rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

限られた帰納的結論を科学的真実に変える統計学という魔法

2013-07-31 21:37:17 | 医療

慈恵医大でもデータ操作=製薬社員関与「疑い強い」―本人は否定、高血圧薬臨床(時事通信) - goo ニュース

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毎年看護学校で講義をする際に、専門である泌尿器科の内容に加えて、医学総論的で、系統講義では習わないような内容についてミニレクチャーをすることにしています。いままでテーマ分けして1)西洋医学では急性疾患は治るけど慢性疾患は治らないので、慢性疾患の治療は症状をごまかすことと急性疾患が合併症として起こる事を予防する予防医療にシフトしている話。2)西洋医学は演繹法に基づく自然科学の体系に組み込まれているので、演繹法的な論理体系で形作られている一方、東洋医学は長年の経験知に基づく帰納法で成り立っているから東洋医学では新しい知見はそうそう生まれないけど、西洋医学では新しい仮定に基づいて論理展開された新しい治療法が直ぐに実用化される。但し仮定が間違っていたら導かれる結論も間違っているから西洋医学が絶対に正しいという訳ではないという話。3)似非医療の特徴は、ごく限られた経験知(・・で治った人がいるという限定的な帰納法)をもって西洋医学によって定義された病気が治る(本来演繹法で求められる結論)と宣伝していることである。その見方で判断すれば似非医療かどうかはすぐに解る、といったミニレクチャーをしてきました。

 

今回最近西洋医学で特に重視されている「エビデンスに基づく医療」の「エビデンス」を形作る医学統計について考察してみました。本来西洋医学は自然科学と同様の演繹法によって体系づけられているのですから、前提が正しければ導かれる結論も正しくなければならないはずです。しかし、Aという治療とBという治療を比較した場合、Aが60%治って、Bが70%治るという場合、統計的手法による比較ではBという治療の方が優れているという結論になり、エビデンスに基づく医療ではBの治療を選択する方が望ましいとガイドラインに書かれてしまいます。しかし一人の患者さんに焦点を当てて考えると、確率論からはAという治療をしたら治るけれど、Bの治療をしたら治らないという結果がでる場合もある訳で、そうであるならその患者さんにとってはAの治療を行うことの方が正しい治療ということになってしまいます。なぜガイドラインと異なる矛盾した結果になってしまうのでしょう?

 

それは限られた症例数から得られた「帰納法による経験知」を統計学という演繹法に基づく数学的手法で修飾してあたかも全体が演繹法で得られた結論であるかのように見せかけているからです。東洋医学のように帰納法によって集積された学問大系は数百年かかって修正が加えられてきたものです。しかし医学統計はせいぜい一年から数年の間で得られた限られた例数の集計でしかないから帰納法として結論を得るには不完全なものであり、その不完全さを統計学という手法でもっともらしく見せているにすぎないと言えるのです。勿論統計学自体はサイエンスとして正しく確立されたもので、インチキであるという意味ではありませんが、「数学や物理の法則のような間違いのない結論は医学統計からは得られない」という大前提を理解してエビデンスやら統計の結果やらを扱わないと大きな間違い冒す事になります。

 

意外とこの辺の理解が乏しい人が医者にも多くて、統計によって得られた差が絶対的な真実であると勘違いしている人もいます。観察に基づく自然科学を帰納法と演繹法の統合で確立したのはフランシスベーコンとか20世紀ではカール・ポパーであると言われていますが、医学統計は1970年代くらいから医学の飛躍的な発展にともなって活発に研究が進んで1980年代からコックスの比例ハザードモデルなどが多用されるようになります。統計学というのは専門に勉強した人でないと理解するのが難しいのですが、複雑な式も今はコンピューターに数値を打ち込むだけで自動的に計算して答えを出してくれるので、そこで統計的な差がでると「科学的に正しいとお墨付きをもらった」と勘違いしてしまう(むしろ勘違いしたい)と考えてしまうのが実情です。

 

限られた帰納的結論を得るにあたっても、始めから大きく外れる例(外れ値)をどこに設定するか、対象とする症例をどの範囲で選ぶかによって得られる統計的結論もある程度予想がつく事が普通ですから、「意図を持って始められた研究」は意図通りの結論が得られるような設定がなされるのが普通なのです。それでも集計した結果、あと少しで統計的有意差が出そうな時には今問題になっているような「観測値の操作」とか「意図的な症例の除外」とかのインチキが容易になされてしまう可能性があるのです。

 

医学研究においてこのような不適切な行為がなされないためには、研究者の倫理観が第一ではありますが、他に対象となる症例数をできるだけ多くすること(普通有意差を出すには何例以上必要とか計算できるが、それを十分上回る数を用いる)。検討結果がネガティブであっても発表の価値を認めてきちんと発表する(普通は顧みられないけどー新しい薬より古い薬の方が良かったという結論も当然ある)。統計の前提を正確に提示する。などが大事なことになります。

ー以上ー

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映画V for Vendetta・2010年アカデミー受賞作The Hurt Lockerの感想

2013-07-23 11:55:16 | 映画

V for Vendetta 2005年 米・独・英 ジェームズ・マクティーン監督、ナタリー・ポートマン、ヒューゴ・ウイービング主演

 

政府が意図的に作ったウイルスを国民に感染させてパニックに陥れ、それをテロ組織のせいにして、強権で治安維持を保つことを正当化させ独裁体制による管理社会が築き上げられた近未来の英国(米国は戦争で既に消滅したという設定になっているようだ)を舞台に、かつてあった自由な社会を市民革命によって取り戻そうとするヒーロー「V」の1年に渡る活動を描いた映画。展開はアノニマスの仮面をつけたVとナタリー・ポートマン扮する両親を政府によって殺されたイーヴィー、政府の中枢とVを追跡する刑事を中心に描かれるのですが、どこか舞台演劇のような作風で割と狭い空間内でストーリーが展開してゆきます。敢えて安穏に暮らせる日常を捨てて強権的な政府に楯突く道を市民が選ぶようになる経過はイーヴィーがVに捕われて擬似的拷問を受けながら、困難な自由への道を選択するという過程に暗喩されていて、全編を通じてVの芝居染みた台詞や象徴的な展開・表現が多いこと(倒される政府中枢の人少なすぎ?とか)からこの映画の好き嫌いや評価が分かれる所だと思います。Vは超人的でかつ暴力的で、それは原作が漫画ということもあるのでしょうが、全体の展開としては唐突な感じもあります。しかし権力は嘘をつくもの、国家権力による管理社会は個人の自由を平気で侵害するもの、自由は国民皆が意識を持って改革を迫らないと得られないもの、といったメッセージは十分伝わるし、ここに描かれた国家の姿は多かれ少なかれ、我が日本を含む現在の世界中の国家権力の姿を反映していることも理解できます。自民が圧勝して衆参で絶対多数を獲得することになった2013年7月の参院選の日に見た映画として意義があるかも知れません。映画のできとしては7/10点くらいでしょう。

 

映画 The Hurt Locker 2008年 米 キャスリン・ビグロー監督、ジェレミー・レナー、アンソニー・マッキー、ブライアン・ジェラティー主演、2010年アカデミー賞受賞。

 

911以降、アメリカ国内では愛国者法ができて「テロ対策」と言えば国民の人権でさえも制限の対象になる、テロの容疑者とされれば拷問もOKという何でもありの状態、一方で10年に及ぶ国力を疲弊させる実りのないイラク・アフガンにおける戦争をハリウッドがどう映画化し、どのような描き方ならば高評価がなされるのかは興味深い所でした。COIN(Counterinsurgency)と呼ばれる米軍のイラク・アフガンにおける活動は軍隊本来の活動とはほど遠く、戦争映画として描くとなると、軍が本来的に持っている機能の何かを主役に描かねばならず、結果として「爆弾処理班」の活躍を描く事になったのでしょう(途中戦争映画的な狙撃戦<下図>も織り込まれてますけど)。設定としては戦争好き(戦場でしかうまく自己実現できない)な主人公が周囲を巻き込んでストーリーがぐいぐいと展開してゆく中で、義務感から戦争に参加している普通の軍人達の苦悩が描かれて、全体としてアメリカが戦う意義が表徴されるという戦争(娯楽)映画としてはオーソドックスな設定がなされています。しかしその意義の描き出しが難しいのがこの戦争。同じような設定の映画例として、第二次大戦はファシズムとの戦い(S.マックイーンの戦う翼War Lover)、朝鮮戦争は共産主義との戦い(ロバート・ミッチャムの追撃機 Hunters)、イスラエル建国(カーク・ダグラスの巨大なる戦場Cast a Gant Shadow)などが挙げられますが、これらのように背景となるアメリカ(世界の)大衆が安心して納得できる「戦争の大義」をこの映画で描けたかというと疑問です。イラク・アフガンの場合の戦争の大義は「テロとの戦い」になるのですが、映画の中では、それがイラク国民のためにもアメリカ国民のためにも大義として成立していない。つまりこの映画では型通りの人物設定にしながらも「多分意図的に」この大義を描けなかった所が却って作品として評価されたところなのかも知れません。その意味ではアメリカの現実を皮肉った「アバター」を抑えてアカデミー賞を受賞した意味があるでしょう。8/10点をあげましょう。

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中国の文革後の拝金主義は尊王攘夷後の開国のようなものか

2013-07-19 18:27:08 | 歴史

前回の書評 「おどろきの中国」で、文革であれほど資本主義を嫌っておきながらあっさりと改革開放・拝金主義になった心理的構造がどういうものかという視点で読んだことを書きましたが、「文革と改革開放は一連の物」という面白い視点はあったものの明確な答えはなかったように思います。ただ、文化大革命で中国的な有形無形の古い伝統を紅衛兵という伝統を知らない少年少女達の世代に破壊させたことは、次の改革解放に中国全体が伝統にとらわれずに進むことの抵抗をなくした、つまり社会のキャンバスが真っ白になった所で資本主義、拝金主義の絵を自由に書き込む下地ができた、という分析は正しいように思いました。

 

日本においても維新前の動乱期には幕府の外圧による開国政策に対して強行な攘夷思想を掲げる志士達が倒幕運動を進めましたが、一度維新が達成されると積極的な開国西洋化がなされました。この転換にさして心理的抵抗が起こらなかった理由は、結局「攘夷」は本当に外国人が憎かったのではなく、倒幕のための方便でしかなかったということだと思われます。倒幕の中核となったのは関ヶ原以前から土着であった「下士」といわれる徳川体制では虐げられてきた武士達であり、尊王をかかげることで権威の後ろ盾を持ち、攘夷という反幕政のスローガンでまとまることができたというだけで、維新後に西南の役のような燻った状態もありましたが、庶民を含めて多くの人達はすんなり開国・西洋化を受け入れてしまったのでしょう。

 

中国も共産党政権ができる前の状態は、西欧列強と遅れて乗り込んだ日本に酷い目にあっていたとは言え、特に中国社会で資本主義が発達して、その搾取で多くの民衆が苦しんでいたという訳ではなく、国民党が都市部を中心に勢力を固めたのに対して、共産党は農村に入り込んで土地を農民に解放し(その後公社化しますが)、食料を確保して行く事で勢力をのばした背景があるにすぎないのであって、特別反資本主義をかかげるマルクス主義が選ばれた結果、共産党政権ができた訳ではなかったはずです。だから文化大革命で走資派とされて迫害された人達も「資本主義の権化として散々民衆を苦しめたから」というよりも「党の幹部」であったり、「中国の伝統や社会における権威」であったりしただけの理由で迫害されただけです。そういった点で10年に及ぶ文革で社会が破壊されて白いキャンバスになった時、日本における維新後と同様に「諸外国に追いつくためにどうするか」を問われた時に、「手っ取り早く資本主義・拝金主義を導入しましょう」という結論になったのは自然だったかも知れません。

 

ところで、中国の人達が倫理的に善悪を決める基準が何かは、「おどろきの中国」には明確には書かれていませんでしたが、私の想像としては、やはり「自分が生きのびること」を基準として、幇と呼ばれる自分の属する集合体の利益を優先することが善悪の基準になっているように思われます。社会の法や規則は幇のもう一つ外側にあって、幇の規範に反しない限り守られるというもののように見えます。近代的な国民国家に住む人達が抱いているのと同様な、「中華民族の国家」という意味での「愛国心をもとにした精神」が倫理的な善悪を決める基準になっているかというと、政府としては大いにその方向に持って行きたい所でしょうが、民衆の側としてはまだ十分とは言えないように感じます。外国に出て「中国人」としてひとくくりにされるとナショナリズムをむき出しにするように見える中国人ですが、まわりが全て中国人とう状況の中ではお互いを同じ国民として信頼し合う事はなく、幇や同郷といったくくりの方が依然として遥かに重要なタームになっているように見えます。この事についてはまた勉強を続けたいと思います。

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書評 おどろきの中国

2013-07-17 23:41:16 | 書評

書評 おどろきの中国 講談社現代新書 橋爪大三郎、大澤 真幸、宮代真司 対談2013年 刊

 

意外と知られていない中国の社会、歴史、日本との関係などについて、奥様が中国人で自身も中国の研究を長年している橋爪大三郎氏を中心に、大澤、宮代の両氏が問答形式で論を進めて行くという内容で、日本的感覚からは「ほう!」と驚く事が多い中国の社会を再認識するという意味でこの題名が付けられたそうです。

 

私としては中国人が物事を「良し」と判断するエトスのようなものが分かればという部分と、毛沢東思想や文革であれだけ資本主義を嫌っていながら、現在の拝金主義に矛盾を感じないのは何故か、といったことに興味を持って読みました。

 

構成としては、第一部で「中国とはそもそも何か」を問い、国民国家という概念ではない古代からの「中国という枠組み」をそこに住む人達がどのように認識していたかが語られます。種々の民族や社会が「漢字」という統治を行う一部のエリートだけが共通に理解できる文字と四書五経という教科書によって儒教と法家を使い分けながら適宜易姓革命によって王となる人を代えながら社会が成り立ってきたという過程です。面白いのは諸派分立している春秋戦国時代のような状態は中国としては据わりが悪く、専制的であっても一人の皇帝がいて、冊封体制で周りが従っている方が落ち着くという体質です。これが実は現在の共産党王朝の専制体制が続いていることにつながっている可能性があるということです。

 

第二部は辛亥革命から共産党政権の樹立、ソ連東欧の崩壊と現在中国の関係までの歴史的な背景を解説しています。興味深いのは文化大革命についての考察で、中国文化の権威とされるものが破壊されて行く中で、権力者である党の幹部までもが紅衛兵という末端の民衆によって粛正されて行く所がナチズムやスターリニズムとも異なるということです。そしてこの古くからの中国的な伝統の破壊が、次に来る改革開放をスムーズに行わせる元を築いた、つまり「文革と改革開放は結果論的にワンセットになっている」のではないか、という考察はなかなか面白いと思いました。

 

第三部は日中関係について、主に日中戦争について検討されます。解りやすい説明として、中国が日本を信用できない理由として、本来日本はロシアに対抗するために満州に進出して行ったのに意図が不明確なうちに中国と戦争を始めてしまった所にあるという点です。何を目的、ゴールとして中国と戦争していたのか解らないから戦後の現在も何を謝罪したらよいのか良くわからない、というのはその通りと思います。勿論中国一流の外交カードとしての謝罪要求というものもありますが、それを逆手に取って中国の上を行く日本の外交が行われないのも事実ですから。

 

第四部は現在とこれからの中国と日中関係についての考察で、中国は21世紀の覇権国家になるか、社会主義と市場経済は両立し続けるか、日本はそれらといかにつき合うべきか、といった非常に興味深い問題が語られます。まず、覇権国家については、今まで交代してきた覇権国は全てキリスト教文化圏の中で交代してきたのであって、考え方の異なる中国やイスラム国家が覇権国として世界の中心となることは難しいのではないか、まず欧米先進国が追従しようとせず、衰えたりといえ、米国が覇権国であり続けるように支援するのではないか、と考察されます。結果日本は米国を支える国家の端っこにくっついて、しかも中国ともそこそこうまくつき合って行くのがよいのではないかと語られます。

社会主義・市場経済というのは本来両立しない概念なのですが、始めに思想から入る民族性ではない中国においては「何でもあり」である程度うまくやってしまう可能性があると考察されます。しかし現在危惧されているシャドーバンキングなどの問題で、一度経済の信用がなくなると誰も(外国の資本家が)中国内で金のやり取りをしなくなって経済が破綻する危険性があります。「危ない物へのフタ」を国家権力がやり続ける事は、資本主義経済では不可能でしょう。

 

終わりの方で、中国との尖閣問題や小泉政権時に拉致被害者を北朝鮮に戻さなかった事で外務省と中国・北朝鮮が描いたその後のストーリーが崩れたといった事が裏話を交えて語られるのですが、日本には日本の作法があるのだから、その点全てを相手国に合わせなかったといって日本の政治家を批難するのは少しいただけない内容に思いました。相手に合わせていればこちらの筋書き通りに事が運ぶというのは甘いと思います。もっと外交は狡猾で汚いものであり、そのなかから何とか妥協点を見つけて国益を守って行くのが外交ではないかと私は思います。

全体としては、この本は読みやすく、また興味深い内容で、読む価値があると思いました。

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子宮頸癌ワクチンの有用性

2013-07-05 20:02:46 | 医療

子宮頸癌ワクチンの接種によって神経麻痺などの重篤な副作用が出現している可能性がある事についてマスコミで取り上げられ、「当分の間積極的な接種は控えるように」という分かりにくい通知が出されて医療従事者や接種を控えた子供を持つ親、学校などに波紋が広がっています。私は以前ワクチン自体が危険とは書きませんでしたが、費用対効果の面で無駄が大きいのではないか、国民全て(の女性)を無償接種の対象にするのは反対、という意見をブログで述べました。今回子宮頸癌について早期発見や予防を専門に研究している産婦人科医の講演を聞く機会があったので、ワクチンの事を含めて備忘録を記しておきます。

 

ちなみに専門家の説明を聞いた後であっても結論として、私は「子宮頸癌ワクチンは危険ではないが、費用対効果の面で全員を定期接種の対象にするのは政策として誤りである」という意見は変わりません。

 

子宮頸癌の発癌と早期発見について

1)      HPV16と18の持続感染が子宮頸癌の前癌病変の形成に関与していると言われており、他のいくつかの型を合わせると80%近くの頚癌の原因ウイルスになる。これらのヒト乳頭腫ウイルスは性交渉の機会(相手が複数)が多いほど感染率が上がる。多くは自然治癒するが(90%)、一部持続感染する場合があり、この持続感染した人の一部(1%)に前癌病変(CIN)が形成される。前癌病変の多くは自然治癒するが、一部の人は癌になる(感染者の0.1%)(年間8千から1万例)。癌化には喫煙や環境因子も関連すると言われています。このワクチンはHPV16と18(サーバリクス)(ガーダシルはこれに加えて尖圭コンジローマの原因となる6、11型も予防)の感染を予防する効果がある。既に感染しているウイルスを除去する効果はない。

2)      早期発見については癌を早期に発見する(細胞診)、前癌病変を発見する(細胞診)、ウイルス感染を発見する(ウイルス検査)などがあり、ウイルス検査が陰性ならばそれ以上の検査が2−3年は必要ないことから、ウイルス検査を推奨する国もある。しかしウイルス陽性の場合に不要な精密検査をする機会が却って増えるから経済的でないという話もある。

 

ワクチンの安全性について

1)      ワクチンは外套の蛋白のみで核酸は含まないのでウイルスに感染するリスクはない。

2)      筋肉注射なので痛みが持続したり、迷走神経反射のために失神したりする例が10万人で10−20人くらい出る。

3)      免疫反応による?神経疾患のギランバレー症候群や急性散在性脳脊髄炎(ADEM)、が430万人に1人出る(厚労省のホームページから)。これらの頻度は他のワクチンに比較して特に多いとは言えない。

 

要点をまとめると上記の様になりますが、今回問題が大きくなった背景には、厚労省が定期接種(全員を対象)を決定するにあたって、ワクチンの有用性や安全性などについて十分な説明を行わず準備も不十分であった事、厚労省として「本ワクチンが日本の将来にとって絶対に必要なものである」という強い決意なく始められた事に問題があると思います。通常の医療というのは医療の恩恵を受ける人と副作用で不利益を受ける人は同一であり、恩恵と不利益を秤にかけて恩恵が大きいと判断した上で医療を受けるものであり、そこには本人や親のしっかりした決断が伴っているものです。ところが予防医療においては将来恩恵を受ける人と副作用に苦しむ人は同一ではなく、何の利益もなく不利益だけを被る事もあり得るのです。定期接種としてある意味強制性を持たせるからには「君は不利益だけ被る場合もある事を覚悟しなさい」と強制する上での予防医療の特殊性を国民に納得させる必要があります。例えばインフルエンザや風疹などは、皆が同時に感染予防を行う事で社会として直近の未来における感染蔓延に効果がある訳ですが、「一部の人が将来なるであろう特定の癌を予防する効果がある」という予防医療を国民全体に強制するにはそれなりに納得のゆく説明か、「受ける受けないは個人の自由」という「各人が判断できる余裕」を残しておくべきではないかと私は思います。現に諸外国では定期接種が勧められていますが、「私はポリシーとして受けない」と明確に意思決定をして受けない人も沢山いるそうです。日本にそのような風土がありますか?

 

私はこのワクチンが特に危険だとは思わないのですが、費用対効果でやはり疑問が残ります。というのはアメリカで320ドルでできるものが日本で4万8千円ということは1ドル150円換算で価格設定されているという(もっと言うと購買力平価で言えば日本の方が米国より20%位物価が安いはずですーeconimist誌2013年のBig Mac指数)日本の輸入医薬品における価格設定の問題もあります。従って、本ワクチンを広く日本で行うならもっと安価な価格設定(上記から3万円程度)にした上で、一部費用を公的補助にしても良いですが、本当に納得した家庭が残りは自腹で接種する、で十分ではないでしょうか。

 

このワクチンは特に4価について男性にも定期接種を勧める動きがあります。私はとても費用、リスクと利益の比較で男性にとって割にあうものではないと判断します。

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慰安婦問題の議論にうんざりする訳

2013-07-04 00:12:44 | 社会

いままで本ブログでは様々な戦争についての問題を取り上げて考察してきましたが、所謂旧日本軍の従軍慰安婦問題(正確には旧軍の慰安所における朝鮮出身の慰安婦が強制連行されたと訴えている問題)に触れる事はありませんでした。私は50台半ばであり、物心ついて以降、今まで取り上げられることがなかった朝鮮出身の慰安婦が強制連行されたとされる問題がはじめて朝日新聞などで取り上げられてから外交問題になり、教科書にも無理矢理記載されるようになった経緯を現実の時間経過の中で見てきました。また私の母は朝鮮の大邱出身であり、引揚者であるので、小さい頃から日本統治下の朝鮮の様子はよく聞かされていましたし、自分自身中学の頃韓国の友人の家にホームステイなどして当時は年配の家族の人達で日本語を話せる人が多く、戦前の生活についての話を聞く機会もありましたので、母から聞いている事も彼らの話と違いがないことは分かっていました。だから外交問題となっている慰安婦問題が「問題化させるための問題」であり、戦後生まれの日本人がいくら話し合った所で将来の日韓関係に建設的な結論を生み出すことなどない(求めているのは金だけで建設的な結論を求めていない)ことが明確でバカバカしいから取り上げなかったのです。

 

この慰安婦問題については3つの立場の人達がいます。1)責任を追求される立場の日本人、2)責任を追求する韓国人、3)責任を認めようとしない日本人を責める日本人、の3つです。この3)の立場の人が実は問題を複雑にしています。

 

「韓国人」の主張

軍によって強制的に動員されて戦地に駆り出され、性奴隷状態で非人間的な扱いを受けた。これはその後の人生を台無しにされたに等しく、補償してほしい。

 

「責任を追求される普通の日本人」の主張

軍が強制的に慰安婦を動員したという記録はない。当時の記録から民間の業者が慰安婦を募集し、運営したのであり、軍とは協力状態にあっただけである。しかし当時慰安婦として苦労をされた方がいることは確かであり、遺憾に思う(民間の基金として補償は施行済み)。

 

「責任を認めようとしない日本人を責める日本人」の主張

軍が慰安所を必要とし、医学的な管理や運営について要望をしていたのであるから、実際の運営が民間であったとしても「軍の関与がない」と結論づけるのは誤りであり、国家として責任を認めるべきである。また慰安婦個人は自由に辞めたり移動したりする自由はなかったのであるから被強制性があり、現実的に性奴隷状態であったと認めるべきだ。

 

この3番目の「日本人を責める日本人」の主張も一定の説得力があるから、普通の日本人としては「狭義の(直接軍が強制連行した)軍の関与はないけれども、広い意味での関与はあったとも思う。」と発言すると韓国から「日本は軍の関与を認めた。我々の告発どおり強制連行したのだ。なんて酷い奴らだ、日本の悪行を世界に訴えて国際的に批難し補償も求めるべきだ。」という話になって普通の日本人としては「だからそれは違うのであって・・・」という堂々巡りが繰り返されて、なんら建設的な結論が出てこないことになります。

 

「日本人を責める日本人たち」は戦後ドイツの個人補償などの件も持ち出してしきりと戦争責任の取り方について「普通の日本人」を上から目線で責めます。ドイツは国家が分断されて、ナチス第三帝国と東西ドイツは国家としての継続性がないから戦後補償を国家として行うことができない事、戦争責任は国家が戦争をした責任ではなく、ナチス時代に個人に対して行われた犯罪行為に対して補償をすること、が西ドイツ政府として決定されたために日本とは戦後補償の行い方が違うだけなのですが、あたかもドイツのやり方が優れているとして国家として個人に金を払おうとしない日本を責めます。

 

「日本人を責める日本人」の人達は基本的に「インテリで人格高潔」な方達なのだろうとは思うのですが、「皆が納得できるような形で総合的に物事を丸く納めて建設的な方向に持って行く」事には興味がないようで、きっと現実世界でも「清濁合わせ飲んで物事をまとめあげるような器」の人達ではないのだろうなと想像します。ネットなどでのやりとりを見ていても次第に何も生み出さない議論にばからしくなって私は見るのを止めてしまうのですが、現実の政治世界ではこれらの立場が三つ巴になって延々非建設的な議論が繰り返されているのでうんざりしてしまうのです。高校の教科書などには慰安婦問題についてこの3者の主張を載せて、なぜ建設的な結論が出てこないのかを試験問題として解かせるというのが現実政治を考えさせるよい訓練、真の教育になるのではないかと愚考します。

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