rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

不妊治療自体は何の問題もないのか

2009-02-22 13:36:32 | 医療
受精卵取り違え、「なぜ」あまりに多く(読売新聞) - goo ニュース

他人の受精卵を移植した疑いがあったために中絶をしたことに対して、患者が納得せず訴訟をおこしたという事件で、「人工受精において取り違えが何故起きたか」という部分が問題になっています。また読売の記事では受精卵が他人のものっであったという確証がないまま「中絶」を行ったことは拙速ではないか、という問題提起もされています。私はもう一歩進んで、検査で受精卵が取り違えであることが解ったとして、それではと簡単に中絶処分してしまってもよいのか、という問い掛けもしたいと思います。「受精卵」というからには精子は注入後であって。父親も他人ということなのでしょうが、注入(ICSI)前に取り違えたのならば父親は正しいことになります。いずれにしても、強姦されて妊娠した場合まで「中絶反対」というのは行き過ぎですが、望まれて生まれてくる子供が「ちょっと親を間違ってしまったので」といって簡単に殺されてしまうのはいかがなものか、と思うのは私だけでしょうか。

勿論、他人の子であることが解っているのに妊娠を続けることはこの場合妥当ではないことは明白ですが、女性の気持ちとしては他人の子であっても自分の腹の中で生きている命を殺してしまうことに何の痛痒も感じないはずはありません。他人の子だったからと簡単に殺しておいて、次に自分の子供を妊娠した時に何も感じないで出産できるか疑問です。その意味で今回患者側が「精神的苦痛を受けた」と訴えたことは理解できるように思います。また補償金をもらえば納得という訳でもないだろうと推測します。

医療というのは、本来人間が生まれついて持っている「病気を治す力」を助けるものであれば間違いなく「良い医療」であると言えます。感染を治す、怪我を治す、癌を治す機能も不完全ながら持っています。これら天地創造の「神が定めた」とも言える「もともと持っている力を助けるための医学」が発展していた間は「医学の進歩」=「倫理的にも善」であったといえます。しかし現在はこの「神が予想した能力」を超えた医療が増えつつあるのです。不妊治療、臓器移植、遺伝子治療、血液透析、など神の決めた運命や寿命に逆らって人間の勝手都合で生命の行く末を変えていると言えます。こういった医療は恩恵を受けている当人達にとっては「善」であるかも知れませんが、人類全体、或いは遠い将来に渡っても人類にとって「良い事」と言い切れるかは全く解りません。自然淘汰と自然進化を否定することが人類にとって良い結果になるのか、マスコミは幅広く国民に問い掛ける「度胸」を持っても良いのではないでしょうか。「子供を持つなと言うのか」「透析患者は死ねというのか」といったストレートな批難が怖くて大手マスコミは疑問を呈することさえはばかられるのが実情でしょうが、取り返しがつかない事態が起こってから根本的疑問を呈しても遅いのであって、今のうちからいろいろと考えておくことは大事だと「物言う医療者」としては感ずるのですが。

「神の予想した医療」の範囲では、人間がもともと持っている能力が邪魔になることはないのですが、予想を超えた医療、例えば移植においては人間が持っている免疫反応が邪魔をして移植した臓器が拒絶されてしまうためにわざわざ免疫を押さえ込む薬剤を必要とします。その結果逆に感染に弱くなったり、癌になりやすくなったりします。血液透析ではいままで世の中に存在しなかった新しい病気(透析骨症など)が出現し、その治療に難渋しています。また実際に透析治療に携わっている医師として、果たして全ての患者さんにとって透析で生き永らえているのが幸せなのかなあ、と感ずることも多いのが事実です。不妊や遺伝子治療では厳密に言えば新しい人類を作り出していると言えるかも知れません。クローン技術を含めて、遺伝子治療の分野では畜産や農業の分野の方が数歩進んだことを行っていますが、これらが自然の生態系に何も影響していないのか本当の所は解っていないと言えます。

今回の不妊治療の問題を「単なる医療ミス」或いは「人手不足の問題」として騒ぐだけではいけないのではないかと感ずる次第です。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本における平等とは「不幸の均霑」か

2009-02-11 17:52:14 | 社会
格差という言葉がメディアなどで多用されるようになったのは2005年からであるという(http://diamond.jp/series/kajii/10011/ダイアモンドオンライン梶井厚志氏のコラム)。物事の量や質に違いがあることを「差」と現せばすむことを敢えて「格差」と表現することは、本来同類であって差があってはならないものに「差」があることを批判する意味が含まれているということです。80年代後半からのバブルの時代には思いきり儲けている人達と公務員など決まった収入の人達との「収入差」は莫大であったにも係わらず当時は「格差」という表現は殆ど使用されず、不景気が長期化して公務員や正社員などの収入の安定している人とそうでない人との差が固定化するに至って「格差」という言葉が多用されるようになったようです。

マスコミが不景気の時代に格差を強調することの適否は別として、日本においては戦後、機会の平等よりも結果の平等が重視されてきたことは普段から感ずるところだと思われます。一生懸命働くか否かに係わらず儲かる人とそうでもない人がいるバブルの時は「格差」は気にならないけれど、一所懸命働いても報われない人がいる不景気の時代は本来同じ結果が得られるべきだとして「格差」と言う言葉が多用されることになるのかも知れません。

「不幸の均霑(きんてん)」という言葉は、桃山学院大教授の高田理恵子氏が著書「学歴・社会・軍隊」(08年中公新書)の中で、拙ブログでも紹介した岩波新書「満州事変から日中戦争へ」の著者である加藤陽子氏が他書籍の中で旧日本軍の平等性を現すことばとして使っている、として紹介していたもので、元々良いものを分け与える均霑という言葉を悪いことを平等に味わう、悪い方に合わせるという意味で「不幸の均霑」と表現したものです。なかなか上手い表現だなと思います。高田氏の「学歴・社会・軍隊」は戦前の日本社会の平等性が出自に係わらず階級で上下が決められた軍隊と、成績が良ければ誰でも上級学校に進めた「学歴」に求めて、二つの平等社会が戦争末期の学徒出陣によって混在するに至った時に、軍内では学歴の劣る上級者が高学歴の下級者に辛く当たったという現象について「きけわだつみの声」を柱に分析するという興味深い内容です。

出自にかかわらず優秀ならば士官になれたということは明治期の日本において国民国家形成上重要なことであり、日露戦争において貴族しか士官になれなかったロシア軍との「軍全体」としての戦力の決定的な違いとなった因子でもあります。第一次大戦まではアメリカを除く西欧諸国の軍隊は原則的に全て貴族と平民で階級が分かれていて、国をあげての戦争にエスカレートするにつれて「無名戦士の墓」といった階級にかかわらない「国民」を強調したイメージが大切にされるようになります(油井大三郎・なぜ戦争観は衝突するか岩波現代文庫07年)。日本における平等主義が機会でなく結果の平等を求めるものである、というのは戦後の左翼的均等主義を反映したものではなく、戦前から日本にあった考え方かも知れません。もともと逃げ場のない島国ですから、一部の人間だけが豊かになることを潔しとせず、身分の格付けを「士農工商」とした上で「士」は質素倹約に勤めて生活における「格差」を少なくしようと心がけたことが日本社会を争いなく治める工夫であったのだろうと思います。

昨今破綻したユダヤ金融のような「儲かるものは上限なくいくら儲けても良い」という日本人からは単に浅ましいとしか思えない連中も「論理的に正しいことは倫理的にも正しい」というレシオの考え方からは批難される覚えのないことなのでしょうが、島国で争わずに工夫して生きてきた日本人のDNAにはなじまないものです。そう考えると「状況の悪い方に皆で合わせよう」という「不幸の均霑」というのは「良い方に合わせること」が物理的に不可能である時には社会における争いをなくす良い方法であるとも言えます。

マスコミが問題にする「格差社会」の解決すべき方法というのが「不幸の均霑」に求めるべきか、「良い方に合わせる」ようにすべきか、政治家もマスコミもどうも明言を避けているように思われます。「良い方に合わせる」がベターに決まっているのですが、それを実現する具体的な方法を誰も示せないのですから「不幸の均霑」でも良いのではないかという雰囲気作りを無意識の内に日本社会は行っているのではないかと思われてなりません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

司法は医療事故よりも検死を重視せよ

2009-02-08 17:50:24 | 社会
会員制雑誌「選択」の2月号に「無きに等しい検死制度」(見逃される殺人事件)という記事がありました。日本で届けられる異常死は年間(07年)15万5千件で、そのうち全国に160名しかいない検死官が検死を行うのが11%、司法解剖を行う医師は全国の大学や監察医などに120名ほどしかいないので、司法解剖に付されるのは5千9百件で全異常死体の3.8%にすぎないそうです。事件性のない病死として片づけられた異常死体には、後になって保険金殺人がからんでいたり、別の殺人犯が殺害したことが判明することもあり、実際にはかなり多くの事件が見逃されている可能性があるということです。
英米では異常死の50%が解剖され、スエーデンでは100%解剖されるそうです。

私も地方に出ていた際に、柳葉包丁で心臓を突いて自死した若者の検死を頼まれて警察の方とやったことがありますが、凶器と死因が直結していることを証明しただけで簡単に済んでしまい、こんなものかと思った経験があります。また当直をしていると部屋や風呂で亡くなっていた御年寄りが運ばれてくることがあります。警察に届けても「事件性なしですね」でそのまま検案書を書いて終了になります。どうしても死因が解らない時には死後全身CTを撮って脳出血や動脈瘤の破裂を見つけることもあります。

先日家人が外出している間に階段の手摺りで首を吊って自死した人が運ばれてきて蘇生にも反応せず死亡確認をしたのですが、警察に通報した時の第一声が「死因は溢死で問題ないですよね。」だったので面食らってしまいました。「消防や家人から伝えられた状況と現状からは溢死ですが」と言う他ありません。さすがに警官でなく検死官が来て写真を撮ったり、種々の状況を調べて帰りましたが、解剖はされませんでした。

外国の犯罪ドラマなどでは必ず監察医の司法解剖から犯罪の鍵となる証拠や事故を偽装した死因が見つかって捜査が進展してゆくように描かれています。現実の犯罪では全てそのようにうまく見つかるとも思えませんが、日本では現役の大臣が変死しても早々に自殺と断定されてしまう国柄です。以前日本の殺人事件の検挙率が高かったのは日本の警察が優秀だからではなく、犯人が日本社会の中で逃げ切れなかったり自主したりする率が高いからであって、黄門様が印籠を見せるだけで悪人が平伏するような、外国ではありえない素地が日本人にあるからだという説があります。しかし近年では中国朝鮮系の悪質外国人による凶悪犯罪も増加して殺人事件の手口も悪質になり検挙率も低下していることは事実です。1年ほど前、実母の家が白昼空き巣に入られました。警察の調べでは「これは4人組の中国人窃盗団によるもので、今日市内で2件目です」とのこと。誰も怪我せずよかったのですが、外国人犯罪はもう身近なものです。司法は医療行為の結果が悪かったことを犯罪化することよりも、まず異常死に隠された真の犯罪を見つけ出すことを重要視すべきではないでしょうか。どちらが日本社会に寄与貢献するかは明らかだと思いますが。

ちなみに日本では病理医が不足しているのと同様、法医・監察医も非常に少ない状態です。地味な上に給与も低いから成り手が少ないのも当然と思います。しかし救急や小児科に比べると勤務時間の拘束はあまりきつくありません。十分な手当てが保証されていれば最近増加している女性医師にとっても魅力ある職場になるように思うのですが。外国のドラマでは非白人系の女性医師が監察医をしていたりする設定を見かけるのですが、実際もそうなのかも知れません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

振り込め詐欺は騙される方が悪いのか

2009-02-05 00:58:42 | 社会
2008年の振り込め詐欺の被害額は過去2番目に多い276億円(04年284億)だったそうである。不況で皆苦しい思いをしている一方で人の良心につけ込んで金をだまし取る犯罪が過去最高に近いとは皮肉なものだと思う。

子供や肉親が困った状況にあり、金を工面すれば助かると言われれば何とかしてやろうというのが人情であり、「振り込め詐欺犯罪」の情報がなければ私も騙されるだろうと思います。警察やマスコミは振り込め詐欺に騙されないようにというキャンペーンを行っています。基本的に「騙されるな」という啓蒙は間違いではありませんが、ともすると(これだけ騒がれているのに)「騙される方が悪い」といった論調も見かけるようです。

海外では一部ロシアなどに模倣犯があった由ですが、この肉親を装った振り込め詐欺というのは日本独自の詐欺犯罪のようです。つまり「振り込め詐欺」は日本人の「争いは丸く納めたい」「子供や肉親の苦難は助けたい」という美風を逆手にとった悪質な犯罪と断言できます。私は今の世の中で日本人ならではの美風が280億円分もあったということに一種安堵のようなものも感じます。もっとも手口が巧妙になった還付金詐欺などは必ずしも美風とは関係ないようにも思いますが。

これだけ騒がれていて、警察も力を入れているのに、振り込め詐欺の犯人について報道されることが少ないのは実に不思議です。日本人の美風を逆手にとった悪質な犯罪の犯人は駅や新聞、テレビなどで実名、写真を大々的に公表すべきだろうと思います。そのような人間は日本の社会で今後生きてゆくべきではありません。騙される方が悪いのではなく、騙す方が悪いという是々非々を貫くべきであり、日本の社会はそのような厳しさを保つべきなのです。

「争いは丸く納めたい」「可愛そうな人は助けたい」という日本人の美風を逆手に取った同じような犯罪に「戦争責任詐欺」があります。これは国家規模で行われていて、マスコミも犯罪に加担してしまっているので表立って誰も問題にしていないようですが、海外では存在しないのに日本人だけがカモにされていることも共通しています。日本人の中には「騙されないようにしよう」と声をあげる人達を批難したり、進んで詐欺犯罪者に金を払おうとする人達もおり、しかも本人達はとても良い事をしていると勘違いしてしまっています。

日本の社会における争いを避ける知恵や美風からは、振り込め詐欺と同様「戦争責任詐欺」も騙される方が悪いと言い切れない所もあるのですが、簡単に日本人から大金を巻き上げることができるという味を占めてしまうと振り込め詐欺のようにいつまでも犯罪が続くことになります。

我々は長い歴史の中で培われた誇るべき日本人の美風を捨てる必要はありませんが、「もっともらしい状況は示されているが、実体として根拠のない金の無心は詐欺であることを周知する。」「絶対に金は振り込まない。」が振り込め詐欺、戦争責任詐欺を根絶する基本対策だろうと思います。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名盤、名演奏雑感

2009-02-03 22:25:56 | 音楽
今日はおもいつくままの音楽雑感です。音楽の好き嫌いは十人十色で、どれでなければいけないという物はないし、その人にとって良いものは良いということになるのでしょうが、世の中に名盤や名演奏と評価されるものがある以上、やはり良い音楽には多くの人が良いと認める何かがあるのだと思います。

私は学生時代はクラシックばかり聞いていたのですが、医者になって忙しくなるにつれてクラシックを聞く余裕がなくなり、次第にジャズに魅かれるようになりました。たまに若い頃聞いていたクラシックを聞き直すと改めて「良いなあ」と感動することもあります。

ジャズにも名盤と呼ばれるものがあるのですが、私はどうもジャズについては人が良いという演奏が必ずしもぴんと来ない事があります。恐らく演奏家によってジャズは同じ曲でも全く違う印象になってしまうほど広がりを見せるから個人的な好みもかなり人によって異なるのだろうと思います。ジャズはオリジナルと呼ばれる演奏家独自の作曲も良い場合はあるのですが、私はどうもスタンダードと呼ばれる多くの演奏家が既にものしている曲の方が好きで、スタンダードをいかにアレンジするかで演奏家の良さや実力が出るように思っています。

実際に音が無い所では説明しがたいものがありますが、最近聞いた中ではトランペッターのThomas MarriottのTones for Johan’s BonesはオリジナルのChick Coreaの演奏よりも明るく現代的でこのような曲想にできるのかと思わせる演奏でした。一方で47年の映画からスタンダードになった On Green Dolphin Streetは多くの人が演奏していますが、他の曲に比べて名演奏が多いように思います。Bill Evansを始め、私としてはMcCoy Tynerや日本の辛島文雄が絢爛豪華な広がりを見せる痺れるほど良い演奏をしています。

数あるジャズ演奏のなかでどのように気に入ったものを探すかというと、最近ではインターネットラジオを活用しています。iTunesにあるラジオのradioio jazzなどをコンピューターで仕事をしながら聞いて、気に入った曲がかかったときに演奏者や曲名をチェックしてそのままiTunes storeで検索することが多いです。iTunesにとっては良いお客さんだと思います。

クラシックについて言うと、私はこの曲はこの演奏でないとだめかな、という好き嫌いがあります。例えばマーラーの9番はCarlo Maria GiuliniのChicago交響楽団でないと聞く気にならない、ホルストの惑星はZubin MehtaのLos Angeles交響楽団といった定番ができてしまって、試しに他のレコードを買って見たりもしたのですが「ちょっと違うなあ」と思ってしまい聞かなくなってしまいます。ジャズと違ってクラシックの場合、気に入ったレコード(今はCD)は諳んじられるほど聞くのでなおさら他の演奏を受け付けなくなるのかも知れません。ちなみに死を意識しながら作曲したと言われるマーラー9番の第一楽章は世の中で最も美しい交響曲という評判もあるようで、私も貴公子然とした風貌のジャケットであるGiuliniの9番第一楽章はクラシックの中でも最高だと思っています。

ジャズとクラシックはGershwinの楽曲のように始めから融合しているものもありますが、ジャズの演奏家がクラシックを演奏したり、逆になったりということがよくあります。全て楽器は練習するときにクラシックの曲をやるのでもともと親和性があるのでしょうが、どうもクラシックが否でジャズに行くというのでなく、ジャズが好きだからそちらに行ったプレイヤーが多いらしく、名演奏家ほどクラシックも演奏したいという欲望があるようです。

私はFazil Sayというトルコ生まれの若いピアニストに注目しているのですが、彼はクラシックもジャズも手がけるようです。ようですというのはジャズについては私は聞いた事がないからで、クラシックについては(Lisztのピアノソナタなど聞くと)超絶技巧のピアニストでありながらTchaikovskyのピアノ協奏曲やGershwinのRhapsody in Blueなど聞くと「あれ、こんなフレーズもあったかな」というような展開をクラシックで見せてくれてクラシックの新しい楽しみ方を知るように思いました。

私は楽譜も読めませんし(メロディを出せない)、音楽が好きだというだけでしっかりと勉強をしたこともありませんが、高校生の娘は小中の吹奏楽部でトランペットをやり、高校でオーボエを練習して先生にも付いたりして演奏会で賞を取ったりしています。自分が出来なかった夢を託しているようでもあり、羨ましくもありですが、親というものは多かれ少なかれそのようなものなのだろうと最近思います。自分の両親もきっと私に果たせなかった夢を託した部分があったのだろうと思います。親に羨ましがられる子供は親孝行ということでしょうかね。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする