rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

政治には金と手間がかかる

2008-11-26 23:48:39 | 政治
民主主義の政体においては、国民は等しく参政権があり、選挙権、被選挙権を行使して理想の社会を築いてゆくということを学校で習います。しかし民主政治においても独裁政治においても政治には金と手間(人手)がかかり、それを出さない人の希望は殆ど通らないということは学校では教えません。選挙によって候補者の中から最も自分の理想に近しい政治家を選ぶというのは実は最も消極的な最低限の政治参加であって、投票をするだけの国民は実際には政治に参加などしていないのだと教えた方が現実に近いでしょう。

欧米は日本よりも民主主義の歴史も長く、国民の政治参加の意識も強い感じで大統領選挙においてもボランティアの選挙協力や資金協力を積極的にしています。しかし現実には候補者が出てくる段階で強力な資金援助を持っている(要は黒幕に既に選ばれている人)が有力候補であって、それ以外の候補者が勝つことはまずありません。

日本においては選挙にさえ天気が悪ければ行かない(良くても行楽に行くので投票率が下る)有り様で、一般のサラリーマンが会社の組織的命令以外で自分の理想とする政治家のために身銭を切ったり余暇をつぶしてボランティアをするようなことは殆どないでしょう。共産党の党員は数が少ないものの皆が共通の認識を持っているので身銭を切って余暇を潰して政治活動に打ち込んでいるようで、皮肉にも一番民主政体を実現している人達と言えるかも知れません。

民衆の金と手間を最もうまく政治に利用したのは公明党で、宗教という魔術を用いて本人達を無意識のうちに政治参加させています。公明党が創価学会と全く縁を切った場合現在の勢力は維持できないことは誰も異論がないでしょうし、創価学会の人達は純粋に政治的モチベーションで活動をしているのではないことも明らかです。宗教と政治が密着していることの善し悪しは別として、政治的理想を実現するには金と手間が必要であるということの明らかな例であることは間違いなく、もし一般の国民が自分達の理想を政治的に実現したいと望むならば、創価学会の人達が公明党のために活動している位熱心に身銭と暇を費やして政治活動をする必要があるでしょう。

私は10年位前ですが、新興住宅地内に新築した家のそばの交差点に信号がなくて毎週のように事故がおこり、家の前の道路も路肩が狭く危険だったために「今に自分の子供達が犠牲になる」という危機感を持って市や市議会に交通安全対策を掛け合ったことがあります。多忙な中で請願書を作って近所を周り、市長に手紙を書いたり、市議にお願いに行ったりしました。共産党系の市議も相談に乗ってくれたのですが、結局知り合いの自民党の市議にお願いして、少ないながら選挙協力などもし、議会で取り上げてもらった結果、早々に信号設置、路肩整備が実現しました。このとき「政治は手間と金がかかるのだなあ」と実感しました。

現在日本人にとって何ら利益にならない、むしろ将来の日本の国家に禍根を残す怖れのある国籍法の改悪や移民招致などの法案が大した審議もされずに国民の知らないうちに通されようとしています。一部の国会議員が強力に法案通過に力を入れ、反対する議員に圧力をかけていると言います。結局議員達にこのような行動をさせているのは政治に「金と手間」を十分かけている集団であることは間違いありません。日本の国会議員に「金と手間」を出す集団とは土建関係=裏に暴力団=朝鮮系、ある種の宗教=もとは外国の利益団体、経済界=アメリカとの貿易=アメリカの支配層、ODAのキックバック=中国など、であって純粋に日本人による日本人のための政治集団のようなものは(弱小な団体のみであって)殆ど皆無といってよいでしょう。日本の4000万世帯が1万円ずつ身銭を切って4000億の金で真に日本のための政治集団を立ち上げたら自民も民主も吹っ飛ぶ最強の日本人のための政治団体ができるだろうと思います。しかしそれでは既存の政治団体が好きなことをできなくなってしまう。だから今後もサラリーマンには政治に参加させる余裕など与えず、教育でも単に投票にゆくのが民主政治に参加することだと教え続けるでしょう。

インターネットの時代になってやっと私のような平凡な日本人も政治的意見を表明する機会ができて、どうも同じような感想を持っている日本人が沢山いることが分ってきました。日本人を政治から遠ざけていたい連中には片腹痛いことでしょうが、そろそろそのような連中が勝手に日本を操縦することを止めさせる時が来ていると思います。権力者というのは民衆が目覚める時、平気で牙を剥くものです。いざと言うときには、我々も命がけで力ずくでそのような連中を日本から追い出す必要が出てくるかも知れません。

「分割して統治せよ、divide and rule」が権力者達が民衆を支配する時の常套手段です。日本は明治維新の時も戦後の混乱期も安保の時も結局完全に分裂せずに済みました。日本人の均一性や和を好む性分からだと思いますが、実に賢明な選択だったと思います。格差社会だの勝ち組負け組だの最近やたらと日本人を分裂させたがる人々がいますが、現実には日本人の生活は皆同じようだと医者をして沢山の人達と接していると感じます。今後も日本が大きく分裂することは一部の人間が画策してもないだろうとは思いますが、自分も仕事の一線を退いたら何らかの形で政治活動をしたいものだと最近思っています。
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体験的車論 トヨタビスタ ディーゼルターボ2.0

2008-11-25 21:55:53 | くるま
生まれて初めて買った車はいすゞジェミニディーゼル1800cc。中古で50万円でした。マニュアルミッション、パワステなし、チョークも手動、車好きでないと扱うのが面倒という感じでしたが、小さい車体の割に中は広く、乗り心地も悪くない。ジウジアーロのデザインで80年代では日本車にないスマートさを持った良い車でした。大学を卒業してから数年経って少し小遣いも貯まったので新車を買おうと思い立ち、当時新型が発売されたばかりのカムリ・ビスタにしようと近くのトヨタ店へ。現在はカムリとビスタは違う車ですが、当時はエンブレムの辺りを除いて殆ど同じ兄弟車でした。近くがビスタ店だったのでビスタを買うことにしたのですが、偏屈な私はジェミニのディーゼルが気に入っていたので今回もディーゼルのマニュアル車にしました。

90年位まではオートマとマニュアルは半々位でけっこうマニュアル好きのドライバーも多く、エアコンもオプション扱いだったことを覚えています。新車はパワステが付いてオートチョークになった位で後は今まで通りの運転感覚。カムリ・ビスタはクラウン並に広いのが当時からの売りで、3代目ビスタはなかなかエレガントなシルエットで私は発売と共に気に入っていました。

2C―Tという4気筒SOHCディーゼルターボエンジンを積んでいて、これがけっこう力強く良く走る車でした。当時軽油は40円から60円位であり、マニュアルでしかもディーゼルなので燃費はリッター17Kmは走り、都内で乗っていても一度給油すると800Km走るとそろそろ給油かなという感じでした。仙台に1年暮らした時には、津軽海峡も渡り、東北地方は何周かし、蔵王のスキーには20回近く行ってスタッドレス+チェーンで雪の真っ暗な山道を随分走りました。FFだから雪道にも強く滑らない、ディーゼルは寒さにも強く、故障はゼロ、とても良い車でした。米国留学で乗れなくなるので手放してしまいましたが、それがなければずっと乗っていたい欠点のない車でした。

バブルを過ぎてからディーゼルの鈍重なイメージや排ガス規制などで日本の乗用車からディーゼルがなくなってしまったようですが、欧州車は現在も半分以上がディーゼルでマニュアル車も多数走っていることを考えると私の嗜好は決してださくなかったと自信を深めています。現在乗っているシビックハイブリッドはハイテクの塊なのでリッター21kmで走ってくれますが、プジョー407はせいぜい9キロ台(近場のみだと6k台)です。フランスでは407もディーゼルターボが走っていて燃費もガソリンより良いし、日本でも早くディーゼル車を復活させてほしいものだと思っています。

ディーゼルエンジンはガソリンと違い自然発火であり、発火プラグでなく余熱プラグが付いていて圧縮比を高くするためにエンジンが重く、バッテリーも余熱のために大きいものが必要です。ターボファンは圧縮比を高めるために排気を有効に使えるようディーゼルのために開発されたような装置であり、ガソリンでノックしにくいオクタン価と違い発火しやすいセタン価で油質を決めるなどといった講釈を述べながら運転してました(かみさんからは何のこっちゃ分らんと評判が悪く、その後ガソリン車でオートマに転換)。
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医師不足ではなく勤務医不足である

2008-11-24 00:19:10 | 医療
前にも拙ブログで取り上げた話題ですが、一向に現実が理解されず、誤った対応しか出てこないので再度取り上げました。厚労省は医師不足の対処として次年度から各大学医学部にそれぞれ10-20名の定員増を認めました。増加を認められた大学は全てではなく、地域などにより偏りがありますが、医師不足の対処としての有効打と見られています。

私は医学部定員増には反対はしませんが、私が前から指摘しているように現在医療問題になっているのは「医師不足」ではなく「過重労働に耐えてリスクの高い医療を行う勤務医の不足」であって、医学部定員増はこの真の問題の解決とは言えません。むしろ学生が増える事で大学病院の指導医師の負担は増加します。

過酷な勤務環境から脱出して勤務医から開業医になる「立ち去り型サボタージュ」が勤務医不足の原因であることを紹介しましたが、これに対する対処法は誰も考えていないようです。現在毎年8000人の新しい医師が誕生していますが彼らが皆今不足している「過重労働に耐えてリスクの高い医療を行う勤務医」になってくれれば10年で現在の医師不足は解消します。しかし初期研修を終えた多くの若い医師達は皮膚科、眼科、老年科、腎臓内科といった今不足している科の特性とは反対の診療科に入ります。医学部の定員を増やしても不足している科の医師にならなければ意味がありませんし、「現在がんばっている勤務医がこれ以上立ち去らないような手」をまず打たなければ医師不足がますます深刻になるのに政治家から聞こえてくる声は「モラルの問題」とか「非常識」とか全く的外れな「私は何も考えていません」ということを言い換えたことばしか聞かれません。

私なりに「真の医師不足」を解消する方法を呈示しますと、
1) 開業医と勤務医の所得差が2倍近くあることは厳然たる事実なのですから勤務医の給与を倍にして開業へのインセンチブを少なくすること。特にリスクの高い医療を行う医師にはそれなりの報酬を保証すること。
2) 開業医も地域の救急医療を担うことを義務づけること。
3) 情報公開を原則とした上で、リスクの高い医療を行った結果が悪くても医師の責任を追及しないこと。

1)についてはどこにそんな金があるのかという疑問もあるでしょうが、ではIMFにぽんと10兆円もくれてやる金がどこにあるのかと私は聞きたいです。
また3)については患者さん側から反発がありそうですが、医者は失敗しようと思って医療を行っている人は一人もいません。これは「失敗し放題」を容認するということではありません。治療経過の公開、情報公開を義務づけた上で結果責任は問わないという意味で、裁判を起こしている患者さんの多くは「事実を知りたい」ということですから神の業を行っている神ならぬ医師がどこで限界があったのかを知ってもらうことが医療の現実を知ってもらう上でも大事だと考えます。昨日の投稿にある不昧因果(因果をごまかさない)という姿勢があれば良いのです。2)は既に一部の地域では行われていますが、科を問わず全ての開業医は交代で夜間休日の救急当直をすることを義務づけ、病院勤務医は入院になった場合にのみ夜間休日診療するようになれば公平になります。

我が病院の我が科も3人いた医師が秋に一人辞めて現在小生を含めて二人体制になりました。週3日は50歳の私が当直をしております。前に勤めていた病院でも同僚だった医師が来春開業すると聞いています。現場の医師が立ち去り型サボタージュによる医療崩壊についての正しい情報をいくら発信しても正しく聞く耳を持たなければ正しい対応は出てこないでしょう。

「医師不足」ではなく「過重労働に耐えてリスクの高い医療を行う勤務医の不足」であることを重ねて主張します。
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不昧因果が大切です

2008-11-23 18:12:38 | その他
不昧因果(ふまいいんが)とは禅問答において不落因果に対する概念として語られるもので「因果をごまかさない」という意味で使われます。ブログなどでも「無門関」第2則「百丈野狐」の公案という出展が記されていますが、私は尊敬する安岡正篤氏の書物に書かれていた時に知った言葉です。かいつまんで出展を述べると、野狐にされた僧が高僧に対して「あなたのように因果を超越した存在になるにはどのような修業をすれば良いのか」と尋ねた所、高僧は「不昧因果」とのみ答えた。野狐は「ああ、そうか」と悟りを開き成仏した、という話しです。

何の事やらという感じですが、解説すると、修業を積めば因果を超越して、不老不死、現世利益、物理の法則も無視して空も飛べるなどというのは人を騙す「野狐」の如く全て嘘いつわりである。ひとつひとつの因果を全てごまかさず、ありのままを受け入れて対応することが悟りを開いた者のありかたである、と高僧に言われて因果に落ちないことが素晴らしいことであるという誤りを悟ったという話しです。単純な話しですが不昧因果というのはそれ自体が修業のようなものでなかなか出来ないことであると常々思います。

ジャズピアニストのチックコリアは、自分の音楽は「素晴らしい」と言われようが、「どんくさい」と言われようが全ての評価は受け入れなければいけない、それがプロの音楽家というものだ、と語ったと言います。これはある意味「不昧因果」を実践したことばと言えましょう。

医師の仕事においても、自分の治療、手術が上手く行く事もあり、合併症をおこしてしまうこともあります。上手く行けば患者さんからも感謝され、自分としても気分が良いのですが、上手く行かなかった場合患者さんからも信頼関係を損ねる場合があります。そんな時つい「この患者さんは他に合併症があったから」とか「進行していて難しかったから」とか言い訳をしてしまいがちです。まあそれが本当にそうであったとしても、患者さんにとってはうまく行かなかった結果は結果であって変えようがない事実です。私はやや辛いのですが、自分が治療した結果については「不昧因果」を貫いてとことん付き合うことが医者として大事だと思っています。「合併症から逃げない」ことが結局は患者さんに信頼しつづけてもらう上で一番大事だと思いますし、それがプロとしての勤めだろうと考えています。

会員制雑誌「選択」に評論家米沢慧氏の「還りのいのち還りの医療」というコラムがあります。表題の通り医療を語る上で「ただ治れば良い、生命を永らえれば良い」という視点でなく「死を意識した医療のありかた」を論じていていつも愛読しています。「選択」11月号のコラムでは、この十月に亡くなった俳優、緒形拳さんの死について論じていました。緒形さんが病気と壮絶な戦いをしながら生きたというよりも病気をそのまま受け入れながら自分の俳優としての生を全うした点が素晴らしいと評していて、「老いる」が老いをいきる、という意味とすれば病いを生きる「病いる」という生き方があってもよいのではないかと提言しています。遺伝子変異が全くない人間はいないのと同様に全く病気がない人間は本人が健康と思っていてもありえないことです。辛い苦しいは困りますが、それが何とか解決がつくならば医療によって死に至る病が見つけられてしまったとしても、それをありのまま受け入れて病とともに平常心で生きることができればこれは「不昧因果」そのものではないかと感じました。

翻って現実の世の中は、いかに因果をごまかそうという事態が多い事か。修業の結果空を飛んだり、現世利益を謳って喜捨ばかり要求するエセ宗教の氾濫、エセ錬金術による経済破綻を各国の借金でとりあえずフタをする人達、争いを根本原因の解決でなく「力」でねじふせようとする国家や集団、などなど日々のニュースの殆どは「不昧因果」を外していると言えます。

世の中、修業が足りないぞ。
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書評 異次元の刻印(上・下)グラハム・ハンコック

2008-11-18 23:52:36 | 書評
書評 異次元の刻印(上・下)グラハム・ハンコック 川瀬勝(訳)
バジリコ2008年刊

「先史時代に高度な文明があったのではないか」というのが著者が「神々の指紋」でピラミッドやマヤ文明の検証から証明した問い掛けであり、出版当時人類史上最高の文明を享受していると考えている現代人にはショッキングな内容でした。今回の問い掛けは人類がただ生きている状態から「文明」を持つに至ったきっかけは何だったのか、抽象的非現実的な啓示である宗教の元になったものは何だったのか、という問い掛けから、特定の薬物による幻覚が古今東西誰にとっても類似した内容を示すのは薬物によって脳内から本書のタイトルである異次元を覗く事ができるからではないかという考案を呈示しています。

「薬物でトリップして見ている内容が異次元の世界である」などという主張は何をアホな事をで片づけられてしまいそうですが、著者は大まじめである種「霊感」の強い人が見る幻覚や、古代から薬草の力を借りてシャーマン達が見てきた神の啓示といったものが現在の文明につながる動物から人への進化のきっかけだったと考えています。またアメリカで多発する知らないうちにUFOや異星人に拉致された記憶(催眠状態で思い出す)は古代の壁画や遺跡に残された異星人を思わせる形態と同類のものであり、ある種のトランス状態で見ているものは古代人も現代人も同じなのではないかと主張します。

私が思うには、脳科学的に見るとある種の薬物で古今東西で同じような幻覚を見る理由は、原初の昔から人類に遺伝的に伝えられている記憶をある種の薬剤が特異的に覚醒させるからだろうと推測します。本能が生きてゆく上で必要な生まれながらに持っている記憶であるとすれば、生きてゆく上で必須ではないために特別なことがない限り呼び起こされない遺伝的記憶も当然あるはずで、それらが特種な薬剤や状態で幻覚の状態で出てくるという説明もできると思います。

しかし著者はもう少し夢を膨らませて、ある種の薬剤によって脳内から確固として存在する異次元への扉が開かれるのではないか、と表現します。それは原初からの記憶と考えたとして、何故異星人のような容貌をした者や宗教的啓示のような幻覚を原初からの記憶として我々人類が持っていなければいけないのかの説明がつかないからです。

遺伝子の二重らせん構造を発見したワトソンは実は薬剤のトランス状態にあるときにこの構造を思いついたと紹介されています(ベンゼン環の発見も夢で見たとかだったが)。ある種の薬剤を使った時の幻覚はこの二重らせんを思わせる絡まった二匹の長い蛇であることが多いと言います。どうも生物化学の秘密の解明につながるような記憶を我々は元々持っているようなのです。著者はこれらの記憶は、生物を地球上に送り出した「何者か」が地球上の生物が進化して自ら文明や科学を創出するようになった時(現在のことか)に解明するよう我々に托した何らかのメッセージなのではないかと主張します。

これは面白い仮定だと思います。人類は動物も植物も含めてバクテリアのような原始的な生物から進化して出現したというのが現代科学の考え方ですが、アミノ酸や核酸を一緒にしたら自己複製や進化の能力を持った生物ができるということは証明されたわけではありませんし、確率論からゆくと自然発生的に生物が生まれることはほぼ永久にないとも考えられます。誰かが原始的生物を地球上に創造し、メッセージを残したとすれば「進化」は証明されているので人類にたどりつくことも納得できます。しかし生物を創造した「その誰か」はどのようにして生まれたのかという堂々めぐりの問が始まってしまうことにもなります。そこで「異次元」という考え(逃げかな)が出てくるのかと思います。

ウイルスやプラスミドのように必要最小限の核酸情報しか持たない物はどうなの、という疑問は残るにしても、信じている宗教の違いで戦争をしたり、地球が滅びても自分たちだけは助かると信じている人達がいたりして、結局は現世利益というか自分たちに都合が良いようにしか宗教を解釈していないのが現代人の現実と思われます。各宗教の教祖達や古代のシャーマン達が何を見て何を伝えようとして宗教が生まれたのかを、現在でも同様の「異次元」を見る方法で再度科学して、その内容をより人類が幸福になる方向に活用してはどうかと著者が提言しているのならば私は同意したいと思います。
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書評 さらば財務省

2008-11-16 22:47:19 | 書評
書評「さらば財務省」 高橋洋一 講談社2008年刊

 小泉・竹中改革の司令塔、安部政権における政策参謀として郵政民営化、道路公団民営化、政策金融改革、公務員制度改革の設計図を描いた政策コンテンツクリエータ(自称)の6年半の苦闘を描いた記録であり、主に自分の出身官庁である財務省との軋轢や、役人の論理による政策遂行上の障害がどのようであったかをわかり易く解説しています。

 私も役人の端くれであったことはありますが、なかなか霞ヶ関の中央における高級公務員たちの日常や考え方を知る機会はありません。この本を読むと中央官庁の仕事のやり方が漠然とではありますが想像できます。著者の高橋洋一氏は東大理学部数学科を出て大蔵省に入った変り種である。中学の時には大学の数学の問題がすらすら解けていた数学の天才である。私など「数学は暗記だ」と割り切ってからやっと試験で点数がとれるようになった数学的才能のない人間なので彼とは頭の構造が違うと思う。映画で言えば「goodwill hunting」の主人公のようなもので、彼が映画の中で話すように「音楽の得意な者が自由にメロディが浮かんで楽譜に写してゆくのと同じように数学の問題が解ける」のだろうと思います。

 この論理的思考が自然にできてしまう才能というのがある意味役人的才覚とは相反するものとしてその後の著者の人生を決定付けてしまうことになります。役人というのは「課題」を出されるとそれに対する模範的回答を準備することには長けていますが、誰も問題にしていないことをわざわざ論理的におかしいという指摘はあえてしないものです。著者は大蔵省理財局時代に巨大な貸付である財政投融資のリスク管理の方法を提案するのですが無視され、後に民間の不良債権問題が出てきてからあわてて財投全体のリスク管理のシステム構築を任された話などが明快に述べられています。

 経済学者の竹中氏と著者は旧知の仲だった由ですが、小泉政権の経済担当大臣に竹中氏が起用されてから著者の経済改革政策の企画立案の手腕が発揮されてゆくようになります。それは財務官僚としてというよりも論理的思考を優先した役所の利害からは独立した政府側の政策立案者としての活躍となり、結果的に霞ヶ関の慣習や利益とは対立するものとなって官僚組織の中では孤立してゆくことになります。

 私は行政府のトップに立つ官僚としては著者は実に有能な官吏「能吏」であるという印象を持ちました。各省庁の官吏のトップ3人くらいは政権交代とともにアメリカのように交代しても良いのではないか、それらの人たちは民間や省庁を自由に渡り歩ける状態(ただし国民監視の上で)で生活も保証できるようにしたら現在のような硬直した縦割り官僚機構の弊害も少しは改善できるのではないかと感じています。医者は国公立病院と私立病院を自由に行き来しますが、官僚もそのようなことがあっても良いように思います。厚労省の官僚のトップが医科大学の公衆衛生学の教授や助教授、或いは医療経済学の専門家であっても良いように思うことと同じです。

 能吏であるという印象なのは、小泉さんの郵政民営化にかける情熱に協力することにおいては非常に有能なのですがでは小泉さんは何故そんなに郵政民営化に固執するのかということには疑問を感じていないように見えるからです。与えられた課題に省庁の利益にとらわれず論理的に優れた回答を出すというのは「能吏」以外の何者でもありません。省庁の利害を優先して当たり障りのない回答を出す「奸吏」よりははるかによいとは思いますが。

 公務員制度改革や年金問題についても彼なりの明快な解説が行われていて参考になりました。特に民主党の対案というのが対案のための対案という感じで自民党のよく練られた案よりも明らかに論理的に劣っているのに表現としては国民感情に訴える内容でマスコミ受けしていることが残念であると記されています。日本人は確かに論理的思考よりも感情を優先しがちです。しかし私は日本人がマスコミや政治家が考えるほど大事な局面でも感情に流される愚かな国民ではないだろうと思っています。休みも取らずまじめに働き、暴動も起こさず犯罪も少ない国民性が感情だけに支配されているわけがありません。マスコミも政治家ももう少し国民の知性を信頼してあまり馬鹿にしたような「受け」ねらいの行動をしないほうが良いのにと思います。確かに小泉氏の郵政改革選挙はマスコミの扇動どおりの結果になり「所詮日本人などこの程度だ」とマスコミも政治家も自信を深めたかも知れません。しかしその思い上がりに胡坐をかくほどに国民はより確かな情報を得られるメディアやインターネットに流れて行っていることも確かなのですから。
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田母神元空幕長の論文問題

2008-11-09 18:04:12 | 社会
田母神元空幕長の日本の戦後歴史観についての懸賞論文がメディア、ブログなどで話題になっています。私は次期アメリカ大統領の話題の方が100倍位重要、というか論文の問題などスルーが当然と思っていたのですが、メディアが見事に引っ掛かり問題化したことは日本社会のレベルの低さを見せつけられたようで改めてげんなりしました。

そうは言っても拙のような小市民ブログとしては備忘録の意味も含めて一応取り上げておこうと思います。

問題点の整理
1) 現職の空幕長が世間を騒がすような論文を敢えて発表したこと。
2) 論文の内容が日本を悪とする所謂東京裁判史観を否定した内容だったこと。
3) 史実としてあげた内容が誤り、或いは証明不十分な点があること。

メディアや諸家の批判を要約すると、上記の点に集約されるよううです。

私の意見

1) 現職の空幕長が世間を騒がすような論文を在職中に発表したことは、私は賛成できません。空幕長の職務は政府や世間の歴史観に疑問を呈することではなく、日本の空を直接・間接侵略から守ることだからです。東京裁判史観を元にした法律によって、日本の自衛隊の活動が極端に制限されていることは確かですが、それを正すのは軍人の仕事ではなく政治家の仕事です。だから退職後政治家になるなり、自由に意見を言える立場になってからでも遅くありません。今は平時なのですから、法に従って粛々と職務をこなすのが公務員の勤めです。彼の場合、職責上最高の地位に付いた上で確信犯的にいろいろ行っている節があり、言いたい事が沢山あっても自重して本来の責務をこなしている多くの自衛官達に対して失礼ではないかと思います。

2) 個人がどのような歴史観を持とうがそれは自由です。職務に忠実である限り東京裁判史観であろうが、皇国史観だろうが唯物史観だろうがかまわないと思います。批判している側の問題点としては、「東京裁判史観を否定すること=皇国史観」だと決めつけている脳タリンが多い事です。田母神氏は日本だけが悪い訳ではない、日本だけが戦争をしたかった訳ではない、という事を述べているのであってこれは小生が主張している倫理的善悪で歴史を語るなかれと言っていることに近い表現です。彼もはっきりと「倫理的善悪で歴史を語ってはいけない」と書けば誤解を防ぐ事ができたかも知れません。しかし「東京裁判史観の否定=皇国史観」と決めつける人、或いは「決めつけたい人」には何を言っても無駄かもしれませんが。

東京裁判史観は日本人を戦後、戦勝国のいいなりになる精神的奴隷として支配するために巧妙にメディア・政府・エセ左翼により徹底的に政治・教育内容にすり込まれてきました。対局に滑稽で非インテリ的印象を与える凱旋右翼を配置し、「東京裁判史観の否定=皇国史観」と規定することで一般の日本人が東京裁判史観に疑問を持ったり政治に関与したりすることを妨げてきました。これを主導してきたのは他ならぬアメリカ(のグローバリスト達)だった訳ですが、知識人を自称する人達にも東京裁判史観から外れる事をまるで自分が否定されたように怖がり、怒る人達がいることに驚きます。

歴史はその時の状況や考え方から当時の人達が最善と考えられる選択をしてきた結果なのですから、現在から見て大いに学び反省することは大事ですが、倫理的に善だ悪だと言い合いをすることには何の意味もないのです。大化の改新や関ヶ原の戦い、明治維新などを倫理的に善だ悪だと言うことが無意味である事と同じです。侵略された中国から見れば日本は倫理的に悪だというのも分りますが、国交が正常化して補償問題が解決された時点で歴史的善悪の関係は終わりにしないといけません。そもそも戦争は戦っている相方ともにとって悪であるはずなのに、「先に手を出した相手が悪」で「受けて立った我はどんなに非道なことをしても善」という倫理的免罪符の概念を作り出したのはアメリカです。アメリカは歴史的にこの免罪符を得るためにあらゆる努力(いんちき)をしてきたと言えましょう。

3) 田母神氏が史実としてあげた内容の論拠については、東京裁判史観を否定する人達が上げたものが殆どですが、批判する人達は「そのような人達が主張していることだから真実性が薄い」という言ってみれば「自分たちが信用していない人達だから信用できない」「俺様だから正しい」みたいな話しになってしまっています。歴史認識の討論になると必ずこのような展開になるのですが、著明な学者ではないからというのでなく、誰それのこのような主張は具体的にこの反例があって真実と言えないという反証ができなければ一概に嘘だときめつけることはできないはずです。南京虐殺を否定する人達の書籍を読むと丁寧に相手の主張に対して反証を示しています。同じ努力をしないで「こいつの言うことは当てにならないから。」で歴史討論はすませてしまってはいけません。

最後に自衛官たるものの心得について触れたいと思います。かなり昔ある自衛官が「社会党が政権を取ったら大変なことになる、皆しっかり投票に行くように。」と辛うじて「どこに入れろと」は言わなかったのですが訓示をしたという話しがあります。この自衛官の心得は間違っています。民主的に選ばれたのならば社会党だろうが共産党だろうがどこが政権を取ろうが政府の指示に従って職務をこなすのが自衛官たるものの勤めです。どうしてもその政権の下で働くのが否ならば職を辞すれば良いのです。公務員たるものどのような信条を持とうがそれは自由ですが、職務遂行にあたっては政府に従うのでなければそれは公務員であることを否定したことになります。その意味で日教組に属し、法律で定められたことを意識的に実行しない連中は公務員のありかたに反した人達と断定できます。
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人々はオバマ大統領に何を期待するのか

2008-11-05 22:15:12 | 政治
オバマ氏、圧勝 初の黒人大統領に<特集・米大統領選>(gooニュース) - goo ニュース

オバマ氏が圧倒的な差をつけてマケイン候補に勝ち、アメリカで白人以外の初の大統領が出現することになりました。私もマケイン氏よりもオバマ氏が成った方がアメリカのためにはなるだろうし、アメリカ合衆国の新時代を築く役者としては彼以外にはないだろうと思っていましたのでよかったと思います。

ブッシュ氏の8年間は戦争と経済狂乱に明け暮れた8年間だったことは明らかで、アメリカ人自身が「もう勘弁してくれ」と痛感していたことが大統領選の投票率の高さからも伺えます。アメリカは歴史的に自分から戦争は起こさない(相手に先に手を出させる)ことで辛うじて戦争の正義を守ってきたのにブッシュは相手が気に入らなければ自分から戦争を起こすという禁じ手を打った最初の大統領です。栄光あるアメリカの歴史はこの時終わったと感じた国民は多かったでしょう。一般のアメリカ国民にとって、オバマ氏への期待とは「新しい夢と栄光に満ちたアメリカを作り直すリーダー」としての存在だろうと思います。戦争と経済不安、世界からの反感に打ちのめされたアメリカを再生したいという国民の期待はマケイン氏よりもオバマ氏の方がかなえてくれそうだと「雰囲気的に」私も思います。

オバマ氏を2年前に抜擢した財閥の首領達は彼に何を期待していたかというと、これは想像に過ぎませんが、ブッシュで衰退期に入ったアメリカをもう一度活性化させて利用するには彼のカリスマ性が必要と考えたのではないかと思われます。グローバリスト達にとっては国家の壁は薄くなってきたといっても、中国やロシアよりはアメリカの方が使いやすい、アメリカの底力を出させるには熱狂的な国民のパワーを引き出せる人物が必要だったと考えられます。マケイン氏は「天の声」で殆ど会った事もないセーラペイリンというおばさんを副大統領候補に指名させられましたが、クリントン氏の敗けが決まった時点で領袖達はオバマ一本でゆくぞという意思をかためたのだろうと思いました。

日本を含むアメリカ以外の国々はオバマ氏に何を期待するのだろうと考えて見ました。世界はアメリカの軍事力と経済力による一極支配体制の下に行ってきた高圧的で悪人根性が見え隠れする世界への種々の働きかけを改善してほしいと考えているのではないかと思います。現実にはオバマ一人が政治を行うのではないし、一夜にしてそう体制が変わるものではないことは分っていますが、アメリカ国民が彼に抱く期待のパワーというものが、アメリカのあり方さえも変えてゆくのではないかという期待を持たせていることはあると思います。それぞれの思惑はあるでしょうが、欧州、ロシア、中国などもアメリカが中が固まった(孤立主義的な)御しやすい国になってくれることを望んでいるでしょう。

日本の政治家や官僚にとっては今までと同じ感じで付き合えそうなマケインさんの方がありがたいと思っていたでしょう。オバマ氏は日本を統治してくるか、パートナーとして頼ってくるかは側近が決まってその後の出方を見ないと分りませんがパートナーとして頼られる方が日本にとっては対応が難しいでしょうね。
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国旗・国歌の問題よりも反日でないと試験に合格しない方が問題である

2008-11-04 20:40:00 | 歴史
橋下知事、高校生に持論 「僕らは最悪の教育受けた」「国旗・国歌意識して」(産経新聞) - goo ニュース

国旗、国歌に関しては、高校生位になると「俺は好きじゃないから歌わない、」とか「来賓できた市長は革新系だから座ったままだった」とかある程度社会的バックグランドを理解してくるので敢えて強く教育しなくても良いように思います。しかし幼稚園や小学校では式典の時に国旗・国歌は必須でしょう。それは長じてから他国の国旗・国歌に対する礼儀をわきまえるようにしつけるためでもあります。壇上に国旗が掲揚してある正式な式典の時など、挨拶のために壇に上がる人はまず国旗に礼をするのが常識なのですが、国際感覚のない人達は壇上のひな壇にいるお偉いさんに礼をしたりします。恥ずかしいことですが誰も注意しないので一生気がつかないでしょう。国旗に対して礼を払うという気持ちは子供の時から教育されないと身に付かないものです。

高校の教育で問題なのは、むしろ戦前の日本の歴史を善悪の倫理的価値基準で記載された歴史教科書を記憶し、試験ではその通りの歴史観を書かないと点数にならないことです。これは共通一次試験などの入学試験でも同じであり、大学生になるためには「日本の歴史的事象はどのような事件があり、その教訓はどのようなことだ」ということでなく、「日本はとんでもない悪い国家であった」という善悪の価値基準で歴史を記憶しないと合格しないことになっていることが最大の問題なのです。

私が高校の時の世界史も「帝国主義の時代」でイギリスなどの帝国主義政策のあたりまでは善悪の価値判断なしに事実をつらつら記載してあったものが日独伊三国同盟のあたりから善悪の価値判断の混ざった記述になり、事実関係が分りにくいなあと感じた経験がありました。最近高校生の娘の歴史教科書を見せてもらったのですが、変に善悪の表現が入っているために何が言いたいのかさっぱり分らない内容になっていて眩暈がしそうでした。「朝鮮の植民地化」と大きな表題にはあるのですが(植民地化と書くと本当に植民地になっていたアジアアフリカ地域との違いが理解できない)、中の記載は日韓併合の経緯や下関条約のこと、はたまた朝鮮の独立勢力のことやら書かれていて、本来日本は何を意図していたのかが端的に理解できない。こんな分りにくい教科書で勉強しないといけない子供たちが本当に可愛そうになりました。

以前の拙ブログ(http://blog.goo.ne.jp/rakitarou/e/92cb99a26a0089c5f59dfa075dd853ef)において「善悪の価値判断を交えた歴史認識など対立する者同士以外何の意味もない」という意見を紹介しましたが、日本の子供たちが歴史を学ぶ意義は戦勝国の日本支配を容易にするための洗脳が目的ではなく、激動の21世紀を日本が生き抜くための知恵、どのように考え、どの選択肢を選ぶかの糧になることが目的です。正しい歴史教育(皇国史観が正しいなどという意味ではないことはお分かりかと思いますが念のため)が行われる世の中になって欲しいものです。
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連邦準備銀行が純民間銀行であることについて

2008-11-03 18:29:54 | 政治
アメリカの連邦準備銀行が日本銀行や欧州中央銀行などと違い、純粋な民間銀行であることを最近知りました(主に「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」ヴィクター・ソーン著/副島隆彦訳)。どうもこれは知っている人には常識だけれども、知らない人はアメリカの連銀は私同様政府の公的機関と勘違いしていると思います。普通にWikipediaにも私企業であることが明記されていました。今回の金融危機においてもFRB(連邦準備理事会)は対応する中心的存在として大活躍をしていますが、連銀が政府でなく私企業や個人が株主であるとすればこのFRBの対応というのも果たして誰の利益のために仕事をしているのか怪しくなります。

日本銀行も株式公開をしていて、一般の人も株を持てますが、政府が55%の株を所有していることと、株主は運営に対する干渉ができないことが法律で明記されているので私企業とは異なります。

私はどこかの小国の中央銀行が私企業であっても問題ないと思うのですが、世界の基軸通貨であり、日本が数百兆円もの国債を買わされている国の通貨発行権を一私企業が持っているということが問題だと思います。そもそも合衆国憲法には通貨の発行権は議会にあると規定されているにも係わらず、憲法違反の連邦準備法が1913年に施行されてFRBが作られました。そして主にヨーロッパの銀行家達が株主になることでFRBが運用されてゆきます。この辺の経緯はネットでも調べる事が出来ます。現在でも連銀の主な株主は欧州の銀行家やシティ、チェースマンハッタンなどの一部の銀行であってアメリカ政府ではないようです。またFRBから通貨発行権を取り上げようとしたマクファーデン下院議員やJFケネディ大統領はいずれも殺害されてしまい、今や誰もこの状態を正そうとする政治家はいません。

なぜ私企業が中央銀行であってはいけないかというと、公定歩合を上げるも下げるも自由であり、その公定歩合によって貸し出した金を返してもらう時に得る利息はまるまる儲けになり、輪転機で紙幣を印刷する経費だけで金を印刷した分そのまま自己資本にしてしまうことができるからです。その自己資本で国から国債を買って利息付きで返してもらえば税金をまるまる儲けとして懐にいれることもできます。日本や中国が大量に持っているアメリカ国債も「売却」となれば輪転機で大量にドル紙幣を印刷して紙束の山をコンテナで届けさえすればすむことで、後はアメリカ政府が破産するまで税金で返してもらう算段をすればよいということになります。

ところが、アメリカの会計監査院は2007年11月にすでにアメリカ政府の財政破綻宣言をしていて(http://moneyzine.jp/article/detail/42407?p=1)、著名人たちはすでに米ドルを見限り始めていたんですね。しかも国際決済銀行(BIS)の推計するデリバティブの総計は516兆ドル(5京円?)というアメリカの国家予算(3兆ドル)の170年分などという想像できない額だそうなので(http://moneyzine.jp/article/detail/103963)実はFRBが私企業だろうがアメリカの公的機関であろうがもう関係ないのかも知れません。

アメリカの政治家が真にアメリカ国民の幸福と国益を考える人達ばかりであれば良かったのでしょうが、民主、共和どちらに転んでもFRBを自由に操る一部の財閥の利益になることしかしない人達で占められている、またそうなるように政治資金が与えられているとしたら「連邦準備銀行が私企業であること」はアメリカの宿痾(長い事患っている病気のこと)の象徴ともいえるでしょう。
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