rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

「看護師不足は外国人を雇えば良い」という意見に物申す

2008-08-31 17:41:05 | 医療
_外国人看護師・介護福祉士受け入れ 
日本政府は平成11年、単純労働者の就労には慎重な姿勢を保つ一方、専門的・技術的分野の労働者は受け入れの方針を閣議決定した。日本は18年9月にフィリピン、昨年8月にはインドネシアと、看護・介護分野の労働者の受け入れなどを柱とした経済連携協定をそれぞれ締結した。インドネシアとの協定は今年5月に日本の国会で承認された後、受け入れを正式決定。フィリピンは同国上院での批准が遅れるなどしているため、厚生労働省は今年度中の来日は困難とみている。
(http://sankei.jp.msn.com/life/welfare/080704/wlf0807042225003-n3.htm)

日本における看護師、介護士などの医療職は、夜勤があったり、肉体労働として仕事がきつい上に責任も重く、その割に給与面などの待遇が良くないために離職率が高く慢性的な人手不足状態にあります。最近では、自民党有志の「外国人材交流推進議員連盟」(会長・中川秀直元幹事長)が、人口減少問題を解決するため、50年間で「総人口の10%程度」(約1000万人)の移民受け入れを目指すなどと外国人労働者受け入れがよりヒートアップしてきています。日本看護協会は外国人看護師の大量受け入れには反対しています。私も看護師達と一緒に働く医師の立場からは基本的には反対です。

理由は2点あります。まず1)日本人が足りなければ外国人を安く雇えば良いという発想が間違いであること。2)高度なコミュニケーションを必要とする医療現場において日本語の不自由な外国人を安易に受け入れることの危険性が全く無視されていること、です。

現在看護師、介護士などの離職率が高いのは、仕事を続ける環境や待遇が悪いことが一番の原因です。待遇を改善すれば離職率も下がり、人が増えればそれだけ労働環境も楽になり、結果的にサービスも向上します。「日本人が駄目なら安い外国人を連れてきて働かせれば良い」というのは、ありていに言えば「奴隷を買ってきて働かせる」ことと発想は同じです。日本人はいつからそんな傲慢な民族になったのでしょうか。

病院では新卒の若い看護師達が2-3年してやっとベテランになって信頼できるスタッフになった状態になると出産などを契機に次々と離職してゆきます。育児施設を備えた病院も増えてはいますが、予算も必要であり、全国の病院の9割が赤字の状態では十分とは言えません。介護職に至っては尚劣悪な状態です。外国人を受け入れるのは離職者が少ないのに足りない、つまり本当に数が足りない状態になって始めて議論されるべきことです。

第2の言葉の問題ですが、これだけ医療事故の責任追及をきびしくしているマスコミがコミニュケーションが満足にできない外国人が医療に入ってくることに何の危惧も示さないとはどういう神経なのでしょう。彼らが犯したミスはカバーできなかった日本人スタッフが責任を取ればよい程度にしか考えてないのでしょうか。もともとマスコミは医療事故について十分考察したり、重要視などしていないのだと思います。時流に乗って医療事故をネタに医療をバッシングしているだけなのです。看護師の業務は患者さんに接することだけでなく、カルテや各種書類への正確な記載(日本語で)、業務帯や病棟間の申し送りなど日本語のコミュニケーションが手早く間違いなくできることを必要とするものが沢山あります。フィリピンなど英語を公用語としている人達が米国やカナダなどで働く事はさほど困難はないでしょうが、1-2年日本語を勉強した程度で日本人の看護師と同等にミスを犯さず医療的記載が日本語でできる訳がありません。マスコミは何故その問題をスルーしているのでしょう。外国人看護師が言葉の問題でおきた医療事故は「しょうがない」ですますという暗黙のルールでもできているのでしょうか。

メディアによっては外国人受け入れに反対している日本看護協会の立場を「利権を守るために反対している」と決めつけているものもありますが、たいして良い条件で働ける訳でもないのに何の利権なんだろうと不思議に思います。少子高齢化といっても日本に若者がいなくなった訳ではありません。若者達は正規社員になれず、派遣やフリーターとして生きる事を強制され、次世代の日本を担う立場や父母として次代の日本人を育てるために独り立ちしてゆく道を狭められているのです。「労働者がいなければ移民を入れろ」というのは「奴隷を安く買ってこい」というのと同じです。まず日本人の若者、勤労者を大切にすること、年を取っても労働を続けられる環境を整える事から始めるべきです。

そのためには私が普段から主張するように、勤労者の給与を上げる必要があります。「会社の利益は株主と資本家に分配すればよい」というのはアメリカの未熟な原始資本主義の考え方であり、その結果が資産総額がGDPの10倍(アメリカの資産総額は1京3000兆円)などと言う利潤を求めるだけでGDPの半分近くを必要とするような初歩的な算数でも無理が明確な経済構造になってしまうのです。原始資本主義は国民を幸せにしません。勤労者が潤い、経済が回転し、税収も増加し、福祉予算も増え、それで国民の健康も増進するのが日本の進んだ資本主義のありかたではないでしょうか。
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アメリカ国民は第二次大戦への参戦を本当に納得していたのか

2008-08-29 19:48:45 | 映画
映画「頭上の敵機(twelve o’clock high)1949年」に見るアメリカの苦悩
監督 ヘンリー・キング 主演 グレゴリー・ペック

 名作であり、テレビドラマ化もされ、日本でも何回となくテレビで放映され、今や本屋さんでDVDが500円で買えます。子供の頃見た時は実践フィルムを多用してB―17爆撃機が縦横に飛び回る活劇だったような記憶なのですが、今見直して見ると何とも奥の深い大人の戦争ドラマであると思います。

戦争活劇というよりもドラマの大半は部下と一体化しすぎた爆撃隊長に取って替わったサベージ准将が管理職として戦争に気乗りしない爆撃隊を鍛え直してゆく管理職の苦悩を描いた作品といえます。第2次大戦中、欧州では戦略爆撃において英軍が主に夜間爆撃の手法を取ったのに対して、米軍は昼間爆撃を継続しました。爆撃目標が明瞭に見える一方で対空砲火や迎撃戦闘機の犠牲になる爆撃機が多数あったことが背景にあります。

製作されたのは1949年、勝った戦争が終わって4年目に何故米国万歳でもなく、ナチス憎しでもない管理職の映画が作られ、また皆に受け入れられたのかは興味深い所です。この映画で、若い隊員達から投げかけられる「自分たちと関係のないヨーロッパの戦争に何故命を懸けて参加しなければならないのか」という疑問は大戦中米国民が持ち続けていた切実な問題であったと思います。管理職である爆撃隊長の悩みの原因はまさにそこにあります。米国の古い戦争映画を見ると常に底流にその問題が描かれていると思います。米国は参戦しないことを公約に大統領になったルーズベルトは、日本人が嫌いであり、チャーチルに唆されたこともあって、日本に真珠湾攻撃をさせ、それを口実に第二次大戦に参戦します。当時アメリカ政府が作った戦意高揚のためのドキュメントフィルム(これも500円DVDとして本屋でみかけます)には、「戦争なんて関係ないや」という本音を語る米国市民を映す一方で「日本とドイツはこんなに酷い事をしている」という都市爆撃や真珠湾攻撃の誇張をこめた内容を映し出して、何とか米国民に参戦を納得させようとしている映像が見られます。

一方でヨーロッパで製作された第二次大戦の映画は侵略国ドイツをやっつけることに何の疑問もありません。この映画でサベージは隊員達に「使命から逃げる事はできない、欧州の空に米国の飛行機が満ちて戦争を勝利に導くことは素晴らしいだろう。」と説得しますが言葉の虚しさを彼自身も感じているように表わしているところが大人の映画を思わせます。さらに上官として前任者と同様、部下達と一体になってゆき、死地に追いやる事に耐えきれなくなってしまうというヒューマニズムがこの管理職を主人公にした映画が皆に受け入れられた要因であると思いました。

何故こんな所(アメリカ本国と関係のない場所)の戦争で死なないといけないのか、という疑問は朝鮮戦争を描いた映画「トコリの橋」(1954年:監督 マーク・ロブソン 主演 ウイリアム・ホールデン/グレース・ケリー)でも死地に赴く前の主人公に語らせます。彼を理解する空母の艦長は「この場(戦場或いは東西陣営がぶつかる接点)にいることが参戦を納得させることなのだ」と苦しい説得をします。一方でさすがにベトナム戦争では皆が「何故こんな戦争してるの」の大合唱になってしまったから「グッドモーニング・ベトナム」「プラトーン」「地獄の黙示録」などでもあえて登場人物に疑問を語らせなくても始めから疑問ありきで観客が見てくれているのだなと感じます。私は「プライベート・ライアン」(1998年スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演)も恐らく皆さんとは異なる解釈をしていて、一人の二等兵を探すために多数が犠牲になる「くそ任務」と、映画の前半に描かれるノルマンディ上陸作戦で多数のアメリカの若者が虫けらのように殺されてゆくことが同じである、という寓意が示されていて、アメリカはこれで良かったのかという問い掛けが始めと終わりにはためく星条旗とともに主人公によって語られている映画だと解釈しています。

テロとの戦いを描いた最近の戦争映画はどうでしょう。最近の戦争映画に名作がないのは、ハリウッドが大政翼賛の悪いテロリストをやっつけろというくだらない映画ばかり作り、マスコミに騙された国民が真実を描いた映画を欲しないからどうしようもない駄作ばかりが作られているのではないかと感じます。
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ネガティブキャンペーンは誰も幸福にならない

2008-08-27 23:55:33 | 社会
建設的な方向でなく相手を批難中傷したり、ある役職を辞めさせたりする運動を、「その対象を現状よりマイナス方向に向かわせる」という意味で「ネガティブキャンペーン」と呼ぶ事にします。このネガティブキャンペーンは身の回りの日常生活でも頻繁に遭遇しますし、大きな社会の中でも、国家間においても実は日常茶飯事の如く存在していると思われます。そしてこれらに共通していることはネガティブキャンペーンを張られた方も張っている当事者もどちらもプラスの方向、つまり建設的で幸福になる方向に向かわないということが明確であることです。

卑近な例では、他人の悪口を言い募る人間が尊敬され幸福になることはないというのは誰にも納得できることです。会社内の勢力争いなどでも対抗勢力を誹謗中傷する怪文書が出回ったりすることがありますが、大抵出された方のダメージよりも出した結果得すると思っているグループの方が最終的には敗けることが多いものです。マスコミが政治家や大臣を「辞めさせる目的」で瑣末なスキャンダルを執拗に報道することがあります。恐らくそのキャンペーンで得をすると信じているグループもあるのでしょうが、少なくとも多くの国民にとっては何の関係もない誰の得にもならない問題です。このことで多くの国民の生活がこのように改善する、だからこの報道をするのだという筋の通った精神が見られない報道は、「ジャーナリズム」とは言えない与太記事でありジャーナリズムの自己否定に過ぎないと常々感じています。(そんな記事ばかりなのですが)

社会においては、左翼勢力や左翼的市民グループと称する連中を観察すると、殆どネガティブキャンペーンしかしません。自分たちの主張を正当化する手段として相手を誹謗中傷する以外ないようです。相手を高めるような建設的な意見を具申して御互いに良い関係を作っていこうという左翼グループは皆無です。ネガティブキャンペーンは誰も幸福にしないので、結果的に世の中に幸福な左翼というのは見た事がありません。

国家間においても相手国をただ誹謗中傷するだけのネガティブキャンペーンが氾濫しています。やたらと戦争責任や植民地支配を持ち出す国々など、理論通りやはり幸せな国家・国民ではないようです。法話のような内容になりましたが、相手を高めて建設的な関係にするための批判は多いによろしいと思いますが、相手を引き下ろすだけのネガティブな行動は誰も幸せにならないから止めようということです。それなのにネガティブキャンペーンが世の中に氾濫しているのは人間のねたみや弱さ、愚かさの現れでしょうか。少なくとも国家そのものがネガティブキャンペーンの音頭を取るようなみっともないことは国家の品格にかかわることであり、やめて欲しいものです。
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北京五輪開会式の歴史絵巻は歴史というより文化紹介

2008-08-24 21:25:27 | 歴史
北京五輪も無事閉会式を迎えようとしています。開会式は夜遅くしかも長時間だったのでずっと注視して見ていた訳ではありません。しかしやたらと手の込んだしかも絢爛豪華なアトラクションであったと思います。テレビの解説者が歴史絵巻という紹介をしていたので、見る方もそのつもりで見てしまった人が多かったのではないかと思いますが、私は少し違うのではないかという印象があります。

スピルバーグに芸術顧問を断られて、北京オリンピック組織委員会は2008年4月中国人映画監督の張芸謀をチーフディレクター、振付師の張紹鋼と陳維亜をアシスタントディレクターに選定した、とされていて、内容についても直前まで2転3転あったようです。しかし組織委員会が主に何を見せたかったかというと、中国の歴史ではなくて中国古来の文化紹介であったことは間違いないと思います。この中国文化の紹介をいかに芸術的に見せるかに最大のこだわりがあったのではないかと思われます。

中国の歴史は「秦」から「清」までは「元」のようにヨーロッパまで勢力を延ばした帝国もありましたが、殆どは「易姓革命」によって王朝が変わったり林立したりしただけで、古代や中世のような区別がありません。しかも漢民族が常に主役だったわけでもありませんし。アヘン戦争、辛亥革命から共産革命、現代までの歴史は悲惨すぎてオリンピックの開会式の出し物になりません。まあ現在を象徴する革命歌と多民族の協調はとんだミソがついてしまったようですが。

開会式の内容について、もともと中国の文化に接したいという希望が多かったので開会式をそれを紹介する機会にしたという記事がいくつかありましたが、こちらの方が開会式の意図をよく表わしていると思います。

私は開会式の内容を特に批判するつもりはありませんが、オリンピック全体について、「やけくそに近い必死さ」で開催するのはもう止めて欲しいと切に思います。政治的な議論を好まない日本でこれだけ政治的に議論されたオリンピックはかつてなかったでしょう。アテネの時のようにあっさりとスポーツを楽しむ祭典で良いではないかと思うのですね。日本の選手についても、日の丸をずっしりと背負ってプレーするのも何か悲壮感があって、「日本の他のプレーヤーを代表して来ているのだ」という気概はあって当然ですが「死んでもラッパを離さない」的な覚悟はかえってプレーヤー本来の力を殺いでしまうように思います。その意味では福田総理の「せいぜい頑張って下さい。」は良いコメントだったように感じます。プレーヤーとしては勝つべくして勝つ、「寝姿」で有名な棒高跳びのイシンバエワさんのような超然さが理想のように思います。
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テレビ映画「コンバット」に見る米国のカソリック観

2008-08-22 19:50:13 | 映画
テレビ映画「コンバット」は60年代に放映されて、日本でも度々再放送され、今でも時々衛星放送で流されるので知っている人、或いは大ファンの人も多いと思います。私を含む「戦争大好き少年」達はサンダース軍曹やヘンリー少尉にあこがれて、サンダース軍曹の持っているトミーガンが欲しいなあと思ったものです。

私も中学生の頃から深夜などにこっそりと「コンバット」を見て育った人間ですが、単なる殺し合いだけでなく、そこに描かれるドラマ、特に西洋人独特の考え方に基づくドラマに魅せられた記憶があります。「コンバット」はヘンリー少尉率いる米軍の一小隊が、ノルマンディー上陸からフランスを解放しつつドイツ軍と戦う日々が人間ドラマとともに描かれてゆくのですが、先々の小さな街で出てくる小さな教会、砲撃で壊れたキリストやマリアの像、戦争と関係ないが如くすごす修道僧達などが「一種独特の雰囲気」を持って描かれているのが印象的でした。

私は宗教についてはざっとした知識しかないので間違った認識もあるかも知れませんが、この描かれる「独特の雰囲気」は何なのか最近解ったように思います。それはプロテスタントである米軍がフランスの田舎町の異文化であるカソリック教会に対して畏敬の念をいだきつつも暴虐ドイツからそれらを「解放する米軍」というスタンスなのだな、ということです。

アメリカにおける宗教(とそれを信奉する民族)の上下関係は政治経済学者の副島隆彦氏が書いた「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」(講談社α文庫2004年)に簡潔明瞭に記されているのですが、簡単に記すとアメリカではプロテスタント(の白人)が主流で上位であり、アイルランド、イタリア、東欧などのカソリック(の白人)は下位に見られている。黒人はその下、アジアやイスラムは埒外であり、ユダヤ教は好かれていないけれど別格扱い。ただし米国内では下位に見られているカソリック(系白人)だけれど唯一特別なのはその昔イングランドを征服し、近年では米国独立を支援し、自由の女神を贈ったフランス、というもの。だからアメリカ人はフランスの名家にあこがれるし、フランス語を話すことは知的エリートの証ともなるとか。

戦争映画の名作「パットン大戦車軍団」ではパットン将軍が流暢なフランス語でフランスの民衆に演説する様が描かれていて、その演説内容を副官(これもエリート)が新聞記者に解説するという場面が出てくるのですが、文化的バックグラウンドが解るとなるほどと思わせます。

コンバットの初期の作品「Lost sheep lost shepherd」を紹介します。この作品では堕落して追放された牧師の卵が戦車長となり英雄となるのですが、聖職者になりたかったのに毎日殺人を犯しているという心の葛藤から、逆に教会に敵意を持ってフランスの教会を砲撃したり、神父に乱暴したりします。しかし最後は自分が乱暴した神父に懺悔をします。アメリカ人の戦車長とフランス人の神父は言葉が通じないのでキリスト教共通の言語であるラテン語で懺悔をかわします。神父から行方不明の村人達(sheep)がドイツ軍によって教会に幽閉されていることを知らされた戦車長(shepherd)はカソリックの法衣を纏って教会に乗り込み、自ら犠牲となり戦死するのですが、幽閉されていた村人達は救出されるという物語です。ここでも独特の雰囲気満載なのですが、「畏敬の念を抱きつつフランスを開放する米軍」というスタンスが貫かれている作品と言えます。


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生命保険会社への苦言

2008-08-21 19:30:16 | 医療
今日は単純な愚痴です。

我々医者が完全に余計な仕事と考えているものの一つに民間保険会社の「入院証明書」があります。「一日入院からでも補償」とか「3大疾病特約」とかあの手のやつです。あの証明書は一枚書くのに10分近くかかり、同じ患者さんが2枚3枚と持ってくるのでうんざりします。しかも会社によって書式が異なる。

私は何が一番腹立たしいかというと、我々医者が保険会社の事務処理を一方的にやらされていることと、その奉仕に対する報酬が一切ないことです。保険会社はレセプトと呼ばれる診療報酬の請求書を入手すれば、患者さんが何の病気でどんな治療を行ったか知る事が出来ます。だから入院証明書などという書類など無くてもレセプトを発行してもらえば必要な情報は手に入ります。ただしレセプトから全てを判断するにはそれなりのスキルが必要です。その事務経費をなくすために証明書を発行させているのです。しかも証明書の発行手数料は保険会社は一切負担せずに「患者さんが負担」しています。保険屋にとっては楽な商売です。我々医師は患者さんが身銭を切って発行を依頼しているから、患者さんの顔を思いながらサービスと思って(保険会社をいまいましいと思いながら)時間外に証明書を書いているのです。

第二に、あの証明書には今回の病気と関係ない既往歴を書く欄まであります。既往歴を調べるのは保険会社の仕事です。それを医者をタダで使って情報を集めてしまおう、という浅ましい根性が気に入りません。

第三に、医療の高度化複雑化によって治療法が多岐に亘るようになり、手術名を書いても解りにくくなったこともあるのでしょうが、治療内容に共通コードのICDナンバーを書かせる書類が多くなりました。これなど正に保険屋が自分で調べて決定するべき内容であって、医者にコードを調べさせて書かせるなどもっての他です。保険会社にその能力すらないのならば日本は皆保険制度であり、高額医療には公的保障が出るのだから、民間の医療保険など辞めてしまえばよいのです。

第四に、医療保険について顧客から集める保険料と、保険金として支払われる額の比率が諸外国に比べて極端に低いことです。アメリカでは民間の医療保険が正に医療費として医療機関に支払われますから、医者が保険会社にレセプトを書く事は仕事の一部であり、日本の医者が健康保険のレセプトを書くことと同じです。保険会社も医療費として相当の額を支払っています。しかし入院してもたかだか一日一万円程度しか払わない日本の医療保険などハナから顧客から余分に金を集める「生命保険のおまけ」としての意味しかありません。しかも証明通りに正当に支払われていない場合が多いと監督官庁から注意されるほどですから。

我々医師は、生命保険会社の事務仕事に多大な貢献をしているにも係わらず、感謝されたことはただの一度もありません。勤務医の組合が機能した暁には、保険会社の入院証明記入は拒否します。コンピューター処理されるレセプトを有料で(しかも証明書発行料金より安く)発行し、それを保険会社が解読して保険料を払えばすむことです。保険屋の事務手伝いのために、余計な書類を書く時間、もっと患者さんを診察したり、病気について調べたりする時間に使ったほうがどれだけ有益か、常々感じています。
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医療の結果責任で医師を犯罪者にすることは患者目線ではない!

2008-08-20 19:19:53 | 医療
帝王切開事故、「捜査で産科崩壊」=医療シンポで批判の声-福島(時事通信) - goo ニュース

一生懸命治療したけれど、結果的に患者さんが死亡してしまった。もしかしたら他の医師が違う方法をとっていたら死なずに済んだかもしれない。患者さんが亡くなったという結果で医師に責任を取らせて犯罪者にしてしまおう、それが医療の結果で人が死ななくなる最善の方策である。というのが福島の事件の本姿である。今回検察側の禁固刑を含む業務上過失致死の求刑に対して、裁判官は無罪を言い渡した。医療者側は胸をなでおろしていることは確かです。しかし一方で「これでは安心して医者にかかれない、患者側の目線も考えて欲しい」という論調があります。

この論理は100%おかしい、誤った考えです。私は医者ですが、自分の家族・子供も散々手術そのほかで医療の世話になってきましたから患者家族の気持ちも十分わかります。自分の子供が心臓の手術を受けた時は待合室でそれこそ祈るような気持ちで待ち、術後の経過も日々一喜一憂して過ごしたものです。だから一生懸命治療してくれた医師を「結果が悪かったからといって犯罪者にすれば良い」などという暴論を口にする人間は患者の気持ちも病者の気持ちも何も理解していない単なるアジテーターと断定します。

私は「患者を診療する能力があるのに萎縮医療となって医療が行われなくなること」に怒りを感じます。診療してもらっていれば助かったかもしれないのに医療が行われずに死亡したらそれこそ浮かばれません。本当の患者目線とはこちらではないでしょうか。まず困った時に診てもらえる事、それが一番です。そしてその医療機関で無理と判断されればより高度な医療機関を紹介してもらえば良いし、その時点で最良と考えられる医療をしてもらって結果が悪くてもそれはしかたがない事です。他の医師、他の医療機関で診てもらっていれば治ったかも知れないなどというのは結果論であって、もっと酷い事になっていたかもしれないとも言えるのです。

5月9日のブログに書いたように、医療事故には素人にも完全に間違いだと解るミスもあります。手術する臓器の左右間違いや血液型の間違いなど、誰が見ても解る誤りは、処罰の対象(業務上過失を問われる)になることに誰も異論はありません。しかし一生懸命医療を行ったが、「結果が悪かったから」という理由で処罰の対象にしては絶対にいけないのです。
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軍隊本来の使われ方をした?ロシア軍

2008-08-17 22:50:43 | 政治
ロ大統領が和平原則に署名 グルジアの停戦合意が成立(共同通信) - goo ニュース

今回のグルジアにおける戦争は、米ロの代理戦争という呼び声が高いものの、一方の主ブッシュ大統領がオリンピック見物をしている最中に熱い戦争に発展、最終的な結末は未定の部分が多いとはいえ軍事衝突自体はロシア軍の圧倒的勝利に終わりそうです。

ソ連崩壊後のロシア経済苦境の際には、給与もろくに支払われず、規模も縮小され、当時の同盟国や連邦が西側に寝返るなど散々な状態にあったロシア軍でしたが、ロシア経済が順調なここ2-3年に大きく息を吹き返し、パレードはする、上海協力機構は立ち上げる、日本領空に威力偵察はするとずいぶん威勢がよくなってきました。

プーチン大統領は強いロシアの復活には賛成でしたが、軍備ナショナリズムには否定的で、2001人には軍人の数を140万から80万まで縮小予定だったのですが、軍の反対で実際は110万までしか縮小できなかったと言います。一方で国境警備隊や軍属を含めたロシアの軍関係者は500万人に及び、国民の14人に一人の計算になるそうです(日本は200人に一人)。現在ロシアは豊かな国家財政をバックに新型のICBMや原子力空母、ステルス爆撃機の開発などに力を入れているそうです。

そんな中、今回のグルジア紛争はロシア国軍の士気を高めるには格好の舞台となったのではないでしょうか。軍隊というのは本来テロに対して使うものではなく、「国家の政治目標を実現するため」に、「相手国の正規軍」を対象に「特定の達成目標を定めて」「政治主導の下で」使用されるものだからです。軍の部隊構成や兵器内容は敵国の正規軍に対応するよう作られていますし、普段の訓練、演習もそれに準じて行われます。ゲリコマと呼ばれる小部隊のゲリラコマンド部隊に対する、或いはなる訓練も行われますが、これは一般人に混ざったテロリストが対象ではなく、あくまで小部隊の正規軍に対するものです。

世界最強の米軍は、イラク正規軍にはあっという間に勝ちましたが、「テロとの戦い」を宣言してからは完全な消耗戦に引き込まれて国家経済そのものが危うくなるほど苦戦しているのは、本来の軍隊の使い方をしていないからに他なりません。

堤 未果著、「ルポ貧困大国アメリカ」(2008年岩波新書)は現在のアメリカの病んだ社会を示す良書です。その中で貧しい高校生や大学生の多くがカードローンから逃れて米軍兵士となり即イラクに送られてゆく様が描かれていますが、彼らの新兵訓練の様子は昔ながらの軍人(何も考えず戦うマシン)を育てる訓練であって、「テロとの戦い」に特化したものなどでは全くありません。一般人に混ざったテロリストに対するのは軍ではなく警察の仕事です。軍人と警察官の一番の違いは、一人ひとりの判断が物事を決められるか否かにあります。警察官は一巡査であっても、彼の判断で怪しい人間を逮捕することも見逃すこともできますが、兵士は上官の命令なしには一切行動できません。10人の中から一人のテロリストを見つけることは警官ならできますが、兵士にはできません。10人全員を捕らえるか、捕らえないかは命令があればできるでしょうが、一人が抵抗すれ10人まとめて機関銃で殺してしまうでしょう。だからイラクで民間人が多数殺されるのです。

ー日中戦争も「テロとの戦い」だったのかー

加藤陽子著「満州事変から日中戦争へ」(2007年岩波新書)は丁寧な資料の積み上げで昭和初年代の日本が日中戦争にいたる政治的過程を描いた良書です。岩波にありがちな「日本悪し」の前提で書き連ねたような所がなく学問的にきちんと考察された内容で善悪の判断で読みたい人たちには物足りないでしょうが、私にはとても興味深く読めます。まだ読書中なのですが、書き出しの部分に面白い記述がありました。

日本が戦争と呼ばず「事変」と称していた日中戦争について、「現下時局の基本的認識とその対策」(1937年6月7日付け)という戦争中に書かれた近衛内閣関連の資料には「(この戦いは)領土侵略、政治、経済的権益を目標とするものに非ず、日支国交回復を阻害しつつある残存勢力の排除を目的とする一種の討匪戦なり。」と記されているそうである。また39年に中支那派遣軍司令部が作成した文書には「今次事変は戦争に非ず報償(不法行為に対する国に認められた復仇行為)なり。報償のための軍事行動は国際慣例の認むるところ」との記述があると紹介されている。つまりどうも当時、日本の政治家も日本軍も日中戦争は中国の正規軍との達成目標のある国を挙げての戦争ではなく、今で言うところの「テロとの戦い」の認識で戦っていたのではないかと思われるのです。宣戦布告が行われることなく、また親日の王政府でなく国民党政府とも執拗に和平工作が続けられていた事実、もともと不拡大方針で日中戦争の拡大は望んでいなかったことなど、止めるに止められない状況や本来の軍隊の使われ方でない状況など、当時の日中戦争における日本軍と現在の米軍はよく似ていると思いませんか。

経済のグローバル化によってアメリカ人の金持ちはいてもアメリカという国が豊かであるとは限らない状態になってきました。アメリカの国益をかなえるアメリカ軍は最強ですが、今アメリカ軍が戦っている戦争は本当にアメリカの国益を保証するものなのか怪しいとアメリカ国民が思い始めています。しかもその軍隊の使い方は素人目にも出鱈目といえるでしょう。そんな中で今回のグルジア紛争でのロシア軍の戦いぶりは「まっとう」な使い方と自他共にいえるのではないかと思ったしだいです。勿論今回も多くの市民が犠牲になったと言われていて、現代の戦争で一番悲惨なのは戦場になったところに住む人たちであることに変わりはないと思います。
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新疆ウイグル自治区で起きた武装警察襲撃事件は無差別テロとは違うのではないか

2008-08-08 21:35:28 | 政治
中国政府の弾圧を非難=在外ウイグル人組織〔五輪〕(時事通信) - goo ニュース

8月4日早朝におきた新疆ウイグル自治区の武装警察襲撃事件は、日本の報道を見る限りイスラム過激派による五輪を意識した当局へのテロ攻撃という扱いをされているように感じます。それを取材していた日本人記者への官憲の暴行も起き、注目される事件にはなっています。

しかし日本ではスルーされているこの事件の発端になった事件、つまり7月8日に、ウルムチでウイグル人15人が中国当局に襲撃され、5人が殺害され、残り10人が当局に逮捕。7月9日には、カシュガルで一万人を強制的に参加させた見せしめの公開判決宣言集会が開かれ、5人のウイグル人に死刑判決を言い渡し、2人に対して死刑を即時執行した、という件を全く報道しないのは片手落ちではないでしょうか(http://www.uyghurcongress.org/jp/News.asp?ItemID=-671529391)。

オリンピック開幕の1ヶ月前に1万人を集めて公開処刑をする国が今まであったでしょうか。日本が他国に支配されていて、他民族の支配者が日本人の独立派を見せしめのために公開処刑をしたら多くの日本人は黙っていないでしょう。8日現在、オリンピックの開会式がきらびやかに行われている一方、オリンピック開催中テロに対する注意が強く喚起されていますが、世界中で起きているテロ事件と同様、テロを非難することにも増して、何ゆえにテロが起きるのかについて注目しなければいけないのではないかと思います。

今回の武装警察襲撃は単に五輪の妨害というよりは、明らかにターゲットを定めた報復であると思います。ターゲットが定められていたからこそ、自分たちが狙われていることが分かっていたからこそ、武装警察の面々が外国の報道陣にまで暴力を振るう緊張状態にあったのだと思います。

日本のマスコミはこれを機会にチベットの弾圧とともにウイグルへの弾圧もしっかりと報道してゆくべきでしょう。
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外交は最後に笑うのは誰かで決まる

2008-08-02 00:41:00 | 政治
竹島帰属「韓国」 李政権は歓迎 国際認知活動に弾み 「主張、米国が認めた」(産経新聞) - goo ニュース

外交問題というのは最後に誰が得をしたのかによって勝者が決まるのだろうと思います。たとえば日中戦争は日本と中国(国民党政府)が戦争をして、米国の参戦によって結果的には中国が勝ちましたが、得をしたのは横で見ていてその後政権を取った共産党政府であり、戦勝国でありながら中華民国は台湾に封じ込められることになりました。

欧州の戦争では英米仏独ソが戦争をして米ソが最後に笑いました。

竹島問題では、実質韓国が支配していて周辺の漁場のほかには何の取り得もない島を繰り返し「日本から奪い返した」と宣伝することのみで国民の自己優先欲を満たしているのですが、真の幸福につながらないことで喜ばされる韓国民が一番の被害者(それに気づいてさえいない韓国民が多いのも情けないことですが)。毎回付き合わされて不愉快な思いをする日本国民が第二の被害者。今回は一銭も金をかけずに韓国に恩を売ることができたアメリカが「最後に笑った」口でしょう。もっともこれで日本人のアメリカに対する信頼をまたなくすことになるのですが、日本は政治家を脅せばいうとおりになると考えているアメリカにとっては考慮するほどの問題ではないのでしょう。

今後韓国に恩を売るために、他の国々も同様に公の地図の表記について何らかのアクションをすれば、韓国は脊髄反射のように国を挙げて騒ぎ出し、「ああ、韓国領でしたかね。」とコメントするだけで恩を売ることができるようになりました。

日本がこの問題で最後に笑う国になるためには、冷静にしかし着実になぜ韓国が脊髄反射のように大騒ぎをするほど竹島が「痛い問題か」つまり「不法に占拠した経緯」をさらっと説明することです。各国の地元のメディアに国際司法裁判所に提訴することを韓国が拒んでいることも明記して宣伝をのせるのも良いでしょう。国民性からして韓国側も「売り言葉に買い言葉」で乗ってくることは間違いありません。

日本は、国際問題を解決する手段としての戦争は絶対にしない、と誓ったのですから、戦争以外のあらゆる手段を使って国際問題を自分に有利に解決しないといけません。「他の手段も使わず、解決しようともしない」というのでは後は戦争しか手段がのこらないことになり非常に危険なことです。外務省も政治家もそのことは分かっているのかやや心配です。国民の幸せのために「より重要な問題」に全精力を傾けている、というのならばまだ良いのですが。
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