rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 イスラーム 生と死と聖戦

2015-05-28 17:18:32 | 書評

書評 イスラーム 生と死と聖戦 中田 考 著 集英社新書 2015年刊

 

イスラム国関連で話題になったイスラム教信者でありイスラム法学者でもある中田 考氏のまさにムスリムにとっての死生観と聖戦について解りやすく解説した本で、特にキリスト教との違いや今話題のジハードについてのとらえ方について良くわかる内容でした。

 

一神教における死生観というのは、我々日本人にはなかなか理解できないもののはずですが、海外のドラマや小説における霊魂の存在や、医療における死との向き合い方などを顧みるに、実はキリスト教やイスラム教においても、日本人との考え方とあまり差がないのではないかという印象も持っていました。

 

死生観

キリスト教においては、神によって創造された人は死ぬと神による審判を受けることになっていて、その後地獄、天国、煉獄にゆくことになっているようですが、またこの世に生まれ変わるという考え方も映画などでは一部にはあるようです。イスラムにおいては霊魂と肉体は死ぬと離れて(霊肉二元論)、霊魂も暫くは意識があるのですが、キリスト教と同様に死後に裁きがあって、その後天国が地獄に行く事になっているということです。審判の時までは地中で待つことになるので、死ねば天国に行くという日本的な考えとは異なるということです。善行や徳を積めば、審判で認められて天国にゆけるのは皆同じなのですが、アッラーは比較的緩い神で、悪行よりも善行を点数多めに見てくれるという解釈があるそうです。一部悪人正機説に通じるものかも知れません(悪人でさえ救われるのだから、「いわんや善人をや」というのが本来の意味と言われますが)。面白いのは、人でも神でもない、精霊とか魔人のような存在(ジンと呼ばれる)があって、アラジンの魔法のランプから出てくるような、妖怪のような人智を超えた存在が考えられているようです。これは恐らくアニミズム的土着の宗教やインドの多神教からの影響と思います。

 

ジハードの意味

ジハードというのは「聖戦」を意味すると考えられますが、イスラム教徒にとってのジハードとは「イスラムの教義を実践するための自分との戦い」を意味するもので、これを「大ジハード」と呼ぶそうです。そして一般的に認識されている「イスラムの大義のための異教徒との戦い」は「小ジハード」と呼ばれて、本来的な意味とは少し異なる物であるとされます。しかも小ジハードは誰彼かまわず行えば良いというものではなく、カリフの指示の下に行う必要があると言う事です。ISILにおける自称カリフの「バグダディ」氏が異教徒との戦いを指示しているのは形の上でのカリフによる命令を取っているのだと言えます。ジハードによる死は、神の審判を受けずに天国に行けるとイスラム教では考えられているので、自爆テロという極端な方法が正当化されるようです。頭の悪い米国人にはこの小ジハードによる自爆テロと日本国における神風攻撃による自己犠牲によって靖国に祀られる事の違いは理解できないでしょう。ジハードはイスラムの実践によって自分が天国に行けるという利己的な目的で行われるのであって、国や家族を思いながら自分を犠牲にする神風の精神とは全く異なるものであると言えます。

 

イスラムと国家

以前ISILは国家の体をなしていない、という事をブログに書きましたが、この本を読むと、本来イスラム教は社会のあり方をも規定していてウエストファリア条約で規定された現代国家のあり方自体「規定外」の物であるという説明(第4章)があり成る程と思いました。つまり政教分離の考え方自体をイスラムは否定していて、イスラム教を信ずる人達の集まりの中で社会は成り立つようにできているのであって、国家といった別の規範や境目があること自体が誤りなのだということになります。その意味でイスラム教は「真のグローバリズム」とつながる所もあり、これは以前紹介した「一神教と国家」にも通じる内容です。

 

イスラムとの共存

では我々日本人のような多神教(仏教と神道どちらもまあまあ信じている)的な人達とイスラム教徒は仲良く暮らして行く事ができるのか、という問題になります。ここでイスラムでは「剣かコーランか」という二者択一を迫られると言われるけれども、これは誤解であり、「剣か税かコーランか」が正しいと説明されます。確かにエジプトなどのイスラム圏においてもコプト教徒などの古いキリスト教信者達が残っていて彼らは税を払う事で改宗をしなくてもイスラム教社会の中で普通に暮らして来た事の証です。ISILはコプト教徒達を殺害し、暴虐だとされていますが、正に本来のイスラムの教えから逸脱した行為と言えます。イスラム教徒はイスラムの教義の実践を邪魔さえしなければ異教徒の存在を許さないということはないのが本来のあり方であって、無理矢理改宗を迫るということはないというのが正しい解釈と思われます。

 

イスラム国というのはイスラム教の教義をうまく取り入れた中東に戦乱を起こすための米国戦争勢力の方便だろうと私は思っていますが、イスラムの教義を逸脱した世俗主義による統治を行っている中東において、本来のイスラムに戻ろうという純朴な若者達を惹き付ける魅力があるのは確かなのでしょう。だからこそ不用意にイスラム国を討伐する勢力に日本が加担する事(自衛隊を派遣して戦争をさせ、米国戦争勢力の片棒を担いで金儲けをさせてもらう事)には私は反対です。

 

本題と直接関係はありませんが、1998年のアメリカ映画で死後の世界と天国、地獄の様子(それは各人の持つイメージがそのまま現れるという解釈になってます)が描かれた印象的な映画です。完全なキリスト教の教義とは少し違うようでこれがヒット作として広く受け入れられた事は興味深いと思いました。

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TPP合意が困難になることを言祝ぐメディアはないのか

2015-05-13 21:02:17 | 政治

米上院、貿易促進権限法案の審議入り否決 TPPに暗雲(朝日新聞) - goo ニュース

朝日新聞までがTPP合意が遅れることを残念に思わせるタイトルを出しています。いや反日の朝日だからこそTPP大賛成で良いのかもしれません。しかし読売やフジ産経もTPP合意が遅れることを懸念する内容の記事を発信しているのは不思議でなりません。愛国=反グローバリズムであるべきであり、どのメディアもグローバリズム万歳の売国メディアばかりではあまりに情けない思いです。それでいて愛国を装った反中国の論調を張ったりはするのですから厄介なことです。

そもそも内容が秘密である時点で「反民主的」であり、米国ですら労働者の多くが反対していて良心的な議員は反対を表明している貿易協定に何故メディアは賛成しているのか、賛成する合理的理由は何なのか、(賛成の論評を張らないと官邸に怒られるから)というならその通りに紙面で表明すればまだ許せるのですが、それすら説明しないで何故メディアが賛成の論調なのか、全く信用できません。

貿易とは「互恵」「平等」「無差別」の原則が成り立たなければ行うべきではないというのが鉄則です。互恵にならない物は一方的な隷属であり、それは貿易でなく搾取と言います。互恵で平等であるかどうかは、話し合いの段階から開かれた会議で行われることが必須事項です。開かれた会議で成立しないものは協定など結ばない方がお互いのためなのです。そもそも秘密会議で貿易協定を結んで良いと、選挙で認められたでしょうか、国会の議決で認められたでしょうか、そのような超基本的な事項さえ行われていない状況でメディアが疑義を呈さないなどというのは全く情けないことです。明治の先人達は苦しい日露戦争を勝ち抜いてやっと欧米との不平等条約を解消することができました。それを現代のバカどもは秘密会議で日本の国益を損なう条約を結ぼうとし、それが遅れることを残念がっているという阿呆ぶりです。

メディアは「日本国民の幸福に結びつかない事は反対である」位のことははっきり言えば良いではないか。今各界の中心に立ちつつある人達は私と同じ年齢層の人達、団塊の世代の一つ下の世代だと思いますが、同世代の人間として実に彼らは「意気地なしの頓馬野郎」ばかりだと情けなく思います。

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書評 帝国憲法の真実

2015-05-10 22:00:52 | 書評

書評 帝国憲法の真実 倉山 満 扶桑社新書 165 2014年刊

 

気鋭の歴史学者で所謂ポツダム史観・東京裁判史観というものに「タブー視せずにおかしい事はおかしいと言おう」という論陣を張って人気を得ている人が書いた、大日本帝国憲法と現行憲法との比較です。

 

著者は法学者ではないものの、氏自身が憲法研究の専門的研究会にも属して長年研究をし、また教鞭を採っていた事もある由で生半可な知識で解説していることはなく、説明も論理的です。しかし言及はされていませんが、前提となる立ち位置が帝国憲法の時代を「良し」とするものであることからくる種々の根本的な違いについての言及はありません。例えば、憲法は「その民族や国家の成り立ちをふまえた国家のありようを規定した最も基本的な法」であるべきだと述べているのですが、この考え方が正しいかどうかの議論はありません。以前書評で紹介した小室直樹氏の「憲法とは国家権力への国民からの命令である」という本は題名の通り憲法のありようを定義したものですが、これは既に倉山氏の主張とは相容れないものです。現行憲法は英米法的な「法の支配」を前提として国家権力も法の規定の下にのみ国民の自由を制限できるというものであり、本来無限の自由を持つ個人がその自由の一部を国家に差し出すことにより社会を成立させ、逆に国家からの保護を受けるという論理に基づいています。しかし、歴史的な成り立ちから国家のありようを定めたとされる帝国憲法の考え方からは、憲法は国民のありようも規定してよいことになります。氏が主張する帝国憲法1-4条に規定された「国体」こそが日本国のありようの根本を定めた規定であってポツダム宣言においても「国体の護持」は保証されたのだから、現行憲法においてもこれを変えては行けない、という主張は憲法の定義をどうとらえるかを議論しないことには受け入れる事ができない主張といえます。

 

著者は現行憲法については内容も国語的文体も欠陥だらけであり、その目的とするものは米国(マッカーサー)が「日本人が二度と立ち上がって米国に反撃する事ができないようにするための呪い」であると喝破し、各所に現実と相容れない所や拙速仕事による齟齬があるとかなり批判的です。確かに憲法前文や9条の規定、政教分離などは現実的でない部分や理解不能の部分を含みますし、第7条の4号天皇の国事行為に「国会議員の総選挙の施行」というありえない規定が示されて(本来は国会議員の選挙)明らかな誤植も改正できないという指摘も尤もだと思います。また自民党の改憲案も著者は現行憲法に国民のあるべき姿を付け足した内容であって宜しくないと否定的です。

 

私自身は確かに現行憲法には不十分な部分があるとは認識していますが、これで戦後70年日本は平和で繁栄した国を築いてきたのですから、慌てて変える必要はないと考えています。強いて言えば9条に「日本国内における専守防衛のために自衛隊を置く」の一文を加憲すれば十分だろうと思っています。日本の憲法は米国に押し付けられたものではありますが、だからこそ戦後の米国の戦争に付き合わずに済んだという事実が大きいのです。今改憲したり、解釈を変えたりすることは「米国の戦争に付き合えるようになるという結果」しかもたらさず、それが「日本の国益に資さない」ものであることが明らかであるから変えるべきでないと私は考えています。改憲して米国の戦争に付き合うことが日本の国益にどのように資するのか、付き合うことで日本国民がどのように幸福になり、諸外国から尊敬されるようになるのかの議論がないから「改憲論者こそが売国奴だ」と私は思うのです。米国からは改憲して戦争の使い走りをしてくれるようになれば口先では良い事を言うでしょうが内心「心からバカにされる」ことは明らかです(せっかく戦争しなくて良い方便があるのに自ら捨て去るとは、私が米国人ならバカにします)。米国にとって、改憲されるより今の日本の方がよほど扱いにくい存在なのです。

 

倉山氏もこの本において、その辺の議論はなされていません。そこをしっかり書いてもう一度帝国憲法を見直してゆくのならばもっと共感できるところが出てくるように感じました。

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映画「アメリカン・スナイパー」は好戦的か反戦映画か?

2015-05-07 18:46:35 | 映画

映画「アメリカン・スナイパー」2014年 ワーナーブラザース制作 原作 クリス・カイル クリント・イーストウッド監督、ブラッドリー・クーパー主演

  

あらすじ(wikipediaから抜粋)

 

父親から「お前は弱い羊達を守る牧羊犬(シープドッグ)になれ、狼にはなるな」と教わったクリス・カイルは1998年にアメリカ大使館爆破事件をテレビで見て海軍に志願する。

厳しい訓練を突破して特殊部隊ネイビー・シールズに配属され、私生活でも「タヤ」と結婚して幸せな日々を送っていたカイルであったが、アメリカ同時多発テロ事件を契機に戦争が始まりカイル自身も戦地へと派遣される。

イラク戦争で狙撃兵として大きな戦果を挙げたカイルはいつしか軍内で「伝説(レジェンド)」と称賛されるようになるが、敵からは「悪魔」と呼ばれ懸賞金をかけられるようになる。カイルは1000m級の射撃を行う元射撃オリンピック選手の敵スナイパー「ムスタファ」と遭遇し、以後何度も死闘を繰り広げる。凄惨な戦いは徐々にカイルの心を蝕み、戦地から帰国するたびに家族との溝は広がっていく。

4度目の派遣でサドルシティに防護壁を建設する工兵を狙うムスタファを倒すという任務を受けたカイルたちはムスタファとの戦いに勝ち、砂嵐の中で敵の包囲を突破して友軍の装甲車に間一髪乗車したカイルは戦場を離れていく。

カイルは海軍を除隊するが、戦争の記憶に苛まれ一般社会に馴染めない毎日を送っていた。しかし傷痍軍人達との交流を続けるうちに、少しずつ人間の心を取り戻していく。しかしある日、退役軍人の一人と射撃訓練に出かけた先でその男に殺害され、最後に実際のカイルの葬送の記録映像が流されエンドロールとなる。

 

感想

見終わった時の最初の感想は「何とよくできた映画であることよ」という感嘆でした。ある意味娯楽映画として2時間以上の長尺ながら全く飽きさせない。主人公のカイルは西部劇の主人公さながらに純朴で「自分は邪悪なオオカミから羊を守る牧羊犬である」と信じきって従軍し、好敵手の狙撃手ムスタファと手に汗握る狙撃戦を戦い、戦争と家族との日常生活の断絶にも人間的に悩むという解りやすい構成になっている。これに実戦さながらの戦闘シーンやセットが組み合わされてカイルのスコープ(銃眼)を通して観客も戦闘に加わるようなスリルある作りになっています。この映画「好戦的」か「反戦映画か」と問われれば私は「戦争礼賛映画」という判定を下すでしょう。米国の一般民衆はカイルのような西部劇のヒーローのような生き方が好きであるから、公開後短期間で戦争映画としてまれに見る興行成績を収めたことも理解できます。

 

しかし私の古い友人はこの映画を見て、戦争の傷が癒えて「さあこれから」という時に何の理もなく「スパッと」物語が終わってしまうあっけなさ、この最後を見ると「反戦映画」と考えざるを得ない、もっと殺害に至る経緯のようなものをきちんと描いたら反戦と言えないだろうけど、と感想を漏らしました。この意見にも一理あると思います。

 

クリント・イーストウッド監督作品として、2006年に公開された硫黄島二部作「硫黄島からの手紙」「父親達の星条旗」では、私は米軍の戦う意義を「単なる旗」に象徴させ、日本軍の硫黄島守備隊が「家族への手紙」に戦う意義を象徴させたことと好対照であって、犠牲が多かった米軍に対してかなり厳しい描き方であると評しました。また2008年に公開されたグラン・トリノでは主人公は朝鮮戦争に参戦し、国家のためとは言え、北朝鮮の少年兵を殺してしまったことに心を病んでおり、その後のベトナム戦争の犠牲になって米国に移住してきたモン族の少年に米国の未来を託して自分が大切にしている古き良き米国の魂といえる名車「グラン・トリノ」を譲ります。ウオール街で拝金主義的な仕事をしている自分の子供には米国の未来を託していません。つまり米国の現状にはかなり批判的な意見を持っていると感じていました。

  

そんな「イーストウッド監督が単なる戦争礼賛映画を作るだろうか?」というのが私の興味の中心でもありました。だから実際見てみるまでは何とも言えないと思っていた次第です。しかし結果は「見事な戦争礼賛映画」だったと私は思います。多分イーストウッド監督はクリス・カイルの事、生き方、考え方が好きだったのだと思います。だから彼の人生を通じて「米国の現状に疑問を投げかける単なる反戦映画は作りたくなかった」というのが本音ではないかと思います。

 

ただこの監督が全面的にアメリカ万歳、政府万歳の映画を作るはずがない、という確信も私にはあります。それはこの映画が作られた年代・時期に鍵があるように思います。劇中主人公は戦闘中なのに頻繁に奥さんと電話で話すシーン(普通軍規に反するからありえない)があります。また「家族をテロリストから守るために戦うのだ」と主人公が友人を諭すシーンもあります。これは硫黄島二部作で日本軍に共感した「家族のために戦う」を今回は米軍がイラクで実践しているというアピールだと捉える事ができます。また描かれる敵は野蛮なテロリストで女子供も平気で犠牲にし、同胞を殺すことにも全く躊躇しません。これは昔の西部劇でインディアンが野蛮人として描かれ、カウボーイやガンマンが市民を守るヒーローとして描かれる手法に似ています。主人公はアルカーイダに代表される野蛮なテロリストから羊のような無辜な米国民を守るための正義の戦いをしているという姿勢を全く崩しません。後半で主人公のカイルも度重なる戦役で精神的に病んでしまうのですが、比較的軽く克服してしまいます。実際には毎年参戦した兵士から多くの戦争神経症や自殺者が出て社会問題化していますが、この映画では「生きているだけで感謝です」と健気に立ち直る傷痍軍人達が多く描かれます。ここまで明確に単純明快な論理でイラク戦争を描かれてしまうと2006年の戦争開始3年目くらいまでならまだ説得力があるかもしれませんが、2014年の時点、イラクでの従軍がそんなに単純明快なものではなかったことはほぼ全てのアメリカ人が理解している時にこの描き方はかえって「ほめ殺し」のようになってしまわないでしょうか。

 

2014年の現状を見ると、イラクから米軍が撤退してから治安の悪化は著しく、アルカーイダの分派といえるISがイラクで残虐の限りを尽くしている。米国はシリアでアサド政権に反対して、ISやアルカーイダが属している反政府軍を支援している。一方でイラク国内ではISに攻撃を加えていて、反ISのイラク軍には米国の敵であったイランの義勇軍が加わっている、という現状を毎日ニュースで見聞きしている米国の国民にとって、「イラク戦争は無辜の米国民をテロリストから守るための正義の戦い」という2003年の開戦当初米国政府が用意した正論で最後まで押し切られてしまう映画を作られることは少なくとも米国の1%の支配層にとってかなり耳の痛い内容なのではないかと思います。「イスラムにもいろいろと事情があるのだよ。」「参戦した兵士達も苦しんでいるからそこそこに戦争を終わらせないとね。」という映画を作ってもらった方が、中東からの撤退戦略、アジア(対中国・対ロシア)へのシフト、オフショアバランシング(米軍以外に戦わせる=ウクライナやイエメンなど)に戦略を変えて来ている現在の米国支配層の人達には都合がよかったのではないかと思われます。

 

私の友人が指摘するように、この映画の終わり方は「えっ??」という感じのあっけなさです。「主人公は殺されました」と一文出て、後は主人公が埋葬される葬送ラッパが流れ、ヒーローの死を惜しむ米国民の実際の記録映像と全くの無音のエンドロールが続きます。「この戦争は正義の戦争だったんじゃないのか?この後どうするんだ?」という疑問を米国民が支配層に投げかける、このあくまでも無音に徹する終末はそんな意味合いを感じずにはいられません。だからこそ終わる直前まで、戦争礼賛の西部劇のようなヒーローを描く戦争映画を監督は作ったのではないでしょうか。勿論実際のクリス・カイルへの尊敬を込めて。

 

この映画、一般国民からはアカデミー賞の呼び声が高かったのですが、「上の人達」は敢えてフェイク的なヒーローを描いた「バードマン」を作品賞に選びました。2010年の作品賞「ハート・ロッカー」の描き方までは良いとしても、「色褪せてしまった2003年開戦時の政府の論理で貫かれた映画を2015年のアカデミー賞にするのは勘弁してくれ」という支配層の意見がどこかから入ったのではと勘ぐりたくなります。

コメント (2)
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