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rakitarouのきままな日常

人間の虐待で隻眼になったrakitarouの名を借りて人間界のモヤモヤを語ります。

書評 私家版ユダヤ文化論

2010-10-03 15:33:51 | 書評
書評 私家版ユダヤ文化論 内田 樹 著 文春新書519 2006年刊

著者がユダヤ人について長年研究してきたことについて「なぜユダヤ人は嫌われるのか」について焦点を当てて解説したものです。その点題名の「ユダヤ文化論」というのには異論があって、ユダヤ文化についてはほとんど論じられておらず、巻頭言で著者本人が述べているように「ユダヤ人がなぜ迫害されるのか」「迫害されても何故変わらないのか」について縷々解説されています。もっとも私を含むほとんどの日本人にとって「ユダヤ文化」なるものには興味はないのであって、ユダヤ人について知りたいことは「何故嫌われるのか」という問題に尽きると思われるので、この本は読者の要求を十分満たすものだろうとは思います。

ただ著者のブログや前に紹介した「日本人辺境論」で見られるような明快で洒脱な論理展開がやや押さえられて、慎重で回りくどい言い方になっていることは「ユダヤ人迫害」という重いテーマを扱うことと氏の恩師であるエマニュエル・レビナス氏がユダヤ人であって大きく影響を受けてきたことに関係しているように思いました。

第一章の「ユダヤ人とは誰か」について、氏が言うように厳密な定義は民族、宗教、思想どの点からも不可能で、「非ユダヤ人でない人がユダヤ人だ」という回文のような説明になっています。しかし「軽重を問わずユダヤ教を信じてしかも血縁にユダヤ人がいる人」をユダヤ人と言っていれば私がアメリカに住んでいたときの周りのユダヤ人の定義から考えても間違いではないと思いました。ユダヤ人はユダヤ教の祭日には仕事を休みますし(キリスト教の祭日にも出てきませんが)、クリスマスはハヌカ祭をするので自然と解ります。

第二章、日本人とユダヤ人は今でも時々日本の古代遺跡などにユダヤ教的な名前がついた場所があるなどと騒がれる日ユ同祖論の紹介で、氏は明治時代、日本が大きく西洋のキリスト文明から遅れていたことの反証として、キリスト教の上をゆくユダヤ教と日本の神が同祖であると主張して日本の優位を保とうとしたのではないか、と興味深い考察がなされています。

第三章の「反ユダヤ主義の生理と病理」は、資本主義の発達とともにユダヤ人が多い経済人が社会を支配するようになったことの反発がエデュアール・ドリュモンのフランスの民族主義と結びついて反ユダヤのファシズムに発展してゆく過程を解説したものです。反ユダヤがヒトラーの専売特許ではないことが解ります。なお私は中世古代の反ユダヤの歴史は大澤武男氏の著作が解りやすいと思います。

第四章「終わらない反ユダヤ主義」では迫害されてもなぜユダヤ人が変わらないのかについて考察されているのですが、著者はその理由として二つの説をあげています。一つはサルトルの「ユダヤ人達が生き延びるために獲得してきた様々な習慣や特性がその他のまわりの人たちから傑出させ、同化させない状況を結果的につくらせてしまったのだ」というもの。そしてもう一つは師であるレビナスが唱えた「ユダヤ人が宿命的に迫害を受ける受難を神から与えられているから」(言い換えると神に選ばれた民族であると思い続けているから)ということです。本においては論理の展開上「何故ユダヤ人の知性は優れているか」の答えとして述べているのですが、本来の問いは何故迫害されるのかの方だと理解します。

「ユダヤ人は何故嫌われるのか」とグーグルで検索すると小生のブログもヒットするくらい、私もその件については以前から関心を寄せていたことは間違いないのですが、ユダヤ人が知性や芸術的才能に優れているだけならば迫害されることはないはずで、地域に根ざした各民族の生活からは突出した経済的地位を現在も含めてユダヤ人達が築いてきたこと、それが地域に根ざした各民族の生活を脅かす存在に結果的になったことが少なくとも近世においてユダヤ人迫害の根本原因になったのではないかと思います。現代においてはユダヤ人が中心となっている経済の繁栄がグローバリズムにつながっているわけです。だから「反ユダヤ人」という人を対象とした非難でなく反グローバリズムという「主義・思想を非難するものであればそれは健全なものであり、遠慮する必要もないものだと言えます。私は反グローバリズムです。

この本は著者自身「読者の方は良く解らないでしょう」と彼らしい言い訳が繰り返し出てくるのですが、その通りすっきりしない内容ではあります。しかしユダヤ陰謀論的なまがまがしい説が存在するなかで、ユダヤは何故嫌われるのかを正面から扱って、学問的客観的解説を試みた良書であることは間違いないと思いました。
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書評 小沢一郎の最終戦争

2010-08-29 21:11:43 | 書評
書評 小沢一郎の最終戦争 木下英治 著 KKベストセラーズ2010年刊

総理を目指してまさに最終戦争を始めた時の人、小沢一郎ですが、この人ほど好悪の評判が別れる政治家は珍しいと言えるでしょう。私は以前からブログに書いていたように党幹事長という直接行政執行の権力がない所に国政の全ての決定権を集中させていた鳩山政権時代の氏のありかたには反対していました。権力を集中させて政治を行なうなら「首相になって全責任を持って国民に見える所でやるべきだ」と考えていました。その点で今回の決断は自分としては賛成で首相として命がけで(途中で暗殺されるかも知れないから)やって(官僚内閣制の打破、公務員改革<特別会計の見直しを含む>、米中とのバランスの取れた外交<中国で日本開放司令官と言ったのはジョークでしょう>、景気対策<成熟型社会への移行>など)くれれば良いと応援しています。

その上で小沢氏の今までの政治的奇跡というか、何を主にやりたいのか、を知る上で本書は参考になると思われます。本書は金丸氏の側近としての自民党幹事長時代に政治改革として小選挙区制を導入する所から始まり、自民党を離党して新生党、自由党などを経て民由合併の後、偽メール問題で辞任した前原氏の後を受けて民主党の代表にもなるのですが、福田政権下での大連立構想が民主党内で却下されたことを受けて辞任します。そして幹事長として選挙を仕切り、政権奪取に至ります。経時的にこれらの出来事と小沢氏、小沢氏の周りの政治家の言葉がふんだんに述べられながら話しが進んでゆくのですが、著者が「いくつかの著作を合わせた」と述べているようにやや著述内容が冗長になってそれぞれの個所で今何を述べたいのかが解りにくくなっています。ただ著者の得意とする、それぞれの時代における小沢氏を取り巻く政治家の生の声を聞くような編集になっているのでその時々でどのような思考で小沢氏が動いていたかが解るのは良い点です。

この本を読むと、「政治とは権力闘争である」と自任している小沢氏が自民党時代、細川・羽田内閣時代を含めて権力の頂点である総理大臣になろうと思えばいくらでも成れたことは明白です。福田氏との大連立の時にもやり方次第で次期総理も可能であったでしょう。「最終目標総理大臣」というだけの政治家であれば小沢氏の戦争はとっくに終わっていたはずですが、彼が政治家として目指しているのは二大政党制の確立と政治家主導の政治、国民の生活を主目的にした政治ということは間違いないようです。小沢氏の政治のやり方は自民党的と批判されますが、政治には金がかかる以上ある程度しかたない面もあります。草の根運動で政治をするには公明党か共産党のようなやり方しかないのですから。この本で加藤紘一氏の小沢評として「彼はどちらかというと総理タイプの人だ。自らの理念を信じてぐいぐい引っ張ってゆく理念型である。」しかしこのタイプは最も総理にふさわしいのに本人は金丸型のキングメーカー、幹事長タイプだと思い込んでいるところに大きなギャップがある、と記されている所が小沢氏の生き方の特徴を良く表わしていると思いました。

「政治とカネの問題」などと実際には帳簿記載上の不手際にすぎず、起訴さえできない問題を印象操作し続けるマスコミはよほど小沢氏が嫌いなのでしょう。新生党時代から小沢氏を評価するマスコミ論調はあまりなく、常に批判にさらされてきた小沢氏ですが、現実に大悪党かというと政治手腕が強い以外のことはないように見えます。米中を含めて世界で日本の現在の政治家で一人選べ、と言われると小沢氏以外の名前は出てこない。だから私は小沢氏が総理で良いだろうと思います。ただし外国人参政権とか人権擁護法案とか移民受け入れとかの国益に反する法案はくれぐれも拙速に出さないことを期待します(国民が十分議論する時間を与えて反対デモなど十分する時間があって議論するなら良いですがね)。
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書評 韓国併合への道

2010-08-12 00:38:44 | 書評
書評 韓国併合への道 呉 善花 著 文春新書 086 平成12年刊

菅総理が日韓併合100年を記念して謝罪の談話を発表しました。それは日韓併合は倫理的に日本が悪であり、被害者である韓国国民に対して反省と許しを乞うという一方的なものであり、残念ながら日韓の将来に何の良い事も残さないものとなるでしょう。日本の文化は「謝って低姿勢に出れば相手も許して今後仲良くやってゆける」ものであるからそれを期待しているのであり、韓国の文化は謝罪するということは「両者の上下関係が明確になることであり、罪を認めるからにはそれなりの補償をする」ことを期待することです。当然どちらの期待も裏切られる運命にあります。だから真の賢者はこのような謝罪などしませんし、要求もしません。日韓の反目が国益に叶う米中はこのような謝罪を日韓にけしかけますし、愚者はそれに乗っかります。これから先も同じでしょう。

さて、本書の著者 呉 善花氏は公平な立場で歴史の史料を検討し、日本に併合されるに至った韓国(大韓帝国)側の問題点を究明することを目的に本書をまとめた、と前書きにあります。つまり併合した日本を加害者として糾弾することしか戦後韓国は行なっていなかったが、(併合という)国家敗北の原因が何であったかを反省することが、日本人を「過去を反省しない人達」と蔑む自分たちにもできていないじゃないか、ということが出発点になっています。

私も韓国に対する開国要求や西郷隆盛の征韓論などが何故必要だったのか不明ですし、日清戦争後の下関条約で韓国の自主独立を清国から認めさせたのは良かったのですが、その後李朝政府がロシアへ接近するに連れて日本が強く韓国に干渉するようになり日露戦争後のポーツマス条約で日露、桂・タフト協定で日米(米のフィリピン領有)、第2次日英同盟で日英(英国のインド領有)において日本の朝鮮半島の利権を各国に認めさせたことになってゆくあたりは侵略主義と言われてもしかたない部分があると考えます。この結果第2次日韓協約が結ばれて韓国が保護国となり、韓国統監府がおかれることになる訳です。

著者は李朝朝鮮は両班時代においては派閥抗争、開国後は日本、清、ロシア、米国、それぞれの派閥に加えて親皇帝派が入り乱れて統一した開明運動につながってゆかなかったのが(日韓併合への)最大の敗因と分析しています。また一進会の李容九らは日韓合邦推進論者ですが、これは日本による韓国の併合ではなく、あくまで合邦(対等な立場で国が一つになる)を推進していたのであると一定の評価をしています。

私としては日韓併合の日本側の論理からの分析ももう少し読んで見たいと思うところですが、著者はあくまで韓国側から同国の瑕疵を検討することが著作の動機であるということなのでその目的は十分果たされていると思われます。菅総理が主張する反省と謝罪は韓国併合への過程に対して行われるとすればどこの部分に対してなのか、詳しい説明が欲しいところです。
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書評 病院化社会を生きる

2010-08-12 00:35:53 | 書評
書評 病院化社会をいきる(医療の位相学)米澤 慧 著 雲母書房2006年

「人の一生は病院から始まり、病院で死ぬことで終わる」という現代日本。最近では健康な人も病院に呼び込んで「病気にならないため」と称して「高脂血症」などの病名を付けて予防医療を施す。病院なしでは生きられない日本人の現状を「健診」「セカンドオピニオン」「アルツハイマー」「死生観」「医療事故」といった33のキーワードから述べた医事評論です。月刊「ばんぷう」という雑誌のコラムをまとめたものなのでそれぞれが数ページにまとめられて読みやすく構成されています。それだけにやや突っ込みが足りない、著者はもっと書きたい事があるだろうに言葉足らずかなと思う所もあります。

著者の米澤 慧氏は雑誌「選択」で「往きの医療、還りの医療」という医事コラムを担当されていて、私はそのバックボーンのしっかりした医療に対する思想に感銘していました。早稲田大学教育学部を出られて非医療者の立場から医療、看護、生命に関する評論を多数出しておられますが、本書でも千葉大学教授の広井良典氏との同名の対談を収録していて大変読みごたえがありました。端的に言うと「疾患を治癒させることが良く生きることにつながるのが(往きの医療)であるが、治癒を目標にしない医療で良く生きることにつなげる(還りの医療)があっても良いではないか」というのが氏の一貫した提言です。

現在のジャーナリズムの常識では「がん」が治癒しなければそれは医療における「敗北」であり、5年生存率が良いのが「医療レベルの高い良い病院である」と決めつけられてしまいます。これは「往きの医療」からのみの視点であって、がんで亡くなる人が「亡くなるまでの人生においていかに良い生活を送ることができたか」を良い病院であるかどうかの指標にしよう、というのが「還りの医療」の視点です。

「緩和」「癒し」「精神的ケア」「老いの受け入れ」といったことは宗教的生活が日常的でない日本においては必要にせまられないと考えないものです。特に医療においては私が普段主張するように「急性期医療は治って当たり前」になってしまった現在、治らない病気をいかに受け止めるかを主眼においた医療評価というのはすぽっと抜け落ちている分野のように思われます。だからこそ氏の主張、提言は現代社会において重要であり、これだけ医療が発達して国民が医療の恩恵を十分にうけていながら医療に対する満足度があまり得られない原因になっていると私は感じます。

良く生きるためには「往きの医療」が良いのか「還りの医療」が良いのかは患者それぞれの状態によって異なります。限られた医療資源を有効に使うために、また何より「良く生きる」ために「往きの医療に全勢力を費やすのが良い」時代はもう終わったと私も思います。

実はこのパラダイムシフトは医療だけでなく、社会や経済においてもあてはまるのではないかと思われます。広井氏との対談の中でも語られていますが、常に高度経済成長の発展型社会でないと「失われた20年」などと表現される日本ですが、北欧型の成熟した「定常型社会」を目指す事で日本人は十分幸福に生きられるのではないかと提言されています。今「成長著しい中国を見習え」などという掛け声がさかんに聞かれますが、本当に日本は80年代のような高度経済成長を続けていないと不幸だと誰が決めたのでしょう。建設や製造業の景気が悪いと就職先がないという社会構造がおかしいのであって、福祉、サービスや科学技術の研究分野、はたまた農業などでもっと若い人が働ける社会構造であれば別に高度経済成長型の社会でなくても日本人は幸福になれるのではないかと強く感じます。

6月の学会出張の際にミュンヘンの近郊、ローゼンハイムの牧畜業を営む友人を訪ねました。主人は小生と同じ年(52)、80代後半の父君も健在、二十歳の息子は牧畜業を継ぐために専門学校在学中、長女は大学を出て就職で家におらず、次女は中学を出て銀行勤め、実際には中学出の次女が一番英語が上手くて私との通訳も勤めてくれたのですが、アルプスに近い美しい土地で農業を実に楽しそうに親子三代でやっているのですね。中学出て社会に出て働いている娘も実に充実していて高校に行っている小生の愚息達よりよほど英語力も社会力もある。日本は大学に行かないと不幸だ、良い会社に勤めないと不幸だ、田舎で農業をやるなどというのは社会的に行けてない、といった根拠のない決めつけに自縄自縛になっていると言えます。もっと各人それぞれに良く生きる生き方がある方が成熟した社会と言えるように思いました。

秋に主催する学会に米澤 慧氏を招聘して講演をお願いする予定にしているのですが、今から直接お話を伺うのを楽しみにしています。
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書評 日本辺境論

2010-07-04 01:29:54 | 書評
書評 日本辺境論 内田 樹 著 新潮新書2009年刊

2010年新書大賞とあり10年3月で12刷とあるのでかなり売れていて読まれているのでしょう。それは納得できます。著者の論の進め方は細かいことを言わず「ざっくり」していて解りやすい。「はじめに」で述べられているようにこの本の内容はどこかで聞いたことがあるような日本人論の寄せ集めなのですが、その集め具合と論旨の展開に著者なりのオリジナリティがあってしかも「ストンと腑に落ちる」ように納得してしまう解りやすさが人気の秘密のように思います。

全体を貫く「日本を辺境」たらしめる論旨の中心になる部分は、日本は常に外国(古くは中国、近代は西洋)を世界の中心であり日本より優れたものと決めつけて、自分を遅れた者、劣った者と規定した上で外国の文化を無批判に受け入れ、しかも自分に都合の良い所だけかいつまんで自分の物にしてきた、という主張です。そして日本の辺境ぶりは日本の欠点というよりも特徴として自分達自身が自覚した上で利点を多いに生かそうではないか、というのが著者の主張です。

第一章の「日本人は辺境人である」は他との比較でしか自国を認識できない日本人が明治以降なぜこのような歴史をたどってきたのかを「辺境人のメンタリティ」から解説しています。幕末に日本の列強にたいする劣位を強烈に意識して日露戦争までの間に洋才を取り入れ、第一次大戦後に五大国に列するまでになったのに自分の確固たる地位を列強の中で確保することなく戦争に勝ったロシアのやろうとしていたことをアジアにおいて忠実に再現してしまったためにロシア押さえ込みのために日本に味方していた列強を敵に回してしまい第二次大戦の失敗につながってゆくという辺境論としての解説も何か説得力があります。

第二章、辺境人の学び論は、良い悪いの検討をせずに無条件にまず何でも取り入れてしまう日本人の学びようは非常に効率が良いもので時に学ぶ対象である師の存在を超えることもあると解説します。

第三章の「機」の思想、は作用、反作用のうちで辺境人は反作用の方だけを異常に発達させた民族である、という趣旨なのですが、自分達が劣等であると認識しているうちは良いけれどもその認識が薄くなって危機意識が薄れてしまうと学ぶ力も自力を発揮するパワーも衰えてくる、つまり「ゆとり教育」が単なる「なまけ」という結果でしか現れないのだ、という解説がなされます。

第四章の「辺境人としての日本語」解説は、優位劣位、作用反作用の判断に重点をおかなければならない日本人の生活においては、その用いる言語は常に話者のどちらが上位者権威者かを決定づけるように構造づけられており、一人称だけでも相手に応じて様々な階層分けをして使い分けられるようになっている、そしてそれを外国語訳することは不可能であると解説しています。テレビの討論番組においてもしばしば問題点の議論がなされることなく、話者のどちらが権威。上位の立場を取れるかが議論されているだけのことがあると言われるとなるほどと感じます。東京都知事の記者会見とか、某自民党の元大臣の討論番組での発言など良い例かと思いましたし、医者の世界でも学会の質疑応答に単に「俺が言っていることだから正しい」みたいなレベルの低い討論しかしない人がいることを思い浮かべなるほどと思いました。

この本の結論は、DNAに刻み込まれたどうにもならない辺境性に落胆することなく、これで得をすることも多いのだから良く自覚した上で得する場面では多いに辺境人に徹しようよ、という明るい結論です。小生としてはこの結論に賛成です。
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書評 「拝金社会主義中国」

2010-05-31 00:38:52 | 書評
書評 「拝金社会主義中国」 遠藤誉 著 ちくま新書2010年刊

著者は1941年長春に生まれ、革命の動乱で共産党軍に降伏する形で命を永らえて53年に帰国、後筑波大学教授となって北京大学日本研究センター研究員など日中両国においてメジャーとなる地位を確立した上で改革開放後の中国社会を第三者的な目で観察している人です。

私はこの本に魅かれるのは、いくら現実主義の中国人と言ってもあれだけ共産主義革命のために資本主義を否定し、殆ど無実の同胞を見せしめのために何千万人も惨殺していながら、最も憎むべきアメリカ型資本主義をいとも簡単に取り入れて何も感じないものだろうか、ということを現地中国人の視点で書いていることです。

学生時代、私の世代は既にノンポリが主流でしたが、経済学部は依然マル経本流でしたし、一世代上の全共闘世代は「左翼にあらずんば人にあらず」と言われた時代で、ソ連中国北朝鮮は「正義」の代名詞として認識され、アメリカ寄りとか体制派というのは何か後ろめたい気持ちを背負わされたものでした。ソ連が崩壊し、北朝鮮は拉致を実行した悪者になり、中国はアメリカ以上の原始的資本主義国家になりましたが、当時ソ連中国北朝鮮を神聖視していた人達が何ら自己批判をすることなく市民運動家に鞍替えして相変わらず正義を名乗っているのはもともとその程度の偽善者達だったと考えれば良いとして、実際に日常生活で処刑や総括が行われ資本主義を一切否定していた中国で何の矛盾も感じないで資本主義化への頭の切り替えができるものなのかが不思議でした。

この本を読むと、「金儲けをしても良い」と初めて言われた中国の民衆が当初は全く信用せず、恐る恐る少しずつ資本主義的になってゆき、何より公共的な立場の人達が有利な地位を利用して金もうけを初めてあっという間に貧富の差ができてしまった経過。革命の主役であった農民が結局資本主義化から取り残されていった経過。一時は無理しても大学に行って高学歴を目指した方が良かったが、現在は大学卒でも解放軍の兵卒や地方の官吏になるのがやっとという実態。有能すぎる女性は却って幸せになれない、というどこかの国と似たような実態、などなど庶民の目から視た改革開放がどんなものであったかが良くわかりました。

そして「富二代、貧二代」と言われる貧富の差の世襲化、固定化、「未富先老・未富先懶」と言われる乗り遅れた者は頑張ってももう金持ちにはなれないという風潮は現在中国の火薬庫とも言える危険な状態と解説します。また激しい階級闘争を乗り越えてきた共産党老幹部はやはり現在の資本主義体制に批判的であるとも書かれていました。

著者は革命の成就と資本主義化の矛盾について中国人は勿論解ってはいるけれど、中国社会の今後を決定づけるのは結局毛沢東の用いた「誰が飯を与えるのか」という論理で決まるのではないかと結論付けています。つまり理屈先行の共産主義の概念では現在の状態は明らかに共産主義ではないし、単なる独裁政権下の原始的資本主義だけれども、衣食住を普く与えることができれば民衆はどのような政治経済形態であろうと受け入れるだろう、というものです。大事なことは衣食住が足りていることと、中国が外国の侵略を受けていないこと(もっと言うと中華として周辺国の中心であること)が示されていれば「特色ある社会主義」という詭弁だろうが共産党政府に付いて行くだろう、と結論付けているのです。

これはポイントを付いた指摘だと思いました。胡政権の諸政策も正にこれを狙っているように思います。本書は中国をことさら悪く書く事もなく、また美化することもなく民衆の視点で政府に気兼ねなく良い点悪い点を指摘して、現在の資本主義的中国のあるがままを描いている所が良書と思われました。
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明解「世界権力者人物図鑑」

2010-03-30 12:24:13 | 書評
書評「世界権力者人物図鑑」副島隆彦著 日本文芸社2010年刊

医者は患者さんに病気について判りやすく説明する義務があります。難解なことを素人にも判りやすく平易にしかも正しく説明することができるのが本当の専門家でありしかも賢い人であると思います。その点私は著者の副島氏は政治経済における本当の専門家であり賢い人であると10年来尊敬しています。名医は8-9割患者の診たてを誤りませんが、副島氏の政治経済の診たては8-9割適確であり、凡百の評論家は太刀打ちできないと思います。

そんな氏が満を持してものした「世界権力者人物図鑑」は「明解」の一言に尽きると思います。世界皇帝Dロックフェラーとその取り巻き、次を狙うJロックフェラー一派、復権を狙うロスチャイルドとゴアら環境ゴロ達、それら現代世界を動かす人達76人の、最も人物が表現されていると思われる表情を大きく捕らえた写真を掲載し「悪いひと」「良いひと」の明確な注釈と共に解説したのがこの本です。副島氏の本は今までいろいろと読みましたが、この本がベストかも知れません。私の中学・高校の息子達にも見せましたが「面白い」と見入っていました。つまらない現代社会の教科書よりも数十倍社会(世界)のことが判るようになるでしょう。

副島氏の「良いひと」「悪いひと」の判断基準はご本人から怒られるかも知れませんが、テレビの「水戸黄門の世界」であると考えれば納得できます。決して権力そのものを否定するのではなくて「私利私欲」「汚い手で民衆を騙す」「民衆から金品を奪う」奴等を「ワル」と断定して切り捨てているのです。例えば次の世界覇権国「中国」の次に最高指導者となるであろう2人、「習近平」はアメリカの財閥、江沢民とつながる上海閥の子飼いで「ワル」、秀才でまじめ、共青団出身で胡錦濤、温家宝につながる李克強は「善人」と顔写真の前面に大書されています(わかりやすい)。

発売禁止になって回収されるかもという懸念もあって平積みになっているうちに書店で購入したのですが、著者が「この本を出した後私はどうなるか解らない、日本人に贈る遺言書のつもりで書いた」と後書きで触れておられるように本書の内容が日本人共通の認識になったら「日本操り」を企む人達にはさぞややりにくくなるだろう、と想像させる良書です。
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書評「ノーベル平和賞の虚構」

2010-03-19 19:20:55 | 書評
書評「ノーベル平和賞の虚構」浜田和幸 著 宝島社2009年刊

09年のノーベル平和賞がオバマ大統領に決まってから、日本ではオバマ氏のカリスマ的な人気が大きく下ったように感じます。ノーベル平和賞自体うすうす政治色の濃い胡散臭いものだと皆感じていたと思いますが、今後は「この賞を受けること=恥ずかしいこと」として辞退する人も出てくるのではないかとさえ思われます。

本書はノーベル平和賞が創設された1901年以来の受賞者を踏まえて改めてその政治的意味について解説した良書と思います。そもそも平和賞だけが選考委員会がスエーデンでなくノルウエーであることも政治的な意味合いがあり、ノルウエーがかつての日本と韓国の関係のようにスエーデンの支配下にあったことに端を発しているというのも初めて知った事です。ノルウエーは自国の独立の維持に苦労したことからノーベル平和賞を自国の存立と世界における立場の強化のため、また最近では経済活動に最大限政治利用してきたことが解説されます。著者の表現を借りると「戦争こそ最大の平和ビジネス」として戦争をうまく活用して利権につなげる者を平和賞に選考すつつ新たなビジネスを開拓することがノーベル平和賞の実態である、ということが具体例をあげて判りやすく解説されています。

第1章では「オバマ氏がなぜ受賞したか」を選考委員のヤーグラン氏との古くからの関係や、何を期待されているか、に触れながら解説されています。
第2章はヒトラーまで平和賞にノミネートされた事実や、何度ノミネートされても受賞されないガンジーのことなど、歴史的にどのような意義を持って受賞者が選定されてきたかを考察します。
第3章以下は現代に視点を移してノーベル平和賞と国際投機マネーの関連、核廃棄にからむビジネス、地球温暖化と原発の再興、環境バブル、二酸化炭素排出権ビジネスなどいかにノーベル平和賞がこれらの利権にからんで利用されてきたかを解説します。

ある意味「目から鱗」、ある意味「さもありなん」と思わせる内容なのですが、日本人はこのような生き馬の目を抜くような「表面をきれい事で包んだ」国際競争にあまりにもナイーブすぎるのではないかと感じます。高校無償化に朝鮮学校を含めるかどうか、といった瑣末な話題に時間を割く無駄を廃して「世界の中で日本がもっと逞しく生き抜いてゆくにはどうするか」といった話題をメディアはもっと取り上げて欲しいものです。

本書の内容に関連して、地球温暖化問題でも、マグロの漁獲制限問題でも感ずることですが、西洋人はやはり「自然は人間がコントロールするもの」という傲慢な思想を持ち続けていますね。日本人は「自然といかに共存するか」をテーマに二千年の間生きてきたのでどうしても西洋人の強引な理屈にはついてゆけない所があります。人間も自然も神が作ったという一神教の思想から来るものだから自然が神であるという我々の思想とは相いれないのでしょうが、もっと我々の考え方について積極的に情報発信をしてゆくべきではないかと最近の世界情勢をみて強く感じます。
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書評 日本の統治構造

2010-03-08 19:19:09 | 書評
書評 日本の統治構造 飯尾潤 著 中公新書1905 2007年刊

07年の段階で政権交代のない日本の戦後自民党政権における三権分立の実態を判りやすく解説した良書。小泉政権が従来と同じ議院内閣制であったのに強権政権であったこと、民主党政権が官僚からの独立を目指して政党主体の政治を目論んでいることなど、どのような視点から理解すれば良いかが本書を読むことでクリアになった感がありますので正に時宜を得た本とも言えましょう。

まず「はじめに」の所で大統領制と議院内閣制ではどちらが権力集中が可能か、という命題に日本では大統領制の方が権力集中的と理解されがちだけれど、「議会と大統領が別の選挙で選ばれる点で権力分立的であって議会と行政府の双方をコントロールできる内閣の長である首相の方が本来大きな権力を持つ」のですと説明、小泉政権の強権政治を思い出して「ああそうか」と読者を引き込んでゆきます。もともと自民党が一党独裁の55年体制を維持しながら営んできた日本の戦後政治は本来の議院内閣制の姿からは逸脱した独特な形であったと著者は説明します。それは政党政治家を内閣の主体と考えず、各省庁の代表者(大臣)が集まって内閣を構成する、しかも省庁の代表は形だけの大臣が代わる代わる就いているだけで実質は事務次官を長とする「官僚内閣制」」でありそのため首相が強権を発動して行政に思い切った改革ができないしくみになり、権力分散型になってしまっていた、と解説します。

政党による内閣運営は戦前からあったように見えますが、実際はさほど機能していたわけではなく、元老による内閣首班指名による天皇への助言によって内閣が決まっていたにすぎません。明治憲法では内閣の権限が明文化されていなかったこともあり、また主権者の天皇の責任も銘記されていなかったために開戦や戦争遂行上の決定・運営をする権力者が曖昧なまま、つまり権力集中がなされないままずるずると戦争をしていたというのが諸外国との決定的な違いだとも解説されています。ヒトラー、チャーチル、スターリン、ルーズベルトらに比べて戦争遂行の青写真をきちんと東条、或いは天皇が撮っていたかと言うとそれは全く否定的です。漠然とした「軍部」が個人を特定せず「独裁」状態だったというのが日本の戦前だったのです。

第3章では「政府・与党二元体制」と題して官僚が政治的な決断を下すようになる一方で政治家が地元の行政に関して権力を持つようになるという倒錯状態の説明がなされます。

議院内閣制の本来の姿は健全な政権交代により政策の変化がおこることですが、自民党の長期独占によって政権交代がないまま自民党の党首が別派閥に代わることで首相が変わってそれが政権交代的な雰囲気を日本に与えてきました。小沢氏が作ったとも言われる小選挙区制は二大政党による政権交代を容易にする選挙制度だったのですが、小沢氏がまいた種がやっと昨年実った感があります。政権交代が頻繁に起こるようになると、今度は民意による政策転換を容易ならしめるために衆議院・参議院の二院体制の是非が問題になります。つまり現在のような多数派のねじれ現象があると政策の変化を実現し難い状態になるわけです。しかも日本に特有とされる会期制度(国会会期内に成立しなかった法案は廃案になる)ことも健全な政権交代による政策の変化を妨げるもとになります。二院制を廃止するのは憲法改正が必要になり実際的ではありませんが、参議院のありかたを運用上制限するような慣習作りが必要という提言は納得できます。

こういった説明から今回の民主党による政権交代というのは日本の民主政治にとっては極めて重要な出来事であることが判ります。官僚内閣制からの脱却や正しいマニフェストの遂行には是非とも全力を尽してもらい、今後の日本の民主政治の発展につながるよう注目してゆかねばならないと感じます。
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韓国人の反日の原因はIdentity Crisisである

2010-01-21 00:08:24 | 書評
書評「韓国人の歴史観」黒田勝弘 著 文春新書平成11年刊

共同通信ソウル支局長、産経新聞ソウル支局長を歴任しながら現場から「何故韓国は反日なのか」を考察した好著。単なる反韓、嫌韓の本ならばつまらないと思ったのですが韓国の現場で直接韓国の人達や政治に接しながら「何故執拗に反日なのか」「歴史の再構築(都合が良いように歴史を作る)」といった理解し難い行為を行うのは何故かを解説していて、我意得たりとする部分も多いものでした。

本書のポイントとなる上記の答えは「朝鮮の人達が日韓併合中はほとんど日本人になりかかっていて、終戦と同時に突然韓国人、朝鮮人というナショナリズムを持たざるを得なくなったことが原因である。」と述べています。「併合中は気持ちの上で殆ど日本人だった」ということは事実であるだけに現在の韓国朝鮮の人達は「絶対に受け入れられない」ことでしょう。受け入れてしまえば韓国人・朝鮮人としての現在でさえ南北どちらなのかはっきりしないnational identityが根本から崩れてしまいますから。

朝鮮は植民地ではなく「併合」された日本の一部でした。つまりハワイやグアムがアメリカの植民地でないのと同じです。子供の高校の教科書に「朝鮮の植民地化」の見出しの下に「日韓併合」という項目がありました。これでは朝鮮が植民地だったのか日本の一部だったのか全く理解できないでしょう。樺太や千島は日本の植民地だったのでしょうか。私は母が朝鮮出身の引き揚げ者で、祖父が朝鮮で弁護士をしていましたので、併合時の朝鮮の人達の暮らしは良く聞いて知っています。それは著者の言う「殆ど日本人になっていた」というのが正しい。日本が搾取と弾圧の限りを尽したとか、朝鮮の人達が困苦を究めたというのは、彼らがほとんど日本人だったことを否定するために、戦後になって作られた彼らにとって「どうしても必要な日本の役回り」にすぎないのです。真実を否定することは莫大なエネルギーを必要とします。嘘には嘘を重ね続けないといけない。彼らが本心ではさほど反日でないのに執拗に反日であろうとする努力は悲しいほどです。

この本ではその一環として90年代に行われた「日帝風水謀略説」つまり「併合時代に日本が朝鮮民族の精気を奪う目的で風水的に重要な山に金属の杭を打ち込んだものを全国規模で探し出して除去しよう」という虚構に基づいた国をあげての大騒ぎの顛末も紹介されています。結局出てきたのは三角点や安全のために打たれた金属に過ぎませんでしたが。

もう一つ本書の重要な指摘は「韓国の反日は韓国、日本どちらにおいてもそれぞれの国内問題でしかない」というものです。つまり韓国においてはidentity crisisという国内問題であることは上記の通りですが、日本国内で韓国の反日に便乗している左翼・市民グループも実は韓国国民の繁栄など真剣には考えておらず、韓国における「反日」の部分だけを自分たちの主張に都合が良いから利用しているに過ぎないという指摘です。これはその通りでしょう。本来民族主義のナショナリストは彼ら嫌いなはずですから。韓国の学者と日本の反日学識者(和田某ら)が集まって日本を批難する学術集会を開いた所、あまりにも韓国の主張を「ごもっとも、その通りでございます」と日本側が言うものだから「これでは議論が盛り上がらない」と韓国側から苦言を呈されたと言う笑い話も紹介されていました。

韓国の心あるエリート層からの、ことあるごとに日本に「悪者」としてお出ましいただかないと自分たちの国民としてのまとまりがつかない、というのはあまりに情けない、という声が紹介されていました。新政権の正当性を担保するためにかつて宗主国の中国に政権交代の挨拶として贈り物を贈呈していたように、今では政権が変わるたびに日本に新たに謝罪要求をしている、という指摘もその通り、全ては確固としたidentityの欠如から来る「より確固たるものへの依存体質」からくる心理に他なりません。

ここからは私見ですが、では韓国が反日に頼らずにidentity crisisを克服する方法は唯一つ。「自らの力で南北を統一して真の朝鮮国を作ること」以外にありません。前に指摘したように朝鮮戦争とは朝鮮民族にとっての独立戦争だったのです。初戦で北が勝っていれば金王朝体制の、仁川上陸以降南が勝っていれば韓国の体制で朝鮮が統一独立できたのに、米中の介入のために現在に至るまで「民族国家として国の形」ができ上がっていないというのが他の独立戦争を経たアジアの国々との決定的な違いです。終戦直後朝鮮を戦勝国の信託統治にせず、独立国として認めて欲しいという動きがあったそうです。この「反信託統治」が実を結んでいれば現在の反日はなかったでしょう。当時の信託統治とは名前を変えた植民地化に過ぎなかったと言えるでしょう。「自分たちの手による統一した国造り」がidentity を確立する唯一絶対の道であることは隣国の小市民である私なんぞに言われるまでもなく、朝鮮の人達が一番よく判っている事ではないかとは思います。
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書評「属国」米国の抱擁とアジアでの孤立

2010-01-14 00:46:35 | 書評
書評「属国」米国の抱擁とアジアでの孤立 ガバン・マコーマック著、新田準訳(凱風社)2008年刊

読んでも「残念」な内容の本は書評を書かないで捨て置くのが普通なのですが、この本はある程度期待して購入したのに内容があまりに「残念」なので敢えて苦言を呈することにしました。

それなりに期待をしてお金を払って購入したのに、今までに私が「残念」に思った本とは、1)日本語が読めたものではない(某経済学者が書いた経済本)。2)内容がくだらなすぎて主題を支持する意味をなさない(某日米同盟を勧める本)。3)主張が一方的な上に分析が稚拙(この本)などがあげられます。

著者はオーストラリアの国立大学教授で日本と東アジアの社会問題の研究を専門にしているそうです。この本は主に「小泉・安倍政権が米国を利する属国としての政策を行う一方で中韓に対しては日本のナショナリズムを鼓舞するような外交政策を取ったというのは何故か」ということを分析した内容なのですが、一言で表わせば「アメリカに媚びを売りやすいよう日本国内にはナショナリズムを刺激する政策を取って煙幕を張ったのだ」ということになります。その結果日本の経済は疲弊し、アメリカの戦争政策に加担することになり、中韓から反感を買う事でアジアにおいてさらに孤立することになった、というものです。

この「本の骨格」になる部分はその通りだと思いますし賛成なのですが、では何故このような政策を取ったのか、アメリカの日本の政治へのガバナンスはどうなされたのか、一方で中韓の米国へのアプローチと日本の関係は、中韓以外のアジアの国々と米国・日本との関係はどうであったのかといった専門家に聞きたいような興味深い分析はほとんど皆無です。代わりに書かれていることはアメリカの侵略主義的政策の批判、中韓が行う反日プロパガンダの忠実な反芻が何の分析も批判もなく延々と述べられているだけで結論として「中韓に言われる通りにしないから日本はアジアで孤立してこれからもアメリカの僕として属国の地位に甘んずるのだ」と書かれているだけでした。

本の内容が原著の正確な訳なのか、訳者の創作が含まれるのかはわかりませんが、「日本は戦争中残虐の限りを尽した」という表現や「在日朝鮮人は戦争中の日本による大量拉致の被害者なのだから北朝鮮の拉致問題はそれに比べれば小さな問題」といった記述はオーストラリアの学者としては歴史を知らない上に、かなり偏った日本人への人種差別と偏見の持ち主と言えますし、訳者の意見であるならば文中にそのように銘記しないやり方は原著者にも読者にも失礼なやり方です。

「東京裁判史観の否定」即「皇国史観」という脊髄反射にもうんざりしますが、日本はアメリカの属国として金品を巻き上げられるだけでなく戦争の使い走りまでやらされるぞ、という「大事な所」を突いているのですから、中韓についても「おっしゃることその通り」ではなく客観的な目で分析して正すところは正した上で建設的な未来を築いてゆけるような提言をしてくれれば大枚2500円の価値がある本になっただろうにと残念に思いました。
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書評 「二・ニ六事件」

2009-12-25 23:20:24 | 書評
書評 「二・ニ六事件」平塚柾緒 著 河出文庫2006年刊

戦前の軍部独裁への端緒ともなったとも言われる二・二六事件をその背景、首謀者となった青年将校達、時間的経過などを280ページあまりにまとめた好著。日本は何故大正デモクラシーの時代から軍部独裁と言われる時代に移ったのか、また何故無謀とも言える対米戦争に突き進んでいったのか、は戦後産まれの我々には理解し難い部分であり、再び過ちを繰り返さないためにも十分に研究し各人なりに答えを持っていなければならない部分であると思います。そのためにこの二・二六事件というのは一つのキーとなる事件であり、まとまった書物を読みたいと前々から思っていました。

本書はプロローグとして時代背景を、第1部を二・二六事件4日間の時間経過を、第2部を事件後の裁判経過を詳述することで事件の全容を描き出しています。エピローグとして事件後の廣田内閣と事件の影響を簡単に紹介して終了となっています。私が二・二六事件に関連して以前から疑問に思っていた部分は、

1) 青年将校達の動機は何で、どのような社会を作りたかったのか。
2) 二・二六事件は軍部独裁の端緒と言われる割に、世間の青年将校達への見方は戦後においても必ずしも批判的でない部分があるのは何故か。
3) 背景となった陸軍「皇道派」「統制派」とは「過激派」「穏健派」という意味か。
4) 有名な「下士官、兵に告ぐ。」に帰順した兵達はその後どうなったのか。

というものですが、青年将校達のクーデターの動機は、やはり純粋に日本国内の疲弊、恐慌と飢饉による農村の悲惨な姿に対する公憤であったと言うのは(2)の民衆が必ずしも青年将校達を悪魔呼ばわりしない部分にもつながってくるように思われます。「蹶起趣意書」に見られる「不逞凶悪の徒、私心我欲を恣にし、・・万民の生成化育を阻害して塗炭の病苦に呻吟せしめ、」云々の句やそれに続くこの当時頻繁に起こった軍人らによる事件、つまり五・一五事件、相沢事件(永田鉄山惨殺)、三月事件、十月事件と呼ばれるクーデター未遂事件などを趣意書に引き合いに出している事は、彼らが体制内での自分の出世や利得を度外視して行動に出ていることを物語っていると思われる内容です。三月事件、十月事件と言うのは彼らより格上の上層部の軍人(軍閥)達が起こそうとしたクーデターで、事前に発覚したことにより腰砕けになったものであり、純粋な青年将校達にとっては「自分の身の安全を優先して腰砕けになった」と見做し歯がゆい思いをしていたようです。

では「昭和維新」などと威勢のよい掛け声を掲げながら彼らはどのような日本社会を作りたかったか、というとこれは極めて稚拙というか、「取り合えず行動を起こすだけで、その後の現実的なことは何も考えていなかった」というのが本当の所だったようです。この辺りは戦後全共闘世代の武闘派の学生運動と全く同一で、腐敗した世の中をぶち壊すのが先で後の事は何も考えていない。強いて言えば「自分たちが絶対権力を持って軍国(学生らは共産主義)的専制国家を作る」程度の無責任で幼稚な考えしかなかったと言っても過言ではないでしょう。現に青年将校達は事を起こした後は天皇が自分達の意思と主張を認め(るはずだと勝手に思い込み)、全国の自分達に共鳴する軍人・国民が立ち上がり、結果自分たちの主張に理解のある皇道派の軍重鎮達が政府を仕切ってくれると安易に考えていたのですから。

この自分たちに都合が良い勝手な意見を「陛下も同じお考えである」と相手を黙らせる権威付けのために不遜にも言い募る傾向はこの後の軍の専売特許のようになってゆくのですが(最近某与党幹事長が同じ手を使って衆目の批判を浴びたばかりですな)、この悪弊が結局戦後の「日の丸君が代などに対する拒否反応」につながってゆくのかと思われます。天皇の権威を自分達の利得のために勝手に用いた究極の言葉は「統帥権の干犯」ですが、これは本来天皇陛下以外の者は使えない言葉であるのに軍人が勝手に天皇を語って言い出したことが重大な誤りであったといえます。陛下以外がこの言葉を使ったら「不敬罪」で即刻罷免くらいの勅令を出していたら歴史は変わっていたかもしれず残念です。

そもそも「皇道派」「統制派」などという軍閥的なエリート軍人の集まりができたのは昭和に入ってから国を憂える佐官クラスの集まり「木曜会」や「一夕会」などの国策研究会が盛んになってからということですが、欧米の軍隊や現在の自衛隊では考えにくい「軍人が政治に介入することに抵抗がない」状態がなぜ起こったのか、は明治以来の軍と政治家の関係にあったと思われます。つまり当時の政治家は元軍人が多いことや、そもそも明治の元勲と言われる人達も維新では軍を率いて軍人として戦っていた人達ということもあり、軍人と民間人の境目というのは今ほど明確でなかったというのが本当ではないかと思います。「太平洋戦争は軍の暴走が招いた」というのは本当だと思いますが、もともと日本は軍と民間の区別が明確ではなかったのであり、どうも軍人だけを悪物にしておけば良いというのは誤りだろうと私は思います。二・二六事件で襲われた岡田首相(押し入れに隠れて助かる)も一命をとりとめて終戦の時の首相を勤めた鈴木貫太郎侍従長も元軍人です。

「皇道派」は過激派、「統制派」は穏健派という色分けはある程度合っているようですが、東条英機も辻政信も統制派であり、決して「ハト派」的な色分けなどではなく、統制派の方が現実派であっただけというのが正しい認識だろうと思いました。

「朕の命令」と同じと教育された上官の命令に従い、結果的に皇軍に対する反乱の汚名を着せられた下士官、兵達のその後も決して安楽なものでなかったことがこの本で判りました。兵達の多くは無罪とされながらも、後々まで何らかのペナルティを着せられ、戦後まで名誉を回復される事はなかった上に、降格された上に何回も招集されて戦地に散っていった人達も多かったと記述されています。事件後の一方的な裁判において上官の命令に従った結果有罪とされた歩兵第三連隊第七中隊の堀曹長は暗黒裁判といわれた事件後の一方的な軍法会議の席で「裁定には従いますが、この事件が起こった背景となった政府のだらしなさ、叛乱を起こす恐れのある将校を放置した軍上層部のガバナンスのなさを指摘し、自分たちのように、忠実に命令に服した結果が罪になるような兵が今後出ることがないよう軍は反省し機構を改善せよ。」と実に二二六事件の本質に迫る陳述をしたと記録されています。このとき軍が堀曹長の指摘に真摯に答えていれば第二次大戦の悲劇は避けられた可能性があります。軍は事件の首謀者は民間人の北一輝や西田税にかぶせ、青年将校らは彼らに操られた被害者という決着をつけてしまいました。つまり軍として反省することをせずに事件の決着をつけてしまったところがその後の日本を大きく誤らせてゆく原因にもなったといえるでしょう。
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書評「第二次大戦に勝者なし下」

2009-11-20 23:44:13 | 書評
「第二次大戦に勝者なし下」 アルバートCウエデマイヤー著、妹尾作太男訳講談社学術文庫 1287(現在絶版)

前回の上巻に続いて下巻の書評。上巻では米国が第二次大戦に参戦するにあたって、周到に国益を考えた上で最善の道ではない、しかも日本の奇襲が暗号解読で解っていながら厭戦的なアメリカ国民を騙す形ではじめられた事。英軍との共同作戦ではイギリスの国家戦略に翻弄されたこと、結果的にソ連を有利ならしめたこと。近代戦争の根本理念を覆す「無条件降伏」を枢軸側に要求するに至ったことなどが示されました。

下巻では著者が蒋介石の参謀として在中国米軍の司令官として活躍したこと。戦後の中国への支援にあたって共産軍の脅威を政府に上申したのに拒否されて逆に中華民国軍と共産軍との連立を強要され、失意の内に職を去ることなどが記されています。

後半の2章は「第二次大戦に勝者なし1.2」と題されて、本書の訳における書名にもなった中心部分です。一言で言えば、第二次大戦では米英と独伊が潰し合いをして、最終的に得をしたのはソ連だ、ということなのですが(勝者なしではなく勝者はソ連だが正しい)、そこに至る経緯が各国首脳達の戦争各局面での判断の誤りを指摘する形で書かれています。「戦争に勝つ」という事の意味は「明確な政治目的を達成する一手段として戦争を行い、最終的にその政治目的を達成すること」と定義されるのであって単に「戦闘に勝つ」ことや増して「相手国民を殺戮する」ことが戦争の目的にはなりえないことは軍事のみならず政治における常識と言えます。そこで本書の記載とは少し離れますが、著者の考える各国の第二次大戦における戦争目的をまとめてみます。

米国:欧州の力の安定と自国の経済圏の拡大、ナチズム・共産主義などの独裁体制の消滅。
英国:自国の存立とともに大英帝国の版図の維持。(仏、蘭も基本的に同)
中国:当時日本と戦争していた中華民国としては、自国の存立と中国全土の統一平定。
ドイツ:英国と共存した上でのソ連・中東を含む拡大欧州への帝国の版図拡張。
日本:日本を中心とした大東亜共栄圏の確立。
ソ連:ソ連を中心とした社会主義帝国の成立と拡大。

これらの中で本書が書かれた1958年において第二次大戦の戦争目的を達成できたのはソ連だけだ、と著者は主張しているのです。「無条件降伏の要求」という誤った戦争目的がなければ、日本に原爆を落さず、ソ連に参戦させることなく終戦を迎えることができ、戦後満州をソ連が蹂躙することもなく、共産中国の出現や無益な朝鮮戦争も防ぐ事ができたと回顧します。最近映画「ワルキューレ」で話題になったヒトラー暗殺計画も、44年当時ナチスに反対するドイツ国防軍将軍たちとCIAの前身であるOSSはスイスで連携していたと書かれており、やり方によっては欧州戦線は1年早く終結し、東欧が鉄のカーテンで仕切られる必要もなかった可能性もありました。つまり多くの若者の犠牲を払った米国の国益が達成される可能性が十分にあったのだと解説します。

戦争は政治の一部とはいえ、軍人が政治に口出しするのは良くないように文民が軍事に口出ししすぎるることも多くの場合弊害の方が大きくなります。本書の最後は著者が軍人として一米国人として世界のあるべき姿を述べて終わっています。そこにはEUや、NAFTAの考えに通ずる概念も述べられています。アメリカの金融グローバリズムはどうも現代中国の独裁政治下の自由資本主義をモデルにしつつあり、米国も民主/共和どちらを選んでも結果が同じ独裁政治に向かいつつあるように見えます。独裁政治に支配された世界連邦は単なる一部の勢力(金融資本家)による世界征服にすぎません。著者がのべている世界連邦のありかたは、金融グローバリズムとは一線を隔するものです。著者は、やや出来過ぎの感もあるのですが、私の想像する所の信頼できる良きアメリカ人の典型のようにも思うので、やや長くなりますが、最終部分を引用して書評を終えることにします。

(引用開始下巻386ページ一部読みやすく改編)

建国の遺訓を思い起こせ

 西側同盟諸国は、第二次大戦中にヨーロッパとアジアにおいて由緒ある(力の均衡)を破壊した。我々アメリカ国民は、賢明なるアメリカ建国の父祖たちがアメリカ憲法を制定する際に、個人や一部の政府機関が権力を強奪しないように(均衡と抑制)の制度を確立した意味を思い起こさねばならない。カールスレー、ピット、パーマストン、ディズレリといった英国の戦時、平時の首相たちはヨーロッパ大陸の勢力を均衡させ、それぞれの国が英国に脅威を与えないようにする政策を心得ていた。

 実際私は1939年に英仏が戦争を始めたとき、ヨーロッパの勢力均衡をはかるためにヒトラーとの戦いを始めたものと考えていたのだ。

 平和を維持しようとする世界各国の協調的努力を保証するために第一次大戦後には国際連盟が、第二次大戦後には国際連合が組織された。しかし現在の世界は、世界国家とか、地球連邦を樹立しようというまでには精神的な準備がなされていないのが現実である。世界各地の諸国民は、それぞれ言語、習慣、伝統および領土という点で集約されていて、それぞれの民族が持つ主権というものに対して強い執着を持っている。

 だから他に選ぶべき道としては、政治、経済および文化の分野で、互いに矛盾しない目的を有する諸国で形成される地域的な統治機構をまず形成してゆくことが考えられるだろう。こうした機構に参加する諸国は、それぞれの国家主権をはっきりと保持するが、参加諸国の共通の目的を達するためにそれぞれが相応の負担をするのである。

 共通の利益を基礎とした団結の精神が拡大するにつれて、人間は徐々に、いつの日か、人種、皮膚の色、信仰または身分のいかんに関わらず、すべての人に平等に機会を均等に与えることができる世界国家を樹立することができるだろう。こうした世界国家体制を団結維持させる要素は、偽善や偏見を取り去った崇高な精神であることは言うまでもないだろう。

 現在、それぞれの異なった国民、または国家は、それぞれに異なった目的や目標を持っており、そしてそれぞれに相異なった行動原理に支配されている。しかし私は世界各地を旅行してみて、大多数の人々の最高の願望は、他から干渉されずに平和的に生活することであることを知ったのだ。

 大多数の人々は、各自の才能を開発し、また各国の主張を実現することによって、各自の境遇を改善し、自由を享受できる機会を探し求めているだけである。我々は世界の主立った宗教のすべてに「汝の欲せざることを他人に施すことなかれ」という人類の黄金律が、さまざまな形式で表現されていることを発見できるのである。        

(完)
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書評「第二次大戦に勝者なし上」

2009-10-25 20:44:30 | 書評

「第二次大戦に勝者なし上」 アルバートCウエデマイヤー著、妹尾作太男訳講談社学術文庫 1286(現在絶版)

題名に魅かれて以前から読みたいと思っていた本ですが、再販される兆しがなく読めなかった本です。アマゾンで購入できました。もっともこの題名は海上自衛隊戦史部に勤務していた訳者が本書の内容の一部から訳出したもので、原題は「Wedemeyer Reports!」という内容推測不能なものですが。

著者は1940年から43年の間ワシントンの米国陸軍参謀本部で戦争計画立案に従事、その後はインド、中国で米軍司令官として勤務した経験をもつ生粋の軍人です。しかし戦闘員として前線に出る事は無く、むしろ大統領や国務省の役人達と戦争全体の計画立案を軍の立場から取り仕切る実務を行った人間と言えるでしょう。チャーチルなどの政治家が書いた第二次大戦の回顧録も価値があるのですが、軍人の立場から戦争を取り仕切った人が第二次大戦をどう見ていたかというのは非常に興味深く、また「第二次大戦に勝者なし」と言わしめた内容とは何だったのかが興味深い所です。本書は1958年(小生の産まれた年)に米国で刊行されたちまちベストセラーになり2年間売れ続けたそうです。従って現在の世界情勢からはやや著者の感覚はずれた内容になっていると思われる点もあるのですが、私が普段から感じている「アメリカ国民は本当に第二次大戦参戦を納得していたのか」という疑問について大いに答えてくれる内容です。

本書は文庫本といえ上下とも400ページを越す大著なので、上下に分けて書評を記録しようと思います。上刊は第二次大戦への参戦から戦争中盤の連合軍のシシリー上陸までを時系列に著者の行動を解説したものです。私から見た大事なポイントがいくつかあります。
1)アメリカはいつから第二次大戦への参戦を検討していたか。
2)参戦する理由は何か(どのような国益を追及して参戦するのか)。
3)英米間で戦争遂行上の対立はなかったのか。
4)カサブランカ会談で出された無条件降伏という発想について。
5)ソ連をどう見ていたか(敵の敵は味方という単純なものだったのか)。

氏は第一章第1項の「真珠湾攻撃の真相」の所で「日本の真珠湾攻撃は、アメリカによって計画的に挑発されたものであるという事実は、真珠湾の惨敗とそれに引き続きフィリピンを失陥したことにより覆い隠されてしまった。」「アメリカ国内の反戦派の人達は、ルーズベルトがドイツに対しては明らかに戦時中立を犯す行動を取り、また日本に対しては最後通告を突きつけて何とかしてアメリカを参戦させようとしていたことは十分に承知していたのである。」と明確に書いています。1958年の出版時点でその程度のことはさしてセンセーショナルな内容ではなかったのかも知れません。しかし現在日本の閣僚や幹部自衛官が同じ事を言うと大問題になるとしたら何故なのか、その分析こそ大事なことでしょう。氏は大統領の命令で1941年に入ってから米国をヨーロッパの戦いに一千万規模の軍隊を参戦させる「勝利の計画」と名付けられた秘密計画の策定にかかわってきて、しかもその計画は真珠湾攻撃の2日前の12月5日に「シカゴデイリートリビューン誌」に「ルーズベルトの戦争計画」としてすっぱ抜かれるのですが、国家レベルでの戦争参加の意思は41年の時点で決定されていたと考えて良いでしょう(計画では43年に参戦)。

それではモンロー主義をかかげるアメリカが第二次大戦に参戦する理由は何か、について当時政府は「拡大を続けるドイツ帝国がアフリカから南米に渡りアメリカ大陸を北上して合衆国に攻め込んでくるからである。」という馬鹿馬鹿しい説明が国民になされたと言います。勿論殆どの軍人は一笑に付す程度のナンセンスな内容ですが、要するにアメリカが参戦する合理的な理由は全く無かったというのが本音なのです。著者は米国の参戦計画を策定するにあたり、参戦による米国の国益を考えると当時枢軸軍によりモスクワ近くまで攻め込まれていた共産主義独裁国であるソ連をドイツともども弱体化させた所で米国が参戦して早期に戦争を終結させ、「戦後のヨーロッパを米英主体の安定した政治経済形態に持ち込むこと」と考えていたようです。

米英間の戦争遂行上の対立というのは実に面白い内容で、他書にない魅力かも知れません。衰えたりといえどもイギリスは大英帝国の版図維持が戦争遂行の最も明確な目的です。また自らは最も少ない犠牲で最大の利益を得る政治力が100年来の繁栄を支えてきたとも言えます。だから英国にとってはアメリカを利用して自分の戦争目的を達する事以外戦略策定上の要素はないと言えます。一方でアメリカにとっては早い所ドイツに「参った」と言わせれば良いのですから、一点集中でノルマンジーかカレーからフランスに上陸して一気にベルリンを陥落させれば良い(或いは途中で休戦に持ち込めば良い)、と考えて「ボレロ」「ラウンドアップ」という作戦を立てて英国に共同作戦を迫ります。結局アメリカは英国に騙されて、アフリカから地中海を経由してイタリア経由で大陸に入り、Dデイは米国の思惑から1年遅れた44年になるのですが、アメリカにとっては不要な犠牲を強いられた上、ソ連がスターリングラードから盛り返して東ヨーロッパを蹂躙しつつベルリンに迫るという結果を生むことになります。著者が「第二次大戦に勝者なし」と結論付ける理由もこの辺りに起因します。

「1943年1月にフランス領モロッコで米英首脳により行われたカサブランカ会談は第二次大戦の分水嶺となる重要な会議であった」と1章を設けて解説されています。それは北アフリカ作戦の成功で連合軍の勝利の目処が立ったことに加えて戦争遂行の目標が「枢軸国の無条件降伏」に決まったからであると解説されています。クラウゼビッツの戦争論にも「戦争は政治目的を実現する1手段」と規定されているように殺戮自体が戦争の目的であってはならないのです。相手国に無条件降伏を要求するということは「全て服従せよ」と要求することであり欧州における近代帝国主義間の戦争ではあり得ない発想でした。著者が「恥知らず」と表現するほどこの「無条件降伏」を嫌ったのは政治目的の達成でなく「国家の消滅」を目標に戦争をすれば、相手国が最後まで必死で戦うことを強要することになり、自国の兵士の損失も多大になることが明白だからです。戦前ドイツの陸軍大学に留学していた著者は、ドイツ軍人に友人も多く、特に国防軍の将校達がナチスを嫌っていたことを熟知していました。ヒトラー暗殺計画で処刑されたフォン・シュタウフェンベルク大佐も彼の友人であり、戦争の帰趨が決まってヒトラーが失脚すれば多くのドイツの良識達と再び安定し繁栄したヨーロッパ社会が築けると皆思っていた訳です。しかし無条件降伏を戦争目的にしたことでナチスに反対の人達まで一丸となって戦わせることになり、結果的に戦争が長引き共産主義ソ連の欧州分断を赦すことになったと著者は切歯扼腕するのです。この無条件降伏は日本にも適応されたために終戦が遅れたことは有名な事実ですが、「本土決戦における相方の犠牲を少なくするため」という理由が無差別大量殺戮の戦争犯罪である「原爆投下」の正当化に使われたことを考えるとチャーチル・ルーズベルトの罪の深さを私も感じずにおれません。

ルーズベルトはソ連を「善き仲間」と見做していた、むしろルーズベルトは共産主義シンパ(ニューディーラーと呼ばれる一派)であったというのは60-70年代のアメリカでは常識で映画「追憶」にもそのように描かれている位ですが、第二次大戦当時のアメリカ軍人達はソ連が将来の敵になるだろうことは明白なこととして認識されていました。映画「パットン大戦車軍団」は戦車軍団が主役でなくパットンの人間性を描いた快作で私の好きな映画の一つですが、ここでも英国の戦略が優先されることに対してパットン将軍がいらだつ所や、終戦直後に「俺に1個師団くれればソ連の奴等を国境線まで押し返してやる。」と息巻く姿が描かれていてこれはパットンのみならず当時の米国軍人の多くがそう思っていたのだろうと思わせるものでした。ウエデマイヤー氏が考える米国の国益が第二次大戦前からソ連封じ込めであったことが明らかなのに米国大統領であるルーズベルトは何故「国益に反するような決定」をし続けたのだろう、というのは率直な疑問です。著書ではこの辺りは触れられていないのですが、ルーズベルトは米国大統領としては異例の4期連続(実質3期+α)で大統領に選ばれています。始めは第一次大戦後の大恐慌時代に有名なニューディール政策を行い米国の復興に貢献したとされています。そもそもルーズベルト(ユダヤ人説あり)が身体障害(ポリオと言われている)にもかかわらず大統領になれたのは、伯父のもと大統領セオドアルーズベルト(銀行家系)の影響と共に同じニューヨークの銀行家であったロックフェラーなどのウオール街とのつながりも指摘されています。第二次大戦に参戦しないことを公約に大統領に再選されたにもかかわらず、米国民がいくら犠牲になろうがかまわない戦争を無理やり行うに至った「動機」が何であったのか、戦後を英米でなく米ソで2分する構想を出したのはどこであったのか、本書には勿論書かれていませんが、現在の知識からはやはりユダヤ巨大金融資本の影があるように思えます。

このことについての興味深い記述が他書ではありますが、ユダヤ人の長老と称するモルデカイ・モーゼという人の書いた79年に出された「日本人に謝りたい。」の中のルーズベルト関連の文中に見つけました。(以下引用http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe806.html

「アメリカ愛国主義者同盟」の別団体である「アメリカ・クリスチャン・ミリタンツ同盟」もたまりかねて、ルーズベルトに対して次の如き電文を送っている。「われらクリスチャン・ミリタンツの愛国者は貴下が先日シカゴで話した言葉に関し、貴下がある種の黒幕勢力に使嗾(しそう)されて、アメリカを外国との戦争へ追い込むことを辞さないだろうことを心から恐れるものである。『アメリカ愛国主義者同盟』は、貴下が後日事態の認識において欠くところがあったという遁辞を設けないために法律上許されている派遣委員を貴下の下に送り、彼らをして貴下に否定すべからざる証拠資料を示し、世界における戦争が単に大財閥の間で戦われる帝国主義戦争に他ならないというふうに説明しようとしている。この大財閥とはシオニスト運動を代表するロスチャイルド家と国際主義の統率者であるウォーバーグ家とである。アメリカはこの真相を看破している。したがって貴下がこのユダヤ覇権争いのためにアメリカの罪のない壮丁を犠牲にし、アメリカの平和な生活を破壊に陥しめようと欲してもアメリカ自体は断然これを拒否するであろう。
(引用終わり)

下巻書評に続く。

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書評「闇の世界金融の超不都合な真実」

2009-09-23 23:20:47 | 書評
闇の世界金融の超不都合な真実 菊川征司著 徳間書店5次元文庫2008年刊

副題に「ロックフェラー・ロスチャイルド一味の超サギの手口」とあり、5次元文庫というシリーズに含まれているので「ああ、また陰謀論みたいな本だな」という感じですが、宇宙人やらアセンションやら意味不明のものとは絡めずに真面目に欧米の巨大金融家がどのように政治を裏から支配してきたかを解説した本と言えます。ヴィクターソーン副島隆彦完訳の「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」と同類の本であり、30年間米国に在住して米国政治の実態を生で感じてきた著者が911以降の米国の変容に疑問を感じてインターネット等を通じて調べ上げた結果をものしたものと紹介されています。

巨大金融家が政治を支配するやり方は通貨の発行権を手に入れることであり、王侯貴族が領地を支配していた時から金融業を通じて大きな権力を得ていたユダヤ人の金融家が国民国家が形成されてからも各国の中央銀行を支配することで政治の実権を握ってきた様が歴史的事実を交えて解説されています。米国の独立さえも重税のみならず、当時のジョージ三世が植民地独自の通貨発行を禁止して英国銀行券を利子付きで購入させようとしたことが原因、と独立宣言の起草委員であるBフランクリンが述べたとされています。また歴史的な事件や戦争も一番儲かるのは金融資本家であり、米国の南北戦争の真の原因は奴隷解放云々ではなく欧州の銀行家達が「米国を二分して国力を抑えることを目的に南部の州を焚き付けて戦費を安く貸し出したのだ」とドイツのビスマルクが記録を残しているそうです。戦費を安く借りれなかった北軍のリンカーンは戦費調達を政府独自の紙幣であるグリーンバックスを発行することでしのぎ、北軍が勝利してからも政府が紙幣を発行し続ける予定だったのですが、戦争終了の5日後に暗殺されてしまいます。またロスチャイルド家を受け入れないロシア帝国を滅ぼすためにロスチャイルドの命を受けたジェイコブ・シフが買い手のない日本の国債を高橋是清から全て買いとって日本が日露戦争に辛勝する基礎となったことは有名な話です。ナポレオンの時代はロスチャイルドがナポレオンと被侵略国の欧州の国々両方に戦費を貸し出し、第一次大戦では米国の金融家がドイツ側連合国側相方に戦費を融資していました。

FRBが私企業であることは前にも紹介しましたが、米国は憲法で通貨発行権は議会にあると規定されているのに1913年以降FRBに握られていて、それを取り返そうとした政治家、大統領はことごとく暗殺されているそうです。有名なJFKもその一人です。

著者はユダヤ陰謀論とかフリーメーソンなどでなく、純粋に巨大金融資本が金儲けのために歴史的に通貨と政治を支配し、戦争を人為的に起こしているのであると追及しています。911もその流れであるということを種々の資料をもとに説明していて説得力があります。著者の訴えは通貨の発行権を金融資本家から取り返し、各国政府が持つ事で真に民衆のための民主主義が実現し、不必要な戦争もなくなるのだ、というもので私はその意見に賛成します。日本でも高橋洋一氏などを中心に一時政府発行紙幣の話題がありましたが氏が政治的に抹殺されて、いつの間にか立ち消えになってしまいました。皆が一斉に「通貨は各国政府が発行することにしよう」と叫べばさすがに全員を暗殺するわけにもいかなくなるでしょうが、核爆発のような大事件をおこしてその動きを止められてしまうかも知れませんね。
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