rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

核の不使用 賛同せずにあきれる

2013-04-26 18:57:27 | 政治

「核の不使用」声明、日本は賛同せず

TBS系(JNN) 4月25日(木)19時13分配信

 ジュネーブで開催されているNPT=核拡散防止条約再検討会議のための準備委員会で、核の不使用をうたった共同声明が発表されました。唯一の被爆国である日本は、この声明に賛同しませんでした。

  共同声明は24日、南アフリカが提出したもので、「いかなる状況下でも核兵器が再び使用されないことが人類の共存のためになる」とうたわれています。70か国以上がこの声明に賛同したということですが、唯一の被爆国である日本は、賛同しませんでした。

  開幕前、日本に対し、スイスが賛同を求めましたが、日本は回答を留保。一方で、「いかなる状況下でも」の文言を削るよう求めたということです。

 「今回この部分が日本の安全保障の状況を考えたときにふさわしい表現かどうか、慎重に検討した結果、賛同することを見送った」(菅義偉官房長官)

  菅官房長官は、核兵器の使用が将来にわたり耐えがたい損害をもたらすという声明の基本的な考え方を支持しつつも、賛同しなかった理由として「我が国を取り巻く厳しい安全保障の状況」を強調しました。アメリカのいわゆる「核の傘」への影響や、北朝鮮の核開発問題などを懸念したものと見られます。

  一方、日本が声明に賛同しなかったことについて、広島の松井市長は、「核兵器は『絶対悪』であると訴え続けてきた広島とすれば、到底納得できるものではない」とのコメントを出しました。また、長崎の被爆者団体は、次のように述べています。

 「(声明に)書いてある内容は至極もっともなことだけなんです。ちょっと理解できない、政府の対応というのは。本当に腹が立ちました」(長崎被災協 山田拓民事務局長)

 山田氏はこのように述べた上で、日本政府の今後の動きについても懸念を示しました。(25日17:39)

最終更新:4月26日(金)5時57分

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第二次大戦後の世界がこれだけ核兵器だらけになって戦争も絶えないのに、核戦争が起きなかったのは日本が身を以て核兵器の恐ろしさを世界に示したから(別の言い方をすればアメリカが日本人を実験台にして核兵器の威力を世界に示したから)です。世界は望んでなったものではないにせよ、世界を核戦争から救う結果になった日本人にもっと感謝すべきだと以前から主張してきました。また日本人はそのことをもっと世界にアピールすべきだと考えます。

 

アメリカが偽善と欺瞞に満ちた生業であっても「自由と民主主義の拡散」を国是として世界で活動しているのと同様に、それぞれの国には土台となる譲れない国是というものがあります。日本が唯一世界から認められ、また世界に示せる国是があるとすればそれは「核兵器の禁止」以外にはありません。現実には「核の傘」で守られてきたではないか、という批判もあるでしょうが、日本は核を使われて酷い目に実際にあった唯一の国であることを否定することは誰にもできません。実際に核を使われた事実があるのに「核の傘で守ってもらって幸せな国民です」などと本気で言えると思うか、という反論に説得力のある答えを出せる人はいません。しかも本当に核の傘で守ってもらっていたのか「日本が核攻撃をされたらアメリカは自国に核が飛んで来ることを覚悟で日本のために核戦争を始める気があったか」怪しいものです。アメリカは自国の利益のために日本に核を落とした張本人であるという事実は否定しようがありませんから。

 

日本は福島でさらなる核の悲劇を世界に実践してみせました。欧州では日本が身を以て示した「悪い手本」を学び、原発からの卒業を国家として選んだ国々が複数あります。だから「核兵器の不使用」を日本の国是として主張することに反対する国などあるはずがないのです。それを(どこの国に気を遣ったのか)引っ込めてしまうとは何と言う情けないことか。最近靖国の参拝が流行ってますが、これでは日本国の未来のために犠牲になった靖国の英霊たちに合わせる顔がないではないか。

 

「宇宙人と地球外で戦争をすることもあるかもしれないし、大きな隕石が飛んできたら核で破壊する必要があるかもしれないから<いかなる状況下でも>という所が賛成できなかったのです。」と韜晦してみせる位の腹芸ができないのなら、日本は率先して署名すべきでした。この選択で日本は世界から「さすが日本の選択は現実的で素晴らしい」などと賞賛されるでしょうか。もともとこの手の宣言は核兵器を自ら放棄したとされる南アフリカのパフォーマンスも含めて、宣言する事自体に目的がある類いのもの、今の政治家・官僚の粒の小ささを痛感します。

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米国ぼったくり医療事情

2013-04-18 17:25:53 | 医療

週刊医学界新聞にボストン在住の医師、李啓充氏の「アメリカ医療の光と影」と題する連載コラムがあります。現在の米国医療についての良い面(あまりないですが、改善された例など紹介)悪い面などを飾らずに紹介していて、編算されたものが医学書院から同名の書籍(2000円くらい)で出版されています。

 

私も留学先のニューヨークで実際の医療現場を1年、見聞してきましたが94年当時のことであるので知識としてやや埃をかぶったものになっており、認識を新たにする意味でも多いに参考になります。4月15日の号に掲載されていたのは、Time誌米国版に34ページに渡って特集記事になっていた米国の諸外国に比べた馬鹿高い医療費についての紹介記事で、では何故そのように高額なのかを考案したものでした。その中で、薬剤や医療材料の納入価格と使用後の患者への請求額との差額(利幅)が非常識に大きく、しかもその差額が年々大きくなっていることが紹介されていました(図)。

 

この図で下方の点線で示されたメリーランド州というのは、日本と同様に診療報酬額が州で決められているために自由に利鞘の設定ができないしくみになっている場合を示し、米国医療の中でも良心的な状態を示していると言えます。しかし米国全体では1980年代に30%代であった利幅が21世紀に入ってからは100%を超え、納入価格の倍以上の請求が患者になされていることが示されています。これは自由診療が原則の米国医療においては診療報酬を病院側が自由に設定できるからであるとされています。

 

では何故このような無謀な利鞘を病院側は患者に請求するか、というと実際に医療費を支払う民間医療保険が病院の請求通りには支払いをせず、交渉により値切ってしまう(50-70%も値切ってしまう)から実際には請求の半額くらいしか医療費が受け取れないからであると言われています。その替わり交渉ができない「無保険者」には請求額通りの支払いが求められるために、無保険者や保険に入っていても高額でカバーされていない医療を受けた患者は額面通りの支払いを要求され、その多くが自己破産に追い込まれるという結果になるのです。「理不尽でも合法であれば正義」とされてしまう典型的な例です。

 

コラムでは2007年に氏がボストンの病院に入院治療を受けた際の医療費の例が掲載されていますが、8日間の総入院費用が5万ドル(うちドクターフィー5000ドル)であるところ、保険会社の査定で、実際は6400ドル(Dr.フィー2500ドル)が支払われたという記録が紹介されています。何と84%のディスカウントで500万円が64万に値引きされた(1ドル100円として)という驚きのぼったくりであったことが解ります。これが民間保険に入ってなければ500万払わなければ裁判所から差し押さえが来て破産や家屋を手放す結果になりかねないのですから恐ろしいことです。勿論この民間保険に加入している事自体が、それなりに毎月高額の支払いができないと継続不能なのですから、貧乏人は病気になれないという事実はアメリカでは昔も今もおなじであることが解ります。ちなみに日本でも医療機関からの診療報酬請求が、社会保険や健康保険の査定によって過剰請求として減額されることがありますが、せいぜい1-3%程度(私の病院では0.3%位が平均)であり、それも医学的に納得できる理由があれば再請求をして通る場合もあります。総医療費自体は年々増加しているといっても、いかに日本の医療機関が実直であるかが解ります。また現在日本では納入価格に対する販売価格の利鞘はせいぜい20%程度であり、総医療費に占める医療材料などの原価率は40%程度(以下が望ましい)でないと勤務員への給与の支払いもできない赤字になってしまいます。米国では1ベッドあたりの医師数、看護師数も日本の3−5倍はいますし、給与自体も日本の倍以上ですから、患者への請求額が高騰するのもある意味納得できます。

米国の医療は素晴らしいなどという戯言はさすがに最近メディアでも言われなくなりましたが、2000年頃の医療バッシングが始まった頃は日本の医師は米国の医療を見習えなどと実態を知らないメディアからよく言われたものです。私は「米国は医学は一流だけど医療は三流だ」と当時から言い続けていましたが、やっと米国医療の実態が理解されてきたということでしょう。

 

日本がTPPに参加して、いずれ混合診療が解禁になっても日本の医療はメリーランド州型の統一医療費の設定がなされるだろうとは思います。しかし現在の日本の自由診療(美容整形や歯科など)は米国の医療と同様それぞれの医療費をいくらに設定しても自由である形式なので、米国型の医療保険導入や解禁後の報酬額の設定についてはかなり注意して行く必要がありそうです。

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体験的くるま論 初代ライトエース ノア

2013-04-11 00:42:17 | くるま

1996年にワンボックスブームの先駆けとしてトヨタからライトエース・タウンエース/ノアが発売されて、以降日産のセレナやホンダステップワゴンなどの主力となる傑作車が続々と登場することになりました。私はほぼ発売と同時に「ノア」を購入しました。というのも小学生の頃車のない我が家で、自分にとって将来車を持つことは憧れだったのですが、その頃「こんな車が欲しい」と思いながら絵に描いていた車がまさに「ノア」だったのです。コンセプトとしては、「できるだけ広い室内を持って、窓は大きく明るく、エンジンなどはコンパクトで使い勝手が良い」という感じで、その後発売され、よく売れた車としてはホンダ・モビリオやダイハツ・タントが同じコンセプトと言えると思います。

 

購入前はこれもワゴンブームの先駆けとなった初代カルディナに乗っていたのですが、3年目の車検の年になって「ノア」が発売されるとその姿に居ても立っても居られない状態で近所のカローラ店に駆け込んだ事を覚えています。

 

ガソリンエンジン(当時はディーゼルも選べた)1998cc、4速ACの130馬力2WDで下から2番目の「スーパーエクストラ、スペーシャスルーフ(ハイルーフタイプ)」を選びました(図)。初代はデュアルエアコンで後席用に2台のエアコンが付いていました(殆ど1台しか使わなかったので後のバージョンでは1台になったようです)。ワンボックスは商用車というイメージが強かった時に、ショートボンネットを持つ乗用車感覚のワンボックスが登場し、運転感覚も乗用車的(内輪差の考慮は急ハンドル時には必要ですが)、しかも上から見下ろす見晴らしの良さは、普通の乗用車から乗り換えた人にとってはとても新鮮でした。当時は「渋滞も先が見えるから気にならない」という気分になったものです。

 

大きな室内ながら5ナンバーであり、1400kgと軽量で、良く走りました。その後に買ったベンツVクラスが豪華な分、戦車のような重さ(車体もドアも)であったのとは対照的です。ベンツのVに乗ってしまうと「ノア」の運転席はいかにも狭く感じますが、当時はとても斬新な作りであり、シフトノブがATなのにコラムシフト(ハンドルから出ている)というスペースユーティリティを重視した作りになっていました。

2列目はベンチシートとキャプテンシートどちらも選べて、定員が7人と8人に分かれるのですが、我が家は子供が3人だったので2列目に3人乗れるように、また母親が2列目に移れるようにベンチシートの8人乗りを選びました。当時画期的だったのは2列目を後ろ向きにして3列目と対面シートにできることで、まるで列車の一ボックスが車に移ったように何とも楽しい家族ドライブになったことを覚えています。子供が成長してからは6席全てがキャプテンシートのベンツVで良かったのですが、車は家族構成でニーズが変わるものです。

 

今何故十数年前にワクワクして買った「ノア」の事を書くかというと、現在のトヨタ車には残念ながらこのようなワクワクする車がないからです。当時はエスティマも画期的な車として定評があり、またヨーロッパの販売店からの要望で下から上がってきたコンセプトとして出された「初代ヴィッツ」も発売と同時に家内がどうしても欲しいというのでピンクの最も売れていた奴を購入しました。私も「初代ヴィッツ」は魅力のある良い車だと思います。

 

トヨタ車にワクワクする魅力的な車がなくなったのは、販売台数世界一を目指すようになった頃からです。出てくる車はどれも当たり障りのない似たような車になり、それなりに高い買い物をするに値する魅力を感じなくなりました。結果的にやや高い値段でもワクワク感のある欧州車か、実用車としてはホンダ車を買う結果になりました。特に最近のトヨタはデザインが酷い。クラウンはフロントグリルが「コマネチ」をしているタケシだし、レクサスは顎がはずれて唖然とした表情、燃費最高の小型車も両頬がたるんだ宇宙人にしか見えません。クラウンは豊田紡績機のスピンドルを象った物だったらしいのですが、さすがにあまりの評判の悪さに近々デザイン変更をするらしいです。

 

私は2代目(左)、3代目(右)のカムリ・ビスタの機能美が大好きだったのですが、あのような車が作れたトヨタはどこに行ってしまったのでしょう。結局「誰のために車を作っているか」をもう一度真摯に反省してやり直さない限り、トヨタの未来はないと私は思います。グローバル企業というのは世界で売れる事が大事とされます。例えば世界戦略車の「現行カムリ」はそれなりに良い性能ですが、日本のユーザーの好みを考慮して作っていません(これはトヨタ側も明言してますね)。世界で売れれば日本で売れなくても良い、という思い上がった考えでいる限り、当然ユーザーは離れて行きます。アメ車が日本で売れないのは日本の非関税障壁や軽自動車の企画があるからではなく、アメ車が日本の地域性やユーザーの希望を考慮して車を作っていないからです。買ってくれる人を大事にしなければ商売は成り立たない、という当たり前の事が「グローバル企業」になるほど解らなくなると言う事でしょう。「グローバリズム」というのは一つの価値観に「各地域で異なる世界」の方が合わせなさい、という考え方です。それぞれの地域性を尊重して手間や費用が嵩んでもその地域に合わせた商品作りをする、というのが「本来の物作りのあり方」のはずです。

 

良い物が世界で売れること、と始めから世界で売れるものしか作らないこと、は別です。その違いにトヨタが気づいてくれることを望みます。その意味で「ぐあんばれトヨタ」とエールを送ります。

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理不尽でも合法であれば正義とする思想についてゆけるか

2013-04-04 17:09:20 | 社会

私のブログでもたびたび話題にしますが、日本の社会と欧米の社会文化の根本的な違いとして、欧米の社会は合法性ということをことさら重視することがあげられます。昨今話題となる「コンプライアンスの重視」というのも、「合法」であれば納得できるできないの議論を封じて相手を服従させることができる(complyのもともとの意味は服従)ことを意味しています。

 

多民族、多文化の中で秩序を保つためには、明文化された法によって物事を決めることが必須であったために「合法性」というものが何よりも重視され、お互いの利害が衝突する場合には、皆が従う法同士を対決させて、どちらがよりrational(合理的か)で優劣をつけるというのが正しい紛争の解決法となったことは理解できます。そうでなければ戦争をして殺し合いをする他解決方法がなくなります。翻って同一民族、同一文化で数百年暮らしてきた日本人は、譲り合いと皆が少しずつ利を得る事で世の中を丸く納める事を正義としてきたという違いがあります。その最たるものが、公共事業などの受注をめぐる談合と言えるでしょう(だからこれは日本の文化でいえば正義と言えます)。

 

前にも書きましたが、トマス・ホッブズの「リヴァイアサン」を読んでいて違和感を感ずるのは「人間は他人を殺すことも自由である」という発想と「銃で脅して結んだ契約書も契約である限り守らねばならない」とする法や契約を感情より優越したものとする考え方です。これは神との契約は絶対だけれど、人間同士の事柄は人間界で決めた「法」で、より合理的であるよう争えば良い、という思想につながり、それは現在も有効なエトスとして続いていると思われるのです。

 

TPP交渉を何故非公開で行うのか、というと「参加国の国民にとって理不尽な内容であっても、参加国間で協定が結ばれて内容が合法となればそれが正義となる」からに他なりません。最近お題目のようにコンプライアンスの重視が求められる事の本意は「理不尽でも合法であればそれに従いなさい」ということを体で覚えさせられていると考えれば合点がゆきます。皆が納得できる内容でまとめるつもりならば、始めから公開討論で決めて行けばよいのですが、それでは各国の利害が調整できず、WTOやGATTの二の舞になることが明確だから「非公開で理不尽な内容であってもまとめてしまおう」としているのです。そもそもそのそのような貿易協定は世界の人々には不要であり、TPPを必要とするのは仕事がやりやすくなるグローバル企業だけだということになるのでしょう。

 

日米地位協定によると、「米軍は公務であれば日本国内どこに行く事も自由であり、行われた行為は日本国の法では犯罪であっても罪に問われる事はない」とされています。性犯罪や単なる傷害事件などは公務ではないから勿論問題になりますが、例えば米国にとって不利益となる政治家を暗殺することは、立派な公務であり、地位協定にコンプライアンスすれば、実行者を罪に問うことはできません。日本の現役の閣僚が突然死したり不自然な自殺をしたりする事例が時折見られますが、その日のうちに「自殺」とか「病死」といった報道がなされて深く追求されないのも、米国が公務として暗殺したから日本は罪に問えない、これは合法的事項である、という事情を反映していると考えれば納得がゆきます。米国が自国に不利益となる政治家を暗殺したり追放したりすることは中東やアフリカでは日常的に行われていることは皆さん承知と思いますが、日本でも「合法的」に行われる法体系ができているということです。必要ならば公務として都心でテロを起こすことも可能と言えるでしょう。だから安倍総理も野田前総理もアメリカから脅しをかけられて強く言われると「TPP入りまっせ」と本人の意思にかかわらず決断する結果になるのだと思います。何よりも「合法」であることの怖さはここにあるのです。

 

江戸期を含めて、日本の伝統的な法体系というのは、日本人の「倫理的善」の意識と矛盾しないよう作られていたと思います。だから「法を守る事は倫理的にも善である」という意識が日本人は強く、単なる約束規範である交通ルールも「車の来ない状態でも赤信号を守る」といった意識につながっています。「法に従う(コンプライ)事は倫理的にも善」という意識がもともと日本人は強いのであって、理に合わない法に対して別の法で対抗するという発想を日本人は持ちにくいと言えます。

 

イスラム社会においても、イスラム法を守ることはきっと神との契約を守ることにつながり、「法を守ることは倫理的にも善」という認識があるのではないかと推察します。しかしキリスト教社会においては、ルネッサンス期に「教会法による日常生活の呪縛」から解放された結果、現在の「合理性(ratio)を主体とする法」に基づく世界の形成に役立ったのだと思います。「法」を扱うにあたって倫理観にとらわれず、合理性のみを追求してお互いの利益を求める事ができるのは日本人やイスラム社会の人達にない「キリスト教社会の人達の強み」だろうと思います。

 

「理不尽でも合法であれば正義」という事態に対して、イスラム社会からは有効な対策は打ち出されていないように見えます。唯一の抵抗は「自爆テロ」という他の社会から理解されない倫理的殉教ということでしょうか。日本においても明文化されない習慣や官僚の抵抗で何とかしのいできたものの、いよいよTPPによって「理不尽でも合法であれば正義」の思想を受け入れざるを得なくなってきているように思います。中国は人治の世界で法治国家とはいえないので日本のように簡単にコンプライアンスさせることはできないでしょう。アントニオ・ネグリの著書「帝国」では、世界制覇を「合法的」に目論むグローバル資本に対する抵抗は世界の良識に基づく人々の結合「マルチチュード」しかない、と結論づけられています。私も理論や感覚としてはネグリ氏の主張は解るのですが、具体的にどうするかについてはまだ氏も結論を出せずにいるように見えます。私は「理不尽は理不尽とはっきりと声に出して、より納得のゆく法に変えて行く」ことをより多くの人達が目覚める事で実行してゆくというのが唯一の解決法のように現在は思っています。

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