緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

アルド・チッコリーニ演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ第31番を聴く

2016-06-11 23:45:56 | ピアノ
私はピアノ曲が好きなのであるが、ピアノの曲の中でもとりわけベートーヴェンのピアノソナタが好きで、これまで数多くの演奏者の演奏を聴き比べしてきた。
ベートーヴェンのピアノソナタは全部で32曲あるが、全曲録音した演奏家も少なからずいる。

全曲録音の演奏にもピンからキリまであるが、私は演奏の良し悪しを判断するのに、いわゆる三大ソナタと言われる「月光」、「悲愴」、「熱情」の出来よりも、第31番、第32番の2曲を聴いて判断している。
この第31番、第32番はベートーヴェンの晩年の作品であるが、精神的に物凄く深い内容を持っており、生半可な音楽解釈では聴くに堪えない。
いや音楽解釈のレベルではなく、演奏者の人生体験の深さ、全人格的な内容を問われる。

私はベートーヴェンのピアノソナタの中でこの第31番、第32番の演奏を多数聴いてきた。
しかしこの曲ほど自分の心に染み入る曲は無い。
外見から分からない人間の精神的苦悩。
これほど人から理解されないものはないであろう。
癌で死んでいく人は多くの人から同情され、映画や小説にもなる。
しかし精神的に苦しみ自殺する人は、たいていは弱い精神的弱者、人生の敗北者としてしか見られない。

しかし精神的苦悩はそと見からは分からなくても音楽をとおして理解できる。
音楽には苦悩のまま終わるものもあるが、苦悩を乗り越えて到達した心境を音楽を通して芸術的高みまで到達させたものがある。

今日聴いたアルド・チッコリーニ(Aldo Ciccolini, 1925 – 2015)演奏のベートーヴェンのピアノソナタ第31番(録音1996年、71歳)は、聴く前はあまり期待していたなかったが、なかなかどうして、意外にも凄い演奏家であった。



技巧を前面に出す演奏家ではないが、しかし 71歳の演奏とは思えない技巧だ。
驚くことにその技巧は、精巧というより、堅牢な土台に根差し、何十年もの浸食に耐えてゆるぎない力強さを獲得したもののように思われるのだ。
物には派手さは無く、地味ではあるが、存在感を放っているものがあるが、 チッコリーニの演奏はそのようなものを感じる。

表面的に華やかで、精巧なもの、食品、音楽、演奏はたくさんあるが、一見地味であるが凄い内容をもつものがある。
たいては華やかで、最初のインパクトの強いものに惹かれ凄いと評価することが多い。
私もそのようなことになることが多々あるが、やはり、本質を持つものを選択し、評価出来るようにしたいものだ。
音楽や芸術に「偽物」と「本物」があるとしたら、やはり「本物」を見つけられるように精進していきたいと思う。

チッコリーニの演奏はさらっとしているようで、よく聴いてみるとそうでもない。地味なようで深いところから強い感情エネルギーが伝わってくる。

第3楽章「嘆きの歌」はどうだろう。
「嘆きの歌」が始まる前の以下の音の連続の部分。マリヤ・グリンベルクの1962年の録音盤と似たような音使いであるが、無造作であるようでそうではない。



マリヤ・グリンベルクの解釈がチッコリーニの演奏を通して理解できる。
「嘆きの歌」は意図的な感情に溺れず進んでいくが、下記の音が素晴らしい。芯の強い音だ。



フーガの低音が重層的でいい。この部分の低音が重層的でないとこの曲の持つ魅力が伝わってこない。
2度目のフーガから終結部の速度が次第に速まっていく所から最後までが聴きもの。
正直驚いた。
最後の低音部の音の分離が明瞭だったからだ。
この部分の音の分離を明瞭に示せる演奏者はわずかである。



そして最後の上昇音階は速度を緩めることなく、弾き切った。凄い。



ここが最大のポイント。
ここを緩めてしまう演奏家が多いが、ここは決して緩めてはならない。
緩めてはならない理由がある。
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