あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和の安政大獄

2018年04月03日 04時28分09秒 | 眞崎敎育總監更迭


安政五年九月から翌六年十一月にわたる一年余日は
間部詮勝、長野主膳、目明し文吉等が井伊大老の手足となって志士の大彈壓を強行した年で、
勤王志士にとりては切羽痛憤の時期であった。
昭和九年九月以降に進められている現代幕府の實質上の中心である陸軍では、
安政の大獄以上の策謀がなされている。
陸軍省軍務局長永田鐵山が間部詮勝だとすれば、武藤章、片倉衷は長野主膳、
目明し文吉の役を演じた者に彼の勇名な辻政信その他の者があるといえよう。
  

安政第一次斷獄
カーキ色の服を着したモダン詮勝は、
井伊の懐刀長野主膳と秘かに靑年將校の彈壓を企圖していた。
主膳は全國靑年將校の動靜を探知する洋りと凡ゆる陰險な策謀をめぐらしていた。
第一に
荒木、眞崎、林の忠誠將軍を陥れるため
「 荒木派將軍等が靑年將校を駆使して陰策をなせり 」
というデマを飛ばして
「 水戸老公御謀叛 」
と 宣傳した。
その第二は
才媛に非ざる愛婦を仲立にして或は神楽坂の待合梅林に、
或は築地の河内屋に、
錦水にダラ幹右翼浪人中谷某等を懐柔せんとしたること。
第三は
目明し文吉を京洛の地に非ざる市ヶ谷士官學校に於て密使つして使ったこと等々。
密計は日を追って着々進行し
安政第一次斷獄の日 昭和九年十一月二十日の早暁は來た。
主膳、文吉等は闇を衝いて橋本大夫の門をたたいて急を告げた。
斯くして遂に數名の將校士官候補生を代々木の獄に投じ終ったのである。

安政第二次斷獄 ( 昭和十年四月、五月 )
詮勝 ( 永田 ) は第二次斷獄を強行すべく後藤公卿 ( 新官僚 ) と密謀し、
昭和十年暴力團狩りに籍口して一切の愛國運動者
特に天皇機關説 ( ロンドン條約派が中堅である ) 排撃の尊皇討幕派彈壓を大々的に斷行した。

第三次斷獄陰謀
永田鐵山の渡満、永田は今第一次第二次彈壓を終り、大老井伊 ( 宇垣及び南 ) に満鮮でその復命をしている。
間部詮勝安政五年九月入京するや九条関白(井伊と極めてよし)の辭職を停めて内覧を復し、
近衛忠熙 ( 勤王派 ) の内覧を免じ、關東奏上の道を聞き以て勤王公卿、討幕志士の大彈壓を策した。
永田の渡満は恐らく八月の定期異動に於いて尊皇討幕派軍人の第三次彈壓を行い、
佐幕派に軍の統制の權力を与え、
これを以て尊皇派水戸の老公の去勢を圖らんとするのであろう。
噫、天下これより益々多事ならんとす。
憂國赤誠の士は如何なる彈壓にも抗して維新の大道を勇進せねばならぬ。
今や維新の敵は財閥でも政党でもなく、
軍閥の亜流末流たる軍部幕僚の一群であるということを、
天下憂國の士に告げて置く。

昭和十年六月頃、
西田税、村中孝次、磯部浅一らによって青年将校に激発した所謂怪文書


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