rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

理想の上司論

2010-07-28 23:38:55 | その他
部下にとって理想の上司とはどのような存在か、というのは職種を問わず社会生活を送る上で必須の命題のように思います。若い時に自分が心から尊敬できて、将来の目標になるような上司に巡り合うことは一生の宝といっても良いほど重要なことだと思います。

私は幸いにして、医学部の学生の時、研修医の時に臨床、研究、マネージメント(人柄)においてそれぞれ目標になれるような上司に巡り合えたので、それぞれの事項でその上司の存在を目指して今まで努力することができました。

ある時、他大学の仏文学の教授と食事をする機会があり、酒の力もあって「お互い部下を持つ上司としてどのような存在でありたいか」という話題になりました。私は「医療の現場においてはすごく難しいのですが、部下を信頼できる所は余計なことを言わず全てまかせて、リーダーとして自分が責任を持って決断しないといけない所は明確に決断する上司」と言った所、我が意得たりと思われたか、「それだ。」と言って握手を求められました。どの世界でも難しいながら上司たるものそうありたいと思っているのだなと改めて感じました。

私の上司論は実は種本がありまして、日露戦争における陸軍元帥「大山巌」のひととなりから学んだものです。自分に専門職としての力量はないけれど、それぞれの専門家を適切に任用して総合的に壮大な仕事をこなしてゆく「西郷隆盛」は別格でこれは全ての政治家、総理大臣に見習って欲しい存在ですが、一般人における上司の鑑としては「大山巌」ではないかと思うのですね。

現実の医療、特に検査や手術の場面で自分より未熟な部下を信頼して仕事をしてもらうのは自分でやってしまう事の二倍位大変です。医療においては私がやった結果と部下がやった結果が異なってしまうことは許されません。途中経過が早いか遅いか、多少失敗があっても必ずリカバーが効いて結果に問題を残さないことが部下にやってもらう条件です。この厳しい条件をクリアせずに「練習のために部下にやらせた」と言ってしまうようでは、種々の問題をおこした某大学とか事故で話題になった某病院のようになってしまいます。

術後出血による再手術、というのは事故扱いになりますし、できれば「経過観察」で済ませたいものです。しかし手術を行なう外科医である以上、どんなに上手に手術をしても一定の確率で少ないながらも術後出血は起こり得ます。患者さんや家族への悪評、手術室や麻酔科への交渉、事故届けの提出その他もろもろの面倒事を「えいっ」と引き受けてタイミングを逃さず「よし、リオペ(再手術)するぞ。」と決断するのが上司たる私の役目です。年200件近く手術をしていればリオペも1-2年に一回はあります。若い時はそのような上司の苦労は想像していなかったのですが、独り立ちしてやっと解るようになりました。

若い時に指導を受けた病理学の教授は、「教室内では上になるほど腰が低い、一番偉そうなのが大学院生」、と言われた教室のトップで、他学出身で週一回しか勉強にこない小生と職員食堂で一緒に食事をしたり、夜10時を過ぎてから論文の手直しを時間をかけてして下さったりと本当に「教授とはこうありたい」と思える素晴らしい先生でした。安楽死事件が起きたときに医学部長をされていたこともあっていろいろと苦労もされたのですが、もともとK大学を金時計で卒業された優秀な先生なので社会的な難問もそつなく処理されたようでした。

政治家や大臣は「辞める」ことで責任を取ったことになるようですが、一般社会においては「辞める」ことは責任放棄であって「問題を解決する」ことが責任を取るという意味です。問題を解決した上でその職位に居続けることに道義的問題があれば辞任すれば良いのです。

しかしまわり(社会)を見渡してみると小生の思い描く上司論に合わない上司達がかなり多いようにも見えるのですが・・。
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映画ブルーマックスに見る戦争における国民国家理念の介入

2010-07-26 22:26:22 | 映画
Blue Max 1966年20世紀Fox 監督ジョンギラーミン、主演ジョージペパード

前投稿の愛国心に関連した映画とも言えます。この映画には二つの見所があります。ひとつは言うまでもなく実機を用いた空中撮影の迫力、これはCGのなかったこの時代ならではのものだと感心します。実際にはタイガーモスなどの少し新しい機体を使っていますが、上手にローゼンジ迷彩を施して複葉機の編隊飛行をしているだけで十分雰囲気が出ています。とりわけRed Baronと呼ばれたリヒトホーフェン男爵と主人公と貴族のライバルであるウイリーが操縦するFokker triplaneは実機なのでこの姿を見るだけでも感動物です。写真はミュンヘンのドイツ博物館に展示されていた実物のFokker Dr1でまさにRedBaron塗装です。

もう一つは戦争における庶民階級の関わりです。国王を頂点とする「領主の集合体としての国家」同士の戦争が「国民国家」を単位とした戦争に変わってきたのが第一次大戦であり、平民出身のジョージペパード扮するスタッヘルがパイロットとして勲功を上げ、プロシア王国最高勲章で貴族しか得ることがなかった(パイロットや将校は原則として貴族だったけれど戦争後半になって人員不足から平民からも採用されるようになった)ブルーマックス(Pour le Mériteというフランス語名である所がまた貴族的と思います)を叙勲されるに到ります。もともと庶民は徴用されて消耗品として塹壕から突撃して機関銃でなぎ倒されるのがこの戦争における役割だったことが映画の中でも描かれます。しかしあまりの犠牲者の多さや戦傷の悲惨さから「庶民の声」を無視できなくなり、貴族は革命を恐れるようになります。「無名戦士」を記念して庶民に気を使うようになるのもこの頃です。

この戦争に勝ち目はないと見た主人公の不倫相手である貴族の将軍婦人はさっさとスイスに亡命を図りますが、「国家の英雄になること」にこだわる主人公は一緒に亡命することを断ります。この決断が破滅を招くのですが、貴族と平民の戦争に対する意識の違い、戦争における「国民国家」的意識の成立が際立つ場面と言えるでしょう。貴族にとっては国家などどうでも良いというのが本音でしょう。現代の貴族(大富豪達)にとっても国家などどうでもよいものだろうと思いますが。一方で平民出身の主人公を英雄としてメディアで売り出そうとする軍上層部の政治的意図も筋の展開にたくみに取り入れられています。

戦争映画において国民国家意識との乖離が見られるのは植民地の原住民が宗主国の一員として戦争に借り出されている場合です。映画「マルタ島攻防戦」では原住民でドイツに着いた側を「裏切り者」と非難するのですが、「戦争が終わってもまたあなた達に支配されるだけだ」というせりふにイギリス兵は返す言葉がありません。最後に苦戦を強いられたマルタ島島民にイギリス女王から感謝の言葉が出されるのですが、喜ぶのはイギリス守備兵だけで島民は複雑な思いという所を描いています。まじめな映画というのはそういうものだと思います。
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愛国心の問題

2010-07-19 09:05:45 | 社会
ドイツに旅行して感じたことの一つに「郷土愛の強さ」があります。郷土の森や自然を自慢し保存することを実に大切なことと考えています。ドイツは連邦制でもあり、バイエルン地方の人はベルリンやルール地方の人達よりも国を超えたオーストリアの人達に親近感を感ずると言います。(それでもサッカーはドイツ代表を応援するけどね、と言ってましたが)

愛国心という日本語の英訳はパトリオチズムですが、日本の場合幸いなことに国の境界と民族の境界が歴史的に大差がなかったために民族愛を示すナショナリズムとパトリオチズムはほぼ同一のものとして語られています。韓国では南北の問題もあり両者が相反する内容を含むでしょうし、中国でも自分の属する民族によって両者の意味合いが変ってくる事でしょう。「日本でも厳密には違うぞ」という議論はあるでしょうが、日常生活の実感としてはそれは嘘です。

日本では「お国自慢」という言葉が示すように純朴な郷土愛の延長として愛国心が語られることが多かったのですが、大日本帝国が戦争に敗けたことで郷土愛の範囲を国家まで広げた時点でそれは議論の余地なく「悪いものとする」と定義づけられ教え込まれてきました。「愛国心は大切だ」などと言おうものなら本人の真意や信条を確認することもなく特定のレッテル貼りをして「倫理的に悪意を持った人士」として黙らせなければならないと殆ど無意識のうちにすり込まれてきたと言えます。だから私もなかなか公の場所で公言できない。

「郷土愛の延長として愛国心があってはならない」というのは、日本において未来永劫続かなければいけない概念でしょうか。

愛国心(パトリオチズム)は帝国主義戦争に利用されたとする解釈はむしろ欧米列強において、戦後はアメリカで現在においても当てはまる概念であって日本の兵士の手記などでは純朴な郷土愛の延長として愛国心が語られている場合の方が多いように感じます(こう書くだけで戦争を美化していると言う反応が返ってきてしまう所が日本の思考力のレベルの低さなのですが)。クリントイーストウッド監督の硫黄島二部作「硫黄島からの手紙」と「父親達の星条旗」は日米の戦争における愛国心の解釈を対比させた良い例と言えます。前にも書いた通り(http://blog.goo.ne.jp/rakitarou/e/3756d57ec9ca63e42e58851317fdce7c?st=1)、日米軍人が自らの命をかけて戦った目的を「手紙」と「旗」に見事に象徴させているのですが、日本人よりも外国人である監督の方が日本人の愛国心を色眼鏡なく素直に解釈していることは皮肉なことです。

人間が社会で生活する以上「法律」が及ぶ範囲の境界として「国家」があります。他国にたいする経済問題の協議では「国家の利益」を背負って官僚や政治家が交渉にあたりますが、自己の所属する社会の延長としての「愛国心に基づく国益」をとことん追及する気概がなければ、力の強い者(他国)に結局利用されてしまう結果になります。日本において「反愛国心」を利用する勢力(主にアメリカですが)の狙いはそこにあります。「愛国心」=「戦争」=「帝国主義復活に利用される」という短絡思考はそれ以外の考え方が出てくると都合が悪い勢力が編み出し我々にすり込ませたものです。大事な郷土や家族を不幸にさせないために、軍産複合体やグローバリストの策略に乗ってまた戦争を「させられない」ためにも健全な愛国心を持って国益を追及できる人材を育ててゆかねばならないと感じます。
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仮面初老期うつ病

2010-07-16 21:11:16 | その他
男女を問わず人は誰でも50歳の声を聞く頃になると体力、知力、気力、性欲の衰えを感ずるものです。この衰えはなだらかな坂をゆっくり下るように自覚するのではなく、何かの拍子に階段をがたんがたんと降りるように「あれ、自分はこんなに駄目なんだ。」という風に自覚してゆきます。

人間は年を経る毎に時を短く感ずるものですが、私も日々やっている仕事は30代とあまり変らない臨床医療ですから、気持ちの上でも30代の頃と同じように仕事をしているつもりなのですが、夜中の当直仕事の後や大きな手術の後に疲れがどっと出たり、以前は昼寝などしなくても同じ調子で仕事が続けられたのに夕方30分位長イスで横になって休まないと緊張が続かなくなったりして、「ああ、年を取ったんだ。」と改めて自覚します。

この階段状にがたんと衰えを自覚するのはけっこうショックというか精神的にしんどいものですが、何とも言えない「喪失感」というか100あった自分が90になり80になりだんだん減っていってしまうことを精神的にうまく処理して受け入れることは実は難しい問題と言えます。特に若い頃誰よりも精力的で自分は他人より優っていると考えている人ほど、衰えてゆく自分を受け入れることは難しいようです。

この喪失感が受け入れられないと「うつ状態」になってしまい、抜け出すことが非常に難しくなります。なんせ若返ることは不可能で「あるがままの自分」を受け入れることのみが唯一の解決法なのですから。

時には「うつ状態」にはならなくても病気恐怖症とか他の一見どうでもよいことに執拗にこだわってしまう神経症(ノイローゼ)状態になってしまう人もいるようです。私は精神科医ではないので正しい言葉遣いか解りませんが、初老期うつ病がそのような変質した形で出ている場合を「仮面初老期うつ病」と呼ぶ事にします。

私は軽い人も含めればけっこうこの「仮面初老期うつ病」の人は多いのではないかと普段思います。私ですか、私はごく軽い初老期うつ病にいつも罹っていると思っています。まあ今の世の中「いつもご機嫌」などという方が却って異常と言えるかもしれませんが。「まだまだやれる」と励ます自分と「まあこんなものか」と現状を受け入れる自分が交互にやってきます。

先日も食事を始めようとした所で大学時代の友人から電話がありました。彼は軽い糖尿病なのですがコントロールは極めて良く網膜症や腎障害などの心配はない(と自分でも医者の目から見れば解っているだろうに)にもかかわらず、私に細かな検査値の軽い異常についてどうすれば良いかとしつこく聞いてきます。「問題ない」と言えば「本当か」と信用せず、「それは大変」などと言おうものなら「どうすれば良いか」としつこく聞かれることが解っているので心理戦になります。度々長い電話がかかってくるので家族も「大変ね」みたいな感じで横で聞いているのですが、いろいろ細かいことを総合してまとめると「若い頃のようにうまく行かない」というのが根本的な彼の悩みのようで、「70まで今の収入で仕事を続ける自信がない」ということを言いたいようなのです。「おいおい、わたしゃ60まででも自分の体力では無理だろうと思っているのに」と言うのですが若い頃スポーツマンでならした彼には自分の状態が納得ゆかないようです。

老いの喪失感を受け入れるのは「共に語れる気の置けない友人」であったり「善き伴侶」であったり「飲み屋のママ」だったりするのでしょうが、自分なりにそういった相手を見つけておくことは人生においてかなり重要なことだろうと思います。現代は生の会話よりもメールや携帯での間接的なコミニュケーションが多くなってきて、また家族の連帯も希薄になってきています。若い人が老人と共に住み語る機会も少なくなってきており、これらの個の断片化とでも言う事態が中年を含めた世の中の「うつ傾向」に拍車をかけているように感じます。
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ドイツで感じた事(1)

2010-07-14 23:31:50 | その他
6月の後半に1週間ほどドイツに学会出張してきました。今回はミュンヘンの腎臓関係の学会で発表したのですが、丁度ドイツはワールドカップでイングランドを下す快進撃の最中であり、街はサッカー熱で大いに盛り上がっていました。ドイツイングランド戦は因縁の対決らしく、新聞もブルドッグ(英)対シェパード(独)で犬がにらみ合っている写真を載せたり、「バイバイ・イングランド」と大書して喧嘩を売っているような見出しのものもありました。日韓戦でこのような見出しを出したらまた国際問題にされそうですが、本当の好敵手、対等な成熟したライバル関係というのはこのようなものであり、日本の態度にいちいち噛みつくというのは所詮韓国は日本と対等になりえない国だということなのでしょう。

ドイツでは日本・デンマーク戦も中継されていてパブリックビューイングも設置されていました。勿論隣国デンマークファンが一杯です。現地時間で夜10時頃試合終了だったのですが、街頭テレビでまわりがシーンとしている所で小さくガッツポーズしてしまいました。中継の解説はあの伝説のキーパー「オリバーカーン」でした。特に興奮するでもなく「日本、よく攻めましたねー」みたいなことを話してました。キャプテンの長谷部がテレビにドイツ語で普通にインタビューを受けていたのが印象的でした(ヴォルフスブルグにいるのね)。

数年前にパリに学会出張した時は帰りの飛行機の11時間があまりに長く、40代後半の身には辛かったので、50を過ぎたこともあり今回初めてビジネスクラスで海外に行きました。いや楽だったです。寝る時はフルフラットでうつ伏せ可能、ルフトハンザのフランケンワインを飲みながら往復とも快適な旅でした。写真はミュンヘン中心街にあるドイツ博物館に展示された名機メッサーシュミットBf109Eで戦後もスペインで使っていたGとかでなく初期タイプのEである所がファンとしては嬉しかったです。他にもユンカース52とかBf108とかフィゼラーシュトルヒ、Me163、第一次大戦のFokker三枚羽やローゼンジ模様の複葉機などもあり、同行した家内は嬉しくなかったでしょうが、飛行機ファンの小生は大満足でした。鉤十字はご法度なので消してありましたが、ドイツの優れた技術の一環として(他にも初期の印刷機とか詳しく見学すると半日以上かかる)当時の戦闘機が並べてあったのはドイツ人のさり気ない自信のようなものを感じました。

後日ミュンヘンの街並みやローゼンハイムの酪農家の友人を訪ねたことなど記します。
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増税と公務員給与

2010-07-13 19:07:03 | 政治
参議院選挙が終わって民主党が敗退し、自民その他が議席数を延ばしました。選挙戦突入時に菅総理が消費税増税を持ち出したのは、予想以上に衆議院で一人勝ちしてしまった民主党が小沢氏を排除してアメリカ言いなり政権になってしまったので、「ここで民主がまた勝ってしまうと取り返しがつかないアメリカ売国政府になってしまう」という危機感をいだいた民主党新首脳部が自爆テロさながら10%増税を持ち出して選挙を敗北に導いたと考えると納得がゆきます。これでアメリカから種々圧力をかけられて法案を急ぎ審議しても通らなくなります。安倍、福田総理の突然の政権投げ出し、麻生総理の政権交代を促すかのような振る舞い、鳩山氏の突然の辞任、菅総理の選挙自爆テロとアメリカからアフガン派兵を強要されたことを何とかうやむやにするために取った戦略とすれば納得ができます。(と極めて良い方に解釈しておきましょう)

相変わらずのデフレ経済で、物価が安くなる一方で国民の給与も低下しています。景気拡大に諸外国の需要を期待して輸出産業に頼ることはこの円高傾向では不可能ですから、やはり内需に期待するほかありません。しかし内需拡大には消費を司る国民の給料が高くならないといけない。一般に政府予算を減らす手だてとして「公務員の削減や給与カットをしなさい」、と言われ続けていますが、私は反対です。民間の給与が下っている時に公務員の給与まで下げてしまったら誰も国内で消費をする人がいなくなってしまいます。バブルの時は民間の給与がどんどん上がっていったのに公務員は定期昇級だけで寂しい思いをしていました。不景気の時は民間の給与が下っても公務員の給与は下げずにもらった分はきちんと消費にまわしてもらって内需の下支えになるべきです。勿論遊んでいる公務員は配置替えをするなり国民の公僕として尽してもらわないといけません。また必要以上にベースアップすることもいけません。しかし元々日本は諸外国に比べて公務員の数は少ないのですから、適材適所にした上で数や給与は減らさない方が良いと思います。

21世紀に入ってから企業の労働組合はまるで「良い子」の集団になってしまったようにおとなしく、労働者の給与増加をうるさく言わなくなりました。おかげで一部景気の良い企業は内部留保だけが増えて労働者の給与は増えるどころか派遣労働などの増加で減少傾向にあります。内部留保は外国人(ファンドなど)投資家の株主(しかももとでは日銀がタダ同然の金利で貸し出した円)に分与されたり、下手をするとトヨタのように言いがかりをつけられて訴訟となってアメリカに吸い取られてゆく運命にあります。経営者にとっては「組合がうるさいから」という理由で内部留保を日本国民の給与という形で還元できるのにみすみす外国人にくれてやる結果になっているのです。つまり日本人が汗水たらして働いて得た金が外国人に吸い取られてゆく構造が労組という合法的な暴力装置が働かないために不動のものになってしまっているのです。

だから私は公務員の給与は下げるべきではないし、公務員給与が一般の給与を引っ張る形で私企業労組はもっと闘争的になり会社から内部留保を引き出すべきであると主張します。日本の国益はかように守られるべきであるし、民主党の主導すべき(表立ってはアメリカがいるので言えないでしょうが)道は労組にはっぱをかけることではないでしょうか。

話は変わりますが、企業の社長などになると地域のライオンズクラブなどに入ってその地域の名士の人たちと親交を深めます。それ自体は良い事のように見えますが、このクラブの地区長になるとアメリカに研修に行って、ロックフェラーの手下の手下程度の人間から高説を賜り、それを日本に帰ってから2年の間に地区のすべてのクラブを回って伝道師よろしく教えを伝えないといけないらしいです。宗主国というのは植民地を直接支配せずに現地人の協力者を手なずけて支配するのがよいやり方と言いますが、まさにこれでしょう。しかも聞くところではこの地区長になることは支配者の犬として使われることが精神的に苦痛ではなく、本人にとって名誉なことらしく、自分の本来の仕事を後回しにしても伝道の仕事を優先するらしいです。「ばっかじゃなかろか、」と思うのですが、このようなメンタリティがアメリカの戦後教育によるものなのか、日本人が生来もっている辺境性によるものなのか一度内田樹先生に教えていただきたいものです。長と言われる人たちのどれだけが日本の真の国益を考え、またアメリカに一泡ふかせてやろうという気概をもっているのか知りたいところです。

話はもどりますが、私は消費税を上げるなら日本国民の平均所得を1.5倍にしてからだろう、と常々考えています。かつて所得倍増計画という政策を池田総理でしたか、提唱して誰も本気にしなかったものを見事達成し、高度成長時代の基礎を築いたことがありました。日本人の所得を1.5倍にすることもやればできると思います。結果的にインフレにはなるでしょうが内需を確実にのばしたインフレならば財政赤字は相対的に縮小し国民の生活水準は上がります。

その意味で左翼がんばれ、と申し上げたい。

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書評 日本辺境論

2010-07-04 01:29:54 | 書評
書評 日本辺境論 内田 樹 著 新潮新書2009年刊

2010年新書大賞とあり10年3月で12刷とあるのでかなり売れていて読まれているのでしょう。それは納得できます。著者の論の進め方は細かいことを言わず「ざっくり」していて解りやすい。「はじめに」で述べられているようにこの本の内容はどこかで聞いたことがあるような日本人論の寄せ集めなのですが、その集め具合と論旨の展開に著者なりのオリジナリティがあってしかも「ストンと腑に落ちる」ように納得してしまう解りやすさが人気の秘密のように思います。

全体を貫く「日本を辺境」たらしめる論旨の中心になる部分は、日本は常に外国(古くは中国、近代は西洋)を世界の中心であり日本より優れたものと決めつけて、自分を遅れた者、劣った者と規定した上で外国の文化を無批判に受け入れ、しかも自分に都合の良い所だけかいつまんで自分の物にしてきた、という主張です。そして日本の辺境ぶりは日本の欠点というよりも特徴として自分達自身が自覚した上で利点を多いに生かそうではないか、というのが著者の主張です。

第一章の「日本人は辺境人である」は他との比較でしか自国を認識できない日本人が明治以降なぜこのような歴史をたどってきたのかを「辺境人のメンタリティ」から解説しています。幕末に日本の列強にたいする劣位を強烈に意識して日露戦争までの間に洋才を取り入れ、第一次大戦後に五大国に列するまでになったのに自分の確固たる地位を列強の中で確保することなく戦争に勝ったロシアのやろうとしていたことをアジアにおいて忠実に再現してしまったためにロシア押さえ込みのために日本に味方していた列強を敵に回してしまい第二次大戦の失敗につながってゆくという辺境論としての解説も何か説得力があります。

第二章、辺境人の学び論は、良い悪いの検討をせずに無条件にまず何でも取り入れてしまう日本人の学びようは非常に効率が良いもので時に学ぶ対象である師の存在を超えることもあると解説します。

第三章の「機」の思想、は作用、反作用のうちで辺境人は反作用の方だけを異常に発達させた民族である、という趣旨なのですが、自分達が劣等であると認識しているうちは良いけれどもその認識が薄くなって危機意識が薄れてしまうと学ぶ力も自力を発揮するパワーも衰えてくる、つまり「ゆとり教育」が単なる「なまけ」という結果でしか現れないのだ、という解説がなされます。

第四章の「辺境人としての日本語」解説は、優位劣位、作用反作用の判断に重点をおかなければならない日本人の生活においては、その用いる言語は常に話者のどちらが上位者権威者かを決定づけるように構造づけられており、一人称だけでも相手に応じて様々な階層分けをして使い分けられるようになっている、そしてそれを外国語訳することは不可能であると解説しています。テレビの討論番組においてもしばしば問題点の議論がなされることなく、話者のどちらが権威。上位の立場を取れるかが議論されているだけのことがあると言われるとなるほどと感じます。東京都知事の記者会見とか、某自民党の元大臣の討論番組での発言など良い例かと思いましたし、医者の世界でも学会の質疑応答に単に「俺が言っていることだから正しい」みたいなレベルの低い討論しかしない人がいることを思い浮かべなるほどと思いました。

この本の結論は、DNAに刻み込まれたどうにもならない辺境性に落胆することなく、これで得をすることも多いのだから良く自覚した上で得する場面では多いに辺境人に徹しようよ、という明るい結論です。小生としてはこの結論に賛成です。
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