緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

2016年スペインギター音楽コンクールを聴く

2016-10-10 00:43:16 | ギター
今日(9日)、東京都台東区のミレニアムホールで、第34回スペインギター音楽コンクールが開催されたので聴きに行ってきた。
このコンクールも1991年に初めて聴いてから25年、仕事などで行けなかった数回を除きほぼ毎回聴かせていただいたことになる。
25年前と今と比べてレベルは上がったのか、と言われるとあまり変化を感じないというのが正直なところ。

今日は第2次予選の3分の2が終った頃に会場に到着した。
第2次予選の課題曲はマラッツのスペインセレナーデ(タレガ編)であった。
この曲を初めて聴いたのは、中学2年生の時にナルシソ・イエペスが録音した6弦ギター時代の演奏。
タレガによる編曲ではなく、イエペス自身による編曲であったが、私は今でもタレガ編ではなくイエペス編の方が好きだ。
イエペス編は、彼の弟子のホセ・ルイス・ロパテギによる運指により出版された。



タレガ編による演奏で今まで聴いた中では、故、阿部保夫氏が「珠玉アルバム」シリーズのレコードに録音した演奏が最も印象に残っている。



阿部保夫氏は現東京国際ギターコンクールの第1回目で、このスペインセレナーデを弾いて優勝したと記憶している。

この第2次予選でのスペインセレナーデは全ての演奏を聴いたわけではないので、断片的なことしか言うことができないが、あいかわらずタッチが軽く、か細い音の演奏が多かったということだ。
やはり右手の角度を弦に対し45度の角度で弾く奏者が少なからずいたが、傍から見ていても指の動きが不自然で弾きづらそう。
一体誰がこんな手の角度を広めたのか。
この角度でのタッチだと、必然的に爪の右側で弦を弾くことになるので、弦に対する力は左側のそれよりも弱まる。
この角度によるタッチだと楽器の持つ能力を最大限に引き出すことは無理であろう。

さて本選では下記の6名が選出され、順位も発表された(カッコ内は私が付けた順位)

課題曲;パバーナ(G.サンス作曲)/パバーナ・カプリチョ(アルベニス作曲)

①渡邊 華さん 第6位(第6位) 自由曲:第7幻想曲(Op.30、ソル作曲)
②横村 嘉乃さん 第4位(第2位) 自由曲:ムーア風舞曲(タレガ作曲)/グランソロ(ソル作曲)
③杉田 文さん 第3位(第4位) 自由曲:ソナタ作品61(トゥリーナ作曲)
④茂木 拓真さん 第1位(第1位) 自由曲:ソナタ作品61(トゥリーナ作曲)
⑤山口 莉奈さん 第2位(第3位) 自由曲:ソナチネ(トローバ作曲)
⑥大沢 美月さん 第5位(第5位) 自由曲:暁の鐘(デ・ラ・マーサ作曲)/ソルの主題による変奏曲(リョベート作曲)

以下感想を簡単に示す(演奏順)。

①渡邊 華さん
課題曲(サンス):音が渇いている。音色の変化に乏しく、平板に聴こえた。
課題曲(アルベニス):全体的におとなしく平板、感情的なものに欠ける。左手の押さえに課題を感じる。
曲の途中でどわすれしてしまったのが惜しい。
自由曲:これもおとなしく平板に聴こえた。速度、音量、音色が一本調子。テンポは正確だった。
長調に転調した後はもっと繊細で、高音を歌わせて欲しかった。終盤の激しさのある部分はもっと大胆さが欲しい。

②横村 嘉乃さん
課題曲(サンス):低音が太く、高音の抜けも良い。変化がありいい音だ。古楽器の音を意識してよく表現していた。
課題曲(アルベニス):演奏、音がこじんまりしていておとなしい。アルベニス特有の情緒に満ちた曲であるが、スペインらしい民族的なリズム、歌心をベースにしながらも作者が感じたであろう強い気持ちの理解が十分でなかったように思う。自由曲が素晴らしかっただけに、この課題曲の演奏はやや残念。
自由曲(タレガ):指が良く回る。音のアクセントの付け方、そしてリズムがいい。よく研究している。この曲が意外にも楽しめた。
課題曲(ソル):定番の自由曲。この難曲を淀みなく弾いたのは立派。冷静であり、ちょっとしたミスでも動揺しない落ち着きがある。舞台度胸の強さを感じた。
中低音域の音の使い方、旋律の運びに新たな発見をした。高校生なのだろうか。将来性を強く感じた。
願わくは自分自身の解釈、感じ方を今後伸ばし、研鑽を積み重ねて欲しい。

③杉田 文さん
課題曲(サンス):高音に芯があり美しい。しかしやや平板。古楽器的な響きを聴きたかった。
課題曲(アルベニス):感情の起伏に物足りなさを感じる。もっと情熱が欲しい。スペインの熱い気持ちを感じさせて欲しかった。高音がややメタリック。転調しても同じような傾向が続く。
自由曲:(トゥリーナ):高音がやはりやや細く、骨太さに欠ける。この曲もスペイン特有のリズムの変化、情熱的な激しさに欠けていたように思う。
繊細で誠実な演奏をされる方。私はこの方の演奏に好感を持てた。

④茂木 拓真さん
課題曲(サンス):テンポはやや速め。音の響きは豊かだったが、高音はもっと繊細な表現があってもいいと思った。中盤の高音の強い意識したアクセントは少し違和感を感じた。
課題曲(アルベニス):高音の強音がややメタリック。しかしスペインの情熱を感じさせる、自分のものとして消化された演奏。懐に入った淀みの無い演奏。
転調後の出だしはやや乱雑に聴こえた。もっとゆったりしてそれまでの曲想との違いを浮かび上がらせてもいい。
メカニックは正確で、旋律も良く歌っている。音が硬い部分があるが、歌を感じさせてくれた演奏だった。
自由曲(トゥリーナ):楽器を良く響かせている。音色の変化も豊かで力強さもある。
第二楽章も音色の変化に富んでおり楽しめた。第3楽章は力強いラスゲアードと、うねるようなスケールが良かった。メカニックも正確だ。終結部は激しさを増し、スペインらしいクライマックスを楽しめた。

⑤山口 莉奈さん
課題曲(アルベニス):調子が悪いのか音が鳴りきらない。高音はやわらかくこの曲の繊細な気持ちを良く表していた。やはり大人の演奏だ。作曲者の心情を理解しているし、素直に表現されていた。
課題曲(サンス):高音の出し方が上手い。この高音に哀愁を感じた。やわらかな低音もいい。
中間部もアルペジオは古楽器的な響きを十分に出していた。音楽の流れが自然で素直なのが良かった。
自由曲(トローバ):やや余裕の無さを感じた。歌い方に物足りなさを感じる。左手のミスがかなり散見され、それが音楽の中に入っていけてないように思えた。
しなやかな演奏ができ、表現力もあり、音楽的にはこの奏者が最も深いものを感じたが、ミスが多かったのが残念。

⑥大沢 美月さん
課題曲(サンス):和音をアルペジオにしていたが、どうかと思う。速度、テンポにやや不安定さを感じた。クレッシェンドで速度がやや速まっていたように思える。
課題曲(アルベニス):音が浮ついた感じがする。音と音との分離、境界が不明瞭で、旋律が明確に感じられない。しかしこの不明瞭のような感じも魅力、持ち味と感じる方もいるかもしれない。
途中、致命的などわすれがあったが、これがきっかけで後の演奏は落ち着いた自信に満ちた演奏だった。
自由曲(デ・ラ・マーサ、リョベート):やや平板、音色の変化に乏しかったが、 リョベートの演奏は落ち着いており、自信を感じた。

全体的にはレベルは例年比べそう高くはないと感じた。
本選出場者6人中5名が女性というのは初めて。
女性はギターの場合、ダイナミックスさに欠けるように感じるが、ピアノ界では女性でも男以上のパワフルな演奏をするピアニストがたくさんいる。
繊細さを十分に生かし、同時にパワフルな表現を研究して欲しいと思った。

第2次予選で終わった方を含め、出場者の本選自由曲の曲目を見ると、毎年のおなじみの曲ばかり。
もっと現代の、現代作曲家の曲はないのだろうか。
現代音楽を選んではいけないという制約はないはずだ。
硬派で難解な現代音楽を弾く人が現れないだろうか。

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2016年度 Nコン全国大会高等学校の部を聴く

2016-10-08 23:52:23 | 合唱
今日はあいにくの雨ふりであったが、東京渋谷のNHKホールで行われたNHK全国学校音楽コンクール(Nコン)全国大会高等学校の部の生演奏を聴きに行ってきた。
入場者が多いせいか、会場の外でどしゃぶりの中を随分と待たされた。
座席は3階席であったが、舞台の中央方向で聴くに不便さは感じなかった。
Nコン全国大会の生演奏を聴くのは3年連続だ。
ただコンクールという性質上、聴き終えてから必ずしも心満ち足りたわけではない。
これは器楽のコンクールも同じであるのだが、自分でいいと思った演奏、感動させてもらった演奏が必ずしも高い順位を得るとは限らないからだ。
合唱に限らず音楽は勝負事とは本質的に異なるし、順位も人間の主観で付けられるのだから、賞の結果に一喜一憂してもしかたがない。
なので賞の結果は参考程度にし、とにかく各学校の演奏を楽しむことに徹している。

高校生の合唱演奏を聴いて約6年。
その間数多くの演奏を聴かせていただいた。
その中でも信じられないほどの高い集中力で奏される、魂の奥底を震わせるような演奏に出会った。
たった数曲であるが、そのような曲はこれまでも何度も何度も繰り返し聴いてきた。
一言で言うと、純粋に歌う喜びに満ちた、歌う心に全くの雑念の無い、無心で何も求めず、歌い手それぞれの自発的な気持ちが何か潜在的な大きな力に導かれて舞台で完全一体となったような演奏なのだ。

このような奇跡的な演奏を追い求めてこれからも合唱曲を聴き続けていくつもりだ。

今日の演奏で印象に残った学校と演奏曲を演奏順に紹介したい。
ちなみに今年の課題曲は「次元」(作詞:朝井リョウ、作曲:三宅悠太)。

〇演奏順1番目:福島県立安積黎明高等学校
課題曲:
音質が柔らかく、明るく女性らしい優しさの感じる歌声。
音程は申し分ないが、音色の変化に欠けると感じた。やや1本調子に感じる。
音量のコントロールは素晴らしい。無理をしないところもいい。
「世界を作った瞬間 神様~お母さん」の部分はもっと表現の豊かさがあってもいいのでは。発音が不明瞭に聴こえる部分もあった。
全体的にまとまったいい演奏だと思うが、音色の変化、拡がりに期待したい。
確かに魅力的な音色でファンも多いが、終始一つの音色にこだわらなくてもいいのではないかと思う。

〇演奏順2番目:山口県立萩高等学校
 自由曲:混声合唱とピアノのための「もうひとつのかお」から あなた 作詞:谷川俊太郎 作曲:鈴木輝昭

地味であるが、この学校の演奏はいい演奏だと思った。
女声が柔らかく美しい。力みのない自然な発音。この女声に自然の優しさを感じた。
秋の風に揺れる稲の穂先のように感じる。急がない。意識的なテンポではなく、自然が時を刻むような流れ。
意識して上手く歌おうとしていない。この自然さが大切なのだ。
冒頭のフレーズ、「かがやいているのを知った(?)」の部分、やや音程が下に聴こえてが、むしろそれが何か感傷的な気持ちに聴こえる。
音量のコントロールが難しく、繊細な曲だ。和声も変化が顕著で響かせるのに苦労する曲ではないか。
萩高等学校の演奏は決して意図的に誇張することなく、自然の鼓動を感じる演奏をしてくれたことに好感を持った。
「上手い!」と感じるより、歌い手の気持ちが感じ取れることが重要だと感じさせられた演奏だった。
作曲者の鈴木輝昭氏は、前衛的な難曲が多いが、このような純粋な美しさを感じる曲も作れることに驚く。
三善晃氏のことを思い出した。

〇演奏順7番目:山形県立鶴岡北高等学校
課題曲
自由曲:女声合唱曲集「笑いのコーラス」から 贈り物 作詞:高階 杞一 作曲:横山潤子

課題曲は、全11校の中で1番理解できる演奏だった。
発音が明瞭、特に低音の発声が素晴らしい。この正確で明瞭な適切な音量の低音に支えられ、対極としての高音パートの音が透明で良く伸び、響き渡る。
やや音色に柔らかさに乏しいと感じたが、この明晰で透明な音色は魅力だ。歌声に明るさも感じる。
この高校のいいところは、ダイナミック・レンジが広く、強く、大きな音量が必要とされる部分も決してうるさく聴こえないところ。
音量、音色の幅が広く、表現の変化も広い。いわゆる決して単調ではない演奏なのだ。
「xでもyでもない~立体としての世界の構造を」のフレーズを速く、自然な音量を超えた大音量で力んだ演奏をする学校が多かったが、この高校は力強くも説得力のある演奏だった。
「誰もが輪郭を知っているもの~誰も知らない」の部分は繊細であり、フレーズの後半部の音量を上げ過ぎていないところはさすがだと思った。
「名前を付けるだけでは」の後の歌詞無しのアーの部分も同様。
「私は想像する」のハーモニーは圧巻。終結部の静かなエネルギーも素晴らしい。

自由曲は今回の大会で最も聴き応えがあった。
聴き手の感情が強く伝わってくる演奏だった。
3時間にわたるコンクールで、中盤になると疲れによる集中力の途切れで、演奏に集中できなくなってくるのであるが、この演奏を聴いて一瞬にして気持ちが研ぎ澄まされた。
高音の透明感と音の伸びが実に素晴らしい。その音とコントラストを成し、かつ支えている低音パートの地味ながら力強く正確な音程を常に保つのを聴いて正直驚いた。
技術力に支えられていながら、音楽の流れが自然、歌い手の気持ちがこれほど強く伝わってくるとは思わなかった。
「はっきりとこたえられる場所があるんだろうか」の部分の高音と低音のコントラストが際立つ。
女声でこのような低音を出せることは余程の基礎力と鍛錬がないと出来るものではない。
「その中の一番すてきなやつをもらってこよう」
「星座のように」、「それを届けよう」の部分で見せたソプラノの透き通った音の伸びと感情エネルギーの強さは凄かった。
形式的なダイナミックスや技術力による上手さを超えた、歌い手たちがこの歌が心底好きで歌うことに喜びを感じていることが伝わってきたことが何よりもうれしかった。

〇演奏順11番目:北海道立釧路湖陵高等学校
自由曲:混声合唱組曲「How old am I ?」から How old am I ? 作詞:吉原幸子 作曲:荻久保 和明

この高校も萩高等学校と同様地味な演奏だった。
しかし私はこのような演奏が好きだ。
外を意識して上手く歌うことに主眼を置かず、あくまでも自分達の持ち味の範囲で精一杯歌おうとする。
そのような姿勢に心を動かされる。
この自由曲は現代音楽に属する難解な曲だった。
このような万人受けしない、難しい曲を評価するのは難しい。
1回聴いただけでは無理。
女声は優しさの感じる自然な歌い方、男声はもう少しセーブしてもいいと思ったが、まずまずだと思った。
ちなみにこの学校のピアノ伴奏は素晴らしかった。
本題から外れるが、釧路湖陵高等学校は北海道でも歴史のある名門校であり進学校。
私の学生時代に住んでいた超おんぼろアパートの隣の部屋に、釧路湖陵高等学校出身の学生が住んでいたのを思い出す。
北海道の地方には、小樽潮陵、室蘭栄、函館中部、北見北斗などといった進学校があるが、私の卒業した学校とは雲泥の差である。
Nコンに出場する学校に有名進学校が多いのに驚かされるが、合唱をやる生徒たちが真面目なのも共通性を感じる。
今日の釧路湖陵高等学校の演奏を聴いて、何故私が合唱曲の中でも拘って高校生の合唱の演奏を聴き続けるのか、その理由が分かってきたように思う。
本心から言うと、高校時代に彼らのような人たちと過ごしたかったのだ。
今まで漠然と何故なのか分からなかったが、無意識に彼らのような高校生との音楽を通しての交流を追い求めていたのかもしれない。
満たされなかったものは何十年経っても心に残り続ける。
人間の心はごまかすことは出来ないことを痛感する。
しかしこうやって間接的ではあるが、遅ればせながら気持ちが少しづつ満たされていくのも悪くはないし、それでいいのだと思った。

今回の生演奏を聴いて感じたのは、音量のコントロールの難しさである。
強い音量は確かに必要だ。
しかし、ハーモニーが割れた、崩れた大音量、意識された大音量は聴くに堪えない。
大音量よりも、ホールの一番後ろまで突き抜けるような、直線的、スポット的な強い音が必要だ。
そして終始力んで強く歌うのではなく、レンジの広さ、音色の変化、繊細さ、それらが意図的にコントロールされた結果としてではなく、歌い手の自然な気持ちから表出され、しかも各人の気持ちが一体として統合されて表現されることが必要だと感じた。

考えてみれば、音楽は作った人の感情、気持ちから出発している。
その根源的な気持ちが分かれば意図的な操作は要らないはずだ。
音量、速度、音色の変化等、根源的には結局、作者の感情にたどり着く。
作者の感情を理解せずしてこれらの表現を自然な流れで行うことは無理。
自然な気持ちの流れと今まで随分と言ったが、決して簡単なこととは思えない。
外を固めるより、人の気持ちを理解することが音楽を理解することにつながる。作者と演奏者の気持ちの同化。
そのためにはある程度の人生体験も必要であるが、高校生にはまず純粋な気持ちが大切。
技術的にあれこれ頭で考えて計算して、ここをどう演奏しようかと考える以前に、この音楽から聴こえてくる感情を部員たちで何度も出し合い、とことん議論することが最も大切ではないか(いうまでもなく出場者の方々は実践しておられると思うが)。
聴き手は歌い手たちの気持ちを感じたいのだから。

Nコンの生演奏を聴いた後ではたいてい後味の悪さを引きずることが多かったが、今日の演奏はすがすがしさを感じた。
演奏会が終ったあとでは、どしゃぶりの雨も上がって青空も垣間見ることもできた。


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爪磨きの改善(4)

2016-10-02 21:22:50 | ギター
いつだったか記事で紙ヤスリ丸めて湾曲させ、縦方向に指を動かしながら磨く方法を紹介した。
この方法を発見してから今も継続して実践している。
この方法のメリットは、磨いた爪の表面が平らにならず、曲面となり、かつ磨いた面の両端が鋭角にならず、R(アール)となるため、弦を弾いた時に引っ掛からないのである。

このやり方で磨いたあとの仕上げであるが、ルシェールという弦メーカーが出している布製のサンドペーパーの使い古しを使っていた。
しかし使い古しも使い続けていくとただの布になっていくものである。
このルシェールの磨きセットは高価なので、もっと身近なもので代用できるものはないかと探していた。
初め布製サンドペーパーを探したが、ルシェールのようなものは発見できなかった。

先日図書館で現代ギターを立ち読みしていたら、あるギタリストが爪磨きの仕上げに石を使っていることが紹介されていた。
石という発想に驚いたが、私は木片、黒檀とかそれに近い硬い木でホームセンターや東急ハンズなどで手に入る破材を以前試したことがあったが、結局表面が平らなので鋭角に磨かれてしまうのだ。
堅い皮、これも東急ハンズで売っていた破材であるが、うまくいかなかった。

数日前職場の机の引き出しを何気なくいじくりまわしていたら、思いもよらぬ物が出てきた。
それは10年くらい前に、製造現場の破材置き場から拾ってきたものだった。
もう一つは工程管理担当者から不要となったものをもらった物。

それは埋込座とボルトだった。
埋込座は真鍮製で、埋め込まれる部分が球体で、座の部分はタップを切ってある。
このタップに先の工程管理の方から貰ったボルトが偶然にもピッタリだったのだ。お互いに何の関連性のない部品である。
このガラクタを何に使用することもなく、長い間机の引き出しにしまってあったのだが、これをたまたま見た時、先に述べた現代ギターで紹介されていた石のことが頭に浮かんだ。
もしかするとこのガラクタが爪磨きの仕上げ用に使えるかもしれない。

早速家に持ち帰り、埋込座の球体の表面をサンドペーパーでならし、爪を磨いてみた。
埋込座にボルトを装着すると持ちやすくなる。
爪を動かす方法は弦を弾くときの動きと同じように上下縦方向である。
同じ角度にならないよう、さまざまな角度で磨いていく。

いいところで実際に弦を弾いて試してみる。
意外に雑音は無い。いい感じだ。
真鍮製で鉄よりも柔らかいのがいい。

しばらくこれを仕上げ用に試してみるつもりだ。









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木島始作詞 信長貴富作曲 合唱曲「ねがいごと」を聴く

2016-10-02 00:47:44 | 合唱
ここ1か月ほど、木島始作詞、信長貴富作曲の合唱曲「ねがいごと」を聴いていた。
この曲は3曲からなる混声合唱組曲「ねがいごと」の第3曲目である。
この曲を初めて聴いたのは、全日本合唱コンクール全国大会の録音で、札幌北高等学校が演奏する「厄払いの唄」であったが、組曲全て通しで聴いたのは今年の3月に神奈川県立多摩高等学校の定期演奏会であった。
とくに終楽章の「ねがいごと」は強く印象に残っており、「リフレイン」と何度か繰り返されるフレーズが忘れられなかった。
その後Youtubeで札幌北高等学校のNコンでの演奏を聴いたが、1か月ほどまえにNコンのホームページで多摩高等学校のNコンの演奏(平成27年度)を見つけた。

木島始氏の「おのおの消えゆく者の人生の総括の詩」に信長貴富氏が曲を付けたものであるが、なかなかいい曲だ。
この世に未練を残さず、来世に希望を託す。
曲に暗さや悲しさは無い。人生や運命に対する受容、悟りが感じられる。
未来に向かう強い気持ちに満ちている。

多摩高等学校が歌う次のフレーズの歌声、とくにソプラノとアルトが好きだ。

おもいほどこのよあのよにとほうもなく
かけまりにいきたがるものはないだろう
そのひとびとのおもいのなかへとびこんで
へんしんしうる今をわがものにできるよろこび

この最後のフレーズのひたむきな歌い方に感動する。
気持ちが無垢なのである。
それ以外のものは感じられない。
歌い手のこの純粋、無垢で、精一杯な歌い方に感動するのだ。
歌い手の日常の気持ち、生き様が十分に聴き手に伝わってくる演奏だ。

合唱コンクールで賞を意識し、計算された演奏を聴いてうんざりすることがある。
賞を求める気持ちは誰にでもある。
それは否定できない。
しかし賞を狙った演奏よりも、純粋に曲の素晴らしさ、歌を歌うことの素晴らしさを聴き手と共有できた結果、賞を貰う方が何千倍もいい。

高校生たちには、後で何度も繰り返し聴きたくなるような演奏、聴くたびに深い感動を引き起こしてくれるような演奏とは何かと自ら問いかけ、そのような演奏を目指してほしいと願う。

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アグスティン・バリオス作曲 前奏曲ハ短調を聴く

2016-10-01 23:15:14 | ギター
ギター曲で最も悲しいと感じる曲の1つに、アグスティン・バリオス(Agustim Barrios Mangore 1885-1944)作曲の「前奏曲ハ短調(Preludio en Do menor 、Prelude C sharp)があげられる。
この曲を初めて聴いたのは高校3年生の時、FMラジオでスペインのギタリスト、ホセ・ルイス・ゴンサレス(Jose Luis Gonzales、1932-1998)のレコードでの演奏であった。

このFMラジオでホセ・ルイス・ゴンサレスというギタリストを初めて知った。
1981年の春の頃だっただろうか。
この時のFMラジオでは、ホセ・ルイス・ゴンサレスが2度目の来日の記念に1980年11月に聖グレゴリオ教会(ギターの録音によく利用される)で録音されたレコードの中から、サーインス・デ・ラ・マーサの「ソレア」と「アンダルーサ(ロンデーニャの旧作)」、そしてバリオスの「前奏曲ハ短調」と「郷愁のショーロ」が放送された。
私はこの放送をカセット・テープに録音し、その後就職して再発されたCDを買うまで何度も何度も聴いた。
このレコードは「ホセ・ルイスの至芸 第1集」というアルバムであったが、当時高校生だった私には買うことができなかった。

ホセ・ルイス・ゴンサレスの演奏を初めて聴いた印象は、音のビリつきの多い演奏だな、左手に難点のあるギタリストだな、という印象だった。
しかし何度か聴いているうちにすっかり、彼の演奏の魅力にとりつかれてしまった。

そしてすぐにこの4曲を弾きたくなり、まずバリオスの2曲の楽譜を買い求めた。
当時バリオスが注目され始めていた頃であり、全音楽譜出版社からメキシコのギタリスト、バリオスの研究家であるヘスス・ベニーテス編の楽譜が出ていたので、これを手に入れた(当時の価格で1,200円)。

それからというもの、「郷愁のショーロ」、「前奏曲ハ短調」を馬鹿みたいに弾き続けた。
当時高校生だった私は、高校生活に不遇で勉強ばかりしていたのであるが、学校の必修クラブでギター・クラブというのがあり、そのクラブの時間に、この2曲を飽きるまで弾き続けていたことが思い出される。
つまらなく、嫌で苦しい高校生活もこの時間だけは至福のように感じられた。

高校時代、芸術科目は音楽を選択していたが、或る時、授業でギター演奏を披露する機会があり、その時にタレガのタンゴと、ヴィラ・ロボスの前奏曲第1番を弾いたのであるが、その後担任の先生を介して、音楽の先生がものすごく褒めていたよ、と聞かされてとてもうれしかったことを思い出す。
歌ではひどい目にあっていたが、このギター演奏で通信簿が5段階評価2から5に跳ね上がったのは、高校時代暗かった私にとっては少し自信をもつきっかけとなったのである。

このホセ・ルイス・ゴンサレスのLPレコードは買えなかったが、就職してから再発されたCDを買った。
しかし、このCDには「前奏曲ハ短調」が収録されていなかった。
これにはとてもがっかりした。
この「前奏曲ハ短調」は私にとってとても大切な曲であったし、なによりも初めて聴いたホセ・ルイス・ゴンサレスの演奏を聴きたかった。

それから30年近くたって中古のLPレコードを手に入れた。
興奮気味にレコードの針を落とす。
あの時に何度も聴いた演奏が蘇る。
とても悲しく、激しい感情の伝わる演奏。
感動で鳥肌がたった。
凄い演奏だった。こんな音を出せるギタリストは今やいない。

11小節目から徐々にクレッシェンドし、低音が6弦開放で始まるフレーズが最高潮となるが、この6弦開放の音が凄い。感情の起伏が自然であり、かつ強い。
楽器は1964年製のホセ・ラミレスⅢ世である(ホセ・ルイスがシドニー国立音楽院の教授の仕事を終え、スペインに帰国する帰路で手に入れたブレスレットと交換したと言われる、ラミレス婦人所有だった楽器)。

ホセ・ルイス・ゴンサレスは1980年代からにわかに注目され、多くの日本人ギタリストが彼の教えを求めてスペインのアルコイに留学した。
私も1990年代初めに、御茶ノ水のカザルス・ホールで彼の生演奏を聴いたが、残念ながらこの時は最盛期を過ぎていた。
彼の最後のアルバム「タレガを讃えて(Homenaje a Tarrega)の演奏は最盛期の演奏とは別人のようだった。

しかし最盛期のホセ・ルイス・ゴンサレスの演奏は素晴らしい。
ギターという楽器の持つ真に魅力ある音を引き出すことに成功したのは、セゴビアとホセ・ルイスだけではないだろうか。
ホセ・ルイスの音と、昨今のギタリストの音を聴き比べてほしい。
現代のギタリストに最も欠けていることが彼の演奏を通して浮き彫りにされる。
現代のギタリストは楽器から最大限の魅力ある音を引き出していないし、感情エネルギーに乏しい。
貧弱な音であり、聴き手の魂を震わせることは無い。聴き手の内面の深いところには決して届かない。
ホセ・ルイスのような強烈な個性を持ち、聴き手を真に感動させるギタリストはこの20年現れていない。
しかしホセ・ルイスにも欠点がある。
レパートリーが少なく、スペインもの、南米ものに偏っている。
彼のことをマエストロと呼ぶ人がいるが、私はクラシックギター界の巨匠とは認めていない。

「前奏曲ハ短調」は2分ほどの短い曲で、シンプルな分散和音の連続の曲であるが、左手は押さえが難しいし、力が奪われる曲である。
ヘスス・ベニーテス編の運指では最後まで持たない。
運指はかなり研究したが、左指の力の弱い私にとってはこの曲は最後まで弾くのがやっとであった。

ホセ・ルイス・ゴンサレス演奏の「前奏曲ハ短調」はYoutubeに投稿されていなかった。
意外なことにホセ・ルイス・ゴンサレスの演奏の投稿が少ない。
彼の存在はもはや伝説となりつつあるのか。







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