緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

新聞を読んで思うこと(5)

2016-10-22 22:58:20 | 時事
今日の朝刊の読者投稿欄に、青森県某市の夏祭り写真コンテストで市長賞に一度は決まった中学生の少女が、いじめを苦に自殺したことに対し、無念の気持ちや問題提起を表す記事が掲載されていた。
19日の朝刊でこの写真を見て大きな衝撃を受けた。あまりにも悲しい。

近年、子供の自殺が増えているように思う。
経済の停滞、生産拠点の海外移転に伴う働き口の減少、その結果としての貧困、共働きなどの原因で、現代の大人たちは精神的に疲弊しているし、企業間、社員間の競争も昔に比べ激しくなっている。
いじめる子供は、精神的に問題を抱えた親からさまざま手段で影響を受け、心に傷を負っているとみて間違いないであろう。
いじめる子供は心に深い傷を負っており、その傷が癒えないが故に、その傷から絶えず湧き水のように湧き出す悪感情に苦しめられている。
子供はその絶えず心に渦巻く悪感情を直視できないし、その悪感情の大元の原因(=過去の生育環境で受けた継続的な心の傷)を探し求めることもできない。
絶えず心に生じている悪感情、すなわち、怒り、憎しみ、不幸感、劣等感、孤独感、恐怖などを感じ続けることは物凄く辛いし、耐えがたい。これらの感情は互いに連関している。
本質的、生産的な解決に自らを向けることができないから、それらの悪感情に押し潰れそうになる。
これらの悪感情を感じ続けることは辛い。
だから大抵は、反撃してこない弱い子供を標的にし、その悪感情を吐き出しているのである。

いじめられる子供も、その親が心理的な問題をかかえていることがある。
嫌なことをされても、反撃して自分を守ることを教わっていない。
そして人に助けを助けを求めることもできない。人を信頼できない心になってしまっているから。

何故親に教わっていないのか。
それは、親自身が劣等感、不幸感などを抱えており、子供が親に自己主張したり、反論、反抗することや助けを求めることを暗黙のうちに禁じているからである。
このような親は外側は真面目で道徳心が強いので、子供の言動に対し、それが原因で劣等感が刺激され不快に感じていることをはっきりと表立って言うことができない。
だから子供は親が何となく自分のふるまいに不快感を抱き、それが自分のせいだと思い込むようになる。
いじめられる子供が自分自身に対しいわれのない罪責感を常に持ち続けるのは、このような真面目ではあるが、心に劣等感などを抱えた親に育てられている可能性がある。
このような子供は親と同じように、真面目であるが自責の念が強く、理不尽なことをされても自分の方が悪いという傾向を持つようになる。
もう一つの可能性としては、親が生来人との争いを好まず、おとなしく自己主張をあまりしないタイプに育てられた場合で、親に問題はないが、いじめ社会で生き抜く心の逞しさに欠けている場合である。

どちらにしても、いじめられる子供は真面目だし本質的に優しい心を持っている。
だから人を責められない。
もちろん冒頭の青森県の少女の親が、このようなケースに該当するなど断定する意図は全く無い。
私の経験から可能性の一つとして述べているにすぎないことを断っておく。

子供だけでなく、大人の世界にもいじめはある。
大人のいじめはもっと陰湿で、ときに正論や正義の仮面をかぶって攻撃されることがあり、それが原因で過労死やうつ病による自殺に発展することもある。
最近問題視されるようになったパワハラやモラハラなども大人のいじめのひとつである。
このような大人のいじめの被害を受けるのは、先に述べた合理的でなくいわれのない自責の念を持ち続け、自分の心を自ら破壊するまで追い立てせきたてるようなタイプの人だ。限界を超えると、行き着く先は自殺である。

この今の世の中でいじめを無くすことは難しいかもしれない。
しかし少しでもわずかでも、いじめをなくすことに手助けすることはできると思う。
まず、いじめられる子供は、いじめる子供をよく観察してほしい。
いじめる子供は例外なく心に傷を負っている。まず心が普通でないと思っていい。
心に傷を負っていても、それを自ら直視し、直そうとしている良心を持った人とは違う。
良心や罪悪感が麻痺している。
いじめる子供を矯正することは難しい。

いじめられる子供はいじめる子供の方が自分よりも上で、正しいと錯覚している。
錯覚であるが、そのように感じることが真実であることが自明のことにように心に根付いてしまっている。
だから、よく相手を観察して欲しい。
いじめる子供は卑怯だと思わないだろうか。
卑怯だと思う事実を冷静に挙げていく。
ここでやっかいなのは、いじめる相手がかつて親しかったり、親友だと思い込んでいた人だった場合だ。
しかし自分を本質的に貶めるような人間は、親友でもなんでもない。
その現実を受け入れなければならない。その時はとても辛くても耐えなければならない。これほど辛いことはない。
しかしこれに負けてしまったら死を選ぶしかない。

死を意識したとき、極めて少ないかもしれないが今まで楽しかったことを一つでもいいから思い浮かべて欲しい。
そして死ぬ間際でも、千に一つでも今したいことを探して欲しい。
幼いころに食べたあのお菓子が食べたい、でもいい。
とにかくその時の自分の気持ちに耳を傾けて欲しい。
「死ぬこと以外」の今自分のしたいことを感じて欲しい。

自殺は、悲しみ、憎しみ、怒りなどの悪感情を表現できずに心に堆積し続け、もはやその重みに耐えられなくなった時に起きる。しかし本人はそれを客観的に意識できていない。この事実が最大の不幸を招く。

自分の心の声や、欲求に耳を傾けられるようになり、それを自らの行動で満たすことを積み重ねていくと、危機を脱出できる。
そしてその積み重ねが自己の肯定感を少しずつ、少しずつ厚みを増していく。
10年、20年あるいはそれ以上かかるかもしれないが、自己肯定感が出来るようになると、自己と他人の区別が明確にできるようになる。
すなわち、他人のどんな言動にも左右されなくなる。
他人の言動の真意と自己とを切り離すことができるようになる。

それにしても自殺は悲しい行為だ。
自殺は、これまで一度も主張できなかった人が自分を傷つけた人に対し、自分の正当性を主張し、復讐する最後の究極の手段である。
このような行為を生まない世の中になることを切に願わざるを得ない。
このブログを小中高生が読む機会はゼロに近いかもしれないが、何かのきっかけで目に触れたなら、こんな意見もあるのだと感じてもらえればそれでいいと思う。
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2 コメント

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教育・政治の貧困 (fado)
2016-10-24 16:23:41
緑陽さんこんにちは、今回は重いテーマですね。
大変に教務深く読ませていただき、心に期するところがありました。
毎日、新聞やテレビを見るたびに心が引き裂かれそうになる事件ばかりが目につきますね。
青森県の事件をはじめどうしようもない事件ばかり・・・。
私はこのように言ってしまえば、すべてが終わってしまいますが、誰もがわかっているように、このような事件はもとをただせば、すべて、政治の貧困、教育の貧困によるものと思っております。
政治を行っているものが、そもそも、政治を全く分かっていなかったり(自分の利益や立場のみに固執している人たち、今、問題になっている白紙の領収書など普通では考えられないことを平気でする輩など、しかし、そんな政治家を選ぶ国民はもっと罪深いですね)教育のわかっていないものが、教育を考える中枢の場にいたり・・・まったくもって日本・・・いや世界はどの方向に行こうとしているのでしょうか。
教育に関しては、国は過去現在、実学主義・詰め込み教育・ゆとりの教育などなど様々な取り組みを行ってきていますが、それらのどれもが失敗がさしたる成果を上げていないと言わざるを得ませんね。
教育に対する根本的な理念を持ちえない者が表面的に手法だけをあれこれいじくり、あたかもこれが正しいといわんばかりに政策を発表し施行する・・・そして、失敗した挙句にだれも責任は取らない。
私は、教育機関で唯一学ぶことは「知識ではなく知性である」と考えています。
知性とは「自分が必要としていて知らないことを知るためにスキルを持つこと」言い換えると「自分の目標とするところを見つける力、そして、その目標へと自分を導く方法を見つけ、自分自身をそこに連れて行ける」ことを知ることだと思います。
学生時代に、知識だけを後生大事に身につけても何の役にも立ちません。
知性と、もう一つ上げるとすれば、常に相手の立場に立って、人の痛みを考えることも大切ですね。
これらのことは、集団生活の中で子供たちが身につけることですが、そのモデルになるのは、大人です。子供たちは大人の一番悪いところを真似するものです。大人たちが変わらなければ、いじめはなくなりません。
しかし、緑陽さんが言うように、大人たちもグローバル化社会などという植民地争いの真っただ中で、精神的にも疲弊しています。見本を見せる、余裕がないといえましょう。しかし、精神力を振り絞っても、子供たちの良いモデルにならなければならないのです。
昔、私が中学生の時、各中学校には必ず「番長」という喧嘩が強く、正義感のある人たちがいたように記憶しております。
ある時、中途半端な悪にいじめられて泣いていた生徒の前に行って「やったのはあいつか?」と聞くや、素早くいじめた生徒の前に飛んでゆき、その生徒の胸ぐらをつかみ殴り飛ばしているのを何度も見たものです。そんな中から子供たちは卑怯を憎む心を身につけていったのでしょうね。そんな時、先生たちは温かい目で彼らを見ていました。決して叱ったりはしていませんでした。

今、マスメディアを通じて、各国のリーダーたちの、利己主義(自分の国の利益を最優先する)をごり押しする目を覆いたくなるような悲しく哀れなニュースが目に飛び込んできます。この状況を子供たちはどのようにみているのでしょうか?

電通の自殺事件もしかり、自社の利益だけを追求し人を人とも思わぬ思想。
1%の富裕層と99%の貧民、タックスヘイブンに富を隠す富裕層、そのことを報じないメディア・・・。そろそろ100年後の世界を考えなければ手遅れになってしまいますね。もうすでに手遅れかも・・・。

教育・政治の貧困・・・私たちは本気で考えなければなりません。一億総愚民と呼ばれる前に。

北海道は、何日か前に雪が降り本格的な冬に近づいています。緑陽さんもお体には気を付けてブログを発信してください。それではまた…。
返信する
Unknown (緑陽)
2016-10-24 21:53:01
fadoさん、こんにちは。コメント下さりありがとうございました。
fadoさんがおっしゃる下記のコメント、私が今まで会社勤めをしてきてまさに実感として感じること、そのものです。

-「知性とは「自分が必要としていて知らないことを知るためにスキルを持つこと」言い換えると「自分の目標とするところを見つける力、そして、その目標へと自分を導く方法を見つけ、自分自身をそこに連れて行ける」ことを知ることだと思います。学生時代に、知識だけを後生大事に身につけても何の役にも立ちません。」-

私は駄目な嫌な高校に入りながらも大学を目指したのですが、、その学校の先生は普通1年で終わる数学Ⅰを2年かけてやり、入試の2次試験科目だった数学Ⅱbを最初の1章と第2章の最初で打ち切ってしまったのです。
それで先生に何とかしてくれないかと言いにいったら、この大学は理系の生徒が受けるのだ、ととんでもないことを言われました。
それで仕方なくその数学Ⅱbを独学で勉強しました。
でもおっしゃるように、この経験で知識ではなく、「知らないことを知るためにスキルを持つ」ことの意味、「その目標へと自分を導く方法を見つけ、自分自身をそこに連れて行ける」ことを知ることができました。
しかもこの実感は高校生のときではなく、就職して社会人となって何十年も経ってからじわりと感じるようになったのです。
この体験は今思えば貴重な体験だったと思っています。

また大学に入学したはいいが、高校時代勉強漬けだった反動からすっかり勉学に身が入らなくなり、大学時代の前半はろくに授業に出ず、成績は人に言えないほど悪くなっていました。
しかし大学時代の後半に、ある学問との出会いで方向が変わりました。
授業はつまらないので出席せず、大学の図書館に閉じこもり、論文を書庫から引っ張り出しては読み漁るというようなことをやっていましたが、その時期が今思えば意外に楽しくて、その経験が今の仕事の基礎力にとても役立っていることを実感します(結局大学は卒業するのに5年かかりました)。
本当に知識だけでは何の役にもたちませんね。これは本当です。

昔、私の子供時代も裕福ではなく、長屋のような住宅の子供たちと学年を問わず、集団で遊んでいましたが、正義感が強く、とてつもなく優しい少年が何人もいました。
彼らと遊ぶのがとても楽しかったです。
当時、弱い者いじめをする奴は、「女の腐ったやつ」と軽蔑され、相手にされなかったものです。

いつのまにか日本はダメな国になってしまったと思います。
私の感じでは1980年頃が分岐点だったように思います。当時、中学校では校内暴力の嵐が吹き荒れていました。
私はこの分岐点である1980年より前の時代、それは今の私の全てをかたちづくってくれた時代を経験できたことが、その後の人生で脆かった自分を何とか支え、窮地を抜け出す力になってくれたと思っています。

北海道は雪が降ったのですね。
でも北海道の冬に入る前のこの季節が好きなんです。
北海道で一番寒く感じる時期、fadoさんもお体を大切になさってください。
ありがとうございました。

-追伸-
fadoさんが前回のコメントで紹介下さった、マイルス・デイヴィスのアルバム、Kind of Blue、たまたま昨日立ち寄った図書館で見つけ借りて聴いているところです。
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