rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

韓国人との付き合い方

2009-10-29 19:59:29 | 社会
護衛艦と貨物船の事故でまた日本対韓国のような図式が持ち上がりました。もともと鳩山政権でアジアとの共存(要は中韓と仲良くすること)が叫ばれている時だけにタイミングも微妙なようです。率直に言えば今回の海難事故は韓国の貨物船の操船ミスであって日常的な経験から「注意して左から追い越すことも可能」であったから海の交通係官もそのように指示しただけのことでしょう。

さて嫌韓流の本を見るまでもなく、インターネットを中心に韓国(朝鮮人)一般に対しての評判はすこぶる悪い。私も韓国政府は何故あのように日本人への扱いが下手なのだろうと常々思います。「日本統治時代よりも現在の方が世の中が不幸だ」という潜在意識から日本統治時代は悪かったと必死に教え込まないといけない事情は解りますし、冷戦時代の民族分断をいまだに解決できないまま世界は別の時代に入ってしまい、中国に至ってはアメリカ以上の資本主義国になってしまったのですから朝鮮の人達の潜在意識における「あせり」は相当なものと思います。また日本人にとっては見た目が一緒であるのに「朝鮮人の国民性」にも相いれないものがあり、「嫌う」原因になっていると思われます。

日本にはこちらから譲歩したり謝ったりして相手に「与える」行動をすれば必ず相手もこちらに同様の譲歩などを「与え返す」という文化があります。これは日本では当たり前になってしまい「与え返す」ことをしない人は非常識として社会から疎外されます。お中元や歳暮に限らず何かの行事に粗品がつきものであり、これらは社会習慣であって「賄賂」にはあたらないのは日本の文化だからです。賄賂というのは金品でこちらが得をする具体的な対象を「買う」行為であって、これはアジアでは当たり前の行為のようですが、本来の日本の文化とは少し別のものです(その見極めは極めて難しいですが)。

最近韓国人の中年女性が泌尿器科的病気になり、私の患者として頻繁に診療することになりました。この女性が日本人の感覚で言えば極めて我が儘で自己中心的、他科の治療の合併症で泌尿器科的疾患になったことからこちらにやや負い目があるもののまあ呆れるほどの「言いたい放題」で場合により病院の総務課員連座で診療にあたるという状況でした。

私としては自分に落ち度がある訳でもありませんし、他の同じ病気の患者さんと同様に接していたのですが、あまりの我ママぶりに「できないことはできない。」「その我が儘は通らない。」「日本の常識としてそれはできない。」といったことをはっきりと明言するようにしました。ちょうど我が儘を言い張る子供に親が諭すようなやり方です。日本では大の大人にそのような接し方をするのは失礼という感覚がありますが、どうもこれが正しい接し方だったようで非常に素直にこちらの言うことを聞くようになりました。またこちらが約束したことは必ず守る(医療では結構難しいことですが)ようにしたことでお互いに信頼関係もできて「良い患者ー医師関係」ができるようになりました。合併症をおこした科の医師達もそれにならって「腫れ物にさわる」ような扱いを止めて良い悪いをストレートに、しかし勿論誠意を込めて接するようになって、今では常にお互いが笑顔で診療に当たれるようになりました。

私は国としての韓国と付き合うのもこの接し方で、つまり無理難題に対してははっきりと「ノー」を、竹島問題や外国人参政権も駄目なものは駄目とはっきり言ってやるのが大事だと思います。「相手の機嫌を損ねるのは良くない。」「そんなことしたら戦争になる。」と考えるのは日本人だけです。勿論いきなり竹島に軍を派遣すれば戦争になりますが、日本政府が本気で「竹島からとっとと出てゆけ」と言えば遠の昔に竹島問題など解決していたはずです。東アジア共栄圏を真に構築するには相手と「良い関係」を築かねばなりません。そのためには子供に諭すように「駄目なものは駄目」と言った上で誠意を持って接してゆくことが肝要でしょう(中国に対しては別の工夫が必要でしょうが)。こちらが譲れば相手も譲ると期待するのは日本特有の「甘えの構造」だろうと思います。常にギブアンドテイクの内容を確認しながら接してゆくのが日本人以外との信頼関係構築には必須の事ではないでしょうか。
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書評「第二次大戦に勝者なし上」

2009-10-25 20:44:30 | 書評

「第二次大戦に勝者なし上」 アルバートCウエデマイヤー著、妹尾作太男訳講談社学術文庫 1286(現在絶版)

題名に魅かれて以前から読みたいと思っていた本ですが、再販される兆しがなく読めなかった本です。アマゾンで購入できました。もっともこの題名は海上自衛隊戦史部に勤務していた訳者が本書の内容の一部から訳出したもので、原題は「Wedemeyer Reports!」という内容推測不能なものですが。

著者は1940年から43年の間ワシントンの米国陸軍参謀本部で戦争計画立案に従事、その後はインド、中国で米軍司令官として勤務した経験をもつ生粋の軍人です。しかし戦闘員として前線に出る事は無く、むしろ大統領や国務省の役人達と戦争全体の計画立案を軍の立場から取り仕切る実務を行った人間と言えるでしょう。チャーチルなどの政治家が書いた第二次大戦の回顧録も価値があるのですが、軍人の立場から戦争を取り仕切った人が第二次大戦をどう見ていたかというのは非常に興味深く、また「第二次大戦に勝者なし」と言わしめた内容とは何だったのかが興味深い所です。本書は1958年(小生の産まれた年)に米国で刊行されたちまちベストセラーになり2年間売れ続けたそうです。従って現在の世界情勢からはやや著者の感覚はずれた内容になっていると思われる点もあるのですが、私が普段から感じている「アメリカ国民は本当に第二次大戦参戦を納得していたのか」という疑問について大いに答えてくれる内容です。

本書は文庫本といえ上下とも400ページを越す大著なので、上下に分けて書評を記録しようと思います。上刊は第二次大戦への参戦から戦争中盤の連合軍のシシリー上陸までを時系列に著者の行動を解説したものです。私から見た大事なポイントがいくつかあります。
1)アメリカはいつから第二次大戦への参戦を検討していたか。
2)参戦する理由は何か(どのような国益を追及して参戦するのか)。
3)英米間で戦争遂行上の対立はなかったのか。
4)カサブランカ会談で出された無条件降伏という発想について。
5)ソ連をどう見ていたか(敵の敵は味方という単純なものだったのか)。

氏は第一章第1項の「真珠湾攻撃の真相」の所で「日本の真珠湾攻撃は、アメリカによって計画的に挑発されたものであるという事実は、真珠湾の惨敗とそれに引き続きフィリピンを失陥したことにより覆い隠されてしまった。」「アメリカ国内の反戦派の人達は、ルーズベルトがドイツに対しては明らかに戦時中立を犯す行動を取り、また日本に対しては最後通告を突きつけて何とかしてアメリカを参戦させようとしていたことは十分に承知していたのである。」と明確に書いています。1958年の出版時点でその程度のことはさしてセンセーショナルな内容ではなかったのかも知れません。しかし現在日本の閣僚や幹部自衛官が同じ事を言うと大問題になるとしたら何故なのか、その分析こそ大事なことでしょう。氏は大統領の命令で1941年に入ってから米国をヨーロッパの戦いに一千万規模の軍隊を参戦させる「勝利の計画」と名付けられた秘密計画の策定にかかわってきて、しかもその計画は真珠湾攻撃の2日前の12月5日に「シカゴデイリートリビューン誌」に「ルーズベルトの戦争計画」としてすっぱ抜かれるのですが、国家レベルでの戦争参加の意思は41年の時点で決定されていたと考えて良いでしょう(計画では43年に参戦)。

それではモンロー主義をかかげるアメリカが第二次大戦に参戦する理由は何か、について当時政府は「拡大を続けるドイツ帝国がアフリカから南米に渡りアメリカ大陸を北上して合衆国に攻め込んでくるからである。」という馬鹿馬鹿しい説明が国民になされたと言います。勿論殆どの軍人は一笑に付す程度のナンセンスな内容ですが、要するにアメリカが参戦する合理的な理由は全く無かったというのが本音なのです。著者は米国の参戦計画を策定するにあたり、参戦による米国の国益を考えると当時枢軸軍によりモスクワ近くまで攻め込まれていた共産主義独裁国であるソ連をドイツともども弱体化させた所で米国が参戦して早期に戦争を終結させ、「戦後のヨーロッパを米英主体の安定した政治経済形態に持ち込むこと」と考えていたようです。

米英間の戦争遂行上の対立というのは実に面白い内容で、他書にない魅力かも知れません。衰えたりといえどもイギリスは大英帝国の版図維持が戦争遂行の最も明確な目的です。また自らは最も少ない犠牲で最大の利益を得る政治力が100年来の繁栄を支えてきたとも言えます。だから英国にとってはアメリカを利用して自分の戦争目的を達する事以外戦略策定上の要素はないと言えます。一方でアメリカにとっては早い所ドイツに「参った」と言わせれば良いのですから、一点集中でノルマンジーかカレーからフランスに上陸して一気にベルリンを陥落させれば良い(或いは途中で休戦に持ち込めば良い)、と考えて「ボレロ」「ラウンドアップ」という作戦を立てて英国に共同作戦を迫ります。結局アメリカは英国に騙されて、アフリカから地中海を経由してイタリア経由で大陸に入り、Dデイは米国の思惑から1年遅れた44年になるのですが、アメリカにとっては不要な犠牲を強いられた上、ソ連がスターリングラードから盛り返して東ヨーロッパを蹂躙しつつベルリンに迫るという結果を生むことになります。著者が「第二次大戦に勝者なし」と結論付ける理由もこの辺りに起因します。

「1943年1月にフランス領モロッコで米英首脳により行われたカサブランカ会談は第二次大戦の分水嶺となる重要な会議であった」と1章を設けて解説されています。それは北アフリカ作戦の成功で連合軍の勝利の目処が立ったことに加えて戦争遂行の目標が「枢軸国の無条件降伏」に決まったからであると解説されています。クラウゼビッツの戦争論にも「戦争は政治目的を実現する1手段」と規定されているように殺戮自体が戦争の目的であってはならないのです。相手国に無条件降伏を要求するということは「全て服従せよ」と要求することであり欧州における近代帝国主義間の戦争ではあり得ない発想でした。著者が「恥知らず」と表現するほどこの「無条件降伏」を嫌ったのは政治目的の達成でなく「国家の消滅」を目標に戦争をすれば、相手国が最後まで必死で戦うことを強要することになり、自国の兵士の損失も多大になることが明白だからです。戦前ドイツの陸軍大学に留学していた著者は、ドイツ軍人に友人も多く、特に国防軍の将校達がナチスを嫌っていたことを熟知していました。ヒトラー暗殺計画で処刑されたフォン・シュタウフェンベルク大佐も彼の友人であり、戦争の帰趨が決まってヒトラーが失脚すれば多くのドイツの良識達と再び安定し繁栄したヨーロッパ社会が築けると皆思っていた訳です。しかし無条件降伏を戦争目的にしたことでナチスに反対の人達まで一丸となって戦わせることになり、結果的に戦争が長引き共産主義ソ連の欧州分断を赦すことになったと著者は切歯扼腕するのです。この無条件降伏は日本にも適応されたために終戦が遅れたことは有名な事実ですが、「本土決戦における相方の犠牲を少なくするため」という理由が無差別大量殺戮の戦争犯罪である「原爆投下」の正当化に使われたことを考えるとチャーチル・ルーズベルトの罪の深さを私も感じずにおれません。

ルーズベルトはソ連を「善き仲間」と見做していた、むしろルーズベルトは共産主義シンパ(ニューディーラーと呼ばれる一派)であったというのは60-70年代のアメリカでは常識で映画「追憶」にもそのように描かれている位ですが、第二次大戦当時のアメリカ軍人達はソ連が将来の敵になるだろうことは明白なこととして認識されていました。映画「パットン大戦車軍団」は戦車軍団が主役でなくパットンの人間性を描いた快作で私の好きな映画の一つですが、ここでも英国の戦略が優先されることに対してパットン将軍がいらだつ所や、終戦直後に「俺に1個師団くれればソ連の奴等を国境線まで押し返してやる。」と息巻く姿が描かれていてこれはパットンのみならず当時の米国軍人の多くがそう思っていたのだろうと思わせるものでした。ウエデマイヤー氏が考える米国の国益が第二次大戦前からソ連封じ込めであったことが明らかなのに米国大統領であるルーズベルトは何故「国益に反するような決定」をし続けたのだろう、というのは率直な疑問です。著書ではこの辺りは触れられていないのですが、ルーズベルトは米国大統領としては異例の4期連続(実質3期+α)で大統領に選ばれています。始めは第一次大戦後の大恐慌時代に有名なニューディール政策を行い米国の復興に貢献したとされています。そもそもルーズベルト(ユダヤ人説あり)が身体障害(ポリオと言われている)にもかかわらず大統領になれたのは、伯父のもと大統領セオドアルーズベルト(銀行家系)の影響と共に同じニューヨークの銀行家であったロックフェラーなどのウオール街とのつながりも指摘されています。第二次大戦に参戦しないことを公約に大統領に再選されたにもかかわらず、米国民がいくら犠牲になろうがかまわない戦争を無理やり行うに至った「動機」が何であったのか、戦後を英米でなく米ソで2分する構想を出したのはどこであったのか、本書には勿論書かれていませんが、現在の知識からはやはりユダヤ巨大金融資本の影があるように思えます。

このことについての興味深い記述が他書ではありますが、ユダヤ人の長老と称するモルデカイ・モーゼという人の書いた79年に出された「日本人に謝りたい。」の中のルーズベルト関連の文中に見つけました。(以下引用http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe806.html

「アメリカ愛国主義者同盟」の別団体である「アメリカ・クリスチャン・ミリタンツ同盟」もたまりかねて、ルーズベルトに対して次の如き電文を送っている。「われらクリスチャン・ミリタンツの愛国者は貴下が先日シカゴで話した言葉に関し、貴下がある種の黒幕勢力に使嗾(しそう)されて、アメリカを外国との戦争へ追い込むことを辞さないだろうことを心から恐れるものである。『アメリカ愛国主義者同盟』は、貴下が後日事態の認識において欠くところがあったという遁辞を設けないために法律上許されている派遣委員を貴下の下に送り、彼らをして貴下に否定すべからざる証拠資料を示し、世界における戦争が単に大財閥の間で戦われる帝国主義戦争に他ならないというふうに説明しようとしている。この大財閥とはシオニスト運動を代表するロスチャイルド家と国際主義の統率者であるウォーバーグ家とである。アメリカはこの真相を看破している。したがって貴下がこのユダヤ覇権争いのためにアメリカの罪のない壮丁を犠牲にし、アメリカの平和な生活を破壊に陥しめようと欲してもアメリカ自体は断然これを拒否するであろう。
(引用終わり)

下巻書評に続く。

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天寿癌と癌治療

2009-10-21 13:06:44 | 医療
秋は学会のシーズンと言われて、私も内容の高低はともかくそれなりに学問らしく見えるよう学会発表をまとめたりして多忙でした。今回私の専門である泌尿器科癌治療のなかで新しい治療展開が期待されている進行腎癌の治療経験をまとめ、発表したのですが、海外での腎癌治療の新しい標準治療、或いは治療指針を日本に適応するにあたって果たして同じ内容で日本人に当てはめてよいだろうか、と言う問題が提起されました。

欧米、特にアメリカと日本の癌患者の違いは、人種差も去る事ながら超高齢者の癌患者が日本に多いという事実です。日本は世界一の長寿国ですから当然80代以降になってから初めて癌になる患者さんも沢山います。場合によっては90歳を超えてから初めてなる方もいます。そのような場合、5-60代の癌患者と同じ治療指針が適応になるとは言えないのは当然のことと思います。

天寿癌という概念があり、これを提唱された癌研究会癌研究所北川知行前所長は「さしたる苦痛なしに、あたかも天寿を全うしたように人を死に導くがん」と定義し、天寿癌の直接死因は「一様ではないが、食欲減退から衰弱が進行するケースが最も多く、自然死に近いように見える」と述べておられます。天寿癌は一般的に、女性90歳、男性85歳以上の癌を指すようですが、現在私の病院に入院されている患者さんも90歳以上の方も何人かおられて癌そのものの苦痛よりも高齢から来る体力低下や活動性の低下が大きいため積極的な治療も行わずに苦痛のみ緩和する、いわゆる対症的な治療が主体の方もおられます。

日本の癌治療を欧米と比較することがマスコミは好きで、特に日本が遅れていると批難して国民に医療不信を植え付けることに熱心な輩が多いと普段感じますが、日本独自の癌治療のありかたなどを深く考えさせるような番組は造れないものでしょうか。日本の医療は進んでいるからこそ日本は長寿国なのであり、増え続ける高齢者達がいつかはかかる癌に対して中高年と同じ対応ではなく、天寿というものを考慮した癌治療のありかたを皆で考えてこそ後期高齢者の医療や介護のあり方、医療費の使い方や国とのかかわりといったことの議論が進むように思います。
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前提がおかしい

2009-10-02 22:30:03 | その他
世の中には冷静に考えれば「いんちき」や虚像であることが明確であるのに真剣に信用してしまい取り返しの付かない大きな誤りをしてしまうことがあります。占いを信じてつまらない物を買ってしまう程度ならば可愛いものですが、高価な壺やら現世利益を求めて高額な喜捨をしたり、カルト宗教に心酔したり傍目から見て何故いんちきに気づかないのだろうと不思議に思う事も多々あります。

医学においても明らかにいんちきな健康食品やエセ医療に高額な金をかける人達が後を絶たないのが現実です。西洋医学は自然科学の一分野であり、分析の科学です。個体は臓器からなり、臓器は組織からなり、組織は細胞からなるので、病気の治療は細胞にまで遡って考えられます。西洋医学がともすれば体の部分に対する対症療法と批判される原因もそこにありますが、西洋医学の信頼性はその科学的分析にあるといえるでしょう。

西洋医学が唯一絶対正しいものだとは言いません。個体を臓器に腑分けした時点でもとの個体とは違うものになってしまうのですから、その個体そのものの病気を見ているのとは違うことになってしまう。その点個体を個体のまま観察して診断を下す東洋医学の方がより病気の実体に近い場合もあります。しかし世の中にはこの西洋医学の衣をかぶった怪しげなものがたくさんあって、西洋医学の手法によって付けられるべき病名をそのまま用いてその分析手法と全く関係のない方法で診断したり治療したりするものもあるので素人は簡単にだまされてしまうのです。

東洋医学の話題が出ましたが、東洋医学は西洋医学とは全く異なる理論(前提)の上に診断、治療を行うもので、いたずらに西洋医学の理論をくっつけて補充しようという考えはありません。東洋医学を西洋医学的に解明することはかなり行われていますが、これはあくまで西洋医学的手法を用いているもので、西洋医学の一部です。よく患者さんに「漢方薬も効果がありますか。」と聞かれる事がありますが、正しい答えは「東洋医学に基づく疾患概念には効きます。」というものです。しかし東洋医学も同じ人間を扱う医療であり、疾患概念にはオーバーラップしているものもあるのでけっこうそのまま効いてしまう漢方薬もあるため「漢方がとても良く効く場合もあります。」と答えることにしています。

科学とはある前提となる「定理」があって、そこから合理的な論理の展開によって「結論」が導かれます。しかしこの「前提」がおかしいと途中経過の論理展開がいかに正しくても導かれる結論がおかしなものになってしまいます。オウム心理教のように「ハルマゲドンが来る」ことが前提ならば「ポアされてよかった」という結論になります。「資本主義が絶対悪」であれば歴史の必然は「原始共産制」に向かって突き進むことになります。世の中で、理論がしっかりしているようだけれど、結論がおかしいと思われるもの、何か怪しげなものを突き詰めてゆくと、「前提がおかしい」ことに気付きます。その怪しげな前提を納得させるために、世の中に既にある「権威」が利用されたり、超常現象を用いたり、人々の不安が利用されたりします。ねずみ講の場合は「儲けたい」という下心が利用されますね。

「自然科学が本当に正しいか」というのも実は怪しいものです。これは副島隆彦氏がよく理系人間を戒める時に言うことですが、自然科学もその前提となる定理が正しいとする範囲において、正しい論理展開によって導かれる結論が正しいということにすぎないのであって、日常生活上その定理があてはまる範囲がかなり広いから一般論として「自然科学は正しい」としているにすぎないのです。これが社会科学になると前提自体が沢山立てられるので正しい論理展開によって導かれる結論も「正しい結論」が沢山あることになります。経済学なども社会科学と自然科学の中間みたいなもので、様々な正しい結論が出されるようですがなかなか現実と一致しませんね。米国の金融工学という経済学などやはり金融で国家が成り立つという前提が100%間違っていたということでしょう。

我々は「合理的な論理の展開」には弱いものです。途中経過が正しそうだと間違っている結論を真実と思ってしまうことがあります。人間の健康を扱う医学においてはせめてこのような手法は使わないでいただきたいものです。
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