rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

テロをする人、される人、それを守る人、そしてさせる人

2015-01-28 23:22:40 | 社会

フランス、カナダ、オーストラリアなどにおけるテロ、そしてイスラム国による日本人人質事件と最近世界中でテロ事件が頻発し、テロという言葉を聞かない日がないと言っても過言ではありません。しかしニュースでは表面的な事象、何が起きたかが繰り返し述べられるだけで、何故起きたのか、目的は何だったのか、そして目的は達せられたのか、再発を防ぐ手立ては何かなどについてきちんと解説されることはありません。

 

全て人の行いには「動機」があります。論語に「人を理解するには、その行動を視て、行動の動機を観察し、何を持って満足するかを察すれば足りる(為政篇)」というのがありますが、これはテロをする人達に対しても同じであるはずです。突発的にデタラメな行動を取る場合には動機が「ムシャクシャしたから」という事もあるでしょう。単独犯の非計画的な「行きずり殺人」などは被害者にとっては堪りませんが、起こされたテロルはそれ自体が目的のようなもので、満足を得る結果というものは初めからないと思われます。

 

しかし、苟も「イスラム国」という国家を名乗り、国際的に計画的なテロを行うからには、国家として達成されるべき目的や目標があるはずです。「聖戦(ジハード)」という名目をつけているからには、実行犯が「ムシャクシャしたから」テロを行ったという訳ではないことは明白でしょう。テロという非常手段を敢えて選択するには、「テロをさせる人」はそれを行う明白で論理的に整合性のある理由があって、「テロをする人」はそれを行う上で本来の目的を達するための手段として納得できる理由があるに違いありません。

 

多くの日本人にとって「イスラム国」というのが意味不明に見えるのは、それが一神教であるイスラム教を原理としているからだと思われます。キリスト教もユダヤ教も「生きる」という事は「神との契約」に基づいて行われており、神を裏切る事は死後の審判において地獄に行く事を意味します。シリアのアサド大統領は死後の輪廻があるとされる少数派のアラウイ派のようですが、日本では魂は輪廻し、今生は数ある輪廻の修行の場であると考えるのが普通であるのに対して、一神教の多くは死後、天国か(煉獄か)地獄に行くと考えられている点が大きな違いです。イスラム国が自分達の残虐性を際立たせるために、人質の首を斬首してみせるのも、異教徒に首刈りをされるという事態が一神教の世界ではとてもインパクトがある許しがたい死に様だと理解されているから、敢えてこのようなやり方をしていると思われます。勿論斬首は残酷な刑罰ですが、日本においてはかつて極刑として斬首晒し首になった罪人も死ねば仏として扱われ、首塚に葬られる、仏教には悪人正機という考えもあって、念仏を唱える事で悪人(必ずしも人間界で悪い事をした奴とは限らないようですが)も救われると考えると、自らの意思によらず、志半ばで他力により命を絶たれた人は「あはれ」ではあっても、殺人を犯したグループもまた「あはれ」であり、その犯人を日本民族を挙げて恨み殺しに行こう、という動機にはなりえないものだと思います。そこが、今回イスラム国が日本人を殺害してみせ、集団的自衛権など活用して日本を中東の戦乱に巻き込ませようと試みたけれどもどうも日本の世論が乗ってこないことに「あれ?」と思った原因でしょう。だからヨルダンに捕らえられている死刑囚の釈放というどうでもよい要求(もともと自爆テロに失敗して捕らえられた女性で国家にとって重要なら自爆テロには使わないはず)に変えてしまった。

 

「テロをさせる人」の動機について考察しましたが、イスラム国というのが「国家」として今後も継続して世界の中で存立して行くことを目指すならば、領土、主権、国民を確保せねばなりませんし、国家と認められるには他の国家がその国を「国家」と認めない限り永久に国家になることはあり得ません。台湾は微妙な立ち位置ながら、事実上は国家です。パレスチナはほぼ国家として国連でも認められつつあり、日本にも自治政府の公的事務所があり、安倍総理は1月20日に公式訪問をしてアッバース大統領と公式会談をしています(外務省ホームページ)。イスラム国というのは、領土はありますが、主権が誰にあるかは不明で、国民もいません(他国の国籍を持つ人のみです)。また国家として他国にみとめてもらう動きも一切みられません。結論として言えるのはイスラム国というのは「テロとの戦争」を行うための戦争相手としてだけ、存在意義のある「テロを行うことを目的とした存在」と言えるのではないでしょうか。イスラムの教えに忠実な生活を送る国家の樹立などという話もあるようですが、嘘です。なぜなら初めから「国家の樹立」を目指していないからです。

 

「テロをさせる人」は「テロをする人」をグローバリズムの原始的資本主義社会から負け組としてはじき出され、社会に不満を持った若者達に求めようとしています。イスラム国に何か純粋で強い物があるような幻想を抱かせているようです。拝金グローバル資本主義はユダヤ教とプロテスタントキリスト教の一部の信者達によって成り立っているものではありますが、本来宗教問題ではないのであって、利息を認めない「イスラム教の教え」が資本主義の種々の社会問題を解決する糸口になる可能性はありますが、イスラムの名を語るテロが改善をもたらす物でないことくらいは自分で物を考えることができる人ならば容易に理解できます。拝金グローバル資本主義社会の中では「テロをする人」「される人」「テロから守る人」は99%の貧しい人達です。一方で「テロをさせる人」はさせるだけの資金があり、テロが社会におこることで自分の立場や利害に有利な影響が出る人だと普通考えられます。それはやはり1%の富裕層の中にいるように思います。本気で拝金資本主義を是正しようと考える人はテロという手段は用いず、経済のしくみを変えることで是正しようと考えるでしょうから。

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戦後秩序の現実とは

2015-01-16 19:03:49 | 政治

戦後秩序のなりたち

 

今年は戦後70周年にあたり、世界各地で第二次大戦の戦勝を祝う行事が予定されていることは前回のブログに書きました。公の席においては、「戦後秩序」とはファシズム枢軸国家、日独伊に対して自由と民主主義を信奉する「連合国」が勝利したことによって連合国(United nations)が中心になって世界をコントロールする体制を言う事になっています。

 

しかし、実際の歴史においては、日本はアジアの国を侵略したのではなく(朝鮮と中国は一応国の体裁をとっていましたが)、アジアにある欧米の植民地を取りにいったに過ぎません。つまり欧州の古い帝国主義国家に、新興日独(伊)の帝国主義国家が戦いを挑んだことで起こったのが第二次大戦であり、結局新旧の帝国主義国家群は潰し合いによって弱体化してしまいます。替わって戦後は土地を収奪して帝国を築くのではなく、経済体制を統一することで覇権を築く米露経済帝国主義国家が2大覇権国となって世界を二分してしまうのです。

 

その経済帝国主義の覇権争いも最終的に米国の資本主義が1990年代に勝利を収め、米国流の拝金資本主義(グローバリズム)が世界標準になることが戦後秩序とほぼ同義になったと言えます。ところが、このグローバリズムが一部の金持ちと大多数の貧乏人という二極化を先進国の内部にも引き起こしつつあることから、現体制を疑問視する人達が世界の中で次第に増えて来ているのが現状です。最近起こっている国際的なニュースは、殆ど行き場のなくなった一握りの富者が持つファンドマネーが原因になっているように思います。世界を動かす権力者としては、何とか一部の富者が世界の富を独占する体制を継続させたい、つまり「戦後秩序」という名前で正当化された体制を維持したいと考えているはずです。この辺の事情は前の拙ブログでも説明しました。

 

フランステロ事件と戦後秩序

 

今回のシャルリー・エブドという週刊誌がイスラムを誹謗する漫画を掲載した事に対するテロ事件もこの戦後秩序の問題が複雑に絡んでいるように思います。欧州では帝国主義時代に植民地で、戦後独立した国々からの移民が多数本国に住み着いています。植民地時代は2級国民として宗主国の国民とは差別されて労働力として使われていた人達が、戦後独立国になったために一般の国民と同じ扱いを受けながらも、現実的には安い労働力としてそのままサービス業などに雇われて、不景気になると早々に解雇されてしまうので失業率も高い状態で集団を形成して住み続けています。フランスでもモロッコやアルジェリアなど旧植民地から400万人近くのイスラム教徒が流入していると報道されていますが、若者の失業が増える中、反移民を訴える愛国等などが勢力を伸ばしている中、摩擦が増えている現状があります。拝金資本主義(グローバリズム)という戦後秩序が行き詰まりを見せて、一握りの勝者と多数の敗者という貧富の二極化が進んでいる中で、「表現、言論の自由」という公の戦後秩序と、「テロリズムの否定」という誰も否定できないメッセージを掲げて各国の元首を含めた多数の一般国民が行進することで、その実「1%が富を支配するグローバリズムを継続させることを狙っている」のではないか、と考えるのはうがった見方でしょうか。私には、貧しい国民と旧植民地からの貧しい移民を対立させることで貧しい国民が反グローバリズムに傾くのを巧妙に抑止しているように見えます。

 

日本の右翼左翼の定義が理解を妨げる

 

フランス語は読めないので私には確認できないのですが、シャルリー・エブドというのは右派系でなく、左派系の雑誌だそうです。つまり保守的な論調でなく、革新的な内容だということでしょう。しかし外国における保守、革新というのは日本のように体制側が常に保守であった国と異なり、革新的な労働党が政権を担う事も普通に行われる社会においては、革新=反体制ではなく、どちらを選んでも体制側という前提で考えないといけません。シャルリー・エブドの画像を検索するとイスラムのみならずカソリックの風刺画も多く、伝統的な宗教などを重視しない革新系ということかなと思わせます。まとめると、

 

諸外国

保守=右派:伝統や習慣・宗教、民族や国家に重きを置く傾向

革新=左派:よりグローバル(皆が同一)な視点で集団よりも個を重視

 

という形になり、米国の民主党に属するネオコンと呼ばれる人達など新保守と名付けられながら起源は左翼であったと言われています。一方、日本では左派・革新というのは反体制派であり、保守が親米であることに対立して親中国・親社会主義で、戦前の日本は全て倫理的に悪であって、所謂反日的と言われる信条を「良し」とする人達という定義になっています。だから韓国の国粋的右翼の主張や中国の反日的プロパガンダと容易に結びつく傾向にあります。中韓が「日本の右傾化を警戒する」などと表現するときの右派の定義も日本的な右翼左翼の定義に基づいているように見えます。習近平氏は中国の伝統や習慣(儒教)を尊重し、強い中国を目指して軍隊も党の軍隊から国軍に変えようとしている「保守的=右翼的」政治家ですが、自らの信条に近い安倍氏に親近感を抱かないのはおかしな事です。

 

日本

保守=右翼:伝統や国家を重視、戦前的価値観を否定しない

革新=左翼=反体制:戦前の価値観は一切否定、グローバリズム、地球市民(社会主義体制があった頃はマルキシズムを良しとしていた)

 

という形になるでしょう。

思うに、民主党政権に一貫性がなかったように感じたのは、国民にも彼ら自身にも日本的な意味での革新系という認識が残っていて民主党が体制派であるという確固たる認識がなかったことにあるのではないかと思われます。一方で現在の安倍政権にも昭和的な保守・右翼を感じさせながら、TPPや米国流グローバリズムを推進している所があり、これは欧米で言うなら伝統を破壊する「革新=左派」的政策であると言わざるを得ません。安倍首相が日本的右翼の衣をかぶった左翼政治家なのか、結局目指すところが戦前を良しとする旧態依然の右翼政治家なのか判断しかねるのは日本人のみならずアメリカの政策担当者も同じなのではないでしょうか。

 

戦後秩序の今後

 

「自由と民主主義を守る」という表向きの戦後秩序の信条は今後も大事にされると思いますが、現実社会では「自由」も「民主主義」も危ういものになってきていることは皆薄々感じているはずです。一方で経済において戦後秩序として打ち立てられた「拝金主義グローバリズム」も権力者達は維持したいと努力していますが、どうも上手く行かなくなって来ているのが現実です。本来拝金主義グローバリズムは戦後秩序が目指したものとは無関係な産物です。我々一般民衆としては「自由」と「民主主義」を駆使して拝金主義グローバリズムを打ち壊し、真に豊かな社会を築きたいものです。それでこそ初めて戦争で犠牲になった人達の死を無駄にせず、戦争の教訓を生かした戦後秩序を築いたと言えると思います。

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Capital Fascismをぶっ潰せ!

2015-01-04 23:21:47 | 社会

拝金主義(mammonism)を信奉する原始的資本主義(mammonistic capitalism)は、再大多数の最大幸福を目標とする民主主義とは相容れないはずなのですが、最近の米国においては民主主義的な手続き(議会が法を定めているが、実質産業資本のロビー活動通りに決まる)によって決められた非民主主義的な法律によって、1%の富者が99%の貧者から富を吸い上げて、しかも社会構造が変化しない(各階級の構成名簿の固定化)ような体制が作られつつあります。「理不尽でも合法ならば正義」とする考え方は東洋的な「仁」の思想にはなく、人権などの自然権を神の法として不可侵のものと考え、人間界における決め事を下位の法とする法の支配の考え方からも本来成り立たないはずです。

 

しかしこの20年の間に米国の社会はmammonisitic capitalismをやりやすいように各種の法によって社会が変えられてしまいました。多くの人は、拝金主義的資本主義が民主主義や「人間性が重視されるより住みやすい社会」につながらないことに気がついているのですが、「拝金主義的資本主義で良いのだ」とする人達が権力を持ってしまっているために現状を変えられないでいます。この「拝金主義的資本主義で良いのだ」とする考え方をどのように呼ぶべきか、「このような思想を適確に表現することば」がないかを考えていたのですがCapital Fascism、資本ファシズムという言い方が良いのではないかと思いつきました。ファシズムとは束ねるという意味があり、社会の多様性を許さない(グローバリズムは正規分布の社会を認めない)、効率と収益が価値規準の全てであり、金儲けが下手な人も生きて行ける社会とか、無駄と思えるものにも価値を認めることで余裕ができ、心が豊かになるといった思想を認めない現在の拝金主義的資本主義にはぴったりの表現ではないかと思います。

 

Googleで検索してみるとbrainbenderという米国の医師の2011年に書かれたブログに私と同じような意味合いでcapital fascismという言葉を使っているものがありました。

Nazism= national fascism= ruling class makes the rules

Communism=social fascism=ruling class makes the rules

Capitalism=capital fascism=ruling class make the rules

と説明されていて、結局社会のルールを作るのは支配階級であることに変わりはないのだからナチズムもコミュニズムも資本主義も皆ファシズムではないか、ということです。特に支配階級が都合の良いように法を作る傾向が強まりすぎているのが最近の米国であり、「その方が都合が良いのだ」と言い張る人はCapital Fascistと言って良いと思います。

 

今年は第二次大戦が終了して70年の節目になります。各国は多くの犠牲の下に築かれた「戦後秩序(民主主義が日独枢軸国のファシズムに勝利した結果作られた戦後の世界秩序)の大切さ」を祝い、再認識する行事を予定しています。戦後秩序の意義は本来「ファシズムの否定」にあったはずですが、1990年代にソ連を中心とした社会主義陣営が崩壊したことで、いつのまにか資本主義を謳歌すること(拝金主義的資本主義を良しとする事)が戦後秩序の意義と同義であるとすり替えられてしまい、その事を誰も表立って否定できなくなってしまいました。きっと多くの記念行事において、「戦後秩序のおかげでグローバルな資本主義が行き渡り、世界が益々豊かになって行く」といった戯言が繰り返されるのではないかと思います。

 

グローバル資本主義はCapital fascismである!ファシズムは否定されなければならない!と世界の99%の一般人が声を揃えて主張しなければ、ルールを作る支配階級達のファシズムは永遠に続く事になるのではないかと危惧します。

コメント (2)
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