rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

副島隆彦氏の講演会に行ってきた

2010-11-29 18:25:20 | 政治
昨日都市センターホテルで開催された副島隆彦氏の22回定例会に行ってきました。700人ほどの参加者があってホールはほぼ満員でした。第1部に副島隆彦氏を囲む会の須藤喜直氏の政治的映画紹介のコーナーが1時間ほどあり、華麗なる女銀行家、ムッソリーニと私、5月の7日間、ある大統領の情事、といった見方によって当時の政治的文化的背景が良く描かれている6作品を政治的ポイントにしぼった見方での紹介が実写をまじえてありました。

各作品の政治的文化的観点からの見どころが5分程度のダイジェスト版にまとめられていてそれなりに楽しむことができました。これは副島氏のハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(講談社+α文庫上、下)で語られている手法ですが、本家の副島さんほどには毒がないものでした。副島氏の「ハリウッド・・」は納得できるところ、できない所それぞれありますが、この本を読んでから私自身映画の観点が変ったというか、より興味深く映画を観れるようになったことは確かです。

休憩の後は副島氏の講演なのですが、「大政治(ハイポリティックス)が生む金融破局の裏道筋を解明する」と題された割には前半の話題はヨーロッパにおけるメディチ家の存在意義とルネッサンスの勃興に当てられて、マグダラのマリア(キリストの奥さん)が阿弥陀如来になって日本に伝わっているといった話しに終始したので、世界の金融情勢の解析を期待していた人達には不満が残ったのではないかと思われました。

もともと副島氏の金融談話は近著で詳しく述べられているので、それのup date版を詳しく解説されても私としては今一つで、それこそ尖閣問題から北朝鮮の砲撃事件、それにからむ日本とアメリカの政治情勢などの話題の方が興味深いものです。この辺りも既に副島隆彦の学問道場におけるそれぞれの項目で最近解説はされていたので「読んでもらったようにこれこれなのだ・・。」と言った話しで私はある程度理解できました。しかし副島思想の初心者で主に金融話しを目的に来た人達は理解不能だったと思われます。

そうは言いながら後半の1時間半ほどは飛ばしながらの世界情勢、金融情勢の解説でした。経済の見通しとしてはアメリカはやはり輪転機で金を刷っているだけ(量的緩和策の繰り返し)で近々崩壊する。ユーロ、元は踏みとどまる。資源を持っている国のドル(オーストラリアやカナダ)はまだ良い。ブラジルは中期的には買い、と言う予測。政治としてはアメリカはバイデン副大統領が辞めたくないと言っているけれど、何か足元すくわれて来年辞任してヒラリーが副大統領になる。オバマは27日にバスケットの試合で顔に怪我して12針縫ったけど次は退陣するほどの怪我か病気になってヒラリーと変るだろう。既に就任時の側近で残っているのは数えるほどしかいない、ということでした。

朝鮮半島情勢はアメリカ(戦争好きのマレン参謀長)が何とか小競り合いの戦闘でもやりたくて仕様がない、しかし中国はオトナの対応をして乗ってこないだろうから大きな戦争にはならない。北の原爆は二つあって一つは北京に、一つは横須賀(の米海軍)に向けてある。中国は周近平と李克強が仲が悪いながら次の世代を継いで何とかやってゆくだろう。日本は菅さんと千石さんにアメリカが二百億位渡して小沢氏を追い出してアメリカの言う事を聞く政権を作らせたけれど概ね用済みだから次は前原さんにしようと考えていたが、あまり使い勝手が良くない。だから次は小沢、菅両陣営に顔が効いて中国にも(篠原怜―江沢民と関係―を介して)つながる細野さんあたりがなるのではないか、と予測してました。中国は確かにインフレ(20年で100倍位)だし、バブルはハードランディングかソフトランディング(副島氏はソフト派)かするだろうが、アメリカの金融が壊れた後は、世界の金融の中心はユーラシア大陸の中心カザフスタンにIMF決済銀行が各国の協力で造られるだろう、と大胆予測してました。

私としては「ナマで吠えているソエジマ」さんを堪能できたので行った甲斐があったと思いましたが、金融の話しを聞きたい「功利的目的の人向け講演」と「副島ファン」向けの講演を今後は分けたいと初めに言ってましたので、敢えて前半演題と関係ない話しをしたのは「金融話し目的の人は定例会には来ないでね」という彼流の確信犯的聴衆離反工作だったかも知れません。
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得るものが少ない予防医療

2010-11-21 21:04:59 | 医療
自治体27%が「公費助成へ」-来年度の子宮頸がんワクチン(医療介護CBニュース) - goo ニュース

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子宮頸癌の原因とされるヒトパピローマウイルスの一部が感染しないように数年間守ってくれるというワクチンがこの「子宮頸癌ワクチン」です。HPV(パピローマウイルス)16と18型の感染を防ぐことで、約半分の癌の原因ウイルス型とされるこの二つの型の感染を防ぐことで子宮頸癌の発生を防ぐ事が目的のようです。年3回接種で5万円の費用がかかるということで、各市町村は公費の補助を考えているようです。接種対象は小中学生の女児で性交渉前でまだウイルスに感染していないことが必要ということです。栃木県では小学6年生の希望者全員に公費で接種する自治体が出たというニュースもありました。

私が自分の子供(娘)にこれを受けさせたいか、と問われたら「否」と答えるでしょうね。日本の子宮頸癌の死亡者が年間2,500人位、発生が7,000-8,000人位と言われていますから、ある年齢の女子(階級別人口表から計算して)60万人に全員接種して、子宮頸癌の発生を50%抑えたとすると恩恵を受けるのは発生者のうち4,000人、つまり投与者の0.7%に過ぎない事になります。残り99.3%の女性は無駄なワクチン接種を受けることになる上、ワクチン接種をしても0.7%は子宮頸癌を発症する運命にあります。接種に5万円かかるとして300億円かけて4,000人の癌の発症を抑えるというのはあまりに無駄が多くないでしょうか。数多ある癌の種類のうちのたった一種類の中の一人の癌患者発生予防に税金が750万円かかるということですよ。しかもワクチンというからには何らかの副作用が出る可能性もありますし、接種にあたってそれなりに人的医療資源もかかる訳です。私が厚労省の責任者ならば子宮ガンの検診をより充実させて二次的予防である早期発見早期治療の充実を目指しますがね。

子宮頸癌ワクチン接種の普及について、天地神明に誓って薬剤会社との利害関係がないと言うならば、医療費の費用対効果の効率や安全性について政府自治体は納得の行く説明を国民全員にしないといけませんな。
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金の切れ目が医療の切れ目

2010-11-12 18:59:02 | 政治
「千円で治して」…お金足りず治療中断も 医療機関調査(朝日新聞) - goo ニュース

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これが二ユースになると言う事は、金銭の有無にかかわらず日本では誰でも最高の医療が受けられるということが常識となっていた、ということでしょうか。そうであるならば戦後の日本は人類発祥以来古今東西誰もなしえなかった理想郷を造っていたということになりますね。なぜそのような理想郷で毎年3万人も自殺者が出るのでしょうか。

ともあれ、医療費が払えないから投薬や検査或いは医療そのものを希望いないという人はここ数年確実に増加しています。医療費が払えなくても福祉を活用すれば本当に必要な医療ならば受ける事ができます。しかし入院すると派遣を切られてしまうとか、会社を解雇されるからという理由で入院治療を拒む真面目な方がいることも確かです。完全に生活保護者になってしまうと種々の制約はありますが、医療費は全て無料になるので、時には過剰と思われるほど医療を受けている人や、逆に医療者側の方で確実に医療費を回収できる生保の方を悪用して過剰診療で医療費を稼いでいる事例(これは犯罪)があったりします。

共産主義国家中国も医療費は高く(保健制度はない)、民間の怪しげな医療や薬剤が氾濫しているのが現状で、日本を模範とした米国の新医療制度も社会主義だと反発を受けて実現しそうにありません。日本と医療制度が似ている欧州の諸国ではやはり医療福祉予算が高騰しているため、税収を増やしたり、軍事費を削減したりしているようです。(英国は25-40%カットで空母をフランスと共用する案が出ているとか、ドイツも徴兵制を止めて25万の軍隊を16万人に減らす予定、NATOはいずれアフガンから撤退と)。

私は超高齢者には金のかかる最新医療よりは心安らかに死を迎えられる医療の方が必要だろうと思いますが、まだ未来がある若年、中年の人達にはお金のかかる医療も公的資金で受けられるようにしてあげるべきだろうと思いますし、そのために増税も良いのではないかと考えます。少なくとも入院したら会社をクビになるような事態は避けられるように法改正する(或いは法に実現性を持たせる)べきだと思います。
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書評 いのちのレッスン

2010-11-03 16:15:12 | 書評
書評 いのちのレッスン 内藤いづみ 米沢 慧 雲母書房 2009年刊

在宅ケアを中心に内科を開業する内藤いづみ氏とホスピスや介護・ケアについて造詣の深い医事評論家の米沢慧氏のホームページ上での往復書簡による意見交換を単行本にまとめたもので、ホスピスの生みの親であるシシリーソンダースや死の臨床においての患者の心理を解明したキューブラー・ロス、戦場写真家からホスピスの伝道者となった岡村昭彦氏などをテーマに、近況をまじえながら現代日本における終末期医療の問題点を論じてゆく物です。

それぞれが重いテーマであり、身近な人に癌や死、介護などの問題をかかえていないと関心が持ち辛いものばかりかと思われるのですが、老いや命にかかわる病気は必ず全てのひとにいつかは訪れるものであり、現在関心がなくてもどこかで向き合わなければならないテーマと言えます。また医師である私にとってはこれらは日常的なテーマであり、取り上げられている全てのテーマが身近なものと感じました。

それぞれのテーマについて手短に紹介したり寸評を述べたりするのはあまり意味のないことに感ずるので、在宅ケアや死と向き合う臨床についての全体的な感想を述べる事にします。

在宅ケアで開業する内藤いづみ氏は1956年生まれで、福島県立医大を卒業してから東京女子医大内科を経て現代医療のあり方に疑問を感じて英国に渡ってホスピスの研修を受け、日本でまだ殆ど行われていなかった在宅による終末期医療を始めて現在に至ります。2005年を過ぎて日本の病院医療の崩壊が叫ばれるようになり、また2006年にがん対策基本法が成立して初めて厚労省は在宅医療による終末期ケアも重視するようになりましたが、それまでは内藤氏も診療報酬面やまわりの医療者の理解度など孤軍奮闘の状態であったことは間違いありません。がん対策基本法もその基本理念を読めば判るように、「がん」の早期発見・治療と治療技術の均霑化による「がんの克服」を目的にしているのであって、がん患者が残る限られた人生を有意義に送ることを目的には作られていません。内藤氏は小生のような現代医療に携わる医師達が死の臨床に無関心であることを非常に苛立たしく感ずると書いておられるのですが、それももっともなことだと感じました。

私について言えば、やはり日常診療において「死の臨床」に正面から向き合うことは誤解を怖れずに言えば「めんどうくさい」「苦手」という範疇に入ります。ほら、やはり最近の医者は医療において大切な「医師のこころ」を失っているじゃないか、と言われるとある程度当たっています。しかし実際には私も月に何人かの看取りを行なっているのですから、現実問題としては「死の臨床」を避けて通ることはできないし、苦手と思いながらも向き合っているのですが、何故「めんどう」「苦手」といった感覚を持つのかを考えて見ました。

現代医学は米沢氏の表現を借りれば病気の克服、治癒を目的とする「往きの医療」であり、終末期医療や介護・ケアというのは疾患の治癒ではなく病と共に良く生きることを目的とした「還りの医療」ということになります。全国の大学病院や地域の基幹病院は「急性期病院」と言われて、短期間の治療で治る病気が対象とされ、慢性疾患の場合でも急性増悪したものを安定化させてリハビリなどを行なう療養型の病院に送るのが基本になっています。だから平均入院期間も14日以内であることが求められていて、入院が長くなると病院が請求できる医療費も減額されるように定められています。つまり我々は「往きの医療」を行なうよう厚労省から定められているのです。

医学の進歩によって急性疾患の殆どは治療可能になり「病気は治って当たり前」、「結果が悪ければ医療ミス」などと一般の人々に誤解されるまでになったことは前から述べている通りです。治って当たり前の病気に対して我々医療者の持つ感覚は「商売医療」であって、勿論医療を行なう時にはミスなく全力を尽して医療を行なうのですが、病気が治ってしまえば患者さんとのつながりは一度解消されて、患者さんの人生にまでかかわろうとはしません。だから短時間に効率良く沢山の患者さんを治療するほど病院の評価はあがるしくみになっています。一方で「死の臨床」「死と向き合う医療」というのは患者さんの人生との対話に他なりません。沢山の商売医療を行なっている中でぽつんぽつんと「患者さんの人生に深く向き合うような医療を行なう」ことはかなりストレスのかかることであり、そんなに簡単に気持ちの切り替えができるものではありません。だから「めんどう」であり「苦手」に感じてしまうのです。

老健施設では時に入所しているお年寄りが死亡している状態で発見されることもあります。そのような時、嘱託の医師が来て自然死として死亡診断をしてくれれば良いのですが、往々にして救急車が呼ばれて急性期病院の救命救急室に搬送されます。救急隊は死後硬直しているなどよほど明らかな死亡状態でない限りは心臓マッサージなどの救命処置を行いながら搬送してきますので、病院としても到着と同時に死亡を確認する訳にも行かないので心臓マッサージ、挿管、強心剤の静脈注射などを30分くらい行って、蘇生しないことを確認して家族に説明して死亡判定をします。死斑が出かかっているような亡がらに蘇生措置をすることは無駄なことであり、80年以上生きてきた最期にこのような処置を加えられることは不本意だろうな、と思いながら儀式ともいえる処置を行います。それでも救急を預かる研修医達にとっては貴重な訓練とも言えますし、この経験で将来本当に緊急を要する患者が助かることもあるのですから良しとするべきですが、「老健施設からCPA(心肺停止状態)の患者さん入ります」の連絡が来ると「やれやれ、何故嘱託の医師は診てくれないのだろう。患者さんは自分の死に場所としてその施設を選んだだろうに」とぶつぶつ言いながら救命室に向かいます。急性期病院には93歳の心不全、家族は何もしないことを希望、とか89歳のがん患者、血圧低下、緩和医療のみ希望といった患者さんが運ばれてきます。本来ホスピスや在宅医療で診られるべき患者さんが短期間で治る病気を扱う病院に入院しているのが現実です。

著者の内藤氏は死の臨床に向き合わない医療者のみでなく、時々ある「家族の死に向き合おうとしない家族」にも怒りを表明します。確かに施設や病院に預けっぱなしでなかなか面会にも来ない家族がいることも確かです。緩和医療を苦手に感ずることの一つに「医療者が家族の代わりの役割を要求されている」ように感ずることがあげられます。癒しを必要とする患者さんにもっとも適切な癒しを提供できるのは家族や友人です。医療者は患者の気持ちを理解した上で、家族が疲弊しきってしまわないようにアドバイスをする、或は家族が与えることが出来ない医学的なケアを行うのが役割です。そのような患者、家族、医療者三者の良い関係を米沢氏は「ファミリートライアングル」と呼んでいます。そのような適切な距離感を保ちながら三者が良い関係を結んでゆければ理想的な緩和ケアや死の臨床を行うことができるのだろうと思います。残念ながら日本では医療体制も医療者も患者側もこのような体制には至っていません。この本で語られている内容は本来の医療であり未来の医療ということになるように感じました。
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