以前映画「フローレス」の評で、女装趣味、男色、性同一性障害の違いについて考えたことがあります。先日米国泌尿器科学会の研修医向けテキスト(AUA update series 2017-#5)で「トランスジェンダー患者への性転換(性合一化= gender affirming)手術」の特集があり、すでにガイドラインで標準化されているリアルライフテスト(手術前に自分が適切と思う性として1年間生活してみて本当に適合しているか確かめる)やホルモン治療、実際の手術などについて勉強してみて改めて問題の深さを実感しました。と言うのは、手術の複雑さ(特に女性から男性へ)も去ることながら、いくら外性器を変えてみても「妊孕性を含めた完全な性転換手術」というのは現在存在しないですし、本人の性自認と外性器との差異という事態が、本当に本人の性自認を優先することによって科学的社会的に正しい結果を生むのかという問題もあったからです。
この問題を考える上でコンパクトながら適確にまとめられた本、となると世の中LGBT(レスビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の語が反乱している割には少ないというのが現実です。その中でも少し古い著作ですが、
「性同一性障害」吉永みち子 著 集英社新書 0020E 2000年刊 は医学的、科学的な記載、社会や法律的な視点からも解り易く書かれた良書です。特に実際の性自認の障害に悩む人に取材してその人達の視点で書かれた内容も豊富で当事者でないと気がつかないような事も多く学べます。特に性同一性の障害は「まだ男女どちらかの性に決めないといけない」という規範に捉われていて、「どちらの性にもなりたくない」という人を阻害している、という指摘は「そう言う考えもあるか」と気付かせます。本書は2012年に第8刷が発行されていて改訂されることなく読まれ続けている事が解ります。
最近はLGBTの尊重が寛容な社会の証であるとか、リベラルの象徴であるような「風潮」が作られてしまって、「LGBTを解ったふりをするのが正義」みたいなノリ、軽薄さがあって、それは却って真剣に悩んでいる人達の助けになっていないと思われます。「リベラルという病」山口真由 著 新潮新書729 2017年刊 は氏の米国留学中の体験から「リベラル」を標榜する人達の病的と言っても良いPolitically correctnessへの非寛容性を取り上げています。つまり人種差別や性差別を僅かでも示せばその人が社会から抹殺されるまでリベラルを自称する人達が攻撃を続ける様を「リベラルという宗教」と表現して社会の自由さや本来の寛容性、多様性を圧殺する悪しき風潮であると指摘しています。性的嗜好や少数派の定義もLGBTでは足らず、LGBTQQIAAPPO2Sと言うのだとされ(いちいち説明しないのでググって下さい)、もう訳が解らない状態になっているという事です。
私はここでリベラル度とLGBTについての考察をするつもりはなくて、医学的、精神医療的に性の自認というのがどこまで確実なものであるのかについて考えたいと思います。一説では身体の性分化と脳における性分化の時期は異なると言われていて、男子は胎生8週頃、女性は11週頃から身体の性分化が始まるのに対して、脳の性分化は身体の性分化が終わった胎生20週くらいから始まり、睾丸で作られた男性ホルモンを多量に浴びた脳は男性脳に分化してゆくとされ、何らかの異常で男性でありながらホルモンの影響がなかった個体は女性脳になるとされます(性同一性障害 第一章32頁)。
男性ホルモン値の年齢による変化と個体差
しかし男性脳、女性脳というのが本当にクリアに2分化されるものなのか、というのは確証がなく、男性でも男性ホルモンの多寡は非常に個人差があるのは男性更年期を扱う泌尿器科医のみならず常識とされていて、そんな胎生期の一時期の男性ホルモンの多寡で脳の性別が2つに確定されるというのもやや無理があるように思います。当然女性的な思考を持つ男性脳や逆の女性脳があって当然と思いますし、中間的でどちらにも対応可能、或はどちらも否というのもありかと思われます。つまり直線の右に完全に男性、左に完全な女性と言う脳があるとして各個人は大きくは左右の大きな山(個人の集団)のどこかに位置するのではないか、と思われるのです。真ん中より右に位置する人が男性の身体を持っていれば心身ともに男性として生活する(英語ではCis-genderdと言う)けれども、不幸にして左にある人が男性の身体である時に性同一性障害(Trans-gendered)となるのだろうと思うのです。中にはどちらにも精神的には対応可能な人も実は多い(二つの山の中央)様に思います。こういった人に男性脳、女性脳という二者択一的な概念を押し付けて「あなた本当は女性脳なのに表現型は男性だから社会的に不当なのよ!」という刷り込みを行う事は「反社会的行為」であり、「誤った行動(例え本人は勘違いの善意からとしても)」と言えます。
心と肉体の性分化の一致度と性同一性障害
吉永氏の著書においても、この性自認の程度にはクリアな2分法はなさそうということが述べられていて、あとがきの中に「性に違和感を持つ人達には、グラデーションがある。性転換を希望する人達ばかりではない。自分の性別や、それに属する社会的、文化的性別に不快感や違和感を持って、反対の性での生活を希望しながら、性転換までは望まないトランスジェンダーの人達もいる。性分化の段階で、遺伝子・性腺・内分泌など様々なレベルで男女の非典型的な要素が含まれるインターセックスの人達は、男と女だけで世の中が構成されるという前提への激しい疑問を投げる。」という文(234頁)があり、男性脳、女性脳の多様性を示唆する内容と思います。
私が不思議に思うのは、遠い過去の生物からの記憶の蓄積として、男性脳、女性脳という性行為以外の社会的な役割分担も認識するような「差異」が本当に確として存在するものなのか、という点です。魂が生まれ変わりをして、過去に男であったり女であったりして過ごした記憶があるならば「自分の今回の人生は男と決めたのに身体が女じゃないの!」といって強い違和感として肉体を拒否するのは理解できますが、そうでないならば性行為以外でそんなに強い違和感を男性脳、女性脳というのが持ち得るのか極めて不思議に思います。
吉永氏の本には、実際に自分の性自認と身体の性の違いに我慢ができずに、性転換の手術をすることで精神的安定を得た人のインタビューを交えた実例が複数紹介されています。欧米においても性同一性障害はかつて”mental disorder”と分類されていたのが現在は”gender dysphoria”として身体の方の違和感、つまり精神の方を優先する考え方(terminology含む)になっていると解説されています(AUA update series)。多重人格の人を治療する際、どの人格を残すべきかで、社会にとって都合が良いと思われる人格を残して他の人格は抹殺してしまうのはどうか、という問題があります。性同一性障害の場合は精神と肉体が一致しておらず、本人的に妥協できる場合とどうしてもできない場合があって、できない時には精神を優先するというのが現在の考え方です。私は基本的にはその考え方で良いだろうと思いますが、もし妥協の余地があるならば妥協して人生を過ごすのも良いという説得もありだろうと考えます。完全な肉体、完全な遺伝子を持つ事はどんな人にもあり得ない事です。むしろ不完全であることを社会の方が受け入れる曖昧さや寛容性を持つ事が余裕や豊かさにつながるように思います。宝塚や歌舞伎の女形の文化があり、太った男性の裸体を相撲と言う形で愛でる余裕のある日本の文化は、一神教で寛容性を欠いた宗教を素地とした欧米の文化に比べるとはるかに柔軟で寛容性を持っているように思うのですがどうでしょうか。