rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

太っていたり痩せていたりするから癌になるわけではない

2010-10-27 22:19:28 | 医療
「やせ」も腎がんリスク上昇の可能性(医療介護CBニュース) - goo ニュース

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欧米型の脂肪の多い食事がいくつかの癌腫で発癌リスクにつながることは統計的に示されています。しかし統計的に有意差があることとその事象が発癌因子と断定できることとは別問題です。「風が吹くと桶屋が儲かる」のは「風」が直接桶屋の儲けに影響するわけではなくて、途中に土ぼこりやそれが目に入って盲人が増えて三味線が買われて猫が減るなど様々な因子が関与する事によって結果として鼠が増えて桶がかじられて桶屋が儲かるのであって途中の因子の働きが異なる反応であったら結果の桶屋の儲けにつながらないことになります。

太っていたり、痩せていたりするから癌になるわけではないのに、このような記事がでると肥満や痩せが腎癌のリスク因子であるように勘違いする人が増えます。調査をしたがんセンターの研究班は勿論肥満や痩せが直接の原因にならないこと位百も承知で調査をしているのですが、結局「癌化の引きがね」が未だにわかっていないことが種々の珍説迷説が出てくる原因とも言えるでしょうし、日本人の理系思考力の低下、或いはエモーショナルなことで物事を判断してしまいがちな傾向がそもそもいけないように思います。

「がん」とは細胞がコントロールが効かない状態で増殖を続けていることを言うのであって、コントロールがついていたり増殖が止まっていたりすればそれは「がん」ではないと言えます。基本的には遺伝子の異常で細胞が癌化するのですが、どうも一つの遺伝子が癌化のトリガーになるわけではないことが判り、また対をなす染色体にある遺伝子が両方機能異常になることも必要であるらしいと判りました。遺伝子の機能異常は遺伝子の核酸配列が変化することが必要と思われていたのですが、核酸配列が変らなくてもメチル化などの修飾が加わる事で機能が変ることも判ってきました。こうなると様々な原因で様々な遺伝子の機能異常が惹起されて癌が生ずることになり、桶屋が儲かる原因として「風が吹く」だけではなく「風が吹かない」状態でも「夏が涼しく」ても「海の浪が高く」ても「結果として桶屋が儲かることがある」みたいな話しになってしまっているのです。

「がん」の治療は体内にある「がん細胞」を一つ残らず取り去る、或いは死滅させることで「根治」に至ります。しかしそのためには正常な臓器、組織も犠牲にしないといけないことが多いので「がん」の増殖スピードが遅い場合、或いは増殖をコントロールすることができる場合、「ある程度がんを体内から取り除くことができれば良い」と言う考え方もでてきています。我々医学の専門家であっても「がんの治療」について話し合われているとき、その治療が「根治を目標にしている」のか「コントロールをつけること」を目標にしているのか判らずとまどうことがあります。「がんとは何か」ということさえ理解していない一般の方は、ある癌の治療方法が目標として「根治」なのか「コントロール」なのかといった違いなど考えも及ばないでしょうし結局「よくわからない」という感想しかもたないのではないかと思います。日々の診療で癌の治療について説明する時に、最近では「インターネットでこのように出ていた」とか種々の断片的情報を持ってきて説明を求められる事が多いのですが、「がんとは何か」とか「治療の目標はどこか」といった論理的思考の柱になる部分が欠如している人が多い(中にはそのポイントをしっかり抑えていて我々と同じ土俵で話しができる方もいますが)ので困ったものであり、生半可なインターネットの知識などない方がよほど良いのにと感じます。むしろ「自分の生きる目的」や「今元気であっても限られた人生を今後どのように使ってゆくのか」といった哲学を普段から身に付けている方がくだらないインターネットの医療情報よりも何倍も有用だと思います。
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書評 バカ学生を医者にするな!

2010-10-24 22:48:20 | 書評
書評 バカ学生を医者にするな!―医学部バブルがもたらす3つの危機― 永田宏 著 毎日新聞社刊 2010年

刺激的な題名に思わず手に取ってしまった本ですが、著者が本文の中で白状しているようにこれは手に取ってもらうための題名で、本書の主旨とはやや異なっているようです。書かれている内容が医者の世界についても正しく、偏見や思い込みがないので私はてっきり医学部を出たドクターが書いているものと思っていました。しかし卒業後に勤務したオリンパス工学やKDDIの医療情報研究室などで広く医師と接した上、現在医療関係の大学で教授をしておられるから医療行政を含めて専門的でしかも事実に即した知識を持っているのだとわかりました。

医師不足(私は絶対数の不足でなくリスクの高い医療に従事する勤務医の不足と言ってます)はさすがに国民にも認知されたと思われますが、その解決策として政府から出された答えが医学部の定員増で、07年に7,625人であった医学部の定員が現在1,200人増えて8,846人になりました。また来年度も87人増えて8,900人を超えることが決まっています。以前のブログに書いたように定員100人の医学部が3年間に13校できたのと同じことですが、このことによって起こり得る事態を著者は医学部バブルがもたらす3つの危機として上げています。

1) 医師になる間口が広がったことによる医学部学生の学力低下
ひと足早く8,000人から13,000人に定員増加になった薬学部は定員割れと同時に薬学部学生の学力低下が目立ち始め、薬量の単純な計算もおぼつかない学生が出始めているという。医学部も地域枠や推薦入学枠が増加することで水準に達しない医学生が増加する可能性がある。また国家試験浪人を増やすことができないから医師国家試験のレベルも今後落ちる可能性がある。これは本書の題名にも関連した事象です。

2) 今後医師が増え続けることによる医師の世代間偏在
18歳の人口あたりの医学部定員は1970年代の医学部新設時代前(各県1医大政策前)の団塊の世代では人口1,000人に1.6人程度、1991年でも3.7人であったのに2010年には少子化の影響と定員増で7.3人まで間口が広がった。今までは地域と診療科の偏在が問題であったけれども今後は世代間の医師の偏在が起こってくる。
但し、団塊の世代を中心に今後高齢者が増加するので、世代別人口あたりの医療機関受療率から計算すると医師が今後増えても医師一人当たりの仕事量は減らない、ということです。ではそのもっと後はどうなるのか、著者の興味深い論述があったので引用します。

(引用開始p117)
 見方を変えればこういうことだ。いまから医学部を目指す高校生や、すでに医学部に入って勉強している若者たちは、主に団塊世代の医療を支えるために国によって招集されているようなものだ。あるいはもっと露骨な表現を使えば、団塊世代の最期を看取るための要員ということだ。したがって対象となる団塊世代の大半が鬼籍に入った暁には、多くの医師がお役ご免となる。その時期はおそらく2040年前後になるはずである。2040年までに団塊世代の多くが90歳を超えている。日本人の平均寿命は男が79歳、女が86歳だ。
 一方、2010年に18歳を迎えたひとは、2040年には48歳になっている。人生まだまだこれからという年齢を迎えて、多くの医師が失業の危機に立たされることになる。患者がへってしまってはやむを得ないことだが、それにしても50歳を前にして生活の基盤が脅かされるのである。しかも医師というきわめて専門性の高い職業に就いていることが、かえって再就職の壁を高くしてしまう。(中略)国家によって招集され、必死になって勉強し、働き、気付いたらお役ご免で捨てられる。そういうことがいまからすでにチラチラと見えてしまっているのだから、ある意味、可愛そうでもある。逆に医学部受験に失敗して別の学部・学科に進んだ学生は、案外それが正解だったかもしれない。「人間万事塞翁が馬」というが少なくとも医学部受験に関しては当たっているように思う。
(引用終わり)

これは医学部受験生必読の内容かも知れません。リスクを恐れて医師自身の生活の質(QOL)の良い予防医学を中心としたような科を選択する若い医師達は今後泣きを見る事でしょう。治療をする上でリスクがあり、技術習得も大変で成り手が少ない外科系や救急を今選ぶ医師達こそ将来が約束されていると言えるでしょう(今苦しい状態のロートルの我々は報われないまま引退するのでしょうが)。

3) 誰が増え続ける医療費を払うのか
少子化で生産年齢が少なくなる上に理系の学生の上澄みを全て医学部に吸い取られたのでは技術立国を標榜する日本の産業の未来は暗く、増え続ける医療費を国民が払うことは不可能になる可能性がある。2009年の18歳人口121万人のうち、理系の大学に進んだのは18万3,000人だそうです。このうち医学部合格に必要な偏差値65(上位7%)以上は13,000人で8,000人が医学部に進学すると5,000人しか医学部以外の理工生物系に進む秀才がいなくなってしまいます。これは学力の偏在とも言えます。特に医学部は数学と英語の得意な人が入りやすい入試になっているので本当に理系に必要な能力のある人が医学部に吸収されてしまう、と著者は危ぶんでいます。民主党のマニフェストでは医療や介護で新たな産業を構築して雇用を増やすと謳われていますが、医療や介護が保険でまかなわれている限り保険料以上の産業にはなりえないというのが著者の主張です。

これだけでは将来の医師、日本の医療、日本自体の暗い未来を描いただけの書になってしまうのですが、著者は後半の章を割いて将来の医師と医療産業に日本の未来を託すための提言をしています。曰く、重厚長大なエネルギー効率の悪い産業で儲けるのではなく、医療材料のような軽くても価値の高い製品で将来の日本は立国すべし。医師は地頭が良く、勉強熱心で勝負魂もあるのだから商才を発揮してベンチャーを立ち上げるべし、そのためには医学部の6年間か卒業後のどこかで外国に医学留学でなく医療産業やそのほか将来の日本の国益になるもののために1年でも2年でも留学し、その費用は国が持ってはどうか(一人年間300万として年間240億円、医学部学生に年間かかる国の費用と変らない)。幕末に新生日本のために多くの人材を輩出した適塾のように、日本の理系秀才を全て吸い上げる医学部は日本のエリート教育最後の砦として医師になるための教育だけでなく将来の日本を背負って立つ人材を排出する機関になるべきである、というのが著者の本当に言いたかった結論のようです。

これは面白い意見だと思います。医師である私からみても「この人は医者にしておくのは惜しい(いろんな意味で)」という医師は沢山います。目の前の仕事に追われて副業どころか本業の研究でさえ十分にできないという現在の状態ですが、もっと時間的に余裕のある状態になれば有り余る才能を発揮できる医師達は沢山いることは間違いないでしょう。日本国のためにその才能を使わない手はないだろう、と私も思います。
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書評 官僚利権

2010-10-21 00:13:32 | 書評
書評 官僚利権 北沢 栄 実業之日本社 2010年刊

著者は共同通信を経てフリーのジャーナリストとなり、「亡国予算闇に消えた特別会計」(実業之日本社)「静かな暴走、独立行政法人」(日本評論社)「公益法人―隠された官の聖域」(岩波新書)など徹底して官僚の利権や無駄について追及してきたプロと言えるでしょう。2003年には国会で公益法人改革について参考人として意見陳述もしており、民主党の事業仕分けでは本当に仕分けされてしまうことを怖れた官僚達から事業仕分けの人選から「この人は入れるな」と駄目出しをされた経緯もあると書かれています。

本書は民主党の財源として話題になった「特別会計」に焦点を当て、その無駄からいかに埋蔵金を掘り出し得るかを解説した本です。日本の09年度の一般会計予算は88兆円程度ですが、09年の特別会計はその4倍の354兆円もあるというから驚きです。しかし日本国のGDPが450兆円位ですから、実際にはこれらの国家予算は予算同士の金のやりとり、所謂重複計上を含むので純粋な歳出、純計はこれよりも少なく、08年では一般会計で34兆円、特別会計で178兆円ということです。それでも国会で審議される事のない特別会計の額が随分と大きな金額であることが判ります。

この特別会計制度というのは日本に特有のもので、諸外国にも似た制度はあるもののあくまで特例的なもので日本の様に基幹たる一般会計の4倍も5倍も特別会計がある国はないそうです。米国には特別会計という制度自体がなく、フランスは一般会計が総予算の6割、特別会計が4割ということです。日本も80年台ころまでは現在のように特別会計が突出した額ではなかったということですから、国家運営上特別会計は必須の物でないことは確かです。

私は年金の積み立ても含めて財投や外国為替の特別会計も全て一般予算として毎年計上すれば良いと思います。年金などは現役世代が高齢者を支えるなどと言っておきながら実際は年金貯金のような扱いになって有り余った積み立て金で余計な箱物を作ったりアメリカの国債などに一部運用されていたりろくな使われ方をしていないと思われます。特別会計は一般会計のように大赤字ではなく、剰余金(毎年10兆)、利潤(数千億)など一般会計化することで900兆円とも言われる累積赤字の縮減にかなり役立つ部分があることは確実です。

勿論特別会計も中身として重要なものは沢山あります。しかし本当に重要ならば一般会計化されても堂々と認められるはずであり、各省庁だけで取り仕切るのは間違いでしょう。本来国の予算は国民が決める(国会で審議して決める)ものだからです。

書評としてこの本を論ずるにあたって、著者は複雑な特別会計や特殊法人のしくみを図やグラフを駆使して解説してくれているのですが、なんせ特別会計や独立行政法人などの存在がもともと複雑で理解しにくいものなので、一通り通読しても「結局どうすれば良いのか」がすんなりと判らないような印象を持ちます。埋蔵金も「必要だ」としている予算を削れば容易に得られることは判るのですが、いろいろな引き出しにこっそりしまい込んであるといった類いのものではなさそうだということも判ります。

私は自分が公務員であった経験もあるので、日本の官僚が「邪悪」であるとは思っていませんし、省益や利権を守るために自分の情熱や能力を費やすことを「良し」と考えている人間はむしろ少ないだろうと思っています。霞が関の論理や独特の考え方があることは確かでしょうが、政治家、国民がもっと官僚を信頼して行政に積極的に関心をもって働き掛けるようにすれば、彼らも国民のための「国益」を第一優先に考えて仕事をするだろうと信じています。「自分は国民のためにこれだけのことをやった。」と退職する時に胸を張って言える官僚人生でなければあまりに虚しいと考えるのは私だけではないでしょうから。

私は官僚の給料はもっと高くても良い位だと考えていますが、そのかわり特殊法人などは全て廃止して天下りもなくすべきだろうと思います。優秀な官僚を途中退職させて天下りさせることなく定年まで日本のために働いてもらう道を作り、上級ポストはなくてももう少し厚遇で働けるようにすればよいのだろうと思います。現在の小生のように50を過ぎて軍曹兼中隊長兼中佐のような仕事をしている医者もいるのですから、下働きもできる高級官僚もいてよいではないかと思いますね。
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書評 拒否できない日本

2010-10-19 19:24:22 | 書評
書評 拒否できない日本 関岡英之 文春新書376 2004年刊

当時国会でも話題になった米国の日本に対する強引な社会改造とも言える「年次改革要望書」の存在を明らかにした画期的な書で、新しい本ではありませんが、一度読みたいと思っていた本でした。「年次改革要望書」は1993年の宮沢・クリントン首脳会談において日米間の貿易障害になっている主に日本の社会構造的問題を改善するために毎年「年次改革要望書」として米国政府から突きつけられるようになった「指示書」のようなもので、政府・霞が関は翌年までにこの指示書に従って法改正をして日本の社会が米国の意に沿うようにしてきたものです。以前拙ブログでも日本の医療を市場開放するように99年の年次改革要望書に書かれてから、医療特別区の設置や株式会社の病院経営参入、マスコミで日本の医療を批判して米国医療を礼賛し、米国式自由診療を導入するためにやたらと某医療保険のCMが毎日流されるようになった経緯を紹介したことがありますが、全てこの書に書いてある通り実行されていたことが判ります。

昨年から年次改革要望書が出なくなった(公開されなくなった?)ようですが、これは政権交代の結果なのか米国の事情なのかは判りません。私はこの本を読んで年次改革要望書が作られた経緯やそれに沿って日本の政府・霞が関・マスコミなどの権力側が日本をいかに変えてきたかが良く判ったのですが、今一つ「何故アメリカ(人)はダブルスタンダードと言えるような手前勝手を平気でやって恥じる事がないのか」についての答えを得たように思いました。

それは米国が訴訟社会を日本に持ち込むことを企むくだりで、米国が英国式の「判例法」社会で、事後に弁護士や判事などの法律家によって事の善悪が決められ、しかも「エクイティ」なるその時に都合の良い解釈でその後の適法違法も決まってしまう。だから法律家である弁護士が政治家よりも力が強いことに対して、欧州大陸や日本は「制定法」社会であり基本的に市民誰もが解釈できる成文法によって予め成立している成文法や施行規則によって社会生活が成り立っているから後付けによる勝手な解釈が入り込む余地があまりない、というものです。

アメリカが第二次大戦に勝ってまず行なったことが裁判であり、後付けの法律で日本やドイツを違法であるとして罰し、その後自分たちが行なう事は良い事にしてしまいました。米国人が戦後清々しく生きるにはきっと「裁判をやって自分たちが適法であった」という結論を得ることがどうしても必要だったのでしょう。だから朝鮮戦争やベトナム戦争では国連軍という錦の御旗を背負っていましたがソ連が崩壊するまではずっと消化不良のような状態だったのだと思います。イラク・アフガンに至っては始めは911の直後で「テロとの戦争」という名目で適法感を出すこともできましたが、現在ではもう誰も自分たちが正しい戦争をしていると思えなくなっているのではないでしょうか。(何を目的に誰と戦争しているのかも判らない状態ですから、誰を裁判にかけるかさえ決められません)

本書でアメリカが日本を悪びれもせず改造しようとするしくみは理解できたのですが、判らないのは「何故日本はこのようにアメリカから強制されていることを敢えて国民に知らせないのか」ということです。いじめっ子がいじめる相手に「お前このことを先生や親に言うなよ。」と言っているのなら判りますが、年次改革要望書は私でもインターネットで読めるようにアメリカは秘密文書として日本に渡しているわけではありません。むしろ日本の政府やマスコミが国民に伏せてまるで自ら率先しているようにアメリカの意に沿う行動をしているのです。

「アメリカから便宜供与されているから」「これらの人達がアメリカのポチ」だからという説明がインターネットなどでは言われていますが、私は本当かなあ、とやや疑問に思います。「お前いじめられているんじゃないかい?」と親に心配されると「そんなことないよ。」と強がって見せて、いよいよもっと酷い状態に追い込まれてしまうイジメラレッコ的な見栄を張る心理が日本人の中にもともとあるように私には思います。本書にはこちらの謎のについては言及されていないので次回はその解明にも期待したいところです。

本書は「アメリカ的やり方がグローバルスタンダードであり世界の絶対的統一価値観である」などというのは嘘であって、アメリカのやりかたはかなりローカルなものでそれが正しいなどと騙されない方が良い、21世紀日本がより良くなるためには自分たちの価値観を発信するとともに自分たちの価値観に近い民族と連携してゆくことが大事である。それは荒唐無稽なものではなくて例えば大陸欧州などは英米の考え方とは違うよ、という提言をしています。これはかなり大事な事だろうと思います。これは私見ですが、第二次大戦前も含めた歴史的経緯を考えると英米と中国は「勝った者が正義」という共通の価値観があるからシンパシーがあるのかも知れません。本書はそのようないろいろ派生したことを考えさせる本でした。
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中国は購買力と軍事力だけで覇権国家になれるか

2010-10-13 20:26:37 | 政治
中国、ノルウェーに次々「制裁」 ミュージカルも中止(朝日新聞) - goo ニュース

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天安門事件と民主化宣言の立役者にノーベル平和賞を送ったノルウエーに対して中国は日本に行なったと同様強行な措置を繰り出しています。日本はこれをみて実は少しほっとしているのではないでしょうか。なぜなら尖閣諸島問題はあくまで二国間の問題で、中国は無理筋なことを平気でやるものだ、と世界にはアピールできたかも知れませんが所詮日中以外の国々にとっては「他人事」でしかなかったからです。ですが今回は世界に向けて中国は同様のことをしていると感じているのではないでしょうか。

ノーベル平和賞という極めて政治色の強い賞とはいえ世界で最も注目され権威のある賞を中国の反体制活動家が与えられたことは、GDP世界第2位の経済大国となった中国がこれにいかに大人の対応を見せるかということを世界の衆目の前で試されたとも言えるでしょう。

残念ながら中国の対応は極めて脊髄反射的な判りやすいものでした。「経済以外の自由は認めない」という国家のありかたが、少なくともフランス革命以降西欧を中心に二十世紀まで世界の主流となってきた自由民権の思想に背を向けるものであることは明らかで、しかも何ら悪びれる事もなく「うちはこのようなやり方ですけど、なにか?」と開き直っているようにも見える中国の姿勢は日本人は慣れてしまっていますが、西欧諸国からはかなり異質に見えていると思います。

日本は戦前まで現在の中国と同じで経済は自由だけれど政治的自由は制限されていたので(それでも昭和初期までは議会政治が機能していましたが)中国贔屓の人には現在の中国の体制に違和感を抱かない人も多いようです。そして中国14億人の潜在購買力と不況の中でも発展しているように見える経済力、増加する軍事力をもって中国がアメリカの次の世界覇権国になると明言している人も多くいます。

私は中国が中国という地域の中で覇権国になることはあっても、とても世界の覇権国になることはないだろうと思っています。なぜなら中国には米国やその前の覇権国の英国のような魅力がないからです。アメリカには20世紀中盤において他国にはない豊かさと映画などの文化、そして自由や一旗揚げる「アメリカンドリーム」といったものがありました。その前の英国にも産業革命によってもたらされた文明や科学技術、経済力がありました。他の帝国主義列強も疑似英国になることを目指していたと言えるでしょう。翻って中国が他の国々があこがれるような何かを持っているでしょうか。古い中国文化は別として共産中国には文化と呼べるようなものは皆無です。他国の模範となるオリジナルの技術や社会形態があるでしょうか。皆無です。皆さん現在の中国に移住して「終の住み処」にしたいでしょうか。今の中国にあるのは購買力と軍事力だけです。中国三千年の歴史において中国の地で覇を唱えた王朝はさまざまありましたが、現在の漢民族による共産党王朝もしばらくは中国の地において覇権国となるでしょうが、多少勢力範囲が延びることはあっても(朝鮮半島くらいまで)それ以上の国々を従える覇権国にはならないでしょう。

ノーベル平和賞に対する中国の反応をみて、私は中国はアメリカを引き継ぐ覇権国にはとてもなれないなと強く感じました。中国贔屓で目がかすんでいる人には判らないでしょうが、西欧諸国やアジア諸国にもそのことは伝わったのではないかと思います。

話しは変りますが、日光市ではこの度中国の金持ちを相手にした「医療観光事業」を本格化する検討会が学会形式で行われたというニュースがありました。中国の病院や観光業者が提携して日本において観光を兼ねて健康診断や医療を受ける事業を進めるということのようです。日本で医療ツーリズムを受けるメリットは諸外国(特にアメリカ)に比べて医者や看護師の人件費が安く、しかも医療技術が高いからだそうです。私は医師として日本人に対する医療で精一杯なのに、この上観光業者を儲けさせるために安く使われてはたまらないから医療ツーリズムには反対です。この医療ツーリズムに見て取れるのは中国の魅力を「購買力」としてしか見ていない日本人の発想の貧しさです。中国の金持ちは希望すれば中国国内でも優れた医療を受けられるし、必要とあればアメリカなりに行って高度な医療を受けることもできます。本当に中国で医療を必要としているのは中流以上の1.5億人ではなく、貧しい残り12億人の方です。12億人が現在の日本人と同様の医療を受けられるようになることはかなり意味のあることだと思いますが、金持ちに日本で金を落してもらうために我々が駆り出されるのはご免被りたいと思います。医療ツーリズムの思想は日本においても中国に魅力を感じているのは購買力のみだという証拠です。
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書評 私家版ユダヤ文化論

2010-10-03 15:33:51 | 書評
書評 私家版ユダヤ文化論 内田 樹 著 文春新書519 2006年刊

著者がユダヤ人について長年研究してきたことについて「なぜユダヤ人は嫌われるのか」について焦点を当てて解説したものです。その点題名の「ユダヤ文化論」というのには異論があって、ユダヤ文化についてはほとんど論じられておらず、巻頭言で著者本人が述べているように「ユダヤ人がなぜ迫害されるのか」「迫害されても何故変わらないのか」について縷々解説されています。もっとも私を含むほとんどの日本人にとって「ユダヤ文化」なるものには興味はないのであって、ユダヤ人について知りたいことは「何故嫌われるのか」という問題に尽きると思われるので、この本は読者の要求を十分満たすものだろうとは思います。

ただ著者のブログや前に紹介した「日本人辺境論」で見られるような明快で洒脱な論理展開がやや押さえられて、慎重で回りくどい言い方になっていることは「ユダヤ人迫害」という重いテーマを扱うことと氏の恩師であるエマニュエル・レビナス氏がユダヤ人であって大きく影響を受けてきたことに関係しているように思いました。

第一章の「ユダヤ人とは誰か」について、氏が言うように厳密な定義は民族、宗教、思想どの点からも不可能で、「非ユダヤ人でない人がユダヤ人だ」という回文のような説明になっています。しかし「軽重を問わずユダヤ教を信じてしかも血縁にユダヤ人がいる人」をユダヤ人と言っていれば私がアメリカに住んでいたときの周りのユダヤ人の定義から考えても間違いではないと思いました。ユダヤ人はユダヤ教の祭日には仕事を休みますし(キリスト教の祭日にも出てきませんが)、クリスマスはハヌカ祭をするので自然と解ります。

第二章、日本人とユダヤ人は今でも時々日本の古代遺跡などにユダヤ教的な名前がついた場所があるなどと騒がれる日ユ同祖論の紹介で、氏は明治時代、日本が大きく西洋のキリスト文明から遅れていたことの反証として、キリスト教の上をゆくユダヤ教と日本の神が同祖であると主張して日本の優位を保とうとしたのではないか、と興味深い考察がなされています。

第三章の「反ユダヤ主義の生理と病理」は、資本主義の発達とともにユダヤ人が多い経済人が社会を支配するようになったことの反発がエデュアール・ドリュモンのフランスの民族主義と結びついて反ユダヤのファシズムに発展してゆく過程を解説したものです。反ユダヤがヒトラーの専売特許ではないことが解ります。なお私は中世古代の反ユダヤの歴史は大澤武男氏の著作が解りやすいと思います。

第四章「終わらない反ユダヤ主義」では迫害されてもなぜユダヤ人が変わらないのかについて考察されているのですが、著者はその理由として二つの説をあげています。一つはサルトルの「ユダヤ人達が生き延びるために獲得してきた様々な習慣や特性がその他のまわりの人たちから傑出させ、同化させない状況を結果的につくらせてしまったのだ」というもの。そしてもう一つは師であるレビナスが唱えた「ユダヤ人が宿命的に迫害を受ける受難を神から与えられているから」(言い換えると神に選ばれた民族であると思い続けているから)ということです。本においては論理の展開上「何故ユダヤ人の知性は優れているか」の答えとして述べているのですが、本来の問いは何故迫害されるのかの方だと理解します。

「ユダヤ人は何故嫌われるのか」とグーグルで検索すると小生のブログもヒットするくらい、私もその件については以前から関心を寄せていたことは間違いないのですが、ユダヤ人が知性や芸術的才能に優れているだけならば迫害されることはないはずで、地域に根ざした各民族の生活からは突出した経済的地位を現在も含めてユダヤ人達が築いてきたこと、それが地域に根ざした各民族の生活を脅かす存在に結果的になったことが少なくとも近世においてユダヤ人迫害の根本原因になったのではないかと思います。現代においてはユダヤ人が中心となっている経済の繁栄がグローバリズムにつながっているわけです。だから「反ユダヤ人」という人を対象とした非難でなく反グローバリズムという「主義・思想を非難するものであればそれは健全なものであり、遠慮する必要もないものだと言えます。私は反グローバリズムです。

この本は著者自身「読者の方は良く解らないでしょう」と彼らしい言い訳が繰り返し出てくるのですが、その通りすっきりしない内容ではあります。しかしユダヤ陰謀論的なまがまがしい説が存在するなかで、ユダヤは何故嫌われるのかを正面から扱って、学問的客観的解説を試みた良書であることは間違いないと思いました。
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自民党は遺棄化学兵器事業の撤退を主張すべし

2010-10-02 11:13:56 | 政治
今回の尖閣諸島問題はなりゆきを見守っていたのですが、日中痛み分けの結果で米国だけ漁夫の利を得ることになりそうな雲行きです。そもそも万博期間中に外交問題になりそうな尖閣諸島の漁船をコントロールできていなかったことは中国の失点、問題が起きて中国が予想通り強硬姿勢に出て日本が土俵際まで押し切られた点で民主党内閣も失点ですが、「前世紀型帝国主義」中国の正体を世界と日本人に知らしめた点では日本の得点にもなったでしょう。アメリカは尖閣諸島も安保の枠内と明言したり、1969年の中国当局作成の地図に尖閣諸島が中国の領海外である(釣魚島の名前さえない)ことを明記した地図をメディアに出すなど日本を援護射撃して点数をかせぎました。結果思いやり予算の増額や基地問題の進展が見られれば費用対効果の面で実に効果的であったと言えるでしょう。

中国のさらなる失点は「フジタ」の社員を言いがかりを付けて逮捕したことです。これは中国にビジネスで駐在する外国人がいつでも政府の都合で人質になることを漁船の船長(政治スパイなどの重要人物なのか?)ごときのために全世界に示してしまったことです。外資頼みの中国ビジネスにとってチャイナリスクを証明してしまったことはかなりの失点と言ってよいでしょう。そして日本にとってさらに有益なのはこの建設会社「フジタ」の社員達が村山政権時の負の遺産である「遺棄化学兵器事業」のために化学兵器処理施設建設予定地の視察に訪れていて逮捕されたということです。

日本軍の化学兵器は終戦後他の兵器同様戦勝国に譲渡されたものであり、遺棄したものではありません。中国政府から処理を命ぜられた化学砲弾などの多くは日本軍のものでなくソ連や中国軍が戦後使用していたものであることも判明しています。つまり一部不十分に土中に埋めた(遺棄した)化学兵器も確かにあったでしょうが、日本軍が駐屯していた場所は明らかなのでそこを摂取して後に使用した戦勝国軍は承知の上で自国の化学兵器を同様に使用していたに過ぎません。今や世界第二位の軍事費を使い、帝国主義によるアジアの覇権獲得を進める中国に対して、我々戦後の日本人の血税を数千億円も使って中国軍の化学兵器の処理をするなどあり得ない事態と言えます。

「やる」と言ってしまった以上信用をかけて「やる」のが日本人ですから今まで金をかけて進めてきたことは仕方なかったとしても、今回中国の無理強いにつきあって遺棄化学兵器処理の準備をしていた人間を「軍の機密に関する写真を撮った」と言いがかりをつけて逮捕した訳ですから、「化学兵器という性質上、今後も中国軍に関することに近づく可能性もあり、日本人の安全が担保されないことが解ったので事業から撤退する」と宣言して良いのです。もともと因縁つけられて無理矢理数千億もの金をむしり取られる事業なのですからこちらももっともらしい因縁つけて止めればよいだけのことです。そしてそれを強行に主張できるのは野党である自民党です。無駄な事業の仕分けと村山内閣の負の遺産の処理を同時にできる絶好の機会であり、民主党としても「自民がうるさいので」と理由をつけて中国政府にも言い訳する顔がたつというものです。

戦後の自民党政権時代には社会党に強行に反対させることで、日本はアメリカの戦争につきあわされることをうまく逃れてきました。今度は野党となった自民党が国益のために働く番です。遺棄化学兵器事業のために中国入りしていた日本人を逮捕するという「中国政府の大ちょんぼ」を大きく利用しないでどうする、テレビでは「尖閣諸島問題を国会で攻める」などとピント外れのことを石原さんは述べてましたが、今回の件は自民党政権であっても結末は似たり寄ったりなのだから「結果が国益につながる知的な攻め」をして初めて自民党を見直すことができることを自民党のブレインたる人は指導してほしいものです。
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