rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

貴族社会≒グローバリズムvs国民国家≒ファシズム

2014-03-31 02:09:48 | 社会

ウクライナ情勢はまだ流動的であり、クリミア半島の帰属も住民投票どおりになるかどうかも不明な状態です。今回のウクライナの政変で特徴的なのは、間借りなりにも民主的に選ばれた前ヤヌコビッチ政権が3ヶ月の首都における抗議行動と100人程度の死者によってひっくり返ってしまった事です。民主国家ならば再度選挙をすれば良い事と思われるのに、大統領がヘリコプターで逃亡する必要がある状況にはとても見えませんでした。社会主義専制国家だったルーマニアでチャウシェスク大統領が憎悪に燃えた民衆に虐殺された状況とは背景が全く違います。

 

東欧における民主主義の脆さ、危うさは西側諸国の人達は容易に理解できないものだろうとは思います。そもそも民主主義の歴史がなく、個々人が自分の意見を日常生活に反映させる経験がない上に、日々の生活自体、経済が思わしくないために余裕がないということもあるでしょう。そのような中で、今回の政変においても活躍したとされる極右勢力というのがポイントになってくるように思われます。

 

EU域内は軒並み経済状態が悪いのですが、特に中・東欧の経済停滞が深刻と言われます。経済状態が悪いと強いリーダーシップを持つ独裁的指導者が人気を得ると言われていますが、例えばハンガリーのビクトル・オルバン首相、富豪出身のチェコのアンドレイ・バビシュ氏、やはり富豪出身のスロバキアのアンドレイ・キスカ氏、同じくスロバキアの州知事でネオナチと言われるマリアン・コトレバ氏など政治家としての経歴よりも経済力や勢いのようなもので政治の中枢に出てきた人達が多いようです。

 

     ビクトル・オルバン氏      アンドレイ・キスカ氏         マリアン・コトレバ氏

 

東欧で極右と言われる勢力が伸びている背景をヴィアドリナ大学教授のミンケンベルク氏は次のように分析しています。

 

1)      民族共産主義・自民族中心主義を是とする専制時代へのノスタルジーがある。

2)      体制変換をきっかけにした民族主義的国境の再編を望む伝統。

3)      政治的未熟さに伴う組織力の脆さ(離合集散が多い)。

4)      経済の停滞による政治・体制への不満。

 

この経済の停滞というのが実は一番大きな問題と思われるのですが、民主体制といいながら、東欧もロシアも健全な経済発展ができなかったのは、一部の富豪と99%の貧しい民衆という図式が体制変換後の20年たらずのうちに完成してしまったことにあると思われます。ウクライナの富豪リナト・アフメトフ氏はウクライナ人一人当たりのGDPが年間三千ドルといわれる中で百五十億ドルの資産を持ち、フォーブズ誌に世界47位の資産家と認定されています。今回の政変でもドネツク・マフィアのドンと言われる彼が「ヤヌコビッチは終わりで良い。」と引導を渡したために政変が起こり、次の政府に利権を引き継いだとも言われています。

 

  リナト・アフメトフ氏

貴族が経済を含む社会の中心であった時代、彼らは国家の枠に捉われずに自分達の富を自由に生かして生活していたと考えられます。領民や農奴は富に付随する持ち物であって、彼らの生活が豊かになったり、領国全体の名誉が自分の富や名誉に勝るという発想はそもそもありませんでした。そのあたりの生活態様はスタンリーキューブリック監督の映画「バリーリンドン」などを見ると良く描かれています。また一般民衆が広く国民国家的思考を持つに至った第一次大戦(同時に一般民衆が戦争の犠牲になる事が格段に増えた)では、民衆が国家のために兵士として戦い、犠牲になる事が名誉とされるようになりました。映画「ブルーマックス」では貴族しかパイロットになれなかったのに、飛行士が不足して平民からパイロットになったスタッヘルが最高の名誉勲章である「ブルーマックス」を授賞して、不倫相手の貴族の婦人から「戦争に負けそうだからさっさとスイスにでも逃げて暮らしましょう」という誘いを断り、国家の名誉に殉ずる姿が描かれます。

 

     映画バリーリンドン              ブルーマックス

 

20世紀は国民国家の時代でしたが、21世紀は1%のグローバル化した富裕層が99%の土着的貧困層を支配する時代となり、ある意味昔の貴族社会に逆戻りしてきているように感じます。一方で99%の土着的貧困層はグローバル層にしか寄与しない政治に不満を募らせており、より国家社会主義的で「国民全体に富や力をもたらしてくれそうな勢力」に魅力を感ずるようになります。米国における極右ミリシアや東欧におけるファシズム政党が人気を得る背景はそのような傾向によるものでしょう。つまり貧富の差が激しくなるにつれて、国民国家≒ファシズムに傾いて行くと言えます。だから「貴族社会≒グローバリズムvs国民国家≒ファシズム」という対立図式が21世紀に現出してくるように思います。

 

政治が民衆の要望に答えない時、民衆は民族的な要望をかなえてくれそうな権力に希望を託すようになる事は、戦前の日本の1920年代における政党の凋落にも見いだす事ができます。森山優氏の「日本はなぜ開戦に踏み切ったか」(新潮選書2012年)から引用します。

 

政党の凋落(第一章28ページ)

 ところで、政党政治の時代とされている1920年代においても、国家予算に占める陸海軍費の比率は、けっして少なくなかった。しかしこのことは軍の政治的な影響力とは無関係であった。軍が閣議に提出した案件も、審議すらされずに廃案になるような状況だったのである。政府は、国会で多数を占めた政党人によって組織・運営され、軍は基本的に陸海軍省を通して政府のコントロール下にあった。

 そのような状況が変化したのが、1930年代だった。1927年の金融恐慌に端を発し、経済恐慌が幾度も日本を襲ったが、当時の二大政党(政友会・民政党)は政争に明け暮れ、国民生活の窮乏への対応が鈍かった。財閥が牛耳っていた昭和初期の日本の資本主義は、優勝劣敗の原則が貫徹している原初的な形態だった。そこでは、自己責任が原則であり弱者へのセーフティーネットなど存在しなかったのである。(中略)

 政党にとって政権に就くには、国民の支持を得るよりも、政府(政権党)の足を引っ張る方が近道だったのである。議会では国民生活の窮乏そっちのけで、政民両党の泥仕合が続けられた。国民の間に、政党政治に対する幻滅が広がる。そして新たな期待を担ったのが、私腹を肥やすイメージとは対極にあった軍だったのである。

(引用おわり)

 

東欧の資本主義も当時の日本のような原初的な状態であると思われ、下手をするとこれからの日本も再び1930年代の日本の姿に戻って行く可能性さえ危惧されます。この本はその後の国策遂行方針のいい加減さなどについても詳しく述べられていて「戦争に至る日本の姿」を省み、これからの日本のあり方を考える上で有用な資料であるように思います(また書評を書きます)。「ファシズム=悪」と機械的に規定しても、何故ファシズムが勢力をのばしたのかの原因を絶たなければ、根本的解決にはなりません。経済の悪化と国民の貧困化、政治の劣化がセットになるとファシズムが台頭します。経済を良くし、国民全体が豊かになるよう富の再分配システムを整備し(グローバリズムが土足で乗り込んでくるような状況は阻止しないといけない)、政治が国民の声を正しく吸収しないとファシズムを防ぐことはできなくなるのではないでしょうか。

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新しい診療報酬改定(平成26年度)で医療は良くなるか

2014-03-28 20:34:48 | 医療

一般の健康な国民、或は患者さんであっても殆ど興味がない問題と思いますが、2年ごとに変更される診療報酬改定は日本の医療が国民皆保険制度という安定市場と統制価格という特殊な経済構造で成り立っていることから、各医療機関や支払い側の保険者にとっては死活的に重要な問題になります。1%の変更でももともと低い利益率で算出された価格で医療費が算定されているので、黒字ぎりぎりから赤字転落といった事態がすぐに起こってきます。

 

医療者側としては赤字でもつぶれない公立施設を除いて、赤字になるようであれば営業態様を変える、例えば急性期対応病院を療養型に変えるといった対応を迫られます。厚労省としては医療者側がこの対応変化をすることを見込んで診療報酬を決めている訳ですが、利用する国民の側への説明や説得といった事は省かれ、ニュースなどでも取り上げられる事は少ないのが現実です。

 

前回の平成24年度の改訂では、民主党政権下という影響もあった可能性がありますが、診療報酬は全体としては上昇、特に救急や小児、外科系の病院医療への報酬が篤くなったのは非常に良い内容でした。といっても病院勤務の外科医である私の個人的給与はびた一文上がってません。外科手術の報酬が上がったことで、医療機材や手術室の人件費などへの手当が充当されたこと、同じ仕事をしても科別の売り上げが上昇したことでデータ上の病院への貢献があがり、職員や医師の定数充足を要求しやすくなった、という恩恵があったのです。

 

さて、今回の改訂ですが、その基本的な考え方は社会保障制度改革国民会議の答申などで公開されています。難しい言い回しがなされていますが、要は

 

「現状の医療費を上げずに、配分調整でニーズに会わせたい」

「病院、医療者側が改訂に沿って生きていけるように態様を変えなさい」

「患者は死ぬような病気は大きな病院で診てもらえるけど、後は地元の開業医にかかりなさい。なんでも便利な大病院といった贅沢は言わない事」

という内容に尽きるでしょう。

 

全体の改定率は +0.10% というこの厳しい予算の時代に大盤振る舞いで、ちゃんと消費税8%にも対応できるようにした、との事。ただ上記の配分調整がかなりドラスティックに改訂されて、「地域包括ケアシステム」という地域毎に高度急性期を担う病院から在宅や介護を中心とする医療まで医療機関が機能分化をした上で住み分けて行くように報酬が設定されている事が特徴のようです。

 

例えば現在7:1看護という患者7名に看護師1名が配置されている病院は入院医療費が高く設定されているのですが、それが全国で35万床もあるのですが、2025年には18万床に半減することを目指しています。そのために7:1で設定できる医療のニーズを厳しくして、単に看護師がいればよいというだけでは認定できない内容になりました。7:1を取るために全国で看護師の取り合いが起こってしまった反省に基づいています。この事は高コスト体質の医療が改善されるから良い事であるように感ずるかもしれませんが、患者あたりの看護師数を減らさざる得なくなった場合には、今後消滅していた「付添婦制度」のようなものを復活させる必要が生ずるでしょう。これは当然患者側の負担になります。昭和50年代くらいまでは家族が付き添えない重症患者さんには職業的な「付き添いさん」を雇う制度があって、当時でも一日数千円から一万円の費用がかかったものでした。その後厚労省は完全看護を目指してこの制度をなくし、患者を病院に任せたきりで誰も家族が患者の世話をしなくて良い制度になったのですが、下の世話も全て看護師の仕事になって看護師の仕事が重労働化し、患者がベッドから落ちても病院の責任だなどと言われるようになってしまいました。

 

今回「地域包括ケアシステム」とつかみ所のない名前になっていますが、要は在宅医療の増進、入院の抑制が主眼であって、「家で見きれないから入院させて」という希望(大学病院にもけっこう多い)で入院させることは禁止、家で見きれなければ自費で介護施設に入れてください。という内容です。

 

独居老人問題、老老介護問題、若い人達が仕事のない田舎からいなくなる問題など、これらが解決することはないでしょうから、現実には今後種々のしわ寄せが病気がちの高齢者達に向かうことは間違いないのですがこういった問題を完全に解決した社会は古今東西ないのですから、「いままで日本の高齢者達が比較的手厚い医療を受けて来た事を歴史的な幸いとして後世に伝えて行くしかないのでは」と最近は考えています。

 

今回の改訂で「厳しい急性期医療」を真摯に行うところにはそれなりに手厚い増収(例えば休日に緊急手術をすると点数が2.6倍)になるなど医療の機能分化に対して本気度を見せている所もあります。私などが役人さんの仕事を評価するというのはおこがましいですが、基本理念に基づいてけっこう良く練られた改訂かもしれないと感じています。

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ぐあんばれ「小保方さん」

2014-03-19 23:12:00 | 社会

小保方晴子さんは、STAP細胞(stimulus-triggered acquisition of pluripotency弱酸で刺激して万能化を獲得)の発見で一躍注目の的になって、次は論文の不完全性や非再現性を指摘されて、終に博士論文も取り消しのような騒ぎになってしまいました。臨床家ではありますが、一応科学者の端くれを自任する私として、彼女を非常に気の毒に思います。

 

小保方さんのnature論文

 

私の家族とかからもこの騒動の感想を聞かれるのですが、まず初日に突然ニュースのトップで「世紀の発見、割烹着の理系女子」として紹介された時から「何じゃこれは?」という違和感を持ったのが正直な所でした。「この程度の発見」と言っては失礼ながら、内容を聞く限り大した内容はない。「万能細胞になるかもね。」というだけでまだ何とも言えないのではというのが感想でした。「割烹着の理系女子」がニュースなのだろうというのが私の感想でした。

 

いやSTAP細胞を作り出した事は私などにはできない素晴らしい研究だとは思いましたが、トップニュースにはならないでしょ、ということ。日本では動物実験レベルですが既に細胞から腎臓を作り出して尿を数ミリリットル産生させることも成功している。こちらの方が医学的には10倍くらいニュースバリューがあるけど、ニュースウオッチ9などで紹介されたこともないし。

 

前にも書きましたが、自然科学というのは演繹的な法則の上に成り立っている約束事であって絶対的な真実であるとは限りません。今回問題になっている図表の切り貼りですが、勿論切り貼りは「インチキだから不可」ですが、論文に使う図は何回か実験して一番うまく行った結果(demonstrableという)を使うのは常識中の常識で私を含めて全ての研究者がやっていることです。実験もやる度に少しずつ違う結果が出るので複数回行った結果の平均を取って統計的に有意差があることを示して「真実です」と発表するのが「科学」というものです。外国人の書いた英語の言い回しを日本人がまねるのはこれも当然で、native speakerでなければ数年留学していた程度でスラスラ英語の論文が書けるはずがありません。結果も盗用、考察も盗用では話になりませんが、そこは共著者や指導者に当たる人がきちんとpeer reviewしていれば問題ないはずで、そこに問題があるならばまた話が違ってきます。

 

大成してノーベル賞を取った科学者達も元になった研究は30前後の若い頃に行ったものが多いとされます。実際、思考が柔軟で発想が新鮮、体力も十分な若い頃の方が画期的な仕事ができるものです。かく言う私も「ノーベル賞をホームラン」とするなら「キャッチャーフライ」か、せいぜい「ピッチャーゴロ」ですが、30歳頃には誰も気づいてない斬新な結果を医学研究で出してました。惜しいのはそれをきちんと追求して論文に纏め上げる能力がなかった事で、数年後には他大学や外国から「やはりそうであったか」という私が一部一致する結果を得ていた論文が出てしまいました。これもやはり私が若かったからできた発想(上の先生達はそんなことねーよと言ってた)だったと思います。だから小保方さんも今回の論文がどうであっても「STAP細胞を確立するかなりの手応え」を今までの実験で掴んでいる事は確かなのだと思います。

 

論文内容の不備や方法(method)の不備が後から解った場合は後からきちんと発表しなおせば良いのですし、そのような事は通常行われています。誤りはきちんと公表すれば科学の世界では許されます。科学の発展はそのようにして行われてきたのです。勿論始めから全て捏造やインチキであったらそれはもはや科学ではありませんから問題外ですが、彼女の生活や共著者達を見る限り全てインチキというものではないと思います。

 

今回の叩かれようから、今後彼女が何をやっても科学者として信用されなくなったりするのはあまりに惜しいと思います。だから「ぐあんばれ小保方さん」という題になりました。以前iPS細胞の臨床応用をやったという全くのインチキドクターがいましたが、あれは私から見ても明らかにガセとわかる内容でした。「臨床をなめるな、」の一言で終わりです。

 

今回の騒動(以前からですが)では特にメディアの科学に対する理解力の低さが目立ちます。理系の学部を出た記者がサイエンスをきちんと理解していればそうそう間違えることはないと思うのですが。

 

話が少し逸れますが、米国は2023年から世界医学教育連盟(WFME)の認証を受けた医科大学の卒業生以外は医師として認めないという指針を2010年に出しました。これに従って、日本もWFMEの基準を満たした認証制度を創設して、全国の医科大学がこの基準を満たすことを迫られるようになりました。結果として東大の理科三類から某私立医科大学まで同じ基準の医学教育が行われるようになります。言ってみれば全国どこでも自動車学校で同じ事をしているのと同様で、日本の医学部卒業生は皆同じ能力を持っていることになります。運転の上手い下手に個人差があるように、医師としての能力にも個人差はあると思いますが、本当に全国の医学部で同じ教育を行う事が必要な事なのか私には疑問に感じます。底辺の底上げにはよいでしょうが、能力の高い人達をスポイルする結果にならないか心配です。

 

高校までは答えの出る問題を解く方法を教え、大学は答えの出ない問題を解く方法を身につけるのが本来の責務です。だから卒業論文でそれが身に付いているかの初歩が問われるのです。医・歯学部や薬学部は既に専門学校化していて国家試験に受かる事が責務になってしまっていますが、本来教えるべきことは答えの出ない問題のはずです。米国ではlaw school, medical schoolなどは大学を出た上で専門学校として技術を身につけるために入学するので矛盾はしません。今回の小保方さんの騒ぎ、とても大学を国民の半数が卒業している(その半分は理系だし)社会での出来事には見えません。

小保方さんにはこの騒動にめげずに地道に研究を続けて、自分でつかみかけているSTAP細胞確立の手応えを是非「夢の万能細胞」にまで実現させて欲しいと思います。

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書評 「一神教と国家」

2014-03-06 19:21:07 | 書評

書評 「一神教と国家」 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 内田樹 中田考 対談 集英社新書0725C 2014年刊

 

神戸女学院大名誉教授の内田樹氏と同志社大神学部元教授でイスラム教徒の中田考氏の主に「イスラム教とグローバリズム」についての対談集で、対談形式のため非常に読みやすい体裁になっています。

 

始めに内田氏が自身の立ち位置について語っていますが、内田氏は米国を中心とする拝金主義経済グローバリズムに反対であり、国民国家や地域の特性をもっと尊重した社会のあり方が人々を幸福な生活に導くのではないかと考えています。また現在の経済グローバリズムはイスラム社会をグローバリズム(に基づく民主主義)の敵と見なしていることについて、何故そうなるかをイスラム教に基づく社会のあり方を中田氏に問うという形で対談が進んで行きます。だからキリスト教やユダヤ教について詳しく語られることはなく、それらについては他書である程度アウトラインを知っておいた方が理解しやすいかも知れません。

 

面白いのはイスラム教に基づく社会こそが本来は国境がないグローバルな社会であって、そこに西欧社会から押し付けられた国家が立ちはだかることによって本来あるべきイスラム社会が毀損されているという中田氏の説明です。イスラム社会ではイスラム教を信じているか否かのみが問題であって、人種や国籍は問われない。イスラム教は遊牧民の宗教であって土地を境界で仕切る国家のあり方は向かないと言います。また食料の自給にも拘らず、「交易」を何より大切にする点で、国民国家が経済グローバリズムに対して農業を危機管理上完全解放したがらないことには反対の立場を取ります。

 

この「遊牧民」対「土着民(農耕民族)」の対立が「インディアン対開拓民」の場面でも「イスラム対経済グローバリズム」においても根源的な相容れない対立点であるという説明はなるほどと納得できる気がします。最近は縄文時代にも農耕が行われていたと言われていますが、縄文対弥生の変化もこの対立があったのかと言う歴史的感慨があります。

 

この「ノマド」対「土着」というのは次に論考しようかと思っている欧州における最近の民族主義右翼の台頭などにも通じるかなり重要なテーマではないかと感じています。一方的に排外主義的な「ネオナチ」は倫理的悪であると上から目線で決めつける論調が多いのですが、何故そういった思想が多くの人達を惹き付けているか、また本当にそれが「倫理的悪」と決めつける事で皆が幸せになるのかの納得の行く説明がなく、極めて土着的な存在である日本人が偉そうに論評していることに違和感が私にはあります。

 

中田氏はイスラム社会を現在の仲間内で闘争を続けている状態を治めて本来の平和的な宗教社会を築くには1924年に廃止になった「カリフ制」を復活する他にない、として日本からカリフ制再興の運動をしています。詳しくは本書を読んでいただくとして現在内部でも闘争が絶えず、対外的にも資本主義社会から危険視されているイスラム社会が、実は将来世界を拝金主義経済グローバリズムの「帝国」から救う手だてになるのではないか、という論考はつかみ所のない「ネグリ&ハート」の「マルチチュード論」よりも具体性があるように私は感じました。

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