rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

日本の平等社会は滅私奉公の恩恵だった?

2011-02-28 00:14:28 | 社会

21世紀に入ってグローバリズムの波に飲み込まれると日本も格差社会に向かい始め、今やそれが定着しつつあると言われています。正規社員と派遣社員、持てる者と持たざる者、かつては塾に行かなくても志のある子供は良い教育を受けられたのですが、低い方にレベルを合わせるゆとり教育によって教育の機会均等も失われ、格差社会は世襲の方向に向かっていると言えるかも知れません。

 

ローマの時代から「市民」の豊かな生活を支えるために3K労働をする「奴隷」が西欧社会では必要とされました。現在では「奴隷」は後進国からの「移民」や「出稼ぎ労働者」に名前を変えて、西欧諸国の「国民」の豊かな生活を支えるために必要とされています。彼らの「奴隷」との違いは人間として認められていることと自国で働くよりは良い給料をもらえるということ位で、決して当該国の「豊かな国民」と同じ生活はできないという点で、社会の立ち位置としては「奴隷」と同じと考えて良いでしょう。

 

アメリカにおいても奴隷は存在しましたが、欧州大陸におけるよりは個人が「勝ち組」へ入る門戸が広かったと言えるかも知れません。しかし第2次大戦後アメリカが覇権国になってからは国家単位で「勝ち組」と「負け組」を色分けして勝ち組は常に勝ち続けるようあらゆる手段を講じてきたと言えます。グローバリズムとは、経済の3要素(資本・労働・資源)のうち輪転機を回せばうちでの小槌よろしくいくらでも作れる資本をアメリカが担当することで常にアメリカが得をするように作られた国家単位の分業構造にすぎません。ソ連、中国は「勝ち組」と言えるかどうか微妙な所ですが、東南アジア、東欧やアフリカ、中南米諸国は常に「負け組」でありつづけるよう仕組まれてきました。

 

BRICsと呼ばれる経済発展を有望視される国々も、ゴールドマン・サックスなどの投資銀行が投資対象として人口の多さから「有望」とみなしているだけであり、本当の豊かさの指標である国民一人当たりのGDPはのびていないことが日経ビジネスの小峰氏の記事(http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20110221/218533/)を読むと解ります。

 

その意味で、現在進行形のアフリカ諸国の「民主化」も賞味期限の切れた独裁政権を西欧先進諸国に都合が良い、ソ連崩壊後の東欧諸国のような体制に作り替えるためのアメリカの財閥が繰り出した筋書きであることが(http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/google--20-a1ad.html)や(http://blog.goo.ne.jp/leonlobo2/e/b56982c49f5b0a0601b6125ee62ebef0)の記事を読むと理解できます。インターネットが革命を起こしたと世界中に思わせる実に見事な謀略です。これらの国々はこれからも一人当たりのGDPは抑えられたまま、西欧諸国に労働と資源を供給する「負け組国家」を演じ続ける運命にあると言えましょう。

 

日本の若い勝ち組の人は滅私奉公を忘れていないか

 

日本は歴史上階級社会ではあっても「奴隷制」のない世界でも希有な文化を持った社会を作ってきました。山田方谷の例をひくまでもなく、日本では階級的に勝ち組である「武士」が質素倹約することが美徳とされ、領民と苦楽を供にするのが「良い政」とされたこともあって、勝ち組でも己の快楽を追及しないで社会に尽す「滅私奉公」が良い事であるという伝統がありました。

 

この滅私奉公の思想は社会的地位における「勝ち組」「負け組」にかかわらず日本の社会に浸透していたことで、日本は諸外国に比べて貧富の差が顕著でない比較的均質な国民からなる社会をここ数百年作っていたと言えます。それは戦後社会においても引き継がれて、経済発展で国が豊かになると国民全体の暮らしが良くなり、一億総中流社会などと他の新興国ではありえない状態が現出されました。欧米では社長と新入社員の給与格差は数百倍もあるのが普通ですが、日本ではせいぜい20倍位でしょう。軍隊においても、師団長と二等陸士の給与差は10倍あるかどうかです。

 

あまり働かない公務員(会社員もいるけど)もそこそこの給料をもらい、生活保護の人でも一流の医療を惜しげもなく受けられる社会を維持するためには、割を食ってその分一生懸命働いている多数の日本人がいないと社会が成立しません。「勝ち組」だからといって欧米並に個人の生活をエンジョイして給与も欧米並にせしめてしまったら、「奴隷」に相当する存在がなければ社会を成り立たせる総労働量を創出することができなくなります。つまり格差社会を定着させなければ勝ち組だけが豊かな生活を送ることはできないということです。

 

私がこのように考えるに至ったのは、自分の仕事の分野において、どうも最近の若い研修医達を見ていると、その専門科の選択(自己の生活をエンジョイできる束縛の少ない科、しかも苦労しないで習得でき、種々のリスクを負うことが少ない科にゆきたがる)や、普段の言動(堂々と休みを要求するー勿論その分上の医師が働くことは解っている。学ぶ努力よりも教え方に文句を言うなど)から、彼らに我々が若い時に自然に持っていた滅私奉公的考え方が消失していて欧米的世界標準の考え方が自然と身についてしまっているように思えてしまうからなのです。

 

西欧社会の勝ち組が勝ち組であり続けるには、負け組は敗け続けないといけないので、社会がそうなるようにあらゆる汚い手段を使います。自分たちに都合が良いスタンダードを定め法制化し、必要とあれば謀略を用いて負け組の国家社会の体制さえも変えます。そういえば日本も民意と関係ない所で総理が変り、政府の方針も変っていますね。今後日本において「勝ち組」「負け組」が明確な格差社会を定着させてゆくには、さらなるグローバリズムの受け入れ(TPP加盟とか)が必要ですし、奴隷に相当する「移民」の受け入れも必要になるでしょう。滅私奉公などと言わず、「勝ち組」になったら高額な給与と充実した個人の生活も要求しないといけません。医師の場合、土日も仕事とか、当直の翌日手術などもっての他でしょう。

 

留学したときに見聞きした経験から、アメリカで今の私の立場ならば給与は3倍、週休二日は当然で夏休みも3週間はとって行方不明になっていたであろうことを思うと、それも悪くないかもと思ってしまうのですが、私は貧乏人の倅だったこともあって、日本的な均質な社会や誰でも努力すればどんな職業にもなれる社会がやはり良いと思います。だからやりがいと誇りがあれば「滅私奉公」の生活でも満足できる社会の方が、将来の日本を明るくするのではないかと考えます。「勝ち組」とされる日本の若い人達に「滅私奉公」の思想を忘れないで欲しいと願うのは、年寄りの愚痴でしかないのでしょうか。

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痴漢冤罪と推定無罪

2011-02-02 15:41:25 | 社会

「パワーブローカー」小沢一郎氏の強制起訴について英語メディアは(gooニュース・JAPANなニュース) - goo ニュース

小沢氏の強制起訴、しつこい検察が2度までも起訴を断念した事項について、これは公判を維持して有罪足り得る事実があると審査会の素人の人達は判断するに十分な証拠があったということでしょうか。私は訳者の加藤さんと同様「推定無罪」の大原則を大事にしたいと思いますし、政治的な思惑や、まして「アメリカ様の都合による小沢つぶしなどでは絶対にない」ことを祈るばかりです。

最近少し下火になりましたが、満員電車で痴漢に間違われて一度逮捕されたら最期「嘘でも罪を認めない限り延々と身柄を拘束され、裁判にかけられ、会社はクビになり、一家離散・・」といった悲劇が問題になりました。嘘でも痴漢を認めて罰金を払えばすぐに釈放されて微罪で済み、時間が経てば前科も消滅することに比べて、真実を通そうとすると大きな損失を被るという「社会的非正義」がそこにあります。特に会社を解雇されたりする社会的制裁は、本来無罪である人には行なってはならない(正式に裁判になれば当然不当解雇でありそのような判例も出ています)ものです。電車で痴漢に間違われたら、駅員室には行かず(行くとその後エスカレーター式に痴漢の犯人として扱われるため)、その場で(携帯で)警察に電話をして「痴漢をしていないにもかかわらず不当に罪を言い立てる人間がいて、名誉棄損でもあり困っている」とこちらから警察に訴え出る方が良い、と言われています(逃げるという手もありますが、痴漢を認めるのと同じような悔しさが残るのでは?)。

私が電車通勤をしていた時は、朝は6時前後の空いている電車に乗っていましたし、夜も座席に向かって片手はつり革、片手は本を必ず持って物理的に痴漢と間違われない状態を保つようにしていました。往復で2時間以上かかったので随分本を読んで本代がかさみましたが、教養はついたように感じています。

犯罪を疑われて起訴された場合、事業所はその被雇用者を「必要に応じて休職扱いする」ことは合法と認められています。また有罪となった場合には状況によって解雇されることもあるでしょう。しかし起訴されただけ、或いは被疑者となっただけで「解雇」というのは違法な措置です。しかし日本社会には「組織を守るため」と称したり、法を拡大解釈して厳しく処断することを「コンプライアンスの重視」と勘違いしている人がかなりいて、「推定無罪」の原則を無視して社会的制裁を加えてしまう傾向があります。それは「秩序を守る」ことが最も大切とされた江戸時代からのDNAによるものと推測されますが、個人は悪くないけど責任とって「切腹」とか、「藩お取りつぶし」とかの概念と同一のものに見えます。しっかりした考えを持っていないと我々はこのような「世間が許さない」とか「組織を守るため」といった何の根拠もない論理を違和感なく受け入れてしまいがちなものです。本来速度違反や脱税などに使う行政罰を意味する「秩序罰」という言葉を「秩序を守る」ための罰と勘違いして使っている人もいるくらいです。

小沢氏の事例は「推定無罪」の原則から言えば現在は「無罪」です。しかしマスコミも政治家も小沢氏を「無罪」として事にあたってはいません。社会の模範になるべき政治家やマスコミが基本的人権に反する「推定有罪」を平気で言い立てて、それに対して厳しく糾弾する勢力が皆無な状態では、一般社会で「推定有罪」の概念が日常的に使われるでしょう。私はこのような状況を見るにつけ、日本の文系が理系(一応私は理系のつもり)の人達から信頼され、尊敬される日はこないのだろうなあ、としみじみ思います。

法律や裁判について言うなれば、「医療ミス」や「医療過誤」があるように(これは当事者としてあると認めざるを得ません)、「司法ミス」「司法過誤」が日本にはごろごろ転がっていると言えます。法律家(行政官も含めて)達が自分たちもミスを冒すであろうことを自ら認めて、その実例を国民の前に明らかにし、ミスがなくなるようシステムを改善することに勤めない限り、少なくとも私は法律家を尊敬することはないです。

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