緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ヴァレリー・アファナシエフ演奏「シューベルト・ピアノソナタ第21番D.960」を聴く

2016-10-22 21:16:01 | ピアノ
このピアノソナタはシューベルトが31歳で亡くなる2か月前に書かれた、彼の最後のピアノ曲であり、最高傑作である。
ピアノソナタの中でも、ベートーヴェンの第31番、第32番、そしてリストのロ短調と並び、ピアノ曲の最高傑作のひとつでもある。

この曲を聴くきっかけとなったのは、マヌエル・ポンセ作曲のギター曲「ソナタ・ロマンティカ(F.シューベルトを讃えて」)を愛聴していた30代前半の頃であった。
この話は今まで何度か記事にしたが、ポンセが ソナタ・ロマンティカで用いている、形式、展開法、モチーフはこのシューベルトの最後のソナタであることは間違いない。
特にソナタ・ロマンティカの第1楽章はかなりの共通点がある。
第1楽章が他の楽章に比べて突出して長いこと、冒頭の長い主題が2回繰り返された後に短調へ転調し、しばらくしてあの例の不協和音が現れる。
しかし両曲の決定的な違いは、曲から伝わる作者の感情である。
シューベルトのピアノソナタ第21番の解釈については、多くの方がすでにたくさん述べているが、忍び寄る死に対する恐怖、凍り付くような荒涼とした孤独感、自分の置かれた境遇や人生に対する深い悲しみと束の間の幸福感など。

30代前半で初めて聴いたのは、アルフレッド・ブレンデルの演奏であったが、あまり印象に残らなかった。
数回聴いただけで終わって、約20年後に去年の春にシャオ・メイの演奏を聴いて一気に開眼した。
それから、多くの奏者の演奏を聴いてきたが、まだベスト盤を選ぶに至っていない。
聴けば聴くほど難しい曲であることが分かる。
これほどの複雑で深い感情を持つ曲を表現できる奏者は少ない。
表面的なものと本質的なものの見極めも難しく、自分が、これだ!、という演奏を選ぶにはかなり時間を要すると思われる。

今日紹介するヴァレリー・アファナシエフ(Valery Afanassiev)は、実は今コンサートのために来日している。
1週間後に東京でコンサートがあり、幸運にもチケットが取れたので、聴きに行くことにした。
本当に楽しみだ。
ヴァレリー・アファナシエフのことは、これまでこのブログでもドビュッシーの「月の光」やベートーヴェンのピアノソナタ第31番の演奏の記事で紹介したが、現在現役のピアノニストで世界最高レベルの演奏家である。
チケット代は高かったが、このような巨匠クラスの演奏家のライブ演奏を聴ける機会は人生でそう滅多にあるわけではない。

ヴァレリー・アファナシエフが弾くシューベルト・ピアノソナタ第21番の録音は去年手に入れ、聴いてきたが、テンポが遅く最初は違和感を感じ、数回聴くだけ終わっていたが、この1週間ほど何度か聴き返してみると、実に深い演奏をしていることが分かる。
下記の第1楽章最初の主題のリピート直前の、恐ろしいまでの恐怖を表現した部分は寒気がする。
他の奏者の3倍以上の長さはあるであろう、不気味なトリルとその直後の長い間。
シューベルトがどれほど恐ろしい恐怖と生きる望みとの葛藤に苦しんでいたかが伝わってくる。





第1楽章で転調してからは、幸福感と裏に忍び寄る恐怖感と悲愴感とは別の感情が表現される。
それは救いようがないほどの孤独感だ。
これほどの悲痛な孤独感を表現した音楽を聴いたことは無い。
いやあえて挙げるしたら、野呂武男の音楽のみだ。







心を病み、誰ともコミュニケーションできずに人知れず苦しみ、独り孤独な部屋でのたうちまわっているような苦しみを感じる。
シューベルトという人は、人一倍感受性が強く、あらゆる感情を感じやすかったのではないか。
心の苦しみや強い葛藤が痛いほどに伝わってくる。

下記の部分でその気持ちが表現されている。第1楽章の最も要となる部分だ。
アファナシエフはこの要の部分を最高に表現にしていると思う。
幸福にを切に望みながら一生懸命に、精一杯生きながら、ついに得られなかった無念さ、はかなさ、どうすることもできないこの自分自身、そして人生に対する思いが感じ取れる。

第2楽章も素晴らしい。
特に最後は、死を前にした人間が、一瞬、自分のそれまでの人生は全て受け入れ、肯定することができた安堵感のようなものを感じた。

私はシューベルトは、死ぬ直前には、生涯を賭けて尽くしたすべてものをやり遂げたという安堵感を感じて逝ったのではないかと思っている。








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