緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

八村義夫作曲「ピアノのためのインプロヴィゼーション」を聴く

2016-06-18 22:58:56 | 現代音楽
前々回の記事で、八村義夫作曲の「ピアノのための彼岸花の幻想(op.6)」という曲を紹介したが、その後、八村義夫氏(以下敬称略)が高校生の時に作曲した言われる、「ピアノのためのインプロヴィゼーション」(Op.1 1957年作曲)を聴いた。

この曲は、八村義夫が駒場高校時代に断片的に作曲した15曲のピアノ曲から選び、手を加えて5曲にまとめたものである。

完全な無調の、暗く不気味で、理解困難な厳しい音楽である。
このような音楽は、合わせ物やオーケストラではなく、単一の楽器、それも和声のあるピアノやギターで聴いた方がよりその独特の音楽の特性を際立たせることができるように思う。

現代音楽にも色々あるが、八村義夫の音楽は、内面の深い闇から聴こえてくる音を手繰り寄せて作られたように思える。
聴いていて、音の組み合わせの形式的な効果というものが全く感じられない。
現代音楽の中には、表層的な奇抜さや斬新さで聴き手を驚かすようなタイプのものが多々あるが、彼の音楽はそのようなものとは思えない。
調性音楽や古典的形式に関心を示さない音楽の作り手は、人間の心理のもっと深い、複雑なものに目を向けているのではないか。
人間の深層心理に堆積する複雑な感情、「闇」に代表されるそれらの感情は決して綺麗な清らかなものではなく、人間が自ら目を背けているものである。
音楽で喜怒哀楽を表現することはそう難しいことではない。
人々は理解しやすいそれらの感情を表す音楽に共感し酔いしれる。
非日常的な感情を疑似体験し、満足感を得る。
しかし人間の深層心理に巣食う闇の感情を意識下まで昇らせ、かつ音に変換し、芸術的領域にまで昇華させることは極めて難しい仕事である。

八村義夫の音楽がそのような種類の音楽かどうかは分からない。
しかし、この「ピアノのためのインプロヴィゼーション」の最後の恐ろしい和音を聴くと、意識せずとも寒気が引き起こされる。
この和音の意図するものが分かるような気がする。
何か深い精神的なものを表現したかったに違いないと私は思う。

この曲を収録したCDの解説文の中に、八村義夫自身の言葉が掲載されていた。

「私は、音を、或る昂揚した、ひとつの生命体として捉えたい。呼吸し、起立し、燃焼する音の行く末を追っていきたい。」



【追記】
八村義夫氏のピアノ曲を聴いて、共通性を感じたのが作曲家の野呂武男氏である。
野呂武男氏はギター独奏曲を4曲、ギター2重奏曲を1曲、ギターと弦楽との合わせものを1曲書いたが、メインは弦楽四重奏曲やピアノ曲である。
ギター独奏曲は「コンポジションⅠ 永遠回帰」と「コンポジションⅡ 離と合」の2曲が出版され、「コンポジションⅠ 永遠回帰」は1964年パリ放送局国際コンクールで第2位を受賞した。
しかし彼のギター曲は「コンポジションⅡ 離と合」の方が圧倒的に優れている。
この曲の作曲年が1960年であるから、八村義夫氏のピアノ曲「ピアノのためのインプロヴィゼーション」の年代と同時代である。
「コンポジションⅡ 離と合」は恐ろしく暗く不気味で、理解し難い難解な曲であるが、これほどのギター曲を書ける作曲家は、後にも先にも彼だけであろう。
野呂武男氏は極めて高い才能がありながら42歳の若さで自らの命を絶った。

(下の譜面は「合」の一部)



【追記20170920】

「ピアノのためのインプロヴィゼーション」の楽譜の一部を下記に掲載します。




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