rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

Spitfire Mk XIV フジミ 1/72

2019-08-31 00:23:41 | プラモデル

 無骨な姿の英国機の中では珍しい世界で最も美しい戦闘機とも形容された名機Spifireですが、各型合わせて23,000機が生産されて1950年代まで使用されたと言われます。Battle of Britainで新鋭メッサーシュミット109Eと死闘を繰り返し、「かくも少数がかくも多数を救った」とチャーチルに評された英国空軍の主力がSpitfire Iだったのですが、このMk XIVは1943年にマーリンエンジンからより強力なロールスロイス・グリフォンエンジンに換装され、機首延長、プロペラも5翅になり、最高速度も700kmに達する高性能機になりました。約950機が生産されたと記録されていますが、航続距離の短さから一番活躍したのが英国本土にフランスから飛んでくるV1無人ジェット爆弾の撃墜でした。勿論高性能のフォッケウルフDやメッサーシュミットGとも対等に戦う実力はありました。

 

スコットランド Glasgow の博物館に展示されているSpitfire後期型(21)飛行機はこれだけでした。

 プラモデルは1993年のフジミ模型製で、彫刻や整合はさすが日本製でぴったりしていたのですが、デカールが30年もので古く使い物になりませんでした。止むなく他の模型の物を流用しました。元の模型の出来が良いので、仕上がりはまあまあだと思います。

Spitfire Mk XIV 流麗なspitfireのシルエットが良くできていると思います。排気管の形が初期のマーリンエンジンと異なります。

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文在寅氏の狙いは離米・親中による南北統一だろう

2019-08-30 23:22:14 | 政治

 日韓関係の悪化を懸念する声が強くなっています。私は特別韓国が好きな訳ではないので「どちらでも良い」が本音なのですが、90年以降の手がつけられない意図的な韓国の反日政策で、いずれはどこかで日韓が一度離反するのはしかたがないだろうと考えています。ただ100年前も100年後も韓国・朝鮮は隣の国であってお互いに引っ越す訳にはゆかないのですから「うまくやってゆく」「できれば協力してゆく」が良いに決まっています。欧米の巨大資本に属する人達にとっては日中韓が一体となってアジアが経済の中心に成長してゆくことは実は不愉快極まる事態です。だからこの3国を離反させるべくあらゆる手を使ってくるであろう事は容易に想像できます。当時都知事であった石原氏が尖閣諸島公有化(都で買い取る)宣言をして良好であった日中関係(経済決済をそれぞれの通過で行おうとしていた=米ドルの排除)をぶち壊したのが米国の研究施設であったことからも、誰が日中蜜月を嫌がっていたかは明らかでした。

 文政権はレーダー照射、慰安婦財団解散、徴用工補償問題、GSOMIA破棄と次々と反日のカードを切り、当初は政権の人気保持と経済の行き詰まりの批判そらし程度に分析する評論家も多かったのですが、安全保障について政権内でも意見が別れるGSOMIA継続問題を、大統領が明確な意思を持って破棄を命じたという事はそれなりの意味を考えるべきだと私は思います。文氏の決断を、感情を優先した韓国民的な感情論でいまだに説明しようと言う人もいますが、「朝鮮の本当に優秀な人達というのは極めて優秀である」ことを知る私としては(阿呆は阿呆でそれは朝鮮も日本も米国も一緒だと思う)、文氏の決断は「賭け」もあるでしょうがそれなりの計略に基づいた策であると考えるべきです。

 ここに来て、識者の中にも文氏の政策を計算済みの革命的既定路線として、日本もその心算で対応を真剣に考えるべきだという意見が出てきました。つまり、文氏は南北統一を前提に中国側の国に戻ってゆく計画を実行している。核を持った統一朝鮮(当初は一国二制度)で反日、反米を軸にして米中露対立の最前線を朝鮮半島から日本海に移し替える計画である、と認識した方が良いだろうという事です。今の米国は対イランの有志連合を呼びかけても一部の国しか手を挙げないほどリーダーシップが低下しています。またトランプ大統領自体それを良しとしている多極主義者です。だから核を持った統一朝鮮を宣言した時に、中ロがそれを国として認めさえすれば米英だけでは阻止し得ないと文氏は踏んでいるのではないでしょうか。

 親中国の統一朝鮮を作るには、在韓米軍にお引き取り願わなければなりません。一見無理な注文のようにも見えますが、米国はソウルのアメリカンスクールを閉校して在韓米軍の家族も半数以上は韓国を離れているという。米軍基地はソウル近郊から既に70km程後退しており、駐留第一機甲旅団は本国に撤退しているという。先日行われた米韓軍事演習は韓国軍への指揮権委譲を前提に行われたと解説されたし、最近まで空席であった在韓米国大使に元太平洋群司令官であったハリス氏が就任、これらは米軍が韓国から撤退することを前提に計画されて来た事のように思います。トランプ大統領はG7で文大統領を「信用ならない奴!」と批難したようですが、一方で上記のような方策も打って来ているから油断なりません。

 現在韓国では親米(親日)の人達による反文在寅デモが日に日に拡大しているようです。さすがに親北、親中国の南北統一は許容できないと考える韓国人も沢山いる事は間違いありません。韓国軍の中心的親米派が反文在寅の市民勢力を背景にクーデターを起こした場合、元特殊部隊員として当時から親しい軍人がいるであろう文大統領も、全ての軍を抑えきれない可能性が高いです。その時には米国も軍による政権を容易く承認するでしょう。G7の際に、韓国という国でなく「文政権」を名指しで批判した米国の意図が伺われます(クーデターで別の政権になっても良いよというシグナル)。トランプとしてはどちらに転んでも損はしないように様子を見ている節があります。日本も今後の見通しをいくつかの場合分けにして多極的に分析し、対策を立てて行くべきと考えます。1990年代の南北危機の際には、当時の自衛隊・警察(自治体)は密かに朝鮮からの大量の武装難民の襲来に備えて日本海側に収容施設の選定を検討した時期があります。当然現在も種々の検討がなされていると思いますが、朝鮮は激動の時代に入ろうとしていると思います

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Blackburn Roc & Nieman R-10

2019-08-13 17:49:09 | プラモデル

Blackburn Roc Mk I Special Hobby 1/72, Nieman R-10 Pavla models 1/72を作りました。どちらもチェコのプラモメーカーです。

Blackburn Rocはイギリス海軍が艦上戦闘機として1930年代後半に導入したもので、当時は第一次大戦の経験から操縦手は操縦に専念して銃手とは別で良いという考えが英国にあり、後方に多連装の旋回砲塔を持つ戦闘機が作られました。航空機の性能向上で、戦闘機は素早く敵機の後方に回ってできるだけ大口径の武器で一撃して離脱する方が有効であることが解って来たのですが、Blackburn Rocは低速低空で侵入してくる敵雷撃機の横から7.7mm多連装銃で射撃するという発想でこのような形になりました。実際には大方の予想通り、非力で重く、運動性能の悪い上に前方射撃ができないこの手の戦闘機は実戦の役に立たず、140機程作られましたが活躍する機会が殆どなく終わっています。同様に後部席に旋回砲塔を付けた戦闘機にBoulton Paul Defiantがありますが、これはマーリンエンジンを搭載したSpitfireに似た機体で、英国空軍が調達したものです。実はBlackburn Rocも設計はBlackburnで行われたものの、制作はBoulton Paul社でDefiantと同時期に作られたとされています。Rocも高性能なマーリンエンジンの搭載を希望したようですが、空軍に断られて同系の攻撃機であるSkuaなどに使われたブリストル・パーシュースエンジンを搭載しました。空軍のDefiantもメッサーシュミットなどには適わず、実戦の役に立たずに夜間戦闘機などに使用されたようです。

Blackburn Rocの実機  艦上攻撃機のBlackburn Skuaの方が戦闘機としてもまだ実用的であったようだ。      特徴的な後部の砲塔 実戦に出た数少ない機の塗装と説明されている。

モデルはエッチングやレジンなどの部品も多用したやや複雑な造りで、説明書も奇麗な仕上がりなのですが、機体内部の接着部位などの説明が明確でないため、組み上げてみると微妙に嵌らない場所が出て来たりします。透明部品の塗装は作者の腕が今ひとつな所ですが、四苦八苦して作った割には見栄えはもう一つかと。中学の頃作ったAirfixのDefiantと並べてみました。

 

   Special Hobby 1/72 Blackburn Rok 胴体はやや太めで脚は弱そうに見える。             形はより流麗な空軍のBaulton Paul Defiant (Airfix 1/72)と並べてみる。

Nieman (Kharkivハリコフ) R-10はソ連のやはり1930年代の軽爆撃機で、後のスホイ2型などの系譜に繫がって行きます。実戦ではノモンハン事変、ポーランド侵攻やフィンランドの冬戦争で使われた記録がありますが、対ドイツ戦ではやはりメッサーシュミットなどの高性能機に歯が立たず地上での破壊も多く損害が大きかったようです。ライトサイクロン700馬力のエンジンで時速350km、300kg爆弾搭載とやはり非力低速(デビュー時としては高性能ですが)でした。500機ほどの生産がありました。

  Nieman R-10 軽爆撃機の実機                            冬期簡易塗装を施したR-10 Pavla models 1/72

モデルはほぼ10年前のチェコ製Pavla modelsですが、型から自分で切り出して整形しながら作る様な荒削りな模型です。説明図にも「この部品は自分で作る」みたいな物がいくつかあり、風防や後部機銃の回転銃座などは型押ししたプラ版から正に自分で切り出して作るようになっていて、始めから1回ではうまく行かないのを見越して2回分制作できるように部品が入っています。銃塔はどの長さを使用して良いか組み立てねば解らず苦労しましたが、出来上がってみるとまあまあの見栄えになりました。塗装は冬期簡易塗装で、以前ポリカルポフPo-2を塗装したのと同様にしました。当時のソ連機はやや無骨な外形から、翼上面に国籍識別マークは付けなかったそうですが、スピットファイアなどスマートな連合軍機が供与されると、ドイツ機との識別が困難になり、翼上面にも付ける様になりました。ポーランドのカラシュとも少し趣が異なる外見です。

   Polikarpov Po-2 (ICM 1/72) と並べる。どちらも味のある渋い機体だと思う。

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岩手山登頂記

2019-08-06 18:44:55 | その他

 3日間の夏休みを利用して岩手山登山に挑戦してきました。実は昨年秋に八幡平のリゾートホテルに旅行で行った際、せっかくだから近くの山に登ろうということで八幡平(1,614m)、三石山(1,466m)、大松倉山(1,400m)に登りました。大松倉山からは岩手山への縦走コースもあって、時間があれば名峰岩手山もすぐそこで行けそうに思い、今年は岩手山を始めから目指して旅行に来ました。

八幡平から岩手山を臨む(昨年)         大松倉山から縦走で岩手山の山頂を臨む(頑張れば登頂できそうな高さ)

 宿泊は昨年と同様八幡平マウンテンホテルに泊まったのですが、安くて食事内容も良く、夜は星空見学説明会を毎日やっていて、都会では見れない奇麗な満天の星空を楽しむ事ができます。昨年秋は土星の輪を固定した双眼鏡で初めて肉眼で見る事ができ感動しました。今年は国際宇宙ステーション「きぼう」が上空を通過する時間に見学会が設定されていて、木星ほどの明るさ(1等星より明るい)のISSきぼうが1分程で上空を通過する様を肉眼で観察できました。

早朝の岩手山 焼走り登山口の近傍(この時は頂上が見えていた)        焼走り登山道のコマクサ

到達した時、頂上付近は霧と風で何も見えませんでした                下山してきて溶岩流の台地から岩手山頂上を臨む(少し晴れているかも)

 岩手山は奥羽山脈北部、盛岡市や新幹線からも眺望できる2,038mの成層火山で、日本100名山に数えられています。有史以来5回の噴火があったとされ、登山道にも第一、第二噴出口など立ち寄る事ができ、麓には溶岩流が流れて広がった焼走りと言われる地形が広がっています。いくつかの登山道があるのですが、今回は往復8〜9時間ほどの初心者向け、焼走りコースで登りました。朝6時前に焼走り登山口の登山者用駐車場(300台位停まれるがガラガラでした)に車を停めて、入り口の手洗い場に設置してある登山届けに記入してから歩き出します。天候がCランクで上空雲が掛かっていたので登山に来る人は少なく、抜きつ抜かれつしながら数人程が同じ時間帯に登りました。途中ホテルで作ってもらったカツサンドを朝食に取って、10:30頃には上坊コースと合流した後の平笠不動避難小屋(1770m)にたどり着きました。珍しいコマクサの多生する場所も通ります。そこから頂上までは40分程なのですが、今回残念ながら頂上近辺は霧と風が強く、頂上を目指したものの手前200m位の所で無理をせず引き返してきました。やー霧で何も見えませんでした。帰りは第二噴出口の辺りでこれもホテルで調達した持参の昼食を食べて降りました。

小川全体に40度くらいの温泉水が流れている場所 足湯可能             焼山への霧と硫黄の匂いが強い登山道で道先案内をしてくれる山カラス         

 その前日は八幡平の秋田県側にある後生掛温泉から200名山の一つである焼山(1,366m)を目指してトレッキングしてきました。4時間程のコースで途中、流れる川全体が温泉になっていて足湯ができる場所などがあるのですが、こちらも霧(雲)が濃くて眺めは今ひとつでした。途中硫黄の匂いが強い禿げ山の通路で先を案内してくれるように飛んだ山カラスが印象的でした。その日は焼山避難小屋に行って毛氈峠方面の別ルートで後生掛温泉に戻りました。

姫神山からの眺望     姫神山から岩手山方面を臨む(この時は岩手山が雲でよく見えませんでした)

 3日目は岩手山を男の山と例えると、その嫁さんと言われるやはり200名山の姫神山(1,123m)に登りました。このクラスだと頂上も雲の下にあって晴れていて眺望も良く、往復2.5時間程度で戻ってきました。午後は車を盛岡で返して新幹線で帰宅、東京はうだるような暑さでした。

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好敵手Curtiss P-40N Warhawk 陸軍一式戦闘機隼

2019-08-06 13:39:14 | プラモデル

 共に1/72でカーチス-40はハセガワ製、隼はフジミ製です。日本製のプラモは作り易く、整合も良いので安心して作れます。共にビルマ戦線で戦ったであろう時期と部隊の設定で作りました(細かい所までは調べていませんが)。私的に惹かれる所は、共に大量に作られて使用された割に、歴史的な戦闘機としての評価がP-51ムスタングやP-47サンダーボルト、或は海軍の零戦ほど高くないことです。

 

フジミ製 帝国陸軍 一式戦闘機隼 ハセガワ製 米国陸軍 カーチス P-40N Warhawk

 Curtiss P-40は大戦初期、汎用できる陸軍機がなかった時にP-36よりも馬力があって頑丈な戦闘機として活用され、13,000機が作られて大戦末期まで中国やソ連でも使用されました。隼の様な身軽さは無かったものの、12.7mm機銃6丁は当時としても重装備であり、一撃離脱で防御の弱い日本製の爆撃機などと戦うには十分な威力を発揮しました。防御力も強く、被弾しても無事に帰れる戦闘機としてパイロット達の信頼を集めたという記録があります。

 一方で一式戦闘機 隼は加藤隼戦闘隊の歌や映画で有名ですが、軽量で運動性能は抜群だったのですが、初期は7.7mm2丁、後期も12.7mm2丁の装備で防御力の強い連合軍機を落とすには非力でした。それでも後に続く2式戦闘機(鍾馗)や飛燕といった陸軍機の稼働率が十分でなかったため、隼は改良しながら長く使われたと言われます。2機並べると設計思想の違いなどが良く解るように思います。

P-40 実機 模型は米軍機ながらダークアースとダークグリーンの迷彩 下面はニュートラルグレー 以降の陸軍機はオリーブドラブ単一塗装かシルバーが多くなって行く。

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