rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

映画「恋のゆくえ」(Fabulous Baker Boys)感想

2022-06-24 21:32:59 | 映画

「恋のゆくえ」(Fabulous Baker Boys) 1989年20世紀Fox スティーブ・グローブス監督・脚本 主演 ジェフ・ブリッジズ(ジャック・ベイカー)、ボー・ブリッジズ(フランク・ベイカー)、ミッシェル・ファイファー(スージー・ダイアモンド)

字幕はありませんが、雰囲気は判るtrailer

 

医者になってから、若い時に映画館で見た数少ない作品のひとつ。デイブ・グルーシンのジャズが全編に散りばめられて、内容もおしゃれな感じで29歳の監督・脚本(自分と同じ年)とは思えない「大人の映画」という印象でした。今回CSで久しぶりに見る機会があって、当時気が付かなかったというか、当時と全く違う感想を持ったので、改めて感想を記すことにしました。以下ネタバレを含むあらすじです。

 

ホテルやバーのラウンジでピアノ演奏をする兄弟が、落ち目の人気を挽回しようと女性ボーカリストを入れる事を決意してオーディションをします。やる気はあるけど使えない応募者ばかりの中で、遅れてきたハスッパな感じの今でいう「コンパニオン」のスージー・ダイアモンドは、ダメ元でMore than you knowを唄わせたらプロの二人が直ぐに解るほどの上手さだった。舞台経験がないながら3人でのショーは次第に人気を博してゆく。いままで断られた仕事先からも、「是非演奏して!」と手のひら返しに。そんな中、上品で型どおりの舞台を続けたい兄のフランクと、有り余る才能で自由にジャズとして楽曲や演出の幅を広げたいジャックとスージーが対立してゆきます。子供が怪我をして家に帰ってしまったお目付け役のフランク兄がいない高級リゾートホテルでの大晦日年越し演奏会では、ジャックとスージーが才能満開の超一流の演奏を繰り広げて万来の拍手を浴びます。そして二人は自然の経過の様に結ばれて・・。

その後型どおりの演奏を強要するフランクにスージーは別れを告げ、ずっと従ってきたジャックも反旗を翻して喧嘩別れをして3人は別々の人生を歩むことになるのですが、フランクは近所の子供たちにピアノを教える先生、ジャックは場末のジャズバーでピアノ、スージーは洗剤CMの歌手と本来望むところとは異なる姿に。ジャックは再びスージーに会いに行くのですが、その恋のゆくえは?で終わり。

 

日本名の「恋のゆくえ」はおしゃれなラブストーリーとして興行する上では良い題名ですが、年を取ってCSで再度見直してみると、この映画が本当に描きたかったのは「恋のゆくえ」ではないと気付かされます。不器用ながら「音楽に対する情熱・愛情」を持って生きる人達の生きる姿、を描きたかったのではないかと思いました。兄のフランクはピアノよりも堅実なマネージメントに才能があり、彼も弟ジャックの「ピアノの才能は天才的」と認めているのだから、人気のあるスージーと自由に演奏させて上手にマネージメントすれば二人はスターになって皆ハッピーになれるのに・・と観ている方は簡単に考えてしまうのですが、世の中はそんなにうまくはゆかない。逆に世渡り上手な人は「そんなに純粋に音楽を演奏できない」のかも、とこの年になると気が付きます。兄フランクにも自分の理想とする音楽がある。それを曲げて「売れるためだけのマネージメントを器用にやる才能」まではない、ということ。かく言う私も、もっと手術が上手な若手をうまく使ってマネージメントをして病院内で自科の売り上げを伸ばす事も部長としてできたけど、自分のやりたい医療を追求したのが今の姿なのだと思うと他人の事言えないと気が付きます。

その後の映画にも影響を与えた名シーン

 

ダメダメのオーディションシーンでジェニファー・ティリー演ずるウエイトレス「モニカ・モラン」が我を忘れて「キャンディーマン」を唄うのですが、終盤のシーンで兄と喧嘩して傷心のジャックが再びモニカの歌で目を覚ます所があります。ジャックはモニカに遊びで手を出してやろうか、とも思うのですが、彼女がベイカー兄弟の音楽を愛している(店にポスターを貼っている)のを見て思いとどまります。モニカは端役なのにロングパスが生きるけっこう重要な役です。それでジャックはもう一度スージーに音楽をやろうと会いに行くというラストに続きます。エンドロールは映画「夜の豹」でヒロインがダメ男(フランク・シナトラ)に唄ったMy funny valentineをミッシェル・ファイファーの歌で締めるのですが、ジャックが「もう一度会えるよね、直観(intuition)だけど。」という言葉の返事が「不器用でいかさないけど、あなたが好きよ」という歌であるところが何ともおしゃれです。

キャンディマンを唄うモニカ ダメダメオーディションシーンとスージーの登場「直観だけどあんたたち売れないね」というスージーの第一声もロングパス

 

80年代後半は主演の俳優達も皆若いのですが、実際も兄弟であるジェフとボーは、弟がその後アカデミー賞受賞など輝かしい活躍をする一方、兄のボーはテレビドラマなどで名わき役として渋い俳優活動を続けます。ミッシェル・ファイファーはブルーノ・マーズの2014年のヒット曲(Uptown funk)の出だしでThis hit, that ice cold, Michelle Pheiffer, that white goldと歌われる位coolな人の代名詞になる映画女優になります。スージーがジャックの奏でるピアノの上に乗って雰囲気たっぷりに歌い上げるMakin’ Whoopeeのシーンはその後のジャズやミュージカルの映画にもたびたび再現される名シーンになりました。音楽担当のデイブ・グルーシンはgrp all starsレーベルを手掛ける実力者で、イージーリスニング的な音楽中心かと思っていたのですが、この映画ではジャズに対する思い入れを存分に感じさせる曲作りをしているのが解ります。本当にジャズが好きなんだな。

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映画「記者たち 衝撃と畏怖の真実」感想

2021-11-17 18:23:06 | 映画

映画 「記者たち 衝撃と畏怖の真実」(原題:Shock and awe)2017年米国 

「スタンド・バイ・ミー」の名匠ロブ・ライナーが、イラク戦争の大義名分となった大量破壊兵器の存在に疑問を持ち、真実を追い続けた記者たちの奮闘を描いた実録ドラマ。2002年、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、サダム・フセイン政権を倒壊させるため「大量破壊兵器の保持」を理由にイラク侵攻に踏み切ることを宣言。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストといった大手新聞をはじめ、アメリカ中の記者たちが大統領の発言どおりに報道を続ける中、地方新聞社を傘下にもつナイト・リッダー社ワシントン支局の記者ジョナサン・ランデーとウォーレン・ストロベルは、大統領の発言に疑念を抱き、真実を報道するべく情報源をたどっていくが……。物語の中心となる記者役に「スリー・ビルボード」のウッディ・ハレルソン、「X-MEN」シリーズのジェームズ・マースデン。そのほかジェシカ・ビール、ミラ・ジョボビッチ、トミー・リー・ジョーンズが共演。予告編(映画紹介記事から)

日本版のポスターと原版のポスター  娯楽映画としてはあまり盛り上がりに欠けるが、職業ジャーナリスト達には厳しい内容

 

あまり期待しないで見たのですが、途中から「おっ!」と思わせる内容が豊富にあり、引き込まれるように見てしまいました。映画の出来としてはMen in blackやCMで有名なトミー・リー・ジョーンズが出ている割に盛り上がりやエンターテインメント性はなく今一つですが、むしろ製作者側が訴えたかったのは随所に出てくる「ジャーナリズムの在り方」や「情報の正しい扱い方」についてだろうと考えると、現在の脱炭素や新型コロナ、ワクチンなどの報道についても全て当てはまる所があり合点がゆく内容でした。

 

911とサダム・フセインは無関係、戦争の口実となった大量破壊兵器はなかった

 

開戦当時、「ビンラディンとフセインはつながっており、イラクが核を含む大量破壊兵器を製造して米国との戦争を画策している」という米国ネオコン政府側がでっち上げた「デマ」を真実として、ニューヨーク・タイムズを含む全ての大手メディアが報道していました。米国民衆も911のショックで復讐心・愛国心が燃え上がっており、「イラクへの復讐」という開戦の口実を支持していました。そんな中で実話として「ナイト・リッダー社」は誤った戦争に導こうとする政府に憤りを持つ「真の愛国者」である政府職員からのリークに基づいて、イラク戦争はでっち上げの口実で「戦争をやりたい人達」によって開戦させられるのだ、という真実を報道し続けて国内で孤立し、身内からも批判されてしまいます。特に、米国がイラクと戦争しても、戦後処理で手間取りかえって多くの犠牲を米国兵士とイラク国民両方に及ぼすだろう、だから開戦は阻止しないといけない、という米国情報部の予測はその通りとなり、2003年3月20日に開戦したイラク戦争は、同年5月にジョージ・W・ブッシュにより「大規模戦闘終結宣言」が出ましたが、問題の大量破壊兵器は見つかりませんでした。しかも戦後イラク国内の治安悪化が問題となり、戦闘は続行され、2010年8月31日にバラク・オバマにより改めて「戦闘終結宣言」と『イラクの自由作戦』の終了が宣言され、2011年12月14日に米軍が撤収するまで戦争は続き、多くの犠牲者がでました。

 

先に決断を下し、それに合った情報を集める

 

映画の中で義憤に駆られてナイトリッダーの記者にリークする米国情報部の人間の言葉です。都合が良い悪いに関わらず多くの情報を集めた上で「合理性に基づいて決断」するのが「情報を扱う基本」であるが、今は政治家が先に決断し、それに合った情報を集めさせられている、しかも怪しい情報ばかりだ、と憤ります。「政治家の過ちは現場の兵士が贖う」とトミー・リー・ジョーンズ演ずる老ジャーナリストが喝破した様に、イラク戦争で5万を超える米国兵士、100万人のイラク市民が犠牲になったとエンドロールで示されます。

「情報」を「科学」や「医学」に置き換えると、現在の気候変動、新型コロナ問題やワクチン騒動も全て「先に政治的決断ありき」で後からそれに合った「科学情報」「医学情報」が集められているという全く同じ構造をしているように思います。トランプ大統領が就任してから2年に渡って追求され続けて結局正式に否定された「ロシア疑惑」もまさに元MI6部員がでっち上げた情報を基に作り上げられたフェイクニュースでした。

 

「社是(オーナーの意向)にあった報道」しかしないメディア

 

映画の中で監督演ずるナイトリッダーの編集長が部下たちに訓示します「我々は政府の広報誌ではない。他人の子を戦場に送る者ではなく、自分の子を送り出す親たちが読者なのだ。真実を報道しろ!」映画の製作者たちがジャーナリスト達に訴えたかったのは、これだと思います。権力者への忖度や自分の地位を守るために「真偽が疑わしい」と思われる報道を平気で行う現在のジャーナリズムの風潮を痛烈に批判しています。NSA/CIAが米国民を監視しているというエドワード・スノーデンの内部告発をスクープ報道したグレン・グリーンウオルドは、2020年自ら設立に関わったThe Intercept社をバイデンを批判した自分の記事をリベラル寄りの編集部から検閲・拒絶された挙句に社を追われる羽目になりました。NY Timesやワシントンポストは日本の多くのメディアはそこに書かれているだけで「信頼できる記事」としてそのまま日本でも報道してしまいますが、実際には反骨精神を持った記者の多くは既に社を追われており、「社是にあった報道」しかしないメディアに成り下がっているのではないでしょうか。この映画は現役ジャーナリスト達への厳しい叱咤と共に、我々情報の受け手の側も、大手で権威あるメディアだからというだけで妄信するのではなく、何が真実なのかを見極めるリテラシーを持つよう注意喚起している様に思いました。

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映画 グリーンブック感想

2021-06-11 21:55:05 | 映画

グリーンブック  2018年米 監督はピーター・ファレリー。主演はヴィゴ・モーテンセン。共演はマハーシャラ・アリ、リンダ・カーデリーニら。第91回アカデミー賞では作品賞・助演男優賞など三部門を受賞した。

『グリーンブック』(Green Book)は、ジャマイカ系アメリカ人のクラシック及びジャズピアニストであるドン"ドクター"シャーリーと、シャーリーの運転手兼ボディガードを務めたイタリア系アメリカ人の警備員トニー・ヴァレロンガによって1962年に実際に行われたアメリカ最南部を回るコンサートツアーをモデルにした作品。題名のグリーンブックとは1960年頃に黒人のドライバーが南部を旅行する際に黒人でも利用できる施設を網羅したガイドブックの事。基本的には王様然とした黒人ピアニストのシャーリーがイタリア系白人運転手のトニーと繰り広げる珍道中を描くロードムービーですが、上流社会で音楽家としては認められるシャーリーが食事やトイレといった日常生活では南部においては「黒人」として差別される。貧しい生活をしている白人トニーはシャーリーへの差別や攻撃を職務として守りながら次第に友情が芽生えてくる、という内容。あくまでコメディタッチで作られているので「ほっこり」する場面が多く、緊張感なく鑑賞でき、シャーリーの奏でる音楽も良い雰囲気を醸し出します。

映画 グリーンブックのタイトル画像    題名の基になったガイドブック

 

アメリカの黒人差別は特別

日本人は欧米では全て黒人が差別されていると思いがちですが、ヨーロッパは白人同士でも民族対立が激しく、人種・宗教・言語の違いで延々と殺し合いをしてきた歴史があるので、特別黒人だけが差別されている訳ではありません。しかも貴族と平民の違いも明確であり、職業などでも差別があります。米国は移民社会であり、原住民以外は基本外来者なので本来差別はないはずですが、唯一移民でないのが「奴隷」として連れてこられたアフリカ系黒人達で、しかも少しでも黒人の血が混ざっていると「黒人」として扱われる特別ルールがあります。テニスの大坂なおみ選手はハイチと日本のハーフで、日本国籍があれば日本人として誰でも認識していますが、米国では本人も「自分は黒人」と認識しているようです。日本人はいろいろな顔つき体つきの人がいるので、インド人、トンガ人、モンゴル人、朝鮮人、はたまた白人?みたいな純粋日本人が沢山いるので、相手がハーフであっても子供時代からあまり違和感を感じないで付き合ってきました。私自身時々中国語で話しかけられる(国際学会ではいつも)ので思いっきり中国系の顔なのだと思っています。

この映画でもイタリア系のトニーは同じイタリア系移民と話す時はイタリア語を使います。これはラティノ系の移民たちがスペイン語で会話するのが普通で、それぞれの出自に応じた文化社会を米国の中で築いているのを私も米国留学時代感じました。では黒人達は?というとスラング的な米国語以外、出自に応じた言語も文化もありません。この映画では金持ちのシャーリーはアフリカの酋長じみた装飾の部屋に住んでいるのですが、彼なりの出自についてのアイデンティティの主張だったのでしょう。

シャーリーの自宅 アフリカの酋長?を思わせる装飾

南部の外遊先では、ホテルやレストランのオーナーが「黒人は使えない」という規則を盾にシャーリーが施設を利用することを拒むのですが、個人的な本音としては「別に良いのでは」と思っている節を醸し出します。日本にも男性のみのゴルフ場があったり、土俵に女性は上がるな、という仕来りがあったりしますが、必然でない文化は変わってゆくべきなのだろうとこの映画を見て感じますし、必然でない「文化」とされるものを変えるのもまた勇気が要る事だと思いました。全体として定番的な展開ではありますが、映画としては一見の価値がある、楽しめる良い映画だと思いました。

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英国宰相の映画3本とダンケルク

2020-12-18 17:00:56 | 映画

ケーブルテレビで英国宰相を描いた3本の映画、チャーチル2本とサッチャー、そして関連した米国映画のダンケルクを見たのでその感想です。

 

  1. ウインストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男(原題Darkest Hour)

2017年 英国 監督 ジョーライト ゲイリー・オールドマン(チャーチル)メイク辻和弘 

あらすじ(映画.comから

名優ゲイリー・オールドマンがイギリスの政治家ウィンストン・チャーチルを演じ、第90回アカデミー賞で主演男優賞を受賞した歴史ドラマ。チャーチルの首相就任からダンケルクの戦いまでの知られざる4週間を、「つぐない」のジョー・ライト監督のメガホンで描いた。第2次世界大戦初期、ナチスドイツによってフランスが陥落寸前にまで追い込まれ、イギリスにも侵略の脅威が迫っていた。連合軍が北フランスの港町ダンケルクの浜辺で窮地に陥る中、就任したばかりの英国首相ウィンストン・チャーチルにヒトラーとの和平交渉か徹底抗戦か、究極の選択を迫られる。アカデミー賞では主演男優賞のほか、オールドマンの特殊メイクを担当した日本人メイクアップアーティストの辻一弘らがメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞した。

  1. チャーチル ノルマンディーの決断 (原題Churchill)

2017年英国 ジョナサン・テプリツキー監督 ブライアン・コックス主演 

あらすじ(映画.comから

英国首相チャーチルのノルマンディー上陸作戦決行までの96時間を描いたヒューマンドラマ。ダンケルクでの救出作戦から4年後の1944年。英国首相チャーチルは、ナチスドイツ占領下の北西ヨーロッパに侵攻するノルマンディー上陸作戦に反対していた。第1次世界大戦中に自ら計画したガリポリの戦いで約50万人もの死傷者を出したことが、指導者としてのチャーチルの心の棘となっていたのだ。連合国軍最高司令官アイゼンハワーに真っ向から反対意見を述べるチャーチルだったが、意見は却下され、イギリス南岸に100万人もの兵士が配備される。首相としての使命と戦争の重責に苦悩するチャーチルは、やがて歴史に残る重大な決断を下す。ゲイリー・オールドマンはメイクでチャーチルに挑んだが、ブライアンコックスは自ら10kg増量してチャーチルを演じた。

 

(感想)

歴史としては1.2の順ですが、公開は2の方が先だったようです。たまたま私も2の方を先に視聴しました。サッチャーもそうですが、最近の映画は偉人であっても一般人と変わらないような弱さや人間的な面を主に描く傾向があります。私はその描き方はあまり好きではありません。それなりの歴史的成果を残す様な人は勿論弱点もあるでしょうが、凡百の輩とは明らかに異なる資質が備わっているはずで、悩みながらもその煌めく資質をいかに発揮したかを描き出す所に映画の価値、監督の力量が出てくるはずです。限られた映画の時間内にあまり凡人と変わらぬ姿を強調して描くと何故そのような思考や決断に至ったか、どのような信念で成し遂げたか、という最も大切な部分が疎かになります。両作とも、チャーチルの描き方はほぼ同じで気弱で偏屈でカミさんにたしなめられて前に進んでゆくような男として描かれます。そのような面もあったでしょうがもっと「政治的な芯になる思想」を描いてほしかったです。1のダンケルクにおける撤退の際には、破竹の勢いであったナチスドイツは西ヨーロッパ全土を制しつつあり、第一次大戦の塹壕膠着戦を経ずにフランスを敗北させつつありました。英国と和睦すれば大戦にまで進まず新興ドイツ帝国と大英帝国、ビシーフランス政府の帝国を維持して世界を分割する事も可能であった訳ですから、ここでチャーチルが撤退の上で抗戦を選んだ事は最終的に連合軍が勝利したから良かったで済みましたが、この当時は逆の可能性もありました。原題のDarkest hourは「先が見えない時期」という意味合いでしょうが裏目に出るかも知れない決断をどうつけたかという点をもっと描いて欲しかったです。「地下鉄に乗って好戦的な市民に励まされた」事で決めた様な作りはあまりにもチープです。市民だって自分や家族の命がかかった戦争について「イケイケどんどん」であったはずはなく、第一次大戦の苦い思い出から「もう騙されないぞ」という決意の人たちも多くいたはずです。

2作目のノルマンディー作戦については、ドイツは既にソ連から敗走し、大勢が決まりつつある中「いかに犠牲を少なく上手に勝つか」という問題で悩んだに過ぎず、1作目の悩みとは根本的に異なります。第一次大戦のガリポリ上陸作戦で下手を打ったチャーチルは「上手に勝ちたい」一心で駄々をこねたにすぎない様子をわざわざ映画にする必要はなかった様に感じます。迷った挙句の決断が「私も戦場に行く」であったり「頑張ってこい」という演説であったりもがっかり。もっと「なぜドイツや日本に無条件降伏という今までの戦争にない、非情で常識外れの結末を迫ったか」という心理を描いた方がよほど後世のためになる話だと思います。

 

 

3. ダンケルク (Dunkirk)

 

2017年米国 クリストファー・ノーラン監督 フィオン・ホワイトヘッド/トムグリン・カーニー主演

あらすじ(映画.comから

「ダークナイト」「インターステラー」のクリストファー・ノーラン監督が、初めて実話をもとに描く戦争映画。史上最大の救出作戦と言われる「ダイナモ作戦」が展開された、第2次世界大戦のダンケルクの撤退戦を描く。ポーランドに侵攻し、そこから北フランスまで勢力を広げたドイツ軍は、戦車や航空機といった新兵器を用いた電撃的な戦いで英仏連合軍をフランス北部のダンケルクへと追い詰めていく。この事態に危機感を抱いたイギリス首相のチャーチルは、ダンケルクに取り残された兵士40万人の救出を命じ、1940年5月26日、軍艦はもとより、民間の船舶も総動員したダイナモ作戦を発動。戦局は奇跡的な展開を迎えることとなる。出演は、今作が映画デビュー作となる新人のフィオン・ホワイトヘッドのほか、ノーラン作品常連のトム・ハーディやキリアン・マーフィ、「ブリッジ・オブ・スパイ」でアカデミー助演男優賞を受賞したマーク・ライランス、ケネス・ブラナー、「ワン・ダイレクション」のハリー・スタイルズらが顔をそろえた。第90回アカデミー賞では作品賞ほか8部門で候補にあがり、編集、音響編集、録音の3部門で受賞している。

    海と空と陸の戦いを異なる時間軸を交叉させながら描く

(感想)

チャーチルが英国製作の映画であった一方で本作はハリウッドメジャー製作の映画です。先に述べた様に最近の映画(テレビドラマも)の傾向として「一般市民や兵士の目線で歴史を描く」傾向にあり、この映画も陸(主に撤退を待つ側)、海(市民として船を提供)、空(戦闘機として航空援護)を市民や兵士目線で描いています。だから時代背景や歴史を理解していないと「なぜこうなっているの?」が分からない描き方です。娯楽映画では善悪がはっきりしていて「悪いドイツ軍」に苦戦しながらも「良い連合軍」が勝つなり出し抜く様が描かれて見る側は時代背景など知らなくてもカタルシスが得られる作りですが、この作品は終わりまで悶々とした感じで撤退できてイギリスに到着して歓迎されて良かったという場面しかありません。この段階では負けつつある戦争であり、これ以上の描きようがないのですが、私としてはこの淡々とした描きようは高評価です。兵士目線の戦争とはこのようなものだと思います。2001年のアメリカが世界征服を達成した頃作られた「パールハーバー(原題Pearl Harbor)」のような恥知らずの駄作とは根本的に異なります。

ドラマは撤退のためにひたすら砂浜に並んで船を待ち、空からの攻撃に逃げ回り、銃声に怯え、船に乗ったら魚雷で沈められて命からがらダンケルクの浜辺にまた逃げ帰るという様が描かれます。船では非武装の漁船の様な小舟で英仏海峡を渡って兵士たちを迎えに行く途中で沈没船からずぶ濡れの兵士たちを救ったり、空からの攻撃を避けたりしながらもダンケルクの浜辺に向かう様が描かれます。空では哨戒するスピットファイア3機編隊がメッサーシュミットと遭遇して空戦して撃墜されながらも船を攻撃するハインケル爆撃機を邀撃する様が描かれ、次々と敵を打ち落とす様などはなく、やっと敵のエンジンから煙を出さしめればOKという本物的な描かれ方がナイスです。実機を飛ばして撮影している所は良いのですが、空戦シーンはCGで私の様なフライトシュミレーターに慣れたゲーマーは「ここで短く銃連射すれば当たる」と思わせる画面(フライトスティックの指が動いてしまう)の撮り方がされています。陸の1週間、海の一日、空の1時間を描いていて、それぞれの時間が前後に交錯しながら進んでゆく構成であり、観客が感情移入しにくく、客観的な視点で常に見てゆかざるを得ない作りなのですが、それも狙いなのだと思います。

 

 

4. マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 (The Iron Lady)

 

2011年 英仏 フィリダ・ロイド 監督 メリル・ストリープ主演

 

あらすじ(映画.comから

イギリス史上初の女性首相で、その強硬な性格と政治方針から「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャーの半生をメリル・ストリープ主演で描いたドラマ。父の影響で政治家を志すようになったマーガレットは1975年、50歳で保守党党首に選出され、79年にはイギリス初の女性首相となった。国を変えるため男社内の中で奮闘するマーガレットは「鉄の女」と呼ばれるようになるが、そんな彼女にも妻や母としての顔があり、知られざる孤独と苦悩があった。マーガレットを支えた夫デニス役にジム・ブロードベント。監督は「マンマ・ミーア!」のフィリダ・ロイド。第84回アカデミー賞ではストリープが主演女優賞を受賞。

これも市民目線を描きたいからか、いきなり高齢で呆けたサッチャーの様子から始まります。また各所に先に亡くなった旦那さんデニスが幽霊的に登場し彼女と会話を交わしながら苦労した駆け出し政治家の頃やフォークランド紛争などの昔の栄光が描かれるという設定。観客はしょっちゅう呆けたサッチャーの現実に戻されるから先のチャーチルと同様優れた資質や育ってゆく思想について連続して追体験することができません。これではせっかく優れた政治家の半生を描いて、メリル・ストリープが好演したのにもったいない内容です。

 

ダンケルク以外は厳しい評価になりましたが、歴史ドラマにおいては主人公の思想をしっかりと描く事の重要性を改めて認識したことになります。市民目線にこだわる必要はなく、市民目線からの歴史はダンケルクの様に思想を描かなくても十分理解できるものには良いとして、人を描くには思想を描く事が必要だという絶対的な真理があるのです。NHK大河ドラマは2年前の「せごどん」が最低であった(今でもそれを記したブログにけっこうアクセスがあります)のに比して現在進行中の「麒麟が来る」は実に素晴らしい内容です。信長、秀吉、家康の三英傑の思想を新しい解釈も入れながら明確に描き、その脇を固める光秀や武将たち、足利将軍や正深町天皇に至るまで「どのような思想の人物か」を限られた時間で丁寧に描いている、しかも漢籍や和歌、舞踊の知識を入れながら描いている高等技術、見ている方も勉強してると尚深みが出る。市民目線の駒や医師の東庵、伊呂波太夫の使い方も上手なので違和感がありません。製作脚本が違うとこんなに出来が違うのかと感嘆しながら楽しんで見ています。

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一元的執政府論を核にした映画VICE感想

2020-11-17 14:50:42 | 映画

VICE 2018年米国映画 監督アダム・マッケイ 主演クリスチャン・ベール(ディック・チェイニー)エイミー・アダムス(リン・チェイニー)スティーブ・カレル(Dラムズフェルド)サム・ロックウェル(GWブッシュ)タイラー・ペリー(コリン・パウエル)他

第一級の政治映画 VICE 実在の人物そっくりの配役も見もの

 

米国ではかなり話題になり、アカデミー賞8部門ノミネートとなり、主演のクリスチャン・ベールはゴールデングローブ賞主演男優賞に輝いた作品です。日本では政治映画に興味がないと敢えて見ようとはしない映画かも知れません。とにかく最近製作された政治映画としては第一級の名作だと思います。近現代のドラマを描くにあたり、実在の登場人物の多くが存命中であったり、メディアなどで皆が知っている人たちを映画として描くのは戦国時代のドラマの様に時代考証さえできていれば本人のイメージと似ていようがどうでもお構いなしという訳には行かないのが難しい所です。この映画は2000年代に入ってからの911以降のJr.ブッシュ時代の人々を描くのですから大変なのは当然ですが、メイクの技術もさることながら俳優たちが見事に本人に成りきって演じている所が「素晴らしい」の一言に尽きます。

 

同時期に製作され、やはり俳優たちが見た目にも役に成りきって話題になった映画に「チャーチル」と「サッチャー」という共に英国の首相を扱った映画があります。いずれ感想を書こうと思いますが、この2作品の様にある程度名声もあり、評価もされている主人公、米国ならばキューバ危機におけるケネディの苦悩を描いた13デイズ(2000年米国ケビン・コスナー「ケネス・オドネル補佐官」、ブルース・グリーンウッド「ケネディ」主演)の様な物ならなぜ映画化したか理解できますが、悪役のイメージしかないディック・チェイニーを何故映画化したかが不明でした。しかし映画を見て少し理解できた気がします。監督・製作者は社会の悪を暴くといった正義感から映画を製作した訳では全くなく、「悪い奴」チェイニーの「悪い奴ぶり」がどのようなモチベーション、心理構造で成り立っているかを描きたかったのではないか、というのが私の解釈です。

ブッシュ政権の影の存在に徹するが殆どの権力を握っていたチェイニー副大統領

 

ストーリーは1960年代半ば、名門イエール大学に入学するも、学業に励まず酒癖が悪く警察のお世話にも複数回なるという「ダメンズ」(映画ではろくでなし、クズ野郎と紹介される)のチェイニー青年が成績優秀でしっかり者の後の妻リンに尻を叩かれて議会の研修生になり型破りな下院議員のドン(ドナルド)ラムズフェルドのかばん持ちになって政治のイロハを学んでゆく所からスタートします。孟母ならぬ猛妻リンの存在がチェイニーを形作る必須アイテムになるのですが、彼女の母親もダメンズと言える男性(リンの父)と結婚しており、後年入水自殺的な最期を遂げ、好きな男のタイプは母親譲りなのかなと思わせます。しかしダメのままを許してしまう母と違う所は何事にも成績優秀なリンが有無を言わせず陰に陽にチェイニーを引っ張ってゆく西部劇に出てくる強いヤンキーガールである所でしょうか。後年になっても強面のチェイニーは奥さんには頭が上がらない(というか彼女に従うのが正解と芯から理解している)状態です。

 

ラムズフェルドの下を離れて故郷のワイオミング州から下院議員になったチェイニーは共和党内で国防長官を始め次第に実力を付けて議会の重鎮にまで成ってゆきます。米国の政界は大企業と回転ドアと言われるように、政界を離れる時は政界でのコネを利用して企業の重役になり、また政界に復帰するといった経歴を重ねます。面白いのはチェイニーは演説が下手で選挙期間中心臓発作で入院したのが逆に幸いして演説の上手い妻のリンが駆け回って当選に至る様などが描かれます。政治家になってからは度々「権力の法的根拠」とか大統領職の「一元的執政府論」(Unitary executive theory 合衆国憲法第二条により連邦政府の各省庁全てを一元的に掌握、指示できるとする理論、本来ホワイトハウスに属する首席補佐官と各省庁は分かれていて閣僚級の長官職を介してコントロールされ、大統領と直結している訳ではないとされる。)を重視する様子が描かれ、911以降は凡庸なブッシュ大統領をを操る「影の大統領」として、一元的執政府論に基づいてイラク侵攻、タリバン、アフガン侵攻、テロとの戦い、愛国者法制定など米国が国内、世界で自由に振舞えるようにする立役者として活躍し、自ら重役を務めるハリバートン等の戦争企業が莫大な利益を上げるようになります。大きな問題になったテロリスト容疑者への拷問も「国内でやると違法だが国外でやる分には問題ない」とシレっと言ってのけホワイトハウスのスタッフを呆れさせる様なども描かれます。(より詳しいあらすじはこちらが良さそう)

 

この底知れぬ不気味なほど「悪い奴」の精神構造はどうなっているのか、を映画は分かりやすく描いています。チェイニーは良き父親であり、釣りが好きで次女がレズであると告白されても変わらず娘を愛し、「その事が大統領選の弱点になる」という理由であっさり大統領候補を諦めます。そんな人間的な面も見せながら、権力や利を追求するにやぶさかではありません。彼の強みは「どうせ俺は勉強はできない、学業インテリではない。」と諦観しきっている所です。「合法」でさえあれば「合理」である必要も「正義」である必要もないと割り切っているのです。それは若い時から学問ではカミさんに頭が上がらない、法律で分からない所は弁護士に聞けばよい、という反知性主義を実践してきた経験からだと思われます。ラムズフェルドのかばん持ちであった初期には正義感もありましたが「お前何青い事言ってるの?」と豪放磊落なラムズフェルドにたしなめられて政治とは(合法的)権力であるという現実に目覚めてゆきます。のちには出藍の誉れで師であるラムズフェルドの上司になって彼を国防長官として使う立場になります。その対比が最もよく現れるのは国務長官コリン・パウエルとのやり取りです。パウエルはNYハーレムで生まれて従軍して陸軍大将にまでなり、湾岸戦争で統合参謀本部議長という制服組トップにまでなった努力と勉強秀才の人でもあります。国務長官としてイラク戦争を始めるには「正義」が必要と考える。イラクが大量破壊兵器を所有していて、911の犯人であるアルカイダとも関係があり、米国と国際社会の敵だとするには根拠が少なすぎる事を政府内で意義を唱えます。チェイニーは「そういう彼だからこそ適当に作り上げた「証拠」とされる物を国連で演説させて国際社会に訴えれば戦争を始めるにあたり世界から理解が得られる」とパウエルに演説をさせるというくだりが出てきます。うーん、インテリである故の弱点(勿論美点ですが)がそこにあるという冷徹な事実が描かれます。

 

911自体チェイニー達のやらせではないか?という陰謀説を滲ませるような場面も出てきたりするのですが、映画全体がブッシュ政権を悪く(ブッシュのおバカぶりも描かれている)描きすぎているという批判を受けることを予想してか、所々自己批判的なおちゃらけ(保守派とリベラルの視聴者が論争して殴り合ったり)や韜晦をちりばめて、一度終了したと見せかけて続きがあるようになっていたりするのですが製作者は十分真面目に作りこんでいったものと思います。主演のクリスチャン・ベールは役に成りきるために20kg太ったとも言われており、もう役のために体形を変えるのは辛いからやらないと言ったと言われます。ブッシュや遠目でしか出てきませんがブッシュのおもり役と言われたコンドリーサ・ライスもそっくりでそれらの配役を見るだけでも一見の価値ありの映画と思います。

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映画『コッポラの胡蝶の夢』感想

2020-07-07 18:52:24 | 映画

映画『コッポラの胡蝶の夢』(原題Youth Without Youth)は、2007年のアメリカ・ドイツ・イタリア・フランス・ルーマニア映画。原作はミルチャ・エルアーデの小説『若さなき若さ』。監督、脚本はゴッドファーザーや地獄の黙示録のフランシス・フォード・コッポラで、主演はあまり有名でないティム・ロス(ドミニク)、アレクサンドラ・マリア・ララ(ラウラ、ヴェロニカ)

ストーリーは、1938年、70歳の言語学者ドミニクは、自身の言語学の研究も未完のまま、「別の世界にあなたは生きている」と言われて別れたラウラを忘れられない孤独な日々を送っていた。ある復活祭の日、彼は突然雷に打たれ病院に収容され奇跡的に一命をとりとめる。しかも驚異的な頭脳と若き肉体に復活し、しかも手に取った本の内容を直ぐに理解するといった超常的な能力まで獲得してしまう。

1955年.ラウラに生き写しのヴェロニカと出会うが、自分と同様に落雷に遭った彼女は、1400年前インドに住んでいたルピニの知識を得て、サンスクリット語で話すようになっていた。彼らは「輪廻転生」と騒がれるが、ドミニクは彼女の力で自分がなしえなかった言語の起源を探究する研究を達成しようとする。しかし若返る自分と異なり、早老化してゆく彼女を救うために自分が彼女から離れる決断をし、故郷で自分を導く鏡の分身を壊すことで本来の年齢に戻って雪の中息絶える。

1969年、故郷のブカレストのカフェに行き、友人たちに荘子の「胡蝶の夢」(夢と現実の堺がない話)を語る所から邦題がつけられました。

主人公ドミニクはラウラとそっくりのヴェロニカと出会い夢のような日を送るが

 

SF的なストーリーを理解することは困難ではないのですが、監督脚本を敢えてコッポラ本人が手掛けて、私財を投じてこの作品を作ったコッポラの狙いは何であったかは難しい問いであると思います。主人公のドミニクの様に自分のやりたい事を若返ってやり直したいという欲望のようにも見えますが、その解釈ではやや弱い。私はコッポラ流の世界における真善美の意味表現であったように感じました。奇才スタンリー・キューブリックは、彼の世界における真善美の意味を映画「バリー・リンドン」で表現したと前に論考しました。キューブリックは真(宗教)、善(バリーの生き方)、美(映像)をこの映画で表現したのですが、コッポラは真(ドミニクが追求した学問)、善(人類が核戦争で滅びて新しい人類となってより高いステージに上るという未来予知を伝えるべきかで悩む)、美(ラウラ、ヴェロニカへの愛情)という内容を描いています。

 

学問について  ドミニクは言語の起源、紀元前のエジプト、インカ、メソポタミアなどの言語まで理解するに至り、もう少しで自分の研究を極める所まで行きますが、ヴェロニカへの愛情(美)を優先させることで断念します。

善について ドミニクは未来を正確に予知する能力を得て、人類の未来を解読不能(将来コンピュータの発達で解読できるようになるだろう)の文字で記述し、某所に保管します。これは未だに解読不能とされる奇書「ヴォイニッチ手稿」を連想させる描写であり、 謎のイラストとして紹介されているものにも通じます。ドミニクは人類が核戦争で一度滅びて(第六の絶滅と表現しているー第五は恐竜の絶滅)新しい人類に昇華するという未来を「進化のために善である」という自分と、「多くの罪のない人が死ぬ事は善ではない」というもう一人の自分の板挟みにあって悩み、結局答えは出ずに終わります。キューブリックにとってもそうであったように、コッポラにとっても「善」とは移ろいやすい物という結論なのでしょう。

美について これはキューブリック同様「変わらない物」「真よりも優先される物」としてコッポラはとらえたように思います。ラウラを思い続け、ヴェロニカへの愛情で学問を捨てるという決断、雪の中で息絶えたドミニクの安らかな瞳は、胡蝶の夢で夢と現実を行き来しながらも、美を追求できたという満足を表していたように感じました。

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いまさら?という名画2本The wizard of Oz(1939), The sixth sense(1999)

2020-06-29 18:31:20 | 映画

オズの魔法使 1939年米国 MGM ライマン・フランク・ボーム原作、ヴィクター・フレミング監督、主演 ジュディ・ガーランド(ドロシー)

 

「純真な子供の頃に見ると大変感動する良い映画」という評判があり、還暦を過ぎてから初めて見るような映画ではないのですが、今まで観る機会がありませんでした。見ようと思ったきっかけは、映画の各所にフリーメーソンの世界が描かれているという触れ込みがあったので昔からの名画であることは知っていたのですが、その興味本位で鑑賞しました。

エメラルドシティへのレンガ道と登場人物達      主人公のはずのオズ(おっさん)

ストーリーはカンザスの農場に住む少女ドロシーが愛犬トトをミスガルチから守るために旅に出るのですが、エム叔母さんが心配しているという占い師の言葉で家に戻ります。しかし大竜巻に家ごと巻き上げられて天上の世界へ。マンチキンという小人達に迎えられるのですが、カンザスに戻るために黄色のレンガ道をたどってエメラルドシティに向かい、オズの魔法使いに帰る方法を教えてもらう旅に出ます。途中知能のない案山子、心のないブリキ男、勇気のないライオンと出会って一緒にオズの魔法使いに会いに行くのですが、やっと会えた魔法使いから「西の悪い魔女(ミスガルチとかぶる)」の箒を持ってきたら希望を叶えると言われて魔女の所に。ドロシーはとらえられるのですが魔女は水を被ったら死んでしまい、一件落着。しかしオズの魔法使いは実は詐欺師の人間で気球にのってカンザスまで送るという。犬のトトが逃げ出して気球に乗れなかったドロシーは北の良い魔女に「家に帰りたい」と一心に思えば赤い靴が連れて行ってくれると教えられて、気が付くと家で目覚めるというハッピーエンド。

 

子供心には感動するストーリーということなのですが、どうも純真でない初老男には違和感ばかり感ずるストーリーでした。日米の文化的違いもあるかと思いますが、以下まとめてみます。

 

フリーメーソン的な所

キューブリックの遺作となったEyes wide shutのような秘密結社を暴露する陰謀論的な内容はありません。「虹の向こうに夢の世界」はEyes wide shutでも「虹の向こう」に秘密の世界があるとして誘いの文句として描かれていました。「黄色のレンガ道をたどる」のは「石工の組合」であるメーソンリーを象徴する事象で、メーソンの活動目標が「知性」「心」「勇気」という途中出会う登場人物達が求める物であったこと。オズの宮殿や靴を奪うという行為もメーソンを象徴する事のようですが、特に深い意味はなくて、多分原作者のボーム自身かその近い人にメーソンの会員がいて影響を与えたという事の様に思います。

 

おとぎ話としての違和感

「家より良い所はない」という格言を得る事でドロシーは家に帰れるのですが、元々家に戻ろうとして竜巻に巻き込まれたのだし、家が嫌いであったわけでなく、ミスガルチから愛犬トトを守るために旅に出たのが始まり。エメラルドシティへの道中もずっと家に帰るためにオズに会いに行っていたのだから最後に家が素晴らしいと学んだわけではない。

 

魔女は魔法を使えるけど、主人公のオズは人間で詐欺師、はじめに出てくる占い師と一緒だし、宮殿の馬車の御者と門番も「オズと同じおっさん」というのは設定がチープなような。悪い魔女(ミスガルチと同じ)の方がまだ格が上に見える。

 

日本の昔話だと悪い奴は懲らしめられて「改心」してハッピーエンドが多いのに、悪い魔女は「死」あるのみ。悪役の死に対して他の皆はやけにあっけらかんとして善悪二元論すぎるというか「優しさ」が感じられない。悪い西の魔女はミスガルチの幻影なのだからもう少し人間的に扱っても良いように感じました。しかも最後に家で目覚めたという事はミスガルチはまだ生きていてトトを始末する問題は解決していないのでは?(自転車に乗ったまま竜巻に飛ばされて死んだという設定としても冷たすぎるような)

 

ミュージカル映画として楽しむ分には歌、踊り、カラーフィルムや手作りの舞台設定など莫大な予算と手間がかかったことを実感させる作品でした。メトロポリスやチャップリンの映画などは文化が違ってもストーリーに違和感を覚えないのに、おとぎ話には違和感というのは不思議に思いました。

 

シックス・センス 1999年 米国 M・ナイト・シャマラン監督/脚本、ブルース・ウイリス(マルコム・クロウ)ハーレー・クロウ・オスメント(コール)主演。

映画としてよくできた作品             後から名子役であることも実感

封切当時「衝撃の結末」ということで話題になった名作。何の知識もなく、一神教のアメリカ人にとって死者が見える、魂が彷徨うというのはどのような意味があるか興味があって今回録画してみました。

 

ストーリーは児童精神科医のマルコムが、死者が見える事で悩むビンセント・グレイというかつての患者に恨まれて撃たれてしまう所から始まります。1年後に同様な悩みを持つ少年、コールに出会い、今回は助けようとコールの相談に乗ってゆくのですが、死者がコール少年にこの世に残る恨みを伝えようとしていると悟らせる事で悩みを解決します。しかし驚くなかれ、実は悩みを解決していたマルコム自体が幽霊になっていてコールにしか見えていなかったという「オチ」が最後に明かされるというものです。

 

この作品は純粋に楽しめました。死者の描写の気味悪さも一級でしたが、最後に種明かしされてから「ああ、そういえば」マルコムは少年以外と口を聞いてなかった、他の誰もマルコムを気に留めてなかった、医者なのに車でなくバスで少年と移動していた、取っ手にマルコムの姿が映らなかったとか様々な仕掛けが反芻されて思い出され、二度楽しめるというのは「名作」に価すると思いました。死者の魂が彷徨う、生きている人に語りかけて影響するというのは「反キリスト教的」な様に思われるのですが、日本やアジアで信じられている道教的な死者観というのが実は世界でも違和感なく受け入れられている事も新鮮に感じました。ネタバレしてしまいましたが、一度は見る価値がある一本でした。

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映画 ヴェニスに死す(Death in Venice) 感想

2019-06-24 18:25:23 | 映画

映画 ヴェニスに死す(Death in Venice) 感想

ルキノ・ヴィスコンティ 監督 1971年 主演 ダーク・ボガード(アシェンバハ教授)、ビョルン・アンドレセン(タージオ)

名画の評判高い作品だったのですが、未見であったのでケーブルTVの放送をやや楽しみにして視聴しました。うーん、一言で言ってしまうと、名曲マーラー交響曲5番アダージオを主題に使いながら、芸術に行き詰まった音楽家(教授)が美少年(タージオ)に恋をすることで禁断の完全なる美に目覚めるという内容。マーラーの好きな私としては、管楽器を使わず、休符のない絹を丁寧に折り畳むようなこの弦楽の重奏からなる曲のイメージを、この映画に描かれる美に落とし込んでしまう事に抵抗があって、主人公の気持ちに感情移入できませんでした。

割と上流階級のご子息タージオは休暇でベニスに家族で来ている。 アシェンバハ教授は彼の美に惹かれて魅入られてしまう。    美を求めながら息絶える教授(賛否別れる最期のシーン)

 

私自身が美少年に惹かれる所がないからかも知れませんが、日本は「衆道は武士の嗜み」みたいな文化もあり、キリスト教の同性愛へのタブー感もありませんし、劇間で戦わされる「平凡から逸脱した常識に捉われない、観念よりも感覚を重視した、堕落した美にこそ究極の美がある・・」的な論争と美少年への愛をそれに重ねて行こうとする長い件にどうも冗長さ以上のものを感じないのです。主人公の教授は奥さん子供もいて、娼婦も買ったりして少年への感情が単なる衆道ではない事は割とくどい程劇中で描かれます。しかし私としては、マーラーはこの曲にもっと深い観念的な美を求めていたように感じたいです。映像は黒澤監督的な俯瞰と長尺を使ったり、工夫の跡も見られるのですが、ヴィスコンティやアシェンバハ教授と同年代の、やや枯れ気味の現在の自分から見てもあまり良いと感じなかったのは文化と時代の違いも大きいかも知れません。

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映画EYES WIDE SHUT感想

2018-12-21 22:56:36 | 映画

EYES WIDE SHUT 1999年米英 監督スタンリー・キューブリック 主演トム・クルーズ(ビル・ハーフォード医師)、ニコール・キッドマン(アリス/妻)、シドニー・ポラック(ヴィクター・ジーグラー)

 

 プチ倦怠期の夫婦の浮気願望をベースに使いながら、一般人の住む「表社会」と超エリートのみからなる「秘密の裏社会」があることを暴露したキューブリック監督の遺作。秘密裏に制作されたものの、公開直後に監督は急逝してしまい事件性はないとされるものの映画の中で描かれたように秘密をばらした罪を償わされたのではという陰謀めいた話も絶えません。文章と写真だけではこの映画の独特の雰囲気は表せないので、見た事がない人はこの解説を読んでから是非レンタルなどで実際にご覧になることをお勧めします。

 

 映画は、明るい虹・クリスチアニティ(各所に出てくるクリスマツツリーに象徴)で表現される「表社会」と、暗くサタニズムに基づく「裏社会」の対比がストーリー内に豊富にちりばめられた暗喩で描かれます。「目を硬く閉じて(見なかったことにしろ)」という題名は秀逸。割と裕福(名前のビルが示す様に映画内で札を気前良く払う)な階級の医師ビル・ハーフォードは患者で超富豪のジーグラーのパーティーに妻と共に招待され、そこでコンパニオンの若い女性達(奴隷階級)から「虹の向こう(裏社会)に行きましょう」と誘われる所から彼の非現実的な旅が始まります。

 

パーティーで虹の向こう(裏社会)に誘われる所から非現実的な旅が始まる       表社会の各所は虹色の象徴が使われる

 

 旧友のナイチンゲールから秘密の儀式へ入る合い言葉(Fidelio=忠誠)を知り、ロングアイランドのソマートンの屋敷で行われている(ロケは英国の実際にロスチャイルド家が所有するメントモールタワーで行われたと)裏社会の儀式に迷い込むのですが、そこは仮面はつけているものの裸身の奴隷階級とマントを着た支配階級が別れて面妖な儀式や乱交が行われている壮絶な場所。結局ビルは身分がバレて放逐されますが、一般人を入れてしまった者の過ちは死であがなわれます。この儀式の場面の音楽はRomanian chantを逆再生して悪魔の儀式にしている由、迫力があります。また儀式を司る赤いマントの司教?は実在する組織のシンボルを象った椅子に座っています。このような儀式は、実際は小児性愛や血のカニバリズムといったもっと凄惨なものであって、参加した者は絶対的な組織への忠誠と秘密を誓わされるという噂もありますね。

 

儀式の外ロケに使われた屋敷                  組織の秘密儀式の様子 各所に象徴的デコが使われている

 

 妻のアリスはパーティーでハンガリーの実業家(Sandor)に二階(虹の向こう)に誘われるのですが、「奴隷」としてか「支配階級」としてかが問題となります。これは後半に妻が話す夢「裸で乱交している周りを沢山の人が見ている」で奴隷階級の方であったことが明らかに。Sandorという名前も悪魔教会の創設者(Szandor Lavey)から取ったものだろうという話も。ビルの夢想的な旅の途中で何人かの女性達に会ってSexualな雰囲気になるのですが、その女性達は秘密の儀式において奴隷階級として参加していることが劇中の小道具などで暗喩されるのですが、これは説明されないと一度見ただけでは判りません。ビルは儀式の中と同様これらの女性達と関係を持つことはなく終わります。

 

ヘレナのクリスマスプレゼントも象徴的                         監督と出演者達

 

 最後の娘のヘレナにクリスマスプレゼントを買いに行くデパートのシーンも小道具の暗喩が満載です。遠景にジーグラーのパーティーに出席していた人達(支配階級)が見える所で、ビルが旅の途中で会っていた奴隷階級の娘達が部屋に飾ってあったぬいぐるみをヘレナは「欲しい」と言って駆け出してしまいます。子供から目を離してはいけない社会で大丈夫か、と思わせる中、妻アリスが「結局なんだかんだ言っても私たち(奴隷階級)はF○CKでもするしかないわね。」というラスト。一説では妻と娘のヘレナも既に奴隷階級としてマインドコントロール(Monarch beta-programming mind control 覚醒状態でかかっているマインドコントロール)されている事を示唆しているという話もあります。オウム真理教など覚醒状態のマインドコントロールは実際に可能であることが判っていますから、この映画がある種の真実を暴いてしまっているものであるならば「隠しておきたい勢力」にとって、キューブリック監督は許し難い存在であったかも知れません。昨年ハリウッドのセレブ達(実際は奴隷階級)が一時me too運動などで人権復活を叫んだような時期がありましたが、監督などの下っ端の好色家が犠牲になっただけで「真の支配階級」に追求の手が行く事はなかったようです。しかし現在米国社会、フランスの社会もDEEP STATEと呼ばれる人達の力が弱くなり、体制がかわりつつある中、この映画で描かれたある部分が事実として明らかになる時がくるかも知れません。

 

 追記(2019.12.28)米国の富豪ジェフリー・エプスタイン(Jeffrey Epstein) が、ニューヨークの刑務所に収監された状態で自殺した事件も、まさにカリブ海のエプスタイン島で世界の富豪達、米国大統領やイスラエル首相、英国王室まで招待(顧客?)して繰り広げられた小児性愛やカニバリズムの秘密儀式が暴かれそうになって慌てて火消しした、というのが実体でしょう。恐らくは自殺したことにして別の顔と姓名を与えられてどこかで余生を過ごす(殺されればあらゆるセレブの秘密が自動的に発表されるといった仕掛けをして権力者を脅していたはず)ことになったのでしょう。これからはこの事件、ほぼ無かった事になりそう。

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終戦のエンペラーと明治のクリスチャン達

2018-11-26 18:33:09 | 映画

国体の護持に関わったクリスチャン達

 

 太平洋戦争末期に、負けつつある日本が連合軍からの敗戦勧告であるポツダム宣言を受け入れるか否かの要点は連合国が「国体の護持」を受け入れるかどうかにあったことは異論がない所です。そして「国体の護持」とは現天皇(昭和天皇)を中心とした日本の体制を存続させる事に他なりません。1つ前の原爆ブログでも触れましたが、国体の護持さえ受け入れてくれれば日本は1945年春の段階で敗戦勧告を受け入れる用意があることをソ連や中立国のスイスを通じて表明していて、連合国側も既に承知していたことでした。米国陸軍長官スティムソンが1945年7月6日にポツダムに向かうトルーマン大統領に日本への降伏勧告についてのメモ最終版の13条には「(戦後日本)政府が二度と侵略を希求しないと世界が完全に納得するならば、現皇室のもとでの立憲君主主義を認めても良い」の一文が入っていました。つまり国体の護持を認めていた訳です(前掲 新潮新書 有馬哲生 原爆—私たちは何も知らなかった 135頁)。しかしポツダム会談中に原爆実験の成功を知ったトルーマンと国務長官バーンズは原爆を日本に使用する前に日本が降伏してしまうと原爆の威力をソ連に示す実績が作れず、戦後米国中心の世界を作る上でも不利であるとの判断、そして「劣等民族である日本人に原爆を使用して何が悪い」という人種差別意識から天皇制維持の条項をポツダム宣言から削除してしまいます(同161頁)。結果は日本のポツダム宣言無視、ソ連の参戦、原爆投下へと繫がって行きます。

 

終戦時の天皇の戦争責任を描いた映画  有名な昭和天皇のマッカーサーとの会見写真

 

 2012年のアメリカ映画「終戦のエンペラー」は占領軍のマッカーサーのアドバイザーとして対日心理戦の中心となった知日家ボナー・フェラーズ准将(1896-1973)が「いかに昭和天皇を戦犯として裁く事を避けたか」(国体を護持したか)についてフィクションを交えて描いた映画です。それなりに見応えがあるのですがフィクションの日本人娘との恋愛が邪魔でもっと政治的に描ければ内容の濃いものになったであろうと残念です。原作になった岡本嗣郎 著 「終戦のエンペラー」(陛下をお救いなさいまし)(集英社文庫2013年刊)は実際にフェラーズが戦前から親交のあった恵泉女学院創始者の河井道の生涯を描きながら、フェラーズの戦後天皇を戦犯から外す奮闘を紹介した良書です。ただこちらは河井道の紹介が多く、天皇の戦争責任を免責するという重要な部分は一部です(それでも重要な歴史的資料が沢山記されていますが)。

 

 有馬、岡本両方の書籍で触れられていることですが、米軍は終戦に伴う速やかな日本軍の武装解除、そして円滑な戦後日本統治には天皇の権威が不可欠であると見抜いていました。日本人のエトスや日本の社会構造、歴史を当時知る人であれば誰しも思い至る結論だったでしょう。しかし殆どの欧米人は日本人と中国人の区別もつかない(多分今でも)訳で、日本人をサルと同じくらいにしか見ていなかったのでサルのボスである天皇は戦争責任を問われて絞首刑が当然と考えていました。この「天皇を戦犯として裁け」という圧力をいかに合理的にかわすか、というのが終戦のエンペラーの主題と言えます。そこには日本人としての神道的な精神と一神教であるキリスト教の理屈を理解していた人達の活躍が必要であったのです。河井は伊勢神宮の神官の娘でありながら、幼い時に新渡戸稲造に見いだされてクエーカー教徒になり明治時代に米国で大学を卒業した才媛であり、戦中もキリスト教徒として学校運営を通した骨のある女性です。しかし天皇への敬愛、尊敬は揺るぎないものがあり、「昭和天皇が戦犯として処刑されるならば私が先に死にます」と明言する程の人でした。

 

 終戦のエンペラーの背景

 映画においてもマッカーサーと昭和天皇が初めて米国大使館で会見をする場面で天皇が「戦争遂行に当たって政治・軍事両面で行った全ての決定と行動に対して全責任を追う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためにお訪ねした」と話し、その君主としてのありようにマッカーサーが感動した、という所がクライマックスとして描かれます。この言葉を本当に昭和天皇が述べられたかは正式な記録(会見に同席した通訳の記録)には残っていないようです。私は当時の状況から、また昭和天皇のそれまでの言動からこの言葉はマッカーサーとの邂逅の最初に実際に述べられたお言葉ではないかと思います。その言葉の余りの重さに正式な記録には残すべきではないと(残せば戦争責任を本人が正式に認めた事になって証拠として使われる)判断され、マッカーサーの私信として後に伝えられたのではないかと想像します。結果的にはマッカーサーが天皇の人格高潔であること、その後の日本の統治と発展に人格高潔で国民から敬愛される天皇が必要であることが縷々説明されて天皇の戦争責任は免責されることになります。そしてマッカーサーにその天皇の必要性を納得させたのがフェラーズであり、助言をしたのが河井であったという背景です。

 

 明治のクリスチャンは天皇と一神教をどう摺り合わせたか

 

 本来ゼウスを絶対神とするキリスト教と多神教の神道から派生した国造りの子孫で神の一人である天皇をいただく日本の神道は相容れない物のように思います。実際外国人からは日本人のキリスト者が天皇にも敬愛を覚えていることが理解できないとすることも多いようです。フェラーズも同様でした。私はキリスト教信者ではないので、あまりうかつな説明は書けないのですが、岡本氏の河井道の解説では、日本のキリスト者が天皇を受け入れる考え方にはいくつかのパターンがあるとされています。河井らは創造主としての神は一人であり、現実社会における天皇も創造主である神がお造りになった被創造物である。しかし皇室はとても高貴で尊敬される国父に違いなく、神の道に背かぬ限り天皇の存在も行いも全ては受け入れるものである。誤りがあるとすれば周りで支える者が過ちを犯す以外に考えられない、とするものです。新渡戸稲造ら他の戦前のキリスト者達もこのような考え方の人が多かったようです。

 

 戦後皇太子(今上天皇)はクリスチャンのバイニング婦人に教育を受け、美智子皇后もクリスチャンの学校を卒業されています。吉田茂他戦後の日本の政界の中枢を担った人達もクリスチャンが多く、前に紹介した鬼塚史郎著 「天皇のロザリオ」において触れたように、皇室をクリスチャンに改宗するという試みも実際行われて来たと考えられます。それが現実になっているかどうかは別として終戦時に起きたこれらの出来事を知っておく事は日本国憲法第一条に規定された天皇のあり方を考える上で重要なことではないかと思いました。

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映画 ブリキの太鼓 感想

2018-10-29 16:36:09 | 映画

映画 ブリキの太鼓 1978年 西ドイツ・フランス 監督フォルカー・シュレンドルフ 原作ギュンター・グラス 主演ダフィト・ベネント(オスカル)

 

 戦争物っぽいけど今まで見れなかったこの映画を見る機会がありました。エログロ描写が強いという評判もありますが非常にインパクトのある印象的な作品でCGなどを駆使した昨今の映画よりもよほど考えさせる内容だと思いました。元々ノーベル賞作家のギュンター・グラスのやや自伝的な小説が元になっていて、小説を読むと印象が変わる可能性がありますが、3章まである原作を敢えて2章で終了させた意図もあったはずであり、映画を見ての感想を記しておきたいと思います。

 

ブリキの太鼓を叩くオスカルの有名なシーン          大人の欺瞞をしっかり見せつけられていよいよ不審がつのる

 

 主人公のオスカルは胎児の時から記憶がある、という設定で、大人の世界の欺瞞に嫌気がさして自分が三歳の時にわざと階段から転落した怪我が元で成長が止まったことにしたが、自分の意思で成長することをやめたことが語られます。3歳の誕生日にブリキの太鼓を貰うのですが、その太鼓を叩きながら大声を上げると、ガラスが壊れるという技が備わっている事が示されます。この技はオスカルから太鼓を取り上げて大人として成長させようとする周囲の試みを悉く失敗させる武器になります。オスカルが生きていた都市ダンツィッヒはポーランドにありながら国際自由都市として、ドイツ人、ポーランド人そして祖母が属したカシュバイ人たちが共存する町でしたがナチズムの浸透と戦前のドイツの国力増大に伴って街全体がナチズムに染まって行きます。この映画は反ナチズムが主題かというとそうでもなく、不倫や性の乱れ、政治的な大人社会の欺瞞全体に対する子供心からみた否定、というのが主題になります。オスカルは身体の成長は3歳で止めるのですが、精神の成長は年齢相応に進んで行きます。年頃になると小児の時に拒否していた「大人の性」にも目覚めて行く所が面白いです。精神的には少年のオスカルはそれを否定するかのように3歳の時にもらった「ブリキの太鼓」を手放さず叩き続ける事で周囲には子供のままであることを主張するのですが、サーカス団の小人芸人のベブラ師にだけは全てを見透かされています。小説では判りませんが、彼の存在がこの映画では大きな意味を持ってきます。3歳でオスカルを認めたベブラ師は自分が53歳であることを語り、「自分は10歳で成長を止めたけれど最近の子供は3歳で止めるのか。」と喝破します。数年後ドイツ軍の慰問団としてオスカルと一緒にパリやフランスの前線を周り、戦局の悪化とオスカルの恋愛対象である小人のロスビータの死亡で慰問団を解散してオスカルと別れることになるのですが、「大きな大人の言う事は信用するな。」と言い残して去って行きます。このベブラ師は成長を止めたオスカルが老成した時の完成形として描かれていたように思います。彼との生活、愛したロスビータの死を経て、最終的にナチスに傾倒した父親がソ連兵に殺されたことをきっかけにオスカルはブリキの太鼓を捨てて再び成長することを開始して、戦後の西側世界(米国とは描かれない)に向かって旅立つ所で映画は終了します。

 

ドイツ軍への慰問団での様子 ベブラ師との邂逅にその後の生活への意味が

 原作の小説が単純明快ではないから、映画もインパクトの強い場面が多く、筋を追ってゆくだけで大変で一体何を描きたかったのか後から考えないと理解できない感じです。田舎の農民の女性が4枚のスカートを履いていてその中が小さい世界として描かれる、性の描写も生々しく、馬の首で沢山のウナギを取るシーンや母のアグネスが生魚を次々に頬張って死亡する所など評者によっては「臭気」を見る者に想像させる強い描写力と表現され、その通りと思います。カメラの視点は3歳児のオスカルの低さであるし、時々映像自体が手ぶれしていてオスカルの視点そのものであることも感じさせます。ナレーションも大人びた少年オスカルの視点と声で語られるのですが、見るものはオスカルに「ある種の狂気」を感じ続けるので感情移入はできない状態が続きます。ただ狂気の程度が完璧ではないので「時代の狂気」と「オスカルの狂気」が同じ程度のように見えてしまう所が絶妙です。だから戦争が終わるとオスカルの狂気も終わるような造りが成立したのだと思います。小説では戦後、殺人事件に巻き込まれて精神病院に入ることになり、そこで若き日々を語るという設定で物語が進むようですが、映画の設定の方が判り易いです。私はこの「時代の狂気」と「オスカルの狂気」が同じ位であったこと、というのがこの映画の主題だったのではないかと思います。つまり反ナチズムや反戦といった判り易いテーマではなく、戦後も含めた「大人社会とされるものの欺瞞」が「オスカルの狂気と同じ程度」だろ、という多分単純好きのアメリカ人には理解できないドイツ人らしいこねくり具合が奴ら(ドイツ人)らしいなと感ずるのです。ちなみに物語の語り始めからオスカルが正気になってからもずっと慕い続ける祖母は祖国を持たないカシュバイ人なのですが、現在のドイツ首相メルケルも祖母はカシュバイ人であるとwikiにも記されています。一方ナチス時代には大道芸人、ロマ、小人、ジプシーといった人達は迫害の対象だったのでこのような慰問団というのが優遇されていたのかやや疑問です。一方現在のウクライナ政変の原動力になったのは反ソ連を主導した当時のナチズム党員達が元になっていることなど、東欧の民族問題の複雑さを感じます。そういった複雑さ全てを欺瞞として否定する「オスカルの潔さ」がある種の魅力として感じてしまうのかも知れません。

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グレゴリー・ペック主演の映画2題と米中露北朝鮮情勢

2018-07-31 16:19:11 | 映画

勝利なき戦い(Pork Chop Hill) 1959年 米国MGM ルイス・マイルストン監督 主演グレゴリー・ペック(ジョークレモンス中尉) ジョージ・シバタ (スギ・大橋中尉)

概要:Wikipediaから

1959年アメリカ映画朝鮮戦争の最終局面、板門店で休戦協定会議が開かれる中、交渉を優位に進めるために両軍が国境付近の丘を巡って不毛で熾烈な争奪戦を余儀なくされる。

1953年に起こったポークチョップヒルの戦い英語版)を題材としており、主人公のジョーゼフ・"ジョー"・クレモンス英語版)中尉は実在の人物である。

あらすじ

休戦協定を少しでも有利に進めるため、クレモンス中尉(グレゴリー・ペック)率いる米陸軍の部隊に対して板門店の近くにある中国人民義勇軍に占拠された丘「ポークチョップヒル」を奪取するように命じられる。休戦を間近に控えた部下の兵士らの士気が上がらない中、丘を巡って両軍の激しい争奪戦が繰り広げられる。

映画自体のアメリカでの評判は今ひとつのよう。  戦闘場面は大量の中国軍など独特。    副官の日系大橋中尉が良い味を出しています。

感想:

トランプ 金正恩会談で朝鮮戦争の終結が話題になる中、休戦協定直前の中間線における両軍の激しい、しかも内容的には虚しい攻防を描いたという点で朝鮮戦争の実相が浮き出されていると言えます。戦闘場面は迫力があるものの、この映画は朝鮮戦争や時代背景をある程度理解していないと解り難い部分があるように思います。

北朝鮮軍がソ連の支援を受けて1950年6月25日に突如(米国がわざと隙を見せたという説も)南北境界線を突破して南進して始まった朝鮮戦争ですが、韓国駐留米軍が国連の決議を経て国連軍としてマッカーサー指揮の下、仁川上陸で形勢逆転、中国の境の鴨緑江まで北朝鮮軍を押し返します。ここでマッカーサーは台湾の蒋介石と計って成立したての共産中国に攻め入りそうになります。危機を感じた毛沢東は廃残国民党軍の多数の残党を後方から「督戦隊」が銃で脅し、「せめて中国のために死ね!」とばかりに装備の整った国連軍の前線に「人海戦術」で送り込みます。倒しても倒しても雲霞の如く押し寄せる中国軍に米軍を中心とする国連軍は38度線まで押し返され、そこで膠着状態のまま1953年7月に停戦協定が国連軍と中国北朝鮮の間で結ばれて今日に至ります。

 この映画はこの停戦協定間際での戦いを描いており、米軍の兵隊は全く戦意がなく、早く停戦が適って帰国したいと皆考えています。戦う相手はこの時点では北朝鮮ではなく、中国人民解放軍に変わっていて米中の代理戦争が行われていたのが実体でした。

 面白いのは、主役のクレモンス中尉の副官として日本人二世(と思われる)スギ・大橋中尉というのが全編に渡って主人公から信頼され、かなり良い働きをする様が描かれる所です。1959年は60年安保で世の中が揺れていた時代であり、反安保、反米感情も国内で強かった時代です。また59年には二世部隊の英雄ダニエル・イノウエ(ホノルル空港の正式名に引用)が米国初の日系上院議員になり、戦争中の日系人強制収容などの見直しがなされていた事とも関係するかも知れません。さしずめ現代に直すと「集団的自衛権の発動で米軍と自衛隊は信頼しながら協力して戦おう」というプロパガンダになるかも知れません。後半の白兵戦で突撃をする場面で大橋中尉は「先祖達は万歳突撃を得意としたからね。」と冗談めかして言う場面があるのですが、朝鮮戦争のつい数年前に日本軍が行っていた事です。トランプは金正恩と終戦協定を進めていますが、この映画で描かれるように現実には中国と終戦をしないといけないように思われます。

 

 

渚にて(On the Beach) 1959年 米国MGM ネヴィル・シュート原作 スタンリー・クレイマー 監督

主演 グレゴリー・ペック(タワーズ中佐 潜水艦Sawfish艦長) エヴァ・ガードナー(モイラ)アンソニー・パーキンス(ホームズ大尉)

 

 あらすじ

米ソの核戦争によって北半球が壊滅し、人間を含む全ての生物が放射線で死滅してしまった所から話が始まります。米国潜水艦Sawfishは核戦争を生き延びて未だ放射線プルームが到達していないオーストラリアの南側にある都市、メルボルンにやってくるのですが、放射線のプルームはやがて同地にも到達する運命にあります。映画は自分達が起こした訳でもない核戦争によって死に至る運命にある人達の苦悩を淡々と描いたものですが、当時は本当にいずれ近いうちに核戦争が起こると世界中が考えていた時代であったのでこの淡々とした描き方に説得力があります。活劇やスペクタクルはありません(ストーリーと関係ない自暴自棄の自動車レースはある)。潜水艦で偵察に行く太陽に照らされたサンフランシスコの無人の街(どうやって撮影したのか)がとても不気味です。メルボルンの市民達は最後放射線障害で苦しむことがないよう、子供達の分も含めて自殺用の薬を政府から配給されます。主人公達もそれを服用してメルボルンの街も無人になる所で映画が終わります。

 

まだ時間はある・・というのは当時の世界へのメッセージか。

 感想

現在においても米露は人類を何回も絶滅できる数の核爆弾を保有し続けています。米露が戦争をすることがあっては絶対にいけません。しかしトランプとプーチンが仲良くすることに対して、世界中は非難囂々です。日本でも比較的リベラル・反戦を唱えるマスコミ勢力でさえもがトランプのロシア外交を批難しています。核戦争を回避するには、首脳同士が信頼関係を結び非戦の誓いを立てる他ないのに、トランプの外交を批難するリベラルというのは所詮「似非平和勢力」であったことが明確になりました。恥を知れ!と普段偉そうな事を言っていたマスコミを思い切り軽蔑したいです。二度と自分達を平和愛好家などと自慢するな!と言いたい。

 

当時はありませんでしたが、現在コロラドやテキサスの都市地下には広大な核シェルターがあり、一部の金融支配層は核戦争が起きても生き残れるように準備が整っているようです。モスクワにも市民全員が入れる核シェルターがあると報道されています。シリアやウクライナでしきりにロシアと戦争を起こさせようとしていた勢力は、何があっても自分達は生き残る前提で仕掛けていたのでしょう。そのような動きを批難・報道しないメディアの「腰抜けぶり」には反吐が出る思いです。

 

トランプと金正恩トップ会談のその後ですが、私はやはり北朝鮮内部の調整が取れていないために進展が遅いのだろうと考えています。中朝の協同歩調による離反という説もありますが、中国の習近平体制は今北朝鮮に関わって米国に敵対する余裕はないように見えます。貿易戦争では負けつつ有りますし、EUに接近していますが結構足元を見られているようにも思います。結局「中国が損をしない範囲で北朝鮮を処分する」という方針は変えようがないでしょう。

トランプの米国内での政治体制ですが、確かに中間選挙を意識した調整に苦心している事は否めないでしょう。ロシア疑惑もしつこく報道されていますが、金融Deep state側の犯罪もどこかで暴露追求(メディアが報じないので出し方に工夫が必要)して逆襲を計っていると思われます。ただネタニヤフとの蜜月、イランとの対立をどこまで行うのか、プーチンとは先日の直接会談で(2時間近く通訳のみで会談したという)ある程度打ち合わせを済ませていると思われますが、現状では政権の不安定要因であることは確かです。

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映画「ある戦争」感想

2018-06-12 00:10:51 | 映画

ある戦争 (Kriegen) 2015年 デンマーク 監督トビアス・リンスホルム 主演ピルー・アスベック(クラウス・ペダーゾン)2015年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート

 あまり期待しないで見たのですが、とても良い作品だったので紹介します。デンマークは米国主導のアフガニスタン紛争における不朽の自由作戦にNATOの有志連合諸国として参加、戦死者も出しています。これは国連の平和維持活動とは異なり、米国との集団的自衛権に基づくタリバンとの戦争にあたります。あらすじは以下(ネタバレあります)—

 アフガニスタンのカルザイ政権支援のために駐留するデンマーク軍の部隊長、クラウス。3人の子と妻マリアを国に残して命がけの任務に没頭する彼は、ある日のパトロール中にタリバンの襲撃を受け、仲間と自分を守るため、敵が発砲していると思われる地区の空爆命令を行った。しかし、そこにいたのは民間人だった事が判明。結果として彼は、11名の罪のない子どもを含む民間人の命を奪ってしまった。帰国後、クラウスを待ち受けていたのは軍法会議。愛する家族に支えられながらも、消えることのない罪の意識と、過酷な状況で部下たちを守るために「不可欠」だった決断との間で揺れ動く彼に、運命の結審が訪れる。

本作は前半が戦場、後半が裁判とはっきり分かれた構成になっています。

 

非常にリアルな戦場の場面                                   隊長は裁判のために帰国するが・・

 

 主人公クラウス・ペダーソンが率いるデンマークの国際治安支援部隊の隊員ひとりがIEDによって吹き飛ばされ死亡するところから始まる前半。ドキュメンタリータッチで描かれる戦地での状況は非常にリアルです。これらシーンはもしかすると将来派遣されるかもしれない自衛官の人達にとっては他人事でなく感ずるでしょう。無為に死んで行く若い兵士を見て、アラブ系の移民?のやはり若い兵士が「こんな任務に何の意味が・・」と神経症に。クラウスは皆を鼓舞して自分達の任務がアフガニスタンの人達に受け入れられつつあるとして率先してパトロールに出かけます。しかしその後の展開で自分達のために村人がタリバンに殺され、助けを求められたのに助けてやれず、任務が無意味と嘆いた兵士が首を撃たれて死にかけます。部下を助けるために敵が撃ってくると思われる方角に空爆を指示するクラウス。その甲斐合って兵士は助かるのですが、空爆をした場所には子供達を含む民間人がいて11人が犠牲になります。

 その後クラウスは敵の存在の確証(PID)を得ずに空爆を指示したとして軍法会議にかけられます。PIDを得ていない事にクラウスは罪の意識に苛まれるのですが、裁判結審に近い6ヶ月目に部下が「敵の発火を見た」という証言によって無罪となります。

 

(あらすじ終了)

 私はこの作品、アメリカン・スナイパーゼロ・ダーク・サーティよりもはるかに内容としてはクオリティの高い作品だと思います。作者はこの1本の作品の中に実に様々な問題提起をなし得ています。つまり

1)アフガン紛争への参戦は集団的自衛権の発動として適切か。

2)テロとの戦争に軍という組織を用いる事は適切か。

3)軍の駐留とパトロールが当該国の平和維持に役立つのか。

4)戦争において国際法は確実に守られるのか。

 といった事です。

 この作品で後半時間をかけて審議しているのは4の敵を確認せずに無差別に爆撃を指示した結果民間人が犠牲になった事は戦時国際法違反であるという部分だけなのですが、1)から3)の問いかけが直接間接的に作品中でなされて、それについては審議されることはありません。僅かに3について兵士から疑問が呈されるだけです。

作品の後半では4について時間をかけてクラウス個人を裁くのですが、クラウスが意図的に民間人の殺戮を行ったのではない事が明らかであるので、民間人が誤爆されたのは「事故」という扱いです。しかしPIDを意図的に無視した事は軍紀違反であり、その結果「重大事故」が起こったのですから、民間人を意図的に殺戮すれば終身刑になるものの、PID無視では最高刑である懲役4年が求刑されるという展開でした。

 この「事故」自体の責任を個人に問わない、というのは非常に法律的によく検討された内容と思います。交通事故、飛行機事故、医療事故、これら意図的に起こしたものでない事故による障害や死亡の責任は「個人の問題」と「システム・環境の問題」に別れ、個人の過失などが明確でなければ個人に罪を問うことはできません。信号が両方とも青で車がぶつかったならそれは信号のせいであって個人のせいではありません。上記の問題4で起こった事が「事故」であって、その原因が1、2、3の国家・政治のシステム的な事が原因で必然的に起こったということになると、国家の選択自体を法廷が裁く事に成る、だから法廷ではクラウス個人のPID無視だけを審議したということなのです。そもそも「アルカイダを匿ったから」という理由でアフガニスタンという国家を転覆させる事に、集団的自衛権を理由にデンマークのような全く関係ない国が軍で他国を侵略する事は適法性がありません(1)。私が前から主張するように、テロとの戦争に軍という組織を使うことは適しておらず、様々な不具合が生じます(2)。昼間時々パトロールに軍が来るだけで、いずれそれらが撤退して去ってしまう事が解っている状態で、タリバンのような地元に根ざした敵対勢力を根絶する事は不可能で、方法論として誤りです(3)。つまりシステム的に不適切な1−3の状態を放置して、その結果生じた「事故」(4)に個人の責任を問うことは無理があるのです。それなのに隊長であるクラウス一人に罪を追求する所に観客は釈然としないものを感ずるのです。システムの問題を正さず、個人の罪を求める法廷の馬鹿馬鹿しさに、部下の一人が「私が敵の砲火を見た」と後から嘘の証言をして決着をつけた事に、恐らく検事、判事、弁護人や関係者全ては承知の上で「無罪結審」を示したように見えます。このあっけない終わり方がまた観客に何か不条理感を抱かせる良い演出であるように感じました。

 

有名な人魚姫の像

 デンマークは一度訪れた事がありますが、コペンハーゲンは落ち着いた伝統ある奇麗な街で国全体はのどかな田園風景が広がる農業国でした。税金は高く、自動車一台買うと同じ額の税金を払う社会保障の充実した国です。一方でバイキングの歴史があり、グリーンランドもデンマークでアイルランドも昔領土でした。独仏よりも先進的であるデンマークが現在戦争状態にある国家で、このような課題を真剣に抱えているという事に改めて感慨を覚えます。デンマークでさえこれだけの悩みを持ち、解決ができないのですから、法整備も国民の心の準備もない日本が集団的自衛権などをあまり軽々に決めない方が良いのではないか、単なる無責任で「問題が起こってから考えよう」では遅いのではないかと強く思いました。日本人にとって一見の価値のある映画だと思いました。

 

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反戦?映画今昔「未知への飛行(Fail safe1964)」と「5デイズ( 5 Days of War)」

2018-04-09 23:38:58 | 映画

CS放送で対照的な2つの反戦?映画を最近見て、印象に残ったので備忘録的に記しておこうと思います。

 

1)5デイズ(5 days of war)2011年(米国) レニー・ハーリン監督 ルパート・フレンヅ、エマニュエル・クリキ、ヴァル・キルマー主演

 2008年、北京オリンピック開会中に発生したグルジアー南オセチア紛争において、グルジア側から取材に入った西側の戦場ジャーナリスト達が、ロシア軍がグルジアの村々に爆撃、侵略をして戦争犯罪と言える虐殺を起こす様をフィルムに収め、世界に発信しようとする努力を描く内容。

 あくまでグルジア側は善い者として描かれ、ロシア軍は無力なグルジア市民に一方的に武力攻撃をし、特に正規軍でなく「傭兵」として一線で戦う「コサック兵」達の残虐ぶりが強調されて描かれます。サーカシビリ大統領はNATO、米国に軍事的な救援を要請しますが相手にしてもらえず一方的な休戦によって何とか独立は保たれます。

 ロシア軍は圧倒的に強かったのですが、映画では余りに「ロシア=悪逆」で描かれ、主人公達が危機に陥る度にいかにも都合良く「救援」が入るというご都合主義が娯楽映画的で鼻につきます。サーカシビリは「ジョージア(グルジア)の自由と独立が守られた」と最後に演説をするのですが、初めに南オセチアの自由と独立を認めたらそもそも紛争が起きなかったのでは?と突っ込みたくなります。

 この南オセチア問題を始め、ウクライナ、クリミア、シリア、トルコにおいて、そして現在の英国スパイ暗殺事件においてもロシア(プーチン)は悪の権化として打倒するべき対象とされています。ロシアは本格的な西側との戦争を避けようと自重をしていますが、ロシアとの戦争の恐怖を米国、西側の人達は忘れてしまったかのようです。

 

グルジアへのロシア軍の砲撃(本物)  ロシアの爆撃による犠牲者

 

2)未知への飛行(Fail Safe1964) 1964年 米国 シドニー・ルメット監督 ヘンリー・フォンダ、ダン・オヘイリー主演

 核を搭載した戦略空軍爆撃機が正体不明の侵入機(UFOと表示)に反応してソ連との核戦争準備に入るのですが、コースを外れた民間機と判明。しかし1グループのみがソ連の妨害無線によって警報解除の指令が届かず、そのままモスクワへ水爆投下に向かってしまう。大統領(ヘンリー・フォンダ)はソ連の議長とのホットライン、国防総省などと協力して攻撃命令の中止、爆撃機の撃墜を計るのだが・・。Fail safe機構というのは失敗しても安全な方に自動的に導かれる仕組み、或は最小の損害で済むように導かれる仕組みの事を指す専門用語で航空機や医療の世界では日常的に使われる言葉です。この映画におけるFail Safeとは機器の誤作動で核戦争が始まってしまう状態になった時のFail Safe機構が自軍の戦闘機による撃墜、人間の声による命令、そして最後は自国の爆撃機をニューヨークに飛ばして自ら水爆をニューヨークに落とす事でモスクワに水爆を落とした事と釣り合わせて世界破滅の核戦争を防ぐ事をソ連の議長と約束する、というショッキングな内容です。

 ソ連との戦争が人類の破滅に直結すると言う危機感を世界が共有していた時代の作品。「論理的に最後の最良の選択がこれなのです」という厳しいメッセージを当時の米国市民達はどのように受け止めたか。最近の米国における、安易なロシアとの敵対をあおる風潮に私は危惧を感じます。何故何の証拠もないの元スパイ殺害容疑で世界中からロシアの外交官を追放しないといけないのでしょう。もう一度世界、特に米国民はこの作品の重み、何度も人類を滅ぼせるだけの核を持ってしまっている自分達への厳しさを確認するべきだと思いました。またこのような自国民に対して厳しい問いかけをする映画を作れていた当時のハリウッド、現在のセレブと体制リベラルに媚を売り、低俗な映画しか作れなくなったハリウッドとの明暗を感じざるを得ません。

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映画 ニュースの真相 感想

2018-03-30 18:09:37 | 映画

ニュースの真相 (Truth)  2015年 豪・米 合作 ジェームズ・ヴァンダービルト監督 ケイト・ブランシェット(メアリー・メイプル)、ロバート・レッドフォード(ダン・ラザー)主演

  共和党のジョージ・W・ブッシュ米大統領は再選を目指し選挙戦を繰り広げていた2004年。米国最大のネットワークを誇る放送局CBSのニュース番組でプロデューサーを務めるメアリー・メイプスは、現職ブッシュの軍歴詐称疑惑をスクープする。放送後、大反響を巻き起こすが、すぐさま番組が証拠として提示した書類に「偽造では?」の批判が高まっていく。メアリーと取材班は再調査に奮闘するが…。という実話を元にしたメイプス自身の自伝小説の映画化です。映画自体がとても面白いかというとそれほどの活劇でもないし、主人公が取り上げたスクープも「ブッシュの州兵として勤務した軍歴が殆ど遊びであった」というあまり筋がよくない(まあしょうがないのでは?)(あの人ならそれもありでしょう?)というレベルであって、多くの人が人生をかけてまで報道するような内容ではないようにも思ってしまいます。結局調査委員会で限りなく偽造ではないか、という結論になって(本物であることを証明できなかった)メイプスは会社をクビになり、名物ニュースアンカーであったダン・ラザーも番組を降りる事によって幕引きとなります。

 

 本当はその前に彼女がスクープしたアブグレイブ収容所での捕虜虐待(写真)は、米国が「テロとの戦争」という正義の旗の下で行っているイスラム侵略の実体を暴いた重要なスクープであっただけにそちらを映画化した方がよかったのにと思います。まあこの映画も実話を元にしているだけに、活劇ではなくても実際のメディア側の保身の姿や、虚報を報じてしまった事を機会に舞台を去る決断をするレッドフォード演ずる「ダン・ラザー」の姿など重厚な中身を感ずる部分もありました。

 

 この「スクープした書類が本物か偽造か」という問題は現在日本で問題になっている森友疑惑における財務局の書類改竄問題とかぶって見えた所が興味深い所です。当初、改竄前の書類を朝日新聞がスクープした時、他のメディアはそれが偽造である可能性も捨てきれず『朝日が報道した・・』と括弧付きで後追い報道をしていました。しかし財務省が書類の改竄を公式に認めるに至って改竄前の書類が「本物」であるという報道に変わって行きました。また偽造である可能性を示唆した他局のニュースはネット上では既に削除されているようです。こういった事からメディアにおける「フェイク・ニュース」という汚名への慎重さや、情報源への秘匿性の保護といった問題を考える上で、この事件や映画は参考になると思いました。

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