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rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 黒幕「昭和闇の支配者 一巻」

2008-06-29 00:48:26 | 書評
書評 黒幕「昭和闇の支配者 一巻」大下英治 著 だいわ文庫 2006年刊

戦後の政界の黒幕としてまた様々な経済事件のフィクサーとして活躍(暗躍?)し、ロッキード事件で田中角栄とともに起訴されてその政治的影響力に終焉を迎えた児玉誉士夫の一代記を小説風に記述した興味深い一冊である。

貧しい生まれの乱暴者だが、純粋なところのある少年が、工場労働者から労働運動に引かれ、それが日本人の気質に合わないと知って右翼運動に惹かれて行く。純粋な心から天皇陛下に直訴する手紙を渡そうとするが失敗して投獄され、帝都暗黒化事件に係わって失敗し拳銃自殺を試みるが辛くも一命を取り留める。その後の詳しいいきさつは省かれるものの「この男は使える」と見込まれて外務省情報部の密偵として中国大陸で活躍するようになる。その中で陸軍の石原寛爾や辻政信ともつながりを持つ。大陸での実績を認められて中国対立における海軍の物資調達を一手に引き受ける児玉機関を創設して莫大な資金を動かすようになるのである。

戦後は児玉機関に残った莫大な資産を使って自由党の鳩山内閣の成立に奔走する。その中でロッキード社とのつながりや、経済事件との係わりができてくる他、日本の左傾化に危機感を持ってやくざ社会と右翼との結合を計ったりするのである。中曽根首相や読売新聞のナベツネ氏や氏家斎一郎との交流なども紹介される。

これらの事件が現在進行形で起こっているときは、その背後関係などは我々一般人は知る由もないが、時を経てこのような形でダイジェストとして解説されるとなるほどと理解できるものである。

「どんな人でもそれなりの地位、立場に就くような人というのは、それなりの物(他人より優れた懐の深さといったもの)を持っている」というのはよく現した表現だと思う。単なる拝金主義の中身のない成金というのは、手にした金は豪邸と女に使うものである。児玉誉士夫という一見風采の上がらない小男が政界、経済界、やくざからも恐れられる存在になるにあたって、彼はどのような日本、どのような社会の存立を理想として活動していたのかというところが一番知りたいところだと思う。

1960年の安保改定に際してアイゼンハワー大統領が来日する予定であった時に、日本は国論を二分するほどの猛烈な反安保闘争が行われていて、当時の警察力では十分な警備体制が敷けない状態であった。そこで左翼勢力を抑えるためにヤクザ界が大同団結して行動右翼として警察を補佐するという計画が実行される。結局大統領の来日は中止されて前代未聞の警察とやくざの連合は実現しなかったのであるけれども、そのようなことをやくざ側のみならず政府側までも、その方向でまとめあげてしまう実力を持っていたことに驚かされる。

昭和40年の日韓基本条約締結の準備にあたっても、日韓の交渉上の橋渡しを繰り返し行っていた。朴大統領との会談では李承晩ラインによって韓国側に組み入れられて、韓国が実力で支配してしまった竹島について、将来条約締結の際にもめる元になるからいっそ爆破してしまいましょう、ともちかける話も出ている。見方によっては彼のスタンスは日本にとって必ずしも有利なものではない売国的な行動に見えるところもある。しかし戦前からアジアを西欧列強に対抗する日本中心の版図と考えて幅広く活躍してきた彼にとっては、ソ連や共産中国に侵食されないようアジアを連帯させてゆくことに国益を見出していたのかも知れない。私は中学時代の70年代に韓国にホームステイしたことがあるが、当時も占領時代を悪とする博物館はあったが、現在のようなヒステリックな反日機運はなく、老人などは日本人に昔使っていた日本語で普通に話しかけてきたものであった。

ロッキード事件ではロッキード社の日本側エージェントとして報酬を得ながら政治家や航空会社に収賄を行ったとして取り調べられて、報酬を得ていたことが脱税にあたるとして起訴され、家屋敷なども追徴の対象として結局黒幕としての活動に終止符を打たれて、本人も脳梗塞に倒れて亡くなるのだが、ひとつの時代が終わると同時に彼を黒幕として利用していた勢力からこの事件を機にお払い箱にされたという感が否めない。

若いときに外務省の諜報員として利用された時から、ロッキード事件まで、彼の人生は黒幕として体制を動かすために勢力から利用されることに終始してきた。その立ち位置は彼自身が一番よく理解していたのだろうと思うが、その立場において彼自身が自らの意思でなそうとしてきたことは何であったろうか。児玉は青年思想研究会(青思会)という右翼団体を形成してきたが、彼なりの一つの思想に沿って日本を動かしてゆきたいという志を持っていたと考えるべきであり、私腹を肥やしたいだけの単なる凡夫でないことだけは確かであろうと思う。
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死刑廃止議論に思う

2008-06-26 00:28:26 | 社会
「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」(時事通信) - goo ニュース

「進歩的文化人たるものは犯罪者の人権も大切にするから死刑にも反対であり、それを執行している自民党の大臣は死に神呼ばわりして自分は良い子ぶる」という朝日らしい軽率な記事だと思った。

裁判員制度の導入も死刑廃止に向けた試みという話しもありますが、世論調査では死刑廃止について国民の多くが反対しているのに一部の識者と呼ばれる人達は死刑廃止に熱心です。その理由として

1. 先進国で死刑を存続させている国は少なく、野蛮である。
2. 冤罪の場合、取り返しがつかない。
3. 死刑存続が統計的に凶悪犯罪減少につながらない。
4. 死刑は報復であり、教育刑の考え方に反する。
5. 死刑を執行する刑務官の苦痛も考慮するべきである。
6. 国家権力による人命のはく奪は基本的人権の上からも許されない。

これらのそれぞれは説得力のある理由だと思われるし、すべてを論破できる理屈を持っていないけれど、私は人の命を助ける仕事の医師ではありますが、死刑廃止をもろ手を上げて賛成する気にはなりません。死刑に相当するような納得できる実効性のある刑罰が取り入れられれば死刑はなくなるに越した事はないと思いますが。例えば硫黄島のジャングルに鉄条網を張ってその中で自活して永久に自由に生きてもらう島流しとか、映画「マトリックス」で描かれたように永久に眠らされて夢を見て自然死を迎えるとか。

「先進国では人命を尊重するから死刑はしない」という議論は誤りだと私は思います。人質事件が起ると日本は人質を助けるために犯人に屈するけれど、欧米では人質は犠牲になっても犯人には屈せず、大抵射殺部隊が裁判など関係なく現場で犯人を射殺してしまう。犯罪に対する対処の方法が異なるというのでしょうが、日本人が死刑廃止論で唱える人命尊重の感覚とは彼らのやり方は異なるように思います。

そもそも人命を尊重するならば先進国において無差別大量殺人兵器である核兵器はとうの昔に消滅してなければおかしい。無辜の民を複数殺した殺人犯は殺さないけれど、無差別大量殺人兵器は国家として保持し続けるというのは「生命を尊重する」という理屈としては破綻していると思いませんか。「戦争と市民社会の治安維持は異なる」というのは屁理屈だと思います。

日本人がこの辺りの問題で考慮に欠けているのは西洋人と日本人の宗教観、死生観の違いです。日本人の考えでは凶悪犯が死刑囚として生きていれば凶悪犯のままですが、死ねば「皆ホトケ様」になるという思想があります。しかしキリスト教文化では生きている内に神に懺悔をしなければ救われず単に地獄に行くので、懲役300年でも生きて懺悔をせよ、という考えになるのだと思います。死に対する考え方も、欧米では脳死をもって「人の死」と考え、安楽死に対しても比較的柔軟な考え方をします。西欧では「死」は日本人よりもあっさりした「終末」であって、「いかに生きるか」の方が重要と考えられています。日本では大分変わってきたとはいえ、「いかに死ぬか」というのが生きてゆく上でやはり重要なテーマであって、若いときから老後を心配しながら生きるのは「惨めな死に様をしたくない」という観念が生まれながらに備わっているからではないかと思います。医者をしていると日本人の多くは「納得できる生き方」よりも「納得できる死に方」を重視しているように見えます。

欧米ではどうせ死ぬのは同じだからと本人も納得して、新しい抗がん剤が効くかどうかプラセボ(偽薬)群と実薬群に分かれた投与実験などが大規模に行われたりしますが、日本では癌の患者にあなたは偽薬かも知れませんが薬の治験に参加しますか、といってもあまり積極的に参加は得られない、むしろできる限りの治療は行って、どうしても駄目なときは本人が苦しまないようにしてください、という希望が殆どです。

話しが死刑から逸れましたが、「罪を償って死ぬ」というのは死に方にこだわる日本人にはかなり「良い死に方」であって受け入れやすい考え方なのだと思います。「罪を償って死んで仏になる」のだから世論調査ではあまり反対が出ない。遺族も犯罪者の家族もこれで救われるのです。

生死にかかわる文化が異なるのに、一方的に野蛮だの間違いだのと評価するべきではないし、やみくもな西欧礼賛もやめるべきであるというのが私の主張です。日本の死刑制度を自分たちの基準だけで批判する西洋人に「君たちとは宗教観や死生観が違うのだよ」と反論した文化人諸氏はいるのだろうか。皆「白人様の仰せの通りでございます」と平伏してないかな。
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人権擁護法案の目指すもの

2008-06-22 23:18:39 | 政治
6月26日号の週刊新潮誌によると過去2回にわたり没になった「人権擁護法案」がにわかに復活して、会期末までに国会を通そうという勢いを持っているということである。「人権侵害」の題目さえあれば「人権委員会」なる民間人の組織が、独自の捜査権で捜査令状なく個人を捜査、取調べができる仕組みであるという。今回法的処罰はなくなり、話し合い解決という曖昧な表現に変わって、一見ソフトな内容にして何とか法案を通そうとしている由です。

本来普通の日本人にはまったく何の利益もないこの法案を、何回没になってもまるでアメリカ下院で行われた「慰安婦非難決議」のごとくしつこく復活させて通そうとする目的は何であるか。通そうとしている議員たちの素性とそれをバックアップしている団体を見れば大方の予想はつきます。

太田誠一、古賀誠、二階俊博、山崎拓といった面々、団体、朝鮮系団体などが主なバックアップ団体のようだ。日本は戦後タブーと言われる領域について、負のイメージでマスコミに報じられることは封じられてきて、様々な利権や特権を弱者、被差別を訴えること、時には暴力に訴えることで得てきた。それらの利権には当然政治家達へのキックバックが含まれ、政治家達は表向き弱者の味方を名乗り、正義をかざしながら同時にキックバックも得られるという蜜を享受することができました。自民党内でも官僚や大企業とつながっている人たちはあまりそのようなことに深入りしてこなかったのでしょうが、選挙の地元にその手の強い組織があれば、一般の国民は政治家に資金援助などしない国柄だから、政治家がそのような組織と深く結びつくことが自然な成り行きだったのかも知れません。

バブル崩壊後日本が長い不況の時を迎え、一億総中流から格差社会になり、またインターネットの発達で一般民衆が情報を発信するようになったので、揺るがない弱者として利権を享受してきた人たちにとって、格差社会によって生まれた真の弱者達と、マスコミと違ってタブーにも口出しするインターネットの存在は邪魔なものになってきたのだと思われます。新たな弱者層には弱者のままで黙っていてもらいたいし、インターネットも黙らせたい。その目的をかなえるものが「人権擁護法案」なのでしょう。

戦後の日本は偏った右と左の政治結社と各種のタブーにより四隅を封じられて、一般の日本人は黙って働いて経済成長を成し遂げ、刹那的な娯楽を与えられて満足するようしつけられてきました。政治を語ることは「格好悪いこと」とされ、下手にタブーに深入りすると大やけどをするように仕組まれてきました。ここに来てどうも弱者や被差別といったことが本当は怪しいということがばれてきて、今までどおりの利権を得にくくなってきた。四隅を封じられていた一般国民も生活が苦しくなって今までのように黙って貢いでくれなくなってきた。だから「強権を使っていままでどおり貢がせよう」というのがこの法律の目的のようです。利権と関係ない日本国の国民は皆反対です。もうそういうみっともないことはやめなさいよ。
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台湾に謝罪せよと命じた政治家と官僚に告ぐ

2008-06-21 23:18:53 | 政治
領海侵犯をした台湾遊漁船を沈めたとして海上保安庁は台湾人船長に正式に謝罪をし、補償を行うとした。謝罪とは罪を認め、相手の許しを請うことである。今回の早急な展開は、台湾政府が日本に対して強硬な態度に出たことで日本が慌てて問題解決を計ったことによるものだろう。

海上保安庁は法と規則に則り、現場は命がけで任務を遂行したにすぎない。そこには一点の誤りも罪の許しを請う必要性もないことは明白である。海保の船長も隊員達も自分達に落ち度があるなどとは夢にも思っていないだろう。彼らは自信と誇りをもって任務を遂行したと考えているはずである。従って今回の処置は現場のはるか上から、政治家と外務官僚が海保に対して謝罪をして幕引きをせよと命じた結果であると考えられる。

台湾に謝罪せよと命じた政治家と官僚に告ぐ、「お前たちの判断と行動は誤りである。」政治的にややこしい事態になっても、正しい行いをした者を謝罪させてはならない。お前たちもそれくらいの厳しさを持て。お前たちはここは一歩引いて下手に出ることが大人の対応だと思っているかも知れないが、それは大人の対応ではない。正しいことは正しいと突っぱねて、その後のややこしい事態を命がけでまとめあげるのがお前たちの役割ではないか。

今回台湾が強硬な態度に出たのは、背後に中国の影があることもわかる。日台離反を画策する試みもあるだろう。そんなことは後からいくらでも中国に対して裏から仕返しができるではないか。それが君たちの仕事だろう。

命がけで正しい行いをした者を安易に謝罪させることがどれだけ現場の士気にかかわることか考えたことがあるか。それが今後、日本の海の安全と治安の維持にどれだけ負の影響を残すか考えたことがあるか。「保安官達は日本の法に則り正しいことは大いに行え、後は俺たちが何とかする。」と何故言えない。この意気地なしどもめ!

自分達が悪くないのに謝罪することを繰り返せば、必ず日本人といえども堪忍袋の緒が切れる。前の大戦も庶民の感覚では、隠忍自重しすぎて一気に戦争に突入したのではなかったのか。お前たちはまた戦争になっても自分達が死にに行くわけではないからそれで良いと思っているかもしれない。死ぬのは未来の日本を背負う日本の若者であり、私の子供たちである。私は日本を戦争の道に進ませることは許さない。政治家よ、官僚よ、そのために命がけで外交をしろ、外交で日本の国益を守れ。そのばしのぎに安易な妥協と謝罪を繰り返し、再び日本が刃を抜かねばならないところまで追い詰められるような愚を繰り返してはならない。


当直をしていたある晩、明け方の4時に電話で起こされた。若い男の声で陰茎に発疹があるので診察してほしいという。明らかに緊急性はないため、翌日(といってもあと4時間後)の外来を受診するよう話して電話を切ろうとした。その男は「医者のくせに患者の訴えを十分に聞かず、朝になってからこい、というのはけしからん」とのたまう。私は逆に何故今診察してほしいと電話をしたのか尋ねた。男は今仕事が終わったところだからだと言う。さすがに私も切れて「世の中には社会常識というものがある、自分の仕事にあわせて緊急でもない診察をしろとは何事だ。」と怒った。当然である。男は医者の態度が悪いと言い、私の名前を尋ねた。私は名乗り、相手の名前も尋ねた。翌日の外来でその男が来たら、まず泌尿器科ではなく皮膚科の病気と考えられるから、院内依頼をださねばならず、また世の中の常識を再度説教せねばならないと考えて、順番を早めても私のところによこすよう受付に申し渡した。

その男は来たが、卑怯にも私の外来を避けて同僚の外来を受診し、案の定皮膚科の外来にまわされた。そしてその後、総務課長のところに行き、私の当直時の対応が悪いので謝罪するよう要求してきた。総務課長から電話があったとき、私はこちらに一切の非はなく、絶対に謝罪はしないこと、世の中の常識がわかっていないならば、社会人の先輩として説教をするから連れてくるよう話した。課長も私の剣幕に驚いたようで、その患者にはなんとかごまかして帰ってもらったようだ。まあこれは大人の対応のうちかも知れない。しかしどうしても私に謝罪をしろと課長が言ったならば私は裁判に訴えてでも謝罪はしなかっただろう。それくらいの矜持がなければ外科医など勤まらない。

マスコミが医療をたたいていれば、患者は王様、医療者は奴隷として、どんな苦情もこちらが悪いとして謝罪しなければならない、というのは誤りである。こちらが悪ければ謝罪をするが、相手が悪ければ突っぱねる、むしろこちらから苦言を呈する、それが社会のあるべき姿である。日本はいじめられっ子が反撃するとまるでとんでもないことが起こったように驚き、反撃した方をよってたかって攻撃にかかる。何故だまっていじめられていないのかと。空気を乱すなと。それは日本固有の間違ったあり方である。だから子供社会からもいじめがなくならないのだ。

国家どうしのありかたも個人間と同じである。国家同士も個人間も我を通せば軋轢が生ずる、だからといってすぐにナイフを抜いて殺し合いになどならない。お互いに理を主張しあい、妥協できるところは妥協して社会は回ってゆくのであり、はじめから理も話し合いも捨てて謝罪などしてしまったら、その後はナイフを抜いて殺し合いしかないではないか。
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「医師数不足が医療崩壊の原因」は本当か

2008-06-19 01:11:20 | 医療
<医師増員>医学部の定員削減見直し 政府が方針転換
6月17日11時58分配信 毎日新聞

 政府は17日、医学部の定員削減を定めた97年の閣議決定を見直すことを決めた。
閣議後に舛添要一厚生労働相が提案し、福田康夫首相が了承した。
来年度予算編成に向けた「骨太の方針」に反映させる。
政府は「22年度には医師不足は解消する」として、削減方針を変えてこなかったが、
医師不足の深刻化を受け、政策を全面転換する。具体的な増員数は未定だが、
削減分を戻したうえ、さらなる上積みができないか検討するとみられる。

 舛添厚労相は福田首相との会談後の会見で
「偏在ではなく、不足しているとの認識に立って医師を増やす」と述べた。
具体的な増員目標は「財源の問題もある」と明示しなかった。

 医療費抑制を念頭に置いた医学部定員の削減は80年代後半に始まり、
07年度の定員はピーク時(84年度)より8%少ない7625人。
日本の人口1000人当たりの医師数は2.0人(04年度)で、
経済協力開発機構(OECD)加盟国中で最低レベルだ。

 これに対し、舛添厚労相は自身もメンバーに加わる同省の
「安心と希望の医療確保ビジョン会議」で、医学部の定員増を主張。
提言に方針を明記し、政府として数値目標を打ち出すのが望ましいとの見解を示していた。
【清水健二、佐藤丈一】

この記事には現在の医療問題の根源となる点が多く示されています。
1) 医療費抑制を達成するには医師数を減らせばよい、という発想
2) 22年度には医師不足は解消するはずなのに不足が深刻化した矛盾
つまり、医学部定員増で医師不足が解消するなら80年代に一県一医大構想で医学部を多数新設をした時点で解消されてくるはずなのに何故今不足しているのか。
3) OECD加盟国で医師数を比べる意義は?

どうも政治家や官僚は「医師不足」と言いながら、その不足している医師の意見を聞こうとしないからこのような隔靴掻痒の結論を出してくるのではないでしょうか。はっきり言います。現在の「医師不足」というのは医者全体の頭数が不足しているのではありません。

「安い給料で、休みを取らず働き、リスクの多い医療を進んで行い、一つ間違えれば犯罪者として断罪されることもやむなし、という覚悟で働く医者」が不足している。が正しい表現です。つまり「基幹病院の外科系、産婦人科、小児科、救急疾患を扱う医者」が不足しているのであって、開業医や眼科皮膚科などの医師は増加しています。また若い医師達がこのような「きびしい環境の医師」にならず、眼科耳鼻科精神科老年科腎臓内科などには沢山入っている事実も認識すべきです。医学部定員を増やした所で、若い医師達が現在も沢山入りつつある所謂「楽な科」に入るだけならば何の意味もない。つまり政府の議論は「本気で問題解決をするつもりなどありません」と宣言されているように私には見えます。

「リスクの多い医療を進んで行ってくれる医者」を増やすには、給料を上げて、休みを取れるようにし(これは数を増やすしかありませんが)、間違っても即犯罪者として断罪されるようなことにならないようセーフティーネットを設ける、という簡潔明瞭な解決策があるのですから、それらを実行すれば良いのです。現在勤務医の年収は開業医の半分から70%であることは統計で示されています。勤務医の年収を開業医の1.5倍にすれば、勤務医が確実に増えます。勤務医が増えれば休暇も取れるようになります。そんな金がどこにある、という声が聞こえて来そうですが、医学部定員を増やす金が簡単にでるのならば後はやる気の問題と思います。官僚的発想では開業医に回る金を保険点数の改定で締め上げて、病院の方に回す、ゼロサムによる解決を計るでしょうが。確かに日本国全体が低賃金にあえいでいる時に医者だけ給料を上げろ、では納得できないのは当然かもしれません。だからとう訳ではありませんが、私は日本人の勤労者の賃金は上げるべきと普段主張しています。皆が豊かにならなければ社会は良くならない、足を引っ張り合っていてはいけない。

別の考え方として、極端な話、私は医療者は医者も看護師も介護士も全て公務員で良いのではないかとも考えています。開業医も公務員。皆同じ給料。但し激務に対してはそれなりに手当てを出す。公務員ですから、医療事故に対しては国が責任を持って対応する。これならば休みも取りやすくなりますし、地域や科の偏在も多少は緩和されるのではと思うのですが。この問題はまた後日もあらためて検討したいと思います。
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共産主義社会が崩壊したからといって労働者からの搾取が是認されたわけではない

2008-06-17 19:38:58 | 社会
 雑誌「プレジデント」6月30日号の特集は金持ち家族、貧乏家族である。現在の日本の経済状態に即して、日本人が少しでも豊かに暮らせる、或いは貧乏生活にならないための方策が年収別、資産運用などの題目ごとに呈示されていて中々興味深い。そこに示された日本の経済の現状分析において、家計の見直し相談センターの藤川太氏は、「現在の日本は必ずしも不況というわけではない。従って厳密にはいまの物価高をスタグフレーションと呼ぶ事はできない。ではいまの日本で何が起っているかというと、―完全な外部要因による物価の上昇が、企業体質の変化による賃金の抑制と同時並行的に起っているーのだ」と説明している。

 「外部要因による物価の上昇」とは前のブログにも書いた海外の資産運用が実物経済に移行したために製品でなく原材料が値上がりしていることによります。また「企業体質の変化による賃金の抑制」とは従来の日本の企業が、株の持ち合いや業績にかかわらない終身雇用、年功賃金の保持によって、株主への配当よりも企業や社員の維持に重点をおいた経営が行われていたのに対して、主に外資の圧力によって一時的でも配当が増える経費削減による利益率重視の方向に経営が変わったことを示します。正社員を減らして、必要なときに安く使って何時でも切れる派遣社員を増やしている事も同じことです。

 私は税金が増えても大きな政府で、「貯金しなくても老後や子供の教育の心配がない方がよい」という考えですし、お百姓さんが年老いても出来る範囲で畑を耕し続けるように、サラリーマンも一度引退した後も死ぬまで何らかの形で労働を続けるべきだと考えています。まるで奴隷を買うがごとき安易な「移民受け入れ」など絶対に反対です。その移民が年老いた時、誰が面倒を見るのですか。現在の少子化に対しては、我々日本人が自分で工夫をして、死ぬまで低い賃金でも、年金ではなく、できる範囲で社会に労働で貢献することが筋だろうと思います。

 私は労働こそが社会を繁栄させる源であると考えます。但し今の日本人のように休みを取らずひたすら働くのは「奴隷働き」であって正しいありかたではないです。余暇も十分楽しみ、多いに働く社会を作ることが大事です。

 本日の題は現在の状態に日本の経済を追い込んだ「ユダヤ的資本主義」への警告です。経済の専門家と称する人でさえ錬金術の如く資本を出しさえすれば、労働者が本来得るべき対価を少なくし、配当と言う「聞こえが良いだけの搾取」の手段に全て振り向けることが正しい資本主義であると勘違いしているバカがいます。シャイロックのような連中から圧力をかけられようが、法律の壁で日本を守るのが本当の愛国者であり草の根保守です。日本の官僚はのらりくらりとアメリカの圧力をかわし続けて伝統的日本の会社経営を守ってきたのに、バブルをしかけられ、潰されて日本的経営の柱であった銀行体系を解体させられ、官僚は大した悪事でもない痴態をネタに大叩きされ、電力や資源という日本社会の元ではなく、国際企業の親分を経団連の会長にして、日本の会社経営をアメリカ的経営に変更させられた結果が今の状態です。

 働かずに金だけ出している者が、額に汗して働いている者から収奪することへのアンチテーゼとして共産主義が生まれ、共産主義国家があったおかげで労働者のセーフティネットを作るなど資本主義社会が健全な成長を遂げる事ができました。勤労者が金銭的に恵まれたからこそ経済が発達し、国家が税金を取って再分配することで、貧しい者が反乱を起こして社会が不安定になることを防ぎ、さらなる経済発展ができたのです。ソ連が崩壊し、共産中国が悪い見本の拝金資本主義に走ったことで、どうも「資本家は労働者から搾取してよい」という思想まで正しいのだと勘違いされてしまったようです。はっきり言います、それは間違いです。健全な資本主義の発達のためには、労働者こそ豊かにならないといけません。新しい会社を始める活力を与えるのは、資本家の役割ですが、今のやり方では資本家はその役割さえ果たしていない。成熟した資本主義社会では銀行や政府がその役割を担える思います。

 具体的にどうすれば良いか。国を憂える政治家と官僚のふんばり、それを応援する国民が目覚めることです。日本のマスコミが「まっとう」であればなあ。
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一音からの芸術TOM SCOTT

2008-06-14 22:23:24 | 音楽
ニューヨーク留学の想い出として一番印象深いのは本場のジャズを存分に楽しめたことです。1年の留学期間中殆どマンハッタンに居たので、2週間と開けずにジャズクラブ通いができました。ニューヨークのジャズクラブも有名なところが沢山ありますが、私はLower ManhattanのBlue Noteにもっとも良く通いました。日本にも展開していて、ジャズレーベルも出している老舗のクラブですが、本拠地は以外に狭く、150人くらい入るとけっこう一杯になる広さで、ステージ前は2-3テーブル分くらいしかなかったように記憶しています。その正に目の前でメディアを通してしか聞いたことがない世界的に有名なプレーヤーが15年前で40-60ドルくらいのテーブルチャージで生演奏で聞けるのですから、マンハッタンに住んでいる以上頻繁に行かない手はありません。

 今は亡きミシェル・ペトルチアニやMJQリユニオンなんてのもありました。シャカタクやジョー・サンプルのステージも忘れられません。Village VanguardやSweet Basilにも行きましたが、やはりBlue Noteが一番有名どころのプレーヤーが多く、情報誌でプログラムを確認しては予約して出かけました。住んでいたのは70丁目だったので、Blue Noteのある3丁目まで出かけるときは地下鉄かバス、帰りはタクシーでした。

 サックスプレーヤーのTom Scottはgrpレーベルだったのでどちらかというとフュージョン系で、のりのりで軽く吹きまくるタイプかなと思いながら聞きに行きました。メンバー構成はエレクトリックベースにドラム、シンセサイザーとフュージョン系だったのですが、Tomおじさんのサックスはまさに心を振るわせるような音色で途中から声も出ないくらい感動してしまいました。一音一音を実に綺麗に出すプレーヤーで、CDよりも数段生の方が良い仕上がりという感じ、まさに一音からの芸術といってよい音でした。

 MALTAもサックスは非常に上手で、のりのりのコンサートを日本で良く聞きに行きましたが、室内で目の前でTomおじさんの音を聞かされると、うーん当分それを越えるサックスプレーヤーは自分の中には出ないだろうなあと思ってしまいます。ひとつにはやはりBlue Noteがジャズの伝統ある本場であり、そこで最高の演奏をすることがジャズプレーヤーとしての金字塔であるという認識も手伝っているかも知れません。

 ラジオ番組で、StanGetzの特集をしていた時に、パーソナリティの方が、アメリカのコンサートではGetzの演奏にすごく感動したのだけれど、日本で行われるコンサートでは悪くはないのだけれどそこまでの感動がない、と話しているのを覚えています。ジャズのように自由度が高い音楽は特にその場の雰囲気、本人の心構えみたいなものが大きく反映するのだろうと思います。その意味でやはりジャズを聴くならニューヨークBlue Noteがお勧めではないでしょうか。今はわかりませんが、よほどの大物でなければ前日で大人数でなければ十分予約できました。
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弱者の時代は終わり、エリート達の陰湿な復習が始まる

2008-06-12 00:45:48 | 社会
 格差社会という言葉が定着し、いつの間にか国民を「勝ち組」、「負け組」にグループ分けして対立させるようにマスコミは仕向けているようだ。つい数年前には、一定の職に就かないフリーターというのは時代の寵児のように扱われていた。「正社員になって会社に縛られて一生送らなくても自由に生活してゆけるのがこれからの生き方」みたいな特集が雑誌でも組まれていた。

 先日の秋葉原無差別殺人の犯人の社会的背景として、派遣社員としての不安定な生活が指摘されている。本人の携帯サイトへの書き込みでも「負け組人生」を悲観する内容があったようだ。

 責任感を持ってひとの前で一生懸命仕事をしている人に対して、「弱者」の立場で文句を言う。「モンスターなんとか」と呼ばれる一種のクレーマーが問題になった。学校の教員、医師、警察官、公務員、ホテルやデパート、一般の会社に至るまで、クレームを付ける方は王様、責任を持って仕事をし、応対する方はまるで奴隷のように対応しないといけないような空気があった。大した高給でもないのに責任感を持って一生懸命仕事をしているのに文句を言われ、奴隷のように頭を下げさせられることに「今に見ておれ」とつぶやいた人は少なくない。つぶやいた彼らは正社員であり、金持ちではないけれど「負け組」ではない。

 自分が弱者であると主張すればどんな相手にも強く出れる「一億総弱者の時代」というのがここ何年かあったように思う。私は、責任感を持って一生懸命仕事をしている人に、そうでない人間が一段高いところから文句を言うなどと言うのは非日本的な悪い風潮であると常々感じてきた。責任感を持って一生懸命仕事をしている人には、苦言を呈するにしても尊敬の念を持って接するべきである。

 年金を払っていても年金が貰えないことがある一方、生活保護に認定されると年金の最低額に相当する生活費は保証され、医療費も免除になる。不正受給で年金生活者より豊かな生活だった人もいる。弱者を主張する一部の集団は、行政からも特別扱いで優遇され、税金も別額であることが認められていたらしい。弱者=負け組というのなら弱者だけが優遇されるような世の中は終わらせないといかんね、と「こつこつまじめに働いてきた人達」は思うだろう。

 しかし「勝ち組」「負け組」の問題はそう単純ではない。今の若い人は一生懸命働いて、責任感を持って仕事をしても「負け組」に分類されてしまうような社会になりつつあることが問題なのです。一時自由人として組織にとらわれないような生き方が「格好良い」とされ、弱者を主張した方が責任を持って仕事をしている方よりも高飛車でいることが許されたからといって、「負け組」にならなかった人達が「負け組」とされてしまった人達に「自業自得」であるような感情を持つとしたら、それは誤りであろうと思います。

 本日の題名はわざと「いやらしい表現」にしたのですが、今の社会は「当たらずとも遠からず」の面があると感じます。自分も含めて、勝ち組ではないとしても自分を「非負け組」と感じている人達は、「負け組」と感じている人達のことを完全に他人事と考えているように思います。マスコミも行政も政治家も結果として階級化しつつある日本社会をもとに戻そうとは思っていないようです。弱者がいばっているのは否な世の中ですが、格差の少ない均質な社会というのが日本には似合っていると私は主張します。
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世界は次第に非グローバル化に向かっている

2008-06-11 23:10:43 | 政治
店頭から国産野菜が消える? 米・中が肥料の輸出を実質禁止(2008年6月11日goo news14:30)

 国産の野菜がスーパーの店頭から消える可能性が出てきた。
 化学肥料の原料であるリン鉱石の世界最大規模の輸出国である中国が実質的な禁輸措置に踏み切ったのだ。
 今年4月、中国は化学肥料の輸出関税を100%と大幅に引き上げ、翌5月にはリン鉱石の関税も100%に引き上げた。

 13億人という世界最大の人口を養うべく自国の農業向けにリン鉱石を活用するように方針を変更したためで、実質的には禁輸措置に近い。

―(中略)―

 肥料の3大要素といえばリン、窒素、カリウム。この3つがなければ日本の農業は成立しない。にもかかわらず、日本はリン鉱石の全量を輸入に頼っており、その多くを中国に依存。もともと、危うい立場にあった。

 中国に限らず、中国に並ぶ世界最大のリン鉱石の生産国である米国はすでに輸出を禁止している。ロシアなどでも産出されるが、国際的に品薄状態が続いており、すでにリン鉱石、窒素、カリウムは、ここ数年で2~5倍も価格が上昇している。

―(以下略)―
(『週刊ダイヤモンド』編集部 清水量介)(http://news.goo.ne.jp/article/diamond/business/2008061105-diamond.html) 引用終わり

 餓えるということの悲惨さや苦しみを終戦直後の日本は否というほど味わってきた。戦後は物資の豊富なアメリカの言う通りにして少なくとも「餓えで苦しむ」ことがないよう努力してきたのが戦後を支え、現在老人となっている日本人達である。戦後世代の我々は、お蔭で飽食の時代を享受することができ、ご飯はおなか一杯食べて当たり前、いかにダイエットするか、いかに栄養過多からくる成人病を防ぐかに頭を悩ませてきた。このような時代は日本の2000年の歴史においても極めて希な半世紀であったと思います。

 グローバル化によって国家の障壁は取り除かれ、物、金、情報、そして人が自由に世界を行き来する時代になる、或いはなってゆく、とつい1年くらい前まではそれが当然のことであるかのように語られていました。

 アメリカを中心とする金融経済の時代がサブプライム問題を契機に終わりを告げて、副島隆彦氏が予想した如く資源や穀物を中心とした実物経済の時代が到来しました。有り余った資金が限りある実物に集中するあまり、製品ではなく資源の値段が高騰し、それをもとに回転するはずの経済や日常生活に支障が出るようになり、結果として各国は資源の門戸を閉めようとしているようです。

 資源に乏しい日本国は各国から資源を売ってもらい、それを加工して製品として付加価値を高め、各国に買ってもらうことで豊かな社会を築いてきました。それは関税障壁などがない自由な世界の方が、日本にとって有利であったと言えます。後から世界の工場として追いついてきた中国も同様でしょう。今後資源を自由に売ってもらえなくなるとしたら、日本は資源がなくても作れる製品を開発するか、日本に元々存在する資源を活用することによって生活してゆかねばならないでしょう。

 資源がなくても作れるものとは、漫画、音楽などの文化、パソコンのソフト、技術、科学といったサイエンスの分野でしょうか。またもともと日本にある資源とは、勤勉で努力する国民、豊かな水と肥沃な土地、四季折々の自然、海洋などです。亡国のゆとり教育により、若者や子供たちの理数系離れが叫ばれ、非正規雇用が増加して会社のために淡々と働く人口が減少し、また農業人口、海にいきる人達(漁業や商船など)も減る一方であり、現在の日本は日本が今後生き残ってゆく道とは反対の方向に向いているようです。

 「世界はますますグローバル化して自由になってゆく」などといまだに言っている人がいたら、それは阿呆か何らかの意図をもった工作員です。世界はゆっくりと非グローバル化、閉じた世界に向かっているというのが現実だろうと思います。日本は日本の国内を大切にし、内需を拡大し、国民全てが豊かになるようにしなければ、経済活動がどんどん外国に逃げてゆき、貧しい国になってゆくことになるでしょう。
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日本に核武装は必要か

2008-06-10 21:49:17 | 政治
 アメリカの覇権が衰退の兆しを見せ、一方中国が世界3位の軍事費を費やしている現在、日本にも核武装が必要ではないかという議論が起こりつつある。自民党内にもかつてひそかに核武装の可能性を研究するグループがあったが、CIAに嗅ぎつけられて葬り去られたという噂もある。公の場で日本の核武装について議論することは戦後長いことタブーとされていたことは確かであるが、議論をすること自体何の遠慮もいらないし、大いに議論をしたほうがよいに決まっている。議論もいけないというのは共産党独裁政治の手法であり、それを日本人に押し付けないでほしい。

 私の個人的見解としては、3つの視点から日本の核武装には反対である。一つは国策上の利点に乏しいこと、2つ目は方法論的に難しいこと、3つ目は感情的に核は持ちたくないことである。

 国策の視点からというのは、政治は「国民が幸福に生きる上での手段」に過ぎないというのが、私が政治を語る大前提であるので、まず核を持つことが国民の幸せにつながるかどうかで考える必要があるわけです。国際政治の舞台では明らかに核を持つ武力の強い国の発言力が大きく、ごり押しも効くことは確かです。ただここで重要なのは核を持っている国の国民が持たざる国の国民よりも幸せに暮らしているかどうかです。先進国の中にも核を持っていない国はたくさんありますが、そこの国民が持っている国の国民よりも不幸であるようには見えません。日本が今後世界の警察として世界中の治安維持の役割を担う、Pax Japonicaを創出するならば、確かに核は必要でしょう。しかしそこまでのことを望まないならば、私は国際舞台で不利益をこうむることはあるでしょうが、ことさら核の保持にこだわらなくても良いように思います。

 日本が冷戦時代平和でいられたのはアメリカの核の傘の下にいたからであり、今後アメリカの覇権が弱くなっていくので日本独自で核を持つべきである、というのは一理ある意見です。しかし現在の日本の最大の安全保障上の脅威は中国です。ロシアは別格ですが、韓国北鮮は悪いけど日本が「本気になれば」核など使わなくてもひねりつぶすことはできます。彼らは認めようとしないでしょうが、それが日韓の軍事力の現実だから仕方ありません。ここで中国に対する場合、日本が核を持つことは、中国は嫌がる事は間違いないですが、いざ核を打ち合うことになった場合、日本が10発、中国が10発核を打ってどちらが壊滅的な打撃を受けるかというと日本が滅びてしまいます。中国という国は1億死んでも12億残ればよい国です。そんな国と核戦争をしても結局負けるのです。だから中国を相手にするなら核は持たないほうが良いのです。中国を相手にするときには今回の地震に伴って何らかの核被害が出現したように自爆してもらうとか、内乱が起きるように仕向けるとかの方が、核など使うよりよほど効果的なのです。

 方法論的に難しい点というのは、一つは核実験を行わないと核を持ったことにならない点です。日本の技術力や経済力、原発の廃棄物などをもってすれば、日本はいつでもプルトニウム型の原発なら作ることは可能だろうと思います。しかしそれを保持して、いざという時に使えるようにすることが現在の日本で可能かというと現実的には無理だと思います。北方領土を返してもらって国後島の中心に基地をつくるのなら可能かもしれませんが。

 3つ目の感情的に核を持ちたくないというのは日本人なら皆同じ思いではないかと思います。古今東西、全人類の歴史において、戦争で核を使われたのは日本人だけです。米ソの冷戦時代いつ核戦争が起こってもおかしくなかった時期もありましたが、結局おこらなかったのは日本人の核被害の現実を世界が認識していたからです。朝鮮戦争でもベトナムでもその後の中東においても限定的な核でさえ使用されなかったのは日本人のおかげです。我々は、そのことをもっと世界にアピールしてもよいと考えます。第二次大戦後、世界で核戦争が起こらなかったのは日本人が核の悲惨さを身を持って世界に示したからに他ならないからです。結果論だといわれればそれまでですが、アジア・アフリカを西洋の支配から開放したのも日本ですし、世界核戦争を回避させたのも日本の功績であると後世の歴史家が評価する時が必ず来ると信じています。

 そのような理由で私は日本の情報戦を含む国防力の充実には賛成ですが、核保有には反対であります。
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「地上の楽園」朝鮮総連は公式に否定か

2008-06-09 12:27:30 | 社会
6月8日付けの読売新聞記事に脱北女性が北朝鮮への帰還を進めた朝鮮総連を相手取って訴訟を起こすことになったという記事があった。(以下引用)

脱北女性、朝鮮総連を提訴へ…帰還事業で「虚偽の説明」
 帰還事業で北朝鮮に渡り、強制収容所に入れられるなど肉体的・精神的苦痛を受けたのは事業を支援した在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に責任があるとして、日本に脱出した女性が近く朝鮮総連を相手取って慰謝料など約1100万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こすことがわかった。
―(中略)―
 朝鮮総連は「帰還事業の主体は日本政府とその委託を受けた日本赤十字社」などと反論していた。
 今回提訴するのは05年に脱北した大阪府内に住む40歳代の女性(現韓国籍)。
 訴状などによると、女性は63年、在日朝鮮人の両親らと帰還事業で北朝鮮に渡ったが、衣食住にも困る生活を送った末、家族が強制収容所に入れられ、女性も00年に脱北を試みて失敗、収容所で拷問を受けた。
 女性側は「朝鮮総連は北朝鮮の惨状について説明すべき義務があったのに、『地上の楽園』などと虚偽の説明をして送り出し、人生をめちゃくちゃにした」と主張している。
―(一部略)―
 朝鮮総連は、法人格を持たない「権利能力なき社団」だが、訴訟の当事者となることはできる。
(2008年6月8日03時06分 読売新聞)(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080608-OYT1T00049.htm)(引用終わり)

 この記事を見て朝鮮総連の対応として違和感を持つ人は多いと思う。納税問題では総連は公的機関だから優遇されるべき存在であると発表しておきながら、自分たちが行ってきた事業の責任問題が起ると「帰還事業の主体は日本政府と赤十字社だから我々に責任はない」とのたまう詭弁もさる事ながら「北朝鮮は地上の楽園だから積極的に帰国すべし」というテーマを取り下げてしまっていることにまず違和感を覚えるのは私だけでしょうか。

 脱北して日本に来た女性がまた北に帰った際に記者会見まで開いて「北は良い所、将軍様マンセー」と言わせていたからには、北朝鮮政府の公式見解では「北は地上の楽園」というキャッチフレーズを取り下げていないはずです。おせっかいながら総連の取るべき正しい態度は「我々が行ってきた事業も宣伝も嘘偽りは全くないのであるから提訴される筋合いはない。その女性は本国における違法行為で罰せられたに過ぎない。」とするべきではないでしょうか。

 その上で、提訴されたら正面から受けて、その女性の発言内容が真実であるかないかを裁判で明らかにしてゆくのが正しい道です。それを逃げるということは「おっしゃる通り」と公式表明しているに等しい。

 本来拉致事件についても「そのような事実はない。」と言い続けてきたのだから、将軍様が拉致事件を認めた段階で「いままでの発言は誤りであった。」と深く訂正とお詫びのことばが公式に出なければいけないはずです。帰還事業についても「北は楽園ではない」と公式に認めるならば、いつからどのような事由で見解が変わったのか、それに対する責任はどう果たすのかを表明しないといけないですね。

 左翼政党や朝日系マスメディアなどで70年代以降しきりに中国や北朝鮮を「良い所」と宣伝してきたのを目のあたりにしてきた自分としては、それらに対する総括をいつ行うのかずっと待っているのですが、いまだに行われる気配すらないようです。是々非々を貫く、誤りを改むるに迷いなし、という姿勢があって始めて人の信頼は得られるものです。

 蛇足ながら、マスメディアにおいては、誇り高い、とか「プライド」とか言う言葉は国や民族を表わす場合、本来とは違う「見栄っ張り」の意味で使用されているようです。「真の誇り」があるならば、誤りは誤りと認め謙虚に反省し、卑怯なまねはせず、他を評価すべきところは評価するものです。入学試験に多く引用されることを自慢しているメディアもあるようです。語彙は正しく使用し、また自身の態度も試験に引用されるに足るものでなければならないでしょう。
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日本の緊急災害時の支援システムは大丈夫か

2008-06-07 22:08:31 | 社会
 中国四川の地震についての詳報は当局のメディアに対する4つのノー(震災の評論、反省、マイナス影響、復興に反する報道を禁止したこと)の影響もあり、生々しい映像が少なくなり、パンダの疎開など当たり障りのないものが多くなってきました。現実には水や食料の供給、伝染病の発生などこれからが災害対策の良否を判定する見せ場であるはずです。一方で核施設の損害などの触れられたくない分野の報道も少し見られたことから、中国政府はかなり神経質になっていることが推察されます。

 会員情報誌「選択」の6月号には、短稿ながら日本の都心における大規模災害で即応する自衛隊の普通科部隊が防衛省の移転に伴い減ったという記事が出ていた。曰く、市谷駐屯地の第32普通科連隊、朝霞に第31普通科連隊、練馬に第一普通科連隊と3個連隊が都内に駐屯していたのに、32は大宮へ、31が神奈川県の武山に移動したため、都内で有事即応できるのは練馬の一個連隊しかいなくなってしまったということです。

 日本の自衛隊の各部隊には、災害発生時にまず駆けつけるべき受持ち区域が決まっています。また阪神の震災の反省から、震度5以上の地震が発生したら自動的に部隊内に対策本部をたち挙げることが決まっているはずです。各連隊(普通科=歩兵、特科=砲兵など)には衛生小隊があり、災害救助システムを持っていますが、本格的な医療を行えるような代物ではなく、消防の救急システムを補助できる程度のものです。

 一つ大きい部隊単位である師団になると衛生隊(中隊規模)を持っていて複数の医官も在籍しているけれど、病院用天幕と簡単な屋外手術システムが使える程度であり、大規模災害時の医療を一手に引き受けるようなことは不可能です。その上級部隊である方面軍(師団2-4個からなる)には方面衛生隊があり、移動病院、防疫部隊と呼べる能力はあります。また離島や遠隔地に身軽に移動して医療システムを構築できる部隊を作りつつあり、今回のミャンマーの災害などにも自己完結的(自分で自分の身の回りの世話ができる)にすばやく対応できる体制ができつつあるようですが、本来自衛隊の衛生は災害時医療を目的に作られたものではなく、あくまで戦う部隊の支援ための医療組織であるから災害時医療のお手伝いはできても主役になることはないと思います。

 ちなみに横田基地には大型輸送機でコンテナごといつでも運んで病院を構築できる米軍の医療システムがパッケージされていて、世界中どこにでも駆けつけられるようになっています。EU諸国やロシアにも同様のシステムがあり、日本もそれらにならってシステムを作りつつあるのだろうと思います。

 では災害の時に自衛隊の何が頼りになるかというと、「ひと」と「移動手段」としての存在です。「ひと」はまさに建物の下敷きになっている人を助け出したりするのにはまとまった人手が必要になること。配給物資を配るのも、水洗が使えない状態で汚物を処理するのも全て人手が頼りになるからそのために大いに頼りになるのが自衛隊なのです。またライフラインが復活するまで必要となる大量の「水」の輸送や、道路が使えない場合の空の輸送も自衛隊が頼りになります。その「ひと」を確保する上で、災害発生の初動時は道路事情も悪いであろうから1000人単位の隊員が移動するにはできるだけ都内に近いほうが早い対応が可能となります。都内駐屯の普通科連隊が一つになってしまったことを危惧するのはその意味でのことと思われます。

 災害時医療は興味のある分野なので以前研究していたことがあるのですが、遠隔地における列車事故や航空機事故などの中規模災害の医療には自衛隊医療はその機動力を生かして大いに活躍できるのではないかと考えたことがあります。

 現在各都道府県には「ドクターヘリ」構想というのがあって、複数の県ですでに緊急患者を消防の連絡システムを使ってヘリで中核病院に移動するシステムができています。これはオウム事件で狙撃された国松前警察庁長官が精力的に進めておられるものでテレビなどでも何度か取り上げられています。ここで大事なのはただヘリコプターがあるだけではなくて、必要な時に必要な場所に即座に対応して飛んで病院に運べるシステムができていることです。

 自衛隊の師団には飛行隊がありますが、これはOHという観測用ヘリで病人を運ぶには小さすぎて役に立ちません。方面の飛行隊はUHという地獄の黙示録でとんでたやつがあり、病人の搬送にも適していると思われます。災害時には消防のヘリコプターを管制するシステムと自衛隊の飛行隊を手配するシステムが有機的に連携できている必要があります。軍隊というのは命令一下、全部隊を右に左に動かせる訓練をしていますので、消防との連携の構築などは平時において、連絡将校(LO)を出して図上演習をやっておけば決して難しい作業ではないように思われます。

 関東大震災は必ず来るものでしょうから、中国の地震を他山の石として自分たちの備えを改めて見直す必要があるのではないでしょうか。
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米テレビドラマに見る研修医事情

2008-06-06 23:49:49 | 医療
米医学系テレビドラマERやグレイズアナトミーが日本でも人気があるようだ。どちらもベテラン医師ではなく、希望に燃えて医師になったばかりの研修医達の物語で、それだけに学ぶことも多く、失敗もあり、ドラマになりやすいのだろう。私は熱心なファンではないけれど、同業者であるし、自分の若いころのこともあるし時間があれば見ているけれど、彼らには日本の研修医にない特徴がいくつかあると思う。

まず良い点。非常に勉強しているし、医療に対して貪欲なほど積極的で熱心である。教官の評価を非常に気にしている。最近の日本の研修医制度も実はアメリカの研修医制度を取り入れたものでシステムは似ているのだけれど、日本の研修医達はここまで貪欲ではない。

その理由の一つは専門医という資格や一人前の医師というものの待遇が日本とアメリカでは違いすぎることによるのだろう。アメリカでは研修医と一人前の医師とでは天と地ほど待遇が違う。特に一流の病院で研修を終了して優秀な成績を評価された医師は将来が約束されており、収入面での待遇も全く異なってくる。研修医の年収は数百万円であるが、専門医の年収は先日アメリカから口演に来た医師は専門医なりたてでも2.5から3千万円位であると言っていた。医者を25年している私の給料の倍もらっているということか。アメリカでは優秀な医師に診てもらうにはドクターフィーを払うのが当然なので、同じ手術も上手な医師にやってもらうには金がかかる。良い病院で研修し、優秀との評価を得た医師は若くても多くのドクターフィーを得られるのである。

若い医師達のドラマが非常にヒューマンタッチで描かれていて、皆やる気満々で輝いているのだけれど、勿論医師という職業の魅力に惹かれるところもあるはずですが、一生懸命やることのインセンチブは達成した後報われるところがあるからに他ならない。日本人の感覚では医師が若くして拝金主義であることは倫理的にいけないことであるように思われるかもしれませんが、アメリカではよく働く優秀な人が多くの収入を得ることは当然のことでそれをおかしいと言う方がおかしいと考えられています。

私が10数年前に留学したNYのコーネル大学医学部も、アメリカ有数のエリート大学であったけれど、そこの研修医達はテレビに出てくる連中のように(それ以上に)実に優秀だった。カンファレンスでは指導教官が症例提示をすると鑑別診断は何かの問いに、研修医は立て板に水のごとく答えて、それぞれの特徴を述べる。診断が決まるとその分類を教官が問い、研修医が学会で定められている診断分類をさっと答えるといったやりとりがてきぱきと行われながら進められてゆく。英語は勿論のこと日本語でも私はこれだけさらさらとは答えられないだろうと既に指導医資格をもっていながら思ったものでした。

悪い点。私生活があまり良くない?これはドラマの設定だからかも知れないし、アメリカ社会が複雑だからかもしれない。日本の研修医達のほうが平和な私生活だと思う。

研修医達を指導する中堅以上の医師達についてはあまり描かれていないようだけれど、この日米の違いについては項を改めて報告したいと思います。
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精神疾患を法廷闘争の手段にしてはいけない

2008-06-05 19:57:45 | 社会
 猟奇的な犯罪や常軌を逸した殺人事件などがおこり、冤罪になりようがない犯人が逮捕されると必ず出てくるのが、犯人は精神錯乱状態で善悪の判断ができる状態ではなかった、或いは責任能力がない、といった主張です。弁護士の職務は「裁判において弁護活動をすることで、容疑者の不利益を少しでも少なくする事」ですから、犯人の真の医学的精神状態がどうであれ、「責任能力がない」と判断されて「犯罪が罪に問われない」結果を得ることは職務を全うした「良い事」になると考えられているようです。

 「明らかに犯罪を犯したにも係わらず、罪に問われない」ことが犯罪者本人にとっても「良い事」だと弁護士が本気で考えているとすれば「弁護士たるその人の人生観や倫理観がおかしいのではないか」と言えます。「罪が確定すれば死刑になるからそれを免れるために責任能力を問うのだ」とすればまだ一考の余地はありますが、それでも精神疾患を法廷闘争の手段にするのは倫理的に誤りであると私は主張します。

 友人の精神科医は猟奇的殺人などで責任能力が問われる事があるけれど、殆どは本人の倫理観が欠如しているだけで精神疾患などではないと断言しています。実際には、精神病のために重大犯罪が無罪になるケースは年間1-2件、錯乱状態などで減刑になることは年間数件という統計があり、現実問題として本来有罪になって罪を償うべき犯罪者が罪を逃れていることはないのだと言われます。しかし世間を賑わす事件でこの「責任能力を問う」といった報道がよくなされるために、何か責任逃れのために精神疾患が利用されているような印象を持つ人は多いのではないでしょうか。

 本来「責任能力がない」というのは、「3歳の子供がたまたま手にしたナイフで横にいた妹を傷つけてしまった」とか、「痴呆になった老人がライターでベッド脇の本を燃やしてしまい火事になってしまった」という明らかに誰が見ても責任能力を問えない事例に対して「これは罪に問えません」というために規定されたものであると考えます。素人では全く分らず(何故責任能力を問うているのか分らずと言う意味)、専門家でも判断に苦しむような事例(判断は簡単だが、それを科学的に立証しがたいという意味)で責任能力を問うのはおかしいのです。

 私は精神科医ではありませんが、自動車を普通に運転できる人は「責任能力がある」と判断して良いと考えます。車の運転というのは状況判断の連続であり、それが出来るのに「責任は問えない」ということは論理的にあり得ない話しだからです。また「精神疾患に罹患している人は責任能力がない」というのも全くの誤解であり偏見であります。殆どの患者さんは通常の判断力を持っていて普通の社会生活を送っています。精神疾患を法廷闘争の手段として使うことによってどれだけ多くの患者さんが偏見や差別を受けることになるか、人権を本気で扱う気持ちのある弁護士の方達は考えていただきたいものです。

 「法は道徳の一部」というのは大学の法学概論で習う言葉ですが、約束規範の解釈においては専門家の知識が多いに必要でしょうが、傷害や窃盗、殺人といった「道徳規範」で裁く犯罪において「有罪か無罪か」を判定することは難しい事ではないと考えますし、また難しい事であってはならないのです。来年から始まる「裁判員制度」は「重大犯罪」の審判に限り一般人が参加して裁判を行うことになっていますが、法律の素人であり、医学の素人である一般の人達が難しい法律用語と医学用語で弁護士にまくし立てられて「だから責任能力がありません」と言われたときに正しく判断ができるか問題です。

 もっともこの制度は「死刑を減らす」ことが蔭の目的であると言われており、一般の人が持つ「自分の審判で人が死刑になるのは否だ」という自然の感情を「死刑を減らす」目的にうまく利用したにすぎないとすれば、「責任能力」などの議論を持ち出さなくても有効に働くことにはなりそうですが。
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四川大地震と核問題

2008-06-04 19:49:36 | 政治
 今回の中国四川大地震は震源地近くが中国の軍用を含む核施設の中心地であったことから、地震発生直後から核物質の散逸や汚染について心配する記事が見られた。それに対して、中国政府は行方不明の核物質(何かは公表されていないが)の数を示して、それらが回収されたので大丈夫といった公式発表のみがなされてきた。

 6月に入って、いつも広範な英文資料から有益な情報を提供して下さるブログ「米流時評」氏(http://beiryu2.exblog.jp/)が地震発生に伴い何らかの核爆発が起こった可能性を示唆する写真やデータを収集して下さった。また6月3日のEpoch Times(http://en.epochtimes.com/news/8-6-3/71353.html)という国際情報ブログにおいて、やはり地震が先か、地下の核爆発が先かは不明ながら綿陽の核施設のある山で多量のコンクリート片が山の頂から練り歯磨きを搾り出すように吹き出し、付近に破片が堆積したという目撃談などを紹介し、何らかの核施設の異変が地震と共に起こった可能性を他の情報も紹介しながら示した。

 6月2日には台湾国民党が中国の指導部から台湾向けのミサイル数削減について意向を受けたと発表。一方でこの4日には5月29日に黄海で中国の潜水艦から核ミサイルの発射実験があったと報道されている。

 オリンピックまであと僅か、世界中を騒がせた揚げ句エベレストの頂上まで聖火を担ぎ上げて宣伝していた時に、ミサイルについて台湾に話したり示威行為ともとれる発射実験をしたりする意味は何であるのか。

 福田首相は突然オリンピックの日中共同開催などという話しを出したようですが、何事にも受け身が信条の福田さんが自分からそのようなことを言い出すはずがない。恐らく中国政府からそれなりの打診があって、国民の反応を見るために出した情報であることは間違いないと思われます。

 女優シャロン・ストーンさんは四川の地震を天罰と評して随分おこられたようですが、私はまさに女子の発言通り今回の災害は「天罰」に匹敵する大打撃を中国政府に与えるように思えます。1億人死んでも12億人残れば、中国という場所、中国人は消滅しませんが、もし中共政府が存続できなくなるほどの打撃を受ければ、現在のような発展を続ける事はできなくなり、また混とんとした群雄割拠の時代に戻る事は必定でしょう。その時先ず始めに一番困るのはアメリカです。だからアメリカとしては現在の中共政権が存続できるように蔭に日に協力するだろうことは想像できます。いずれにしてもいつも割を食うのは被支配者である中国の一般民衆と力のない少数民族ですね。

 今後地震後の状態についていろいろな情報が出てくるものと思いますが、アメリカが本気で援助(情報のかく乱なども含む)しだしたら核のからんだ「大打撃」は本当だということになる気がします。
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