rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

約束規範が社会道徳に優先する時

2012-12-27 18:25:23 | 社会

今日は社会についての雑駁な感想です。

法は道徳の一部(最小限)という言い方がされることがありますが、「人を殺してはいけない」とか「他人の物を盗ってはいけない」といったことは古今東西を問わず変わらない道徳であると同時にどの社会における法にも定められていて道徳に基づく規範と言えます。一方道路交通法の「車は左、人は右」といった決まりは社会の利便のために作られた約束事でしかなく、道徳的意味はありません。従って国によって決まりが逆の事もありますし、時代によって変わることもあります。また商習慣についての法や税法なども約束規範でしかなく、その内容には(法は守るべき)という以上の道徳的意味合いはありません。

 

社会の利便性を考えて作られた約束規範は、守る事が前提ですし、守らなければ罰則を伴うことも理解の上ですが、あまり意固地になって厳守しようとするとかえって社会の利便性を損なう場合や、道徳的に問題が出てくる場合があります。車の制限速度や一時停止なども常識の範囲内でという事もあるでしょうし、戦後の食糧難の時代に配給米のみを食べて餓死した裁判官(他の警察、判事、全ては闇米も食べていたという証左)がいて問題になった事もありました。

 

法を守る事がかえって皆の不利益になる、或は人道に反する場合でも「悪法も法なり」といって守らせる事があります。「悪法も法なり」という言葉はソクラテスが有罪になって毒をあおる際に残した言葉と言われていますが、実際は不明で、近代法において「法治国家(rule by law)」が悪法であっても法として存在するものは守らなければならない、とする立場である一方「法の支配(rule of law)」の立場では基本的人権など、どの法よりも優先されるべき規範があって、法は権力を規定するための物という立場を取るので「悪法も法なり」という物言いは正しくないとされます(定義上「実質的法治主義」という場合はその限りではないようですが)。現在の日本は戦前のドイツから輸入した大陸法が法治国家の性格を持っていたのに対して、戦後は米英の「法の支配」的解釈が主流とされているので、「悪法も法なり」の考えは本来否定されていると言えます。

 

しかし現実の日本社会は、村社会の名残から共同体、或いは役所から許可されている範囲を自由と考える「事前検閲」を重視し、禁止されている事以外は何をしても自由という「事後検閲」を主体とするアメリカ的考えには馴染んでいないと言えます(コンプライアンス重視は日本社会を良くするか参照)。だから「悪法も法なり」と考えて、もっと自由に振る舞えるべき所を自粛してしまう現実があるように思います。規制緩和が声高に叫ばれるのも、規定がないものは自由に行って良いはずのものが、役所にお伺いを立てる事で「事前規制」が行われて自由がなくなってしまう事に問題があるのだと思います。その意味でTPPに入るということは役所の事前検閲体制からアメリカ的な事後検閲体制(問題が起こってから規制する)に入るという事になるので、多くの許認可権を失う役所としては猛反対をしそうなものですが、そのようなとらえ方はなされていないようです。

 

役所の行政処分というのは社会秩序を維持管理するための約束規範だと思いますが、これも厳格にやり過ぎるとかえって国民の暮らしに障害が出ることが危惧されます。行政処分の決定は簡易裁判所などで決定されるものもありますが、多くは検事と判事が同一の役所内の会議で被疑者を弁護する役割もなく一方的に判決が下されるのが普通です。「行政処分に対する不服申し立て」という道が残されてはいますが、気が遠くなるような時間と手間、よほどの事でないと認められない現実を考えると実際には機能していないと言っても良いでしょう。だから行政処分を行うお役人さんは執行する処分が国民の福祉や利益に反しないかどうか十分に見極める必要があると言えますし、国民の利益に反する場合は執行しない決断を下す必要があるでしょう。

 

最近私がよく見ているテレビ番組(ケーブルですが)に米国の刑事司法制度を扱った「Law & Order」というのがあります。米国ではシーズン20を数える長寿番組のようで人気の高さが伺えますが(日本ではシーズン9まで放送中)、1時間番組の前半は刑事事件が起こって犯人が捕まるまでが描かれ、後半は犯人が裁判でいかに裁かれるかが描かれます。題名からして「法と秩序」がいかに守られるか、という内容ですが、前半はまさに道徳規範を冒した犯人がどのように追い込まれて捕まるか(ここでアメリカ映画にありがちな派手な撃ち合いは一切ありません。犯人が撃ち殺されて終わりではこの番組の趣旨に反します)なのですが、後半は大陪審という約束規範の世界においていかに検事達が証拠を取り揃えて判事や陪審員に納得させて犯人を有罪にするか、が見せ場になります。被疑者は明らかに犯人なのですが、絶対的な証拠物件である犯罪に使われた銃が礼状なしで押収されたものであったりすると「裁判では証拠と認めない」と決定されて犯人である事を証明できなくなったりします。つまり真実よりも理屈が優先される訳です。面白いのは検事側が3回に1回位は裁判に負けて犯人が無罪になったり微罪になったりすること。日本ではない「司法取引(dealと言っている)」で犯人が裁判にならずに量刑が決まって検事に収監期間をまけてもらったりする事でしょう。公判の場面で圧倒的に不利な状況から検事達が頑張って有能な弁護士のついた犯人が有罪になるというカタルシス感が人気の長寿番組である秘密と思われます。TPP参加に際して裁判を重視するアメリカ社会やアメリカ人の考え方を知るには良い番組であるように思います。

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一億総中流の再現はグローバリズムに反するか

2012-12-23 22:40:47 | 社会

2012年12月23日の報道2001では、先週の衆議院選挙で圧勝した自民党の安倍総裁を招いて日本の経済をいかに活性化させるか、金融緩和と公共投資の財政出動でインフレターゲットを達成して日本のGDPが伸びるかという議論がなされていました。その番組中で、「企業の内部留保が過去に例を見ないほど増大し、新たな設備投資先がない上に、勤労者の賃金が低下している事が日本国内の経済停滞の原因ではないか」という至極正しい指摘がなされ、純益を製品の価格低下と従業員の賃金増に反映させている小売業社長が紹介されていました。「国民と勤労者が豊かにならなければ経済は活性化しないからそれを実践しているのだ。」とまっとうな意見を社長は述べていました。

 

これ、先の選挙期間中には共産党の志位委員長がしきりに訴えていた主張で、自民党らが国防軍だの改憲だの選挙の争点とは関係ない事を話していた時に共産党だけが正論を吐いていたように感じた内容でした。私も以前のブログ「GDPが横ばいなのに年収が低下するのは何故か」で、企業の内部留保の使い道が、外国に設備投資をして生産工場がアジアに出てゆく事やアメリカの国債を買う事に使われて、勤労者たる国民の収入増加につながっていないことが問題だと指摘しました。

 

今回、自民党は財政出動と金融緩和によって国内に円をあふれさせてインフレにし、GDP上昇を達成しようとしていますが、果たしてその結果国民の所得が上がって消費をするようになるでしょうか。経団連の米倉会長は「来年の春闘では1%の賃上げなどとんでもない、むしろ賃下げをして同じ総人件費でより多くの人が雇えるようになったほうが日本の企業のためには良いのだ。」と述べたという事です。維新の会では選挙前にアルバイトなどの最低賃金制の廃止を公約にかかげ、やはり「同じ総人件費でより多くの人が雇える方が良い」という方針を出しました。

 

「可能な者から先に豊かになれ」という先富論は中国が開放政策という名の原始的な資本主義を取り入れた時の言い訳にしか過ぎませんでした。その模範となったアメリカでもグローバリズムが徹底された結果1%の富裕層と99%の貧困層に二極分化が進み、豊かなアメリカの象徴であった豊かな中間層という階層が消滅してしまいました。「富裕層がより儲けて金を使えば、経済が回って、そのおこぼれで周りの人達も豊かになるのだ」というのが今では現実にはありえない事がはっきりした「トリクルダウン理論」ですが、金は使わなくても同じ価値を保ち続けるから、より沢山貯める方に関心が向いて、上限なく貯め続けるのが人間の心理であって、一部富裕層の所有となった国籍のない巨額のマネーが行き場を求めて猛獣のように国民国家に襲いかかっているのが現状といえます。つまり内田樹氏が言うように「トリクルダウンはグローバル資本主義と国民国家のあいだの本質的な矛盾を糊塗するための詐欺的理論」でしかなかったという事です。

 

国民が選挙で選んだ政府が、グローバル資本主義に反する方策を取る事も正義と言えるかは、以前のブログ「民意と経済はどちらが正しいか」で考察しましたが、日本においてもグローバル企業を代弁する人達の意見に反する決定は自民党政権においてもできそうにない、と先に述べたような状態からは言えそうです。これも先のブログ「グローバリズムと植民地経済」で述べましたが、グローバリズムの行き着く所は国民国家の中にも豊かで消費にいそしむ宗主国階級と低所得で働くだけの植民地階級の階層分離ができてしまう結果になるのではないかという事です。その状態で民主主義による国民国家を維持するには、植民地階級の貧しい人達が徹底的にバカで富裕層の思い通りの選挙をしてくれないと体制の維持ができません。そしてもう一つの国民国家維持の方法は中国のような独裁政権による体制維持です(そのためには大胆な改憲が必要ですが)。

 

米中欧の経済を見ていると、そろそろ完全に自由なグローバル経済というものも、見直しがされる時期に来ているのではないかと感じます。欧州の共通通貨であるユーロがこれからどうなるのか、今後アジアでもドルに対抗しえる共通通貨が作られてゆくのかは最近ファンになった揚羽蝶の浜矩子先生の近著「通貨はこれからどうなるのか」PHPビジネス新書に示唆に富む内容が書かれていたのでいずれ紹介しますが、通貨を人類の叡智によってもっと飼いならす事で現在の「通貨に国家が振り回されている」現状を打開することができるのではないかと思います。以前日経ビジネスでも紹介されていた通貨にマイナス金利を付ける(通貨の価値に期限を付ける)とか、地域通貨と国や地域の基本通貨を共存させて地域毎の経済活性化に役立てるといった工夫はもっとなされても良いと思います。

 

一億総中流に戻る事は日本の国内経済の活性化には最も有効な手だてですが、現状ではグローバリズムの経済原則には反すると思われます。国内で工夫をこらした種々の経済政策を実施するためにも、社会の仕組みをグローバリズムに組み込むTPPには入ってはいけないと強く思います。

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もう一度事故が起きても「原発が必要」と言い続ける確信がないなら止めた方が良い

2012-12-18 08:40:34 | 社会

電事連会長、自民大勝で「原発ゼロ政策の見直しを」(産経新聞) - goo ニュース

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世の中には脱原発と言っても「現実的ではない」とか「夢想的」といった反応があり、「電力を確保するためには原発が必要なのであり、現実的な大人の対応としては、今ある原発は再稼働して少しずつ原発の比率をなくしてゆくのが良いだろう」というのが大勢の意見のように感じます。私も今から即廃炉というのは少し無理があるようにも感じているのですが(いずれにしても後始末の施設は必要)、一方で各電力会社が営利企業のまま原発を存続させ続ける現在の体勢で今後もゆくのならば止めてしまった方が安全だとも考えています。

福島の事故後の東電および他の原発に対する各電力会社の対応を見ている限り、運営主体である電力会社が「事故が起きないよう、また起きてしまったら全ての情報を開示する」ことはないし、事故あるいは稼働に対して100%の責任を取る能力も覚悟もない事が明らかです。「事故が起きたら後始末は国民の責任、稼働はこちらの都合でさせなさい。」と言っているのならば、「稼働はさせない」と言う意見に私は賛成です。現状で稼働を容認している人は「もう一度福島と同様の事故が起きてもやはり原発が必要」と言い続けるだけの信念を持って言っているでしょうか。「もう事故は起きないだろう。」「稼働させないと電力料金が上がってしまい経済的にかなわん。」という甘い期待で結論を出しているならば、同じ事故は必ず起きると考えた方が良いです。なぜなら福島後原発に関しては政府、電力会社の体勢は何一つ変わっていないからです。

福島における大切な日本国領土の実質的喪失は尖閣や竹島の比ではありません。あの国土喪失に対して国防上何の批難もされていないことには驚きです。奪った相手が中国人や韓国人ならば怒るけれど、日本人のミスで放射能によって国土が奪われた事には怒らないし国防上の危機を感じないとしたらその人の国防意識は似非といって良いです。何故「石原閣下」はカンカンになって怒りをあらわにしないのか。あの人の国防意識などその程度のものなのでしょう。私は電力料金が上がってもそれは将来の我々の子孫達の分も含めた国防費と考えても良いくらいだと思っています。

米国内の天然ガスはシェールガスが安価に産出されるようになったために百万Btu(英国熱量単位)あたり1.8ドル(2012年4月)と21世紀初頭の15ドルからは信じられない安価に転じています。日本の天然ガスは液化する手間や運送費用がかかるとしても現在単位あたり17ドルであり、アメリカの5から10倍の値段で買わされています。いくらなんでも同じ物を5倍の値段で買わされている現実があって、我々が電力料金を値上げさせられるという事は「おかしい」と普通思わないでしょうか。本当に原発動かさないと日本から電気がなくなると言えるか、騙されないように良く考える必要があります。天然ガスにもメタンの含量によって質の違いがあって、日本が買っているのは純度の良いものという反論はあります。しかし燃える物なら何でも上手に使うのが日本の技術力の高さであり、もともと日本の自動車は外車が質が悪いと言って性能が出せないガソリンを「レギュラー」として使い十分良い性能を出しているではないですか(欧州ではレギュラーが日本のハイオク)。

日本はLNG輸入を一括長期にして中国や韓国のようにスケールメリットを活かせる体勢にすること(彼らはちゃんとそのようにしている)、原発稼働を当てにしてLNG輸入を小出し場当たり的にしている現状を改める事、でもっと安く原料を輸入して電力値上げを防ぐ事が可能なのですから、そのような情報開示を十分に行い一般の人に「電力確保には原発再稼働が大人の選択」などという戯言をいわせなくても良いようにするべきだと私は思うのですが。

もう一度原発事故が起きれば、さすがに「もう原発は止めよう」という結論を日本人は出すでしょう。原発を再稼働するという決断は「もう一度起きる事はないのでは」という日本人特有の自分に都合の良い甘い期待のもとに成立している決断であって、世界の人達は「あれだけの事故が起きてまだ収拾すらついていないのにまだ原発やるんだ。」と呆れ、馬鹿にする事はあっても「さすが日本人の決断は素晴らしい」などと誰も思っていない。日本人や欧州の人がアメリカの銃犯罪で年間3万人が死んでいるのに銃規制をしないアメリカを呆れる事はあっても素晴らしいと思わないのと一緒で「客観的な判断」から見れば、我々は誤った決断をしていると言えるのです。

もう一度事故が起きても「原発は必要」と言い続ける確信がないならば止めた方が良い、というのが私の意見です。

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チェルノブイリ膀胱炎その後

2012-12-10 17:26:52 | 医療

2011年12月のブログ(チェルノブイリ膀胱炎は低容量放射線発癌のモデルとなるか)でチェルノブイリ膀胱炎が低線量被曝による発癌のモデルとなるかについて考察しました。先日チェルノブイリ膀胱炎について研究、報告をされた大阪市大名誉教授、現日本バイオアッセイ研究センター長の福島昭治氏の講演があり、発表後の展開や私が前回指摘した疑問に思っていた点などについてディスカッションしたので報告します。詳細が分からない方は前回のブログから是非読んでください。

 

まず氏はチェルノブイリ膀胱炎を現在どう捉えているか、つまり低線量被曝から癌に至るモデルとして確立したものと考えるかについてですが、現在の段階では「長期低線量被曝の影響か?」とクエスチョンを付けざるを得ないと自ら話していました。その理由として、1)疫学的調査ではなく、病理組織学的報告である事、2)患者尿中から測定されたセシウム量からは、放射線医学総合研究所からのコメントにあるように、自然界にある放射性カリウムからのβ線放射よりも被曝線量が少ないという意見に反論できないこと、3)検査を行ったのが前立腺肥大症の手術を受けた患者であり、被験者に偏りがある事を上げていました。但し、チェルノブイリ原発事故の結果、何らかの放射能汚染によって体内被曝が起こり、このような組織学的変化が事実として起こったのであろうことは間違いないと確信しているという事でした。

 

講演後、私が前のブログで疑問を呈した「チェルノブイリ膀胱炎が前癌状態であるならば、近年増加しているウクライナ地方の膀胱癌患者に腫瘍の近傍に同じ所見が多発しているのでは」という問題については、「膀胱癌患者の癌以外の部分にチェルノブイリ膀胱炎の所見は見られていない」と明確に答えていました。つまり「チェルノブイリ膀胱炎は癌に直線的に進む病変とは言いがたい」という結論になります。また膀胱癌が増えている最近、肥大症など他の患者さんから得られた膀胱粘膜に同膀胱炎所見は殆ど見られなくなっている、という短信がロマネンコ氏から来ているそうです。

 

福島氏にはもともと原発の賛否などの政治的主張をする目的はなく、チェルノブイリ事故後10年頃に増加していた膀胱粘膜の病変について病理学者であるウクライナのロマネンコ氏(女性)から相談され、十分な研究施設がないウクライナから氏を毎年研究のために福島氏が教授をしていた日本の大学に毎年数ヶ月間招いて一緒に研究をしたことからこの結果が得られたということであり、研究結果についての科学的ディスカッションには極めて率直に応じてくれました。「チェルノブイリ膀胱炎が組織学的所見として現在の膀胱癌増加に結びついていない」という結論など私が少々あっけに取られる位あっさりと話してくれました。

 

他の医師からの質問で、「今後日本の被災地域でチェルノブイリ膀胱炎が増加すると思われるか。」という問題については、氏は「明確な予測はできないが、そのような変化が出現しないかは今後10年くらい注意深く見てゆく必要がある。」という答えでした。しかし日本にも居住してウクライナとの社会環境の違いを良く理解しているロマネンコ氏の意見として「福島の事故後、日本は水や食料の放射能汚染の管理が当時のウクライナに比べて格段にしっかりしているから、ウクライナと同じレベルの体内被曝を一般の国民が受けることは考えられず、チェルノブイリ膀胱炎は起こらないのではないか。」という答えでした。現在ウクライナでは体内被曝は既に減少しており、チェルノブイリ膀胱炎はもう起こっていないという事とも符合することです。

 

ウクライナ地区で80年代に10万人あたりの膀胱癌罹患率が20人代だったものが2005年に50人代に増加したというのは他地域(日本は10人位、東ロシアのアルハンゲリスクで13人位)と比べて明らかに多いと言えます。ただ80年代の時点で日本などより倍の数値であったことは、もともと膀胱癌が多い地域であった可能性もあります。膀胱癌の発癌リスクに喫煙があることは明確ですが、では喫煙者の膀胱粘膜には前癌病変や炎症が出やすいか(上皮内癌など)というと必ずしもそうとは限りません。チェルノブイリ膀胱炎は、事故後に高濃度の体内被曝を受けた人(生物学的体内半減期はセシウムの場合3ヶ月くらいなので論文の調査の時には既に低濃度になっていたと思われる)が、セシウムなどを含む核汚染物質(測定していない物も沢山ある)が尿で濃縮され、膀胱粘膜に対する長期の酸化ストレス(分子生物学的検討から)となった結果起こった組織変化であって、直接発癌へのトリガーにはなっていないが、暴露後20年くらいして統計的に増加してくる癌患者と何らかの関係(発癌が増加した核汚染地域と罹患率が一致するなど)があるのではないかというのが現在の研究者らの見解と思われます。

 

私も現在明らかになっている科学的エビデンスからはこのような結論が妥当ではないかと思いました。

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書評 勝てないアメリカ

2012-12-06 19:45:12 | 書評

書評 勝てないアメリカ —「対テロ戦争」の日常 大治 朋子 著 岩波新書1384 2012年刊 

 

毎日新聞ワシントン特派員時代の著者が米国内の現役、退役軍人、国内の基地やグアンタナモの米軍基地を取材し、また従軍特派員として2009年5月から1ヶ月間アフガニスタンの米軍前線に出陣して実際にゲリラの爆弾攻撃(IED)にも遭遇するという体験もまじえ、世界一の戦力を持つ米軍が何故アフガン、タリバンとの戦争で勝てないのかを軍事的に考察した力作です。男勝りといっては失礼ですが、実弾が飛んでくる前線に出向いて取材をし、米兵達に公では聞きにくいような本音を聞き出す胆力、ジャーナリスト精神には頭が下がります。

 

私は以前から「対テロ戦争」は軍隊の本来の使われ方ではない、と指摘してきました。ある政治目的を達するために目標を定めて限定的に「相手国の軍隊に対して」使われるのが本来の軍隊の使い方だからです。国家をバックボーンとしないテロリストの殲滅を目的に非限定的(相手国の治安、経済、政治の全てに渡りしかも期間を限定せずに)に使用することは軍隊機構の構造からしてありえません。だから例え世界一の戦力を持っている米軍であっても、そのような使い方をしたらうまく行かないのは当然なのです。

 

著者は勝てない米軍の実態を、兵士達の目線から解明してゆきます。まず手製爆弾(Improvised Explosive Device IED)の爆風で飛ばされた経験のある退役した兵士達が、明らかな傷がないにもかかわらず原因不明の頭痛や感情障害に悩むようになる外傷性脳損傷(Traumatic Brain Injury TBI)に悩まされ、またその治療に十分な国家や社会のフォローがなされていない事を明らかにします。またベトナム戦時代と異なり、徴兵制がなく、志願兵のみになった現在の米軍では、前線に行く兵士は貧しい家庭の子弟ばかりで、しかも戦場に行く兵士の希望者が少ないため、10年にのぼる史上最長の戦争の中で、同じ兵士が何度も最前線へ出兵させられる実態が明らかにされます。その中にはTBIやPTSD(心的外傷後の障害)に悩む兵士が繰り返し戦場に向かわざるを得ない状況も示されます。一方で戦争に行く若者は国民の1%であり、殆どの国民にとって戦争は他人事になってしまい、兵士達の悩みや戦争の実態を当事者として意識していないと言います。

 

私は自衛隊医官の時代に米軍と共同演習を行って米軍兵士の診察もし、「良く診療してくれた」ということで米軍から感謝状をもらった事もありますが、当時(90年代)は米軍兵士といっても屈強なだけでTBIやPTSDを念頭におく必要などありませんでした。現在米軍の兵士を診る必要が出たら、このような知識がないと正しい判断ができない可能性があり、現役の医官の人達には必須の知識だろうと思われます。TBIというのはケーキの入った箱に外から衝撃を加えた場合を考えると分かりやすいですが、箱に傷はなくても中のケーキは元通りではありえない。全体の脳の形は変わらなくても、微細な神経回路がケーキのデコレーションが微妙に崩れるように変わってしまった状態と言えます。TBIは訓練を受けた神経科医が時間をかけて治療しないと治らないと言われており、多くの米国の若者達が受傷したことがいかに国家の損失に今後なってゆくだろうかと危惧されます。最近在日米軍の兵士達の奇行が報道され、飲酒禁止や夜間外出禁止など子供じみた規則の発令がニュースになっていますが、その背景にはこのような米軍兵士達特有の問題が隠れているのではないかと私は推測します(そのような分析をするメディアは皆無ですが)。

 

第二章では従軍取材で見た在アフガニスタン米軍の現状が赤裸に示されます。ここでは米軍の現地における任務(テロとの戦争)の実態が『DIGS/development. information, governance, security』に集約される事が説明されます。Developmentは道路や学校などのインフラの整備、そして反対テロ勢力の情報を市民から集め、政府や地方の行政組織を整備し、治安を維持する事ということの頭文字を会わせたものだと示されるのですが、これは本来軍隊の任務(相手国の軍隊を撃滅する)と全くかけ離れている事が明白です。実は、米軍はテロとの戦争が従来の軍の任務とかけ離れていることを十分理解していて(それでも本格的に取り組みだしたのは2005年から)COIN(counterinsurgency対内乱作戦)と呼ばれる戦術マニュアルが作成されました。著者は当時の司令官のDペトレイアス氏で、282ページに及ぶ内容はインターネットでもダウンロードできます(http://www.fas.org/irp/doddir/army/fm3-24.pdf)。このペトレイアス氏は最近醜聞問題でCIA長官を突如辞任したことで世間を賑わしましたが、実際はリビアの大使殺害事件でCIAとアルカイダの関係を議会で追求されそうになったために慌てて辞任したという裏事情が指摘されていて、氏がCOINの著者という事実と合わせて考えると、アメリカという国家が犯す「テロとの戦争という国家犯罪」の業の深さが偲ばれます(http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/cia-60de.html)。

 

アメリカは建国以来自衛のための戦争をしたことがありません。「戦わなければ家族が殺される」という切迫感なく、常にエイリアンのように他国領土を侵略して戦争をしてきました。だから米軍兵士の戦うモチベーションはせいぜい「共に戦う兵士のため」良くて「国益のため」以外にはありません。この実態は従軍した著者の兵士達からの取材でも語られます。前にも書きましたが、この戦争をする意義の矛盾を鋭く描いたのがCイーストウッド監督の硫黄島2部作です。つまり日本とアメリカの兵士が戦う意味を家族への「手紙」と「旗」に象徴させて異なる描き方をしたのです。そして2011年のB級SF映画「世界侵略、ロサンゼルス決戦」では祖国を侵略するエイリアンに対して家族を守るために死力を尽くして戦う米軍が描かれ(アフガンと違って何と生き生きとした米軍が描かれているか)、そこには家族への手紙が象徴として登場します。つまり米軍は「本当はこういう戦争をしたいんだよー」とSFでしか実現しない夢を映画に託したのです。

 

第四章では終わりのないテロとの戦いの今後を俯瞰しています。米軍は無人攻撃機によるテロリストの殺害(実際は多分テロリストなんじゃないのという怪しい人への有無を言わせぬ殺戮)に力を入れていて、確率的に一般人40人にテロリスト一人位の割合で殺害をしていると言われます。この罪無く殺される40人はコラテラルダメージと呼ばれ、仕方ないで済まされます。同じ事をイスラム国家がアメリカ人に対して米国内で行ったらどのような反応を示すか想像がつきますが、米国はこれを戦争犯罪ではなく、合法としています。当然の結果として、そのようなアメリカが大好きな現地人などいないので、アメリカを憎む人達が増加しつづけ、趣向を凝らしたCOIN戦略にも関わらずテロとの戦争はずっと続くことになります。無人機を使った殺戮はアメリカ本土で無線操縦で飛行機を飛ばし、誰も兵士は死なず、費用も安く、何人殺したという戦果の報告もしやすく、軍産複合体の利益も大きいので国民受けも良いのですが、COINの方は人と金がめちゃくちゃかかります。米軍はアフガニスタンにおける安定した国家社会の設立を「テロとの戦争」の終結にしたいと考えているのですが、無人機攻撃が増えればそれだけ敵が増えて終結が遠のくというジレンマに出口を見いだせない状態に陥っていると言えます。そしてもう政府の財政支出も限界が見えている。だからこの本の題「勝てないアメリカ」という結論が導きだされるのです。

 

ここに来て自衛隊の国防軍化、集団的自衛権による米軍への協力といった事柄が突然選挙の公約の中に日本の喫緊の問題の如く上げられてきたのは意図的に起こされた尖閣の問題だけの事例ではないことが見えてきます。日本の自衛隊にもCOINをやってほしい、ということではないでしょうか。その意味でもこの本は現在のアメリカと日本を考える上で有意義な著作と言えます。

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責任のある人と責任をとる人が異なる日本社会

2012-12-03 18:03:21 | 社会

殺人や窃盗などの犯人が明確である刑事事件では、犯した罪に対して罰を受ける人は罪を犯した本人であり、責任のある人と取る人は同一と言えます。これは皆が納得できることなのですが、日本においては多くの社会的事案において責任のある人と、起こってしまった損害や障害に対して実際に責任を取って苦労をする人が異なる場合が多々あります。いや実際はそのような事案の方が多いと言えるのではないでしょうか。

 

例えばバブルの崩壊によって発生した不良資産を粉飾決算して飛ばした結果が後々になって表面化した件など、その当時の会社幹部に遡って責任追及がなされることはなく、表面化した時点での幹部が責任を取って奔走します。バブルの崩壊自体、企業倫理をないがしろにし、バブルに乗って不労所得の獲得に勤めた面々、ソフトランディングさせずに拙いやり方で崩壊させた官僚などはその後責任を追求されたという話を聞きません。苦労をさせられたのはおいしい目を味わわずにその後を継いだ世代の人達です。

 

原発の問題にしても、今ある分の汚染や廃棄物処理を今後2−300年先までの日本人子孫達に託す事だけでも申し訳ないと考えるのが普通であるのに、どうせだから建設途中の原発も作ってしまいましょうと安易に進める人達(責任取って苦労するのは自分たちではないと決め込んでいる人達)が沢山いる事に日本人の無責任体質の根の深さを感じざるを得ません。福島の事故を考えても、本来責任のあった人達が今苦労をして後始末をしているでしょうか。4次−5次の下請けで自分がどの程度危険な仕事をするのかさえ不明なまま一日1万円に満たない賃金で働いているのは本来福島の原発事故で責任を取るべき人達とは到底思えない方達です(http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/840a370be613b007907fd90783480926)。

 

日本では「組織において責任を取る」という事は「職を辞する」ことと同意であることがそもそもの間違いだと言えます。これは古来責任を取ることが切腹する、死んでお詫びをする、と同意であった文化によるものと思います。問題を起こした人が死んでお詫びをしたのだから、その結果おこった障害を責任のない人が「仕方が無い」と思いながら後始末をし、実際に被害を受けた人が責任のない人が一生懸命後始末をしている様を見て「まあ許してやるか」と譲歩をすることで日本社会は何とか丸く収まってきた訳です。それが腹切りの風習だけなくなり、職を辞すれば責任を取った事になり、責任のない人が謝罪しつつ後始末をし、被害を受けた人はしぶしぶ受け入れることだけが残ってしまったのが今の日本社会です。この日本文化はもう変えてゆく必要があるのではないでしょうか。

 

本来「責任を取る」とは、問題を起こした人が、引き起こされた障害を責任を持って解決する事を言うのであり、それまではその職に留まらねば解決などできません。問題が起きた原因が人ではなく組織の構造にあるのならば、人に責任を負わせるのではなく、問題となった組織のあり方を二度と同じ問題が起きないように確実に変革させることが正しい責任の取り方と言えます。日本以外の国では「責任を取る」というのはこのような事を言います。勿論問題を起こした人が責任を持って解決できる能力がないならば、他の人が変わって解決しないといけないでしょうが、その際には少なくとも「この人が無能なので」と世間に知らしめてからでないと本来責任のない人が問題解決に奔走する道理が立ちません。

 

この責任がある人が後始末をしなくてよい社会、というのはある意味「全ての日本人」に「自分の起こした問題は他の人に解決してもらえば良い」という甘えとして潜在的に意識されていると言えなくもありません。社会生活をしていると自分の起こした問題でない事を後始末させられる事も少なからず出てきます。「済みません」と口では謝罪しつつも本来自分の犯した罪ではないからそれほど心が痛む訳ではない。後始末のやり方も「ほどほど」であり、本当に被害者の立場に立ったものになりにくい面もあります。問題はこの「他人の責任を取る」という事態が持ち回りで日本社会全体を巡っている事です。つまり今他人の責任を取って奔走しているA君も、本来彼が取らなければいけない責任を他の人が取っているという事態が起こっていて、A君もそれを当然の事として期待し、是認しているという事です。被害を受けた人もどこかで加害者となり、その責任は他人が取っている事を無意識的に期待し受け入れているからこそ、本来責任のない人が後始末をしている事に文句を言わないという社会が出来上がっているのです。

 

これは年金の問題、社会保障の問題、派遣労働や卑近な所ではゴミ処理などについても「まあ誰かが何とかしてくれる」という心理につながっているように感じます。あまりにも生真面目に全ての問題に向き合うと息が詰まってしまいますが、少なくとも責任のある地位にある人が「辞める事が責任を取る事」という意識は日本人全ての総意としてそろそろ変えてゆく必要があるのではないでしょうか。

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