rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 日本人の心のかたち

2013-12-18 23:37:19 | 書評

書評 日本人の心のかたち 玄侑 宗久 角川SSC新書201 2013年刊

 

臨済宗の住職で福島県に在住し、芥川賞作家(2001年)でもある著者が、日本人の物事の決め方の特性について、荘子の斎物論篇にある「両行」という思想と、維摩経の不二の法門にある「不二」という思想からこれらが日本人特有のこころのあり方に影響していることを日本の古典や現行の作法、習慣など広い例証から論考したものです。

 

日本人は、基本的に二つの異なる思想を対立・選択することをせずにどちらも取り入れることによって新たな物を産み出すことを得意としている、ことから両行・不二という思想が導かれるのですが、これは和洋折衷であるとか、漢字と大和言葉から漢字仮名まじりの日本語体系を作ってきた日本文化を考えれば容易に理解できます。アンパンのように和菓子の餡とパンを共に生かして新しい物を作るのが「両行」ですし、善悪や生死のような対立・分別されるものを敢えて分けて考えずに同時にそのまま受け入れてしまう思想が「不二」にあたり、例えば健康であっても病気であっても構わずに自分のやりたい事や生き方を貫く境地は「不二」にあたるのだと思います。

 

この本を読もうと思ったきっかけは、私自身が先のブログでエッセイとして書いたように、日本人特有のエトスというのは一神教のユダヤキリスト教圏の人達とは異なり、しかも中国韓国のアジアでも大陸圏の人達とも異なると考えていたことと、僧侶である氏の考えが高齢者医療の問題点を解決する何らかのヒントを与えてくれるのではないかと期待したからです。

 

私が示した日本人の「善」を決定する思考法とは説明が異なりますが、著者は日本人の物の決め方の西洋人との違いを次のように説明します(115ページ)「(日本人は)人間の思考そのものを信用していないから、とりあえず両行する考え方を配しておき、結論は「無心」において「直感的」に決めるのである。ロゴスとキャラクター(論理と個性)に重きを置く国とは違っていて当然と言うしかないだろう。」「西欧の人々は初めにロゴスありき、と繰り返し学んできたせいか、人間の思考や論理にずいぶんと信頼をおいている。思考し、論理を操る主体は、無論「我」である。」(内はrakitarou注)この直感的に決める動機は論理を超えた「周囲との協調」や「バランス感覚」なのでしょうが、後付けでどのようにも正当化できるように相反する論理付けができるしくみが日本語にはあると説明します。例えば「善は急げ」と「急がば回れ」、「君子危うきに近づかず」と「虎穴に入らずんば虎児を得ず」のような相反する選択肢を正当化できることばが日本語には用意されていると言う事です。

 

高齢化社会になればなるほど日本の医療費は高騰を続けています。年をとれば種々の病気を併発し、また医療の進歩から以前であれば助からなかった病気も治療が可能になってきています。多くの病気を併発している人を治療するのは疾患が一つしかない人を治療するより当然多くの医療費と手間がかかります。医療費が無限大にあるのならばいくらでも手間をかけて医療を施す事もできるでしょうが、「もうこれ以上の医療費の高騰は無理」と政府は判断していて、総医療費を抑えるために単価を下げる政策を取り続けてきました。政府は「年寄りは死ね」とは決して言いません。でも本音は「高齢者の医療はほどほどにしてね。」と明確に政策上告げています。

一方で医療を受ける高齢者の方も限りなく医療を受け続けることに必ずしも幸福を感じていないように見えます。「年に不足はない」「余生だから」と言いながら毎日のように病院に通って十種類以上の薬を飲み続ける姿は「論理的には矛盾」していますが、「両行」や「不二」のなせる所と言えなくもありません。お年寄りは、恐らくは100万円かかるぞんざいな医療よりも、効果は劣っても1500円の心のこもった医療の方を喜ぶのではないかと思います。80台の人が50台に若返れる医療はありません。80台のまま一つの病気が癒されるにすぎず、すぐにまた他の病気が出てくるのであれば、一つの医療に莫大な治療費と患者の心身への負担をかけたところで大して幸福になることはないのは当然です。

効果は劣るけれどその分「心のこもった医療だから」というエクスキューズが得られるのならば最先端の高額医療を行わなくても満足が得られるのではないか、高齢者医療の問題解決の糸口はこの辺にあるのではないか、と私は思います。

 

著者は仏僧らしい視点から、「薬師如来と阿弥陀如来は両方揃ってこそ人間の安寧を保証する両行だったのである(83ページ)。」と医療、治療の権化(悟りを開いた仏)と死に向かう不安を和らげる仏を両行させる大乗仏教の形態を説明します。また日本人は死を終焉と考えず、身体から魂が黄泉の国に去る、いずれ黄泉返る(よみがえる)、或は弔辞などでも「先に天国でゆっくりとお休み下さい、私も後からまいります。」などと死そのものを認めない思想がある(46ページ)と日本人独特の死生観を説明します。他にも魂が肉体から離れる状態を「魂消る」(たまげる)と表現したり、魂が抜けた状態の肉体を「呆」や「惚」(ほうけ)と表現したりします。敵も味方も、善人も悪人も死んでしまえば皆仏様、というのも「不二」を実現した日本特有の優れた思想であり、誰でも死ねば仏になれるという安心感が死への不安をなくす知恵として育まれてきたと説明されます(怨親平等と和の思想170ページ)。

 

欧米では病院にも患者の宗派に応じた宗教家の出入りが心の治療の一環として行われていたり、病院そのものが教会によって運営されていたりして、死への不安やグリーフケアへの積極的な取り組みがなされています。日本の医療では診療報酬にそのような項目は皆無であり、病院内にもやっと緩和医療が癌治療や終末期医療に取り込む努力がなされているに過ぎません。私は治療のガイドラインが50歳台と80歳台で同じなのはおかしい、と度々主張していますが、米沢慧氏が提唱する「往きの医療」「還りの医療」の思想を取り入れた「高齢者の満足につながる医療」こそが「医療費の高騰」「高齢者医療問題」を解決するヒントになるだろうと思います。

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書評 憲法とは国家権力への国民からの命令である

2013-12-12 00:34:50 | 書評

書評 憲法とは国家権力への国民からの命令である 小室直樹著 2013年ビジネス社刊

 

小室直樹氏は1932年生まれの政治経済学者で、副島隆彦氏の師匠であり、2010年に亡くなっています。本書は2002年に氏が「日本国憲法の問題点」と題して刊行した書籍を再編したものです。小室直樹氏は日本の既存の大勢に捉われず、基本に帰って世界的な視点から論理的に日本の問題点を指摘するという点で、大衆受けは多分しないでしょうが、私は非常に惹かれるものがあります。

 

本書の主題は「近代デモクラシーにおける憲法とは国家というモンスターを縛る鎖であり、憲法とは国家権力への命令である」という点と、日本国憲法における最も重要な条文は第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という一文に尽きる。というものです。この第13条はアメリカ独立宣言と同じ文章が使われており、ジョン・ロック以来の連綿たる近代デモクラシー思想のエッセンスが込められたものであって、国家たるものどんなに逆境、困難が待ち受けていても、国民の生命、自由そして幸福追求の権利を守らなければならない、と力説します。

 

近頃話題になった自民党の憲法改正案では、第13条「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」と変更されています。一見あまり変わりがないように見えますが、実はジョン・ロックの思想を否定する基本的思想から変える大変革であることが解ります。社会契約説に基づいて人間が生まれながらに神から与えられた無制限の権利の一部を差し出すことによって、国家が形成されているのであるから、「もし国家権力が人民を不幸にるすなら、契約を改めてもいい。つまり革命を起こして、新しい政府を作るのは人民の正当な権利なのだとロックは述べています(同書籍30ページ)」と小室直樹氏は解説していますが、自民党案では、「公の秩序に反してはならない」と憲法が国民を規定してしまい、「国家が国民のあり方を規定する」という逆転現象によって憲法の原則からも離れ、いかにして近代国家が必要とされて作られたかという根本理念さえも忘れ去られてしまっています。自民党案を作った人はもう一度中学から民主主義とは何かを勉強し直す必要があります。もし全て理解した上でこのような逆転を仕掛けたとすれば、「日本には(お上を信ずる)思想があって、民主主義に儒教的な仁の思想を融合した」特殊な考え方に従って憲法を作り直したのだ、西洋的な民主主義は一度全て否定したのだ、と重々説明しないと「単なる騙し」になります。

 

小室氏はバブルを崩壊させて、数十兆円の国民の資産(株や地価など)を奪ったことも、北朝鮮の拉致を放置していたことも、日銀が長期間ゼロ金利を続けた事も全て「国民の生命財産を守る」という憲法の国家への命令に違反した行為であると断罪します。憲法9条については私が前から述べている解釈と同じであり、国益を追求する一手段として戦争という手段は放棄しているが、国民の生命を侵略から守るために自衛権の範囲で戦争を行うことは国家の使命であり、否定されようがない、と述べています。つまり「専守防衛の自衛隊は合憲である」という世界の常識に基づいた至極まっとうな解釈です。

 

本の後半では小室氏は民主主義を実現するための教育の重要性(日本の良さ、日本人としての自覚を大切にし、民主主義を不断の努力によって実現するようにする国民教育の重要性)を説いています。それはそれで説得力があり、重要なことですが、第5章「日本人が知らない戦争と平和の常識」は9条論争に関連して、日本人が国際紛争に関する常識にあまりに無知であることが述べられていて参考になります。

 

「統帥権の独立とシビリアンコントロール」

戦前政治家であっても民間人が軍事に関わる決定を下すことを「統帥権の干犯」と称して天皇の直轄事項を侵害する行為であり、認められないなどと軍人達が独走する元になりました。小室氏は「統帥権の独立」とは戦争において「軍略は軍人が専ら行う」ことを規定しただけであり、軍政・国家戦略は政治家が行うことは明治時代においてはきちんと分けて考えられていたと説明します。日露戦争を終わらせたのは軍人ではなく小村寿太郎です。またシビリアンコントロールならば何でも良いというものではなく、軍略を素人であるシビリアンが行うと第一次大戦のガリポリ上陸作戦(対トルコ、チャーチル主導により英仏連合軍48万のうち25万の死傷者が出て失敗)のような大敗を期する教訓もあると説明します。

 

「日本も批准している戦争法規であるジュネーブ条約」

1949年に制定されて日本も1953年に批准しているもので、他国に侵略された場合に、自衛官でない一般市民が家族を守るために敵と戦う決意をした際、万一捕虜になっても正規の戦闘員として保護を受ける基準も定められている。つまり

・  部下について責任を負う一人の者が指揮している事。

・  遠方から認識する事ができる固有の特殊標章を有する事。

・  公然と武器を携行している事。

・  戦争の法規及び慣例に従って行動している事。

がアピールできれば、正規軍でなくとも合法的軍隊として捕虜になった場合保護されるが、そうでなければゲリラ、テロリストとして虐殺されても文句が言えない。またこのようなテロリストが混ざっていたら周囲の一般人も見分けがつかないから同様に虐殺されても文句が言えない、というものです。日本人で知っている人は殆どいないでしょうが、永世中立国のスイスではこの規定が全国民に周知徹底されているということです。

 

これは重要な項目で、便衣兵が混ざっていたら南京で一般人が虐殺されても国際法上合法だったという事。ベトナムでベトコンが農民に混ざっていたので米兵が農民を虐殺したのも合法、アフガンでテロリストが民間人に混ざっているので無人機で民間人ごとミサイル攻撃するのも合法、テロリストはジュネーブ条約で保護されないからグアンタナモ収容所で拷問しても合法、という理屈の元になっています。

 

本から離れますが、私がよく見ている米国のテレビ番組「Law & Order」シーズン20第一話「Memo from the Dark Side」ではイラクで捕虜虐待をして精神的に障害を来した帰還兵が虐待の合法性を政府にテキスト制作によって進言した法学者を訴える(実際は法学者がこの帰還兵を殺害したのですが正当防衛で無罪)という筋書きで、テロリストの虐待は人道的には許されないけど合法であること、政府が人道的に間違った事をしたことをNYの地方検事と市民(陪審員)が裁く事は民主主義の理念からは正しいこと(既出のロックの思想から国家への反逆ではなく正当な権利と検事は陪審員を説得する)などが番組内で語られて、結果的には連邦検察の横槍で審理無効になってしまうのですが、捕虜虐待問題を正面から扱うアメリカのテレビ番組の質の高さや制作者の意気込みが感じられます。

 

憲法のあり方、国際法と国家の関係、忘れていた戦争の概念、そういった問題が身近なものに感ぜられる現在、この本は時宜を得たものであり、民主主義の原点を顧みるために必読のものであると思いました。

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