rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

賛否両論のある案件はマニフェストに銘記し選挙後に法案を通せ

2009-12-27 22:53:28 | 政治
法相、夫婦別姓法案を来年提出へ 女性再婚禁止期間の短縮も (共同通信) - goo ニュース

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選択性夫婦別姓のための民法改正を3月に通すつもりのようですが、このような案件を政権交代後半年の時点で急いで通す必要があるでしょうか。別姓賛成のブログなどを見ると法律的に認められていないと「パスポートやクレジットカードの使い勝手が悪く、苦しんでいる女性が多い」などと書かれています。つまり精一杯の苦しむ理由を探してもパスポートとクレジットカード程度のことに急いで法律改正までする必要があるでしょうか。産まれた子供は両親のどちらかの姓を付けておいて15歳になったら本人に選ばせるそうですがその方が子供はどちらの親を選ぶかの選択を迫られるようで苦しくないのでしょうか。パスポートやカードの使い勝手と引き換えにするには比べ物にならない負担に思います。(再婚禁止期間の短縮は誰も反対しないでしょうからこれだけ出したらどうです?)

理由などどうでもよい、始めに「夫婦別姓ありき」だ何か文句あるか、というのが本音でしょう!

夫婦別姓、外国人参政権といった賛否両論のある案件はきちんとマニフェストに銘記した上で次の参院選で国民の審判を受けた上で法案を通すのが民主主義の常道です。「そのような事を銘記したら選挙に勝てない」というのならば、それは国民の総意でないことが判っている「確信犯」ということになります。民主党政権は4年間持つかどうか判りませんが、このような案件は慌てず2-3年かけてゆっくり審議すればよいのです。今やるべき事は経済(内需拡大のための国民の可処分所得の増大)、外交(中韓だけでなく東南アジアやロシア、インドも)、そして官僚専横政治の打破です。

小沢さんの黒幕ぶりも最近あまりにも表に出過ぎていて黒幕でなく「表の顔」になりつつあります。多分黒幕から表の顔になった途端に小沢政権はつぶれるでしょう(表への出方があまりに下手だ)。この人は表に出ずに政治を動かしていた方がうまくゆくように思います。経済や外交についてどれだけ優秀なブレーンがついているのか知りませんが、春までの3ヶ月が民主党政権の大きな山場と思います。その中でこのような問題の多い案件を持ち出すのは得策ではないですな~。
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書評 「二・ニ六事件」

2009-12-25 23:20:24 | 書評
書評 「二・ニ六事件」平塚柾緒 著 河出文庫2006年刊

戦前の軍部独裁への端緒ともなったとも言われる二・二六事件をその背景、首謀者となった青年将校達、時間的経過などを280ページあまりにまとめた好著。日本は何故大正デモクラシーの時代から軍部独裁と言われる時代に移ったのか、また何故無謀とも言える対米戦争に突き進んでいったのか、は戦後産まれの我々には理解し難い部分であり、再び過ちを繰り返さないためにも十分に研究し各人なりに答えを持っていなければならない部分であると思います。そのためにこの二・二六事件というのは一つのキーとなる事件であり、まとまった書物を読みたいと前々から思っていました。

本書はプロローグとして時代背景を、第1部を二・二六事件4日間の時間経過を、第2部を事件後の裁判経過を詳述することで事件の全容を描き出しています。エピローグとして事件後の廣田内閣と事件の影響を簡単に紹介して終了となっています。私が二・二六事件に関連して以前から疑問に思っていた部分は、

1) 青年将校達の動機は何で、どのような社会を作りたかったのか。
2) 二・二六事件は軍部独裁の端緒と言われる割に、世間の青年将校達への見方は戦後においても必ずしも批判的でない部分があるのは何故か。
3) 背景となった陸軍「皇道派」「統制派」とは「過激派」「穏健派」という意味か。
4) 有名な「下士官、兵に告ぐ。」に帰順した兵達はその後どうなったのか。

というものですが、青年将校達のクーデターの動機は、やはり純粋に日本国内の疲弊、恐慌と飢饉による農村の悲惨な姿に対する公憤であったと言うのは(2)の民衆が必ずしも青年将校達を悪魔呼ばわりしない部分にもつながってくるように思われます。「蹶起趣意書」に見られる「不逞凶悪の徒、私心我欲を恣にし、・・万民の生成化育を阻害して塗炭の病苦に呻吟せしめ、」云々の句やそれに続くこの当時頻繁に起こった軍人らによる事件、つまり五・一五事件、相沢事件(永田鉄山惨殺)、三月事件、十月事件と呼ばれるクーデター未遂事件などを趣意書に引き合いに出している事は、彼らが体制内での自分の出世や利得を度外視して行動に出ていることを物語っていると思われる内容です。三月事件、十月事件と言うのは彼らより格上の上層部の軍人(軍閥)達が起こそうとしたクーデターで、事前に発覚したことにより腰砕けになったものであり、純粋な青年将校達にとっては「自分の身の安全を優先して腰砕けになった」と見做し歯がゆい思いをしていたようです。

では「昭和維新」などと威勢のよい掛け声を掲げながら彼らはどのような日本社会を作りたかったか、というとこれは極めて稚拙というか、「取り合えず行動を起こすだけで、その後の現実的なことは何も考えていなかった」というのが本当の所だったようです。この辺りは戦後全共闘世代の武闘派の学生運動と全く同一で、腐敗した世の中をぶち壊すのが先で後の事は何も考えていない。強いて言えば「自分たちが絶対権力を持って軍国(学生らは共産主義)的専制国家を作る」程度の無責任で幼稚な考えしかなかったと言っても過言ではないでしょう。現に青年将校達は事を起こした後は天皇が自分達の意思と主張を認め(るはずだと勝手に思い込み)、全国の自分達に共鳴する軍人・国民が立ち上がり、結果自分たちの主張に理解のある皇道派の軍重鎮達が政府を仕切ってくれると安易に考えていたのですから。

この自分たちに都合が良い勝手な意見を「陛下も同じお考えである」と相手を黙らせる権威付けのために不遜にも言い募る傾向はこの後の軍の専売特許のようになってゆくのですが(最近某与党幹事長が同じ手を使って衆目の批判を浴びたばかりですな)、この悪弊が結局戦後の「日の丸君が代などに対する拒否反応」につながってゆくのかと思われます。天皇の権威を自分達の利得のために勝手に用いた究極の言葉は「統帥権の干犯」ですが、これは本来天皇陛下以外の者は使えない言葉であるのに軍人が勝手に天皇を語って言い出したことが重大な誤りであったといえます。陛下以外がこの言葉を使ったら「不敬罪」で即刻罷免くらいの勅令を出していたら歴史は変わっていたかもしれず残念です。

そもそも「皇道派」「統制派」などという軍閥的なエリート軍人の集まりができたのは昭和に入ってから国を憂える佐官クラスの集まり「木曜会」や「一夕会」などの国策研究会が盛んになってからということですが、欧米の軍隊や現在の自衛隊では考えにくい「軍人が政治に介入することに抵抗がない」状態がなぜ起こったのか、は明治以来の軍と政治家の関係にあったと思われます。つまり当時の政治家は元軍人が多いことや、そもそも明治の元勲と言われる人達も維新では軍を率いて軍人として戦っていた人達ということもあり、軍人と民間人の境目というのは今ほど明確でなかったというのが本当ではないかと思います。「太平洋戦争は軍の暴走が招いた」というのは本当だと思いますが、もともと日本は軍と民間の区別が明確ではなかったのであり、どうも軍人だけを悪物にしておけば良いというのは誤りだろうと私は思います。二・二六事件で襲われた岡田首相(押し入れに隠れて助かる)も一命をとりとめて終戦の時の首相を勤めた鈴木貫太郎侍従長も元軍人です。

「皇道派」は過激派、「統制派」は穏健派という色分けはある程度合っているようですが、東条英機も辻政信も統制派であり、決して「ハト派」的な色分けなどではなく、統制派の方が現実派であっただけというのが正しい認識だろうと思いました。

「朕の命令」と同じと教育された上官の命令に従い、結果的に皇軍に対する反乱の汚名を着せられた下士官、兵達のその後も決して安楽なものでなかったことがこの本で判りました。兵達の多くは無罪とされながらも、後々まで何らかのペナルティを着せられ、戦後まで名誉を回復される事はなかった上に、降格された上に何回も招集されて戦地に散っていった人達も多かったと記述されています。事件後の一方的な裁判において上官の命令に従った結果有罪とされた歩兵第三連隊第七中隊の堀曹長は暗黒裁判といわれた事件後の一方的な軍法会議の席で「裁定には従いますが、この事件が起こった背景となった政府のだらしなさ、叛乱を起こす恐れのある将校を放置した軍上層部のガバナンスのなさを指摘し、自分たちのように、忠実に命令に服した結果が罪になるような兵が今後出ることがないよう軍は反省し機構を改善せよ。」と実に二二六事件の本質に迫る陳述をしたと記録されています。このとき軍が堀曹長の指摘に真摯に答えていれば第二次大戦の悲劇は避けられた可能性があります。軍は事件の首謀者は民間人の北一輝や西田税にかぶせ、青年将校らは彼らに操られた被害者という決着をつけてしまいました。つまり軍として反省することをせずに事件の決着をつけてしまったところがその後の日本を大きく誤らせてゆく原因にもなったといえるでしょう。
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う◎こしたい車

2009-12-24 17:33:01 | くるま
下世話な題名で失礼します。

通勤で片道50キロ近く運転して3年以上になると、運転を職業にしているようなプロの人達も感ずだろういろいろな事が判ってきました。例えば片側2車線の幹線道路で隙があれば右に左に車線変更をして1-2台づつ無理に抜いてゆく車がありますが、これなど周りの車にとっては危険で迷惑なだけで全くナンセンス。次の信号で抜いた車に追いつかれ、結果的に目的地に早く付くことは全くないのは明らかです。

車を運転していて「いても立ってもいられない、一秒でも早く進みたい」などという状況は、

1)産まれそうな妊婦さんを病院に運んでいる。
2)うんこをがまんしていて苦しい。

のどちらかしかないと思われます。私は片側2車線の道路を右に左に無理やり抜かしてゆく車を見ると「可愛そうに、うんこ我慢しているんだな。」と思う事にしています。しかしその「うんこ我慢している」車が20台に一台位あるのも事実で思わず苦笑してしまいます。

ほかにこれは「危険な上に迷惑だ」と思うのは、片側2車線の道路で右折車線のない所で右折しようと止まっている車です。反対車線も2車線あるのですから、なかなか右折できず、後続車は左側車線に移るか、右折車がいなくなるまで後ろで待つしかありません。私は右折したい場合は先に進んで一度左折してから戻ってきて左折して入るか、右折車線がある所まで進んでUターンして戻る事にしていますが、夜間、車の流れが早くて70キロ以上大型トラックも出しているような幹線道路で右折しようとして止まっている車は殆ど自殺行為だと思います。他にも霧が出ているのにライト付けない車とか、赤信号にアクセル踏んで突進する車とか「初心者」的運転の車は随分とあるものです。

信号の変わり際どの瞬間まで行けるか、はかなり難しい判断です。歩行者用信号で予想は付くのですが、歩行者用信号が変わってから赤になるまでの時間差は様々ですし、交差点によって黄色信号の長さも微妙に違います。また直進が赤になってから右折信号が出るものもあります。私は真後ろに大型トラックが付いている場合は少々無理があっても直進することにしています(たいていの大型トラックは赤直後までは青と考えているから急に止まると追突される)が、反対車線に右折待ちの車が止まっている場合には早めにスピードを緩めて止まるようにしています(右折信号が付くと同時に右折車が飛び出してくる)。

「安全に無駄なく余計な渋滞を回避しながら速やかに目的地に着く」のが上手な運転であることは明らかなのですが、私が通勤する平日の早朝や夜間ではやはりトラックのプロの運転手達の運転は上手だと感心しますね。彼らの後ろを走っているとたまに排気ガス臭いので困ることもありますが大抵安心です。一番危ないのは休日出勤する時でサンデードライバーの中で運転するといつもの感覚と全く違い予想外の行動をする人や無意味な割り込みなどの所謂「へたくそ」運転が多い。まあ私もかつてはそうだったのだろうけどいつも以上に気を使って運転しないといけません。

毎日通勤していると、月に1回位は事故で警察が出張っている場面に出くわしますが、年に1回位は「今事故が起きました」という場面に遭遇することもあります。道路に人が横たわっていることもありました。そんなことから私は車にアンビューマスクといってマスクを当てて人工呼吸ができる小さなセット(三千円位)を用意しています。知らない人に口移しの人工呼吸はしたくないので。幸い今のところその出番はないのですが、救急車が到着するまでの処置が生死を分ける場合もあるのは事実です。

冬場はエンジンが暖まるのに時間がかかるので、シビックハイブリッドも平均燃費が落ちてリッター20キロ台(春秋は22キロ夏はクーラーの分落ちる)になりますが、低燃費、安全、しかも早くを心がけて毎日通勤しています。
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批判されると崩壊するような国に正当性はないだろう

2009-12-23 18:30:50 | 社会
日中歴史共同研究、「南京事件」は両論併記へ(読売新聞) - goo ニュース

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歴史共同研究で明確にしておかなくてはならないのは、日本は「有識者」による自由な研究の場であるのに対して、中国は国家の定めた歴史観を裏打ちするために存在する官僚が中国が定めた歴史観を日本に押し付けるためにきているという大前提を明記することです。日本と中国では「有識者」の内容が異なります。

このニュースで最も興味深いのは「1945年以降の現代史については公表を見送る方向となった。中国側が現在の中国政府への批判につながることを懸念したためとみられる。」の一文です。つまり終戦後からの歴史を史実に基づいて検証すると何より日本と戦ったのは共産党でなく国民党であることが明確ですし、建国後の飢饉による大量餓死や文革、天安門の時の大虐殺に触れざるを得ない(事実だから)から避けて通るということでしょう。しかし真実に基づく歴史の審判を受け入れる度量もない国が、それ以前の歴史について共通認識などと傲慢にも他国に語る資格があるのでしょうか。

自分たちへの批判を一切許さない、ということは批判は真実だから何の反論もできないという意味であり、それによって現体制が崩壊する位、現体制の正当性は脆弱であるという自信のなさの裏返しでもあります。このような研究は無意味であり、二度と行わない方がお互いのためです。中国において「歴史」という言葉の意味は学問としての歴史ではなく現体制が正統であるための権威付けにすぎません(拙ブログ、「歴史とは何か」書評参照http://blog.goo.ne.jp/rakitarou/e/92cb99a26a0089c5f59dfa075dd853ef)。マスコミの方もそのあたりの意義付けをしっかり報道する必要があると思います。しかしこの読売の記事は中国側の非常識をうまくあぶり出して報道している点でGJと言えるでしょうね。

子供たちに必要な真の歴史教育とは、特定の勢力に都合の良い歴史観の押し付けではなく、今回のことのように「歴史を研究すると現政権の批判になるから触れないでおく」という決定を下さないといけないのはどうしてか、を考えさせることです。歴史の勉強によって日本の未来の選択肢を決める参考にするには自分で考える能力こそが必要なのですから。
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アメリカは建国の精神に戻り、中国は小国家連立の連邦になるのが真の繁栄につながるだろう

2009-12-16 23:18:42 | 社会
米中の2大国による世界統治のもくろみへの批判を時々書いていますが、前にも述べたように私はアメリカのグローバリズムと中国共産党が嫌いなだけで、米国と中国そのものは世界の中でも好きな国々でありそれぞれの国に友人もいます。ではそれぞれの国がどのようなあり方であればより望ましいかを備忘録の意味も兼ねて勝手に書き連ねておきます。

米国は欧州の旧世界に対する新世界として、古い格式による人種、身分、宗教にとらわれずに己の才覚によって自由に生きる事ができる夢の国として建国されたと認識しています。だから米国人になるには現在はいろいろと制限がありますが、原則は米国憲法の精神を尊重し、それを順守することを誓うことで十分なのです。建国当時は「人間」は「白人」だけで有色人種は人間ではなかったのですが、現在は肌の色に係わらず同じ人間として扱われることになっています。だからアンチテーゼである新世界「米国」が現在のようにテーゼたる旧世界をグローバリズムの名のもとに支配したり変革したりするのは本来の建国の主旨からは反することであって、米国は米国一国で完結していなければいけないのです。回教、仏教、ユダヤ教その他旧世界には様々な宗教や身分制度、歴史に裏打ちされたしきたりがあってそれでよいのです。そしてそれを不服とする個人は米国に移民をしてそこで個人の才覚で生きてゆくのが本来の姿でしょう。米国の存在自体が一つの世界であることに意義があるのであって、米国がまるで旧来の世界支配を試みた各帝国のように世界を支配してしまうことは本来あってはならない自己矛盾といえるでしょう。

米国がいまだに州ごとに軍隊を持っているのは、国家(米国)が各州の自治を侵す事がないようにするためです。その信用できない国家が他国を侵略するなどというのは自国の州の自治を侵す以上にあってはならないことです。アメリカが建国の精神をなくしたのは米西戦争のあたりからですが、特に20世紀になって巨大金融資本が力をもってからが一層帝国主義に拍車がかかったように思います。世界中の旧世界の優秀な人達が夢を持って米国に渡ろうとするような国に一日も早く戻って欲しいと願います。

一方中国は単一民族が支配する統一国家で千年帝国を築いたことなど歴史上ないことが明白であるのに、漢民族(客家?)の支配する共産党が周辺の少数民族を強権で支配して統一帝国を築こうとしています。90年以降の悪しき資本主義路線に目覚めてからの大国嗜好は文革時代に「走資派」と断罪されて殺されていった数千万の犠牲者達にどう顔向けするのかと思うような堕落ぶりです。

中国のような国は「強権でまとめてゆかないとばらばらになって却って外国から侵略や支配を受けることになるのだ」というのは現在の支配者達に都合が良い言い訳であって、各民族はそれぞれの伝統や好みで生きてゆく方が幸せであるに決まっています。「日本は中国に取り込まれていた方が、ロシアやアメリカから干渉を受けないから幸福なのだ」と言われるのと同じで、「大きなお世話、お前にも干渉されたくないぞ」というのが現在中共に侵略されている各民族の本音であることは明らかです。

中国という土地とそこに住む13億の人々が今後も消滅しないことは明らかですが、現在の共産党独裁支配のもとでの偏向した資本主義が今後も繁栄を続けるというのは素人の私にも「うそだ」と判ります。こればかりは副島さんが何と言おうと「無理なものは無理だ」と断言します。人間というのは圧制の下で永久に耐えられるものではない位のことが何故わからないのでしょうか。各民族の自治を大幅に認めて、自由選挙のもとでの連邦制国家に上手に路線変更してゆければ中国の未来は明るいと思いますが今のままでは三千年の歴史が繰り返すだけだ位のことはわかるでしょうに。

上記のような国々になった場合、現在の支配者、権力者の一部は困るでしょうが、一般の国民で困る人はいるでしょうか。
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小沢さんの訪中団は遣唐使だろう

2009-12-14 18:43:51 | 政治
小沢さんの600人もの訪中団を見て、これは現代版の遣唐使だなあ、という感想を持っていたのですが、ブログ検索をかけてみるとやはりそのような印象を持った方がかなりいたようです。

日本は歴史的に時の王朝や権力者が、大国である中国から「お墨付き」をもらうことで日本国内における権力の証明、後ろ盾にしてきました。魏志倭人伝に出てくる記述や、遣隋使遣唐使、朝貢貿易などなど「日本の王である」と中国から認めてもらうか、少なくとも一方的に宣言することで日本国における自分の立場を正当化してきたといえるでしょう。

今日本では民主党鳩山政権が献金の問題や普天間基地の問題で揺れていて、特に米国と対立することを怖れる勢力がしきりに民主党を攻撃しています。私は中国共産党は嫌い、米国ユダヤグローバリズムは嫌いですが、それ以外の米中は好きですし、国民そのものを嫌ってはいません。だから米国とも中国ともうまくやってゆくのが良いと思ってはいるのですが、残念なことに中国は共産党が天下を取っていて、米国もグローバリストがまだまだ力を持っています。

米中2局体制で世界を支配することを目論んでいるのは私の嫌う中国共産党と米国グローバリストなので、私としては世界が多極化する方向で日本が外交の選択肢を選んでくれれば最も国益にかなうだろうと考えています。その視点から今回の遣唐使は国益上どうなのか、「米中二極化」の中で「米」から「中」へ重点を移しただけなら同じ皿の上で右から左に物を移動させただけで中身は変わらないことになります。とすれば米グローバリストの走狗の人達は慌てることはないと思いますがね。

今回の遣唐使が、小沢民主党の権威付けとして、最終的に欧州やロシア、インドや中韓以外の東南アジア諸国と米国に邪魔されずに今まで以上の関係を築いてゆくための布石であるとするならば、私は「あっぱれ」をあげたいと思います。もう少し様子を見て見ましょう。
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ビジネスチャンス

2009-12-02 21:58:18 | 社会
病院職員の昼食の調達は意外と大変です。職員食堂もありますが、いつも同じようなメニューで毎日食べるのも飽きます。弁当も作ってくれる人がいれば良いですが、医者達は時間がなく、技師さんや看護師さんも男性が多くなり、また休み時間も限られているので近くのコンビニ弁当やカップ麺という場合も多くなります。

以前都内の大学病院に勤めていた時に、出前がてら売れそうな中華定食、チャーハン、五目焼きそば、ホイコーロなどを50食位作って昼時にトレーラーで職員棟に売りに来ている中華食堂がありました。1000円位でそこそこの作り立て中華定食が自室で食べられて、後から容器も回収に来てくれるので見込みで作ってきた定食が殆ど完売していました。

ある日医局にいつも売りに来ていた中華屋のおやじ(と思っていた)人から電話があり、「実は不法入国で就労してたのがばれて強制送還になりました。長い事お世話になりました。」と挨拶されました。誰も知らなかったのですが、その働き者のおやじさんは近くの中華屋さんに住み込みで働いていた不法入国の中国人だったようです。毎日昼時に4-5万円の売り上げをあげて夜も店や出前で稼いでいたようですから、中華屋さんにとっても助かったでしょうし、給料がいくらだったか知りませんが、10年はいたので当時ならば中国に帰っても十分良い暮らしができるくらいお金を貯めたことでしょう。

今私のいる病院では2つあった職員食堂の一つがつぶれて、公募で外来患者さん兼用の食堂を入れたのですが、これが全くやる気のない経営者で、うまくやれば100%客が来る環境を与えられながら職員はすぐに行かなくなり、私も3回まではがまんして行って「このメニューはこうしたらもっと良い」などとアドバイスまでしたのですが、改善するつもりがないらしく私も行かなくなりました。そもそも男が「自分が作った方が旨くできる。」と思ってしまったら2度とその店には行かないです。「ほう。」と思うような工夫や旨さがあればリピーターになるものです。また病院の職員というのは看護師さんも含めて舌が肥えてますから、少々高くても「美味しい」ものを出した方が客は来るものです。

私が職員食堂を経営するなら、本日のスペシャルとでもして限定20食位1300円位のちょっと贅沢な定食を用意して、それ以外の6-700円の定食も日替わりで飽きが来ないようなものを60食位、その他は定番のメニューにするのにと思ったりします。

大きなビジネスチャンスなどというものはそう沢山あるわけではありませんが、小さいビジネスチャンスは勿論努力も必要ですが、以外とあちこちに転がっているのではないかと思います。不法就労の人でもこれだけ稼げるのですから、どんな勤め先でも頑張って自分で小さなビジネスチャンスを見つけて伸ばしてゆけばいくらでも仕事はみつかるのではないかと思います。「そこそこ大きな会社の安定した就職口は」と探しても今は見つからないでしょう。ちいさな所から自分で開拓することが大事かと思います
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コンプライアンスの順守とは事後チェックを重視するという意味らしい

2009-12-01 18:24:50 | 社会
今、会社、事業所、大学などの教育機関においても「コンプライアンスの順守」が求められています。「コンプライアンスの順守」とは法令や規則に違反していないかを独自にチェックする機能を持つ、ということで、そのような委員会や組織を各機関が持つことでそれぞれの機関の社会への信頼性が高まるとされています。

島国の日本は閉鎖社会であり、「言わずもがな」「野暮な事は言わない」という習慣があります。それは商習慣にもあって「これくらいは許される」という暗黙の目こぼしのようなものが長い間に培われてきたとも言えるでしょう。産地偽装や食品の成分ごまかし、賞味期限といったものも少々の緩さはお互い判っているけど敢えて言わない、という甘えは存在しました。一方で「これ以上誤魔化すのはまずい」という限界も存在して、やはり狭い社会なので行き過ぎの誤魔化し(例えば死人が出るような)は隠しきれないからやらない、ということもありました。狭い社会であるため一度信頼が失われると回復が困難という現実がストッパーの役割を果していたと言えます。

しかし、商業圏が拡大して、中国のように死人が出ても平気な「誤魔化し」を行うような所からも日常生活の品が入ってくると自分たちの「誤魔化し」は容認できるけど相手には法令順守を守るよう要求するようになりました。それは身勝手と言うもの、だから自分たちもコンプライアンスを順守しましょうという傾向になってきたというのも理由の一つと考えられます。

本来アメリカなどにおけるコンプライアンス順守とは、「法律で規制されていること以外は何をやっても良い」という考えから、今やっている事が法律に違反していないかを事後にチェックする必要性から産まれてきたものだと聞いた事があります。つまり基本は「何をやっても自由だ」という発想であり、規制に抵触していることが判ると罰せられるというものです。しかし日本の場合は始めに法律で「何をやって良いか」が決められているのが一般的であり、やって良いと言われている事をやっている限り法に触れる事はありえないと言えるでしょう。結果的に日本で「コンプライアンス順守」というのは習慣的に「これくらいやっても良いよね」と暗黙のうちに了解済みであった誤魔化しを暴く事の意味になってしまいました。

そうは言っても100%一切の誤魔化しのない社会などというものはあり得ません。例えば大学における研究費の消耗品費の中に消耗品でないものも少し含まれる(試験管代の中に試験管立てが入っている)位のことは運用上あってもよいことです。だからコンプライアンス順守と言われた場合「どこで線を引くか」で困ってしまうのが日本の現状ではないでしょうか。増して内部告発を奨励し、告発者を保護する、と言われても告発する内容が明らかな犯罪ならば社会正義にかないますが、習慣上目こぼしされてきたようなこととなると「果して告発が社会を良くするのか」と疑問になります。

従って、日本の社会において「コンプライアンスの順守」を重視してゆくためには、アメリカ式に「これはやってはいけない」という禁止事項を具体的に定めるようにしてゆくべきでしょう。そして後は何をやっても自由であるという状況を作ってゆく必要があるでしょう。でないと始めからできることが限られた上で、運用上の柔軟性までなくなり、社会が回らなくなってしまうように思います。
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