔走シツツアリ
此ノ二重ノ皇軍威信ノ失墜事ヲ坐視放任シテ縦斷的、
横斷的聯繫ヲ禁ジ怪文書ヲ嚴重取締ル等ヲ以テ抜本塞源ノ肅軍ヲ庶幾シ得ルヤ

諸賢ヨ、
吾人ハ利己主義ノ權化ナル者 瓢箪式中央部幕僚ト
其ノ二、三ニ操縦駆使セラルル張子將軍トニヨツテ 軍ノ統一、士氣ノ振作ヲ期待シ得ベカラズ
相澤沢中佐ノ神的一擧ハ正ニ是レ昭和武士道ノ開顯ナリ
吾人靑年將校ハ宜シク此ノ風ヲ學ビ
昭和ノ薩摩土肥的下級靑年武士トシテ旗本八萬騎ノ浮薄軽佻ヲ猛撃一蹴シ、
武士道精神ノ高揚ニ努力スルヲ要ス

一、巷説妄信乎非  維新ノ烽火也
陸軍當局ハ曩 サキニ盲旅行ト称シテ水郷潮來ニ新聞記者團ヲ伴ヒテ
―--當時新聞班ハ 記者一人當リ五百圓準備携行シ
ナカ 四百圓ハ金一封トシテ贈与セリト云フ--―
眞崎、荒木等ノ純正將軍ニ統制攪乱者ノ惡名ヲ以テ筆誅ヲ加ヘシムルニ成功シ
今ヤ往年草刈海軍少佐ヲ狂死トシテ葬リ去リタル故 
智ニ學ンダ相澤中佐ヲ巷説妄信ノ徒トシテ抹殺セントシツツアリ
當局―--恐クハ數名乃至十數名ノ幕僚群----ノ迷妄救フベカラザルハ モトヨリ多言ヲ要セザルベシ
相澤中佐ノ超凡的行動ニ驚駭シテ狂ト呼ビ愚ト目スル者ハ
中佐ガ劍禅一如ノ修練ヲ其ノ純一無雑ノ天性ニ加ヘテ神人一體ノ高キ精神界ニ在ルヲ
理解シ能ハザル自己ノ蒙昧愚劣ニ自ラ恥ズベシ
相澤中佐ノ一擧ハ實ニ天命ヲ體シ神意ニ即シテ昭和維新ノ烽火ヲ擧ゲシモノ
是レヲ部内派閥逃走ノ刃傷的結末ト見ルハ無明痴鈍、
宛モ現下部内ノ諸動向ヲ以テ往年軍閥時代ノ藩閥的相克視スルト同一轍ノ愚ナリ


今ヤ維新變革ノ前夜トシ 國家ノ上下ハ維新カ非維新カニヨツテ明カニ二分セラレタリ
此ノ二潮流ノ最尖端ニ立ツテ接戰火ヲ吐クモノ 實ニ陸軍部内ノ維新派ト非維新派トノ對立ナリトス
斯クテ七月十五日 突如重臣ブロック、軍閥者流、新官僚群ヲ背景トシ
其ノ先棒タル林、永田の徒は統帥權干犯、違勅敢行ノ逆謀、七、一五反動クーデターを敢行セリ
天此ノ不義を寛過セズ 
相澤中佐ニ籍スニ神劍ヲ以テシ 雷閃一撃、永田ヲ兇死セシメシモノ
部内ノ私闘ニ非ズ 維新ノ故ニナリ

維新ノ烽火挙ル!
諸賢ヨ、斯ク正視諦観シテ謬
アヤマル勿レ

天皇機關説的思想、行蔵ヲ以テ  皇威ヲ凌犯シ萬民ヲ殘賤スルコト茲ニ年アリ
國運民命將ニ窮マラントシテ神劍一閃維新ノ烽火擧ル
永田ノ頸血ケイケツヲ祭庭ニ灑ソソイデデ天神地祗ノ降靈照覧ノ下 皇民蹶起ノ秋ハ到ル
烽火一炬  嗚呼待望ノ機ハ來レリ
慎ミテ憂國慨世ノ義魂ニ訴ヘ、奮起を望ムモノナリ

昭和十年八月二十一日暁天ヲ拜シテ黙禱
在千葉陸軍靑年將校有志
在館山海軍靑年將校有志

« 栗原安秀中尉の筆  »
昭和十年 相澤事件直後、
西田税、村中孝次、磯部浅一 等による所謂怪文書のひとつ

恐らくこの内容の出所は森木憲兵少佐であろうと思われる。
何故なら、この事件の検証は同憲兵によって行われているからである。 


昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 1

2018年05月18日 10時33分38秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


相澤は中央部廊下を通り 迷わずに軍務局長室の前に出た。
前に尋ねたからその勝手が分かっていたのである。
八月十二日、猛暑のことである。
局長室の入口のドアは開けられ、入口近くに簀
衝立が立てられてあった。
内容は透かして見える。
相澤は入口近くにもってきたトランクを置き、商工マントもいっしょに置いた。
マントは凶行後、返り血をあびた軍服をかくす用意のためである。
彼は衝立の向こうに永田の姿が見えたので、
軍刀を抜き、無言のまま つかつかと衝立の右側から入った。

局長室の永田は二人の将校と話しをしていた。
一人が新見英夫東京憲兵隊長で、一人が山田長三郎へ兵務課長であった。
新見は折から 村中、磯部の 「 粛軍に関する意見書 」 の 印刷物を永田に見せて報告中だった。
正面に坐って二人と話をしていた永田は、入口から軍刀を抜いて入ってきた相沢を見ると、
椅子からすっくと起ち上がった。
永田は難を避けるように二人の将校のほうへ寄った。
ところがその相澤に気付かなかったのかどうか、山田兵務課長はさっさと その部屋を出て行ってしまった。
つまり、相澤が抜刀した闖入したのと入れ違いに退室したのである。
当然にあとで大問題となった。
山田は上官の危機を見捨て卑怯にも逃げたと非難された。
のち山田は自刃する。

軍刀を振るって永田に逼った相澤は椅子を跨いだのか、あるいは飛び越えたのか自分ではおぼえていないが、
その一撃を永田の右肩に加えた。
手ごたえがない。
切尖は軍服と皮膚の表面を浅く裂いたにすぎなかった。
横の新見憲兵隊長がこの危急を見て左側から相澤に抱きつこうとした。
新見大佐は小柄で非力である。
彼は相澤に体当たりし、咄嗟に左手を上げて無意識のうちに永田を庇ったために相澤の刃を受け、
左上膊に骨膜に達する深傷を負った。
新見は倒れ、意識を失った。
その間に永田は隣室の軍事課長室に逃げるつもりでドアのところまで来た。
ぴったりと閉まったドアを開けるには少しひまがかかる。
永田がその把手を握り、身体を扉にあてたとき、相澤は背後に近づいた。
相澤はドアにピッタリ身体をつけた永田を上から斬り下すことが出来ないので、
刀に左手を添えて背中から突き刺した。
これが永田の致命傷となった。
相澤も左手の指四本の根もとに骨まで達する傷を負うた。
剣道四段の相澤も夢中だったのだ。
永田はその場に倒れたが、なおも気丈に起ち上がった。
彼はよろよろしながら応接用のテーブル付近まで匍ったが、そこで力尽きて仰向けに倒れた。
相澤は切尖を倒れた永田の右こめかみのところに加え、
それから、武士の作法通り、とどめの一刀を咽喉に突き刺した。
この間、一分とはかかっていない。
相澤も声を発せず、永田も沈黙のままだった。
一瞬の無言劇で、両人の激しい息づかいが聞こえるようである。
武士の切傷場面を想わせる。

このとき隣で 「 押さえよ、押さえよ 」 と 同様する声が聞こえた。
廊下では 「 相澤、相澤 」 と 叫ぶ声が聞こえたが、それは山田兵務課長のものらしかったので、
相澤は山田大佐はまだそこにいるのかと感じた。
しかし、永田にとどめを刺した相澤は刀を鞘に収め、左手の傷口を自分のハンカチで縛ったのち、
廊下に出てマントを着たときは誰もいなかった。
彼は右手にトランクを提げ、兇行のときにとばした自分の帽子にも気づかず、
悠々と山岡整備局長の部屋に行った。

松本清張 著
昭和史発掘 7 から


昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2

2018年05月17日 11時10分48秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

決行の朝、剣道の達人は簡単なメモを、
宿泊先であった千駄ヶ谷の西田税宅で認めている。
後に軍事法廷で証拠品として採用された 「 証第四号 」。
メモは永田鉄山 大逆賊 と罵り、これから三時間後に虚構されるであろう行為を正当化している。
『 元より皇軍将校の全員其責にあり。
然りと雖も、永田少将の過去数年間に現はれ遺したる足跡と、
現在軍の要職にありて行ひ来って皇軍を幕府の軍隊に堕せしめつつあるは正に大逆賊たるものなり。
天命何をか躊躇すべきものぞ  臣三郎 』
このメモを当人は朝五時か六時頃、蚊帳の中で書いたと述べる。
その際、青いインクがシーツにこぼれた。
相澤が出かけた後、インク痕を見つけた西田は相沢の行動を訝いぶかるのだ。
剣の達人は決行に先立って、他に遺書を認めたり、もったいぶった和歌を詠んではいない。
ただしひとつだけ、行動の人が特に準備したものがある。
いわば特注品だ。
このことに従来なぜかだれも言及していないのだが・・・・。

相澤は上京に先立ち大阪で第四師団長、東久邇宮と台湾赴任の挨拶を交わす。
他にもさる人物と会い、決行の意志を伝えたと見られる。
これは重要なことゆえ、後にしよう。
さらに宇治山田に一泊した後、省線で原宿に出た。
台風が日本海に抜けた影響で、強風吹きすさぶ明治神宮にひとり参拝、
ここでも成就を祈願するのだった。
・・・・もし私の考へが誤りでなければ、神明のご加護によって天誅を成功させていただき度い。
明治神宮に立ち寄ったには訳がある。
相澤は参殿後、宝物殿の傍らの松の巨木の前にしばし佇むのだ。
実はこの樹齢二〇〇年にもなる笠松こそ、
亡き父がはるばる仙台から運び献上したものだった。
対象七年神宮造営の際だ。
いまや高さ十五メートルを越える堂々たる枝ぶりで辺りを睥睨へいげいする。
暗雲が激しく流れ、枝々が唸りを上げていた。
ときおり雲間から満月が皓々と巨木を照らし出すのだった。
相澤は無言で手を合わせ、明日の挙行が成功することを祈る。
巨木は言霊が宿るかのように相澤になにかを語りかけていた筈だ。

この夜、相澤は代々木山谷町の西田宅に宿をとる。
明治神宮からすぐの地にあった。
ここで偶然にも戸山学校体操教官、大蔵栄一大尉 ( 31 ) と居合わせたのだ。
その場で相澤はかねてから大蔵宅に預けてあったあるものを翌朝、
大蔵夫人に届けさせるよう特別に依頼する。
大蔵宅から西田宅までは歩いてすぐの距離だった。
それは 靴・・・・。
その夜のやりとりを大蔵大尉はこう証言する。
『 相澤中佐は玄関まで私を送ってきた。
「 あなたのうちに、深ゴムの靴が一足あずけてありましたね。
あしたの朝早く奥さんに持ってきて頂くよう、頼んで下さい 」
「 そんな靴があったんですか 」
私は知らなかった。
たぶん去年の春、中耳炎をわずらったころのことであろうと思った。
「 奥さんが知っています 」
「 承知しました 」
と、うなづいて下を見ると、新しい茶色の編み上げの靴が一足そろえてあった。
「 いい靴があるじゃありませんか 」
「 いや、あの深ゴムの方が足にピッタリ合って、しまりがいいんですよ 」
と いいながら相澤は、銃剣術の直突 ( 着剣した銃を掲げ、相手の心臓部めがけて突き出す ) の姿勢をとった 』

深ゴム靴 の丈は踝くるぶしの少し上どまり。
左右側面にコ゜ムが縫い込んであり、しまりがいい と相澤が謂うにピッタリと足にフィットする。
長靴のように足と靴の間に隙間を生じない。
いわば地下足袋効果があった。
英国ではチェルシー・ブーツと呼ばれる。
深ゴム靴を預けてあったことが計画的か、それとも偶発なのか。
それは、だれも判らない・・・・。

就寝前に相さは、蚊帳が吊られた客間寝室で布団の上にあぐらをかき、
鞘から抜いて日本刀を持ち上げ、刃先をジーッと凝視する。
犯行に使われたものは相澤家に伝わる名刀。
江戸寛文年間の刀匠、河内守藤原國次の銘が入る。
陸士卒業記念に父から贈られたものだ。
観賞用ではなく武芸用として広く愛好され、
江戸時代の死刑執行人、山田浅右衛門、通称 首切り浅右衛門 が 切れ味が良いと誉めたと伝えられる。
二階の寝室に上がろうと客間の前を通りかかった西田が声を掛けると、
剣の達人は慌てたように作り笑いを浮かべて、電気を消す。
「 お休みなさい ・・・・」

チェルシー・ブーツを履いた相澤三郎陸軍歩兵中佐・・・・。
翌朝、軍務局長室に闖入するのは推定九時三五分頃。
軍法会議の判決文には四五分とあるが、
前後の時間の推移を見る限り、事実は一〇分ほど早い時刻であったろう。
入口は夏のことゆえ開け放たれていた。
ちいさな観音開きの簾の戸を押せば、奥に開けた長方形の局長室に難なく入れる。
だが突き当り事務机に座る局長の姿は入口からは朧げにしか見えない。
目隠しに衝立が二面置かれていたからだ。
奥に板張りの一面と手前に布張り。
ただし奥の左手、剣帽掛けには軍刀と軍帽が掛けられていた。
部屋の主が在室であることは一目で見て取れた筈だ。
背中に吊っていた軍刀を静かに鞘から抜き、深呼吸する。
左手南窓からの光線が角部屋全体を明るく照らし出している。
意を決すると応接用丸テーブルを左に見ながら奥へジワリジワリと進んだ。
厚いジュータンと深ゴム靴が音を消す。
二つの衝立をやりすごせば、もう二メートル先には局長机がある。
西側にある奥の窓から光線が差し込み、
シルエット姿の新見がこちらに背中を丸めてなにやら永田に説明していた。
速度を速めサーッと右側から襲いかかる。
永田が人の気配を感じて面を挙げたとき、
既に眼前は大上段に振りかぶった相澤の修羅と化した相貌があった筈だ。
眼が吊り上がり、大きな口が半開きになった面。
永田はすかさず回転椅子から腰を浮かし、身体を瞬時に横へとずらす。
相澤はそうはさせじと背後から第一刀を浴びせた。
だが間に椅子が挟まり、背中に軽傷を与えたにとどまる。
机を回り込み 難を逃れようとする中肉中背の将軍、追う長身瘦軀の刺客。
とっさに小柄に新見が後ろから相澤の腰にしがみつき、必死にブロックを図る。
「 ウワッ 」 と 力任せに振り払った相澤は、威嚇の一太刀を新見に浴びせた。
瞬時に左腕上部から鮮血が飛び散る。
激しい相澤の動きに軍帽がスッ飛び、ジュータンにコロコロと音もなく転がった。
その間に永田は隣の軍事課長室に逃れようと、大きなドアに辿り着く。
ドアのノブに手を掛けた。
希望を込めてノブを回す。
だが開かなかった。
なんども試みたが冷酷にも開かなかった。
これが運命を決める。
相澤が瞬時に追い付く。
深ゴム靴の威力だ。
直ちに二刀目を浴びせる。
今度は刀の柄を右手で握り、左手では刃を握り、一気に永田の背中に突き立てた。
「 ウワッ 」 と 満身の力が込められたことだろう。
『 人を斬るには刀を両手に握って突くのが一番確実だ 』 ・・こう 日頃から語っていた。
こうして無残にも刀は永田の背中から肺を突き抜け、ドアの扉まで刺さり込む。
相澤は矛先が狂わぬように左手をしっかり刀に添えていた。
だが刀を引き抜く際、左に抉えぐったため、無我夢中であったのか、
自らの左手四本の指をも深々と切ってしまう。
引き抜くや否や鮮血が永田の背中からドッと噴出する。
まるで時代劇映画の殺陣を見るようなシーンだ。
多量の出血で一瞬ドアにへばりついた永田は、ドアが開かないことを悟ると、
踵きびすを返し、今度は入口をめざして逃れようとする。
既に足はもつれ、空手空拳くうしゅくうけん。
衝立を越えて南窓方向へと進む。
この獲物の行末を相澤は、下段の構えでジッと見定めた。
左手指からは血が滴り落ちている。
哀れにも永田は数歩で遂に力尽き、ドッと頭から転倒する。
はずみで応接用テーブルの椅子が転がり飛び、音を立てた。
そこへ相澤は猟犬のようにスーッと近寄る。
なおも生への動物的な執念を燃やし、ジュータンを這おうとあがく永田。
その身体を足で仰向けに引っくり返すと 頭部に三頭目を浴びせるのだった。
相澤がどこを狙ったのかは判然としない。
恐らくは古来の武士の作法に則って喉にとどめを刺そうとしたのだろう。
両手で柄を握り、突き刺す。
だが左手に深手を負ったためか、手元が狂い刃先は永田の左こめかみにグサリと食い込んだ。
頭部がザックリと割れる。
《 因よりて 永田少将の背部 ( 第一刀と第二刀で計二ヶ所 ) に 長さ九.五センチ、深さ一センチ
及び長さ七.
六センチ、深さ一三センチ、左顳顬しょうじゅ部 ( 第三刀でこみかみ ) に 長さ一五.五センチ、
深さ四.五センチの創傷外数創を被らしめ・・・》・・「検察官控訴状 」、菅原裕 「相澤中佐事件の真相 」
ちなみに憲兵隊が撮影した検証写真のうち遺体頭部のクローズアップは見る者の目をそむけさせるに充分で、
さすがに今日まで公表されていない。
犯行が執拗で、相澤は変質的な性格ではないかと云う声も聞こえる。
だが 半年後の二・二六事件以降、相澤公判の弁護人を務めた菅原裕は云う。
『 中佐が神に誠を捧げて国軍の反省 維新を齎もたらそうとしたのは 時に光を放った正気の発動であり、
断じて 精神病者の変態症状などではなかった 』 ・・菅原裕 「相澤中佐事件の真相 」

鬼頭春樹著 実録相澤事件から


軍務局長室 (1) 相澤三郎中佐 「 逆賊永田に天誅を加へて来ました 」

2018年05月16日 09時41分37秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

訊問調書
西田方ヲ出テカラノ行動

午前九時頃 西田方ヲ出テ十分位歩イテ改正道路ヲ出テ、
円タクニ乗ツテ同九時二十分カ二十五分頃 陸軍省裏門ニ着キ、
同門カラ入ツテ山岡整備局長ニ轉任ノ挨拶ヲ致シマシタ。
山岡閣下ハ私ガ士官學校在勤當時ノ生徒隊長デ御世話ニナツタ人デ、
私ハ非常ニ尊敬シテ居タ人デアリマスカラ訪ネテ行ツタノデアリマス。
ソシテ最初轉任ノ挨拶ヲ致シマシタ処、腰ヲ下ロセト云ハレタノデ腰ヲ下ロシテカラ私ハ、
閣下ハ非常ニオ若ク見エマスネエト云フト山岡閣下ハ、惡イ事ヲシナイ者ハ此ノ様ニ若イノデアル
ト 云ハレマシタ。
其ノ様ナ雑談ヲシテカラ私ハ之カラ永田閣下ノ処ヘ御會ヒニ行クト云ヒマスト、
山岡閣下ハ何ノ用事デ行クカト云ハレタノデ私ハ、用事ノ内容ハ御話出來ヌト云ヒマシタ処、
何ノ用事デ永田ノ処ヘ行クカト何回モ聞カレマシタガ何モ申シマセンデシタ。
其ノ時 給仕ガオ茶ヲ持ツテ來タノデ、給仕ニ永田閣下ガ居ラレルカ見テ來イト云ヒマシタ。
スルト山岡閣下ハ私ニ  オ前ガ永田ノ処ヘ行クト云フ事ハ眞崎閣下ニ非常ニ迷惑ヲ掛ケル事ニナルカラ
ヨセト云ハレタ様ニ思ヒマス。
之ハ世間總テノ者ハ オ前ヲ眞崎閣下ガ操ツテ居ルカノ様ニ専ラ風評シテ居ルカラ、
オ前ガ永田ノ処ヘ行ツテ下手ナ事ヲ云フト
非常ニ眞崎閣下ニ御迷惑ヲ掛ケル事ニナルト云フ趣旨ノ事ヲ云ハレタノデアリマス。
其ノ時私ハ話ヲ反ラシテ、
閣下 重大ナ時機デアリマスカラ十分御國ノ爲ニ御盡シニナル様ニ御願ヒシマス
ト 云フト、山岡閣下ハ イーヤ俺ハヤラヌト云ハレタノデ、
私ハ一寸癪ニ障ツテ人ヲ馬鹿ニシテ居ルト感ジマシタノデ、
何故デスカト尋ネルト 山岡閣下ハ笑ツテ、オ前モ永田ノ処ニ行ク目的ハ云ハレヌト云ウデハナイカ、
ソンナ水臭イ男ニ御國ノ爲ニ盡シテ呉レト云ハレタトテ眞面目ニ返事ハ出來ナイト云ハレマシタノデ、
私ハ夫レデハ今カラ永田閣下ニ會ツテ歸ツテ來テカラ申シマスト云ウト、
夫レナラ行ツテ來イト云ハレマシタ。
山岡閣下ノ部屋ニハ十五分位居タト思ヒマス。

夫レカラ其ノ部屋ヲ出テ廊下ヲ曲ツテ中央廊下ニ出テ階段ヲ上リ 永田局長ノ部屋ニ行キマシタ。
其ノ際ノ服装ハ軍服軍帽短靴ニ手套ヲ篏メ 軍刀ヲ吊リ勲章一個ヲ佩用シ、
携行ノマント及トランクハ山岡閣下ノ部屋ノ前ニ置キ、軍刀ヲ抜イテ永田閣下ノ部屋に入りました処、
永田閣下ハ机ノ前ニ腰掛ケテ居ラレ、確カ其ノ机ノ前ニ二人ガ居テ相對シテ話ヲシテ居タト思ヒマス。
私ガ入ツテ行クト永田閣下ハ二人ノ客ノ処ヘ逃ゲテ三人ガ一緒ニナツタト思ヒマス。
其ノ時私ハ永田閣下ヲ目蒐ケテ一太刀ヲ浴セマスト、
永田閣下ハ軍事課長室ニ行ク扉ノ処ヘ行カレタノデ、私ハ逆ニ戻ツテ其ノ扉ノ処デ、
右手デ軍刀ノ柄ヲ握リ 左手デ刃ノ処ヲ握リ、永田閣下ノ背中ヲ突刺シマスト
永田閣下ハ應接卓子ノ方ヘ走ラレタノデ、

私ハ其ノ跡ヲ追ツテ行クト、永田閣下ハ應接卓子ノ傍ヘ倒レマシタノデ、
私ハ永田閣下ノ頭ヲ目蒐ケテ一太刀浴セマシタ。

私ハ其ノ部屋ニ入ツタ時、永田閣下ト相對シテ二人居ラレタ事ハ知ツテ居リマスガ、
其ノ後ハ其ノ二人ハドウシタカ知リマセヌ。

夫レカラ私ハ其ノ部屋ヲ出テ廊下ヲ眞直グニ行クト、
隣リ部屋ノ扉ヲ開ケテ大勢見テ居ツテ、取押エロトカ何トカ云ツテ騒イデ居リマシタ。
其ノ時 山田兵務課長ガ 相澤相澤 ト云ツテ居リマシタ。

私ハ廊下ヲ歩キツツ軍刀ヲ鞘ニ納メ 山岡閣下ノ部屋ニ入リマシタ。
私ガ永田閣下ノ部屋ニ入リ決行ノ上 其ノ部屋ヲ出ル迄ノ時間ハ二十秒位デアツタト思ヒマス。
山岡閣下ノ処ヘ行ツテ逆賊永田ニ天誅ヲ加ヘテ來マシタト云ツタ様ニ思ヒマス。
ソシテ今カラ永田ノ処ヘ行ツテ來タ目的ヲ申上ゲマスト云ツテ、
永田ハ此ノ様ナ逆賊デアルト云ハウトシマシタガ、山岡閣下ハ茫然トシテ御聞キニナラズ、
豫想外ダト云フ様ナ口吻ヲ洩サレマシタ。
其ノ時私ノ左手カラ血ガ流レテ居リマシタ。
山岡閣下ハ電話デ何カ云ハレタ様デアリマシタガ通ジナカッタ様ニ思ヒマス。
夫レカラ 山岡閣下ハ ハンカチヲ出シテ血止メノ爲ニ私ノ左手首ヲ縛ツテ下サツタ処ヘ、
雇員ガ書類ヲ持ツテ來タノデ山岡閣下ハ、手當ヲスル人ヲ呼ンデ來イト云ハレタ処ヘ、
某大尉ガ來タノデ山岡閣下ハ直グ手當ヲシテヤレト云ハレタノデ
同大尉ニ聯レラレテ医務課ニ行キマシタ処ガ、
同課ノ入口ノ方デ誰カ一人担架ニ乗ツテ行ツタ様ニ思ヒマシタノデ、
私ハ永田閣下ガ今カラ急イデ衛戍病院ニ入院サレルノダト思ツタノデ私ハ、
十分ヤツタト思ツタガ急所ガ外レタノダト思ヒマシタ。
私ハ決行ノ際 軍帽ヲ何処カヘ飛バシテ仕舞ツタノデ
附近ニ居ル者ニ帽子ヲ取ツテ來テ呉レト何回モ云ヒマシタガ誰モ取上ゲテ呉レナカッタノデ
癪ニ障ツテ居リマシタ。
其ノ内ニ憲兵ガ來テ サア行キマセウト云ツタノデ、
憲兵ニ随イテ階下ニ降リルト自動車ガ澤山在ツテ 中々乗セテ呉レズ、
裏門カラ自動車ニ乗リマシタ処、私服ノ憲兵ガ麹町分隊ニ行クカラト云ツタノデ、
私ハ 軍人ガ帽子ヲ冠ラズ何処ヘモ行ケナイカラ偕行社ニ寄ツテ帽子ヲ買ツテカラ行クト云フト、
憲兵ハ ソンナ事セヌデモヨイト云ツタノデ 其ノ儘 麹町憲兵分タイヘ行ツタノデアリマス。
・・・昭和十年八月十四日

現代史資料23
国家主義運動3  から

「 年寄りから、先ですよ 」 
永田伏誅ノ眞相 


軍務局長室 (2) 山田長三郎大佐 「 軍事課長が来ないので、円卓の傍を通って軍事課長室に入る 」

2018年05月15日 09時27分16秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聴取書
陸軍省軍務局 兵務課長
陸軍砲兵大佐  山田長三郎
本月十二日 永田軍務局長遭難当時の状況を申しますと、
同日午前九時二十分過頃、新見憲兵大佐が私の処に来て報告をするから軍事課長と共に聞いて貰ひたい
と 云ふことでありましたから、夫れでは局長にも一緒に聴いて貰った方が宜いと申しまして、
新見大佐を同道して軍務局長室に行きました。
そして局長室に入って直ぐ右側の扉を開いて軍事課長に対し
憲兵隊長が報告をするから一緒に聴いて呉れ
と 伝へて置いて新見大佐と共に局長の前に進み、局長と相対して、私は新見大佐の左に腰を掛けました。
新見大佐の右には尚一脚の空椅子がありました。
之に軍事課長を坐らせる筈で在ったのであります。
一、二分局長の前に居りましたが、軍事課長が来ないので私が迎へに行く為左の方に向って立上り
局長室の円卓の傍を通って廊下に近き方の軍事課長室との間の扉から同課長室に入りました処、
徴募課長が将に帰らんとする気配で私と顔を見合わせたので、
予ての知合でありますから 立ちながら一、二分間位話して居りました。
当時私の入って来た扉は閉めてありました。
又 私が軍事課長を迎へて来たのにも拘らず、徴募課長と話して居ったのは
局長の処には他に事務官や課員等が沢山判を貰ひに来るので、
私の不在中も誰かが判を貰ひに来て居ると思ったからであります。
夫れは私が軍事課長を迎へに行く為 左の方に向って立上った際、
私の後ろを誰か通った気配を感じたので、多分事務官か課員が判を貰ひに来たものと感じ気にも止めず、
左の方に向ひ 立上ったのであります。
そして其後ろを通った者は誰で在ったか姿は見えませんでした。
其後になって見ますと、当時私の後ろを通った気配の感じたのは 犯人が私の後ろを通ったものと思ひます。

私が前述の如く徴募課長と一、二分間位も話して居ると、
局長室で何か只ならぬ物音がして、何か事変が在った様な予感がしたので
急いで前の扉を開き 局長室に入りますと、
局長は円卓の東南に頭部を北にし脚を南にして 血に染まって倒れて居りました。
夫れから私は大声で人を呼んだ様に思ひます。
直に課員や属官等が駈付けたので、医師を呼び 又 犯人を逮捕する様に申しました。
一、二分間 局長室に居りましたが 課員の平野豊次少佐を呼寄せる必要があると思ふて自室に帰り、
憲兵司令部に電話を掛けて 平野少佐を呼び、直ぐ来いと申しました。
夫れから再び局長室に行って暫く居りましたが、
誰かが帽子を拾ふて其裏面に書いてある名前で犯人は相沢と云ふ者であると云ふことを知りました。
夫れから自室に帰りますと間もなく平野少佐が来ましたので犯人逮捕の手配を命じたのであります。

私が兇変を知って局長室に行った時、軍事課長も他の入口から局長室に入ったと思ひますが、
如何にして居ったか能く覚えて居りませぬが、多分人を呼んだと思ひます。
徴募課長も私に続いて局長室に入ったと思ひます。
どうして居ったか能く記憶ありませぬ。
課員や属官が駈付けて来てから軍事課長も私と同様 色々指図をして居りました。
・・・昭和十年八月十四日

証人訊問調書
八月十二日 午前に東京憲兵隊長 新見大佐が証人を訪ねた事は事実か。

事実であります。
当時私は陸軍省兵務課長を勤めて居りましたが、同日午前九時二十分頃かと思ひますが、
新見大佐が私の室へ来まして、
同官の所管事項に付 軍事課長と私とに報告を聞いて呉れと 云って来ました。

新見大佐の来意を聞いて証人は如何なる処置をしたか。
私は新見大佐の来た用件を聞いて、
夫れならば永田軍務局長にも一緒に聞いて貰はうじゃないかと 云ひ
同大佐も之を承知して呉れ 共に私の室を出ました。

証人の室を出て軍務局長室に至る迄の経過如何。
私は新見大佐と共に自分の室を出て直に軍務局長室に入り、
局長に話す前に局長室より隣の軍事課長室に通ずる二つのドアーの内、
北のドアーを開けて軍事課長室に対し
憲兵隊長が報告に来られたから局長室に来て一緒に聞いて呉れ
と 云ひ置いて局長室の中央位に置いて在る衝立の辺で局長室に対し、
憲兵隊長が報告に参りました と 申しました。
新見大佐は私が軍事課長室に話した際、同課長に対して何か一寸挨拶した様に思ひますが
其点 確かな事は記憶しませぬが、兎に角 私が衝立の処で前述の如く局長に云った時に
新見大佐は私の傍に居たと思ひます。

局長室の衝立の位置如何。
同室の中央に一間位の衝立二箇が一列に西から東に向けて並べてありましたが、
ニ箇の衝立の内一つはぼんやり透視の出来る青い薄布張のもので、二箇の衝立の内東寄りに立ててありました。

局長室に於て如何なる位置で三人が対談せんとしたか。
私は前述の如く 局長に云って後、
同室東北の円卓の処で報告を聞きませうか
と 云ひますと、局長は
いや 此方で
と 自分の事務机を指されたので 同机の処へ行き、
局長は自己の廻転椅子に腰掛け 少し東寄りに居られた様に思ひます。
局長に面して私が一番左の机の東端に腰掛け、私の右隣りに新見大佐が腰掛け、
其の隣の空椅子に軍事課長に腰掛けて貰ふ考えでありました。

夫れから如何したか。
腰掛けてから主として局長と新見大佐との間に 二、三雑談がありましたが話の内容はよく記憶しませぬが、
怪文書に付ての話の様でありました。
夫れから新見大佐は一寸腰掛を離れて同室から軍事課長室に通ずる南のドアーの北側に在る金庫の処へ行き、
直ぐ戻って席に就き 携行して来た風呂敷包を開いて報告の準備をしました。

其後の証人の言動は如何。
新見大佐が風呂敷包を解いて報告準備を致しまするのに 尚 軍事課長は参りませぬので、
私は
同課長を呼んで来ませう
と 云って 腰掛から立上り、左を向いて衝立を曲り 軍事課長室に通ずる北口のドアーの方へ行き
ドアーを開けて 軍事課長室に入りますと、
同課長は自分の机の処で新徴募課長森田大佐と話をして居りました。
私は森田大佐と旧知の間柄で、同大佐が徴募課長になってからまだ挨拶をして居ない際でありましたので、
同課長の腰掛けて居る附近で互に挨拶を交しました。
そして尚一、二 何か話した様に思ひます。
左様な間に局長室に何か異変らしい音がしたので私は直に北のドアーを開けて局長室に入りますと
円卓の処に局長が倒れて居られるのを見ましたので、
犯人は何者かと室内を見廻しましたが最早誰も居りませぬでした。
証人が局長室から軍事課長室へ移る迄に一軍人が局長室に闖入したのを認めなかったのか。
私が腰掛から立って左へ向き 前述の如く軍事課長室へ行く前、
即ち 腰掛から立上る頃、私の背後を右へ誰か通って行く様な気配がしましたが、
局長室へは常に課員や事務官が参りますので、
当時私は夫れ等の者の誰かが局長に判を貰ふ為か何かで来たのだらうと直感して 何等気に止めずに
其方向を見ずに前述の如く軍事課長室の方へ行ったのであります。

其際軍事課長が来たものとは思はなかったか。
唯課員か事務官とのみ直感したのであります。

課員や事務官が局長室に入る時はドアーをノックするか 或は声を掛けて入室するのではないのか。
珍しい来客ならばノックするか又は声を掛けますが、課員や事務官は無断で入室する場合が多い様であります。

局長室から軍事課長室に通ずる南のドアーは平常使用しないのか。
平常使用しない訳ではありませぬが、私は多く北のドアーを使用して居りましたので
当日も北のドアーから軍事課長室に行ったのであります。

証人や新見大佐が局長室に入ったのは七時頃か
私の部屋へ新見大佐が来てから局長室へ行く迄は五分位経って居るかと思ひますが、
元来同大佐が私の室へ来た時の時間が確実ではありませぬから、
局長室へ行った時間が何時頃かと云ふ事は明かには申述べられませぬ。

証人等が局長室に入室後証人が同室を立って隣の課長室へ行く迄にはどの位時間があったか。
五分以内と思ひます。

相澤が予審に於て次の如く述べて居るが如何。
被告人が前述する処に依れば、軍務局長室に於て永田局長以外に二人の軍人を認めたとの事であるが、
室内の何れの地点から之を認めたるや。
私が局長室に入るや直ぐに、室の真中辺に立てて在った薄布張の衝立の布を通して、
局長と之に面して机の左方部に腰掛けて居る二人の軍人を認めました。

被告人の前述する処に依れば、永田局長が被告人の刃を遁れる為 他の二人の軍人の処に行って
三人一緒になった様に思ったとの事であるが、此点に付ての認識は誤りなきや。
確かに永田が二人の処に逃げて、机の左側で三人一緒になった様に記憶して居ります。

被告人が局長の机の右側に行った頃に、他の二人の軍人は尚元の席に居たと記憶して居るか。
居た様に思ひます。
更に前述の如く机の左側で局長と三人一緒になった様に思ひますが、
其の後二人の軍人は如何になったか覚へませぬ。
御読聞けの内、
最初の相澤が入室当時局長に面し二軍人が腰掛けて居るのを認めた
と 云ふのは事実かも知れませぬが、其他の机の右側で尚 二軍人を認めたと思ふと云ふ点、
局長と三人一緒になったと思ふと云ふ点は相澤の錯覚であると思ひます。

相澤が局長室に行った当時 局長以外二軍人の居るのを認め、
証人が軍事課長を呼びに行く為局長室を去ったとしても、其の途中に於て相沢と行き合ひさうなものと思ふが如何。
其点は前述しました如く、私が腰掛を立つ瞬間、誰かが背後を通った気配がすると思ったのが、
後から考へますと相澤であったのでありまして、
当時は斯様な変事が起きる事は夢にも思ひませぬでしたから、
当時は前述の如く課員か事務官が来たもの位に直感して 其の方向を見なかった様な次第であります。
夫れ故に或瞬時は相澤と同室に居たのに拘らず、顔を見ずして 即ち同人の入室を知らずして
私が課長室へ移った訳であります。

被告人相澤が予審に於て 永田局長を殺害後 同室を出て廊下を西に行く際、
隣りの部屋付近で相澤相澤と云って居るのを聞いたが、夫れは山田兵務課長の声だとの
趣旨を述べて居るが、当時証人は相澤相澤と発言したことありや。
左様な事は断じて云った事はありませぬ。
私は軍事課の課員であったと思ひますが、某者が局長室内在った在った軍帽を取り上げて
裏に相澤と書いてあると云ったので、初めて犯人は相澤である事を知ったのでありまして、
其時は既に沢山の人が局長室へ来た時でありまして、
私や軍事課長が兇変を知ってから大分時間が経ってからであります。

橋本軍事課長は検察官の取調べに対して供述して居る処は次の如くであるが如何。
事件が起る前に山田大佐は再び貴官を迎へに来なかったか。
別書の通り 直に局長室に行かなかったのでありますが、山田大佐が再び私を呼びに来たとは思ひませぬ。

山田大佐は徴募課長と挨拶をしなかったか。
当時徴募課長は入口を背にして居りましたが、山田大佐に挨拶したか能く覚へませぬが、
多分挨拶しなかったのではないかと思ひます。

私が軍事課長室に入り徴募課長と話をしたのは事実であります。

森田大佐が検察官の取調べに対して次の如く述べて居るが之に対して意見があるか。
此時予審官は検察官の森田範正に対する聴取書を読聞けたり。
私が前述した通りで、軍事課長室に於て徴募課長と話した事は間違ひありませぬ。
唯話をした位置に付ては徴募課長も席を立って居た様に思ひますから軍事課長の机の前だと明言出来ませぬ。

兇変を知って如何なる処置をしたか。
兇変を知って私は同室に於て大声で大変な事が起きたと叫び、人を呼びました処、
漸次人が来ましたので、
早く医者を呼べと命じ、次で犯人逮捕の為 自室に戻って憲兵に電話を掛けた後、
亦 局長室に行きましたら既に軍医等が来て居りました。

証人は局長室に於て新見大佐が負傷して居る事を知らざりしや。
局長室に於て新見大佐が負傷して居るのを見ませぬでした。
私が軍事課長室から局長室に戻った時には最早局長が倒れて居る以外に、
誰も居らなかった様に思ひます。
・・・昭和十年八月二十九日

現代史資料23
国家主義運動3


軍務局長室 (3) 新見英夫大佐 「 抜刀を大上段に構へ局長と向ひ合っていた 」

2018年05月14日 09時08分27秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

証人訊問調書
東京憲兵隊隊長
陸軍憲兵大佐  新見英夫
証人は昭和十年八月十二日午前に陸軍省内軍務局長室に永田鉄山少将を訪ねた事があるか。
訪ねました
証人が軍務局長を訪ねたのは何時頃か。
十二日午前八時三十分頃、憲兵司令官に対し私の所管事務に付て報告を終り、
総務部長、警務部長と協議の上 軍務局長に報告の必要を認めて陸軍省に到り、
最初に兵務課長を訪ね軍務局長に報告するから兵務課長と軍事課長と二人立会って聞いて貰ひたい
と 述べて兵務課長と共に軍務局長室に到る途中、
軍事課長室に立寄り一寸挨拶をして兵務課長の後から続いて軍務局長室に行きましたから時間は午前九時半頃かと思ひます。
局長室に於ては如何なる位置に於て永田局長と対談したか。
私が入室しますと兵務課長は室内の衝立の処に立って私の来るのを待って居りました。
私は局長に対し
永らく御無沙汰をして申訳ありませぬ、本日は久し振りに報告に御伺ひ致しました
と 云ひましたら、局長は
君の仕事は忙しからう、こんなに怪文書が出ては やり切れない
と 云はれましたので、
私は困って居ります
と 答へますと、兵務課長は
あの怪文書は法律を改正しなければ根絶出来ない
と云ひますと、局長も
其通りだ
と 云はれ、其前に兵務課長が
同室内の入口に近い丸卓子の処で私の報告を聞きませう
と 局長に云はれましたが、局長は
其処はいかぬ、此処で
と 云って 局長私用の事務机の処で対談する事になり、
局長は常用の椅子に腰掛け机を隔てて局長に面し、一番右の椅子に私が腰掛け、
中央の椅子は軍事課長が腰掛ける予定で空けて、一番左に兵務課長が腰掛けて話を致しました。
対談中一軍人が抜刀して局長室に闖入し来たのを認めたのは如何なる場合なりしや。
報告に入らんとするに先立って軍事課長が来室しないので、同課長を呼びに出て行きましたので、
私は報告準備の為 持参して来た怪文書包を解き、文書を机上に置き、風呂敷を袴の物入れに入れ、
机上に置いた帽子と先客の湯呑を同室より軍事課長室に通ずるドアの傍の鉄製の書類箱の上に移して
机に戻らんとして振り向いた際、
色の黒い、顔の長い、背の高い歩兵の襟章を附けた軍服の一軍人が
抜刀を大上段に構へて局長と腰掛けの処で向ひ合って、
局長は確か手を上げて防ぐ形をして居りましたのを見ましたのが、犯人を見た初めであります。
其際 兵務課長は在室せざりし事は確か。
私が犯人を見る前に兵務課長は室を出て行った事は間違ひありませぬ。
証人は犯人の闖入を知って如何なる処置をしたか。
私は前述の如く犯人の闖入を知って直に之を取押ふべく、机の左側迄行きますと、
局長は私の方へ危難を避けて来り、犯人も局長の後から迫って来ましたので、
私は犯人の腰部に抱付き犯人が局長を背後より斬らんとするのを抑止しました。
其際振払はれて倒れましたので、更に起上って犯人を追はんとしました処、
起きる際 左手を切られて居る事を知り、直に起きて追跡が出来ませぬでした。
尚 私は犯人から振払はれるや犯人は局長を前述のドアの処に追詰めたのを見ましたが、
其後の状況に付ては記憶して居りませぬ。
私は倒れてから間もなく起上って犯人を見ましたが、最早室内に認めませぬので、
直ぐに隣の軍事課長に事故を知らせる考で廊下に出ましたが、
入口を間違へて事務室に行き、雇員に対し軍務局長の部屋が大変だから早く行けと云ひ、
更に課員室に行って変事を伝へ、廊下に出て通り掛かりの人に早く憲兵を呼んで呉れと云ひ置ひて、
自分は出血を止める為に医務課事務室附近に行った時に軍医に会ひ、
同課に連れられて手当を受けましたが、其後の事はよく覚えませぬ。
・・・昭和十年八月二十一日

第二回聴取書
証人は前回犯人が局長室に闖入したのを認めたのは、
同室より軍事課長室に通ずる南の入口の傍の鉄製書類箱の処より自己の椅子に戻らんとして振り向いた際、
初めて気付いたと述べておるが此の点間違ひないか。
前回作用に供述しましたが、其後よく当時の状況を思ひました処、
間違って居りましたから茲に訂正を致します。
先づ最初、局長室に行ってから局長の机の前の椅子に腰掛けました際は、
前回述べた如く私が局長に向って一番右に、一番左に兵務課長が腰掛け、中の椅子は空けてありました。
夫れから私は報告準備の為風呂敷を解いて怪文書を机上に置き、
風呂敷を袴の物入れに入れて自分の帽子と机上に在った湯呑を鉄製の書類箱の上に移して、
今度腰掛ける時は軍事課長が来室する際は右書類箱の傍のドアーから来るものと思ひましたので、
一番近い右の椅子に腰掛けて貰ふのが都合よいと思って、私は椅子を代へて中の椅子に移り、
兵務課長と隣合せに腰掛けました処、軍事課長が一向来ないので、
兵務課長が呼んで来ると云って椅子を立って後方、即ち初めに入って来た方向に出て行きました。
其処で私は怪文書以外に上衣の内物入に入れて居った二、三の書類を出して
報告の順序要領等を考へ乍ら 見んとしました刹那、
何か音がした様に感じて顔を上げましたら、
局長が自己の廻転椅子から東南約二、散歩の処で西に向って手を上げて防ぐ形をして立って居られ、
夫れに向って前回述べた如き容貌服装の一軍人が、
局長と一、二歩を隔てて軍刀を振上げて居るのを見ましたのが、初めて犯人を見た時であります。
其の際の処置に付ては証人の前回の供述と相違の点はないか。
大体相違ありませぬが、一、二補充しますと、
私は犯人の闖入して居るのを知るや 直に無意識に
 こらっ と叫びながら、
手にした書類を元の物入に納めつつ、机の左側へ進みますと、
局長は私の方向に向って遁れ来り、犯人は之を追ひ迫って来ました。
東の窓辺りに局長を追詰めんとするを、私は犯人の左背後から犯人の腰部に抱付き抑止しましたが、
犯人は非常な勢で私を振払ひました為、私は机の左側に頭を北の方に向けて伏せ倒れました。
其処で私は起上らんとしましたが、左手に痛みを感じ
ああ 斬られたな
と 思って左方を見ますると、
軍事課長室に通ずるドアーの方に向って局長が倒れた様に見受けましたから、
局長は同所で殺された様に思って居りました。
夫れから後の事は前回申述べた通りであります。
兵務課長が軍事課長を呼びに行く為椅子を立上ってから、証人が犯人の闖入を認めた迄の間の時間はどの位と推定し得るや。
其間の時間に付てはどれ丈と云ふ事は確実に云へませぬが、
兵務課長が軍事課長を呼んで参りますと云って椅子を離れてから間もない事でありまして、
私が犯人の闖入を知って机の左側に行く際に、兵務課長が机の附近に居なかったの事は確であります。
証人は犯人から振払はれた際 斬られた事を認識したか。
起き上らんとする際、左腕に痛みを感じたので之は犯人から斬られたなと知りました。
犯人が相沢三郎である事を何時承知したか。
負傷の翌日であったと思ひます。
何か他に申述べる事はないか。
私は彼の場合、憲兵として其の威信を遺憾なく発揮すべき絶好の機会であったと思ひまするに拘らず、
何の周章狼狽注意の周密を欠いた為に、局長閣下を死に至らしめ、
又 前途有為の相澤中佐をして犯人の汚名を蒙らしめたと云ふ事は
軍人、殊に憲兵隊長たるの職責に鑑み 誠に恐縮且慚愧に堪へざる処でありまして、
深く其の責任を感じ、局長閣下の遺族に対しては早速妻をして御断りに参らしめ、
相澤中佐に対しては渋谷の刑務所長を通じて其意を伝へて貰ひました。
又 私の傷害に付ては相澤が当初より私に対しては私情は元より公務上に付ても
含む処があってやった行為とは思ひませぬ。
・・・昭和十年八月二十三日

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国家主義運動3


軍務局長室 (4) 橋本群大佐 「 扉を一寸開けて局長室を覗くと、軍刀の閃きが見えた 」

2018年05月13日 08時59分45秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聴取書
陸軍省軍務局 軍事課長
陸軍砲兵大佐  橋本群
本月十二日永田軍務局長が遭難した際の状況を申しますと、
当日 午前九時三十分位頃 新任の徴募課長森田大佐が着任の挨拶に来ましたので暫く話しましたが、
森田大佐は局長に申告するのでありますが、当時局長には来客があったので、
其為 二、三分間位私と話して居りました。
客が帰ったので森田大佐は局長に申告を為し、又私の室に来まして話して居りました。
二、三分すると新見憲兵大佐と兵務課長山田大佐が来て、新見大佐は私の室の前を素通りし、
山田大佐は私の室に入り、私に今から憲兵隊長の報告があるから一緒に聞いて呉れと
歩きながら私に伝へて局長室との間の北の方の入口から局長室に入りました。
大体新見大佐と山田大佐は局長室の入口の辺で一緒になって局長の前に行った様であります。
私は山田大佐から右の様に云はれましたが、尚引続き徴募課長と話して居りました。
夫れは憲兵の報告は私の主任事項ではありませぬから、
少し位遅れても差支ないから徴募課長と話を続けて居たのであります。
山田大佐が局長室に入ってから二、三分すると何だか荒い様な音が聞へました。
夫れで私は憲兵隊長が局長から叱られて居るのではないかとも感じました。
引続き物音や足音がして何だか取組合ひでもして居るのではないかと思はれましたから、
局長室との間の南の方の扉を一寸開けて局長室を覗きました処、軍刀の閃きが見えました。
私は何心なく扉を閉ぢ 再び直ちに扉を開けて一、二歩局長室に入ると、人が室から出て行く気配がしました。
見へなかったので引き返へして前の扉の所から私の室を通して廊下の方を見ると、
背の高い軍人が軍刀を鞘に納める様な姿勢で西の方に向って行きました。
夫れに続いて能く覚へませぬが、五、六間後から新見大佐が同方向に行きましたから
其軍人が暴行して新見大佐が追跡したものと思ひました。
当時は未だ局長が斬られて居ることには気が附きませぬでした。
夫れで直に引返へして局長室に進みますと、円卓の南東に局長が血に染まって倒れて居りましたから、
其状況を見た上 直に自分の室に引返へして医師を呼ぶ為医事課で在ったか、
衛生課で在ったか何れかの課長に電話を掛けましたが、課長不在で電話が通じませず、
其内に軍事課員其他の者が来て、医師を呼べと云って居りましたから
私は電話を掛けるのを止めて再び局長室に行って見ましたが、
其時には既に課員属官等が来て居りました。
課員属官等が駈け付けて来たのは山田大佐が人を呼んだからだと思ひます。
又 新見大佐も歩きながら声を出して居る様に思ひます。
山田大佐が人を呼んだのは能く記憶しませぬが局長室の入口辺であって、
新見大佐が出て行く前後でありました。
尚 之は後に武藤中佐から聞いた事でありますが、新見大佐が課長室の前を通る時、
局長室が大変だと云ふ様な意味の事を云って行ったそうでありますから、
其様な関係で課員や属官等が駆けつけたものと思ひます。

私は犯人の逮捕に就ては別に処置しませぬでした。
夫れは新見大佐が追跡したものと思って居りましたからであります。
尚 課員等が局長室に来た時 別室で帽子を発見し、裏面に相澤と書いてあったので
犯人は、相澤と云ふことが判ったのであります。
事件が起こる前に山田大佐は再び貴官を迎へに来なかったか。
別書の通り 直に局長室に行かなかったのでありますが、山田大佐が再び私を呼びに来たとは思ひませぬ。
山田大佐は徴募課長と挨拶をしなかったか。
当時徴募課長は入口を背にして居りましたが、山田大佐に挨拶したか能く覚へませぬが、
多分挨拶しなかったのではないかと思ひます。
本件犯行の推定時刻は。
徴募課長が来た時刻、同課長と話して居た時間と
事件後最初私が時計を見た時の時刻が午前九時五十分で在った点から考へますと、
犯行は同九時四十分頃かと思ひます。
・・・昭和十年八月十四日

第二回聴取書
前回の陳述の際、自分が森田大佐と話して居った時 山田大佐が自分の室に入り来り、
今から憲兵隊長の報告があるから一緒に聞いて呉れ
と 自分に伝へて局長室との間の北の方の入口から山田大佐が局長室に這入り、
新見大佐は自分の室の前を素通りして局長室に行きたる様に述べましたが、
其際 山田大佐は廊下から自分の室に這入って来たのか、或は一時局長室に入り、
同室と自分の室との間の北の入口から自分の室に這入ったのか、只今では十分記憶がありません。
若し山田大佐が一時局長室に入り、北の入口から自分の室に来て前述の
一緒に報告を聞いて呉れ
と 云うたものとすれば、
其際新見大佐も其入口から山田大佐と一緒に一寸自分の室に這入り 顔を見合はせたかも知れませぬが、
山田大佐も新見大佐も自分に接近した様には思ひませぬから、新見大佐と挨拶したとは思ひませぬ。
顔を合はせたとすれば一寸会釈した程だと思ひます。

私が局長室の物音を聞き、南の入口に行き、
扉を開けて一寸内部を見て刀の閃きを見て一瞬間何心なく扉を閉じ、
更に直に扉を開けたることは前回の陳述の通りですが、
此間其入口の扉に物が、ぶつかる様な音や其入口を開かんとする様な物音は聞きませんでした。
刀の閃きがしたのは何れの辺であったか、咄嗟の場合でありまして能く記憶しませぬが、
二つ並んで居る衝立の東の端附近ではなかったかと思ひます。
刀の閃きを見た瞬間、局長の姿も犯人の姿も其他の人の姿も、自分の目には這入って居りません。
只、刀の閃きを見た丈であります。

自分が入口の扉を開き刀の閃きを見て一瞬間扉を閉ぢ、
更に扉を開きて 一 二歩局長室に入りたる時は 室内には何人の姿も認めず、
只、誰か人が出て行く気配がしたので 直に一 二歩引返し、
自分の室を通して廊下の方を見たのでありますから、
当時の局長室の状況は何等印象に残って居りませぬ。
局長室より出て行った人は誰であるかと云ふ様なことも考えませんでした。

自分が自分の室を通して廊下を課員室の方へ行く相沢中佐 ( 只今より考えて相澤中佐と思ふ )
及 新見大佐の姿を認めた際、
自分の室に山田大佐や森田大佐が居ったか、どうかは能く記憶がありませんが、
或は自分の室に居ったのではないかと思ひます。
若し両大佐等が私の室に居らず、局長室に入って居ったとすれば、
両大佐は少なくとも新見大佐の姿を局長室の入口付近で認めたハズでります。

自分が局長室に行くのが遅れたので山田大佐が私を呼ぶ為、
再び自分の自室に来たと云ふことについては 自分には只今十分記憶がありませんが、
山田大佐が確かに私を迎へに行って私の部屋に入ったに違ひないと申されますならば、
私は今日に於て既に記憶も薄弱になって居りますから、或はそうかも知れませぬ。
尤も前回の陳述は事件直後で記憶も十分であった際でありましたから、
大体自分が前回陳述したことは間違いないと思うて居ります。

自分が初めて局長の倒れて居る姿を見た時、局長の頭部が床にくっ付いて居ったか、
或は 頭部又は上半身が椅子等に凭り掛って居ったかは能く覚えありませぬ。

本然七月十九日 相沢中佐が永田局長に面会したことは、其数日後局長から聞きましたが、
如何なる機会に何処で聞いたか記憶がありません。
何んでも 其際は私一人ではなく他の人も居って、
主として其人に対し局長が話したのを私も傍から聞いたのではないかと思ひます。
相澤中佐との会談の内容は、
相澤中佐がえらい元気で遣って来たが 諄々と説き聞かせて遣ったら感服して帰った
と 言はれた様に思ひます。
又 相澤中佐が局長に辞職したら如何かと云ふ様な事を云うたと、局長も話して居った様にも思ひます。
・・・昭和十年九月二十五日

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軍務局長室 (5) 森田範正大佐 「 局長室で椅子を動かす様な音がした 」

2018年05月12日 08時45分50秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聴取書
陸軍省 軍務局 徴募課長
陸軍歩兵大佐  森田範正
本月十二日 永田軍務局長が遭難せられた時の前後の状況を申しますと、
当日午前九時三十分頃、新任挨拶の為軍事課長室に行き 同課長と挨拶して、
次で局長に申告する積りでありました。
恰度来客がありましたので少しの間、軍事課長と話して居りました。
間も無く来客が去られたので局長に申告し、四、五分間執務上訓示を受けた後、
軍事課長の処に帰って同課長と二、三分間も話して居ると、
同課長の室に誰かが一寸入って軍事課長に対し、
局長の室に一緒に来て呉れ
と 云ふ様な意味の事を申し置いて局長室に行かれた様でありました。
当時私は軍事課長と相対して入口を背にして腰を掛けて居りましたので、
其入って来た人の顔は見ませぬでしたが、
山田大佐は予て知合でありまして特長のある声でありますから、
山田大佐ではないかと云ふ位の感じはして居りましたが、
確かに山田大佐だと思ふた訳ではありませぬ。
其人が局長室に入ってから、私は軍事課長は局長室に行かねばならぬことが判って居りましたから
直に返る考えではありましたが、話の続きもありましたので 尚 一、二分話をしている内、
局長室で椅子を動かす様な音、次で机を動かす様な音や机か何かが倒れる様な音を聞きましたので、
之は変だと思ひました処、軍事課長も同様に感じたらしく殆ど同時位に立上ったと思ひます。
それで私は廊下に近い方の入口の扉を開いて局長室を覗ひた処、山田大佐が居るのが一寸眼に付きました。
夫れに続いた瞬間、
廊下を憲兵将校らしい者が、左の腕の服が破れ血に染まって課員室の方に行くのを認めました。
私は何心なく一寸其位置に立止って居った処、
軍事課員武藤中佐、池田中佐が来て同人等と相前後して局長室に入りました処、
局長は円卓の向側に血に染まって倒れて居りました。
私が局長室に入った時には軍事課長、兵務課長、池田、武藤中佐が居った位で、
私は同室には早く入った方であります。
橋本軍事課長が何処から局長室に入ったか、私より先で在ったか後で在ったか、能く覚へませぬ。
尚私が負傷した憲兵らしい者を認めた際には、其憲兵が犯人でないかと云ふ様な感じを致しました。
兇行の直前 山田大佐は橋本大佐が直ぐ来ないので迎へに来なかったか。
来た様には思ひませぬ。
兇行直前貴官は山田大佐と挨拶をするとか話をするとかしたか。
兇行前は山田大佐に面接して居りませぬから、勿論挨拶も話もして居りませぬ。
・・・昭和十年八月十五日


第二回聴取書
私は去る十五日の取調に於て、私と橋本大佐が話し中、
局長室に於ける方の入口の扉を開いて軍務局長室を覗ひた処、
山田大佐が居るのが一寸眼に付いたと申しました。
又兇行直前に山田大佐には面接しない様に申しましたが、
十五日の午後 山田大佐が私の処に来て同人が云ふのには、
兇行の際 山田大佐は橋本大佐を呼びに来て軍事課長室に入って来た際、
私が前に申した入口の方に行くのと出会って私と挨拶したと申されますので、
私も能く考へて見ると或は軍事課長室と局長室との間の廊下に近い方の入口(前述の入口) の方向に行く際、
入口の近くで或は山田大佐に会ったのではないかと思ひます。
併し当時の私と局長室に何か異変が在った様に感じて立って行ったのでありますから、
山田大佐と挨拶する余裕は無い筈でありますから、挨拶はせずに黙礼した程度であったと思ひます。
夫れから直ぐ私は局長室に入ったのでありますが、山田大佐と私と何れが先に局長室に入ったか能く覚へませぬ。
・・・昭和十年八月十七日

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軍務局長室 (6) 池田純久中佐 「 局長室が だいじ(大事) だ 」

2018年05月11日 08時31分10秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聴取書
陸軍省軍務局 軍事課 課員
陸軍歩兵中佐  池田純久
本月十二日 永田軍務局長が遭難した時の状況を申上げますと、
同日午前九時四十分頃 私共の居ります課員室の隣室から憲兵将校が来まして、
局長室が大変だと云ふ様な意味の事を大声で云ひましたから、私は火事だと直感しましたが、
その将校を能く見ると左腕の服が破れて下の白いシャツが赤く染まって居りました。
二、三歩 接近すると夫れが出血であることが判明しましたから、
局長室に傷害事件が起ったものと思ひ、局の各室を通過して局長室に行きました処
既に四、五名が血に染まって倒れて居る局長の周囲に立って居りました。
其内引続き多勢参りました。
私は局長室には一分間も居らぬ位で、大臣や次官の安否、新聞記事、犯人のことなどが頭に浮かんだので、
直ちに自室に引返し右の事柄に付 色々指図しました。
私が最初局長室に行った際、兵務課長や軍事課長は何処に居られたのか記憶しませぬ。
本日 金子伊八 属を取調べた際、
同人は局長室、局長室と云ふ呼声を聞き 直ちに外廊下に出た処、
左方に身体の大きい将校が出て行くのを見受けた瞬間、局長室の方から山田兵務課長が此方だ、
此方だと云うて居るのを聞き 直ちに局長室に行ったさうであります。
同人は局長室に駈付けた第一番の者ださうであります。

軍務局長の事務用机上の取片は誰がしたのか。
軍事課の庶務将校ではないかと思ひます。
庶務将校は牧達夫大尉であります。
牧大尉が取片付けないないならば花本敏彦大尉が取片付けたものであらうと思ひます。
・・・昭和十年八月十四日

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軍務局長室 (7) 軍属 金子伊八 「 片倉衷少佐が帽子を持って居りました 」

2018年05月10日 06時48分11秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

聴取書
陸軍省軍務局
陸軍属  金子伊八
本月十二日 軍務局長遭難当時の状況を申しますと、
同日午前九時四十分頃と思ひますが、局長室の方に当ってどつどつと云ふ様な異様な物音がすると共に、
引続いて局長室と云ふ声が聞えたので私は急いで廊下に飛出した処、
左の方廊下の扉の附近に背の高い佐官(帯革の赤き) が出て行くのを見ました。
其の時 山田大佐が局長室の前の廊下に居って、
こっちだこっちだと申しますから急いで局長室に入りましたら、
円卓の向側に局長が上半身を椅子に凭せて倒れて 其の椅子は円卓に支へられて居りました。
私が局長室に入った時には山田大佐の外には未だ誰も居らなかった様に思ひます。
私は直ぐ仰向けに倒れて居る局長の左側から局長の上半身を抱き起しました処、
別に処置の採り様がありませぬから暫く其の儘 支へて居りました処、
軍医が来て胸の釦を脱して 胸の附近を見ましたから 私は下に寝させました。
夫れから間もなく私は自分の室に帰りました。

其の後 私が課員室の階段の方の入口前の廊下に居った時、
整備局の属官が来て局長室に帽子があるから取って来て呉れと云ひましたが、
私は直ぐ局長室に入れぬと思って其の旨を云うて断りました。
併し私は果して帽子があるか否かと思うて 局長室に行って見ました処、
片倉衷少佐が帽子を持って居りましたから、同少佐に整備局の属官が帽子を取りに来ました
と 云ひましたら 同少佐は  「 之は遣れぬ 」  と 申されました。


私が最初物音や声を聞いた時の位置は、課員室の隣の会議室であります。
元来私は属官室に於て執務するのでありますが 
予算、積算の仕事をする為に雇員一名と共に花本大尉の指揮を受けて同室で仕事をして居ったのであります。
花本大尉も同室に居りましたから兇変の際は同大尉も私に続いて飛出したと思ひます。

血痕の状況は局長室から出て軍事課の前の廊下、監房に通ずる廊下及軍事課北側廊下 (階段上の所)
に落ちて居りましたが、之れ等の血痕は製本職工岡部が掃除したから同人が能く知って居る筈であります。
・・・昭和十年八月十六日

現代史資料23
国家主義運動3 


大御心 「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり 」

2018年05月09日 18時39分37秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

《昭和10年》
八月十二日
此日午前九時過、永田軍務局長、中佐相澤三郎の爲、局長室にて斬殺さる、
午後一時二十分 人事局課員 御用邸に三代、
右永田局長を中将に進級内奏を請ひしに因り 直に伝奏せし処、
陛下には、
「 陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり。 更に詳しく聴取し上奏すべく 」
仰せられ、
尚ほ
「 此儘水泳に出て差閊なきや 」
と 御下問あらせらる。
之に對し繁は、誠に申訳なき出來事にして、今後特別の波瀾あるべしとは想はざるも、
充分注意すべき旨、奉答し、
且つ 御運動は御予定通り遊ばされ度旨御願ひせり。
眞に恐懼の次第なり。
 ・
本庄繁著 本庄日記 から


永田軍務局長刺殺事件

2018年05月08日 06時03分03秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )


永田軍務局長刺殺事件
( 昭和十年八月十二日 )

事件發生前の諸情勢
所謂清軍、統制兩派 對 皇道派の對立は益々激化しつゝある如く見られて居たが
昭和九年二十日の所謂十一月廿日事件。
昭和十年四月二日、村中、磯部、片岡の三名に對する停職處分。
同年七月十六日、眞崎敎育總監更迭。
同年八月二日、村中、磯部の免官。
等の諸事件は、皇道派と目せらるゝ靑年將校を益々憤激せしむる結果となり、
村中、磯部の署名ある 『 肅軍に關する意見書 』 を始め、
「 十一月事件は皇道派抑壓の爲の捏造事件なり 」
「 眞崎敎育總監の更迭は統帥權を干犯したものなり 」
「 永田軍務局長等は朝飯會を通じて元老重臣と通謀し、之等妥協派の意嚮を迎へて八月人事異動を行ひたり 」
「 現首脳部は言論機關を黄白を以て買収せり 」
等の揣摩しま憶測を加へた怪文書が頻りに頒布せられ、
統制に全力を濺ぐ現首脳部に不満反感を抱く一部靑年將校方面に於て、
早晩何等かの形を以て首脳部排撃の意志表示がなされるに非ずやとの不穏なる空氣が漂ふに至つて居つた。

事件の發生
斯る情勢の裡に八月一日附の定期異動は、
問題の一根源と見られて居た秦第二師團長の待命を織込んで發表せられた。
八月十二日、突如 陸軍省軍務局長室に於て執務中の軍務局長永田鐵山少將に對し、
相澤三郎中佐が軍刀を以て襲ひ 之を刺殺するの一大不詳事件が突發した。

當時の新聞は次の如く報道した。
昭和十年八月十二日午後零時 陸軍省發表
軍務局長永田鐵山少將は軍務局長室に於て執務中、
本日午前九時四十分 某隊附某中佐のため軍刀を以て障害を受け危篤に陥る。
同中佐は憲兵隊に収容し目下取調中なり。

同日東朝夕刊
十二日午前十一時、小栗警視總監は安倍徳高、本間警務、矢野官房主事等各部長を總監室に招集、
重要協議を遂げた。
即ち警視廳としてはこの際思想團体の動向を厳重警戒する一方、
管下各署に對して待機命令を發するなど帝都治安の維持の萬全を期することゝなつた。

東朝、昭和十年八月十四日附夕刊
軍務局長永田中將に危害を加へたる犯人は陸軍歩兵中佐相澤三郎にして、
第一師團軍法會議の豫審に附せらるゝ事となる、
十二日午後十一時五十四分東京衛戍刑務所に収容せられたり。
兇行の動機は未だ審らかならざるも永田中將に關する誤れる巷説を盲信したる結果なるが如し。

東朝、昭和十年八月十五日附夕刊
永田中將遭難に關し、部内統制の善後措置を協議する陸軍三長官會議は十四日午後一時半から開會、
閑院參謀總長宮殿下の御臨席を仰ぎ、林陸相、渡邊敎育總監出席し、
林陸相から永田中將遭難に至る迄の部内の情勢を説明した上
今回の事件は事件そのものが極めて重大なるのみならず
斯の如き事件を發生せしめたる原因が、
全く部内に於ける錯雑せる誤解や感情の疎隔等に基いた
一種の雰囲氣により醸成せられたものであるから、
その根本原因を糺し國軍をして眞にその本然の使命に立ちかへらしめる様、
今後凡ゆる適切な方法を講じ粛軍の實を擧げる様にしたい。
其の爲には如何なる犠牲を拂ふも敢へて介意すべきでないと思ふ。
・・・旨の強硬なる信念を披瀝した。

事件の全貌
左に相澤中佐に對する判決方 竝に陸軍當局談を摘記して、
永田中將が兇刃に殪れた眞相の全貌を窺ふ事とする。
相澤中佐に對する判決文摘錄
相澤中佐は・・・・( 中略 ) 昭和四、五年頃より
我國内外の情勢に關心を有し、
當時の情態を以て思想混亂し、
政治・經濟・敎育・外交等萬般の制度機構何れも惡
弊甚しく、
皇國の前途憂慮すべきものがあるとし、
之が革正刷新 所謂 昭和維新の要あるものとなし、
爾後同志として 大岸頼好、大蔵榮一、西田税、村中孝次、磯部淺一 等と相識るに及び、
益々其の信念を鞏め、同八年頃より昭和維新の達成には、先づ皇軍が國體原理に透徹し、
擧軍一體いよいよ皇運を扶翼し奉ることに邁進せざるべからざるに拘らず、
陸軍の情勢は之に背反するものがありとし、
其の革正を斷行をせざるべからずし思惟するに至りたるが、
同九年三月 當時陸軍少將永田鐵山が軍務局長に就任後、前記同志の言説等により、
同局長を以て其の職務上の地位を利用し、名を軍の統制に籍り、
昭和維新の運動を阻止するものと看做かんさくし居たる折柄、
同年
十一月當時陸軍歩兵大尉村中孝次及び陸軍一等主計磯部淺一等が、
叛亂陰謀の嫌疑により軍法會議に於て取調べを受け、
次で同十年四月停職處分に附せらるゝに及び、
同志の言説及び其の頃入手せる所謂怪文書により、
右は永田局長等が同志將校等を陥害せんとする奸策に外ならずとなし、深く之を憤慨し、
更に同年七月十六日任地福山市に於て敎育總監眞崎大將更迭の新聞記事を見るや、
平素崇拝敬慕せる同大將の敎育總監の地位を去るに至りたるは、
これ又永田局長の策動に基くものと推斷し、
總監更迭の事情其ま他陸軍の情勢を確めんと慾し、八月十八日上京し、
翌十九日に至り一應永田局長に面会して辭職勧告を試むることゝし、
同日午後三時過頃同局長に面接し、近時陸軍大臣の處置誤れるもの多く、
軍務局長は大臣の補佐官なれば責任を感じ辭職せられたき旨を求めたるが、
其辭職の意なきを察知し、かくて同夜東京市澁谷區千駄ヶ谷に於ける前記西田税方に宿泊し、
同人及び大蔵榮一等より敎育總監更迭の經緯を聞き、且つ同月二十一日福山市に立歸りたる後、
入手したる前記村中孝次送附の 『 
敎育總監更迭事情要點  』 と題する文書
及び作成者、發送者不明の 『 軍閥重臣閥の大逆不逞  』 と題する所謂怪文書の記事を閲讀するに及び、
敎育總監眞崎大將の更迭を以て永田局長等の策動により同大將の意思に反して敢行せられたるものにして、
本質に於ても亦手續上に於ても、統帥権干犯なりとし、痛く之を憤慨するに至りたる處、
たまたま同年八月一日、臺灣歩兵第一聯隊附に轉補せられ、
慾二日前記村中孝次、磯部淺一兩人の作業に係る 『 肅軍に關する意見書 』 と題する文書を入手閲讀し、
一途に永田局長を以て元老重臣、財閥、新官僚と款を通じ、
昭和維新の氣運を彈壓阻止し、皇軍を蠧毒とつどくするものなりと思惟し、
この儘 臺灣に赴任するに忍び難く、此際自己の執るべき途は、永田局長を倒すの一あるのみと信じ、
遂に同局長を殺害せんこと決意するに至り、
同年十日福山市を出発し、翌十一日東京に到着したるも、
猶 永田局長の更迭等の情勢の變化に一縷の望を嘱し、同夜前記西田税方に投宿し、
同人及び來合せたる大蔵榮一と會談したる末、
自己の期待するが如き情勢の變化なきことを知り、
翌十二日西田税方を立出で、同日午前九時三十分頃陸軍省に至り、
同省整備局長室に立寄り、嘗て自己が士官學校に在勤當時、同校生徒隊長たりし同局長山岡中將に面會し、
對談中給仕を遣はして永田局長の在室を確めたる上、
同九時四十五分同省軍務局長室に至り、直ちに佩びたる自己所有の軍刀を抜き、
同室中央の事務用机を隔て、來訪中の東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐新見英夫と相對し居たる永田局長の左側身邊に、
急遽無言のまゝ肉迫したる處、同局長が之に氣附き、新見大佐の傍に避けたるより、
同局長の背部に一刀を加へ、同部に斬附け、次で同局長が隣室に通ずる扉まで遁れたるを追躡し、
その背部を軍刀にて突刺し、更に同局長が應接用円机の側に至り倒るゝや其の頭部に斬附け・・・・( 中略 )
同局長を同日午前十一時三十分死亡するに至らしめ、以て殺害の目的を達したるなり。

( 陸軍當局談 )
相澤中佐が、・・・( 中略 ) ・・・永田中將を目して政治的野心を包蔵し、
現狀維持を希求する重臣、官僚、財閥等と結託して軍部内に於ける革新勢力を阻止すると共に、
軍をして此等支配階級の私兵化せしむるものなりとなし、
其の具體的事例として
一、維新運動の彈壓。
二、昭和九年十一月、村中、磯部等に關する叛亂陰謀被疑事件に對する策動。
三、敎育總監更迭問題に於ける策謀。
四、國體明徴の不徹底
等を擧げて居るのである。
而して此等の諸件は公正なる審理の結果に徴するに、何等の事實の認むべきものなく、
妄りに同志の言説及び所謂怪文書等の巷説を信じ、
全く我執の偏見の基く獨斷的推斷に基けるものに外ならないのである。

軍當局の善後措置と之に對する策動
軍首脳部に於ては永田事件を以て 「 前代未聞の不祥事 」 として八月二十三日非公式軍事參議官會議、
同月二十六日臨時軍司令官、師團長會議を開催して 「 軍紀の肅正、團結の鞏化 」 を鞏調したる外、
同月二十七日には陸軍大臣、教育總監より、夫々管下各軍衙長官、學校長に對して、
師團長會議に於ける陸相訓示と同趣旨の訓示をなし、軍紀振作の徹底に努めた。
右の軍當局の措置に對し革新團體の一部に於ては
「 林陸相は此際八月異同に於ける英斷を貫徹し 以て永田局長の英魂を瞑せしめよ 」
として首脳部支持の態度を示すものもあつたが、
直心道場系の各團體にあつては、之に反し
1  軍内部に派閥抗爭ありとの認識を部外者に与へるは原幹部派の責にして事件發生の因も亦茲に存す。
2  眞の統制鞏化は皇道の光被てふ廣義國防の確立に邁進するにありて、
  無原理の統制は徒に時局を紛淆に導き皇國の發展を阻害するものなり。
等々暗に現首脳部を避難したる建白書、意見書を各師團長を始め、愛國團體等に頒布した。

相澤中佐公判を繞めぐる策動
相澤中佐は十月十一日豫備役に編入せられたが、
其の審理は第一師團軍法會議岡田豫審官によつて續行せられ、
十一月二日豫審終了し、用兵器暴行、殺人及傷害事件として同日公訴を提起せられた。
而して其の後、歩兵第一旅團長佐藤正三郎少將以下が夫々判士長、判士に任命せられ、
辯護人は鵜沢聡明博士、特別辯護人として陸軍大學教官満井佐吉中佐と決定した。
一方、本事件發生の當初より一部に於ては所謂怪文書の頒布によりて、相澤中佐の行爲を激賞し
單なる私憤私慾に發したるものにあらず。
眞に天誅とも稱すべき事件にして已むに已まれぬ大和魂の流露である。
等と稱しつゝあつたが、公判期日の切迫と共に、西田税及直心道場の一派にあつては愈々其の立場を明かにして
「 國體明徴---粛軍---維新革命 」 は正しく三位一體にして、 相澤中佐蹶起の眞因亦茲にあり。
 從つて 「 超法規的の團體、超法規的維新に殉ずるものゝ受くる處、又同様超法規的でなければならぬ 」
と鞏調するに至り、左記の文書等によつて他の革新團体に飛檄し、
後半公開の要請及減刑運動を從慂じゅうようし、以て昭和維新達成の氣運醸成に努めた。
左記
國體明徴と粛軍と維新とは三位一體なり。
國體明徴が單なる學説竝學説信奉者の排撃に止まるべからず。
諸制百般に歪曲埋没せられたる國體實相の開顯、
而して此の維新せられたる皇國態勢を以てする全世界への皇道宣布ならざるべからざる以上、
國内に於て反國體の現狀を維持せんとする勢力
( 機關説擁護 = 資本主義維持 = 法律至上主義 = 個人主義自由主義 )
が現に政治的權力を掌握しあり、
又 内外勢力の切迫より擡頭せる所謂金權フアツシヨ勢力
( 權力主義者と金權との結託せる資本主義修正、統制萬能主義勢力 = 官僚フアツシヨ は此の一部 ? )
が政權を窺窬きゆしつゝある今日に於て、
まつろはぬ者を討平げ、皇基を恢弘すべき實力の中堅たる皇軍の維新的粛正は、
國體明徴、維新聖戰に不可欠の要件焦眉の急務なり。
一、國體明徴運動進展途上に於ける陸軍首脳部の態度は、
 新陸相に於て全權フアツシヨ的野望を抱きながら、
郷軍の彈壓と永田の伏誅に餘儀なくせられて表面を糊塗したる欺瞞的妄たり。
現陸相に於て國體護持、建軍に恥ずべき右顧左眄たり。
對政府妥協たるは何ぞ。
是れ皇軍内部に巣喰ふ反國體勢力への内通者、
フアツシヨ勢力及乃至自由主義明哲保身者流の國體に對する無信念、
皇軍の本義に對する無自覺に禍せられたるによらずんばあらず。
國民は皇軍の現狀に深甚なる疑惑と憂慮とを抱かざるを得ず。
一、永田事件直後に於ける陸軍當局の發表は、相澤中佐を以て
 「 誤れる巷説を盲信したる者 」 とせる、眞相隠蔽、事實歪曲たり。
次で師團長軍司令官會議に於て發したる陸相訓示は全く皇軍の本義を解せず、
時世の推移に鑑みざる形式的 「 軍紀粛正 」 「 團結鞏化 」 の鞏調にて、
其の結果は忠誠眞摯なる將士の処罰たり。
此の方針を踏襲せる現陸相は其の就任當初の國體明徴主張を空文として政府と妥協したるのみか、
至純なる郷軍運動を抑壓するの妄擧に出で來る、國民の憤激は誘發せられざるを得ず。
一、現役のみが軍人に非ず、國民皆兵軍民一體なり。
  全國民は皇軍の維新的粛正に對し十全の要望督促をなさざるべからず。
一、今や皇軍身中の毒虫を誅討する相澤中佐の豫審終結し、近く公判開始せられんとす。
  國民は眞個軍民一體の皇運の扶翼を可能ならしむべく、皇軍の維新的粛正を希求し、
此の公判を機會として軍内反國體分子の掃蕩を要求すべし。
註  1  公判は公開せざるべからず。
  一部首脳者の姑息なる秘密主義は國民をして益々皇軍の實情に疑惑を深めしめ軍民一體を毀損し、
大元帥陛下御親率の國民皆兵の本義に背反するものなり。
註  2  三月事件、十月事件の眞相、總監更迭に絡からまる統帥權干犯嫌疑事實を闡明ならしめ
  責任者を公正に処斷して上下の疑惑を一掃し軍の威信を恢復すべし。
註  肅軍は單に軍部内に於ける國體明徴なるのみの意義に非ず、
  肅軍の徹底は破邪顯正の中堅的實力の整備を意味す。
反國體現狀維持勢力が政權を壟斷し、國民至誠の運動を蔑視しつつある今日、
言論決議勧告のみにして實力の充實、威力の完備なき糾弾は政府の痛痒を感ずる處に非ず。
實に肅軍は國體明徴の現實的第一歩にして維新聖戰當面の急務なりとす。
以上

更に直心道場は皇道派民間團体の牙城として
西田税の指導下に雑誌 『 核心 』 『 皇魂 』 及 新聞紙 『 大眼目 』 等を總動員して
相澤公判の好轉、維新運動の推進のため宣傳煽動に勤めつつあつたが、
就中 『 大眼目 』 は西田税、村中孝次、磯部淺一、澁川善助、杉田省吾、福井幸 等を同人として、
宛然怪文書と異る處なき筆致を以て
「 重臣ブロック政黨財閥官僚軍閥等の不當存在の芟所除 」 を力説し、
「 革命の先駆的同志は異端者不逞の徒 等のデマ中傷に顧慮する處なく
不退轉の意氣を以て維新革命に邁進すべき 」 ことを煽動し、
之を軍内外に廣汎に頒布する等暗流の策源地たるの観を呈して居つた。

同年 ( 昭和十年 ) 十二月末の岩佐憲兵司令官の報告通牒に依れば
一、相澤中佐を支持するものとしては
  北一輝、西田税一派、勤皇維新同盟
  直心道場、大日本生産黨、愛國社
  建國會、黒竜會、國粋大衆黨
  鶴鳴莊、國體擁護聯合會、三六社、愛国靑年聯盟
二、静観的態度を持するものとしては
  明倫會、皇道會、國民協會、愛國政治同盟の大部
三、反相澤の態度を持するものとしては
  大亜細亜協會及民間浪人高野清八郎、山科敏
  社會大衆黨、大日本國家社会黨、新日本國民同盟の大部
として居る。

相澤中佐公判狀況
昭和十一年一月二十八日、第一師團司令部軍法會議法廷に於て
佐藤少將判士長、小藤、木谷、木村各大佐 岩村中佐の各判士、杉原首理法務官、島田檢察官、
鵜沢辯護人、満井特別辯護人等關与の下に第一回公判が開廷せられ、
其の後 二月二十五日、二 ・二六事件突發前日迄十回開廷せられた。
相澤中佐は皇道派靑年將校及西田税、古賀、中村兩海軍中尉 ( 五 ・一五事件被告 ) との交友關係
或は 「 永田局長は重臣、財閥等の現狀維持勢力に迎合して靑年將校の維新運動を彈壓された 」
として、十一月事件、眞崎敎育總監更迭の事情等を例證として擧げ、
「 永田局長閣下は悪魔の總司令部であると思ひ、
 大逆の樞軸を殲滅せんめつして昭和維新の大業を翼賛し奉らうと思つたのであります 」
と 決行動機に關する激烈なる陳述をなした。
又第二回公判に於て満井特別辯護人は
「 相澤中佐の背後には全軍將校の気魄横溢いつして犇々ほんほんと迫りつつある。
 一度事件の措置を誤らば、第二、第三の相澤三郎繼起すべし 」
とて各地よりの激励的信書電文を讀上げ 更に
「 皇軍の事態は重大危機に臨んでいる、自分は首脳部に意見を具申したが容れられず、
 不安を一掃することが出來ず 爆彈を抱いてこの公判に臨んで居る。
この公判の結果は皇軍をして破局に至らしめる虞がある。」
旨の陳述をした。
又二月七日には鵜沢弁護人は政黨脱退の聲明を發し、
同月十二日には、事件當時の陸軍次官橋本虎之助中將、古荘陸軍次官、堀第一師團長、
十七日には林前陸相が證人として公開禁止裡に訊問せられ、
更に二十五日 眞崎大將が召喚せられ公判は最高潮に達し、異常の關を聚あつめるに至つた。
果然翌二十六日満井中佐の警告的陳述の如く空前の叛亂事件が突發した。
公判はこのため無期延期となり、四月二十一日新判士長 内藤正一少將の下に再開せられ、
非公開の儘審理續行せられ、弁護人の申請に係る證人喚問、
十一月二十日事件に關する關係記録取寄せ等何れも脚下となり、
四月二十五日検察官の論告、五月一日角岡、菅原祐兩辯護人の辯論の後、
被告は裁判長に促され、
感慨無量、悌嗚咽しつ
「 裁判官、辯護人其の他の御厚配を謝する 」
旨の最終陳述をなし、
同月七日 「 被告を死刑に處す 」 旨の判決言渡があつた。
相澤被告は翌八日上告をなしたが六月三十日、第一師團軍法會議に於て、
判士長 牧野正迪少將より上告棄却の判決言渡あり、死刑判決は確定した。
斯くて七月三日、渋谷區宇田川町陸軍衛戍刑務所に於て刑執行せられた。

「右翼思想犯罪事件の綜合的研究」 昭和十四年二月、司法省刑事局
現代史資料4 国家主義運動1 から


「 年寄りから、先ですよ 」

2018年05月07日 06時09分51秒 | 相澤中佐事件 ( 永田軍務局長刺殺事件 )

「 四年前の夏のことでした、
福山の海岸に一家そろって海水浴に行ったことがありました。
そのとき、『 オレのいのちはこの春、耳の病気のときすでに亡くなっていたと思っている。
それなのに若い人たちの一途な厚意によって助けられたのだ。
その尊いかけがえのない若い人たちの身代わりになってこそ、 
一度は死んだはずのオレのいのちがほんとうに生きることになるのだ 』
と、相澤が私にしみじみといったことがあります 」
という話を、私は相沢夫人から聞かされたことがある。
相澤三郎
相澤中佐は
西田ら家を辞してから、まっすぐに陸軍省に向かった。
裏門に車を止めて、
裏門に近い棟にあった整備局長山岡重厚中将の部屋に入った。
相澤は型どおりの転任のあしさつをした。
しばらくよもやまの話をしているとき、休仕がお茶をいれてきた。
「 君、永田軍務局長が居られるか、ちょっと見てきてくれないか 」
相澤は給仕に頼んだ。
「 永田に何の用事で会いに行くんだ ? 」
山岡中将は心配そうに聞いた。
「 転任のごあいさつに参りたいと思います 」
相澤が静かに答えた。
「 相澤、その必要はない。よした方がいいぞ 」
「 ・・・・・・ 」
相澤は黙っていた。
一ヶ月まえ、辞職を勧告したときのことを思い出しながら・・・・
「 どうしても行くのか 」
「 ハイ、参ります 」
こんな問答を繰り返しているとき、給仕が帰ってきた。
「 永田閣下は居られるようです 」
「 有難う 」
給仕は去った。
「 閣下、これで失礼します。帰りにまた寄せて頂きます 」
相澤は一礼して局長室を出ようとした。
「 相澤、行くのはよせ 」
山岡は、相澤を永田に会わせたくなかった。
悪い予感が山岡を襲った。
「 相澤、無茶するんでないぞ 」
山岡は相澤の後ろ姿に呼びかけていた。

相澤は勝手知った廊下を、ゆっくりした足どりで歩いて行った。
相澤は軍務局長室にノックをせずにスーっとはいった。
部屋の正面には、ついたてが立っていた。
相澤はついたての手前で抜刀した。
抜刀するやすり足でついたての右側から突入した。
そのとき永田局長は、大きな事務机の向こう側にすわっていた。
机の前には憲兵隊長新見英夫大佐と兵務課長山田長三郎大佐とがすわっていた。
新見憲兵大佐の風呂敷包みの中には、
苦心して回収した 「 粛軍に関する意見書 」
が はいっていた。
間もなくくるはずの軍事課長橋本群大佐を待っているときであった。
突入した相澤は両大佐の後ろを回り、
机の向かって右側から永田の左に襲いかかった。
永田はとっさの出来ごとに驚いて、
ついたての反対側から腰を浮かして逃げようとした。
相澤は追いすがるようにして、
永田の右肩から けさ掛けに
「 天誅 」
と 心で叫びながら一刀を振り下ろした。
その一刀はイスが邪魔になって、
永田の背中にかすりきずをおわしたにすぎなかった。
永田はよろめきながら隣の軍事課長室のドアまで近づき、
かろうじてハンドルに手をかけた。
相澤は第一のけさ掛けをしくじって心穏やかでなかった。
第二刀は無意識に斬撃の姿勢はとらなかった。
左手で軍刀の刀身のなかほどのところを握り、
銃剣術の直突の構えで永田少将の背中からブスリと満身の力をこめて突き刺した。
剣先は前胸部を突き通し、ドアーに達していた。
永田のからだには、おのれを支える力がすでに抜けていた。
相澤は一歩さがると同時に剣を抜いた。
とたんに永田のからだは 二、三歩よろめいて崩れるように倒れた。
相澤は止めの一刀を忘れなかった。
アッという間の出来事であった。
気がついたときには、部屋の中には兵務課長山田大佐の姿はなかった。
ただ新見憲兵大佐が腕に負傷して、気を失って倒れているだけであった。
相澤が永田を刺したとき、相澤の腰にしがみつこうとして、
相澤の怪力に降りまわされて気絶したものらしい。
相澤は静かに軍刀を鞘に収めて部屋を出た。
一瞬にして修羅場と化した軍務局長の部屋には、
変をきき知ってもだれ一人駈けつけるものはなかった。
根本大佐が去り行く相澤中佐に近づいて握手を求めたこと、
廊下で山下奉文少将が
「相沢おちつけ」
と いったということが伝えられているだけである。

相澤は、再び山岡中将の部屋にはいった。
相澤の姿を見て山岡は驚いた。
左の掌から血がしたたっているではないか。
「 相澤、どうしたんだ、その血は ? 」
相澤が永田を背中から突き刺したとき、軍刀を握りしめたその力によって、
親指を除いたほかの四本の指が、骨膜に達する刀創を負っていたのだ。
相澤は今まで気がついてなかった。
山岡にいわれて初めて気がついたのであった。
「 早く手当てをしなければ・・・・」
いいながら山岡は、ハンカチを出して傷口を押さえた。
「 すぐ医務室に行け、オイ給仕、中佐を案内するんだ 」
相澤が部屋を出ていったあと、
「 とうとう、相澤がやったか・・・・」
と 山岡は感慨無量であった。
真崎追放のあと、きたるべきものがきたという感じであった。
医務室で治療を受けているとき、かけつけた憲兵によって相澤は逮捕された。
そのとき相澤は、どこかに軍帽をおき忘れているのに気がついた。
「 軍帽をなくしているから、偕行社で買いたいんだが 」
「 その必要はありません 」
と、憲兵は相澤の頼みをしりぞけた。
憲兵と同道しているとき、相澤は担架で運ばれる将校の姿を見た。
担架の人はまだ生きているらしい。
相澤は、永田はまだ生きていたのかと思った。
軍帽を置き忘れたり、一刀のもとに果たし得なかったり、
相澤はおのれの未熟さが恥かしく心が痛かった。
しかし担架の人は永田少将ではなく新見憲兵大佐であった。
・・大蔵栄一  著  二・二六事件の挽歌

昭和10年8月12日  午前9時40分のことであった

「日本暗殺秘録」・・東映(昭和44年10月)
俳優・高倉健が演じる、相澤中佐が永田軍務局長を斬殺する一場面
リンク
・ 昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 1 
・ 昭和10年8月12日 ・ 相澤三郎中佐 2