rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

顔の見えない独裁を促進する愚かなメディア

2011-11-30 20:57:42 | 政治

オフレコ取材、記者には道義的責任 新聞協会(産経新聞) - goo ニュース

オフレコで飲み会などの席で官僚から取材をするのは、公の席での公表が既定路線として決まってしまった事項であるのに対して、決定までの進捗状況や裏の状況を聞き出すために重要な場であろうと思います。このような取材内容は市民がインターネットで知る事ができない既存のメディアにのみ許される特権です。

少々人格的に気にくわない相手であってもオフレコの情報が聞けるというのが何よりも大事であって、「気にくわない奴だから飲み会の席での失言を公にしてその人の公職を奪う」というのは決してやってはいけないことです。(職務上の失敗を公の場でメディアが責めることで責任を取らせる事は正義にかないます)オフレコの失言をあげつらって公職を奪うことで国民が幸福になると記者、デスクが本気で信じているとすれば「正真正銘のおおばかやろう」でしかありません。こいつら本当にどこか大学を出る学力があったのだろうか?自分で何か考える力があるのだろうか?

若造の記者が「こいつこんなこと言いやがった」といって記事を持ってくることはまああるかも知れませんが、普通編集長や主幹にあたる少しはジャーナリズムが解っている人間が「止めとけ」と止めるものだと思いますが、その程度の人間も新聞社にいなくなっているということでしょうか。私の30年前に急逝した父はへっぽこですが一応記者証も持った新聞屋でした。ここまで一般紙のブンヤのレベルが落ちてしまっては嘆かわしいと思っているでしょうな。

いやこれは防衛施設庁との因縁の対決で官僚の計画的な冒涜に対して沖縄のメディアが敢然と立ち向かって勝利したのだといった北朝鮮あたりのの提灯記事を思わせる論評もあるようですが官僚なんてもっと事務的に物事を運ぶものであって感情的になるのは沖縄の反基地に燃える人達の常であって「何か論評がちいさいなあ」と感じますね。この程度の小役人を辞めさせて沖縄の問題が解決すると本気で思っているのだろうか。

官僚や政治家としてはオフレコで揚げ足を取られてはかなわないので今後はますますガードが硬くなり、情報も外に出さなくなるでしょう。我々国民が知るときには既定路線として決まってしまった後、昨日も書きましたが「目に見えない独裁、顔の見えない独裁」がいよいよ促進されることになります。メディアは選挙で社会は変って欲しくない、目に見えない独裁万歳と本当は思っているのですかねえ。

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目に見える独裁と見えない独裁

2011-11-29 20:22:04 | 政治

大阪のW選挙は橋下元知事達のグループが圧勝したことで、現状の権力構造を変えないで欲しいと願って反橋下派を応援した既成政党やマスコミは戦々恐々としているようです。「民主主義の暴走」とか「橋下独裁体制の危険」とかまるで飛んでもない事を起こそうとしているかのごとく危機感をあおり立てます。

 

橋下氏の思想信条は私に近いものがあるからかも知れませんが、私は彼はよくやっていると評価しています。あれだけ正論を堂々と主張されるとインテリ趣味で反日や弱者の味方を気取っている諸兄は反発を覚えるでしょうし、利権を否定されれば怒りを覚えるでしょう。ただし内田樹氏が主張するように教育に対する露骨で急峻な干渉というのは控えるべきだと私も思います。ゆとり教育の際も急激な教育内容の変化によって現場も子供たちも混乱して結局悪い結果しか生みませんでしたから。

 

橋下氏のやや強引な政治手法を「独裁」という言葉で批判するマスコミが多いのですが、私は独裁の指揮を執っているのが彼であることが明らかなだけ良いのではないかと考えます。まして民主主義的選挙によってはっきりと民意を問うた上で自分の主張を通すのですから基本的に問題はないと思います。一番いけないのは「目に見えない独裁」です。

 

日本国民は鳩山・小沢体制、やや中国より、官僚独裁の否定、というマニフェストを選挙によって選びました。しかし、首相はその後勝手に2回も変り、選挙の際には影も形もなかったTPPに民意を問わずに参加を勝手に決め、増税も既定の事実となり、官僚独裁はむしろ強められています。選挙を経ずにこのように国民の生活、国家の方針にかかわる事態を決めてゆく事は民主主義の否定であり「独裁」(国民の目に見えない奴が勝手にいろいろ決めている)ではないでしょうか。勝手に決まってゆく種々の事態に対して、我々国民は誰を批難して良いのか解りません。官僚?マスコミ?アメリカ?自分の言葉で話さない首相?一体誰を批難すれば良いのでしょう。

 

ヒトラーも始めは選挙で選ばれたのだ、という批判はありますが、日本の戦前は国民が選挙で選んだ指導者が独裁体制をとって戦争に進んでいった訳ではありません。むしろ戦争に向かうニューマ(空気)とも呼ぶべき、個人では否定することができない「目に見えない独裁体制」によって日中戦争や太平洋戦争に突入していったことを忘れてはいけません。選挙によって民意が確認され、目に見える独裁によって事が進んでゆく方がよほど安全安心と言えます。問題があれば次の選挙でその人を選ばなければ良いのですから。

 

勿論選挙で常に正しい選択がされるとは限りませんが、民主主義を否定して哲人政治が良いとするならば、堂々とその旨を主張して憲法を変えればよいではないですか。マスコミでそこまで主張している人を見た事がありません。橋下氏の批判をする前に日本は「目に見えない独裁」からまず開放されるべきです。

 

 

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人はなぜ死ぬのかー医学教育における原初的問い

2011-11-22 00:34:00 | 医療

書評でも紹介したことのある評論家 米沢慧氏に先日病院主催の講演会として「いのちのステージ、往きの医療と還りの医療」という題で御講演をいただきました。我々の病院スタッフが主な聴衆でしたが、想像通りの素晴らしい内容の講演でした。 

 

現在我々が急性期病院で行なっている医療は、「効率良くできるだけ沢山の患者の病気を治す」ことに主眼がおかれています。病気が治らない、或いは癌などが進行して死期が近いというのは「医学的には敗北」と見做され、それでも緩和医療や看取りの医療が診療報酬的にも見直されてきているものの、治癒を目的とした医療を行なわないと赤字になるよう設定されているのが現実です。この「治癒を目指す医療」は人生上り坂における人材を想定した「往きの医療」と言うことができます。しかし米沢氏は人生には下り坂の部分もあり、それもその人の一生にとって大事な人生の一部であり、現在のように少子高齢化社会で人生80年が当たり前になった時代においては下り坂の部分を大事に扱う「還りの医療」こそが日本において求められていると主張されています。 

 

上り坂でなければ、その人は人間として価値がないのか。認知症や麻痺によって元気な時の半分しか能力がなくなってしまったらその人の価値は半分になるのか。と問われると本人的には「そうだ」と答えたくなりますが、やはりそのようなものではないと思います。下り坂の人生においては病気の部分を見つけるのではなく、健常な部分を見つけることが大事なのだという米沢氏の指摘は納得できるものです。

 

氏が提唱する「老いる」「病いる」「明け渡す」というのが下り坂の人生において大事な生き方である、つまり老いを認めて老いと共に生きる、病いと共存する、その時が来たら「死」も「出生」と同じ人生の段落として意味あるものと認める、それは「後に続く人達への命の明け渡しである」というのは素晴らしい考え方だと思いました。

 

内田 樹氏は「寝ながら学べる構造主義」(文春新書2002年)において「真にラディカルな「医学の入門書」があるとしたら、それはおそらく「人はなぜ死ぬのか」という問いから始まるでしょう。そして「死ぬ事の意味」や「老いることの必要性」について根源的な省察を行なうはずです。病気の治療法や長寿法についての知識や情報は、そのあとに、その根源的な省察の上に基礎づけられるべきものだからです。」(p11)と述べています。これは至言だと思います。

 

現在、医学教育における医学概論にしても看護学概論にしても、その入門においては、まず医療や看護の基本的考え方、癒しとは何か、といったことから入るのが常です。ヒポクラテス、アスクレピオス、科学的思考に基づくガレノスなどの医療やカソリックにおける修道院の癒しの医療などについて教えることはありますが、「人はなぜ死ぬのか」から入ることはありません。生物が生きる上では「健康」が絶対的な条件であり、病気になる=死というのが野生生物における現実です。旧人類であるネアンデルタール人は病気の人の世話をする「癒す」という行為を行なっていたという史跡があるそうですが、他人の病気を治したり癒したりする行為は人類以外行なわないものです。病気の行き着く先は「死」なのですから、「人は何故死ぬのか」を問わずして病気を治す目的(目標)、癒し、看護の目的(目標)は本来見つからないはずです。しかし現在の医学教育では「始めに医療ありき」「始めに看護ありき」で話しが始まるので、その目的・目標は「治癒」「健康」にならざるを得ず、「治らない病気」や「死に行く人」は医療の目的からは外れた存在となってしまうのです。

 

今回の米沢氏の講演では図らずも医学概論の原初的問いとなる「ひとは何故死ぬのか」「人は何故老いるのか」についての一つの答え、考え方を示してもらえたように思います。世代が交代してゆく中で医学が発達していなかった時代、或いは動物においては、往きの人生のみを考えていれば良く、人は発達してゆく中で子を産み育てて、ピークを迎えた後わずかで死んで次の世代に明け渡していたのですが、医学や公衆衛生が発達して平均余命が長くなるとピークを迎えて死ぬまでの時間が20年30年と長く存在し、そこに昔は存在しなかった「老いの人生」「還りの人生」が出現します。そこで改めて「老い」や「死」の意味を考えた上での「還りの医療」があるべきだ、ということです。

 

現在学会などが提唱する「癌の標準治療」は原則50歳の人も80歳の人も同じです。86歳のご老人が風呂場で息絶えていたといって救急車が呼ばれて救急病院に搬送され、挿管、心臓マッサージなどの蘇生が無駄に小一時間行われ希に心臓が数時間復活して動きますが大変な医療費を使った揚げ句に翌日までには死亡退院されます。これらは「始めに医療ありき」で医学概論が始まったせいではないかと愚考します。死期が近づいてからの医療費が日本は飛び抜けて高いのが特徴ですが、宗教的アプローチが日本では困難としても「死」というものの意味を「医療的敗北」という呪縛から開放することは、厚労省が望むところの医療費の削減にも貢献すると思いますし、型通りの無駄な蘇生を行いながら家族に自分達にとって大事な人の医療行為を「もう止めても良いです」を無理やり言わせなくてもすむ体制、大事な人の旅立ちを心安らかに見守ることができる医療を作ることにつながるのでは、と思いました。

 

 

 

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このようにして全ては米国の都合通りに進んでゆく

2011-11-16 18:11:19 | 政治

首相「米に訂正した方がいいと言った」 TPP発言問題(朝日新聞) - goo ニュース

 

米国政府が「日本は全ての物品やサービスを貿易自由化の交渉テーブルにのせる」と発表したことに首相は国内において「そんなことは言ってない」と反論しているようですが、外務省は「米国に対して修正や訂正は求めない」と正式に答弁した由。これは外交においては「あなたの言った通りです」と認めますという意味になります。

試しに「米国政府は米などの日本の主要農産物については自由化を求めないと発言した」と故意に政府が発表したらどうなったでしょう。APECの際に何故か来日していたキッシンジャー氏やその他の日本ハンドラーの方達から一斉に反論がなされ、日本の報道番組にも彼らが出演して「米国政府はそのような発言をしていない」と直ちに修正意見を広めて虚報の既成事実化を阻止したでしょう。それが外交の基本だからです。

野田氏が始めからTPPに参加を表明し、その上で日本の国益を守るために種々の条件をしっかりと主張してゆくことを真剣に考えているならば、菅さんや鳩山さんを米国に送り込んでむこうのマスコミにも出演させるなりして、日本の意図を十分周知させるような既成事実化をする必要があります。したたかな米国は「日本の勝手は許さない」という先手をここで既に打ってきたのであり、それに反論しないというのは今後も「日本の立場の主張など本気でする気はない」というシグナルを送ったことと同意なのです。

前回ブログのとおり今後展開してゆくことが見えましたね。国民は大変だ。

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TPPこの状況でふつー入らないな

2011-11-14 17:05:25 | 政治

普段からみかじめ料を取られているやくざの組長から「そろそろあんさんもうちの組員になりなはれ、安心して商売できまへんやろ、悪いようにはしまへんで。」と言いくるめられて、そこそこ繁盛している「日本亭」のマスターはTPP組の組員になることを決断します。「そんなやくざな組織に入るの止めなよ」「入ったら最期、魂を吸い取られるまで抜けられないぞ」と諌める古参の店員や家族の制止を振りきってマスターは組員になってしまいます。「組員にならないといろいろ嫌がらせされるし、他の組からもカツ上げされたりするし仕様がないよ。」と消極的ながら賛成してくれる身内も少ないながらいました。 

 

TPP組に入ります」と言えばすぐにでも会合に呼んでもらえると思っていたマスターは親分さんに「よう決断されましたなあ」と褒められはしたものの組の会合には呼ばれず「何かんちがいしとんじゃ、わりゃ?」「十年はええんじゃ、おんどりゃ」と他の組員からは散々な声も。「店の運営方針とかには口出しさせないから」「従業員は守るから」とマスターは心配する身内達に言い訳をするのですが「そっちから入れてくれ、言うたんやから、何でも言うこと聞くんやろな。」「店員の給料減らしてでも店の借金は減らしとけよ」とマスターの浮ついた心証を見透かすように組の若頭や強面のお兄さん達が既に日本亭を食いつぶす算段をしている声が漏れ聞こえてきます。 

 

あれこれ嫌がらせをされて大変であることは確かですが、自分たちの店は自分たちで守り、運営方法は自分たちで決めるというのが正しい生き方です。大抵の勧善懲悪の小説にしろ物語にしろ上の様な状況でTPP組にふらふらと入ってしまうのは悪い結末になると決まっています(違う結末の物語があったら教えてくれ)。実社会においてもこれは同じ。苦労はしても最後に皆に認められるのは日本亭のマスターのような生き方ではないと自分の50年の人生を振り返っても感じます。「これが最後のチャンス」「TPPに入らない=鎖国」などという明らかな妄言を見抜けない阿呆はしかたありませんが、まじめにまっとうな人生を歩んできた人は「この状況でふつーTPPに入らない方が良い」という判断になるよな。

 

 

 

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TPPはご時世か

2011-11-07 18:12:28 | 政治

世の中はAPECで野田総理が参加を表明すると言われているTPPについて賛否両論激しく戦われています。世間が騒ぎ出す前にさっさと参加することにしてしまえば良い、という政府の読みだったようですが、TPPが及ぼす影響があまりに広い分野に渡るために懸念を表明する言論人が増えてそれがインターネットを中心に広がり政府やメディアも無視できない状態になりました。

 

日本医師会も正式にTPP参加反対を早くから表明しています。その主旨は「国民皆保険制度を守るため」ということになっています。私の個人的意見はTPP参加反対です。「アメリカ様の機嫌を損ねるといけないから入れと言われているから入ろうよ」と積極的ではないながらも「TPP参加やむなし派」の人もいるようですが、「今は震災復興と原発問題の見通しが立たないので国論を二分するTPP問題はもう少し待ってくれ」と言えばこれだけの大惨事ですからアメリカも人道上絶対駄目とは言えないはずです。またせめてそれくらいの交渉力がなければ参加表明したとたんに全ての問題をアメリカに都合が良いように押し切られておしまい、という結末が見えています。

 

多くのTPP反対論者が指摘しているTPPの危険は、これが各国の民主主義制度を否定し、各国国民の総意で決めた社会制度や法律を外国の一企業の利潤追求のために変えさせられる可能性(ISD条項)があることです。つまりTPPは国家間の取り決めのようで実は「国家vs(グローバルな)資本家」の取り決めでしかないのです。現在のアメリカ政府の主な役職を占める人達はグローバル企業や財閥の重役ばかりですから、アメリカ政府が言ってくることは全てグローバル企業に都合がよいことばかりです。現在のアメリカが本当にアメリカ国民のための社会であったならば、米国があのように貧富の差が激しい格差社会になることはなかったでしょう。アメリカが目指すのは全世界を現在のアメリカのような格差社会にすることでしかありません。TPPはアメリカの一般庶民にとっても何の利益もないものですから日本が今は駄目ですといっても一般のアメリカ国民が怒ることはありません。

 

TPP論に反対する経済学者達も活発にメディアに登場するのですが、この人達が滑稽であるのはTPPを関税に関することだけに矮小化し、輸出入が増えて経済が活発になる(実際は輸入が増えるだけですが)=国民生活が豊かになると短絡してみせることです。「物価が安くなる=国民が豊かになる」ではない事は経済の初歩の初歩。「通貨の価値が下らずに国民全体の所得が上がる」ならばそれは国民が豊かになると言っても良いでしょう。「給料の安い人達に労働をさせた結果、物の価格が安くなって、それを給料の高い人達が消費する」という形の豊かさというのは「奴隷に労働をさせて市民は豊かに暮らす」という西欧の古代(ギリシャやローマ)からの社会構造にそった考え方であって、奴隷が皆市民に格上げされてしまったら成り立たない図式です。そのためには奴隷は永久に奴隷でありつづけなければその社会は成り立ちません。現在の社会に当てはめれば勝ち組は永久に勝ち組でありつづけなければ、安い労働で働かせて得た物を安く消費しつづけることができなくなるという図式です。以前「日本の格差が少ない社会は上に立つ者が滅私奉公の精神で楽をせず働いてきたからこそ成り立ってきたのだ」という論を書きましたが、日本社会が今まで均一で暴動や物騒な事件が少なく済んできたのは長い間培われたそのような倫理観による所が大きいと感じます。欧州にもノブリスオブリージュという似たような思想がありますが、そのような古い構造を捨てて強い者が勝ってアメリカンドリームを掴めば良いとして成立したのが米国だったのでしょう。

 

それぞれの国、社会には長い歴史の試行錯誤のなかで作られたその国や民族にあった社会制度や法律があり、それは軽々しく変えないことがその国の人々にとっては幸福であることが多々あります。それが米国的グローバリズムにそぐわないからといって無理やり変えてしまえ、というのは「傲慢」の一言に尽きます。日本の国民皆保険も様々な問題はありますが、これをぶち壊してアメリカ式の民間保険制度にすれば諸問題が解決して日本の医療が良くなるということは100%ありません。贅沢医療である予防医療は保険適応から外しても良いと感じますが、本当に困った時の急性期医療や難病は国民あまねく保険医療の対象であることを堅持し、急性期医療や難病に従事する医療者を優遇すれば現在の医療問題の多くは解決します(急性期医療に従事しない開業医は病院勤務医に帰るべし)。

 

前にも書きましたが、現在でも派遣を切られてしまうからという理由で早く病院に受診していれば治っていた癌が手遅れになるという事例が増えています。ここ1−2年で数例40台から50台の同じ理由で手遅れになった癌患者さんを経験しました。結局働けなくなって入院して、職も失い、生活保護になって医療費は心配なくなるのですが、2−3ヶ月で癌死という結末になります。国民皆保険がなくなるとこのような患者が著増することが目に見えています。アメリカでは3億人のうち4千万人以上が無保険、アメリカの破産理由の第一は医療費という現実からみて皆保険をなくすことで日本人が幸せになるとはとても思えません。

 

さて、そうは言っても「TPP参加は既成事実」となってしまいそうな勢いです。民主主義の国では真に危急の場合以外は国論を二分するような重大事に拙速な結論を出すということはあってはならないのですが、日本は民主主義国家ではないので真っ先に「拙速な結論」に対して「駄目だし」をするはずのマスコミが参加賛成の論陣を張ってしまっています。「バスに乗り遅れるな」といって慌てて乗ったバスが地獄行きだったのが日独伊三国同盟だったのですが、また慌てて乗ろうとしているバスは地獄行きではないのか、まるでこれが最終バスであるかのような論調がありますが、二つ三つバスをやり過ごしてから何処に行くバスか見極める方が私は良いと思います。


日本には「ご時世」という言葉があります。議論や文句を封じて人を従わせる時によく使われる便利な言葉です。TPPで決まった事はご時世だから、と上から言われれば日本の職場においてはそれに逆らうことは事実上不可能です。とにかく入ってしまえば「ご時世」で通せば良いとTPP賛成派の人達は考えているでしょう。その通り「ご時世」と言えば大抵のことは通ります。しかし日本人のしたたかなところは「ご時世」といって正面から抵抗することはあきらめても二の手奥の手で生き永らえることを明治以来してきたことです。「ご時世だけどこれくらいのスルーは良いよね。」という暗黙の諒解が日本人同士であればお互いにできるものだから今までは済んできたと言えます。しかし相手が外国人の場合は「ビシッとコンプライアンスの遵守」を要求してきますので今までの腹芸は通用しません。今回のTPP、参加自体を止めた方が、という私の意見の原点はそこにあります。

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