rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

メディアの偏向を日本で唯一指摘する「紙の爆弾」誌

2022-04-15 23:40:26 | 書評

ロシアのウクライナ侵攻について、米国も含むネットでは過去の経緯からロシアにも理屈があり、戦況についても一方的にロシアが苦戦している訳ではないとし、一方的にロシアに制裁を科し、ウクライナを軍事支援することは問題解決にならないばかりか、核戦争を含む世界を巻き込んだ第三次大戦にエスカレートすることを危惧する論説があります。私のブログもその立場を取りますが、新聞テレビ雑誌などのメディアでは、大小見まわしてみてもこういった主張をするものは皆無といって良い惨状です。そんな中で大手誌ではありませんが、鹿砦社の月刊誌「紙の爆弾」は4月号に「ウクライナ危機、バイデンの自作自演」という一水会代表・木村三浩氏の論説を掲載、5月号では共同通信出身で元同志社大学教授のジャーナリスト浅野健一氏の「ロシア悪玉一色報道の犯罪」(停戦を遠ざける史上最悪の偏向報道)という非常に示唆に富む記事を掲載しています。日本のジャーナリズムは全滅かと落胆する中で、一筋縄では行かない発刊経過をたどる雑誌とはいえ、このような骨のある記事を載せる雑誌がある事は喜ばしい事です。

I.  NHKの戦前回帰に相当する偏向報道

前回のブログでもNHKが現在のウクライナ情勢が核戦争や第三次大戦にまで発展する可能性、「NATOの参戦以外選択肢がない」などという論評を躊躇なく報道する様に驚いた事を記しましたが、ここで出演していた東大の藤原帰一客員教授も、歴史学者の加藤陽子教授がNHKで本意でないコメントを放送されたと憤慨していた様に、実はインタビュー終盤で述べていた「戦争を煽る行動は決して取るべきでない」が全体として主張したかった事かも知れません。

「紙の爆弾」誌で、浅野健一氏はロシアの侵攻が始まった2月24日のニュース7には、ロシア史の第一人者である法政大学名誉教授の下斗米伸夫氏が出演して、「政治経験のないゼレンスキー大統領は外交において的確な判断ができない」とまっとうな評論を行ったが、その後は一切出演がなくなり、米国のプロパガンダ通りの評論をする慶応大の廣瀬教授や筑波大の東野准教授、防衛研究所の研究員らの出演ばかりになったと指摘しています。氏は「日本メディアによるウクライナ戦争報道は、ジャーナリズム史上、最悪と言えるだろう。」と結論付けてその偏向ぶりを嘆いています。

これは日本に限らず、「西側」のメディア全体に言える事で、you tubeで海外事情を紹介するHARANO TIMES氏はドイツ大手紙フランクフルターアルゲマイネ紙の元編集長ウド・ウルフコッテCIAから買収されて「ロシアを敵視する様に捏造した記事を多数書いた」という告白本について記事にしています。

 

II.  第三次大戦に日本は参戦する覚悟はあるのか

私は最近の報道状況から推測すると、米国(NWO=Deep state側)の本来の狙いは、プーチン大統領を嵌めて、第二次大戦の日本やドイツと同様「最初に侵略」を開始させて「悪者」にした上で世界戦争に発展させ、最後は「ゆるぎない一極経済政治支配を確立する」事にあるのかも知れない、と邪推しています。外れて欲しい推測ですが、そうなると弱体化したロシアの次の目標は中国の解体であり、「ロシアとの戦争は欧州全体が戦場」になるとすれば、「中国との戦争は台湾・朝鮮・日本が戦場」になります。勇ましい核シェア論や、維新の躍進や共産党の自衛隊容認変貌などの先には、日本が再度中国と戦争をする(させられる)事態が待ち受けていると考えるのはうがちすぎでしょうか。スラブ人同士が戦争をさせられて両陣営が衰退する姿を今見せつけられていますが、アジア人同士が戦争をさせられてお互いが衰退するという「米英の笑いが止まらない状況」を日本人は黙って受け入れるほど阿呆になってしまったということでしょうか。中国を含めたアジア諸国の事情を尊重した上で「支配・被支配の関係のない新アジア主義」を構築しよう、という一水会木村三浩代表の主張は「右翼総帥のたわごと」と言い切れない国士の響きがあるように私には感じます(紙の爆弾5月号 天木直人氏との対談)。偏向メディアに疑問を感じない日本人たちは中国と戦争をさせられる羽目になってもバカ丸出しで「ウクライナを見習って命がけで、全国民で中国と闘う」などと言いだしかねません。

 

III.  国際法に照らした日本の立ち位置

国際法について私は全くの素人ですが、読みかじりの知識で日本のウクライナ戦争についての国際法上の立ち位置を考えてみました。国際法には平時国際法と以前戦時国際法、現在は内戦などより広範な戦争状態を想定した武力紛争法との区別があります。武力紛争中の国家に対しては、交戦規定とされる「ハーグ法」と武力紛争犠牲者を保護する「ジュネーブ法」が適応されます。国連憲章には「武力不行使の原則」があって、「戦争はしない」事になっているのですが、例外が「自衛のための戦争」であって、自衛のためには「集団安全保障」による戦争協力が許されることになっています。この辺が国際法の限界・曖昧な部分で、集団安全保障で自衛のためならば「先制的自衛攻撃」が許されることもあるという学説があって、ロシアが今回ドネツクのロシアが承認した国家から救援を求められてウクライナに先制攻撃(侵略)をした事も「集団的自衛権の行使」と資料を揃えれば言えなくもないのです。テロに対して言えるかは疑問ながら、米国は911の後、「大量破壊兵器保持」を理由(虚偽でしたが)にイラクに先制攻撃をかけ、「タリバンがアルカイダを匿った」としてアフガニスタンに侵攻してますから、ロシアだけを国際法違反に問う事はできないでしょう。ロシアはウクライナのバイオラボ(米国の資金提供による)が致死性の狂犬病ウイルスを、ドローンを使ってロシア国内に散布する計画を抑止するための自衛のための戦争(バイオラボにバイデン大統領の息子、ハンター・バイデン氏も関与と英国デイリーメールが伝えた)を行ったというレトリックも準備しています。

ハンター・バイデンがウクライナ・バイオラボの研究出資にからむというデイリーメールの記事

 

日本は「国際紛争を解決する手段としての戦争は放棄」するという憲法を堅持していますが、今回武力攻撃を受けている紛争当事国に防弾チョッキやヘルメットといった防衛装備品を提供し、紛争当事国のもう一方であるロシアに経済制裁を科しました。客観的に見て日本は「中立国」としての立場は放棄したと言えます。一方、中国やインド、ブラジルなどロシアに制裁は科さず、ウクライナに戦争協力もしない中立国もあります。ロシアは国連憲章に定められた武力不行使の原則を破ったので、日本は国連憲章に定められた集団安全保障の一環としての非軍事的措置として「禁輸、資産凍結、交通・通信の停止」などにあたる制裁をロシアに対して行ったのである、という説明は可能です。ただ結論を出す前に、これらの議論を双方の意見(両国の大使を国会に招聘するなどして)を聞きながら、十分に国会で行う必要がありました。偏向した一方的プロパガンダ報道を基に、議論もせずに日本国としての態度を決定するというのは余りに拙速だと本来ならば野党から大批判があってしかるべき(れいわ新選組だけは別)でした。

 

日本人は国際法を尊重する気持ちが希薄であることが証明されました。このような状況でなし崩し的に戦争を行えばどのような悲惨な結末が日本国民に襲い掛かるか、非常に憂慮されるところです。

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クラウス・シュワブCovid-19:The Great Resetを読む

2020-11-28 00:16:51 | 書評

社会に影響力のある集団が共通の認識を持つと、社会はその集団が考える方向に進んでゆきます。それは陰謀でも何でもなく自然な事です。会社の経営陣が会議で共通の認識を持てば、その会社の経営方針は経営陣の共通認識に基づいて決められて行き、現場の一社員が何を考えようが影響力を持ちえない事は日常経験しているはずです。世界の経済を回している超資本家と政治家が毎年開かれるダボス会議という席で共通の認識を持つよう仕向けられれば、世界の動向はその方向に沿って決まってゆくのです。だからダボス会議を主催するクラウス・シュワブ氏が「世界はこうなる」と本で述べていれば、その方向になることは必定であり、一般人の我々はこの先どうなるか、本を読めば分かります。先のブログで紹介したクラウス・シュワブ教授の近著「Covid-19: The Great Reset」の翻訳本が日経ナショナルジオグラフィック社から2020年10月26日発売になりましたので早速購入しました。

内容は毎年話題になる雑誌エコノミストの1月号表紙ほど暗示的ではなく、選択肢や根拠は示しながらも「このように変化してゆく」と決然と述べられているのが特徴的です。それはどこか「高圧的」で「傲慢」だと感ずる部分も多いのですが、まあ上記の様に世界の経済を動かしている経営陣のご託宣と思えば仕方がないとも思えます。構成は3部からなり、第一部マクロリセット では経済、社会、地政学や環境、テクノロジーのCovid-19によるロックダウン、経済停滞と生活様式の変化による大きな変革の概要を述べます。

第二部ミクロリセット ではより具体的な政府や個人の行動変容について例示的に説明します。

第三部 個人のリセット ではこの社会変容に対応する個人の在り方、倫理観や心身の健康の保ち方などについて著者の思う所が述べられます。全260ページのうち、第一部のマクロリセットが180ページを占め、著者が主に言いたい部分が世界全体の大きな変化であることは明らかです。以下目次に沿ってrakitarouが要約したものをまとめます。

 

「第一部 総論」

緒言として述べられている事は、「新型コロナ感染症は世界を変えた過去の伝染病のパンデミックに匹敵するが、人類が滅亡する様な悪性の病原体ではない、しかしパンデミックによって変化した生活態様がコロナ前(before Corona)の状態に戻ることはない」と断言し、この前提でその後の論が展開されています。理由はウイルス蔓延と情報のスピード、経済社会の複雑性と世界の相互依存関係に基づくとされていますが、これはダボス会議における既定路線と言えそうです。

 

「経済のリセット」

「命を犠牲にしても経済を守るべき論は誤り」とまず規定し、中世的な完全ロックダウンによる経済停滞を正当化します。私が良く問う所の「ウイルスと共存でなく抑え込みと決めつける根拠は?」という根源的な問いは封じられます。そこを問われるのはダボス会議としては痛い所なのでしょう。また経済も命も守るという選択肢も封じられます。欧米メディアの論調がこのダボス路線に沿っていて「逆らうことは許されていない」事も分かります。

その前提で、全人類へのワクチン接種は必須であるものの、経済は当分停滞すると断言します。またパンデミックが収まった後は過去においては雇用が増大し、好景気となったが、今回はAIが人手の代わりとなるから好景気にはならないだろうと予測します。製造業が経済成長の牽引役になるのは第四次産業革命が既に成就された現在無理な話である(65ページ)。したがって政府が主導する環境やサステナブルなエネルギーを育てるグリーンニューディールと呼ばれる政策が雇用対策として必要になる(67ページ)。

効率のみを求めるグローバリズムはもう成立しない。富は再配分すべきで、それは国家が主導して行われる。経済政策はケインズ式となり、財政出動はMMT理論に沿って大きな政府が期待され、政府は多大な借金を負う(ジャパニフィケーションと呼んでいるが、悪い意味ではないとしている)が、国民が豊かな生活であれば良いと述べる(76ページ)。米ドルの世界通貨としての役割は終わり、それに代わるバスケット制のデジタル通貨的なものが出現する。新自由主義は終焉を迎えるが、それで貧富の不平等がなくなる訳ではなく、溝はより深まる。結果として平等社会を標榜する社会主義的制度を取る国が増加するだろう(89-93ページ)。102ページからの社会契約の変化では、明確には述べられていませんが、著者はベーシックインカム導入を暗示している様に思う。それは最低限の平等化、管理社会の実現、財政出動の容易化に資するから。

 

「地政学的リセット」

グローバリズムはナショナリズムの台頭により成立しづらくなっている所にパンデミックが起きた。グローバリズム、民主主義、国家主義の三者は同時に二つしか成立しない(ハーバード大学ロドリック教授のトリレンマ)事から、トランプ現象や欧州のポピュリズムは後者二つが強くなってきた事が背景にある(114ページ)。米国が世界覇権国を降りようとする現在、今後は地域覇権国(多極主義)によるリージョナル・ガバナンスの時代になる。(見方によってはオーウェルの1984の世界観)

 

「環境・テクノロジーのリセット」

ロックダウンや人の往来がなくなっても環境負荷の改善はわずか(8%炭酸ガスの排出が減った程度)だった。今後は環境対策としての「グリーンニューディール促進」とデジタルテクノロジーの進歩に伴う在宅ワークなど「働き方の変化」が技術的進歩の方向性となる。その際、人間同士の接触が減り、無機質的な監視社会、ディストピアの招来が危惧される。それを避けるのは指導者と国家の見識である(181ページ)。(見方によってはディストピア不可避論にも見える)

 

「第二部ミクロリセット」

集客して行う娯楽、旅行、レストランなどがコロナ前に戻ることはない(と言い切る)ので新しい在り方を模索する必要がある。商品販売やサプライチェーンはデジタル中心になる。

より良い復興(build back better最近いろいろなメディアで取り上げられる言葉)のためにはESG(環境、社会、統治)の重視が大切である。大都市の必要性、必然性は減り、郊外の良い環境で在宅ワークできる社会を形作るのが良い。今後同じようなパンデミックが起きても回復力(レジリエンスが合言葉)の強さを決めるのはESGに基づく社会生活に変容してゆくことだ。

 

「第三部 個人のリセット」

地震や台風などの一過性の災害は人々を団結させるが、パンデミックは人々を孤立させる(接触を断つから)。個人はセレブとして良い物を持つ生活を理想としてきたが、孤立した生活ではセレブを目標とする意味はない。個人の生きる目標は「倫理的正義」や「自己実現」の方向に向かう(これは同意できる内容)。ただ経済停滞と孤立で生活が貧しくなると人は攻撃対象を求めて暴力的になる可能性もある。孤立は心身の健康をむしばむ可能性も高く、個人の生活は自然回帰による健康維持、第二部のESGを重視した生き方にリセットしてゆく必要がある。

 

概略は以上になりますが、総論にのべた大前提が崩れてしまうと全体が成立しなくなってしまう事が分かります。現状世界はGreat resetの方向で進んでいますが、米国はバイデンが勝って大統領になればまさにGreat resetの方向でしょう。大きくは新自由主義に基づくグローバリズムは終焉を迎える、という結論は私も異議なしですが、その後ディストピア的リージョナル覇権主義で、見えないところでダボスの人たちがそのもう一つ上部の構造体として統治するという事を目指し、今後も影の支配者として君臨したいという野望が見え隠れしている所が何となく傲慢で高圧的に感ずる所以だと思いました。

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書評 危機の正体 コロナ時代を生き抜く技法

2020-10-02 16:46:09 | 書評

書評 「危機の正体」 コロナ時代を生き抜く技法 佐藤 優 著 朝日新書 2020年8月刊

 

コロナに関する書籍が店頭に沢山並ぶようになりました。医学的な面については2020年1月の時点からrakitarouとしては分析を出していて「メディアなどで喧伝される内容」とは一部異なるものの最終的には私のCovid 19についての医学的分析に誤りはない結果になったと自負しています。またCovid 19に対する人間社会の対応は「コロナファシズム」だと私は指摘し続けてきましたが、同様の指摘をする書籍メディアも増えてきました。その様な中で本書は多作ながら毎回きめ細かい分析と鋭い指摘をされる佐藤優氏らしい内容であると思いました。

 

大きな特徴は、コロナ危機を「神学における悪」から分類、分析している点だと思いました。分かりやすく大きな構成内容を目次の形に示してゆきます。

 

本書の構成は (カッコ内はrakitarouが内容をまとめたもの)

序章  新しい日常を強いる権力の存在 (知らぬうちに型に嵌められた生活へ)

第一章 リスクとクライシスの間で   (政府社会が感染症対策にもがくうちにこうなった)

第二章 食事の仕方に口を出す異様さ  (日本を含む各国社会が強制したシナリオ)

第三章 繰り返されるニューノーマル  (新しい生活様式は昔からひな形があった)

第四章 企業と教育界に激震      (社会の変化からの経済、教育界への激震)

第五章 コロナ下に起きた安全保障の異変(イージスアショア中止と沖縄問題)

 

となっています。コロナ関連の書籍も種々の内容がありますが、氏は医学者ではなく社会学者なので上に示した様に医学的内容よりは社会学的な内容が主体になっています。特にその危機の捉え方については「あとがき」を読むことですっきりと腑に落ちる所がありました。氏はキリスト者であり、神学にも詳しいので彼らしい分析になったと思います。以下にあとがきの一部を引用します。

 

(引用はじめ)

 

神義論では、悪を3つの分野に分けて考える。悪の本質や起源について考察する形而上的悪、天災、地変や感染症がもたらす自然悪、戦争や貧困など人間が起こす道徳悪の3分野だ。(中略)人間には例外なく罪が内在していると考える。罪が形をとると悪になる。本人が自覚していなくても人間は悪を行うという前提に立たないと危機の正体をとらえる事はできないと思う。

(中略)新型コロナウイルス自体は自然悪の問題だ。しかしそれに対する人間の不作為並びに間違った政策、あるいはわれわれ一人ひとりの立ち居振る舞いに関する問題は、道徳悪に属する。

(中略)本書で繰り返し指摘したように、新型コロナウイルス対策の過程で国家機能が強まっている。国家機能の内部では、司法権と立法権に対して行政権が優位になっている。行政府の自粛要請に応じて、危機を克服するというアプローチが所与の条件下ではもっとも合理的であることは事実だ。しかし、この日本型の解決策は、ハーバーマスが指摘する「自由なき福祉」そのものだ。(中略)主観的には首相官邸の政治家と官僚、霞が関(中央省庁)の官僚が国家と国民を守るために全力で働いていることが私には皮膚感覚で分かる。しかし、主観的に真面目である政治家や官僚ほど、自らが抱える悪がみえなくなってしまうのだ。その悲喜劇的構造を本書で明らかにしたかった。

 

(引用終わり)

 

消毒、social distance、都市閉鎖など国や社会によって程度に差はありますが、結果的にコロナ前の社会と大きく変容した社会生活を全世界の人々が強制されているのが現在の姿です。新型コロナ感染症の自然悪については、「強い感染力」と「低い死亡率」という特徴が規定事実になっており、この事実から導かれる「自然悪の程度」もこれから先変わることはないでしょう。しかしこの感染症に対して「人間社会が取った対応で被る各個人への被害」は道徳悪に類するものであり、その「悪の程度」はこれからどこまで拡大するか未知の分野です。厄介であるのはこの道徳悪はだれかが悪意を持って意図的に仕組んだ「陰謀のシナリオ」に沿ったものではなく、著者が指摘するように善良なる政治家、官僚が国家と国民を守るために全力で働いた結果であるという点です。

専門知識がある医師、科学者であっても、未知のウイルスを前にした時、専門的知識と経験から「このウイルスはこの程度」という予測はできても政府から正式に委託されて助言を求められれば安全策を講じた内容を答えざるを得ません(私でもそうしたでしょう)。WHOの職員と言えども、未知のウイルスを前にすれば我々医学者と同程度の能力でしかも国際機関の官僚、縦社会の一員に過ぎず、「米国や中国に忖度せねば公式声明を出せない」縛りだらけの存在です。しかしWHOとして何等かの声明が出されれば、各国政府やその下部で働く医師たちはその声明を尊重せざるを得ません。

私や他国の医師たちが政府の対応を「コロナファシズム」と批判していますが、それは善意に基づいたその時最善と考えられた処置だったと言われれば否定はできないでしょう。そしてこの「善意に基づく処置が様々な道徳悪を世界中の人々にもたらした」事も事実ですから、現在の「危機の本質」とはこの道徳悪の事であり、〇 個人はこの道徳悪にいかに実生活において対応するか、〇 また為政者、官僚は善意に基づく結果としての道徳悪にどう改善策を講ずるか、という点こそ佐藤優氏が本書で主張したい事だと思いました。

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サイコパスの概念は性悪説論争を解決するか

2019-11-18 18:51:44 | 書評

 脳科学者の中野信子氏の著作「サイコパス」文春新書1094(2016年刊)は23刷を重ねるベストセラーで、内容も世間を騒がすサイコパスの実体を解り易く解説してある良書だと思います。私もぼんやりとした知識しかなかったのでその概念や実体をまとめる勉強になりました。サイコパスというのは特定の犯罪者に見られる病的な性格と認識されがちですが、100人に一人はいて、脳科学的なしくみもある程度明らかになっている、しかもonかoffの二者択一ではなく、その程度もグラデーションで、生来の場合も後天的な障害として出る場合もあるという所がサイコパスを理解する上で大事な点と思います。

 

サイコパスとは何か

 サイコパスとは、性格として「思いやりと共感に関する脳内回路が欠如した人」と定義付けられます。脳科学的な機序としては、扁桃体と前頭前皮質の結びつきが弱い、特に内側前頭前皮質(VMPFC)と眼窩前頭皮質(OFC)の結びつきの成熟がなく、扁桃体の活動が低い事で不安や畏れの感情に乏しい事が原因とされます。また多罰的情動を抑えることが機能上できないしくみになっていると説明されます。性別としては女性よりも男性に多いと言われます。

 

サイコパスの脳の特徴(本書79頁から)

付き合うと「どんな人」?

 サイコパス=犯罪者ではありません。中野氏の表現を借りると「勝ち組みサイコパス」と「負け組みサイコパス(のけ者や犯罪者になる)」に別れると言います。勝ち組として成功するサイコパスは非常に魅力的な人物で教祖のように信奉されます。人の事情など気にせず(その回路がないから)実現困難な夢を語り、その実現を人に強要します。典型例は意外かもしれませんがアップルの創業者スティーブ・ジョブズです。彼のアイデアはマッキントッシュ・コンピュータを個人の自由に使えるアイテムに変え、i-podやi-phoneなどは世界を変えたとも言えます。しかし自分の創業した会社をクビになるほど他人の事情を考えないとんでもない社会人であった事も確かのようです。他にも畏れ(自分が死ぬ事も)や他人を殺す事への躊躇が一切ない事から戦場におけるヒーローになり易かったり、秘密警察やスパイなどで活躍する事も多いとされます。

 一方で、失敗する負け組みサイコパスは正に躊躇なく犯罪を犯し、自分が罪に問われる事を恐れません。例としては2017年の10月に神奈川県座間市のアパートでクーラーボックスに入った複数の切断遺体が見つかり、殺人容疑で逮捕された白石被告などは、その後の接見での「もっと遊びたかった」「殺人は後悔などしていないが、逮捕されたのは後悔している。」といった発言からこの負け組みサイコパスに当てはまるように思います。

 これは本にない表現ですが、サイコパスを一言で理解しようとすると

「己の欲せざる所、他人(ひと)に施すことなかれ!」という格言を理解できない人と言えるでしょう。自分がやられて嫌な事は他人にしてはいけない、という事は実感として誰でも理解できるし、大人になる過程において体験的に学んで自然と身に付いてゆく人生訓であると思います。これは自然な「思いやり」や「同情心」としてその人の「徳性」を形成する源にもなってゆくものです。しかしサイコパスにとっては「自分がやられて嫌な事を他人にしてはいけない」と言われても「何故?」という疑問しか起きません。自分がやられなければ他の人がやられても「自分は痛くも痒くもないから良いではないか、何故他人の気持ちなど気にしないといけない?」(私の想像です)という理屈になる。脳内に共感の回路が存在しないというのはそう言う事だと思います。

 

性善説・性悪説との関連

 儒家の孟子は人間の本性は基本的に善である、とする「性善説」を説き、悪人を罰するのではなく、正しく導く事が大事という考えの基本になりました。一方で思想家の荀子は人の本性は悪であり、善になるには努力が必要と説いたのですが、一般的には「他人を善い人という前提で付き合うな」といった意味で使われる事が多いです。英語表現ではHuman nature is fundamentally evil.となりますが、evilは「道徳的な悪」を示す単語(ブッシュ子大統領は「悪の枢軸axis of evil」とイラクを表現してイラク戦争を宗教的道徳的正義の戦いと定義付けた)です。

 サイコパスの様に他人を害する事に何の心痛も覚えない人が100人に一人はいるという事実は、99人にとっては「己の欲せざる所、他人に施す事なかれ」と教育すれば心から成る程と理解できるけれど、サイコパスにとっては何の効果もないという事を意味します。サイコパスは古今東西どの社会にもいて、中野氏の著作によるとイヌイットの社会にも「害を与え続け、反省もせず、社会で生きられない者」は長老が夜、水に突き落として処分してきた、と紹介されています。刑罰は「社会に復帰させるための教育的な物であるべきで、眼には眼を、という応法的な処罰はいけない」とする考えが近代刑法の基本とされていますが、イスラム法など古代からの応法的な刑罰も実はサイコパスの存在を前提にした人類史の経験に基づく根拠のある刑罰であったとも言えそうです。

 

実生活におけるサイコパスとの付き合い方

 100人に一人は程度の差や社会的適合性(犯罪をするしないに関わらず)の程度が様々なサイコパスが、実際には社会に溢れている事を考えると、実生活においても日常的にサイコパスの人達に接して我々は生きて行く必要があります。自分自身もある程度サイコパス的因子を持っていると反省する必要もあります(中野氏の著作にはサイコパス度テストというのがあるのでやってみると興味深いです。幸い私はあまり当てはまらなかった)。普段自覚せず、「自分は押しが強い性格であるのが強みである。」位の認識の人も沢山いそうです。基本的に脳機能の欠陥なので、相手に異常を指摘しても治りません。中野氏によると、サイコパスは「罰には疎いけれど利に聡い」ので「叱るより褒める」、「処罰より褒美を与える」事がサイコパスを善い方向に導く(うまく使いこなす)コツであろうと述べていて参考になります。

 今までも上司や部下、患者さんや家族などに「何故か常識的理屈が通らない」「その発想はどこから来るのか自分の数十年の経験上想像もつかない」という対応をしてくる人達がいました。そのような人達をサイコパスという概念で見直してみるとかなり一致していた事が解ります。そういった人達を理解した上でうまく付き合う事は社会生活を送る上で必要であり、また予想もつかない一方的害悪を受けてしまう事(何しろ相手は何の躊躇も悪意すら感じずに相手を傷つけてくる)から自分を守る手段にもなるでしょう。その意味で社会でいろいろな人に接する必要がある人にとって、この本は必読の書と言えるかも知れません。

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権威主義という罠

2019-04-06 00:06:00 | 書評

 岩波の雑誌「世界」4月号の特集は「権威主義という罠」という題名で、なかなか興味深い内容でした。権威主義というのはあまり聞き慣れない言葉ですが、wikiなどによると、「民主主義」と暴力による独裁である「専制主義」の間にある支配体制であり、「権威に自発的に民衆が従う事によって支配階級に都合が良い社会になるように仕向ける」構造の事を言うそうです。そして現代こそは、この権威主義全盛の時代であり、グローバリズム(の勝者)、トランプ、プーチン、習近平の中国など大なり小なり権威主義を利用しており、民衆は権威に自発的に従うことで必ずしも自分達の利益にならない事にも賛成し、自らの権利を支配者達に差し出している、と警告します。

 それでは、統治の理想とされる「民主主義」はポピュリズムや衆愚政治とは異なる、と説明されていますが、古今東西理想的民主主義を実践した社会などというものがあったか、というと極めて心細い。民主主義を謳いながらも現実には代議制であり、国家がリバイアサンとしての絶対的権力を持ち、常に支配者と被支配者に別れて社会が存在していたというのが現実であるように思います。トランプ政権や欧州のナショナリズムを「ポピュリズムである」とグローバリズムの立場からは批判しますが、グローバリズムこそ民主主義からはほど遠い「強欲資本主義」という単一価値観による強制的な世界支配でしかない、「勝ち組以外は被支配者」であるという現実に目を向けない社会構造である事を自覚していない言質であると言えます。

 岩波の「世界」と言うと昔から左寄りの雑誌で内容もリベラルとされる主張がセットになって載っているだろうと想像がつくように感じていました。しかし以前から私が主張している様に、現代は20世紀的な括りでの右左のセット理論では世の中の動きは説明不能になっています。今回「世界」を読んでみると旧来のリベラル的な主張もあるのですが、もっと是々非々でそれぞれの事象を冷静に観察した上でこれはこの点で良い、これは悪いと判断を下していて旧来のセットでステレオタイプに批判をするような知性の低俗さがなく、違和感無く読む事が出来ました。元共同通信記者の伊高浩昭氏の「ベネズエラで何が起きているか」と言う記事も複雑なベネズエラ情勢を2015年のオバマ時代からの米国のマドウーロ政権打倒の陰謀を解り易く解説していて濃い内容でした。

 太田昌国氏の「独裁と権威主義をどう批判するか」という論説もグローバリズム、民族的排外主義の台頭を独裁と権威主義の潮流としながら、これらを批判する左翼勢力にも独裁と権威主義が現れている事に警鐘を鳴らしています。また宇山智彦氏の「進化する権威主義」という論説でも「民衆が抵抗感なく自発的に従属」しやすいよう権威主義自体も巧妙に進化している事を示しています。その中で実体は権威主義の状況でも一方の権力に対してオルタナティブとして存在する勢力があること(欧米に対する中ロのような)は、リテラシーを磨く上で本質を見た上で大切という指摘は頷けると思いました。

 それぞれの論説内用は幅広く内容も深いので一言ではまとめられませんが、今井宏平氏の「強い大統領エルドアンに導かれるトルコ」などは事象を理解する上での資料としても有用であると思われました。

 

白人至上主義とは何か

 

ニュージーランドクライストチャーチで2019年3月15日白人至上主義者がモスクを銃撃して50人の死者を出した事件では、犯人のオーストラリア人ブレントン・タラントが白人至上主義から移民であるムスリムの人達を憎み、モスク襲撃に至ったとされています。しかし日本人には白人・黒人間の差別くらいは理解できますが、アラブ人やヒスパニックが非白人としてどう差別されているか、東欧からの移民への差別、同じ白人でもカソリックとプロテスタント間の差別、カソリックでもアイルランドとフランス人との扱いの違いなどはまず説明できない様に思います。雑誌「選択」4月号では、白人至上主義団体に世界中で数百億円単位の活動資金が大富豪達から流れ込んでいる実体が記事として紹介されています。その白人富豪は多くのユダヤ人が含まれるとか。白人至上主義でも本来反ユダヤのネオナチは対して資金が豊かでないけれども「反イスラム」の白人至上主義団体には「反イスラム産業」と言える程の潤沢な資金が流れ込んでいるという。ニュージーランドは来るべき第三次大戦でも生き残る最期の楽園と富豪達に信じられていて、戦争避難のシェルターとして富豪達が土地を買いあさっている実態があると言います。そこにイスラムが多数移住することはシェルターとしての価値を損なう(そこも戦場になるから)という理由で反イスラムテロには陰で潤沢な資金が提供される現実があると説明されます。

 

トランプがプーチンと仲良くすることを何とか阻止したい、第三次大戦をロシアも交えて起こしたいと目論む「グローバリスト軍産複合体勢力」が仕掛けた実態のない「ロシア疑惑」はようやくトランプ勝利で終焉を迎えました。シリアにおけるトルコ対ロシア、インド対パキスタンの開戦による第三次大戦は失敗に終わっています。ベネズエラもマドウーロが乗ってこず、グアイドは排除されつつある。イスラエルはネタニヤフが検察に起訴され、強硬派はトランプがゴラン高原などの態度を明確にするほど欧州から嫌われるという逆効果に苦しんでいます(トランプ流世界多極化としてうまい政策だと思います)。北朝鮮は軍部がどう動くか未定ですが、しばらく動きはないでしょう。アメリカはこれから未曾有の水害に苦しむことになりそうで、戦争をする余裕などなさそうです。北朝鮮軍部がとんでもない暴発でもしない限り今の所第三次大戦はおきそうにありません。

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日本の本当の黒幕 を読む

2018-04-06 19:19:15 | 書評

日本の本当の黒幕 上下 鬼塚英明 成甲書房 2013年刊

 

 幕末から維新・昭和初期まで生き抜いて、伊藤博文の時代に明治天皇の宮内大臣を勤め、以降日本の黒幕として政界・経済界に影響を及ぼし続けた田中光顕(1843−1939)を中心に歴史の表では語られる事のない背景を数多くの資料を駆使して暴いた労作です。著者自らあとがきで述べているように、「田中光顕という人物を通して著者が幕末・明治・大正・昭和を研究した本であって、この本は間違いなく独断と偏見に満ちている」というのは本当だと思います。しかし我々が戦前史を知ろうとする時、世界における日本の動きは非常にダイナミックであったにも関わらず、どこか戦後押し付けられた一方的な「見方」からしかアプローチできず、またあれだけ皇室というものの絶対性が語られながら、その皇室を様々な角度からありのまま記した歴史書が非常に少ない事も事実です。だから表に出ていない部分を探ろうとする時に断片的な資料から時に大胆な類推や想像で説明を試みなければならないという現実があります。ネットなどで見られる「トンデモ説」「陰謀論」という括りで片付けてしまう事は簡単ですが、実社会で30年揉まれて生活してくると、社会というのは表に出ていない様々な思惑や陰謀で物事が決まって来る(現実には謀の2-3割しか思惑通りにはならないけど)と言う事を実体験として知るようになります。様々な裏の話を「そんなのは陰謀論」と言って本気にしない人というのは実はあまり社会を知らない「お目出たい人」だと私は思います。誤りも半分と思ってこの本を読み進めてみると、明治から昭和、戦争に向かう日本社会の裏側のダイナミズムを感じます。中身が広範雑駁でまとまりに欠ける所があって、理解しにくい所もある本ですが、そのような意味で有益な本ではないかと思いました。以下特に昭和初期の時代を決めることになった事態について、印象に残る内容を備忘録的に記しておきたいと思います。

 

田中光顕 

1)      田中光顕が宮内相引退後も政界などに力を持ち続けたのは「皇室の秘密」を武器にしたから。

 

○ 明治帝は孝明天皇の後嗣睦仁親王が長じて成ったのではなく、大室寅之佑なる山口県田布施からの出自不明の若者であるという前提で話が進みます。事の真偽は証明しようがありませんが、幕末の志士と言われるさして教養もない勢いだけの人達にとって「皇統の血筋を守る」意味などなく、「玉を担ぐ事で錦の御旗を得る」以上の物ではなかった、それくらい幕末というのは荒々しい激しいものであったというのが本当だと私は思います。大室寅之佑も南朝の末裔などと言われていますが、これも明治期に、水戸学の影響で南朝を正当な皇統と見なす事に成ってから後付けされた由緒のようです。

○ 明治帝は在職中、公式には伊藤博文、山県有朋、井上馨の元老以外は宮内相の田中光顕を通してしか他人と遭う事が適わなかったと言われていて、本当の明治帝を親しく知る人と言うのは実際にはいないのが現実だったようです。幼なじみの西園寺公望ですらあまり親しく接することがなかった(いろいろバレてしまうから)とも記されます。

○ 一方で明治帝は一般に真面目で勉強熱心で知性も高く判断力に優れた大帝という評判ですが、実情は「酒色に溺れる毎日だった」という噂もあります。明治帝には昭憲皇太后の他に記録上5人の側室がおり、10人の娘、典侍 柳原愛子に第三皇子として成人まで達した大正天皇(嘉仁親王)がいます。しかし梅毒であったという噂があって、大正帝の脳病も梅毒からみ、大正帝は幼少期から病弱で不妊であったという事も言われています。

○ これらの(勿論)公にはならない情報を武器に田中光顕は引退後も政界に力を持ち続けた、しかも要塞のような寝室を自邸に構えて、常に暗殺の恐怖に備えていたことも事実です。

 

貞明皇后と皇子達

2)      大正帝と妻貞明皇后の時代が後の昭和の方向性を決めた。

 

○   不妊で病弱の大正帝に、伊藤弘文と大山巌は妻捨松、津田梅子らと計って九条家からということにして会津出身のクエーカー教徒である節子を貞明皇后として迎えます。大正帝と貞明皇后の間には4人の皇子がいるのですが、それぞれが種違いと説明されます。1901年昭和帝(裕仁)は父が西園寺八郎(西園寺公望の養子で毛利元徳の八男、大正帝の学習院同級生)、1902年秩父宮帝(父は東久邇宮 稔彦 昭和帝の妻、香淳皇后は姪であり、終戦時の内閣総理大臣)、1905年高松宮帝(父は有栖川宮—元高松宮)、1915年三笠宮(父は有栖川宮か近衛文麿)。大正帝の息子達は兄弟と言えど、姿形が随分と違うということからこれらの推察もあながちデタラメではなさそうなのですが、なんせ不敬罪に関わる事ですから正史に出来るはずがありません。

 

3)      幕末の志士、明治の元勲、右翼左翼の大物は紙一重

 

○   幕末の志士の一部が明治政府の要職に就いて、後の元勲と言われる明治以降の日本の枠組みを作って行く役割を果たす事は正史で習う通りなのですが、後に赤旗・大逆事件で恐れられた幸徳秋水や中江兆民といった思想家が坂本龍馬の海援隊に入っていたり、大杉栄が後藤新平とつながっていたりします。田中光顕が裏で応援する右翼の大物、民間の元老と呼ばれて昭和帝の結婚式にも招待されたという頭山満も幕末の志士達と共に写真に納まっている若き日があります。

○   幕末の志士、明治の元勲、右翼左翼の大物というのは実のところ出自は変わりなく、時の流れと運でそれぞれの歴史的役割に別れて行ったというのが本当ではないかと思われます。明治になってから京都で長年生息してきた多くの「お公家さん」達は実のところあまり活躍はしていません。皇室を中心とした歴史が新たに始まった事は事実ですが、二千年の歴史を持つ旧来の皇室・お公家さんを中心とした政治が帝都で行われて明治が作られて行ったのではなく、田舎の下級武士達を中心に「一神教としての天皇教」を掲げた立憲君主国としての明治政府が試行錯誤されながら新たに作られたというのが正しい解釈だと思われます。だから明治政府中枢では常識では考えられない事も「何でもあり」だったと言う事ではないでしょうか。

 

4)      三菱→田中光顕の金の流れが昭和テロルのバックボーンとなった。

 

○   テロルというのは何の背景もなく、突発的に起こるものではなく、必ず裏で金の流れを追うことでその黒幕を暴く事が出来る、というのは鬼塚氏一流の歴史解釈です。これは現代のIS(イスラム国)成立における金の流れ見る事でも役立つでしょう(サウジアラビア、ユダヤ財閥など)。昭和にも結盟団事件、一人一殺の井上日召などのテロ事件が多発し、何より五・一五事件、二・二六事件という軍によるテロ事件が起きて、後の戦争へと繫がって行きます。実はこれらにも必ず金の流れがあって「黒幕としてのまとめ役」がなければこれだけの事件を起こす事は不可能です。

○   田中光顕と山県有朋の二人はその立場からは信じられない程の財を成した、と言われていますが、山県は政府の金、田中は岩崎弥太郎と親しくなることで継続した金の流れを作ったと説明されます。田中は引退後も金を得続けてそれらをテロルの資金として活用することで三菱の利益に資することもしたと説明されます。勿論一企業の利益のためにテロルを指揮したのではなく、国家主義者としての田中の信念が頭山満などとのつながりを持たせ、五・一五事件などへの関与に至ったという説明ですが、詳細は複雑なので省きます。

 

今二十一世紀の新たな世界情勢を迎え、日本も世界も新展開を迎えようとしています。その荒波の中を何とか日本という国と国民が生きながらえてゆくには、格式に捉われない柔軟な発想と知恵が必要だと思います。世界の動きが「とても賢い人達が人類全体の利益を考えながら慎重に動かしているはず」などと考えない方が良いでしょう。もっとデタラメ出たとこ勝負で物事は実は決まっているというのが幕末から明治の日本を見て感じます。「何でもあり」だと言う心構えで知恵を働かせて行かないとこれからの世界、生き残って行けないとこの本を読んで感じました。

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天皇のロザリオを読むー一神教になれなかった天皇教としての神道

2018-02-24 21:07:06 | 書評

「天皇のロザリオ」 (上・下)鬼塚英昭 著 成甲書房2006年刊

 天皇のロザリオは、1938年生まれの郷土史家である鬼塚英昭氏が昭和天皇九州巡幸時の「別府事件」を元に10年にわたる取材調査の末書き上げた天皇家とキリスト教との係わりについてまとめた大著です。

 戦後まもなくの占領期、日本をカトリック教国に仕立て上げる謀略があり、昭和天皇をキリスト教徒として洗礼を受けさせる計画があって結局失敗します(別府事件)。しかし皇太子(平成天皇)他皇室家族にカトリックとしての教育を受けさせ(家庭教師のヴァイニング夫人、常陸宮もキリスト教に熱心で宮中聖書事件の元になる、高松宮、朝香宮は改宗)、クリスチャンの嫁(正田美智子)をあてがい(テニスコートの恋を演出)、昭和天皇はある時期からキリスト教とは一線を画するけれども宮内庁職員始め天皇以外の人達にはかなり浸透した、という事実があります。マッカーサーは本気で日本をキリスト教国に変える気であったことが証明されており、1949年当時の陸軍長官ケネス・C・ロイヤルが来日した際の記録にも公文書として「日本の軍事基地化と経済復興、またマッカーサーの日本キリスト教国化構想を支持する」とした大統領が署名した文書が残っています(日本占領の使命と成果、板垣書店1949年)。キリスト教国化の手本はマッカーサーの父アーサーがフィリピン総督に1900年になった際に、フィリピン原住民から母国語を奪い英語を押し付けてキリスト教と民主主義を暴力的に強制する(水攻めで原住民の六分の一が死亡とのこと)ことに成功した体験に基づいていると説明されます(本書11章)。

 様々な客観的資料に基づく大著なのでこれ以上の説明は省きますが、現在の皇室のあり方にも不可解な部分が多く、我々国民が知る皇室と内情は大分異なっていると思われます(愛子さんが明らかに複数いるとかーこれは医学的にも明らか)。それも元をただせば、戦後の米国による日本・皇室改造計画に端を発していると思われます。私はこの本を読んで以前ブログにもしましたが、鬼塚氏が神道とは別の「天皇教」と表現している「天皇を神と規定」する明治以降の特殊な神道のあり方、その変遷に興味を持ちました。以下少し本とは離れる部分もありますが、一神教になれなかった天皇教について考察したいと思います。

 

 古来、日本には「自然と先祖」を神と崇める古代神道の思想が根付いていたと思われます。それは恐らく縄文時代に発していて当時の身分差のない集合体社会の中で1万年近く続いていたのではないかと思われます。その後弥生時代になって農業を中心とした土地信仰になり、呪術的な宗教を中心に各地に有力者が出現してきたのだろうと考えます。その中で日本を治めると言える程に勢力を伸ばした一族が「王」を名乗るようになり、各地の伝承を集めて自分が先祖の中で傑出した存在であることを示すために記紀を編纂させ、古事記は国内向け、日本書紀は中国など海外へ「王」としての権威を確立するための書物としてまとめさせたのが「国造り神話と天皇」の神話として残ってゆくことになったのでしょう。しかし古来からの神道は民間信仰としてずっと存在し続けて山や木、自然を神とする神社、偉人を神とする神社もずっと存在し続けて民衆の信仰を集め続けます。天皇はむしろ外来の宗教である「仏教」の布教に力を入れて、仏教による民の統治を考えていたように思います。法隆寺などを国力の総を尽くして建立します。しかし寺の無事建立を祈願して神社を建てるといった民衆への配慮も必要になります。江戸期までは天皇は神道よりもむしろ仏教を重んじていたと言えるでしょう。京には寺ばかりありますし、伊勢神宮に天皇が自ら参拝することは滅多に無かった事実からも伺われます。

 

 これは否定も肯定も証明しようがありませんが、鬼塚氏によると明治維新により、孝明天皇、皇太子睦仁は暗殺され、南朝由来ということにして長州の田舎から大室寅之助なる若者を明治天皇として据え、天皇は神であるという専制君主の地位を一神教的神道、つまり天皇教を作ることによって近代日本が作られていったということになります。この一神教という精神的支配構造を作るにあたっては、明治4年に米欧を1年かけて視察した岩倉具視を始めとする「遣欧使節団」の記録が欠かせないと説明されます。遣欧使節団が見た「一神教の狂気」が民をまとめ、強国を作るうえで欠かせないのではないかと。

 キリスト教の根本にあるのは「動物の肉を食する事、異種の民族に取り囲まれて暮らす」ことから来る歴史に基づく病理現象であり、この病理現象が「罪の意識と贖罪感」を生み、神を創造し、その神が罪の意識と贖罪感を持たぬ者、すなはち原罪を知らない者を「下等」とした。キリスト教的文明とは、原罪を知らぬ下等人間、下等動物は皆殺しにしてもよいとする文明である、と説明されます。この説明は2千年来現在も中東で行われている全ての戦争、アメリカ原住民の虐殺、アフリカの奴隷貿易をも見事に説明しています。そして日本への原爆投下の説明にもなります。

 戦国大名たちがイエズス会の宣教師たちから火薬の硝石と引き換えに多くの日本人を奴隷として売り払っていた事は「天正少年使節団」の報告書にも「行く先々で見かける南蛮船で奴隷として売られた50万人もの日本の娘たちがあはれである」と記載され、アフリカの黒人を奴隷として送り出した海岸が黄金海岸と呼ばれたのに対して、イエズス会師達は日本の女性達を奴隷として送り出した海岸を白銀海岸と呼んだと記録されていることからも明らかです。それもこれも「下等人間」は人として扱わなくて良いという一神教の思想に基づいていることは明らかです(本書第9章)。これを行っていたのは宣教師達なのですから。この実体を知った秀吉、後に家康らがキリスト教を禁教とし、鎖国をして貿易を幕府直轄のごく一部に限定したことはまさに慧眼といわざるを得ません。

 

 明治政府は狂気の一神教を神道に当てはめて、天皇教を作り上げ、天皇は現人神という扱いになります。しかし終戦により天皇は現人神から「日本の象徴」に変わります。マッカーサーは一神教である天皇教の代わりに同じく一神教であるキリスト教を日本の国教にするため、皇室をキリスト者にする、日本全体をキリスト教国家にする計画を立て、米国も占領政策としてその計画を認めていたというのがこの本の主旨です。結果的には神道は前々からブログで記しているように多神教であり、形がない事が神道の真髄であり、日本人のDNAに深く根付いているものであったから日本にはクリスマスは根付いてもキリスト教が根付くことはありませんでした。またマッカーサーと米国の試みは朝鮮戦争の勃発による日本を共産主義の防波堤にする、という反動化推進により断念され、マッカーサーは朝鮮戦争の司令官として日本を去ることになります。マッカーサーは日本占領期においてキリスト教を布教した東洋のパウロを本気で目指していたとされますが、本書のキャッチフレーズ「日本版ダ・ヴィンチ・コード」という文句もあながち外れではないように思います。改憲、平成天皇譲位、象徴天皇のありかたといった問題を考える上で一読に値する本と思いました。

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歪んだ「殺しのライセンス」

2017-12-27 19:31:11 | 書評

・ かつてCIAは純粋な情報機関であった

 

「殺しのライセンス」というのは1989年の007の映画で邦題は1965年に別の映画で使われてしまったので「消されたライセンス」となっています。本来情報機関に働くスパイは自己防衛以外で相手を殺す事は許されていません。この映画では個人的な復習という内容でLicense to Killという題名が付けられたと思われます。しかし現在米国のCIAは国外においてやりたい放題人殺しをしているという認識が広がっています。

「我々が暗殺部隊を必要としないことは確かです。彼らは世界中で手柄を立てようと計画を練り、勲章を、そして本音では昇進を勝ち取りたいだけです。これではまるで自作自演です。」1976年フランク・チャーチ上院議員はCIAによる勝手な国外における要人暗殺を戒め、情報機関は情報収集に徹してその情報を活用、判断するのは別の行政機関に任せるようCIAから「殺しのライセンス」を取り上げました。1990年代に東西冷戦が終了すると、CIAによる情報収集の任務の重要性が低下し、予算と組織の縮小でCIAの存続意義が問われるようになります。しかし2001年9月11日の連続テロ事件を境にCIAが息を吹き返す事になります。9.11を防げなかったことでCIAの信用は失墜していたのですが、当時のブッシュ大統領はCIAに地球規模の人間狩りという任務を与え、再び「殺しのライセンス」を情報機関に与える決定をしたのです。

 

映画Good Kill(2014年、アンドリュー・ニコル監督、邦題ドローンオブウオー)においてドローンを操縦する米軍兵士に電話で攻撃命令を与えるCIA職員が描かれていますが、まさにこれが情報機関に与えられた殺人許可証と言える物です。

 

米国には表に示すように大きくは5つの情報機関があります。911後DHSの下に全てをまとめる動きがあったようですが各省の利害がまとまらず、結局緩い協力体制の下現在の態勢になっているようです。そのような中でも明確な殺しのライセンスを持っているのはCIAだけと思われます。

 

・ テロとの戦争におけるCIAの位置づけ

 

軍隊というのは、国際紛争においてある政治的な目的を達するために「相手国の軍隊に対して」限定的に使われるのが本来の使われ方であり、図に示すようにその指揮系統もその目的を達するために機能的に作られたものになっています(現在の自衛隊を含む西側諸国の陸軍組織図)。しかし国家をバッックボーンとしないテロリストの殲滅を目的に非限定的(相手国の治安、経済、政治の全てに渡りコントロールするために期限を設定せずに軍隊を使う)に行われている現在のテロとの戦争で軍隊がうまく機能しないことは以前から私が指摘してきた通りです。そしてテロとの戦争のための教本がやっとできたのが後のCIA長官で醜聞問題(本当の解任理由は別にありそう)で解任された当時の米軍司令官D.ペトレイアス氏が2006年にまとめたCOINです。軍人は基本的に個人の判断で敵を攻撃して良いかどうかの決断はできません。3部の決めた作戦に従って行動しなければ「国家の戦争目的を達成する軍」として役に立たず、デタラメな内容になってしまうからです。しかし「テロとの戦争」では目の前の民間人の格好をした相手国の国民がテロリストかどうかを兵士個人が瞬時に判断をして引き金を引く事を要求されます。基本的にこれは武装警察の仕事と言えます。しかし現実には情報機関であるCIAが(情報を上げて判断は軍司令官に任せる事をせず)引き金を引く命令を下す役割をしているのです。組織図で言えば、2部長が幕僚長や司令官を無視して勝手に実行部隊に指令を出しているのですからもうめちゃくちゃです。ドローンによる攻撃の8割はテロリストと関係ない人が殺されているという報告もあります。いかに殺しのライセンスが好い加減で人権も人道も無視した戦争犯罪であるか明らかなのですが、これを正面切って責任追及する動きは残念ながらありません。

 

 

・   トランプ政権におけるペンタゴンの巻き返し

 

「CIAの秘密戦争」(原題 The Way of the Knife)マーク・マゼッティ著 ハヤカワ文庫NF504 2017年刊は2013年に出されて米国で大反響を呼んだ著作の翻訳本です。本書では落ち目であったCIAが9.11後にどのように息を吹き返して戦後最大の世界一の情報組織として君臨するに至ったか、2013年においてまさに我が世の春を謳歌している(いびつな)様を、秘密情報も含む深く掘り下げた取材から明らかにしています。その詳細は書きませんが、米軍をしのぐ勢力を持つに至ったCIAは当然実行部隊である米軍と様々な軋轢を生む結果になります(米国の人気テレビ番組NCIS LAでも米軍とCIAが対立してCIAが米軍に対して陰謀を働くエピソードがあって興味深い=NCISLA season8 #13-15)。

 

現在のトランプ政権における閣僚は殆どが軍出身者で占められています。大統領選挙の際にトランプを支持したのも軍関係者が多数であったことも特徴でした。「CIA・国務省主導のテロとの戦争で血を流して痛い目を見て来た米軍が今巻き返しを計っている」と言う見方は正しいと思われます。具にもつかないロシア疑惑を突きつけられて解任されたマイケル・フリンは国防情報局長時代に「テロとの戦争」のやり方に疑問を呈してオバマに解任された経歴があります。まっとうな軍人であればテロとの戦争における軍の使い方のデタラメさに辟易とするのは当然です。CIAを敵視したフリンがCIAに監視されて嵌められた経緯は容易に想像されます(フリン氏が陰謀論者で根拠のない陰謀論を振りまいたからという報道もあります)。

 

「Drain the swamp」ワシントンに巣食うヘドロのような奴らを干上がらせて追い出し、政治を国民に取り戻そう、というのはトランプが選挙中、そして就任演説において第一に主張した公約です。このことについて全く報道しない日本のメディアはいつまでも国務省の幹部が決まらない(決めない)実体を「トランプが無能だから」と決めつけていますが、違うのです。トランプはCIAも敵視して長官に軍出身のポンペオ氏を当てました。表向きポンペオ氏はCIAの強引なやり方を評価しているようではあります。一方マーク・マゼッティ氏は、今トランプからニューヨーク・タイムズはフェイク・ニュース(実際フェイクニュースの例も)だと攻撃され、逆にトランプ政権を監視する最先鋒として活躍中ということです。バランス感覚としては「良し」でしょう。しかしCIAが非人道的であり、やってきたことが米国民の利益にも反していることはそろそろ明らかなのですから、2009年に拷問はやめなさいとオバマから禁止されていますが、私は「殺しのライセンス」も再度取り上げるべきだろうと思います。

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日独伊三国同盟とは何だったのか(2)

2017-01-02 00:29:31 | 書評

書評 ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟 高川邦子 著 芙蓉書房2015年刊 

第二次大戦中イタリアが降伏し、ドイツの劣勢も明らかになり始めた1943年晩秋、赴任先のハンガリーから天皇に状況報告のため、自らの職と命をかけて帰国した日本人外交官 大久保利隆の主に大戦中の記録を自身の孫にあたる高川邦子氏が種々の一次資料を当たりながらまとめた記録です。ハンガリーという枢軸国でありながらドイツとは異なる立ち位置で第二次大戦を戦った国からみた三国同盟やドイツとの関わりは非常に興味深く、前回の松岡洋右の記録で未解決であった部分の疑問に答える内容もあり、有用な書籍でした。

 

駐ハンガリー行使であった大久保利隆(1895-1988)についてまとめます。

 

氏は軍人一家で父は日露戦争時に「大久保支隊」隊長として奉天の会戦で活躍した家系であり、一高東大時代の同僚には岸信介や大佛次郎がいたということです。外務省に入りベルギー・イタリアや米国の大使館勤務をします。二・二六事件の時には辛くも暗殺を免れた岡田啓介首相を自宅から救出した迫水常久(首相の娘婿)は大久保の甥でもあり、反乱軍を騙して救出する際にも迫水に呼ばれて協力したということです。一方で反乱軍の中にも甥にあたる将校がいて、悲しい思いもしたという、時代を動かす人達というのは狭い世界だと思わせるエピソードです。三国同盟成立時には外務省の条約局第一課長として不本意ながら条約作成に参画し、その功績で松岡洋右からハンガリーおよびユーゴスラヴィア公使に任命されます。開戦後、独ソ線でドイツが苦戦する状況を本国に伝えようとしますが、ドイツ大使の大島浩は、ドイツが不利である状況の報告を許さないため、意を決して自ら帰国して「ドイツは1-2年の内に負ける、それまでに戦争を終わらせないと日本はソ連を含む全世界と戦争をすることになり滅亡する」という報告をするために大戦途中で帰国の許可を得てソ連経由で帰国、外務省初め天皇陛下にも欧州戦の状況について上奏を許されます。帰国後は軽井沢の外務省出張所でスイスなど中立国の大使との折衝を努め、戦後はアルゼンチン大使として戦後復興に尽力して外交官としての努めを終えたとされています。

 

第二次大戦におけるハンガリーの動き

 

ヨーロッパ唯一のアジア系民族の国であり、第一次大戦まではオーストリアハンガリー二重帝国として栄えていたものの、敗戦による「トリアノン条約」で領土の2/3を失い、小国となった上に共産党政権になって恐怖政治が敷かれていたのを旧体制に戻したのが海軍提督「ホルテイ」です。ホルテイはテレキやベトレンといった部下を首相につけて何とか国家を安定させるのですが、ハンガリーの領土を取ったルーマニア、ユーゴ、スロバキアなどとは敵対関係になります。それが後にドイツとの連携を結ぶきっかけになります。ドイツは進駐したチェコやルーマニアの一部をハンガリーに帰属させて領土を戻すことで恩を売って枢軸国参加に慎重であったハンガリーを参戦させます。基本的に衛星国の優等生ルーマニアもハンガリーもソ連には恨みがないので独ソ戦に気合いが入っていなかったことは否めません。スターリングラードの攻防戦も気合いの入らない枢軸衛星国の陣地をソ連が集中突破することで戦争の帰趨が変わって枢軸側の敗戦に繫がって行くのですが、ハンガリーも1944年8月にルーマニアが政変で連合国側に付いてハンガリーに宣戦布告45年2月にブタペストが陥落して降伏します。戦後は東側陣営に組み込まれて領土もトリアノン条約どおりの小国のまま現在に至ります。

 

何故ヒトラーは日独伊三国同盟を締結したのか

 

統一した戦略を持つでもなく、戦争遂行に役に立たない三国同盟を何故ヒトラーが締結したのかが謎であると前回のブログでも書きましたが、同書によると明確に書かれてはいませんが、松岡がドイツでヒトラーと会談した帰路にモスクワで「日ソ中立条約」を締結した際、ドイツ外相リッペントロップは大層困惑し、ヒトラーは激昂し、駐独大使でドイツの意図を一番理解していた大島浩は「全然解っていない」と激怒した、とあるようにドイツとしては独ソ開戦に際して東から日本がソ連に攻め込むことを期待していたと考えるべきだと思われます。しかし1936年に日独伊防共協定を結んでおきながら1939年にノモンハンで日本がソ連と死闘を繰り広げているにもかかわらず同年8月に突然独ソ不可侵条約を結んでしまい、当時の平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」という有名な言葉を残して総辞職してしまうのですから、ドイツも日本の内情には無頓着で根回しも何も無く身勝手な外交を行っていたことは確かです。

 

何故ヒトラーは日米開戦を阻止しなかったのか。

 

1941年12月3日、日本は日米開戦に先立ってドイツ、イタリアに対して「日本と米英が開戦した場合に、独伊も宣戦して単独講和は結ばない」とする単独不講和協定を申し入れた、とあります。ムッソリーニは堀切大使の申し入れを即座に了解しつつも、正式にはドイツの了解を得てからという答え。ヒトラーは前線に視察に行って不在であったものの基本反対であり、外相のリッペントロップが「日本の英米開戦は英米の注意をアジアにそらす事になり、ドイツ軍の士気向上に貢献する」と言う詭弁とも言えるとりなしで渋々承諾、開戦後の12月11日にベルリンで署名したという経緯です。それでも本音は「ドイツが日本を助ければ日本もドイツを助けてソ連に宣戦布告するはず」という、独ソ線で苦戦している状況からの日本への期待がベースにあったことが本書に示されています。

 

「同床異夢」であった日独

 

前回のブログで記したように、日本は日独伊三国同盟に米国との戦争阻止、ソ連との共闘という夢を託したのに対して、ドイツはソ連を東西から挟み撃ちすることを期待していたことが解ります。つまり日独は「同床異夢」で同盟を結んでいたことになります。これはもっと高校の教科書などで強調されて教育されても良い事ではないでしょうか。日本は終戦間際においても中立条約を結んでいるソ連に対して米英との終戦の仲介を期待していた事実(1945年6月22日、東京では最高戦争指導者会議が開催され、鈴木貫太郎首相が4月から検討して来たソ連仲介和平案を国策として正式に決め、近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣する計画が具体化した。)があります。

 

国際条約においてこの同床異夢ほど厄介で後々取り返しのつかない禍根を生むものはありません。どうやら雲散霧消しそうですが政府がろくな説明も検討もなく締結したTPPは日米の思惑は一致していたと言えるでしょうか。他にも日本が勝手に良いように解釈している国際条約は本当にないのか、日本の国益を十分に叶えるものとして締結したものなのか心配になります。

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日独伊三国同盟とは何だったのか

2016-12-13 19:20:50 | 書評

書評「欺かれた歴史」松岡洋右と三国同盟の裏面 斉藤良衛 著 中公文庫2012年刊

 

学校の歴史で習う日独伊三国同盟とは、多くの人達にとって第二次大戦における民主主義連合国家に対抗するファシズム枢軸国家群としての「悪の同盟」というイメージしかないと思います。実際戦後秩序は正義の戦勝国が悪の枢軸を駆逐したことによって確立したことになっていて、米国もソ連、中共もそれぞれ「正義の国」として世界秩序構築にあたることになっており、この正義の国々は原爆を保持しても良いことに一応なっています。

 

「そんな阿呆な」と現在の人達は思うかもしれませんが(教科書通りをそのまま信じている人達も沢山いますけど)、1970年代くらいまではけっこうこの歴史観は盤石のものとして世界を支配していました。私は「何故日本は第二次大戦を起こしてしまったのか」について種々検討することを一つの課題としてブログを書いていますが、本来「米国との戦争を避ける事がドイツ第三帝国繁栄の条件」を肝に銘じていたはずのドイツが何故日米開戦を断固として止めなかったのか、という疑問が昔からありました。また三国同盟は悪の枢軸として有名ではありますが、実質的に三国にどのような利益があったのか、というのも疑問でした。欧州戦線でドイツと共に戦ったのはオーストリア、スロバキア、ルーマニア、フィンランド、ヴィシーフランスなどの同盟国であって、日本はドイツにとってアメリカが戦争に参加して来たという最悪の結果以外何の影響も与えていません。ソ連を挟み撃ちにして東西から同時にソ連に侵攻して初めて日独同盟の意味があったはずです。

 

このような疑問に対して、松岡洋右の右腕として第二次大戦前の外務省において外交の最前線にいた筆者(1880−1956)のレポート(1955年読売新聞社刊行の同名書の再販)は非常に示唆に富むものでした。松岡洋右と言えば三国同盟締結や国際連盟からの脱退における勇姿が有名で、日本を戦争に巻き込んだ戦犯の一人とも言える人間であり、昭和天皇からは嫌われていたとも言われています。ここで松岡洋右の略歴をまとめておきます。

 

松岡洋右 (1880−1946)山口県に生まれる。

13歳で父親の事業失敗に伴い渡米、メソジスト派の洗礼を受けてキリスト教徒になる。苦学してオレゴン大学法学部を1900年(20歳)で卒業、22歳で健康問題などで帰国してから明治大学法学部に通いながら東大を目指している間に外交官試験に合格して外交官になる。欧州勤務などを経て1921年、41歳で外務省を退官して南満州鉄道理事、衆議院議員に転身。

1931年満州事変の後、1932年12月の国際連盟ジュネーブ特別総会で日本の全権代表として出席。本来その英語力を買われての出席だったものの、翌1933年2月のリットン調査団に体する報告書で日本が批難されると松岡は連盟を脱退して退場する有名なシーンの立役者となる。(松岡が独断で決めた訳ではない)

議員辞職して再び満鉄総裁として勤務していたが、1940年の近衛内閣の際に外務大臣に任命され、そこで三国同盟締結のために奔走することになります。戦後はA級戦犯として起訴されるも東京裁判の結審を待たずに結核のため没となっています。

 

略歴は上記の通りですが、基本的にどのような人物で思想であったかをまとめると、天才肌、自己主張と自己顕示、人の言う事は聞かない、親米、反共、基本は平和主義、となります。良い外交官、良い政治家とは人の言う事を聴く耳を持つ、柔軟といった事が基本条件になりますが、松岡が正反対であったことがせっかくの親米や平和主義が活かされず、日本を戦争に導く先導役を果たす結果になります。

 

以下三国同盟の屈折した経緯について、この本を参考に日独両方の時代背景や思惑からまとめます。

 

1939年1月ドイツが日独伊三国同盟を提案

日本は1937年7月7日の盧溝橋事件から発する日華事変が終結せず、1938年には国家総動員法を発令、米欧から一層孤立する状況が作られていました。

ドイツにとっては1938年オーストリア併合、ミュンヘン会談でスデーデン地方を英仏の了解を得て併合したものの、欧州の領土と帝国の拡張を望むドイツとしては日本がアジアにおける列強の牽制を希望していたようです。

 

1940年(昭和15年)7月第二次近衛内閣で松岡洋右が外相就任、9月には日独伊三国同盟がベルリンで調印されます。紀元二千六百年に国内は沸き立っており、民政党の斎藤隆夫氏が衆院で有名な戦争批判の演説をするも除名処分になるなど、軍部が幅をきかせて勇ましい言質が優先される時代であり、平和への志向を表立ってしにくい時代でもありました。

 

松岡の本音は日米戦争の回避であり、自分が国際連盟から脱退を宣言した経緯からも何とか日中戦争を終わらせて平和を取り戻したいという祈念があったようです。それがソ連を巻き込んだ日独伊ソ四国同盟構想につながります。

ドイツは1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶと、9月に独ソで協同してポーランドに侵攻、東西で分け合うという暴挙に出て第二次大戦が始まります。しかし英仏はドイツにのみ宣戦布告をして、ソ連にはしません。ソ連はバルト三国や11月にはフィンランドにも侵攻してゆきます(失敗しますが)。

1940年にはドイツはデンマーク、ノルウエー、オランダ、ベルギーを占領、6月にはパリに無血入場を果たし、破竹の勢いを見せます。

 

松岡を除く日本の軍部は三国同盟を「バスに乗り遅れるな」とばかりにドイツの勢いに乗る事を目指していたのであり、ドイツの日本への期待は列強のアジアにおける陣地、シンガポールなどの攻略にあったとドイツ代表であるスターマーの記録などから読み取れます。独ソが1939年にポーランド侵攻をするに当たり、8月には独ソ不可侵条約を締結しており、松岡としては独ソの良好な関係を軸に日本もその仲間入りをさせてもらう事を狙っていた事は明らかです。

 

1941年(昭和16年)は開戦の年ですが、

日本への圧力を高める米国に対して、何とか対米融和を計りたい松岡は活発な動きを見せます。2月には大本営が松岡の4国同盟の案を了解し、野村大使を米国に送ってルーズベルトと会談をさせます。3月には松岡がモスクワでスターリンと会談、その足でドイツにも行き、ヒトラーとも会談します。しかしどうも独ソの雲行きが怪しいと見ると帰途再びモスクワに寄って4月13日日ソ中立条約を調印してしまいます。つまりドイツに任せていてはソ連と融和できないと踏んだのです。

案の定、ドイツは6月に前年に結んだ不可侵条約を破ってバルバロッサ作戦を発動、独ソ戦が開幕します。

 

ここで日独伊三国同盟が普通の軍事同盟であれば、日本は自動的にソ連との戦争が始まり、ソ連は東西からの侵略に備えなければならなくなります。しかし、日本(少なくとも松岡は)はあくまで対米戦争を避けるためにソ連に味方になってもらう必要から三国同盟を締結したのです。だから条約には「いずれかの国が侵略を受けた場合に戦争に加担する義務はあっても一方が他国を侵略しても一緒に侵略する義務はない」という内容になっていました。ドイツはソ連を一方的に侵略したのであって日本が一緒に侵略する義理はないという結論です。

 

それでも6月には関東軍が関東軍特別演習を行ってソ連侵攻の構えを見せます。しかし有名なゾルゲの諜報によって、日本のソ連侵攻の意図がないことがソ連に知られると、シベリアに置かれていたソ連の部隊が引き上げられて一斉に欧州に投入され、最終的にはドイツの敗北に繫がって行くのです。

 

日本にとって1940年9月に結んだ日独伊三国同盟は1941年の6月独ソ戦開始を持って意味のないものになった訳です。ドイツにとっても独ソ戦で東側から全力でソ連に侵攻して来ないならば三国同盟など無意味だったと言えるでしょう。もともとヒトラーは日本を重視してなどいなかったと言います。むしろ中国国民党政権に軍事顧問団や武器を送って戦争指導をしていたのが実体で、三国同盟締結を契機に引き上げたという経緯があります。

 

日本の戦争指導がヒトラーのような独裁者によってなされていたのであれば、ここで日独伊三国同盟は解消して新たな対米融和の策を練る事になるのでしょうが、「慌てて乗ったバス」から降りようなどと言う者は一人も居らず、ドイツの欧州席巻によって主のいなくなった南部仏印に日本は7月進駐開始します。これに怒った米国は8月1日日本への石油輸出を禁止します。

 

これで日本は追いつめられ、9月の御前会議で対英米戦を決意し、真珠湾奇襲作戦の準備が始められて行きます。アメリカは12月8日の日米開戦を機にドイツとも開戦しますが、これは三国同盟を通常の軍事同盟と見なしていたからに他ならないと思われます。結局日独伊三国同盟はソ連にとっては日本の対ソ参戦を避けるきっかけとなり、米国にとっては1941年8月に英国への戦争援助を決めた大西洋憲章を一歩進めたドイツとの開戦の口実となり、英国は滅亡の危機から救われることになり、中国にとっても米英を味方につける機会を与えたことになり、連合国にとってのみ都合の良い軍事同盟であったと言えるでしょう。

 

計算高いヒトラーが益のない三国同盟を何故締結したのかは謎です。また日本の対米開戦を何故阻止しなかったのかも不明です。強いて挙げるならば、信用しがたいスターリンを煙に巻くためのおとりのような扱いとして考えていた可能性はあります。

松岡は戦後「三国同盟は僕一生の失敗である。これでは死んでも死にきれない。」といって筆者の前で号泣したと書かれています。号泣されても三百万の英霊と犠牲者は帰ってきません。その優秀な頭脳と語学力をもっと柔軟な姿勢と先見性で活かして日本を戦争への道から救えたならば、彼への評価は全く違った物になったであろうにと思います。

 

他にも三国同盟について書かれた本を読書中であり、上記の疑問への答えになるヒントが出て来たらまた報告したいと思います。

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書評「やがて死ぬけしき」

2016-10-31 23:25:12 | 書評

書評「やがて死ぬけしき」 玄侑宗久著 サンガ新書2016年刊

 

「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」 という芭蕉の句からヒントを得て付けられた題名で、商品化される墓や葬儀、大震災と死、がん治療や新薬の登場まで、現代の死の様相を考えるとともに、いろは歌や高僧の言葉に耳を傾けながら、日本人の死生観の変遷を辿る。芥川賞作家の禅僧が語る、安心して死ぬための心構えと、さわやかに生き直す秘訣!・・というのが商品に付けられた説明でその通りなのですが、やはり死をいうものを意識して生きる大切さ、特にがんになった時に考えるべき「死」の様相を解りやすく示唆した(説明したとは言いがたいので)優れた内容の本だと思いました。

 

種々の示唆に富む話、送り経としての「いろは歌」から震災後に被災地で見られた怪談話までエッセイを集めたような形で特に形式張らずに集めた内容なのですが、医師として特に印象に残ったのは、がんの終末期と題名である「やがて死ぬけしき」の句を掛け合わせて説明した所でしょうか。「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」という芭蕉の句は様々な解釈があります。蝉はもうすぐ死んでしまう短い命なのに能天気に無邪気に鳴き騒ぐものだ、という軽卒をたしなめるような解釈もあり、鈴木大拙氏のように小さく短い命であっても十の力を出し切って生きる蝉こそ偉いのである、と讃える解釈もあります。玄侑宗久氏は蝉の人生の大半は地中にある、世に出る蝉の姿は長い蝉としての人生の終末期であって人生としては変態を遂げた別のステージであり「やがて死ぬけしき」なのだ(ということを意識して蝉の声を聞いてはいないが)という感嘆であると説明しています。私もこの解釈が良いように思います。

 

今までの長い人生は別の所にあって、人生の終末期は別のステージとして「やがて死ぬけしき」として存在するという考え方は、人間で言えば「がんの末期」や「老いで寝たきり」米澤 慧氏の表現を借りると「老揺(たゆたい)期」という事になるのではないかと思います。人間の場合は蝉のように長い臥薪嘗胆の末に繁殖のために花開く時という訳ではありませんが、人生の終末期とは「やがて死ぬけしき」として死を意識しながら人生の別のステージとして過ごす大事な時ではないか、という考え方は共感できます。日本人の死生観として、死を「新たな旅立ち」「誰もが知るあの世への帰還」と捉える事が大切であり、むやみに死を「恐怖」とのみ捉えることから開放される準備をするのは意味のあることだと思います。その中で宗教の役割、今話題の臨床宗教師の意義といった事も説明されます。

 

私の病院は地域の「がん拠点病院」に指定されています。私も「がん拠点病院」の内部委員として診療内容の充実に向けて会議に出席もするのですが、現在の急性期病棟のみで緩和病棟がない状態ではどうしても「治療できるがん」をベルトコンベア式に次々と治療してゆくのみで、終末期の患者さんをじっくりと看て行くことができないジレンマがあります。患者さんの立場にしてみると、早期癌から進行癌になって末期になるまで同じ一人の人間として存在するのですから、進行癌から末期になった所で当院では診れないので別の施設に移って下さいと言われても簡単に気持ちの切り替えができるものではないと思います。結局急性期病棟の中で次々と退院してゆく患者さんの中で末期の方も診るという結果になってしまうのですが、できれば同じ施設の中で自然な感じで急性期病棟から緩和病棟に移動して、最期は畳の上(自宅で)で迎えることができれば最高なのではないかと常々思います。

 

本書の内容から印象に残る話として、死が近い人が「亡くなった近親者の迎え」を感ずるのは自宅の場合の方が多い、という話が紹介されていて、「近親者の迎え」を感ずる人の方が安らかな死を迎えることができると言われています。「近親者の迎え」は日本だけでなく、アメリカのテレビドラマでも撃たれて死ぬ間際の人が亡くなった父親が自分を迎えに来ていると横で手を握る同僚に話すシーンがあり(NCISであった)、万国共通なのだと思います。また迎えに来るのは必ず死んだ人であること(小児であっても生きている親ではなく、必ず亡くなった肉親に限られる)が科学的に確かめられていて、人間にとって死の持つ意味や死後の世界というものの共通認識につながっていると考えられているようです。

 

一生懸命早期癌、進行癌を治療してきた医師ほど、ある程度の年齢を迎えると終末期医療や看取りをしっかりやりたいと考えるようになってホスピス医療を行う場合が多いのですが、私もそのような時期に来ているのかもしれないと少し感じています。

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書評 日本が中国の属国にさせられる日

2016-08-19 17:30:54 | 書評

書評 日本が中国の属国にさせられる日 副島隆彦 著 2016年刊 KKベストセラーズ

やや衝撃的で挑戦的な題名の本で、販売戦略上ある程度キャッチーなタイトルにせざるを得ない点があったことは前書きにも書いてあるのですが、内容は今までの氏の著作とは少し趣が変わったと思われる内容でした。通常ブログで書いている書評(といっても本の紹介までゆかない単なる感想ですが)の形式ではなくて、直に著者である副島氏に送った感想文を記します。有難い事にすぐに直接著者である副島氏からメールによる返事をいただきました。概ね私の受け止めかたは著者の意図に反していないと言っていただけました。

 

著者 副島隆彦 氏に送った感想

 

 いつも示唆に富むご教示をありがとうございます。今回先生の力作「日本が中国の属国にさせられる日」を拝読し、「今までの先生の切り口と少し違うかな。」と率直な感じを得ました。それは前書きと6章の終論でも述べておられますが、修辞的内容を排して「本音」を直言することで現在の政界・言論界が20世紀的な観念に未だに執着して現在の状況に適合しきれていない状況に警鐘をならしていると思われた事だと思います。

 

 現在右翼左翼ともに何か未だに1980年代的な「セットになった観念」に捉われていて、現実に対応する上で何を言っているか解らないと思う事がしばしばです。共産中国はすでに毛沢東の時代の中国ではなく、米国と次の覇権を争い、必要があれば(国家戦略上利があれば)外国に対して限定的な武力闘争を仕掛ける事も辞さないというのは本当だと思います。「一体どこの国が日本に責めて来ると言うのです?」みたいな事を言っているようでは話にならないのであって、中国が日本に対して武力を使うことに「利なし」と思わせるにはどう振る舞って行くか、という議論が必要なのだとのご提案と感じました。それは「米国の先陣を切って戦場に突入する準備を整える」ことではないことは勿論ですが、もっと根っこの部分から日本のあり方について思想を持ちなさいということかなと愚考しております。以下先生の御著書を拝読して感じたことをご報告させていただきたく存じます。

 

 まず「中国の属国化」というタイトルは中国嫌いの諸兄への先生一流の注意喚起と思いますが、私なりに感じましたのは、広い意味で「日本は中国の文化経済圏の一部である」という先生の主張だと思います。ユーラシア大陸の西の端には種々の問題が山積していますが、統一通貨のユーロ圏という経済圏があり、今回EUからの離脱を表明しましたが、英国がその文化経済圏の一翼を担っています。そして東の端が中国と日本であり、中国は中央政府の統制がめちゃくちゃ強力なユーロ圏のようなものであり、それが二千年来支配者を変えながら続いてきた。現在は漢民族が主体の共産党という中央政府が仕切っている経済圏であると考えられます。日本は好むと好まざるとにかかわらずこの大きな経済圏の一翼を担っていて今後もその影響を受け続けるということだと思います。

 

 企業の経営者たちには中国嫌い、共産党恐怖症の人達が多いというご指摘はその通りでしょう。しかし1億人の日本人が生活してゆくための経済を動かすには今後とも中国とうまく付き合ってゆかねばならず、国益を考慮すれば大陸経済圏の一部として活動してゆく、もっと積極的にかかわってゆくことも必要になると私も思います。現在米国の対中戦略に取り込まれて日中が対立する構図が作られつつありますが、詰まるところ裏で手を結んだ米中に日本が二分割されるような結末にならないよう注意する必要があります。そのような「まさかという事」を平気でやるのが大国というものだと私も思います。

 

 また理屈だけでよい社会が作れるなどという幻想を抱いている左翼への叱責もまさしく当を得ていると思います。人間は理屈だけでは動きません。理屈で動かない人間を処罰や殺戮で言うことを聞かせてきたのが左翼の歴史です。その事実に真摯に向き合いなさいという先生のご指摘は至言と思いました。

 

 今程リベラルと言われる人達の立ち位置がはっきりしない時代はないと思います。1980年代のようなマルクス主義と反米・市民運動がセットになったような状態は比較的解りやすい状態であったと思いますが、反グローバリズムは突き詰めるとナショナリズムに繫がる可能性があり、親韓・親中も中韓のナショナリズム的右翼思想に利用されるだけという構図が見えている状態で「自分はリベラル」と思っている人達は一体何を主張すれば良いのか呆然としているのではないかと思われます。先生が主張されるようにきちんと左翼の誤りを総括してその上で何を目指すべきかを確立しなさい、というのは非常に重要な事と思います。

 

 ファシズムにならない郷土愛やナショナリズムというのは、米国の伝統的右翼・保守というのが国家統制から徹底的に自由であろうとする「リバータリアリズム」という解りやすい立ち位置である一方、日本の保守が米国では国家の統制を強める左翼的思想に近いというのが日本のリベラルにとって混乱する原因になっているように感じます。国家をバックにしたグローバリズム(コーポラティズム)に対抗する思想的な軸を確立するとともに、1億人が食べて行くにはどうするか、といった現実的な対応を提供できるようなリベラル思想がなければ「良くわからないうちにアジア人同士で戦争をさせられる羽目になる」という状況を打破する事はできないのではないかと先生の著作を読みながら痛感しました。

 

 以上雑駁な感想で恐縮ですが、今後とも先生のご活躍、ご教示宜しく御願いいたします。            Rakitarou   拝

 

以下 副島隆彦 氏からの返事

 

拙本 「日本が中国の属国にさせられる日 」をお読みいただき、丁寧な感想をお書きくださりありがとうございます。  正確に 私の考えを理解してくださいまして、心から嬉しく思います。

このように 私は、日本の 右、左 の両方を、結果として敵に回す(ほどではなくて、さらに無視される)ことになります。  私の先生たちが、そういう人たちでした。

そのために 勢力としての 彼らの仲間に入ることが、どうしても出来ません。

言論人として、影響力を持てないままで、生きてゆくのは、大変です。

これも自分の運命と、今では、すっかり諦めています。 諦(あきら)めるとは、何が事実かを明らかにする、ということだと、ずっと考えて生きてきました。

 

私にとっては、この本は、見抜いていただいたとおり、かなりの決断の末の 大きな態度変更の本です。日本共産党系の私の、数少ない、しかし、私から情報を取っていた人たちが、早くも、離反しました。 彼らは、やはり 古臭い左翼です。過去の栄光も、自分たちの先人たちの業績さえも、はっきりと確認できない人たちだ。

嫌われてもかまわない、という生き方を、私は、これからも、死ぬまで続けるのでしょう。

丁寧な読後感想をありがとうございます。重ねてお礼を申し上げます。

副島隆彦拝

 

 私は読んで強い印象を受けた本は、著者に出版社経由で感想を送ったりすることもたびたびあるのですが、きちんと返事を返して下さる著者の方も多く、有難いと思います。副島氏は10数年前に初めて読んだ経済本で強い衝撃を受けて感想を送った時も丁寧に封書で返書いただき、普段はべらんめい調ですが、非常に読者を大切にしている方だと以来尊敬しています。その点、「内田 樹」氏は著作の内容は非常に納得できるのですが、感想を送っても「なんで自分の知らない人の書いた文を読まされないといけないの?」などとツイートされてしまうので、不特定多数へ情報発信をしているプロの言葉と思えず興ざめでした。

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書評「憲法改正の真実」

2016-04-16 15:43:52 | 書評

書評「憲法改正の真実」小林 節、樋口陽一 著 集英社新書0826A 2016年刊

 

集団的自衛権を日本が発動する事を合憲と解釈した上での立法について、参考人として国会に招聘され、招聘した自民党の意に反して「違憲」を明言した「改憲派」の憲法学者の小林 節氏と古くから護憲派の重鎮として有名な憲法学者の樋口陽一氏の対論形式で、現在の自民党政権が行いつつある立法の異常性、新たに定めようとしている憲法の異色性について明快に論じた解説書です。

 

「集団的自衛権に反対している人達は平和ボケの左翼でしょ」「本の内容もそんな感じでしょ」というレベルの人達には何を言っても無駄と思いますが、私には現在進行している議論や自民党が示す新たな憲法案とされるものの異常性について、普段感じているもやもやしたものを整理して説明してもらったような内容でした。本の表現とは異なりますが、内容を要約すると以下のようになると思います。

 

1)          閣議で憲法解釈を変更してよいという認識は著しいコンプライアンスの欠如である。(法的根拠がない、しかもその事に誰も異議を唱えないという異常)

2)          解釈を変えれば何をしても良いという考えは立憲主義、法の支配(rule of law)に反する。

3)          自民党の憲法草案は改憲ではなく新たな憲法の制定である。

4)          自民党の憲法草案は西欧諸国の常識とされる立憲主義を否定し、国のあり方を大和朝廷の時代にまで遡らせようとするに近い。

5)          憲法制定権力(新たな憲法を制定する権力)の基本は革命政権である。従ってそれを試みる安部政権は革命勢力とみなされる。

6)          憲法も人と同様「出自」にこだわるのではなく、「社会に何をなしたか」で評価されなければならない。

 

1については以前から私が主張している内容と同じですが、国民にはコンプライアンスの遵守を強制しておきながら、政府、政権党がこれを軽視するというのは「あはれ」さえ感ずる知能の低さです。法は所詮人の作ったものであり、完璧ではありません。現実に照らして国家国民の存立にかかわる事態において「法を破らねばならない」場合があることは認めますし、それを決断するのが政治であると思います。しかしその場合には「これからこれこれの状況に対応するために止む無く法を破ります。その責任は事態が収拾したら必ず取ります」と宣言してから行うのが為政者たる者の姿です。それが納得のゆくものであれば国民は違法であっても従います。現政権にはそういった「自己への厳しさ」が著しく欠けている。あるのは政権の延命ばかり、それだけで国家を預けるに足る資質に欠けていると私は思います。

 

2は法律学の基本であり、理系の私でも理解できている問題なので記するまでもありません。

 

3について、憲法改正と新憲法制定は全く別の事態であるという認識を今回新たにしました。憲法改正とは、国のあり方についての基本は変えず、現実に合わなくなった一部の文言などを時代に合わせて変えることを意味します。無謬の不磨の大典は一言一句変えるべからずなどということはありえない。その意味で小林 節氏の改憲容認の姿勢は私と同意見と思いますし、9条についても自衛隊の存在を自然権としての個別的自衛権発現の手段として明記することは日本国憲法をよりよくする意味でOKと思います。集団的も個別的と同じ自衛権だという議論が間違いであることについては別の本(亡国の集団的自衛権 集英社新書0774A 柳沢協二著) で十分解説されているのでここでは割愛します。

 

新憲法の制定とは国家の作り変えを意味します。明治維新(革命)、昭和敗戦(革命)によって日本国の憲法は新しくなり、国家の基本的な概念が変更されました。明治維新では徳川幕府による封建体制から近代西欧の立憲君主国になるべく国家のあり方が変更になり、主権者は天皇でしたが、憲法に基づいて法が作られ、それに従って政治が行われることが徹底されました。本でも紹介されていますが、伊藤博文が帝国憲法制定会議において「そもそも憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」と明言しているように、本来明治の元勲たちは新日本を作るにあたって天皇の地位を玉として利用しただけであり、「天皇機関説」としての国を治める上での役割を与えたに過ぎないというのが真実だろうと考えます。戦前の一時期天皇が神として祭り上げられ、天皇の権威を持ち出せば誰も反論さえできないなどという時代は日本国の姿としては一過性のものでしかも誤りであり、日本は天皇を中心とした神の国などという概念は「戦前お花畑幻想派」のノスタルジー的な夢に過ぎないといえます。

本来明治期における日本の姿はもっと西欧的民権主義の躍動感に満ちたものであったというのが真実です。憲法の存在する意味は、「憲法は国民からの国家権力への命令である」という小室直樹氏の本のタイトルの通りです。そして明治憲法においても基本はここにあったのであり、国民のあり方を憲法で規定するという自民党の改憲案は明治憲法すら否定して大和朝廷の時代に遡るほど時代錯誤した不勉強極まりない内容の物という事がわかります。

 

自民党にもかつては世界のインテリ達に引けをとらない知性のある勉強家が多く存在したと思いますが、小選挙区制となり党の公認を得ればサルが服を着ているような馬鹿でも国会議員になれるようになり、地方議員を含めて「ろくな奴が議員になっていない」ことは最近の低レベルのスキャンダルを見ても明らかです。仕事柄地方の各政党の議員後援会長などと話す機会もあるのですが、「議員となる人の人材の劣化」は目を覆うばかりであると後援会の人達でさえ嘆いているのが事実です。あとの望みは優秀な国家官僚達が天下国家を思考し、国益と国民を守るために奮闘してくれることを望むしかないということでしょうか。省の壁を越えて彼らが結託し、愚かな政治家達の暴走を防いでくれることを望むばかりです。

 

6の日本国憲法の評価ですが、この言葉は私も学生時代に憲法学の本を買って勉強したことがある憲法学者の宮沢俊義氏が1957年に「憲法の正当性ということ」という論文で述べたと本書で紹介されているのですが、これは戦後70年経過した現在でも全く正当な評価だと私も思います。法学の基本も理解していないような人達が薦める新憲法など出自を問題にするならば初手から失格と言えます。まずは本当に改定しないといけない字句の有無を丁寧に精査した上で時間をかけて変えてゆくのが憲法改正の本来の姿といえます。

 

そんな事を言っても「急迫する世界情勢が」という意見もあると思います。その急迫する世界情勢と言われている物の特に軍事的な面(中国軍の動向など)について、別の本で検討しているのですが、どうも元自衛官の私からみて、その認識も随分一方的で怪しい議論のように見えますので、その件については後日解説したいと思います。

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書評 ミシマの警告

2016-01-20 00:09:14 | 書評

書評 ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒 適菜 収著 講談社+α文庫2015年刊

 

早稲田大学でニーチェを専攻した哲学者の適菜収氏が市ヶ谷の自衛隊司令部で自刃した文学者三島由紀夫の思想を紹介しつつ、真の保守とは何かを解説し、一方で保守を自任しながら日本のためになっておらず、日本を破壊するB層保守の姿を舌鋒鋭く批判した著作です。私は三島由紀夫は「楯の会」などで制服にみを包んだ危ない同性愛的な右翼で、自衛隊員に決起を促して自刃した経緯(たまたま家で風邪をひいて休んでいた時にテレビで中継を見た記憶があります)からあまり深入りしたくない存在と誤解し、思い込んでいたのが正直な所です。若い頃読んだ三島由紀夫の随筆に「桃色の定義」というのがあって、自由がない裸身はエロス(桃色)だ、という説明はなるほどと思った事があります。

 

今回本書で紹介された多くの三島由紀夫の思想に触れて、氏の信奉する保守本流というのが戦前回帰や軍国主義といった皮層なものではなく、私が度々紹介している「理性で社会を決定づけるのが革新であり左翼」「理性に懐疑的で、習慣や古くからの文化で社会を決定づけるのが保守」という定義に忠実であったという事実に氏に対する認識を新たにする思いがありました。

 

私は人をA層とかB層とか決めつけ、批判しやすいステレオタイプの型にはめて評価するのはあまり好きではありません。人間全ての分野において深い思索と独自の判断力において物事を判断することなど不可能だからです。政治の分野でよく使われるB層とかC層という色分けは2005年の小泉郵政選挙において自民党が「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略案」を広告会社に作らせた企画書に出てくる概念として有名になりました。国民をABCDの各層に分類して、「構造改革に肯定的でかつIQが低い(自分で事の全悪を深く思索せずにテレビ・マスメディアや政府が言った事を鵜呑みにする低レベルの人達)国民」としてB層という概念を儲け、最も日本国民に多い層として劇場型の政治を行えば支持が得られる「構造改革に賛成か反対か」といった単純なフレーズを繰り返す事で支持を得る戦略を取り、結果的に思惑通り大勝利を収めました。そういった事実からはB層をターゲットにした政治戦略というのは特に日本のような国家においては有効なのだなと確かに思います。

私のまわりには集団的自衛権に賛成する人が多いし、アベノミクスを有効だと思っている人、TPPが危険だと感じない人、世界で起こっている事態において、米国は善でロシア・中国は悪だと信じている人が多いのが現実です。しかしどうして?と聴くと新聞やテレビでのワンフレーズ的な解説以上の説明ができる人はいません(日常生活で込み入った政治的議論などしないのが普通ではありますが)。こういったものに疑問を感ずることなくメディアや政府の言う事をそのまま信じてしまう人がB層とくくられて、メディア戦略の通りの考えを持つようにしむけられるのでしょう。もっとも集団的自衛権の法案に反対して、SEALSの集会に集まっていた学生達も面倒な長演説よりもワンフレーズの掛け声によく反応したという点では何となくB層的で似ていると思いましたが(それでもじっくり話してみると違う反応だったかもしれませんが)。

 

本書で指摘されていた、「共産主義、自由平等主義、資本主義、グローバリズム、一神教といったものは理性を社会規範の元に据えているという意味で左翼的、革新的であり保守ではない」という主張に私も同感です。小泉郵政改革、安倍政権、橋下大阪都構想といったものは日本を破壊する革命思想であるという批判にも賛成です。本書の終わりの方でニーチェの思想を紹介した部分があるのですが、ニーチェが「神は死んだ」と言った意味は宗教一般を否定したのではないと説明されています。ニーチェはキリスト教の根底にある「反人間的なもの」を批判したのであって民族の神までも否定したのではない、むしろ個々の民族が古来伝えて来た民族の神をキリスト教などの一神教がその全てを否定し去り、教義という理性の押しつけによって民族の神を殺したことを批判しているのであるという件は納得できるものです。

 

プロテスタンティズムの倫理に基づく資本主義が否定され、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が消滅してそれぞれの民族が古来伝えられて来た神を信奉する社会が再現すれば、現在の紛争の多くは解決に向かうかも知れません。

 

今年夏の参議院選挙は既に衆参同時選挙の噂が出ています。衆参同時選挙というのは参議院廃止と同じ思想です。衆議院と参議院、別々の党に投票する人は殆どいないでしょう。だから結局衆参同様な党派割りになって全ての法案が与党の案通りに通る、一院制議会と同じになるということです。こんなバカな話はありません。一院制議会の暴走という苦い経験から欧米の民主国家は二院制という面倒な手続きを歴史的に作って来たのです。参議院不要論、衆参同時戦に意義を唱えないメディア、人達というのは使いたくありませんが、「B層」ということです。為政者から「なんて使いやすい人達」とバカにされていることに気がつかなくてはいけません。これもこの本にはっきりと書いてあり、同感と思いました。

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書評 市民ホスピスへの道

2016-01-17 14:02:55 | 書評

書評 市民ホスピスへの道  山崎章郎、二の坂保喜、米沢 慧 著 春秋社 2015年刊

日本におけるホスピスのあり方について、実践を通して進めてきた医師である山崎章郎氏と二の坂保喜氏、そして高齢者や終末期医療のあり方について研究を進めておられる評論家の米沢慧氏のそれぞれの著作と対談形式でのまとめを示した8部構成になっています。

 

前半は「いのちを受け止める町」と題して、米沢氏の項では長寿高齢社会において、痴呆を含めた高齢者が自由に有意義に過ごせる「場所」をいかに工夫するかが各地における試みとともに解説されています。前回紹介した「宅老所」の話も出てきます。山崎氏の項ではホスピスを25年運営して終末期医療にかかわってきた中で今話題となっている「スピリチュアルペイン」「スピリチュアリティ」にどう向き合うか、そもそもスピリチュアリティとは何なのかを氏の経験と考察を元に解説されています。二の坂氏の項では「医療は在宅へ」という日本および世界の流れにおいて、ホスピスケアを在宅において行うモデルをインド、バングラディシュにおけるコミュニティを中心にしたケアから学ぶことについて解説されています。

 

それぞれについて、普段このような問題に関心がある人にとっては示唆に富む深い内容を持った物と思います。本当は身近な問題になりつつある終末期医療や高齢者の介護の問題も、自分の問題として直面してみないとこれらの話題についてゆくのは困難かもしれず、一般受けする内容の本ではないのはしかたありません。

 

私はこの本を読んでホスピスや高齢者医療についての思索が「技術的或いは制度的」な医療や介護の視点から「生き方や死生観」といったより深い視点に進化してきているように感じました。終末期医療を考える上では生き方や日本人独特の死生観といったものを抜きにして語ることは現実的に不可能であることは日々の臨床の上でも感じることであり、今までのブログで取り上げてきたとおりです。この前半の内容では特に山崎氏が解説するスピリチュアリティについて学ぶところが多いと思いました。一部紹介しますと、

 

人間の苦痛を構成する4つの要素にはキューブラー・ロスが提唱したように

1) 身体的苦痛

2) 社会的苦痛

3) 精神・心理的苦痛

4) スピリチュアルペイン

 

の4つがあるとされています。肉体的苦痛は身体的苦痛であるし、病気によって社会生活から途絶してしまうのは社会的苦痛になります。そして将来への不安や希望の喪失は精神的苦痛といえます。ではスピリチュアルペインとは何か、いままであまり語られていない、或いは良くわからないとされてきました。

しかしWHOの健康の定義にもスピリチュアルに健康であることを入れようという動き(否決されましたが)があったように、世界においてスピリチュアリティは人類が生きてゆくうえで重要な要素になりつつあるのです。

 

スピリチュアルペインとは「看護に生かすスピリチュアルケアの手引き」という本によると

・人生の意味・目的の喪失

・衰弱による活動能力の低下や依存の増大

・自己や人生に対するコントロール感の喪失や不確実性

・家族や周囲への負担

・運命に対する不合理や不公平感

・自己や人生に対する満足感や平安の喪失

・過去の出来事に対する後悔、恥、罪の意識

・孤独、希望のなさ、あるいは死への不安

 

と紹介されています。なんとなくまだ具体的に判りにくいです。所詮英語で表現された抽象的な精神の表現を日本語で適確に示すことに無理があるだろうと言うのが私の意見です。しかし人間である以上喜怒哀楽や生き甲斐についての基本的構成は万国共通であり、「日本ではこのように取り組んでいる」という世界への情報発信も必要であることは確かです。

 

山崎氏はスピリチュアリティについての論考のまとめとして

「スピリチュアリティとは人生の危機的状況のなかでも人間らしく、自分らしく生きるために自分の外の大きなものに拠り所を求めたり、内省を深めることでその状況における、自己の在りようを肯定しようとする力のことである」とし、「スピリチュアルペインとは、スピリチュアリティが適切に力を発揮できなかった結果出現するその状況における自己の在りようを肯定することができない状態から生ずる苦痛であり、人間らしく、自分らしく生きることができない状態からくる苦痛である」と定義しています。

 

これはかなり判りやすいかもしれません。氏は「人間の存在」を構成するのはスピリチュアリティを中心に身体、社会、精神心理がそれを取り囲むようにオーバーラップしながら存在する3重円のようなものであると解説しています。

ここで私は人間存在についての仏教の定義と重なることに気がつきました。前のブログで紹介したように人間の存在は五蘊の集まり、つまり色・受(身体と感覚)、行(行動としての外界への働きかけ)、想(精神・心理)、識(阿頼耶識、価値観)によって形成されるという中で、スピリチュアリティとは正に「識」に相当する部分ではないかということです。

人間を見極めるには論語で言われるように、「その人の行動を見て何を考えているかを見て何に満足するかを見れば良い」というその満足の基になる部分が「識」なのですが、「識」のない人間はある意味魂が抜けた機械のような存在と言えますし、「識」を遮断した生活を強いられれば単に生きているだけの意味のない人生になるでしょう。スピリチュアリティとはこの「識」のことではないかというのがrakitarouとしての解釈です。

 

後半は「ホスピスは運動である」と題されて、二の坂氏は小児ホスピスのあり方から重度障害児施設の経験、英国での小児ホスピスのありかたなどから、ホスピスを特別な隔離場所でなく地域の一部、日常生活の一部にいかになってゆくかの論考をしています。山崎氏は厚労省が進める地域包括ケアシステムと在宅ホスピスをどう整合するかという視点で論考を進めます。そして米沢氏は「市民ホスピスへの道」と題していままでのホスピスの歴史を踏まえた今後の生活に溶け込んだホスピスのあり方について提言をします。

 

「ホスピスは運動である」というフレーズはやや捕らえどころがないように感ずるかも知れません。何か政治的、流行的なムーヴメントとしての「運動」ととらえると敷居が高いもののように感ずるかも知れません。「ホスピスは運動」というフレーズを用いたのは最初に日本にホスピスを紹介した岡村昭彦氏ですが、私はもう少し平易に言うとホスピスとは施設や制度のことではなく「道」つまり柔道や華道、書道といった「行いに精神的なあり方」を含んだ「道」としてとらえるべきだという意味ではないかと思います。つまり「ホスピス道」としてそのあり方を検討してゆく物ではないかという事です。ただし伝統的な確立された「道」というものではないので、師範や経典、免許皆伝といったものもなく試行錯誤の中で今後最も望ましい形を皆で確立してゆくというものではないかと考えます。ホスピスは運動、「ホスピス道」としてそのあり方を考える、そう捕らえると本書の題名「市民ホスピスへの道」という意味がすんなりと理解できるように思いました。

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