rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 東京が壊滅する日

2015-08-25 18:43:31 | 書評

書評 東京が壊滅する日 —フクシマと日本の運命— 広瀬 隆 著 2015年刊 ダイヤモンド社

 

やや刺激的な題名ですが、内容は福島第一原発事故の被害、特に内部被曝によって今後10年以内に関東を含む300km圏内の居住者から大量のがん患者が出るだろうというものです。

 

放射線障害は短期に出現する大量被曝による直接的障害と、体内に微量ずつ取り込まれて蓄積し、近接した細胞、特に遺伝子に障害を加えることで機能障害や癌化したりする事で起こる障害に分けられます。短期に出現する障害は被曝後すぐに出てくる物であるから解りやすく、放射線との因果関係も明確です。しかし内部被曝によって年余の時間を過ぎてから発癌などで現れる障害は、放射線以外でも一定の確立で起こってくるものであり、統計的に厳密な調査を行わないと明らかにならないものなので放射線との因果関係が非常に解りにくいものになります。

 

福島第一原発の事故では具体的な量を把握しがたい「京ベクレル」レベルの放射線が大気中に放出され、現在も放出が続いているものの、空中の放射線量はさほど高くないことから放射能は「アンダーコントロール」であるとされ、「必要以上に放射能を怖がることは却って復興を妨げ、被災した福島県民を傷つけるものである」という意見が政府を初め多くの識者からも意見が出されるようになりました。著者の広瀬氏は事故前から福島原発の危険性を指摘し、事故後も一貫して放射線被曝の危険性、特に内部被曝の危険性を訴えてきました。本書は福島原発事故による関東一円に居住する日本人に与え得る「内部被曝の現状」と今後起こってくる可能性のある「被曝による発癌の増加」について、冷戦時代に米国のネバダ砂漠で行われた空中核実験後の周辺住民に起こった発癌増加の経緯、ソ連の核実験場であるセミパラチンスクとチェリャビンスクで起こったと考えられる核爆発後の障害などの実例を上げながら推定して行きます。

 

興味深いのはネバダ砂漠において冷戦期に行われた数十回に渡る核実験によって空中に散布された放射性物質の量と福島原発の一回の事故で散撒かれて、関東、東北の陸側に降下したであろう放射性物質の量がほぼ等しい(福島の方がやや多い)という計算になるという事実です。従って核実験場から200km圏にあるユタ州のセントジョージにおいて実験後10年で爆発的に増加した若年者の癌など内部被曝によると考えられる障害が今後関東圏においても出現してくるであろうという推測が成り立つという事です。

 

因果関係を証明しにくい、この内部被曝による発癌の増加は、核兵器や原発を推進したい政府や原子力産業にとっては「無い事にしたい」事項であることは、洋の東西を問いません。米国においてもこれらの疫学的調査は無視、或は行政主体に行われた場合は「機密扱い」とされ、一般の国民に広く知られることがないよう隠蔽されてきました。そしてそれを世界レベルで進めたのがIAEA(国際原子力機関)であることがその成立時の構成メンバーなどを詳述することで解説されています。福島事故後の各種の許容放射線量もIAEAの勧告に従って決められていますが、それらは必ずしも真の安全規準として決められている訳ではないことが解説されます。本書は「被曝許容線量の数値の限界」や「内部被曝は明確な危険性が証明されていない」という言論がいかに根拠のないものであるかを原子力産業の歴史をふまえて丁寧に解説したものと言えます。

 

私(rakitarou)は、医師の立場、及び放射性同位元素などを実験で用いる上で受けた安全講習(2日間放射線について専門的な講習や実習を行う)などの知識から、「福島原発の事故によって散布された放射線なんて怖くない」という意見(副島隆彦氏とか)には同意できませんでした。かといって診療上患者さんに放射線治療を行ったり、検査などで自分も散々放射線を浴びてきたことから、「危険性を認識した上で正しく怖がる」のが対応としては適切だろうと考えてきました。放射線は外を歩いているだけで自然界のものを浴びますし、高齢になれば放射線と関係なく癌にもなります。100人のうち、50人が癌で死ぬことが全国平均として、ある地域だけ60人が癌で死んだとしても、亡くなった人が皆高齢者であるならばあまり目立たないかも知れません。しかし癌死亡で増加したのが皆20代30代の若い人達であった場合は明らかに異常であると言えます。放射線の内部被曝による発癌はこのような若い人達の発癌という形で出てくるから問題であり、被害として深刻なのだと思います(年寄りは癌で死んでも良いという意味ではありません、念のため)。私はもう50代後半であり、遠からずどこかで癌になるでしょうから、福島原発の事故による被曝で10年後に自然になる予定であった癌が5年後に出たとしても自分としては許容範囲です。しかし私の子供達が40年後に自然では癌になるかも知れない運命が、原発事故のために5年後に癌になったとしたらやはり許せません。

 

ネバダの核実験とユタ州の住民の関係を考えると、残念ながら我々の多くは福島原発の事故によって既に内部被曝を受けてしまっている状態だろうと思います。我々にできることは、事故後5年から10年にかけて、東北から関東一円にかけて発癌の疫学的調査を厳密に行い、隠蔽せずにしっかりと世界に発信してゆくことが大事だろうと思います。事故を起こした責任者ははっきりしていますが、彼らが責任を取る事は日本の現状を見る限り未来永劫ないでしょう。しかし戦争責任を戦後生まれの我々が問われているように、原発の事故を日本で起こしてしまったことについての「日本人としての責任」は、自らの被害状況を包み隠さず世界に情報発信してゆくことで果たされるのではないかと考えています。

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安倍総理の戦後70年談話は80点

2015-08-17 18:43:06 | 政治

2015年8月14日に発表された安倍総理の戦後70年を迎えるにあたっての談話について、それぞれの立場から評価や批判がなされています。しかし総じて好意的な評価が多いのではないかと感じます。私も安倍総理の政治にはTPP推進や安保法案などで同意できない部分が多いのですが、評価できるところは「良い」と評価してゆきたいと思います。

 

私が感じた所では今回の総理の談話には大きく二つの骨子があると見ます。

 

1)      第二次大戦で日本人も周辺の国も酷い目に遭った。日本が戦争を起こした事は真に反省しなければならないことであり、第二次大戦の惨禍を二度と繰り返さないために、日本国憲法の精神を遵守し、武力による国際紛争の解決は今後とも行わないし、他国にも認めない(中国を暗に牽制か)。

 

2)      第二次大戦において「戦勝国を倫理的善」、「枢軸国を倫理的悪」と規定した「戦後秩序=米国による世界覇権」体制は歴代の内閣が承認し継承してきたように、今後も継承してゆく。但し建前は継承するが戦後世代が未来永劫自分達が犯罪者であると謝罪を続けることはもうしない。

 

ということを述べました。つまり「戦争は倫理的に悪」という理念と「敗戦国は倫理的悪で戦勝国は正義の味方」という理念を別物として分けて扱った訳です。日本は戦争をし、しかも敗戦に終わったので、これらを分けずに「戦争をした日本=全てにおいて悪」という理念のみで戦後通してきました。本当は「戦争をしたこと自体、日本も米国も全て悪でした」と明確に言わなければ憲法の平和主義の精神を述べた事にはならないのですが、国内に向けては「戦争全てが悪」と言いながら対外的には「第二次大戦では連合国が正義で日本が倫理的に悪でした」と言い続け、批判する悪の対象を使い分けてきたのです。本来戦争の勝ち負けで正義が決まる事はありません。朝鮮戦争、第一次大戦、普仏戦争、米西戦争、国内の戊辰戦争でさえ明確にどちらかが倫理的に悪だなどという規定はできないのが歴史です。第二次大戦だけが自国の存立が脅かされた訳でもないのに、米国が欧州と日本の国民を無差別に絨毯爆撃や原爆で虐殺し、覇権を確立したことに対して、これは「自由と民主主義を守るために神に与えられた正義の戦いである」と規定する他、自分達のしたことを正当化できないために「戦後秩序」と銘打った定義付けがされて、しかもそれを否定しようとする勢力を戦後徹底的に弾圧してきたのです。英仏、ロシア中国もその定義が都合が良いので乗っかって来ただけです。今回の安倍談話では、米国による世界覇権を定義づけた「戦後秩序」そのものを否定することは避けて、その建前は今後も継承してゆくと明言することで米国政府にも認められるようにしたのです。

 

これに対して中韓の両国は華夷秩序(中国を頂点とする上下関係)から、日本が謝罪することで日本を国家として序列的な下位につけることを希望していたから当然不満が出た訳です。中韓は戦勝国ではありませんから、本来戦後秩序とは埒外の国々です(戦勝国は中華民国であり中共は戦後にできた国家、朝鮮に至っては日本の領土が戦勝国によって5分割された後に委任統治で作られた国に過ぎない)。しかし連合国が規定した「戦後秩序」によって「日本国が倫理的な悪」と規定されて政府が謝罪を続けてきたことを見て、「自分達こそ日本の謝罪を受ける真の資格がある国家である」、としてことあるごとに日本に謝罪を要求してきた経緯があります。日本は戦後、近隣諸国との良い関係を築く必要から相手の要求に従ってことあるごとに謝罪を繰り返して来たのがいままでの戦後史でした。だから日本国の政府に公式に謝罪をさせることで国家としての序列が上であることを国民に示して来た中韓の政府にとっては「戦後秩序は認めるけどもう謝罪はしません」と言われる事は自分達が「戦後秩序とは関係ない立場」であることから非常に不満な訳です。こういった明確な状況の解説が諸家のブログなどで展開されていないのは不思議に思うところです。

 

私は1)と2)を明確に区別して談話を発表した今回の内容は優れたものであると評価します。ただ私が危惧するところは、安倍総理は1)と2)のどちらに話の力点を置きたかったかが不明な所です。談話の中には欧米列強の力によるアジアの植民地支配を日本が戦役で逃れることでアジア諸国に勇気を与えたという部分もあり、取り方によっては「正義の戦争」を礼賛しているようにも見えます。本来、終戦記念日に戦争の惨禍を繰り返さないために出される談話は1)の内容が本筋であるべきです。第二次大戦における米国の立ち位置が「実際は無差別虐殺と非道の塊」であっても「倫理的な善」と規定されて誰も否定できない現状(戦後秩序)を歴代内閣と同様踏襲します、だから次の戦争では米国の側につけば自分達は正義、倫理的善と規定できますね、という本来の平和を望む話とは違う方向に話を持って行こうとしていたならばとんでもないことです。

 

諸外国や日本の一部の人達が「今回の談話は安倍総理自身が謝罪していないことが問題だ」と批判していることについては、私は「なんてどうでも良い批判をするのだろう」という感想しか持ちません。むしろ「日本は戦後秩序を踏襲して次は正義の戦争をしますよ」と言いかけているように感ずる点こそ私は批判するべきだと感じます。だから私は80点です。

コメント (1)
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