rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

日本人の死生観と仏教

2018-08-24 19:06:58 | 社会

 終末期医療を考える上で、日本人の死生観と仏教的な考え方というのは深い関連があるのではないかと思います。そうは言いながらも日常生活において、お寺にお参りには行くけれども、仏教というものを本当に理解しているかというと本当の所は理解していないとも言えます。今までも何度かブログで取り上げて来た題材ですが、白鳥春彦氏の「仏教超入門」ディスカヴァー携書203(2018年刊)に仏教について解り易い解説があり、死生観を考える上でも参考になったので検討してみます。

 

魂魄、輪廻の思想と仏教

 

 日本人は死生一体、死んでも魂は肉体(魄)から離れはしても消滅することはない、と考えていることは玄侑宗久氏の不二と両行(死生などを二つに分けない、矛盾する二つの物をどちらも活かす)という日本人的な考え方につながっている所で紹介しました。この魂と肉体という概念は儒教や道教から来るもので、本来仏教の基本的な考え方ではありません。仏教では「死」も「生」も全ては「空」である、というのが正しい解釈で存在としての魂といったものを特別重要視していないと思われます。「空」といっても存在が無い「無」という物とは異なり、過去から未来にかけての現在の刹那はそれぞれの縁起によって実際に起こっているけれどもそれを「ある」とか「ない」とかで定義付けして拘ることをしない、と言う意味の「空」という考え方のようです。

 般若心経は仏教の神髄を表した基本的な教典で、わずか300字程の中に「悟り」に至る境地が読み込まれていると言われます。内容的には世の中の物は感ずる事も苦しみも全ては「空」であり、「空」であることを理解すれば「悟り」に達するから魔法の呪文「ギャテイ」を唱えて一切の苦から開放されよう、という経です。有名な「色即是空」などは、以前は「性欲を超越せよ」みたいに理解していたのですが、肉体は(苦を感ずる意識と同様)無であると言っているにすぎない。西遊記に出てくる「悟空」というサルは仏教の神髄である「空」を悟るというすごい名前がついたサルだと気がつきます。

 

 葬式において、仏教は切っても切れない宗教ですが、先祖を祀る事も、死者を弔う事も、実はあまり仏教の神髄とは関係がないということが解ります。日本古来の神道においては、墓さえないのですから、仏教は日本に渡来してから今までの変遷において、江戸期の人別帳代わりの檀家制度などを通じて日本人の生活の中にあまり細かい教義を押し付けないでうまく溶け込んで来たのだろうと思います。

  この「仏教超入門」で知ったのですが、小泉八雲の有名な怪談、「耳なし芳一」は琵琶法師の芳一が全身に「空」を表す般若心経を書かれたが故に、平家物語を語らせるために芳一を連れに来た「さまよえる魂」の平家落人の武士からは経文の書かれていない「耳」以外は見えなかった、というのが話の根幹をなします。この話は仏教の神髄と日本的な魂魄の考え方、死生観がうまく組み合わさった逸話になっていて興味深いと思います。

 

死を一段上のステージとみなす日本人

 

 我々は亡くなった人を「仏さん」と言い、死ぬ事を「成仏」と表現します。

 仏教では「仏」とは悟りを開いた人を指す言葉であり、釈迦のみを指す訳ではありません。修行中の菩薩から悟りを開いた如来になって「仏」になるのですから、死んだだけで「仏」になれる日本人はかなり優遇されていると言えます。「迷わず成仏してくれ」というのは「お化けになって出てくるな」という意味ではなく「あの世で悟りを開いて仏に成って下さい」という意味です。英語では遺体は単に「body」と表現されますから、戦争で亡くなった敵でも「仏さん」と言って敬う日本の心はかなり優しいと思います。Shootingゲームの世界でも外国語版では飛行機を撃墜すると”He goes to hell!!”(地獄行きだぜ)とテロップが出ますが、日本語は「お陀仏だ」(悟りを開いた)となります。日本においても神道では死を「穢れ」とする習慣があって、清め塩などに名残がありますが、いつの頃からか、死者は現世の人間よりも敬うと言う方向に変わって来たと言えます。

 

終末期医療と仏教

 

 死は容易には受け入れ難い恐怖でありますが、日本的仏教の考え方で、全ての苦から悟りを開いて「仏」になる、しかも魂は生き続ける、となると必ずしも絶対に忌避すべき物、怖いものではなくなるように思います。仏教においても自死・自殺は周囲との「縁起」を自ら絶つ行為であり、悟りとは結びつかないとして認められていませんが、与えられた生を全うした末に「仏」になるのであれば、「修行が足りない」人生であっても悟りの度合いはどうあれ許される物かも知れません。その意味で成仏を迷わせるような医療を終末期に行うことは医師として避けたい、安らかに人生の終末を迎える上で役に立つ医療を行いたい(具体的に表現するのは難しいですが)ものだと思います。

コメント (8)
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