rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

天皇のロザリオを読むー一神教になれなかった天皇教としての神道

2018-02-24 21:07:06 | 書評

「天皇のロザリオ」 (上・下)鬼塚英昭 著 成甲書房2006年刊

 天皇のロザリオは、1938年生まれの郷土史家である鬼塚英昭氏が昭和天皇九州巡幸時の「別府事件」を元に10年にわたる取材調査の末書き上げた天皇家とキリスト教との係わりについてまとめた大著です。

 戦後まもなくの占領期、日本をカトリック教国に仕立て上げる謀略があり、昭和天皇をキリスト教徒として洗礼を受けさせる計画があって結局失敗します(別府事件)。しかし皇太子(平成天皇)他皇室家族にカトリックとしての教育を受けさせ(家庭教師のヴァイニング夫人、常陸宮もキリスト教に熱心で宮中聖書事件の元になる、高松宮、朝香宮は改宗)、クリスチャンの嫁(正田美智子)をあてがい(テニスコートの恋を演出)、昭和天皇はある時期からキリスト教とは一線を画するけれども宮内庁職員始め天皇以外の人達にはかなり浸透した、という事実があります。マッカーサーは本気で日本をキリスト教国に変える気であったことが証明されており、1949年当時の陸軍長官ケネス・C・ロイヤルが来日した際の記録にも公文書として「日本の軍事基地化と経済復興、またマッカーサーの日本キリスト教国化構想を支持する」とした大統領が署名した文書が残っています(日本占領の使命と成果、板垣書店1949年)。キリスト教国化の手本はマッカーサーの父アーサーがフィリピン総督に1900年になった際に、フィリピン原住民から母国語を奪い英語を押し付けてキリスト教と民主主義を暴力的に強制する(水攻めで原住民の六分の一が死亡とのこと)ことに成功した体験に基づいていると説明されます(本書11章)。

 様々な客観的資料に基づく大著なのでこれ以上の説明は省きますが、現在の皇室のあり方にも不可解な部分が多く、我々国民が知る皇室と内情は大分異なっていると思われます(愛子さんが明らかに複数いるとかーこれは医学的にも明らか)。それも元をただせば、戦後の米国による日本・皇室改造計画に端を発していると思われます。私はこの本を読んで以前ブログにもしましたが、鬼塚氏が神道とは別の「天皇教」と表現している「天皇を神と規定」する明治以降の特殊な神道のあり方、その変遷に興味を持ちました。以下少し本とは離れる部分もありますが、一神教になれなかった天皇教について考察したいと思います。

 

 古来、日本には「自然と先祖」を神と崇める古代神道の思想が根付いていたと思われます。それは恐らく縄文時代に発していて当時の身分差のない集合体社会の中で1万年近く続いていたのではないかと思われます。その後弥生時代になって農業を中心とした土地信仰になり、呪術的な宗教を中心に各地に有力者が出現してきたのだろうと考えます。その中で日本を治めると言える程に勢力を伸ばした一族が「王」を名乗るようになり、各地の伝承を集めて自分が先祖の中で傑出した存在であることを示すために記紀を編纂させ、古事記は国内向け、日本書紀は中国など海外へ「王」としての権威を確立するための書物としてまとめさせたのが「国造り神話と天皇」の神話として残ってゆくことになったのでしょう。しかし古来からの神道は民間信仰としてずっと存在し続けて山や木、自然を神とする神社、偉人を神とする神社もずっと存在し続けて民衆の信仰を集め続けます。天皇はむしろ外来の宗教である「仏教」の布教に力を入れて、仏教による民の統治を考えていたように思います。法隆寺などを国力の総を尽くして建立します。しかし寺の無事建立を祈願して神社を建てるといった民衆への配慮も必要になります。江戸期までは天皇は神道よりもむしろ仏教を重んじていたと言えるでしょう。京には寺ばかりありますし、伊勢神宮に天皇が自ら参拝することは滅多に無かった事実からも伺われます。

 

 これは否定も肯定も証明しようがありませんが、鬼塚氏によると明治維新により、孝明天皇、皇太子睦仁は暗殺され、南朝由来ということにして長州の田舎から大室寅之助なる若者を明治天皇として据え、天皇は神であるという専制君主の地位を一神教的神道、つまり天皇教を作ることによって近代日本が作られていったということになります。この一神教という精神的支配構造を作るにあたっては、明治4年に米欧を1年かけて視察した岩倉具視を始めとする「遣欧使節団」の記録が欠かせないと説明されます。遣欧使節団が見た「一神教の狂気」が民をまとめ、強国を作るうえで欠かせないのではないかと。

 キリスト教の根本にあるのは「動物の肉を食する事、異種の民族に取り囲まれて暮らす」ことから来る歴史に基づく病理現象であり、この病理現象が「罪の意識と贖罪感」を生み、神を創造し、その神が罪の意識と贖罪感を持たぬ者、すなはち原罪を知らない者を「下等」とした。キリスト教的文明とは、原罪を知らぬ下等人間、下等動物は皆殺しにしてもよいとする文明である、と説明されます。この説明は2千年来現在も中東で行われている全ての戦争、アメリカ原住民の虐殺、アフリカの奴隷貿易をも見事に説明しています。そして日本への原爆投下の説明にもなります。

 戦国大名たちがイエズス会の宣教師たちから火薬の硝石と引き換えに多くの日本人を奴隷として売り払っていた事は「天正少年使節団」の報告書にも「行く先々で見かける南蛮船で奴隷として売られた50万人もの日本の娘たちがあはれである」と記載され、アフリカの黒人を奴隷として送り出した海岸が黄金海岸と呼ばれたのに対して、イエズス会師達は日本の女性達を奴隷として送り出した海岸を白銀海岸と呼んだと記録されていることからも明らかです。それもこれも「下等人間」は人として扱わなくて良いという一神教の思想に基づいていることは明らかです(本書第9章)。これを行っていたのは宣教師達なのですから。この実体を知った秀吉、後に家康らがキリスト教を禁教とし、鎖国をして貿易を幕府直轄のごく一部に限定したことはまさに慧眼といわざるを得ません。

 

 明治政府は狂気の一神教を神道に当てはめて、天皇教を作り上げ、天皇は現人神という扱いになります。しかし終戦により天皇は現人神から「日本の象徴」に変わります。マッカーサーは一神教である天皇教の代わりに同じく一神教であるキリスト教を日本の国教にするため、皇室をキリスト者にする、日本全体をキリスト教国家にする計画を立て、米国も占領政策としてその計画を認めていたというのがこの本の主旨です。結果的には神道は前々からブログで記しているように多神教であり、形がない事が神道の真髄であり、日本人のDNAに深く根付いているものであったから日本にはクリスマスは根付いてもキリスト教が根付くことはありませんでした。またマッカーサーと米国の試みは朝鮮戦争の勃発による日本を共産主義の防波堤にする、という反動化推進により断念され、マッカーサーは朝鮮戦争の司令官として日本を去ることになります。マッカーサーは日本占領期においてキリスト教を布教した東洋のパウロを本気で目指していたとされますが、本書のキャッチフレーズ「日本版ダ・ヴィンチ・コード」という文句もあながち外れではないように思います。改憲、平成天皇譲位、象徴天皇のありかたといった問題を考える上で一読に値する本と思いました。

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二極化する医療

2018-02-21 19:16:24 | 医療

 長年医療現場にいると、年代によって日本の全体的な医療の動向が見えてきます。私が初めて医者になった頃の1980年代は、医療の科学的発展が日進月歩で、特に遺伝子や免疫学といった方面からの病気の解明、プラスチックを初めとする合成化学素材、透析膜などの発達で今まで助からなかった病気が助かるようになってきました。1990年から2000年代についてもその傾向が続き、手術よりも内科的カテーテル治療などで心筋梗塞や脳梗塞が助かる時代になってきました。急性疾患は治って当たり前(慢性疾患は症状をごまかすだけですが)、という時代になったのです。

 2010年代に入ってから、いよいよ糖尿病や骨粗鬆症といった慢性疾患までも根治する方向で医療が進み(まだ根治できませんが)、急性疾患を予防するための予防医療もエビデンスに基づいて行われるようになってきました。癌に対する治療もかつてはおまじない程度に考えられていた免疫治療や抗体療法が、遺伝子工学の発展で実用可能な治療となり、莫大な費用がかかるものの今まで諦められていた病態への治療が可能になってきました。

 所がここ1−2年、特に高齢者多死の時代と言われるようになってから、急患で運ばれてくる瀕死(CPA cardio-pulmonary arrest心肺停止状態)の患者さんの様子が変わって来たように見えます。それは原因不明の死亡や今まで経験しなかったような死因の死亡が増えているということです。今年の冬はニュースでも紹介されましたが、凍死が増えている傾向があります。私の勤めている病院でも一シーズンで3件ありました。いずれも高齢者ですが、家の中で暖房を付けずにいたり、窓が空いた状態でいたために朝凍死(低体温で意識不明で発見されて救急搬送)になって発見されます。低体温で循環不全になると、蘇生して循環を復活させても末梢から壊死物質が大量に体内へ循環し、結局多臓器不全を起こすので助かりません。

 病院外で心肺停止になって搬送され亡くなった方は、死亡診断書ではなく、死体検案書を書いて警察に届けなければなりません。警察は犯罪性があるかどうか家族を含めて調べ、要すれば尿中の薬剤検査など行います。病院では(司法)解剖は普通しませんが、亡くなった方の頭部から骨盤部までをCT検査を行って異常を調べます。これをAutopsy Imaging (紛らわしいですがAI)と言います。このAIで動脈瘤の破裂や消化管穿孔、大きな癌、外傷などが見つかることがあります。また採血もするので腎不全による高カリウム血症などの電解質異常、高血糖、低血糖、貧血などが死因であると断定できる場合もあります。

 私は年間400例ほどの病院で亡くなった全ての患者さんの死亡時の状態を医療安全の立場からチェックする委員の責任者をやっているので解るのですが、以前は2:1位で、病院で長い経過入院した後に病気で亡くなる方が多かったのですが、最近は1:1位で病院外心肺停止や先にあげた凍死のような患者さんが増えているのです。

 

 このような事から、現在の医療の動向が2つの傾向に別れて来ていると思われます。それは日本だけでなく、世界全体の傾向かもしれません。つまり

 

1)      科学の進歩に伴って高度かつ高額な先端医療を実用化する、またエビデンスに基づいて急性疾患を予防するための予防医療などを積極的に行う方向性。

2)      高齢化や長引く不況に伴って、日常的に医療や保健衛生の恩恵に浴し得ない人達が増加し、初歩的な医療の欠如による死が増加している傾向。

 

の2つです。1)と2)が同じ社会で同居することは日本のような均一な社会ではかつてはなかったことなのですが、健康診断のわずかな異常値を精査するために大病院を訪れる患者さんがいる一方で、末期がんになるまでどこにもかからない人や凍死で亡くなるお年寄りがいたりするのです。この原因は必ずしも貧富の格差や社会の分断ということでもないように思います。生活保護の人にもこれでもかというほど健康オタクで医療機関に罹っている人もいますし、多忙なビジネスマンほど健康に無頓着であったりもします。

 

 私はこのような傾向が現れたのは、根本的には「医療についての哲学の欠如」がもたらした物ではないかと考えています。科学の進歩に伴って医療は一方通行でどんどん進歩して良い、全ての病気は治る方向で、老いは克服する方向で、能力の欠如は補完、発展させる方向で進めば良い、そこには「振り返り」や「本当にその進歩が人類や国民に必要か」を社会に問う余裕も必要もないのだ、という現実があるように思います。しかし現実社会は医療資源(医療従事者や施設の数)も予算も限られたものしかありません。エビデンスとして数ヶ月寿命が延びる事が証明された一回数十万円かかる薬剤が保険適応になる一方で腰痛の湿布薬は使用制限がかかり、高齢者の介護費報酬が削減されたりします。医療内容によって得られる幸福感に差がなくてもかかる費用に大差がある場合、どちらを優先的に提供するかについて、話し合われる事がないのです。このような話は、奇麗事を追求すれば直ぐに手厚い、しかも金がかかる方向に行く物ですが、現実論として「ほどほどの幸福」というものの折り合いをどこで付けるかという議論が本音の議論として必要だと思います。

 

 先日北欧に留学していた友人と話す機会があったのですが、一見福祉が充実しているように見える北欧諸国ですが、高齢者の医療については制限がかかっていて日本のように80歳以上まで全ての人が高額で手厚い医療を受けて長寿を全うするようには設計されていない、という話でした。つまり子供、現役世代には高福祉だけれども、高齢者がいつまでも生きるような福祉医療制度にはなっていないと。この考え方は、日本も見習うべきところがあるように思います。高齢者にとって、数ヶ月寿命が延びる数十万円の薬よりも日頃の腰痛に使える湿布代を出してもらえた方が幸福かも知れない。脳梗塞を予防するために20年以上も高脂血症などの薬を飲み続けて長生きしても、最後は「窓を開けて寝てしまって凍死」では何かバランスに欠けるように思うのです。今年4月には医療保健診の療報酬、介護保険報酬の改訂が同時に行われます。全体の動向は既に発表されていますが、国民全ての健康と医療に関わる事柄なので医療関係者だけでなく、一般の方も広く関心を持って欲しいと思います。具体的に発表されたらまた解説したいと思います。

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シンギュラリティの問題

2018-02-13 18:33:09 | その他

Singularityというのは、物理学の用語で私も説明されないと解らなかったのですが、現在のトレンドとして使われる場合は「人工知能のような物」の能力の向上がとめどなく進む時点が現れる時、という意味で使われるようです。

 

NHK出版新書513「人類の未来」2017年刊 で、発明家であり、google技術部門のディレクターとして活躍するRay Kurzweil氏のインタビューが紹介されています。それによると「コンピューターが進化するのは指数関数的であるから、近未来のある時点(singularity)でコンピューターはヒトを完全に超える存在になり、ヒトも進化してpost-humanになるだろう」と。

 

ヒトゲノム(遺伝子)の解析は、1%解析するのに7年かかったけれども、その後2-4-8-16%と1年で指数関数的に解析が進んで線形的には7年x100で700年かかる所が+7年で100%解析できてしまった。AIの能力も今までの開発年数よりも少ない未来にヒト脳の解析能力を遥かに超える微小コンピューターが開発されてしまうだろう、というのはあり得る事だと思います。

 

Kurzweil氏によると、singularityを超えることによって、人間社会に以下の2つの可能性が出てくると言います。

 

1)      創造力や感情を含めてヒトと同じ(以上の)能力を持ったロボットの出現(star trek next generationファンの人はデータやローアの完成形と言えば解るでしょうか)。

2)      ヒトにAIの機能を加え、一体化することで進化したsuper humanの能力を持つようになる。

 

1の方はSFなどで良く登場するヒト型ロボットなので理解しやすいと思いますが、2はサルの脳に進んだ前頭葉が付加されて、言葉や音楽などの創造性を持ったヒトが出現したように、現在のヒトの脳にAIを付加することによって現在のヒト以上の能力を持った人類を作るという意味です。例えば対面している人の思考による微細な電磁波をAIが読み取る事で他人の思考を読み取る能力を持つ人類(テレパス)が出現するとか(それが嬉しいかどうかは別ですが)です。

 

以下は私の感想ですが、1については実現できそうで実はできないのではないか、と考えています。ある特定の能力(囲碁とか運転とか物作り)についてAIがヒトを超えるのは現在すでに達成されていますが、全てにおいてヒトを超える事は不可能ではないかと思います。その理由は「ヒトは好い加減」だからです。理系の問題には答えが一つしかありませんから、コンピューターは答えを出す事が得意でしょう。しかし文系の問題は答えが一つではありません。「仏教とキリスト教、君はどちらを信ずる?」という問いに人間以上の優れた答えを出すロボットはいないと断言します。勿論設定によってはAIがいろんな答えを出す事は可能ですが、「解答不能」を含めて万人が納得する優れた答えなど出しようがありません。だから全ての分野で「失敗も犯すし、好い加減に物事を決めてしまえるヒト」を超えるロボットなど存在し得ないと私は思うのです。

 

一方で2については、私は実現可能ではないかと考えます。将来、人類は言語を介さず思考の概念のみで異国人同士が会話する事が可能になるかも知れません。VR(virtual reality)の技術は現在もかなり進んでいますが、視覚障害のあるヒトがカメラの映像を直接脳内にAIの力で神経伝達するといった事は実現性がありそうです。惑星間旅行ができるほど代謝を落として寿命を伸ばせるヒトとか、個人のゲノム解析から自由に必要な臓器を作成して使うとかも実現可能と思われます。

 

ということで私は2についてはシンギュラリティが起こりそうだと考えています。

コメント (2)
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