rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 沈黙のファイルー瀬島龍三とは何だったのかー

2012-06-25 00:15:51 | 書評

書評 「沈黙のファイル」瀬島龍三とは何だったのか 共同通信社社会部編 新潮文庫6322 平成11年発行

 

私の「同好の士」の間で国際情勢を知る文献として愛読している「ゴルゴ13」の近刊(といっても大分前に連載されたものの復刊)に戦後裏面史として瀬島龍三氏をモデルとして書かれたであろうストーリーが載っていました。そこでは主人公は関東軍の参謀として勤務する際には既にソ連の間諜になっていて、日本兵を使役としてソ連に売ってシベリア抑留を決定づける代わりに北海道進駐をスターリンに諦めさせ、戦後はアメリカの庇護下でアメリカに阿ることで日本経済を発展させ、結果的に日本を豊かな国にするという深慮遠謀の人物として描かれていました。最後はゴルゴの一弾に倒れる運命なのですが、ストーリーは実に面白かったです。そこで実際の瀬島氏の生涯を精査して日本の歴史との係わりを述べたこの本を読む事にした次第です。

 

瀬島龍三氏は1911年生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学校を抜群の成績で卒業し、戦前から戦中にかけて参謀本部で作戦参謀として日本の戦争を計画・俯瞰できる立場で過ごし、終戦間際に関東軍総司令部に転出、シベリア抑留、東京裁判にも証人として出廷、その後抑留生活に戻り、11年の抑留生活の後帰国します。その2年後、私の生まれた年である1958年に旧軍のつてで伊藤忠商事に入社、インドネシア賠償ビジネス、日韓条約ビジネス、自衛隊創設後の防衛ビジネスを契機に氏は社内で昇進してゆくと同時に海外や国内の政治家とのつながりが広がってゆきます。1978年には伊藤忠商事会長、日本商工会議所顧問、1981年第2次臨調委員としてで国鉄、電電公社などの民営化に係わり、その後中曽根内閣や竹下内閣の相談役として日本の政治に係わってゆきます。

 

抜群に優秀で、抑留生活を除いてどの時代においても日本の国家の中枢に近い場所で活躍した氏の生涯については、頭書の劇画に描かれたように様々な謎や憶測がつきまとっています。参謀時代の戦争の遂行における責任、関東軍参謀として将兵のシベリア抑留決定についての責任、東京裁判での発言、抑留時代の特別待遇、帰国後の政財界における活動とソ連との関係、氏の本性は国士なのか我利追及の偽善者なのか、氏が存命中活躍している割に多くを語らなかったために多くの足跡がどのような意図をもって行われたのか良く判らないというのが実情です。もしかすると東条英機や山本五十六に劣らない決定的影響を日本の歴史に及ぼした人物かも知れないのに(例えば米軍駐留経費の一部を日本が持つという思いやり予算を発案したのは瀬島氏らしい)、表の歴史において語られる事の少ない人物の一人と言えるでしょう。

 

複数の共同通信社の記者の共著という形を取っているので、思い込みによる一方的な描き方にならず、多くの参考文献と実際に氏と係わった人達へのインタビューを中心に構成されていて、内容は非常に説得力があります。また氏の生涯のみでなく、大戦前から戦中にかけての参謀本部の様子、北進か南進かの選択、服部卓四郎や辻政信らの言行など興味深い記載も多く、太平洋戦争開戦がどのように決定されたか、ガ島敗戦の経緯なども判ります。戦後の賠償ビジネスで商社と相手国の政府首脳がどのような取引をしたかといった記載、シベリア抑留の日本兵達が帰国と同時に日本共産党本部に直行して報告した事態の背景(ソ連に洗脳されて帰国した説がありましたが、実は厳しい環境の下、抑留者向けに作られた日本新聞によって自発的に旧軍の体制を逆転させる民主化革命が広がって結果的にあのようになった)など、私の知らなかった事が満載な内容でした。圧巻は当時のソ連軍で抑留者の管理にあたっていたイワン・コワレンコ氏とのインタビューで、抑留者の生活、抑留者からのスパイ養成、瀬島氏の生活などが直接語られている事です。

 

この本から受ける印象では、瀬島氏の人生というのは、その場において与えられた環境において最も良いと論理的に思われることを全力で遂行し、結果的に周囲や国の為になれば良い、ということをやり続けてきた人生のように見えます。自己の利益のために卑怯なことを平気でするということもなければ、信念を貫くために自己犠牲を厭わないタイプでもない。ソ連のスパイであったということはないでしょう。氏の性格は優等生で抜け目がなく、実務に優れるというリーダーというより参謀タイプの人です。氏が日本の国益を考慮していたことは認められるものの、ではどのような国家に日本がなるべきか、国民はどのような生活をすれば幸福になるかということは実はあまり考えていなかったのではないか、というのが私の瀬島龍三氏についての感想です。

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日本人は中庸を好む民族である(と思う)

2012-06-24 20:30:25 | 政治

日本人は感情で物事を決める民族である、とか極端から極端に動く民族であるとか言われます。確かに論理的に物事を考えて論理的に正しい結論を決定事項に選ぶことはしていないようにも見えます。戦争に敗けると鬼畜米英・八紘一宇からギブミーチョコ、絶対平和主義に変りました。最近でも原発安全神話が壊れると原発停止まで一気に進みそうな勢いでした。しかし私は「感情的で極端に走る民族」という決めつけは当たっていないように思います(むしろそれはお隣の半島系の国の人達が当てはまるように思いますが)。

 

昨年の福島原発の事故の際、悪い状態を想定した情報を出さなかった理由を民主党政府は「国民がパニックを起こすから」と言い訳していましたが、明治維新、敗戦、阪神淡路の地震、今回の津波災害、いつの時代においても国民がパニックを起こして秩序が崩壊し、収集がつかなくなった歴史はありません。今回、整然とした組織立った行動ができなかったのは政府だけで国民は極めて冷静沈着に行動し助け合いをしていました。「自分たちがどうして良いか判らなかったから」と正直に言えば、次にどうすれば良いかという反省や改善につながるものを「国民が・・」と他人のせいにして片づけたことで政府は次も同じ誤りを冒すことを我々に示した事になります。

 

国会ではいつの間にか「消費税増税」が現在の日本にとって喫緊の政治課題ということになって、日本国家の明るい未来と国民の幸福のためには増税するしかない、と与野党が合意し、数日内に法案成立へと向かっています。殆どの日本国民は消費税が5%から10%になったからといって飢え死にすることはないと考えていますし、法案成立に抗議して焼身自殺する人もいないでしょう。(但し経済的理由で自殺をする人は毎日後を絶ちませんが・・。)「国民がパニックを起こすから消費税増税はしない」と言わない所を見ると、今回は政府も日本人が冷静であることは見越しているようです。私を含む日本人の大勢は、一般会計における日本の借金がGDPの倍に達しようという事態は問題であると考えていますし、ある程度増税はやむを得ないと考えています。但し「徴税」というのは我々が汗水垂らして働いた給金を搾取する行為なのですから、取られる側としては「納得できる理由」を説明して欲しいと考えます。それは「財政再建をするにあたって、これだけの増税によってこのような資金計画が立ち、・・年で財政再建ができます」という青写真をきちんと示すことです。増税だけでは不可能ならば、国家資産や他国には存在しない特別会計も一般財源に取り込んだ上で総合的にこの形で財政再建ができます、といった具体的な計画をマスメディアなどを通してしっかりと発表すれば、多くの日本人は増税にも賛成するでしょう。「特別会計と一般会計の統合など無理です」と言われるだろうことは想像できますが、それはつきつめれば役人が自分たちに甘い行動しか取れない、と言っているに過ぎないと考えます。所詮人間の考えた「しくみ」にすぎないものは「やる気」があればどのようにでも変えることは可能なのです。

 

日経BPの小田嶋氏のコラムpiece of cakeに原発再稼働に際して、<日本人で「絶対に全ての原発を再稼働すべし」と言っている人も「絶対に一機も再稼働させてはいけない」と言っている人もごく少数であり、大多数の日本人の意見は「直ぐに全て廃止することは不可能としてもいずれは原発依存はやめるべきだ」と考えているのだから政府はこの大多数の意見に沿う決定をすれば支持されるのである>と述べている個所がありましたが、これは至言だと思います。例えば今後20年で全ての原発は廃止する、それまでの間は必要最小限の稼働を続けながら代替エネルギーの開発拡充に努める、その具体的青写真は以下の通りである・・といった具体的計画を示せば政府の支持率はかなり上がるはずです。この具体的計画が示せないのは「20年で廃止」といった明確な意思表示を責任問題を楯に否がる役人と日本人のごく一部からなる利権を持った人達が抵抗するからです。1年後どうなっているか判らない民主党政権のためにいままで「推進」の方向で来た原発を「廃止の筋書き」を作るなんて後々何といわれるか、将来の天下りで割を食うのが否な官僚としては時間稼ぎでもしてごまかしてしまいたい所でしょう。結局この一部の人間の「思い」や「決定」がいつの時代も日本全体の決定に反映されてしまうから大多数の国民の「穏当な思い」が反映されずに極端から極端に動くことになるのだと私は思います。

 

日本人はほどほどの常識的な結論を好むし、大人の対応としての妥協もできる中庸を好む国民性だと私は思います。その寛容な国民性に甘えて自分たちは一切妥協をしないのが官僚機構であり、事務仕事をサボタージュするぞと脅されると全て彼らのいいなりになってしまうのが今の民主党政権なのでしょう。感情的でもなく、極端から極端に動く結論にならないためにも、せめてマスコミだけは政府や役人の代弁をするのではなく、ネットに溢れる(政治的意見を述べるブログは少ないですが)サイレントマジョリティの意見を吸い上げてくれればと思うのですが。

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iMacのアドホック無線LAN環境でカラリオEP804に繋ぐ奮闘記

2012-06-20 22:50:06 | その他

10年前にiMacを購入して(実は送別でもらった物)以来システム9が使えるという利便性や、Windowsの様なウイルスやシステムのまめな変更がなく、重くなって遅くなるといったうっとうしさがないため、ずっと使い続けてきたのですが、Officeのバージョンも古くなり動画系も良く動かなくなってきたので新しいiMacに変えました。ついでに無線で印刷やスキャナもできるEpson EP804Aも購入して職場にセットしました。

 

Macは説明書を読まずに使えるというのが伝統で、私もMac classicに始まり今まで数台のMacを購入してきましたが、ソフトを除いて説明書を読む事など殆どありませんでした。プリンタとの接続など目をつむってでもできると思うのが普通ですが、今回は全く勝手が違うことに驚きました。いや単にUSBで接続するだけなら繋ぐだけの話しですが、Air print対応と書いてあるからには無線状態で使いたいじゃないですか。それがプリンタ付属のCD通りにやってもさっぱり理解不能、Aの解説書を見るとBを参照と書いてあって、Bを見るとAを見ろと書いてあり「埒があかない」というのはこの状態のことだと痛感しました。

 

どうもデフォルトの設定は室内に無線LANルータがあって、それを中心に複数のパソコンやプリンタがつながっているという想定で説明がしてあるようで、その想定外の設定の場合は極めて面倒な(非日常的)操作が必要になるということが判りました。私は職場の部屋に病院設置のLAN端末があって、それをパソコンに繋いでいるので新たに無線LAN環境を構築する予定はありません。iMacは近距離の情報伝達のためにblue toothという装置を持っていて、マウスやキーボードなども対応していれば無線環境で操作ができます。プリンタもblue tooth対応であれば何の問題もないのですが、Epson EP804は対応していません。

 

どうも私の場合、iMacに独自のWi-Fi環境を新たに構築して(ad-hoc無線LAN構築)その環境にプリンタを同調させる必要がある、と理解するのに一日かかりました。以下備忘録および意外に多いのではないかと想像される同じ事態でお悩みの諸兄の参考までに実際の手順を記しておきます。

 

まずはプリンタのドライバをiMacに入れないといけないので、これはプリンタ付属のCDに従って行ないます。ここで一時的にUSBでMac本体とプリンタを接続してください、と言われるので言われるまま接続します。実はこれが後のトラブルの元になるのですが、この時点ではしかたがありません。入れた後はad-hoc無線LAN環境の構築になります。これはMacおなじみのファインダの右上にあるインジケータの一つであるair mac(無線LANの表示)の状態表示をクリックして「ネットワークを作成」を選択して装置独自のネットワークを新たに作る設定をします。ここで「名前」と最初に出てくるのがプリンタ側で選択を要求されるSSIDの名前になるのでRAKITA11みたいな判りやすいものにする必要があります。ここで11というのは自動で選択されるチャンネルの意味です。また40ビットWEPというセキュリティがかけられるのでパスワードも英数字5文字で設定する必要があります(これも後からプリンタ側で設定時に入力必要)。しかもiMac本体が今自身が構築したLANと接続する、という状態に設定する必要があります。

 

次にプリンタ側に移って、セットアップ画面からネットワーク設定を選択して、手動設定を選択、そこでいくつか表示されるかもしれない(近くで無線LANが使われている場合)SSIDの中から先程自分が構築したRAKITA11を選択し、次の画面でセキュリティのためのパスワードを入力して「確定」させます。するとしばらくすると「設定が完了しました」という表示が出てプリンタ側の設定が終了します。

 

普通奮闘記はこれで終了ですが、実際にiMacからEP804に印刷をかけてみると、「プリンタがオフラインです」という表示が出て一向に印刷されません。ここでいくらヘルプをかけてもUSBの接続やら電源の確認やらの説明が出るだけで何の解決も示されず途方にくれます。iMacの無線LANにプリンタのMAC アドレスを認識させる必要があるのかとあれこれ開いてみますがさっぱり判りません。この手のトラブルは実は皆さん頻繁に経験しておられるようで、Googleでプリンタオフライントラブル云々で調べて見たら解決策を示してくれたブログがありました。

 

Macのシステム状態からプリンタの部分を見て見るとプリンタがUSB接続になっていることが判るのですが、これは最初のドライバ導入の時に一時的にUSBでプリンタと接続しながら行なったことで自動的に設定されたものです。だからUSBを外している限り「プリンタがオフラインです」と表示されてしまう結果になります。そこで、iMac上でワードでも何でも印刷できる媒体を印刷にかけて、そのプリンタ設定画面で新たなプリンタの追加を選択すると何故かEP804の他にEP804-2という新しいプリンタが現れます。実はこれがair macで新たに認識された無線LAN上のEP804なのでこちらを選択すれば良いのです。これはシステム環境設定を始めに開いても出てきません。何かをプリントさせるオーダーを出してプリンタ設定画面を出さないと出てこないというどのマニュアルにも書いていない裏技になります(こんな裏技普通出てこないぞ)。

 

ちなみに無線LANでスキャナを使うためには、Docにスキャナのアイコンを表示させる必要がありますが、iMacはデフォルトで見慣れたハードディスクのアイコンが示されなくなっているので、まずFinderの左上のリンゴマークの右にあるFinderの文字をクリックしてFinderの環境設定を表示し「ハードディスクを表示させる」設定に変えます。そこからアプリケーション、Epson Software、Epson Scanの設定をクリックしてスキャナーの選択をネットワーク接続にしてネットワーク上のEP804のスキャナを選択すれば使えるようになります。後はスキャナのアプリをドックまでドラッグしてきてドックに追加しておけばすぐに使えると思います。

 

自分はそこそこコンピュータには強いと思っていたのですが、たかがプリンタとの接続がここまで「自分で努力してね」状態の複雑なものとは予想もしませんでした。果して世の中は便利になっていると言えるのか、いろいろと勉強させられた2日間でした(勿論外来や手術も忙しくやってましたがこれに数時間は費やしたぞ)。

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演繹法による西洋医学の限界

2012-06-13 23:58:12 | 医療

看護学校の専門授業の一部として「演繹法による西洋医学の限界」と題するミニレクチャーをしたので備忘録として記します。

 

真実を追及する方法として、経験によって得られた知識を積み重ねることでAならばBになるという法則を見つける方法を「帰納法」と言います。一方、まず前提、仮説を立ててそれを論理的に検討することで結論を得る方法を「演繹法」と言います。皆さん感覚的に判ると思いますが、東洋医学・漢方というのは中国三千年の歴史の中で経験的に積み上げられた知識を基に構築された医学であってこれは帰納法によるものです。従って東洋医学の体系で新しい発見というのは年数を積み重ねないと出てきません。

 

西洋医学というのは科学・サイエンスに基づく考え方で構築されていて、サイエンス自体が演繹法で成り立っているので西洋医学の考え方も演繹法で組み立てられています。つまり生物は器官からなり、器官は組織からなり、組織は細胞が集まってできていて、細胞の構造は核や細胞質内器官、細胞膜などから成り立っている。従ってそれぞれの病気はこの構造のどこかが異常を来す事から生じるのであって、その異常を正すことが病気の治療になる、という考え方です。これらは突き詰めると原子や陽子の反応にまで遡って自然科学の体系と矛盾しないように論理付けされています。

 

西洋医学は自然科学に裏打ちされた非の打ち所がない医学の様に感じてしまいますが、実は自然科学自体が必ずしも「絶対に誤りがない」とは言えないという事実を知っていれば、西洋医学も全て正しいとは限らないという限界が理解できると思います。それは演繹法の根本となる前提や仮説が誤りであれば、途中の論理展開がいくら正しくても得られた結論は誤りになってしまうからです。

 

今忘れかけられていた「オウム真理教」の逃走信者が逮捕されたりして話題になっています。10数年前のサリン事件当時、かなり優秀な知能を持った人達が何故こぞってオウムの信者になってしまったのかという問題で、「ハルマゲドンが来る」という教義の前提がおかしいのにそこに疑問を持たなかったために、途中の精緻な論理展開が正しかったためにサリンを撒いて「ポアされてよかった」という間違った結論の誤りに気付かなかったのだろう、という考察があります(私の説ですが)。薬剤や洗脳的なトランス状態で前提に疑問を持てなかった「自然科学的思考に慣れた理系人間」が途中の論理展開が正しかったために得られた結論に全く疑問を持たずに種々の事件を起こしてしまったのではないかということです。

 

演繹法の良い所は新しい前提となる事実が発見されるとそれを応用して新しい治療法がすぐに確立される所にあります。例えば10数年前に発見されたサイトカインに対してその阻害物質が発明されて既に臨床応用されて大きな効果をあげているものが沢山あります。帰納法に基づいていたらこのようなことはありえません。一方で新しい事実の発見で今まで医学的真実とされていたものが否定されてしまうこともよく起ります。例えば昔は尿路結石の患者さんはカルシウムを制限しないといけないと言われて、乳製品を控えることが推奨されていましたが、現在ではカルシウムの適度な摂取は腸内で余分な蓚酸と結合して排泄させることにも役立つのでむしろバランス良く種々の食品を食べることが推奨されていて唯一推奨されるのは水分摂取を多くする事であることなどがあげられます。だから西洋医学では看護士さんであっても常に新しい事実や発見を勉強しつづけないといけない、ということが判ると思います。

 

前回西洋医学では急性期疾患は治癒できるけれど、慢性疾患は症状をごまかすことしかできないので急性期疾患が合併症として将来起ってくることを予防する予防医療にシフトしてきている、という話しをしました。この西洋医学では治らない慢性疾患とか、進行してしまって緩和医療しかできない進行癌に対して、・・・を使えば手遅れになった癌が治る、とかずっと悩まされてきた病気が・・・ですっかり良くなった、という怪しげな似非医療が世の中にはびこっています。皆さんが医療従事者として似非医療か信頼できる医療かを他の人から相談された時、似非医療であることを見分けるには「・・を使って治った」といった経験則、限られた帰納法的アプローチしか述べられていなければ100%似非医療と断定してかまいません。ちゃんと西洋医学の疾患定義を示して、それが具体的にどのように改善されたのか、科学的・論理的に説明されているものならば信用して良いかも知れません。例えば「癌は細胞の無秩序な増殖」と定義されますから、癌細胞自体が消失するか、増殖がコントロールされたということが科学的に証明されなければ似非医療であることになります。

 

—以上—

 

実際にはもう少し平易に話したつもりですが、けっこう興味を持ってきいてくれました。看護学生さんといっても高卒の初々しい女子達に混ざって国立大学を卒業した学士さんや修士終了の理系男子などもいて、多彩な内容で話しをした方が興味を持って聴いてくれます。短い泌尿器科の講義の中で癌の話しや男性機能障害(ED)、男性更年期、性同一化障害と女装趣味・男色の違いなど種々の話しをします。

 

サイエンスが演繹法に基づいていることから思う事ですが、経済学者達が経済を分析する際、前提や仮説として設定する条件が限られているミクロ経済学の分野では「経済学」の学問通りに現実が対応するように思うのですが、あまりにも多くの因子が絡み合い、また人それぞれの金銭欲も異なることから前提を設定しきれないマクロ経済は経済学者の言う通りになっていない、と感じます。私はこれが演繹法に基づく経済学の限界だろう、と思います。だけど経済学者はなかなかそれを認めないばかりか、「理論通りにゆかないのは現実の方が間違っているのだ」的な事を言いだす者までいて「ああ、経済学者はマルクス経済の時と同様で現実を受け入れる柔軟さがない石頭が多いのだな」と感じてしまいます。

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むさぼる人ふたたび

2012-06-06 23:26:41 | 社会

2009年11月の拙ブログ「患者さんはお客様という発想は市場原理主義者の妄言である」に「仕事ができるのに社会から施しを受ける人」を「むさぼる人」という名称で紹介しました。その一節を引用します。

 

(引用はじめ)

宮城谷昌光氏の小説「月下の彦士」に「人から与えられるばかりで、与える事をしないことを、むさぼると申します。むさぼった者はなべて終わりが良くない。」という心に残る一節があります。自分で一生懸命働き、或いは人の世話をすることで社会に奉仕をしてきた人は人から奉仕されることに素直に感謝の気持ちを表わします。休日に病院で働いていると「先生もお休みの日に大変ですね。」などと自然に声をかけてくれる方もいて「ああ、この人は解っているな。」と思います。患者さんでも、各種サービスにおいても「むさぼる」状態の人ほど「勝手とも言える一方的な要求」をするものです。我々は患者さんのプライバシーもある程度知り得る立場にあるのでより一層解ってしまうのですが、本当に「むさぼった者は終わりが良くない。」です。

(引用終わり)

 

今、生活保護を「不正に」受給している人について世間で問題になっています。病気などで誰が見ても仕事ができない状態、家族が支えられない状態にあって社会のセーフティネットとして正しく生活保護制度が活用されている分には何の問題もありませんが、仕事をする能力があったり、家族が裕福であるのに生活保護を平気で受けている人達がいること、しかもそういった人達が増加していることは大きな問題と言えます。

生活保護受給者が医療を受けると無料になりますが、ひと月後位に「医療の必要性」について役所に提出する書類が診察をした医師の下にまわってきます。私は「医療の要否」についてはありのまま記入しますが、同じ書類の「労働の可否」の欄には医学的に就労可能な場合は明確に「就労可能」と書くようにしています。そう書いた所でその患者さんが次に来たとき生活保護が取り消されていることはないのですが、生活保護認定の見直しを定期的にしっかり行なうようになればこのような問題はかなり解決されるかと思われます。そのためにはそれに係わる役所の人員増加が必要というジレンマに陥ることにもなりますが。

今回の問題でもう一つ感ずるのは、不正受給をしている人達は「(うまい事やりやがって)狡い」という印象を批難している側が醸し出していることです。これは少し違うのではないか、を私は思います。日本の社会は伝統として「働いて社会に貢献すること」を美徳であり、人としてあるべき事として重んじてきました。「居候は三杯目にはそっと出す」よう社会貢献していない事は自らも恥と考えるものであるし、武士でも農家でも家督を継がない次男三男は自ら養子に行くなどして生活の道を切り開いて行く事が当然とされてきました。それをしない者を「田分け(家督を分ける者)」と呼んで蔑んできた伝統があります(友人のH君から教わった)。これは古い伝統を持つヨーロッパの社会でも同様と思われます(2012年2月デンマークの高福祉社会について述べた<大きな政府と国民の矜持>参照)。

自ら額に汗して働かず、他人が働いて得た収入を収奪して是とする考えは主に二十世紀後半の米国、裁判社会と金融立国を是とする幼稚な米国社会を中心に出てきた発想であって、それが最近日本にも波及してきているように私は思います。人から与えられるばかりの「むさぼる生活」というのは実に充実感のない不幸な人生ですし、社会から必要とされない、と感ずることほど虚しいものはありません。勿論人はひとりでは生きてゆけないのですから、どこかで他人の世話になり、またどこかでオーバーアチーブメントをすることで人の役に立って社会を支えることで自分も社会の一員として暮らしてゆくものであることは前に述べた通りと思います。だから人から与えられるばかりの生活を「ずるい(ある種うらやましい)」とは普通思わないのではないでしょうか。

人の性格や能力は正規分布を示すものだと私は考えます。試験をすると平均点を中心によくできる人からできない人まできれいな山形の人数分布がかけるのが普通です。体育の能力、人の良さ、働く能力などどの因子を調べても多数の人を対象にすれば優秀な人からそうでない人まで山形の正規分布を示すでしょう。大事なのはそれぞれの人が全ての因子で同じ分布位置にいるのではなくて、体育では上位2%の優秀な所にいても絵を描く能力では下位5%のあたりにいるなど全部が駄目、全部が良いということはないということです。「生活保護不正受給を恥と考える度合い」も多数の人を対象とすれば正規分布を示すように思います。恥と考えない下位5—10%の人はチャンスがあれば不正受給をするでしょう。そのような人はどんなチェック体制にしてもすり抜けて不正受給をしてしまうように思います。このような人は社会性がないのですから、金に困れば平気で盗みをしたり反社会的行為をしたりするものです。だから私はこのような人への生活保護不正受給というのは社会をある程度平穏に維持するための「捨て銭」だろうと考えています。いずれにしてもこのような「むさぼる人」は終わりが良くない、幸福な人生を終えることはありません。だから羨ましいなどとも全く思いません。

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