rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

健康な人を「病気になる」と脅して薬を飲ませるような医療はもう止めよう

2014-05-28 23:17:10 | 医療

日米で降圧目標値が緩和 あらためて血圧を考える(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース

国民は「今具合が悪いから診てほしい」という救急医療は望んでいますが、医療者はリスクが高く、24時間拘束され、専門外の苦手な分野も扱わねばならない救急医療や急性疾患の医療は敬遠しがちです。逆に適当に検査をして異常値を見つけ、見かけの異常値を正常化させる薬を出す「予防医療」はリスクも少なく何事も起こらない事をもって「予防医療がうまくいっている(急性疾患の発症を抑えた)」と自慢でき、継続して患者を確保できるので仕事も楽であり、やりたがります。製薬会社や薬局も慢性疾患や予防医療の薬は売り上げの多くを占めるので有難がります。結果的に健康診断における正常値はどんどん狭められてきたというのが今までの経緯でした。

以前も述べたように正常値を示す人にも急性疾患を発症する人は必ずいます。正規分布において偏差値の端にいるような明らかな検査値異常者に薬物療法を行うことは万人が認める所だと思いますが、統計的なわずかな有意差を根拠に予防医療の「治療適応を広げる」という表現で後ろめたさをごまかすような予防医療はそろそろ止めにしたほうが良いだろうと私はずっと主張してきました。それがやっと国際的潮流になってきたのだろうと思います。

「人生にとって本当に必要な薬はせいぜい一日3−4種類だ」とは私が外来で胃薬や痛み止め、高脂血症の薬や抗凝固薬、睡眠薬などで10種類以上の数えきれない薬を飲まされているお年寄りに話す言葉です。そんな年寄りに頻尿の薬は不要ですし、前立腺肥大の薬を続けるくらいならば手術をしてしまった方がよほど良いです。他の先生が出している薬を勝手に止めることはできませんが、大抵の不定愁訴は「老いを受け入れる」ことで解決します。糖尿や重症の高血圧、脳梗塞や心筋梗塞の既往がある人の再発予防の薬剤が重要であることは否定しませんが、健診の軽度異常を示した人を病人に仕立てて薬を出すような恥ずかしい医療はもう止めるべきです。

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人権よりも市場原理を優先させる米国の法制度紹介

2014-05-15 19:41:03 | 書評

堤 未果 氏の「貧困大国アメリカ」シリーズの3作目は(株)貧困大国アメリカ 2013年 刊 岩波新書 1430 ですが、全編に渡って現在の「人権よりも市場原理を優先」させるに至った米国のしくみを適確にまとめているので、通常の書評ではなく、ここに紹介された米国の法制度について備忘録として箇条書きにまとめてみました。

 

○ SNAP (Supplemental Nutrition Assistance Program)

貧しい人達のために食料品を現物給付できたFood stamp制度に変わって2008年から登場したクレジットカードで週29ドルまで食料品を買える制度。受給者は全人口の14%を超え、年間予算は750億ドルに達する状態だが、ウオルマートなどのスーパーやクレジット会社の大きな収入源になるため政府は受給者拡大を促進している風がある。食品の4大小売業者(ウオルマート、クローガー、コストコ、ターゲット)にも得点。

 

○      レーガン政権による独占禁止法の規制緩和

食肉業界などの寡占化を促進し、中小の独立した企業が消滅。大企業のスケールメリットを生かした安くて豊富な商品展開が可能になった反面生産者は奴隷的労働を強いられる状況になっている。

 

○      レーガン政権によるHACCP (Hazard Analysis Critical Control Point) 規準の規制緩和

食品の製造過程における安全審査規準を緩和し、企業側に審査を任せることで安く早く食品を商品化することを可能にした処置。4大食品生産業者(タイソンフーズ、クラフトフーズ、ゼネラルミルズ、ディーンフーズ)にとって有利な状況を作り出した。

 

○      反内部告発者法(HR0126)

アメリカ州議会交流評議会(ALEC)によって複数の州で可決された不法な工場や家畜施設などの内部を撮影し、告発しようとしても企業秘密漏洩罪として罪に問えるとする法律。悪い事はやった者勝ちという法律。

 

○      オーガニック食品生産法 (Organic Foods Production Act)

1990年から2000年にかけて形成されたオーガニック食品について認証する規準を定めたものだが、申請規準が複雑で巨大メーカーでないと認証されにくい結果となり、良心的な中小の企業の経営を圧迫する結果になっている。

 

○      モンサント保護法 (HR993-735)

2013年3月成立、遺伝子組み換え作物で消費者の健康や環境に被害が出ても、因果関係が証明されない限り、司法が種子の販売や植栽停止をさせることは不可とする。というもので遺伝子組み換え作物普及にフリーハンドの許可を与えたに等しい法案。「何が起きてもおとがめなし(どうせ因果関係の証明はできないし、認めないと宣言)」というお墨付きを与えた法案。

 

○      食品安全近代化法 (S501=FSMA)

2011年11月成立、バイオテロ防止という名目でFDAが定める食品の全てについて、栽培、売買、輸送する権利を政府が規制するというもの。大企業の行う大規模農法のレシピに沿わない中小の農業を許可を出さないという方法で駆逐するために利用されている。

 

○      落ちこぼれゼロ法 (No Child Left Behind Act)

ブッシュ政権が導入した学校同士で成績を競い合わせて、成績の悪い学校には補助を出さないという法律。底辺の学校を破綻させて替わりに営利学校(Charter school)が導入されるきっかけとなっている。

 

○      非常事態管理法

2011年にミシガン州で成立した州法で、破産に瀕した自治体の財政立て直しのために州が指名した危機管理人が住民の意思にかかわらず自由に公共サービスの停止や公務員の解雇を行って良いとする法律。公立学校の廃止や警察や消防の統合化で住民サービスは悪化している。

 

○      労働権法 (Right to work)

2012年から州毎に導入されている労働組合への加入と支払いの義務を廃止する法律で、雇う側(資本家側)が一方的に有利になるから企業が誘致しやすく、雇用も増えるという理屈。南部を中心に半数以上の州で導入済み。

 

○      正当防衛法 (Stand Your Ground Law)

2005年にフロリダ州で成立したもの。身の危険を感じたら公共の場でも殺傷力のある武器の使用が認められ、場所が自宅や車内であれば傷害致死であっても罪に問われることはない。正当防衛の立証責任も被害者側のみに義務づけられる、というもの。相手が有色人種やイスラムならば「殺した者勝ち」といえる。

 

○      テキサス刑務所産業法 (Texas Prison Industries act)

1993年に成立。刑務所労働への企業参入を許可する法律。獄産複合体の成立に貢献。

 

○      市民連合判決 (Citizens United)

2010年1月合衆国最高裁が「企業による選挙広告費の制限は言論の自由に反するから上限を設けない」という裁定を出したもの。企業献金の上限撤廃を意味し、政治・政府が大企業の都合に合わせて行われることを合法化したものと解釈される。企業は米国籍を問われず、日本のトヨタやサウジアラビアのアラムコなどグローバル企業が自由に献金して米国の政治に口出しできるようになった。州法成立を助けるアメリカ州議会交流評議会(ALEC)の企業会員として活動することで州議会において自企業に有利な法律を作ることができる。

 

同書ではこのような近年成立し、「民主主義や人権よりも市場原理主義を優先する」法律が紹介され、「市場原理主義に乗っ取られた病める米国の姿」が浮き彫りにされます。米国とTPPを結ぶということは、このような法制度がグローバルな常識として日本にも強要され、日本社会がかき回されることを覚悟しないといけないという点で、紹介する意味は十分にあると思われます。私が留学していた1990年前半ならばまだ「このままニューヨークに住んでいるのも良いかな」と思えましたが、今の米国の姿はとても住みたい国ではありません。「理不尽でも合法ならば正義」とする社会にあなたは耐えられるでしょうか。

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戦後秩序維持を米中がこだわる訳

2014-05-07 21:56:21 | 歴史

1)はじめに

 

中韓が慰安婦や靖国神社参拝などの問題に執拗にこだわるのは、自らの政権が依って立つ基盤の脆弱性を日本の敗戦にまで遡って「悪に対する正義」として自分達の政権が存在することを自国民に訴え続けなければならないという明確な理由があるからですが、ブッシュ政権において小泉総理が靖国参拝にこだわりを見せてもあまり問題視されなかったのに対して、オバマ政権が安倍総理に対して「戦後秩序の維持」という概念を強調し始めていることは、「単に安倍総理が戦前回帰を目指しているように見えるから」というだけに留まらないように思います。

 

2)現在考えられるところの「戦後秩序」の正体とは

 

そもそも「戦後秩序」とは何を意味するかというと、「第二次大戦における連合国は枢軸国というファシズム国家群に対して、自由と民主主義を守るための正義の戦いをした」という戦争に倫理観を持たせることで、戦後の世界のあり方(戦勝5大国による世界支配)が「倫理的に正しい姿」であるという意味付けだと思います。ソ連のスターリニズムがいかに独裁専制的であったとしても、スターリンをヒトラーになぞらえる事は、冷戦中の米国でさえ行われた事はなく、実態はどうであっても共産主義体制はファシズムとは異なるものとして「自由と民主主義」の一部と捉えるよう規定されてきました。むしろ社会主義体制こそ望ましい民主主義であると真剣に信じている人達が日本を含む世界についこの間まで多数いたのです。本来「・・人民共和国」というのは「主権在民の共和制に基づく民主主義国家」を意味する言葉です。

 

しかし90年代まで続いた東西冷戦が戦後秩序の概念を複雑にしました。ファシズムとの戦いは明らかな倫理観に基づく善なる戦いであったことはある程度万民が納得できるものでしたが、ソ連を中心とする社会主義国家と西側資本主義諸国の戦い(冷戦)は倫理的善悪に基づくものではなく、社会・経済体制としてどちらが優れているかという漠然としたものであり、西側・東側という米ソの勢力範囲を競うものであることは明らかでしたが、実際に戦われた朝鮮戦争もベトナム戦争も倫理的に善悪はなく、しかも決着もつかないという中途半端なものでした。ところが戦後50年近く続いた冷戦が、「資本主義体制を取る西側民主主義国家vs社会主義経済体制を取る共産主義国家」という「政治体制と経済体制」がセットになった状態での対立であったことから、ソ連を中心とした東側陣営が崩壊した時に、「資本主義体制と西側民主主義国家」がセットで勝利した結果になりました。実際東側陣営が崩壊したのは、社会主義経済がうまく機能しなかったからに他ならない訳で、西側の民主主義政治体制が勝利したのではなく、「資本主義が勝利をした」というのが現実だったと言えます。

 

3)東側の崩壊は経済がきっかけだが、人々が望んだのは今の資本主義経済か

 

ここで大きな勘違いが生じます。西側が標榜していた民主主義体制と経済体制である資本主義は本来別物であったのですが、東側の社会主義と社会主義経済が一体であったために「セットとして矛盾がないもの」と勘違いされてしまったのです。特に原始的な資本主義である市場原理主義は明らかに民主主義国家体制とは相容れない対立する概念を含むものであるのに、東側が崩壊したことで西側の民主主義体制と資本主義が共に矛盾なく優れた物として認識される事になりました。そしてこの体制が戦後秩序の一つとして組み込まれることになったのです。確かに社会主義経済がうまく行かなかった事がきっかけでソ連は崩壊したのですが、東側の人達が真に望んでいたのは資本主義経済になることではなく、言論の自由などの政治的・生活の自由であったはずです。だから政治的な自由は得たものの、経済体制が資本主義になった事で却って生活が苦しくなって様々な弊害がソ連東欧諸国に出てきており、それがウクライナを始めとする種々の紛争の原点になっているのです。

 

「戦後秩序」の意味するものが「ファシズムに対して自由と民主主義を守る」事であるという本来の定義を思い出して下さい。戦後の東西冷戦で資本主義経済体制を取る西側民主主義国家と社会主義経済体制を取る東側社会主義国家では、西側が勝利を治めたのですが、それは経済体制において勝敗がついただけで、東西どちらも「戦後秩序の範囲」において行われていた争いに過ぎません。従って「東側諸国も資本主義経済体制を取れば政治的な体制まで変える必要はない」という理屈が成り立ち、実際それを実践したのが中国です。しかも「資本主義体制を取ることで中国も西側的民主主義国家になるだろう」とセット体制による冷戦の終結を単純に信じていた西側諸国の人達を裏切る結果となり、むしろ経済体制だけ変えれば共産党独裁国家が維持できることを証明してしまいました。それ以上に、市場原理主義は一党独裁国家との相性が良いかもしれないと「グローバル企業による資本主義」に対立する概念としての「国家資本主義」が台頭するにつれて認識されるようになってしまいました。つまり現在の中国は「倫理的善である戦後秩序を体現している状態である」と戦後秩序という言葉によって強調する事までできているのです。

 

民主主義と市場原理主義は対立するものです。(共産主義)独裁体制とファシズム(国家社会主義)は同一なもので、人類の未来のために共に葬り去らなければなりません。

 

皆薄々この事実には気づいてきているのですが、国際社会で声高にこれを叫ぶことは「戦後秩序に反する」と批難され、タブーとされます。実はこれを叫ばれると大変困る人達、既得権益者達があまりにも大勢いるのです。市場原理主義者は人間の尊厳よりも市場原理を優先します。自由な市場において強者のみが勝つことを何よりも優先してしまいます。人権や政治的自由が尊重されてきた西側諸国において何故市場原理主義者がはびこるようになったのか、その秘密は、私はキリスト教、特にプロテスタンティズムを奉ずる一神教的精神構造に原因があると私は考察しています。

 

4)倫理的善悪をめぐる二重構造

 

ここは前のブログである「米国医療の光と影」「倫理的善悪の違いが歴史観に反映する」で述べてきた内容と同じになります。つまり倫理的な善とは神との契約において扱われるものであって、基本的人権といったものはそちらに属するのですが、経済に関する事などは論理的に正しいかどうかで決定されるのであって、rationalであれば理不尽でも正義であるとするキリスト教(特にプロテスタンティズム)独特の思考方法(Ethos)によるものと思われます。不満があれば裁判でrationalityを争いなさいという考え方です。我々日本人は自分の属する集団にとって利益がある事を「倫理的善」と判断する習慣が自然と身に付いているからなかなか彼らの思考方法を理解することはできません。明らかに行き過ぎと思われる市場原理主義もそれが「合法」であるならば「どんなに理不尽な内容でも正義」となり服従しなければ罰せられます。TPPやFTAでの細かい点での合意による締結に米国が拘るのはまさに「理不尽でも正義」と相手の言い分を突っぱねられるかどうかの合法性がここに関わってくるからです。

 

5)今後どうあるべきか

 

敗戦国である日本が「戦後秩序」という言葉に対抗することは容易ではありません。「日本の戦前は倫理的な悪ではなかった」事を種々の資料をあげて証明しようとする試みも大切ではありますが、本質的な解決にはならないのです。何故なら「戦後秩序」を持ち出す目的が「市場原理主義」と「共産党独裁国家であってもファシズムではない」ことの正当性を強調するために使われているからです。日本の戦前がどうであろうとこれを持ち出している人達にとってはどうでも良い事なのです(言われている日本人としては虚偽であり、不愉快で居心地が悪いものであることは当然ですが)。むしろ彼らにとって困るのは「市場原理主義が民主主義と対立すること」「(共産党)独裁政治がファシズムと同じであること」を証明されてしまうことです。私はこの問題の解決の糸口となるのは宗教ではないかと考えています。

 

○      二重構造を持たないイスラム教的生活

 

書評「一神教と国家」において同志社大学神学部元教授で自らもイスラム教徒である中田考氏も述べていたように、同じ一神教でもキリスト教と異なりイスラム教は宗教と日常生活が分かれておらず、神との契約が日常生活全てを支配します。プロテスタンティズムにおいては得てして「我欲と煩悩の追求」を神との契約とは別個の善悪の判断によって都合良く正当化しているように見え、異教徒からはダブルスタンダードにしか見えないことが多々あるのに反して、イスラム教徒のエトスは信教の度合いはいろいろあるでしょうが、一貫しているように思います。そこが逆にプロテスタンティズムに基づく社会正義からは敵視したくなる部分であるかも知れません。しかしイスラム教的生活の方が市場原理主義にない、人間性を第一に考えた生き方であると異教徒である我々が認めることは市場原理主義者達にとっては耳の痛い話になると思われます。

 

○      日本的善悪の思考法を広める

 

宗教的思考を離れて、自分を含む皆の利益になることが倫理的にも良い事であり、理に適っている(合理的である)ということを真っ向から否定することは難しいことだと思います。環境問題などはまさにこの理屈から導きだされるものです。

 

○ 独占の禁止による人間性への回帰

 

米国医療の光と影で李 啓充氏が私の質問に答えて述べていたように、「行き過ぎた市場原理主義に対する人間性への尊重への揺り戻し」がいつかは起こってくるであろうことは間違いないと思います。1%の経済的に豊かな強者と99%の貧しい人達が共存して民主主義を続けることはできません。必ず強権による弱者の支配が生まれ、それに対する暴力的抵抗が生まれ、革命が起こるか、望むらくは非暴力的な人間性への回帰によって、より継続可能で皆が幸せに暮らせる社会へ発展してくれるものと期待します。独占の禁止(富に上限を設ける)、この一点を成し遂げるだけでも数多くの問題が解決することは間違いありません。時間はかかるでしょうが、丁寧に21世紀の明るい未来のために少しずつ前進させねばならない問題と思います。

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米国医療の光と影に見るダブルスタンダードの正体

2014-05-01 00:05:52 | 医療

神戸で開催されていた日本泌尿器科学会102回年次総会に出席してきました。100回の時にはiPS細胞の山中教授の講演などもありブログにも書きましたが、今回の総会では元ハーバード大学医学部准教授でコラムニストの李 啓充氏(京都大学卒の内科医)の「米国医療の光と影」と題する講演が印象深かったので備忘録を兼ねて記しておきます。

 

氏は日本医師会の新聞にも連載のコラムを執筆されており、米国医療についての単行本も多く書かれているので以前から知っていたのですが、今回直接講演を聞く機会があり、また普段から私が疑問に思う点などを直接会場で質問することもできたので有益だったと思います。

 

まず米国医療の光の部分の説明から入りました。

・   米国の医療は徹底したインフォームドコンセント(説明と同意)が行われて、患者が本当に納得した医療でなければ行われることはない。

・   医療を拒否する権利も徹底しており、無駄な延命や本人の意思に反した延命は拒絶できる。日本では一度付けた人工呼吸器を外せないようだが、これは人権侵害であり、始めから呼吸器を付けないという方針も途中で外すことと同じ行為であり、あくまで個人(家族または意思決定権者)の意思が尊重されなければ本物ではない。

 

一方で影については

・   人口の30%は無保険者であり、十分な医療が受けられない状態にある(オバマケアで改善されつつある)。

・   医療費が高く、市場原理主義の医療で、民間保険の儲け主義がまかり通っている。

 

これらの内容についてご自身が病気で手術を受けた体験を交えて具体的に例示してくれました。本にも書かれていることなので差し支えないと思われますので、ここでも書きますが、大腸の悪性腫瘍でハーバード大学の病院に入院、手術を受けた際、主治医と良く相談して内視鏡的手術を受けることになったにも関わらず、入院直前になって保険会社から「開腹手術でしかも人工肛門を付ける普通の手術でなければ保険は支払われない」と通知を受けてしまいました。カルテによる詳しい検討もなく、インフォームドコンセントも全く無視で一方的に治療方針の変更を保険会社が決定してくる、しかもその決定には普通逆らえないという不条理がまかり通っているということです。氏は自分の医師としての知識とつてを頼って何とか決定に対して不服申請をして2ヶ月後に認められ、3ヶ月後に無事予定された手術を受ける事ができたということです。しかも病院からの請求額が入院費650万円、ドクターフィー500万円であった所、保険会社が一方的に値切って120万円(9割り引き)になったという。これが無保険者の場合値切ることができず、払うか破産する他手がないということです。

 

どうも光と影のバランスがおかしい。これは他の分野でもよく見られるその時の都合で理屈を使い分ける欧米人特有のダブルスタンダードではないかと私には思われました。そこで1)受ける医療については自分の意思が最も尊重されるというが、人工妊娠中絶については必ずしもその原則が守られていない点はどう説明するか。2)市場原理主義がインフォームドコンセントよりも優先される事態、「合法であれば理不尽でも正義」という現状を米国社会は論理(倫理?)矛盾として扱わないのか、について質問してみました。

 

氏の答え、1)については、児の生きる権利をどこまで尊重するかと、やはり宗教的倫理観によって制限が出てくるのだが、女性が妊娠について自己決定する権利は尊重されるべきだとする意見が強い、ということ。2)については、時代によって人権が市場原理よりも強くなったり、逆になったりするのだが、今は市場原理が強くなっている時代と言える、今後はまた変わるかもしれないということでした。

 

ある程度納得できるものではありますが、私は別の考えを持ちました。つまり前から述べているように、日本人と一神教である欧米人とは物の善悪を決める基準が違うことがダブルスタンダードに感ずる原因ではないか、ということです。人権の尊重は「神の法」に属することであり、神との契約の上で守らなければならない事です。一方で市場原理主義は人間同士の「王の法」「人間同士の契約」に属することであり、モンテスキューの法の精神でも述べられているように「銃で脅されて結んだ契約であっても契約であるなら守らねばならない」という合法性についての厳しい考え方に基づいているのであり、不服があれば裁判で合法性について争いなさいということになっています。李氏も保険会社から手術法の一方的変更を迫られた時、インフォームドコンセントを尊重して保険を脱退するか、不服として裁判(この場合は書類審査でしたが)に訴えるかの選択を迫られて後者を選んだのですから、結果的には欧米的な「法の精神」の考え方に従った行動と言えます。

 

キリスト教を純真な心で布教しておきながら、後から侵略して植民地にしたり、奴隷として住民を連れ去ったりすること、「慰安婦は人道に反する」などと言いながら原爆は平気で落としてホロコーストをすること、クジラ漁は残虐だと批難しておきながら、工業的養鶏や畜産で動物虐待を平気で行うことは、我々から見ると身勝手なダブルスタンダードにしか見えませんが、もしかすると欧米人の心の中ではある程度整理のついた「正義の判定基準が違う事態」なのかも知れないと感じました(それでも納得はできませんが)。

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