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rakitarouのきままな日常

人間の虐待で隻眼になったrakitarouの名を借りて人間界のモヤモヤを語ります。

書評 戦後史の正体

2012-08-25 19:24:36 | 書評

書評 戦後史の正体 孫崎 享 創元社 2012年刊

 

既に多くのブログなどで話題になっていて私も早く読みたいと思っていた本です。前に読んだ日米同盟の正体もつい見逃してしまう在日米軍と自衛隊のあり方について見直す上で秀逸だったので今回も期待して読んだのですが、評判に違わず具体的事実や資料をあげながら米国との相克で戦後の日本がどのように変わってきたかという歴史を実に簡明に説明しています。高校生の息子も夏休みの宿題の一環として読みましたが、日本の現状を理解する上で日本の高校生以上の人たちは全員読むべき内容であると確信します。

 

歴史の説明の柱となる部分は、日本の戦後70年の歴史は米国の容赦ない戦後政策によって振り回され、歴代の為政者達は米国に対して自主独立的立場を保とうとする人たちと従属して言いなりになる人たちに別れ、自主独立派の人たちは必ず検察(地検特捜部というGHQの日本国内を自由に取り締まるために作った組織)、メディア(CIAから資金をもらう)、一部官僚などによって潰されてきた経緯があり、それは現在の小沢裁判にも受け継がれている、というものです。また中には特定の問題について米国からの圧力に抵抗して結果的につぶされていった人たち(一部抵抗派)という範疇に属する人もいます。

 

注意を要するのは「従米派」=「売国奴」と言う訳ではなく、それぞれの時点で米国に従うことが最終的に国益に叶うという判断で(結果は異なったかもしれないが)そのような判断をしたという前提で説明がなされていることであり、今後も従米派と独立派を使い分けながらうまく立ち回ってゆくことが日本が生きる道であることを説いている点です。詳しくは書きませんが、自主派に属する首相達には意外に思う人も含まれます。重光葵、石橋湛山、芦田均、岸信介、鳩山一郎、佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫、宮沢喜一、細川護煕、鳩山由紀夫の面々が自主派とされるのですが、岸氏や宮沢氏についてはなかなかそのような観点でみたことがなかったので認識を新たにする思いでした。

 

一方、従米派に属する首相達は吉田茂、池田勇人、三木武夫、中曽根康弘、小泉純一郎、海部、小渕、森、安倍、麻生、菅直人、野田佳彦の各氏があげられ、戦後の名宰相と言われる人たちから疑いようもない屈米(これは売国奴に近いと思うが)の人たちも含まれます。一部抵抗派には意外な人がいて、鈴木善幸、竹下登、橋本龍太郎、福田康夫の各氏が挙げられています。福田氏など途中で政権を投げ出して何だと思っていたのですが、アフガンへの陸自派遣と破綻寸前の米金融会社(ファニーメイとか)への巨額融資を拒否して政権にいられなくなったという説明がなされるとなるほどと頷けます。

 

政治家が政治生命を絶たれる時には日本国民の税金で養われているのにアメリカの犬として働く地検特捜部(警察と検察の権力を持つというゲシュタポ的異常組織—日本国のためには早々に解散したほうがよい)に汚職などで摘発されるか、メディアにネガティブキャンペーンをさせるか、証拠は当然ありませんが、中川氏や松岡氏のような不審死を遂げさせるかの手段が使われます。地検やメディアはインターネットによって背後関係を暴かれる事態が多くなってきたので今後は使いにくくなるでしょう。不審死をさせるという方法は政治テロ以外の何物でもありませんが、今後は増えてくるかもしれません。

 

同書にも明記されていますが、米国の他国への対応というのは米国の都合によってころころと変わります。終戦直後においては日本を完全に非武装化して国力も他のアジア地域並みにした上で米国への復讐心をなくすことが主眼であったものの、現在は武力を充実させて米国の先兵として米国の世界戦略に協力する存在であることを望まれています。勿論その費用は日本持ちです。日本が独自にアジアでイニシアチブを取って中国やロシアと連携するなどというのはもってのほかであり、そのような事を企図する政治家が現れれば総力を挙げてつぶしにかかるでしょう。しかし米国の国力も一極覇権主義を維持できなくなり、米中欧露の多極世界に移行してゆくことが明らかになった現在、日本が21世紀に国民が経済的にある程度豊かな生活を保った状態で生き延びてゆくには従米一辺倒でよいはずはありません。最近地検は日本の遺伝子創薬の第一人者を潰すという作業にまで着手してきたようですが、いくら米国の国益のためといえ政治家以外の一般の日本人まで潰す仕事をさせられてよく日本国の官僚として平気でいられるものだと呆れます。反米になる必要はありませんが、お互いにとって良い事は大いにに協力しあい、自主路線を貫く必要がある所は頑固に貫く覚悟が今後は必要になるでしょう。著者はベトナム戦争時の北爆を批難して米国と対立し退任させられたカナダのピアソン首相を例にあげて独自路線の追求が米国が相手でも可能であることを示しています。ロシアもアメリカにひどい目にあっていますが、メドベージェフと異なりプーチンは対米自主路線を貫く覚悟でいます。日本人皆が少しずつでも自主独立の気概を持つ事、少なくとも「アメリカの機嫌を損ねる」などという論調がメディアに出て、圧力もかけられないうちからアメリカの希望を忖度して日本の国益を無視して米国の希望に沿うような政策を取る事をなくす事がまず第一歩ではないかと思います。

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書評 オバマの戦争

2012-07-26 00:36:28 | 書評

書評 オバマの戦争 ボブ・ウッドワード著 伏見威蕃訳 日本経済新聞社刊2011年

 

ウオーターゲート事件でピューリッツア賞に輝いたボブ・ウッドワード氏が緻密な調査報道に基づいてオバマ政権のアフガニスタン紛争への関わりについて描いた力作で、全米#1のベストセラーとなった本の日本語訳です。オバマ氏の大統領としての政治全てではなくてアフガン戦争についてのみを論じていて、大統領本人を含む多数の実在の関係者へのインタビューを積み重ねることで現実の政策決定の過程、つまりどのような意図で誰が「何が不明で何が分かっている状態」であのような決定がなされたのかを再現するという手法を取っています。

 

上記のような手法で書かれた本であり、書いてあることはきっと事実だろうと思いました。しかし本自体がとっても面白かったかというと大作の割りにそうわくわくするものでもありませんでしたし、すごく新しい発見があったようにも思われませんでした。ただ強く感じたのは「始まってしまった戦争を終わらせることの困難さ」というものです。実際に戦場に出てタリバンと戦っている米軍はアフガニスタン国内を親米政権で安定させたいと考えている、一方で政府側は昔の日本で言えば「不拡大方針」であり、国益に見合わない支出(金、国民の生命、国の評判を含む)は早く終わりにしたいと考えている。そのせめぎ合いが本書の大半を占めています。

 

本書には書かれていませんが、私が以前から主張しているように、対テロ戦争などというのは軍隊の本来の仕事ではありません。対テロ戦は警察の仕事です。軍隊というのは「他国の軍隊」に対して武力で戦うことを前提に機構が作られ訓練されています。その戦争は一定の政治目的を達成するために「ここまでやったら終了」という目標を定めて行うものです。アルゼンチンと英国のフォークランド紛争が最も分かりやすい例ですが、島の実効的奪取、島の再奪還という明確な政治的目的に基づいて具体的な目標を定めて武力衝突が起こる事が軍隊の正しい使い方です(似たような事が尖閣でおきなければ良いですが)。

アメリカの人気テレビ番組のNCIS(Navy criminal investigation service)はシーズン9まで放送されて、私もFOXで8の終了まで毎週見てましたが、彼らは米海軍(海兵隊)の中の指揮系統から独立した警察官として捜査をしているので犯罪やテロに関わる事件の解決が可能になっている訳で、米軍が米国内に部隊展開していても事件の解決などできないというものです。

 

話を本に戻しますが、本の後半は軍が効果的な成果を出して米軍が引き上げるためにはさらに4万人の増派が必要と言うのに対して、オバマは3万人で決着をつける過程が描かれます。軍はテロ組織の温床であるタリバンを根絶するため、アフガン戦争の目標を親米政権の下での治安回復に設定しているのですが、オバマ政権側は「タリバンの弱体化によるアフガン内のアルカイダの根絶」を目標にしている点が違います。つまりアフガン国内はタリバンが残っていようが国民がどうなろうが基本的にどうでもよい、のです。 ここで4万人増派は、アフガニスタンの治安維持のための「警察部隊」の訓練に必要、という理由が軍から出てくるのですが、軍自体も治安維持は軍でなく警察の仕事であることが本当は分かっている訳です。

 

私はこの本を読んで閣僚の中では副大統領のバイデン氏が最も堅実でアメリカのことを心から考えている政治家ではないかと感じたのですが、アフガン戦争に確たる目標がないこと、犠牲にかなう国益が伴わないこと(要は戦争の大義がない)を常に主張して軍から煙たがられています。実際911以降米国内ではアルカイダによるテロの犠牲者など出ていませんが、毎年3万人以上が単なる銃犯罪の犠牲になっている現実を見れば、10年以上も莫大な金と米国の若い命を犠牲にしてだらだらと戦争を続ける意味がないことくらいは大方の米国人は気づいているのではないか、この本が米国でベストセラーになった背景はそこにあるのではないかと思われました。

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書評 浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか

2012-07-19 00:04:58 | 書評

書評 浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか 島田裕巳 著 幻冬舎新書2012年刊

 

前回のブログでカソリック宗教結社のオプス・デイを取り上げたのは今回この書評を書こうとしていたことと関係があります。日本の仏教は古墳時代が明けた奈良時代からの歴史があり、多くの宗派がある割りには日々の生活の上では多くの日本人にとっては「だからどうした」という程度の関心しかありません。この本は日本の仏教について極めて網羅的に要領よくまとめて、その歴史や分かれていった過程、民衆に広まった所以などを解説した良書だと思います。表題の「浄土真宗はなぜ・・」は読者を日本の仏教史に引き込むとっかかりであって、浄土真宗のことだけを述べた書物では全くありません。

 

ところがこの本、読みやすくまとめてあるのでスイスイ読めるのですが、読み終わった後何が一番印象に残ったかが良くわからない。日本仏教の源流が南都六宗と呼ばれるような奈良、一部京都の仏閣にあって、その時代は葬式仏教ではなかったからそこには直接信者の墓はない。その後法華経、密教、浄土教、禅に大きく分かれて各人が菩提寺というものを持つようになって、家としての墓を神社でなく寺に持ってゆくといったことは理解できます。我が家は曹洞宗(家内の実家もたまたま同じ)で暫く実父の墓が寺の敷地内にあった関係で曹洞禅的な考えも多少理解はしていましたが、この本を読んでもなるほどと膝を打つような感慨がないのは葬儀を除いて、日々の生活に仏教的な要素がなさすぎることが原因ではないかと思われました。宗教的な要素ということでは曜日や大安などの縁起の概念、大して気にはしませんが方角などけっこう生活に入っているように思いますが、それは仏教というよりも古来の神道や道教の概念が混在していて純粋な仏教的思考で物事を考えることが殆どない、というのがピンとこない原因だろうと思われます。

 

仏教では悟りを開いて極楽往生することが最も価値があるとされるのですが、輪廻転生の思想がある我々は必ずしも極楽往生しなくても次も人間界で修行すればよいか、まあ餓鬼道や地獄には行きたくないけど、くらいにしか考えていないと言えます。一神教の世界では自分の人生は神との一対一の契約によって規定されるのでもう少し厳しい(ある意味周りの人々との協調とは関係ない)考え方になるかも知れません。しかし「なんちゃって仏教徒」の我々は日々の生活を悟りを開くための修行とは考えていません。死んで戒名をもらって初めて出家する形になりますが「仏さん」と言ってもらうための方便に近いかもしれません。

 

餓え(飢饉)と病が日常的であった100年位前までは今よりも日々の生活がずっと苦しいものであり、また死というものがもっと身近なものだったので神や仏に救いを求める気持ちは今よりも切実であったことは想像できます。人々は今以上にずっと宗教的なことを念頭において日々生活していただろうと思います。その中で人々の信頼を得るには「救い」が容易に得られること、できれば現世利益に結びついていること、がその宗派が民衆に受け入れられる条件になったでしょう。戒律が厳しかったり複雑で覚えきれないようなものは民衆の心をつかむことはできない。その点「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることが極楽往生に結びつく浄土真宗や、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることで利益が得られる日蓮宗は大衆仏教として受け入れられやすく、表題のように浄土真宗が日本で最も信者が多い理由になっているという説明に説得力が出ます。

 

題目を唱えて現世利益とつなげる新しい日蓮の宗派である創価学会は中小の事業者を中心に政教一致を掲げてかなり多くの信者を抱える宗派になりましたが、ある種オプス・デイや欧州のキリスト教系政治団体、或はイスラム教系の政治団体と同様の運動形態である点で国際的な面があるかも知れません。私は宗教を現世利益と結びつける考えには反対で、宗教は各人の心のあり方や生き方に生かされるべきだろうと考えているのですが、だからといって禅宗を日々の生活に取り入れて活かしている訳でもないので偉そうな事は言えません。ただ宗教的思考を日々の生活に取り入れずに生活している我々は世界の趨勢からはむしろ少数派かもしれないということを認識して世界を見るべきではないか、と書評からは少し離れた結論ですがこの本を読んで感じました。

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書評 沈黙のファイルー瀬島龍三とは何だったのかー

2012-06-25 00:15:51 | 書評

書評 「沈黙のファイル」瀬島龍三とは何だったのか 共同通信社社会部編 新潮文庫6322 平成11年発行

 

私の「同好の士」の間で国際情勢を知る文献として愛読している「ゴルゴ13」の近刊(といっても大分前に連載されたものの復刊)に戦後裏面史として瀬島龍三氏をモデルとして書かれたであろうストーリーが載っていました。そこでは主人公は関東軍の参謀として勤務する際には既にソ連の間諜になっていて、日本兵を使役としてソ連に売ってシベリア抑留を決定づける代わりに北海道進駐をスターリンに諦めさせ、戦後はアメリカの庇護下でアメリカに阿ることで日本経済を発展させ、結果的に日本を豊かな国にするという深慮遠謀の人物として描かれていました。最後はゴルゴの一弾に倒れる運命なのですが、ストーリーは実に面白かったです。そこで実際の瀬島氏の生涯を精査して日本の歴史との係わりを述べたこの本を読む事にした次第です。

 

瀬島龍三氏は1911年生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学校を抜群の成績で卒業し、戦前から戦中にかけて参謀本部で作戦参謀として日本の戦争を計画・俯瞰できる立場で過ごし、終戦間際に関東軍総司令部に転出、シベリア抑留、東京裁判にも証人として出廷、その後抑留生活に戻り、11年の抑留生活の後帰国します。その2年後、私の生まれた年である1958年に旧軍のつてで伊藤忠商事に入社、インドネシア賠償ビジネス、日韓条約ビジネス、自衛隊創設後の防衛ビジネスを契機に氏は社内で昇進してゆくと同時に海外や国内の政治家とのつながりが広がってゆきます。1978年には伊藤忠商事会長、日本商工会議所顧問、1981年第2次臨調委員としてで国鉄、電電公社などの民営化に係わり、その後中曽根内閣や竹下内閣の相談役として日本の政治に係わってゆきます。

 

抜群に優秀で、抑留生活を除いてどの時代においても日本の国家の中枢に近い場所で活躍した氏の生涯については、頭書の劇画に描かれたように様々な謎や憶測がつきまとっています。参謀時代の戦争の遂行における責任、関東軍参謀として将兵のシベリア抑留決定についての責任、東京裁判での発言、抑留時代の特別待遇、帰国後の政財界における活動とソ連との関係、氏の本性は国士なのか我利追及の偽善者なのか、氏が存命中活躍している割に多くを語らなかったために多くの足跡がどのような意図をもって行われたのか良く判らないというのが実情です。もしかすると東条英機や山本五十六に劣らない決定的影響を日本の歴史に及ぼした人物かも知れないのに(例えば米軍駐留経費の一部を日本が持つという思いやり予算を発案したのは瀬島氏らしい)、表の歴史において語られる事の少ない人物の一人と言えるでしょう。

 

複数の共同通信社の記者の共著という形を取っているので、思い込みによる一方的な描き方にならず、多くの参考文献と実際に氏と係わった人達へのインタビューを中心に構成されていて、内容は非常に説得力があります。また氏の生涯のみでなく、大戦前から戦中にかけての参謀本部の様子、北進か南進かの選択、服部卓四郎や辻政信らの言行など興味深い記載も多く、太平洋戦争開戦がどのように決定されたか、ガ島敗戦の経緯なども判ります。戦後の賠償ビジネスで商社と相手国の政府首脳がどのような取引をしたかといった記載、シベリア抑留の日本兵達が帰国と同時に日本共産党本部に直行して報告した事態の背景(ソ連に洗脳されて帰国した説がありましたが、実は厳しい環境の下、抑留者向けに作られた日本新聞によって自発的に旧軍の体制を逆転させる民主化革命が広がって結果的にあのようになった)など、私の知らなかった事が満載な内容でした。圧巻は当時のソ連軍で抑留者の管理にあたっていたイワン・コワレンコ氏とのインタビューで、抑留者の生活、抑留者からのスパイ養成、瀬島氏の生活などが直接語られている事です。

 

この本から受ける印象では、瀬島氏の人生というのは、その場において与えられた環境において最も良いと論理的に思われることを全力で遂行し、結果的に周囲や国の為になれば良い、ということをやり続けてきた人生のように見えます。自己の利益のために卑怯なことを平気でするということもなければ、信念を貫くために自己犠牲を厭わないタイプでもない。ソ連のスパイであったということはないでしょう。氏の性格は優等生で抜け目がなく、実務に優れるというリーダーというより参謀タイプの人です。氏が日本の国益を考慮していたことは認められるものの、ではどのような国家に日本がなるべきか、国民はどのような生活をすれば幸福になるかということは実はあまり考えていなかったのではないか、というのが私の瀬島龍三氏についての感想です。

コメント (2)
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書評 ひとりでは生きられないのも芸のうち

2012-05-10 00:27:51 | 書評

書評 ひとりでは生きられないのも芸のうち 内田 樹 2011年 文春文庫

 

変った題名の本ですが、内田樹 氏のいつもの「判りやすさ」と「ウイット」に富んだ内容を表わしたものと思います。著者が前書きで述べているように、この本の主旨は「当たり前すぎて敢えて口に出して表現しなかったことを敢えて評術することで現代における問題を浮き彫りにしよう」とするもので、氏の書き連ねているブログから若い人に身近な「結婚」「家族」「仕事」といったトピックを特に選んで編集したもの、と言えます。

 

当たり前すぎて云々・・というのもやや抽象的な物言いですが、より具体的に言うと「江戸時代以来無意識の内に日本人に連綿と続く社会や家族の慣習や考え方、エトス」といったものを改めて表出してみることで、現代の問題とされることが意外とその常識を否定したり無視したりすることで起きているのではないか、ということを提起した本と言えます。

 

人間は一人では生きられない、社会を形成して、役割分担をし、自分でできないことを他人にやってもらうことで初めて生きてゆけるし、社会を形成する個々人が自分のできることをより沢山することで社会全体が豊かになってゆく、ということが全体を貫くテーマであり、「ひとりでは生きられない・・」という題名が表わす内容と言えます。

 

市場経済的考え方では「より少ない負担でより多くの物を得る」ことが市場的には正しい行いとされています。これに従って、個々人が仕事として社会に対して行なうパフォーマンスがより少なくなり、得るものをより多くしようとすれば社会全体におけるパフォーマンスが少なくなり、社会が貧しいものになります。だから得る物以上に奉仕をするオーバーアチーブメントの部分を誰もがもつことによって社会全体としてはより豊かなものになる、というのです。

 

病院におけるモンスターペイシャント、学校におけるモンスターペアレントに代表されるように、現代社会は「とにかくクレームを付けさえすれば誰かが責任を持って状態を改善してくれるもの」という前提で動いています。そのお先棒を担いでいるのがマスコミですが、クレームを付けられた側で「かしこまりました、改善いたします。」と夜を日に継いで社会システムの改善に取り組む人間、言うなれば社会の維持にとって欠くべからざる「大人」の人達がどれくらいいるかについては確認されていません。実はクレームを付けさえすればどこかの誰かが責任を持って社会システムを一生懸命改善してくれるという世の中は損得で物を考える市場原理主義的思考が中心になった日本にはもうないのではないか、というのが内田氏の主張です。内田氏は5人に一人位、オーバーアチーブメントをして社会に奉仕してくれる大人がいれば社会は崩壊しないですむ、と言います。5人に一人は少ないようにも見えますが、常に同じ人がオーバーアチーブをする必要はなく、時と場合によって適宜奉仕する人が入れ替わる事で社会はうまく回ってゆくということです。

 

確かにわが家では5人家族で現在私がオーバーアチーブメントをして家計を支えていますが、いずれ子供たちが支えてくれることになるでしょうし、今でも休みの日は明らかに家内の方が仕事量が多いです。職場においても現在は小生が病院内では給料が同じなのに他の医師よりも仕事も売り上げも多いと思いますが、かつて研究医をしていた時は誰かが私の分医療を沢山行なっていてくれたから研究に専念することができた訳です。

 

「何でも一人でできる」というのは必ずしも理想的な生き方ではない、「他人に頼って生きることができる」方が実は強いのだ、つまり曹操よりも劉備のような生き方の方が強いというのも氏の主張の中に出てきます。身近な話題ですが、つい先日7時間にわたる膀胱全摘の手術を行ないました。数年前ならば8−9時間の手術でも平気で休みなく術者として完遂できていたのですが、先日は4時間を過ぎたあたりでへばってしまい、若手が外来を終わって手伝いに来てくれるのを見越して、手術着を着たまま座って休憩してしまいました。途中尿管に癌が浸潤していたので数回病理に迅速の検体を提出して尿管がどんどん短くなる試練とか、思わぬ所で出血をする試練とか疲れる要素は沢山あったのですが、「改めて年齢を感じる」結果に我ながら唖然としてしまいました。そんな時にこの本の題名を思い出して、無理せず「疲れたからしばらく術者を代わってくれ」と正直に弱みを見せるのも実は人間としての強みかも知れないと思い直した次第。勿論手術は無事終了して結果は良好、チームとして良い成績を出せれば個人として弱い所があってもそれでよいのではないかとこの本から学んだように思いました。

 

この本には「手術で疲れたら休んで良い」などとは一言も書いてないのですが、次にブログに取り上げようと思うEUとグローバリズム市場の問題については単行本が出されたのが2008年であるにもかかわらず間接的に触れられています。つまり社会の歴史に基づく考え方と市場の利益中心の考え方が会わない場合が多々あり、個の利益や独自性の追及が市場のや利益の拡大には有用だが豊かな成熟した社会の維持を困難にさせている例を種々紹介しています。

 

社会を維持するために損得を考えずオーバーアチーブメントする(滅私奉公するとも言える)ことは個人の引きだしを多くすることでもあり、個の拡大にもつながります。クレーマーが拳を振り上げて「責任者出てこい!」と言ったときに「私が責任を持って社会を維持している者ですが何か?」と堂々と言えることがいかに素晴らしいか。当たり前すぎて普段活字にはならない内容かもしれませんが、実に大事な事だと思いました。

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書評「仏教・キリスト教 死に方・生き方」

2011-09-05 20:09:27 | 書評

書評「仏教・キリスト教 死に方・生き方」玄侑宗久・鈴木秀子 講談社+α新書 2005年刊

 

臨済宗僧侶で芥川賞作家でもある玄侑氏と聖心女子大教授でシスターである鈴木氏の仏教とキリスト教からみた死生観、人生観の違いを対談形式でまとめた物です。両氏ともに宗教の教義や価値観について厳格ではなく、柔軟な考え方を持っておられるので仏教とキリスト教の類似点や熱心な信者でない一般人にとっての宗教のあり方(すがり方?)を理解しやすく解説しています。

 

特に死と死後の世界について両宗教の考え方にとても興味があったので、それらについて語った1−2章は興味深く読めました。本来宗教とは「いかに生きるか」という生について語っているものですが、一般の日本人にとっては「死んでからが宗教の出番」という認識があるように思います。葬式仏教と揶揄され、日本人の日常生活に積極的に係わることを放棄したように見える仏教界にも問題があるかも知れませんが、寺院が江戸時代の檀家制度のような統治機構の一部に組み込まれてきた反動で、日本人が仏教を「生き方の範を示すありがたいもの」とあまり考えなくなった事もあるかも知れません。

 

仏教で死後の世界を引き受けるようになったのは浄土教からで、それまでは現代医学と同様、大日如来や薬師如来による病気治療に主眼がおかれていたと言う指摘はとても面白い。阿弥陀如来が出来て死んでからも極楽浄土で生活できると説かれるようになって初めて「死が全ての終わりではない」と死への恐怖を仏教によって癒せるようになった、死に行く人に阿弥陀経を枕経として唱えて安らかな死をいざなうという仏教的ホスピスの原形が鎌倉時代からあったというのは奥深いものがあります。

 

キリスト教においては、死は土で作られた肉体から霊魂が天上に帰ることを意味しているので審判は受けないといけないようですが、やはり死が全ての終わりではない。臨死体験で洋の東西や宗教を問わず類似した「光に包まれるような体験」をしていることは「死が全ての終わりではない」という希望を人間に抱かせて、自分たちのそれぞれの社会に合わせた宗教を形成してきた原動力になっているという考察を我々読者に与えてくれます。

 

両者の共通の考えとして、諸宗教の原則はしっかりあるけれども百人百通りの宗教があって良いのではないか、という日本人にはありがたい考え方で内容が書かれているところがあります。これは一神教のキリスト教ではなかなか許されない所でしょうが、本来「天主様」とか「デウス様」とか訳していたGODを種々雑多な神がいる神道における「神」と同じ訳を使い出した時点で(本書によるとこれは戦後のこと)、キリスト教の厳格な一神教としての存在感が日本において薄れてしまったのではないかと私は考えます。結果は裏目に出た訳ですが、多分占領軍は日本人をキリスト教徒に改宗させたかったために日本人になじみのある「神」という言葉をGODの訳として使うようにしたのでしょう。結果としてキリスト教は日本的な緩い解釈が広まってしまって、結婚式だけ教会でみたいな使われ方になってしまいました。

 

死に向かう宗教のありかたは、どの宗教においても死に行く人に「死の向こうには平安がある」という安らぎを与えようとする、と言う点で皆共通のものであるように思いました。

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書評 現代霊性論

2011-08-19 22:42:42 | 書評

書評 現代霊性論 内田 樹、 釈 徹宗 講談社 2010年刊

 

内田氏が勤めていた神戸女学院大学において同名のテーマで行われた対論形式の大学院の講義を一冊の書籍に対論形式のまままとめた物で、社会学者(文学部教授というより)の内田氏と浄土真宗住職である釈氏が現代のスピリチュアルブームと宗教、習俗の関係を解りやすく考察したものです。

 

前に書評を書いた「日本辺境論」や普段読ませてもらう内田氏のブログでも感ずることですが、氏は皆が漠然と感じている風潮についてやや雑駁ながらもおおまかに分析してその社会的背景などを解りやすく解説するという手法に大変優れていると感心させられますが、本書においても現代の心霊ブームの背景、旧来の宗教との関わり、新興宗教、そしてオウムなどのより新しいオカルト的な宗教が現代日本社会に受け入れられやすくなっている状況などを日本人の心にある「霊性」という論点から実に腑に落ちる感じで明快に解説しています。

 

まず神や霊という科学的に実態を証明できないものをいかに規定するか、という話から入る所はトマスアクイナスの神学大全がまず「神の存在の規定」から始まるのと同様に目の前に示すことが出来ないものを論ずる場合の常と考えられます。ここで氏は「現象学的アプローチ」と称して、神や霊が存在すると考えられているために引き起こされている種々の行動や事象を検討することで神や霊魂の「ありよう」を考えれば良いのだと今後の話の展開方法を規定します。神や霊魂がある、ないの論争は結論も出ないしそれらが影響している社会の分析も導かれない不毛の内容になることが明らかなので、読者がその領域(ある、ない論争)に入り込むことをあらかじめ予防しているとも言えます。

 

以降は「ことだま」の力、ことだまを操るカウンセラーとしての霊能者、死と宗教の関係など、霊的なものの社会に及ぼす影響を自在に話を展開して論を進めてゆきます。そのそれぞれが「なるほど」と思わせる説得力があるのが読んでいてい面白い所でしょう。

 

本書の柱になる部分は宗教と霊との関わりなのですが、旧来の宗教が日常的な儀礼を重視して社会生活に関わってきたのに対して、日本では戦後に興隆した新興宗教は日本の経済復興や発展を背景にした「現世利益」を比較的前面に打ち出している傾向があると分析。また80年代以降に興隆してきたポスト新興宗教と分類される宗教は、都市生活における社会の非儀礼化に伴う個人の孤立化に対応して個人の悩みにより向き合う傾向を持ち、霊的体験の希薄化からよりオカルト的な傾向も併せ持つようになっていると分析しています。また旧来の宗教が社会とつながりを保つことで宗教が個人の社会生活を壊しかねない暴走を防ぎ、内容的にも時間をかけて洗練されてきたのに対して、新しい宗教は実社会から隔絶する方向性を持っているから霊的な心情に訴えかけられて信じてしまった個人が客観的に判断して行動できにくい(要は信者が洗脳されやすい)状況になっているとその危険性を指摘しています。

 

私は個人的には緩和医療において最近注目されている「スピリチュアルケア」というのはどのような事を目指しているのか、それはキリスト教圏と仏教や儒教を信奉する社会圏において違いがあるのか、といったことに興味をもっています。本書にもキューブラーロスの有名な死の需要の過程などの話が紹介されていますが、旧来のキリスト教の霊の扱いとニューエイジと言われる世代の霊魂の扱いがどの程度矛盾対立するものなのかの詳しい論考はありません。アメリカの映画やテレビドラマなどでも死後の霊魂を扱った作品が多くありますが、「ゴーストNYの幻(映画)」とか「ゴーストー天国からのささやき(ドラマ)」などで描かれる死と霊魂のありようは我々日本人からみてもあまり違和感がない描かれ方に見えます。

 

本書の後半で「タブーとは境界領域であることが多い」といった論考や最後に学生からの質問に答えて「死は生の対極にあるのではないだろう(死によって生の意味がわかる考えると、生きている時の迷いや悩みは大きいほどある時点で得られる悟りも大きいのではないか)」といった論考はかなり宗教的な深い考察を含んでいてためになりました。

 

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書評 不思議なキリスト教

2011-08-01 20:02:53 | 書評

書評 不思議なキリスト教 橋爪大三郎、大澤真幸 対談本 講談社現代新書 2011年 刊行 

 

本書は宗教に詳しい社会学者である両氏が、大澤氏が一神教を代表するキリスト教について根本的な疑問をぶつけて、橋爪氏がそれに解りやすく答えるという対談形式を取りながら、キリスト教的な世界の見方、考え方を理解してゆくというもので、正直「最近読んだ本の中では一番面白かった」本です。 

 

ユダヤ教やキリスト教はだいたいこんなもの、という知識はあっても元々信ずる気は無いから興味を持って深く聖書を読むといったことはできないのですが、この本ではキリスト者が困惑するような根源的な問い、例えば一神教なのにヤハウエとキリストと二人神がいるのはおかしいし、しかもキリストは大工のヨセフの子で兄弟までいると聖書に書いてあるのは人間として歴史上存在した証で、十字架で死んでいるから人間だし、それを神だとするのは偶像崇拝にあたるから教えに矛盾しているではないか、といった疑問を合理的に説明する過程(公会議などを開いて歴史的にとても苦労しながら解決してきた過程も)をとても興味深く読む事ができました。 

 

この本を通して「目から鱗」というか「ああなるほど」と腑に落ちるように感じたのは、西洋人の物の考え方が極めてキリスト教的であるということです。我々日本人が物事の善悪を判断する根拠は「統治者の哲学」と言われる儒教的思考をもとにしていて、「自分の属する集団にとって利があるか」が判断の元になります。立場と状況よってそれが家族であったり、会社、国、地球人、未来の日本人と範囲が変りますが、「属する集団の利害」を元に善悪を決めていることは明らかです。しかし一神教のキリスト者は集団の利害よりも万物の創造主である神と自分との関係(契約)で善悪を判断していると言えます。我々からすると、ときにはそれが非常に個人主義的に見えたり社会や自然との調和を乱しているように見えたりします。一方で我々日本人は非科学的、非論理的な結論も「集団の利」に適っていれば平気で選択しますね。

 

科学や法のあり方も我々は「生活の利便」のためとしか見ていませんが、キリスト者は神が創造した自然法を解明する神学の一分野として考えているから、あまり実生活に役立ちそうにない超原子物理やヒトが到達できない超遠方の宇宙とかの解明に莫大なエネルギーと情熱が注がれるわけです。また集団における和を考えていたら永久に出てこない「基本的人権」の発想も神と個人の契約の発想があったからこそ出てきた自然法の一部なのだと理解できました。

 

科学と聖書が矛盾している時は、原理主義者は聖書を普通の人は科学を優先するけど、矛盾していない部分はキリスト教全体を信じているのだから、両者には実は違いがない、という説明は面白いし納得がゆきます。我々の集団の利と科学の関係と一緒だと思えば宜しい。日本人は日本国憲法に定められたキリスト教的発想の諸権利や資本主義経済といったものを「こんなものだ」と頭で理解して日常生活を送っていますが、心底納得しているものではないから現実社会では諸外国と違った反応を示す事が多々あります。それは私の専門としている医学においてもそうかも知れないと実感しました(実はアメリカに留学していた時はあまり感じなかったのですが)。

 

つまり私はこの本を読んで書かれた内容からは離れますが、「キリスト教的に医学の達成目標はどこにあるのか」ということに興味を持ちました。日本の医療は制度的にも技術的にも非常に進歩して日本は世界一の長寿国となっています。しかし人間がどのように生きることを目的として医療を行なっているか、という医療の達成目標は実は明らかではありません。国民も「医療で病気が治れば良い」と漠然と考えているでしょうが、介護を含めて「治るとはどの状態を言うのか」明確でないように思います。西欧では何を目標に医療を発展させているのか、アンチエイジングの項で述べましたが、「不老不死」というのは中国道教の思想ですから、西欧で目標とされるアンチエイジングとは発想が異なるはずです。このあたりも機会があればもっと勉強してみたくなりました。

 

 

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書評 2013年中国で軍事クーデターが起こる

2011-07-28 20:02:16 | 書評

書評 2013年中国で軍事クーデターが起こる 楊 中美 著 2010年ビジネス社刊

 

著者は中国の師範大学を卒業後、30台半ばで来日、立教大学、ハーバード大学を経て、現在横浜国大、法政大学で教鞭を取る中国政治研究科です。中国の権力者がどのように決まってゆくのかは日本のメディアで解説されることは殆ど無いので知られていませんが、この本はその辺りからかなり解りやすく解説していて題名のセンセーショナルなインパクトとは異なる現代中国政治の入門書的な意味合いもあります。

 

中国は政治に関しては共産党独裁の専制国家であり自由がないことは誰も異論がないところです。しかし経済においては自由主義経済であり、その「自由」とは政治と異なり「秩序」は重んじられず「何でもあり」の自由であることも周知の通りです。それは本来の共産主義の真逆を行く「拝金主義」の肯定であり政権に阿ってさえいれば、賄賂、契約違反、暴力、何でもOKの凄まじい社会であることも誰も否定しないでしょう。

 

現在の胡温体制は毛トウー江に続く第四世代指導者と言われていて、次の第5世代は習近平李克強体制であるとされています。独裁体制においては、次の指導者は前の指導者が決めるのが習わしであって、二つ前の指導者位までが実は種々の影響力を持って次代の指導者を決めていることがこの本を読むと解ります。しかし、経済規模が日本を抜いて2位になり、オリンピックや万博も開催しえた中国も、国家設立の基盤となった資本主義、階級制度の否定とは真逆の原始的資本主義と極端な貧富の差、インフレによる国民多数の生活苦といった不安定要素が山積みとなり、情報化社会の浸透でいつ国民の不満が爆発するか解らない状態になってきたことも明らかです。

 

2012年には胡温体制が次の体制にバトンタッチされるのですが、その際今までのように穏当に前体制が決めた指導者に引き継がれるのか余談を許さない状況であることは明らかと思います。その際、共産党独裁体制のまま指導者の顔触れだけが変るのか、民主化の嵐が中国にも吹くのか、旧ソ連のように地方が独立するかたちで国家体制そのものが変化するのか、種々の可能性があります。

 

本書では、習李体制に取って代わるかもしれない四人の実力派政治家を挙げて解説しています。1)汪洋 種々の政治的難問を解決してきた実力派 2)李源潮 胡氏の忠実な部下で各方面に強い人脈を持つ 3)薄煕来 軍や国民の人気が高く機を見るに敏な政治家 4)王岐山 北京市長、金融にも強く人柄も良い などの強敵が紹介されているのですが、それぞれどの人物の経歴を読んでも日本の小粒な政治家達とは格が違う波乱万丈で命がけな上、並でない知性を持っていることを証明するような人生を送ってきています。

 

次の世代でもし社会体制が変るとするならば、それに影響するであろう要因として著者は次の事項を挙げています。1)北京中央以上に経済で実力をつけてきた地方政府(と軍閥軍としては表面に出ませんが)、2)地下労働組合と黒社会、3)国軍として帝国主義的力を強める人民解放軍 の3者の存在が安定した共産党独裁体制を脅かす勢力になりつつあります。これに外国からの経済資本の動静も大きな鍵になるでしょう。次世代を担う習李体制がこれらの勢力をどのように取り込むか、或いは敵対した場合に排除できるかが重要であり、先に上げた4人が習李体制に取って代わるにはこれらの要素をいかに味方につかるかが重要になるでしょう。

 

最近のニュースを見ても中国の住宅バブルはすでに崩壊しつつあり、インフレも庶民の生活を圧迫する一方で欧米諸国の不景気から一時ほど経済発展が期待できず都市に浮浪者が溢れてきていると言われます。本書で予想する2013年の体制変化への舞台は整いつつあるように見えます。中国の体制がどう変化しようと中国という国家が消滅することはありえませんし、14億といわれる国民が絶滅することはないでしょうから、中国の今後の変化がアジアにおける21世紀の歴史に大きな影響を与え続けることは間違いないと思います。そのような中国の現況を知る上で本書は良い参考になると思いました。 

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書評 「財政危機と社会保障」

2011-05-29 17:38:35 | 書評

書評 財政危機と社会保障 鈴木 亘 著 講談社現代新書 2010年刊

 

日本の福祉を中心とする社会保障制度を網羅的に解説した上で、財政危機が叫ばれる現在、この制度が今後も存続可能なのか、また今後どのように変えてゆくべきなのかを解りやすく解説した好著です。

 

著者は日本銀行から28歳で阪大経済学部博士課程に入り直して経済学の博士号を取得、学芸大学准教授を経て学習院大学経済学部教授として医療や福祉関連の経済学の著作を多く物しています。私も医療についてはそこそこ詳しいですが、その他の福祉や年金のしくみなどは理解していない所も多かったので素人にもわかるように単純明解に書いてあったので勉強になりました。

 

この本全体を通してのテーマは「経済成長に寄与する福祉はありえるのか。」という1点にあります。2010年の日本政府の債務はIMFの算定基準では973兆円と政府発表の862兆円より100兆円も増えており、対GDP比は1990年には70%弱だったものが現在は終戦時に記録した200%に近い数字になっています。現状の福祉規模を続けるだけで少子高齢化の影響で福祉予算は毎年1.3兆円ずつ増加してゆくのに、「より充実した福祉」「○○手当ての増加」「震災特別復興予算」などで遠からず日本の政府予算は破綻(予算の全てが国債返済分になる)することになるでしょう。

 

福祉予算が増えることで、新たな雇用が生まれ、それが消費に回って税収も増えるというのが「福祉立国」の考え方ですが、著者はそれが幻想であると断定します。それは医療や介護の殆どが公的予算から出されており、畢竟その値段が需要と供給の市場原理からでなく、予算枠によって決められていること、供給側にも効率性や自然淘汰を阻止する強固な既得権保護の政治団体があり、制度改善や新規参入が阻まれていること、また福祉の恩恵を弱者のみでなく中間層以上の国民全体が享受しているため、かえって制度の膠着性が増してしまっていることを理由としてあげています。

 

これらの理由はそれぞれがその通りなのでかなり説得力があります。従って現在の福祉を維持するためには、思い切った増税が必要だという結論になるのですが、最近の選挙結果を見ても増税は当分国民が許さないという結論も出てしまっています。

 

自分が積み立てた年金を年を取ってから受け取るという積立方式の年金制度が本来の日本の公的年金制度だったのですが、70年代に勝手に若い人達が納めた年金がその時の老人達の年金になるという賦課方式に変えられてしまった、ということを初めて知りました。自分達が納めた年金を自分たちがもらうのであれば100%年金が破綻することなどないのですが、労働人口が少なくなってゆくのに賦課方式でゆけば、先に行くほど若い人達の負担が増えて年金が破綻するのは当然です。破綻しないよう政府が税金を投入しても、その税金は若い人達が働いて納めているものですから同じ事です。唯一の解決法は積立方式に戻すことしかありません。つまり払ってなかった人は諦めてもらい(当たり前のように思いますが)、支給額は積み立てた額に比例するということです。

 

我々以降の世代は年金を払ってはいますが、自分たちはもうもらえないだろう、ということは薄々解っています。自分たちの子供たちの世代に多大な迷惑をかけてまで「働かないで金だけもらおう」などと虫の良い事は考えるべきではありません。我々の世代は死ぬまで(動けなくなったら話しは別ですが)自分たちの食いぶち位は何とかするという覚悟でいるべきです。だから高額でなくても年を取ってもできる何らかの働き口は確保してほしいと思います。

 

現在の年金制度では1940年生まれの人は死ぬまでに自分が払ったよりも3090万円多くの年金をもらい、1950年代後半生まれ(小生の年代)でとんとん、2010年生まれだと払うよりも2840万円少なくしかもらえない計算になるそうです。働かず金をもらうということは代わりに奴隷がいないとできないことであり、我々日本人は(西洋人と違って)奴隷制度を否定しているのですから(前の滅私奉公のブログ参照)、また自分達の子供の世代を奴隷扱いするつもりもありませんからそのような制度は直ちに廃止すべきであると思います。(そのような声を是非団塊の世代から出して欲しいものです)

 

著者は将来の社会保障のありかたとして、継続可能なものは自力更生を中心とした最小限の福祉以外にはないだろうと結論しています。現在は健康と安全はタダという認識の下、中間層以上の人達も医療介護などの福祉を公費によるディスカウントによって安く享受していますが、この公費の部分はばっさり切って、本当に貧しくて払えない層の分だけセーフティーネットとして後から払い戻すなどして保障し、公費によるディスカウントをなくすというのが解決策であるとしています。この結論は直ぐに万人に受け入れられることはないでしょうが結局これしかないかと私も思います。

 

終戦時のGDP200%という財政危機はその後のハイパーインフレによって資産家の資産を実質消滅させることで解決し、朝鮮戦争などの景気回復によって国民全体の所得をあげることでうやむやにしてしまいました。現在GDP200%に達しようとしている政府債務をいかに消滅させるかは妙案がありませんが、戦争ならぬ災害があちこちで起って復興のために政府紙幣を発行してハイパーインフレを起こして年寄りの資産を消滅させることで解決する。ある所まで行ったらギリシャのように破産宣言してデフォルトしてしまう(結局庶民の銀行預金とかが無くなりますが)。日銀が無制限に国債を引き受けて紙幣を発行する(国際的に禁じ手だし長くは続かないと思いますが)。など借金の貸し手が日本国民であるうちは国民が損をすることで何とか解決はできます。外国が相手だと資源がないので島を寄越せ(租借地として)とか公務員の人事管理権を寄越せ(間接統治?)みたいな話しになりかねません。

 

日本は今後労働人口が減ってゆくので、労働効率が良くなる以上に実体経済が延びてゆくことは理論的にあり得ません。信用経済が延びるとすればそれはバブルと同じことになる危険をはらんでおり、結局90年代の繰り返しになるでしょう。だから著者が主張するように右肩上がりの経済下でなければ存続しえない現在の年金や社会保障制度は変えないといけない、という認識は国民全てが共有するべきでしょう。日本人は死ぬまで働こう。

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書評 自然死への道

2011-01-30 00:14:28 | 書評

書評 自然死への道 米沢 慧 朝日新書 2011年刊

 

前にも取り上げたことがある、病を治すことを目的とした医療を「往きの医療」とするならば、病と共に良く生きることを目的とした医療を「還りの医療」と表現してどちらも大切、或いは前者ばかり重視されていないか、と問題提起した米沢慧氏の新刊で、私が氏を知った「選択」という雑誌のコラム42本をまとめて本にしたものです。

 

改めて読み返して見ると、氏の一貫した「良く生きるということを助けるための医療とはいかにあるべきか」という主張が、飾らない肩肘張らないことばで優しく語られていることに共感します。日常的な医療の中で全て氏の主張に添えない部分も多々あるのですが、世の中にある「批判のための医療批判」ではなく、現代医療に関して医療現場、行政、国民目線においても見逃されている部分に光を当て、深く考えさせてくれる点で、医療者のみならず患者、国民皆が読み、考えるべき内容を含んでいると思います。

 

構成として雑誌の掲載順でありながら「老いる」「病(やま)いる」「明け渡す(死への道のり)」という内容に別れていて、それぞれ老いを受け入れる、病いと共に生きる、死を受容する(受け身的な死ではなくて、死に至るまでどのように生きるかを自分で選択する)ということについて「緩和ケアのありかた」「アルツハイマーについて」「無縁社会における死」などのテーマを決めて語りかけ、考えさせてくれます。

 

この本の表題で最初のエッセイでもある「自然死への道」、特に「自然死」とは何なのか。何となく理解できるようで説明するのは難しい言葉だと思います。米沢氏は病院での延命治療を拒み、自宅で点滴を拒んで「がん死」を選んだ吉村昭と脳梗塞後の老いを伴う不自由と最愛の妻を亡くした喪失感に堪え兼ねて自死した江藤淳を引き合いに出して「自然死」の形を描こうとしています。

 

(引用はじめ)

「老い」とは老後の事ではないし、死の手前とか生の終わりの段階でもない。老いの受け入れに始まり、老いを超えるという未踏の劇がそこにあるということである。それは心身の慢性的なうつ病状態を受けとめることでもあろうし、介護する・介護を受け入れる勇気でもあるだろう。「病」についてもまた、闘病から病を超える(いのちの明け渡し)過程がいる。自然死は、これらの過程を避けたり、退けてはやってこないということであろう。

(引用おわり)

 

と著者は結んでいます。この一文はその後のエッセイの展開と氏の主張を理解する上でキーとなる文章であろうと思います。またこの本には「なるほど」と腑に落ちるようなフレーズをいろんな個所に見いだすことができます。例えば上に書いた

 

「老いとは心身の慢性的なうつ病状態を受け止めること」

日本語で「私はがんです」という場合”I have Cancer”ではなく”I am Cancer”のニュアンスになっている。

本来の看護とは、心に串を刺されたような状態の患者にただ寄り添うことだ。

痴呆状態になってからの人生は澱のようなものだが、それを「いのちの深さ」(いのちの長さ−いのちの質)ととらえたらどうか。

がん患者の「できるだけのことをしてほしい」という希望は「可能な治療を全てして」というより「最期まで見捨てないで欲しい」という願いだ。

いのちの明け渡しとは病気への降伏ではない、大いなるものに身をゆだねる道を自分で選択することである。

 

などなど、短いエッセイの中に深く考えさせるものが沢山詰まっています。

終わりに私が普段から主張している、健康な人の検査値を異常と規定することで、将来急性疾病がおこるリスクを統計的に減らすことができるとして薬を飲ませる「予防医療」や、既に死んでいる人に儀式のごとく蘇生をする救急医療の欺瞞について考えさせる記述を中川米造氏のことばとして記されている部分を引用します。

 

(引用開始)

「病には病気と疾病がある。検査で異常がみつかったのは疾病であって病気ではない。病気とは自覚症状がでて生活が障害されるようになることだ。前者は患者になるのであり、後者が病人。この病人が医療から取り残されている。」「病気とは臓器と臓器、自分と身体、自分と社会とのあいだを含めて関係のこだわりであり、関係の切り離しである」

「それを修復し、病人を癒すことが医療の役割だとすれば、医学という科学を患者の治療に適用することでできることはごく一部。医療が文化といえる倫理をもつようにならないといけない。」

忘れてならないのは「慰めと癒し」とは患者への配慮、(いのち)への配慮を指すことである。

(引用おわり)

 

ここに記されているように「予防医学」には慰めも癒しも必要ないのであり、医療が文化といえる倫理など全く必要としていないことが解ります。症状のない早期癌を治療することも、疾病の治療であって病人の治療ではないということになります。癌が進行して日常生活に支障を来すようになり、本当の病人になったとき、現在の急性期を主体とした医療は「慰めと癒し」「いのちへの配慮」について十分な手当て(医療内容としても診療報酬としても)がなされていないと感じます。
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書評 いのちのレッスン

2010-11-03 16:15:12 | 書評
書評 いのちのレッスン 内藤いづみ 米沢 慧 雲母書房 2009年刊

在宅ケアを中心に内科を開業する内藤いづみ氏とホスピスや介護・ケアについて造詣の深い医事評論家の米沢慧氏のホームページ上での往復書簡による意見交換を単行本にまとめたもので、ホスピスの生みの親であるシシリーソンダースや死の臨床においての患者の心理を解明したキューブラー・ロス、戦場写真家からホスピスの伝道者となった岡村昭彦氏などをテーマに、近況をまじえながら現代日本における終末期医療の問題点を論じてゆく物です。

それぞれが重いテーマであり、身近な人に癌や死、介護などの問題をかかえていないと関心が持ち辛いものばかりかと思われるのですが、老いや命にかかわる病気は必ず全てのひとにいつかは訪れるものであり、現在関心がなくてもどこかで向き合わなければならないテーマと言えます。また医師である私にとってはこれらは日常的なテーマであり、取り上げられている全てのテーマが身近なものと感じました。

それぞれのテーマについて手短に紹介したり寸評を述べたりするのはあまり意味のないことに感ずるので、在宅ケアや死と向き合う臨床についての全体的な感想を述べる事にします。

在宅ケアで開業する内藤いづみ氏は1956年生まれで、福島県立医大を卒業してから東京女子医大内科を経て現代医療のあり方に疑問を感じて英国に渡ってホスピスの研修を受け、日本でまだ殆ど行われていなかった在宅による終末期医療を始めて現在に至ります。2005年を過ぎて日本の病院医療の崩壊が叫ばれるようになり、また2006年にがん対策基本法が成立して初めて厚労省は在宅医療による終末期ケアも重視するようになりましたが、それまでは内藤氏も診療報酬面やまわりの医療者の理解度など孤軍奮闘の状態であったことは間違いありません。がん対策基本法もその基本理念を読めば判るように、「がん」の早期発見・治療と治療技術の均霑化による「がんの克服」を目的にしているのであって、がん患者が残る限られた人生を有意義に送ることを目的には作られていません。内藤氏は小生のような現代医療に携わる医師達が死の臨床に無関心であることを非常に苛立たしく感ずると書いておられるのですが、それももっともなことだと感じました。

私について言えば、やはり日常診療において「死の臨床」に正面から向き合うことは誤解を怖れずに言えば「めんどうくさい」「苦手」という範疇に入ります。ほら、やはり最近の医者は医療において大切な「医師のこころ」を失っているじゃないか、と言われるとある程度当たっています。しかし実際には私も月に何人かの看取りを行なっているのですから、現実問題としては「死の臨床」を避けて通ることはできないし、苦手と思いながらも向き合っているのですが、何故「めんどう」「苦手」といった感覚を持つのかを考えて見ました。

現代医学は米沢氏の表現を借りれば病気の克服、治癒を目的とする「往きの医療」であり、終末期医療や介護・ケアというのは疾患の治癒ではなく病と共に良く生きることを目的とした「還りの医療」ということになります。全国の大学病院や地域の基幹病院は「急性期病院」と言われて、短期間の治療で治る病気が対象とされ、慢性疾患の場合でも急性増悪したものを安定化させてリハビリなどを行なう療養型の病院に送るのが基本になっています。だから平均入院期間も14日以内であることが求められていて、入院が長くなると病院が請求できる医療費も減額されるように定められています。つまり我々は「往きの医療」を行なうよう厚労省から定められているのです。

医学の進歩によって急性疾患の殆どは治療可能になり「病気は治って当たり前」、「結果が悪ければ医療ミス」などと一般の人々に誤解されるまでになったことは前から述べている通りです。治って当たり前の病気に対して我々医療者の持つ感覚は「商売医療」であって、勿論医療を行なう時にはミスなく全力を尽して医療を行なうのですが、病気が治ってしまえば患者さんとのつながりは一度解消されて、患者さんの人生にまでかかわろうとはしません。だから短時間に効率良く沢山の患者さんを治療するほど病院の評価はあがるしくみになっています。一方で「死の臨床」「死と向き合う医療」というのは患者さんの人生との対話に他なりません。沢山の商売医療を行なっている中でぽつんぽつんと「患者さんの人生に深く向き合うような医療を行なう」ことはかなりストレスのかかることであり、そんなに簡単に気持ちの切り替えができるものではありません。だから「めんどう」であり「苦手」に感じてしまうのです。

老健施設では時に入所しているお年寄りが死亡している状態で発見されることもあります。そのような時、嘱託の医師が来て自然死として死亡診断をしてくれれば良いのですが、往々にして救急車が呼ばれて急性期病院の救命救急室に搬送されます。救急隊は死後硬直しているなどよほど明らかな死亡状態でない限りは心臓マッサージなどの救命処置を行いながら搬送してきますので、病院としても到着と同時に死亡を確認する訳にも行かないので心臓マッサージ、挿管、強心剤の静脈注射などを30分くらい行って、蘇生しないことを確認して家族に説明して死亡判定をします。死斑が出かかっているような亡がらに蘇生措置をすることは無駄なことであり、80年以上生きてきた最期にこのような処置を加えられることは不本意だろうな、と思いながら儀式ともいえる処置を行います。それでも救急を預かる研修医達にとっては貴重な訓練とも言えますし、この経験で将来本当に緊急を要する患者が助かることもあるのですから良しとするべきですが、「老健施設からCPA(心肺停止状態)の患者さん入ります」の連絡が来ると「やれやれ、何故嘱託の医師は診てくれないのだろう。患者さんは自分の死に場所としてその施設を選んだだろうに」とぶつぶつ言いながら救命室に向かいます。急性期病院には93歳の心不全、家族は何もしないことを希望、とか89歳のがん患者、血圧低下、緩和医療のみ希望といった患者さんが運ばれてきます。本来ホスピスや在宅医療で診られるべき患者さんが短期間で治る病気を扱う病院に入院しているのが現実です。

著者の内藤氏は死の臨床に向き合わない医療者のみでなく、時々ある「家族の死に向き合おうとしない家族」にも怒りを表明します。確かに施設や病院に預けっぱなしでなかなか面会にも来ない家族がいることも確かです。緩和医療を苦手に感ずることの一つに「医療者が家族の代わりの役割を要求されている」ように感ずることがあげられます。癒しを必要とする患者さんにもっとも適切な癒しを提供できるのは家族や友人です。医療者は患者の気持ちを理解した上で、家族が疲弊しきってしまわないようにアドバイスをする、或は家族が与えることが出来ない医学的なケアを行うのが役割です。そのような患者、家族、医療者三者の良い関係を米沢氏は「ファミリートライアングル」と呼んでいます。そのような適切な距離感を保ちながら三者が良い関係を結んでゆければ理想的な緩和ケアや死の臨床を行うことができるのだろうと思います。残念ながら日本では医療体制も医療者も患者側もこのような体制には至っていません。この本で語られている内容は本来の医療であり未来の医療ということになるように感じました。
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書評 バカ学生を医者にするな!

2010-10-24 22:48:20 | 書評
書評 バカ学生を医者にするな!―医学部バブルがもたらす3つの危機― 永田宏 著 毎日新聞社刊 2010年

刺激的な題名に思わず手に取ってしまった本ですが、著者が本文の中で白状しているようにこれは手に取ってもらうための題名で、本書の主旨とはやや異なっているようです。書かれている内容が医者の世界についても正しく、偏見や思い込みがないので私はてっきり医学部を出たドクターが書いているものと思っていました。しかし卒業後に勤務したオリンパス工学やKDDIの医療情報研究室などで広く医師と接した上、現在医療関係の大学で教授をしておられるから医療行政を含めて専門的でしかも事実に即した知識を持っているのだとわかりました。

医師不足(私は絶対数の不足でなくリスクの高い医療に従事する勤務医の不足と言ってます)はさすがに国民にも認知されたと思われますが、その解決策として政府から出された答えが医学部の定員増で、07年に7,625人であった医学部の定員が現在1,200人増えて8,846人になりました。また来年度も87人増えて8,900人を超えることが決まっています。以前のブログに書いたように定員100人の医学部が3年間に13校できたのと同じことですが、このことによって起こり得る事態を著者は医学部バブルがもたらす3つの危機として上げています。

1) 医師になる間口が広がったことによる医学部学生の学力低下
ひと足早く8,000人から13,000人に定員増加になった薬学部は定員割れと同時に薬学部学生の学力低下が目立ち始め、薬量の単純な計算もおぼつかない学生が出始めているという。医学部も地域枠や推薦入学枠が増加することで水準に達しない医学生が増加する可能性がある。また国家試験浪人を増やすことができないから医師国家試験のレベルも今後落ちる可能性がある。これは本書の題名にも関連した事象です。

2) 今後医師が増え続けることによる医師の世代間偏在
18歳の人口あたりの医学部定員は1970年代の医学部新設時代前(各県1医大政策前)の団塊の世代では人口1,000人に1.6人程度、1991年でも3.7人であったのに2010年には少子化の影響と定員増で7.3人まで間口が広がった。今までは地域と診療科の偏在が問題であったけれども今後は世代間の医師の偏在が起こってくる。
但し、団塊の世代を中心に今後高齢者が増加するので、世代別人口あたりの医療機関受療率から計算すると医師が今後増えても医師一人当たりの仕事量は減らない、ということです。ではそのもっと後はどうなるのか、著者の興味深い論述があったので引用します。

(引用開始p117)
 見方を変えればこういうことだ。いまから医学部を目指す高校生や、すでに医学部に入って勉強している若者たちは、主に団塊世代の医療を支えるために国によって招集されているようなものだ。あるいはもっと露骨な表現を使えば、団塊世代の最期を看取るための要員ということだ。したがって対象となる団塊世代の大半が鬼籍に入った暁には、多くの医師がお役ご免となる。その時期はおそらく2040年前後になるはずである。2040年までに団塊世代の多くが90歳を超えている。日本人の平均寿命は男が79歳、女が86歳だ。
 一方、2010年に18歳を迎えたひとは、2040年には48歳になっている。人生まだまだこれからという年齢を迎えて、多くの医師が失業の危機に立たされることになる。患者がへってしまってはやむを得ないことだが、それにしても50歳を前にして生活の基盤が脅かされるのである。しかも医師というきわめて専門性の高い職業に就いていることが、かえって再就職の壁を高くしてしまう。(中略)国家によって招集され、必死になって勉強し、働き、気付いたらお役ご免で捨てられる。そういうことがいまからすでにチラチラと見えてしまっているのだから、ある意味、可愛そうでもある。逆に医学部受験に失敗して別の学部・学科に進んだ学生は、案外それが正解だったかもしれない。「人間万事塞翁が馬」というが少なくとも医学部受験に関しては当たっているように思う。
(引用終わり)

これは医学部受験生必読の内容かも知れません。リスクを恐れて医師自身の生活の質(QOL)の良い予防医学を中心としたような科を選択する若い医師達は今後泣きを見る事でしょう。治療をする上でリスクがあり、技術習得も大変で成り手が少ない外科系や救急を今選ぶ医師達こそ将来が約束されていると言えるでしょう(今苦しい状態のロートルの我々は報われないまま引退するのでしょうが)。

3) 誰が増え続ける医療費を払うのか
少子化で生産年齢が少なくなる上に理系の学生の上澄みを全て医学部に吸い取られたのでは技術立国を標榜する日本の産業の未来は暗く、増え続ける医療費を国民が払うことは不可能になる可能性がある。2009年の18歳人口121万人のうち、理系の大学に進んだのは18万3,000人だそうです。このうち医学部合格に必要な偏差値65(上位7%)以上は13,000人で8,000人が医学部に進学すると5,000人しか医学部以外の理工生物系に進む秀才がいなくなってしまいます。これは学力の偏在とも言えます。特に医学部は数学と英語の得意な人が入りやすい入試になっているので本当に理系に必要な能力のある人が医学部に吸収されてしまう、と著者は危ぶんでいます。民主党のマニフェストでは医療や介護で新たな産業を構築して雇用を増やすと謳われていますが、医療や介護が保険でまかなわれている限り保険料以上の産業にはなりえないというのが著者の主張です。

これだけでは将来の医師、日本の医療、日本自体の暗い未来を描いただけの書になってしまうのですが、著者は後半の章を割いて将来の医師と医療産業に日本の未来を託すための提言をしています。曰く、重厚長大なエネルギー効率の悪い産業で儲けるのではなく、医療材料のような軽くても価値の高い製品で将来の日本は立国すべし。医師は地頭が良く、勉強熱心で勝負魂もあるのだから商才を発揮してベンチャーを立ち上げるべし、そのためには医学部の6年間か卒業後のどこかで外国に医学留学でなく医療産業やそのほか将来の日本の国益になるもののために1年でも2年でも留学し、その費用は国が持ってはどうか(一人年間300万として年間240億円、医学部学生に年間かかる国の費用と変らない)。幕末に新生日本のために多くの人材を輩出した適塾のように、日本の理系秀才を全て吸い上げる医学部は日本のエリート教育最後の砦として医師になるための教育だけでなく将来の日本を背負って立つ人材を排出する機関になるべきである、というのが著者の本当に言いたかった結論のようです。

これは面白い意見だと思います。医師である私からみても「この人は医者にしておくのは惜しい(いろんな意味で)」という医師は沢山います。目の前の仕事に追われて副業どころか本業の研究でさえ十分にできないという現在の状態ですが、もっと時間的に余裕のある状態になれば有り余る才能を発揮できる医師達は沢山いることは間違いないでしょう。日本国のためにその才能を使わない手はないだろう、と私も思います。
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書評 官僚利権

2010-10-21 00:13:32 | 書評
書評 官僚利権 北沢 栄 実業之日本社 2010年刊

著者は共同通信を経てフリーのジャーナリストとなり、「亡国予算闇に消えた特別会計」(実業之日本社)「静かな暴走、独立行政法人」(日本評論社)「公益法人―隠された官の聖域」(岩波新書)など徹底して官僚の利権や無駄について追及してきたプロと言えるでしょう。2003年には国会で公益法人改革について参考人として意見陳述もしており、民主党の事業仕分けでは本当に仕分けされてしまうことを怖れた官僚達から事業仕分けの人選から「この人は入れるな」と駄目出しをされた経緯もあると書かれています。

本書は民主党の財源として話題になった「特別会計」に焦点を当て、その無駄からいかに埋蔵金を掘り出し得るかを解説した本です。日本の09年度の一般会計予算は88兆円程度ですが、09年の特別会計はその4倍の354兆円もあるというから驚きです。しかし日本国のGDPが450兆円位ですから、実際にはこれらの国家予算は予算同士の金のやりとり、所謂重複計上を含むので純粋な歳出、純計はこれよりも少なく、08年では一般会計で34兆円、特別会計で178兆円ということです。それでも国会で審議される事のない特別会計の額が随分と大きな金額であることが判ります。

この特別会計制度というのは日本に特有のもので、諸外国にも似た制度はあるもののあくまで特例的なもので日本の様に基幹たる一般会計の4倍も5倍も特別会計がある国はないそうです。米国には特別会計という制度自体がなく、フランスは一般会計が総予算の6割、特別会計が4割ということです。日本も80年台ころまでは現在のように特別会計が突出した額ではなかったということですから、国家運営上特別会計は必須の物でないことは確かです。

私は年金の積み立ても含めて財投や外国為替の特別会計も全て一般予算として毎年計上すれば良いと思います。年金などは現役世代が高齢者を支えるなどと言っておきながら実際は年金貯金のような扱いになって有り余った積み立て金で余計な箱物を作ったりアメリカの国債などに一部運用されていたりろくな使われ方をしていないと思われます。特別会計は一般会計のように大赤字ではなく、剰余金(毎年10兆)、利潤(数千億)など一般会計化することで900兆円とも言われる累積赤字の縮減にかなり役立つ部分があることは確実です。

勿論特別会計も中身として重要なものは沢山あります。しかし本当に重要ならば一般会計化されても堂々と認められるはずであり、各省庁だけで取り仕切るのは間違いでしょう。本来国の予算は国民が決める(国会で審議して決める)ものだからです。

書評としてこの本を論ずるにあたって、著者は複雑な特別会計や特殊法人のしくみを図やグラフを駆使して解説してくれているのですが、なんせ特別会計や独立行政法人などの存在がもともと複雑で理解しにくいものなので、一通り通読しても「結局どうすれば良いのか」がすんなりと判らないような印象を持ちます。埋蔵金も「必要だ」としている予算を削れば容易に得られることは判るのですが、いろいろな引き出しにこっそりしまい込んであるといった類いのものではなさそうだということも判ります。

私は自分が公務員であった経験もあるので、日本の官僚が「邪悪」であるとは思っていませんし、省益や利権を守るために自分の情熱や能力を費やすことを「良し」と考えている人間はむしろ少ないだろうと思っています。霞が関の論理や独特の考え方があることは確かでしょうが、政治家、国民がもっと官僚を信頼して行政に積極的に関心をもって働き掛けるようにすれば、彼らも国民のための「国益」を第一優先に考えて仕事をするだろうと信じています。「自分は国民のためにこれだけのことをやった。」と退職する時に胸を張って言える官僚人生でなければあまりに虚しいと考えるのは私だけではないでしょうから。

私は官僚の給料はもっと高くても良い位だと考えていますが、そのかわり特殊法人などは全て廃止して天下りもなくすべきだろうと思います。優秀な官僚を途中退職させて天下りさせることなく定年まで日本のために働いてもらう道を作り、上級ポストはなくてももう少し厚遇で働けるようにすればよいのだろうと思います。現在の小生のように50を過ぎて軍曹兼中隊長兼中佐のような仕事をしている医者もいるのですから、下働きもできる高級官僚もいてよいではないかと思いますね。
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書評 拒否できない日本

2010-10-19 19:24:22 | 書評
書評 拒否できない日本 関岡英之 文春新書376 2004年刊

当時国会でも話題になった米国の日本に対する強引な社会改造とも言える「年次改革要望書」の存在を明らかにした画期的な書で、新しい本ではありませんが、一度読みたいと思っていた本でした。「年次改革要望書」は1993年の宮沢・クリントン首脳会談において日米間の貿易障害になっている主に日本の社会構造的問題を改善するために毎年「年次改革要望書」として米国政府から突きつけられるようになった「指示書」のようなもので、政府・霞が関は翌年までにこの指示書に従って法改正をして日本の社会が米国の意に沿うようにしてきたものです。以前拙ブログでも日本の医療を市場開放するように99年の年次改革要望書に書かれてから、医療特別区の設置や株式会社の病院経営参入、マスコミで日本の医療を批判して米国医療を礼賛し、米国式自由診療を導入するためにやたらと某医療保険のCMが毎日流されるようになった経緯を紹介したことがありますが、全てこの書に書いてある通り実行されていたことが判ります。

昨年から年次改革要望書が出なくなった(公開されなくなった?)ようですが、これは政権交代の結果なのか米国の事情なのかは判りません。私はこの本を読んで年次改革要望書が作られた経緯やそれに沿って日本の政府・霞が関・マスコミなどの権力側が日本をいかに変えてきたかが良く判ったのですが、今一つ「何故アメリカ(人)はダブルスタンダードと言えるような手前勝手を平気でやって恥じる事がないのか」についての答えを得たように思いました。

それは米国が訴訟社会を日本に持ち込むことを企むくだりで、米国が英国式の「判例法」社会で、事後に弁護士や判事などの法律家によって事の善悪が決められ、しかも「エクイティ」なるその時に都合の良い解釈でその後の適法違法も決まってしまう。だから法律家である弁護士が政治家よりも力が強いことに対して、欧州大陸や日本は「制定法」社会であり基本的に市民誰もが解釈できる成文法によって予め成立している成文法や施行規則によって社会生活が成り立っているから後付けによる勝手な解釈が入り込む余地があまりない、というものです。

アメリカが第二次大戦に勝ってまず行なったことが裁判であり、後付けの法律で日本やドイツを違法であるとして罰し、その後自分たちが行なう事は良い事にしてしまいました。米国人が戦後清々しく生きるにはきっと「裁判をやって自分たちが適法であった」という結論を得ることがどうしても必要だったのでしょう。だから朝鮮戦争やベトナム戦争では国連軍という錦の御旗を背負っていましたがソ連が崩壊するまではずっと消化不良のような状態だったのだと思います。イラク・アフガンに至っては始めは911の直後で「テロとの戦争」という名目で適法感を出すこともできましたが、現在ではもう誰も自分たちが正しい戦争をしていると思えなくなっているのではないでしょうか。(何を目的に誰と戦争しているのかも判らない状態ですから、誰を裁判にかけるかさえ決められません)

本書でアメリカが日本を悪びれもせず改造しようとするしくみは理解できたのですが、判らないのは「何故日本はこのようにアメリカから強制されていることを敢えて国民に知らせないのか」ということです。いじめっ子がいじめる相手に「お前このことを先生や親に言うなよ。」と言っているのなら判りますが、年次改革要望書は私でもインターネットで読めるようにアメリカは秘密文書として日本に渡しているわけではありません。むしろ日本の政府やマスコミが国民に伏せてまるで自ら率先しているようにアメリカの意に沿う行動をしているのです。

「アメリカから便宜供与されているから」「これらの人達がアメリカのポチ」だからという説明がインターネットなどでは言われていますが、私は本当かなあ、とやや疑問に思います。「お前いじめられているんじゃないかい?」と親に心配されると「そんなことないよ。」と強がって見せて、いよいよもっと酷い状態に追い込まれてしまうイジメラレッコ的な見栄を張る心理が日本人の中にもともとあるように私には思います。本書にはこちらの謎のについては言及されていないので次回はその解明にも期待したいところです。

本書は「アメリカ的やり方がグローバルスタンダードであり世界の絶対的統一価値観である」などというのは嘘であって、アメリカのやりかたはかなりローカルなものでそれが正しいなどと騙されない方が良い、21世紀日本がより良くなるためには自分たちの価値観を発信するとともに自分たちの価値観に近い民族と連携してゆくことが大事である。それは荒唐無稽なものではなくて例えば大陸欧州などは英米の考え方とは違うよ、という提言をしています。これはかなり大事な事だろうと思います。これは私見ですが、第二次大戦前も含めた歴史的経緯を考えると英米と中国は「勝った者が正義」という共通の価値観があるからシンパシーがあるのかも知れません。本書はそのようないろいろ派生したことを考えさせる本でした。
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