rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

儲けは一部の人に、犠牲は全員に、立ち直ったら儲けはまた一部の人に

2008-09-30 12:39:40 | 政治
米下院、金融法案を否決(朝日新聞) - goo ニュース

バブル崩壊後の苦しい時期を過ごし、公的資金注入にも慣れっこになってしまった日本人にとっては米下院が金融法案を否決したことは「これしかないのになんで?」という印象を持つと思います。私も何の抵抗もなく通過だろうと思っていました。アメリカ的資本主義、グローバリズムの一番の推進者は民主党ですから。しかし労働者や下層階級にも支持者が多い民主党としては、「儲ける時は一部の人に、その結果生じた不具合の責任は国民全員に(税金で補いましょう)、そしてまた経済が復活したら儲けは一部の人に」という筋書きが見えてしまう状況では、すんなりと公的資金注入が受け入れられないのも当然のように思います。

もっとも今回の金融法案が通ったところでそれがどこまで有効な策となるかは未知数であり、「砂に水を撒くようだ」という表現もありました。私はアメリカ人があまり苦しまずに今回の危機を乗りきることには賛成できません。日本もとばっちりは受けるでしょうがアメリカ人、特にユダヤ金融資本の拝金主義者達が「世の中には錬金術などないのだ」ということを身にしみて体得するまで痛い目に会った方が良いと思いますけど。
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硫黄島に捧ぐ

2008-09-28 19:48:46 | 映画
父親達の星条旗

2006年 監督 クリントイーストウッド 主演 ライアンフィリップ他

太平洋戦争屈指の激戦地である硫黄島で擂鉢山に星条旗を掲げる写真が海兵隊勝利のシンボルとして戦意高揚と国債販売のために利用され、そこに写っていた3人の兵士達が英雄としてアメリカ中をプロパガンダの道具として引き回され苦悩する様を描いた作品である。クリントイーストウッドが監督し、同時期に撮影された日本側から描いた作品「硫黄島からの手紙」と好対照をなし話題を呼びました。

この映画の原作は実際に星条旗を掲げて英雄となったジョン・ブラッドリー氏のご子息であるジェームズブラッドリー氏の手になる物であり、まさに父親にとって硫黄島の星条旗は何だったのかを真剣に描いた物と思います。

製作はプライベートライアンを手がけたスピルバーグも加わっていますが、私は硫黄島の戦いをアメリカ側から描いたこの映画と、日本側から描いた「硫黄島からの手紙」をよくぞ同時に作ったものだと感心せざるを得ません。それは「自分たちの命を犠牲にするこの戦いの意味合いが日米でこんなに違うのだ」ということをまざまざと見せつけることになるからです。日本側にとっては渡辺謙扮する栗林中将の言葉の如く、「自分たちがここで一日踏みとどまることが、本土の父母、家族達を米軍の攻撃から守る一日になる」という明確な理由づけがあります。一方で米軍にとっては映画の中でも何回か語られるように戦うのは一緒に戦っている戦友のため、形の上では国家のためというもの以上ではありません。父母や家族が日本軍に殺されるわけでもないのに何故自分が戦って不具者になったり死ななければならないのか、答えはどこにもありません。

私が以前tweleve O’clock highやプライベートライアンで指摘したように真面目に作られたアメリカの第二次大戦の戦争映画は常にこの「何故参戦するのか」という疑問を呈し続けます。アメリカ人は第二次大戦への参戦を納得などしていなかったのです。田舎で農業を営み町工場で働く人達にとって、何故大切な息子達を戦地に差し出さねばならないのか、戦争で物価が上がり生活が苦しいのに、何故戦時国債を買わされないといけないのか、全く納得していないからこそ星条旗を立てた海兵隊員を英雄としてキャンペーンを張らないといけなかった訳で、担当者が映画の中で「ショービジネス」という言葉を用いて海兵隊員達に英雄としての役を演ずるよう指導する様が描かれます。この映画は正に「現代のアメリカのありかた」を問う内容としても、「草の根保守派」の監督の力の入れようが感じられるのでしょう。硫黄島二部作において日米それぞれの兵士達の戦う目的が「旗」と「手紙」という主題に象徴されていると言えます。

硫黄島からの手紙 

2006年、監督 クリントイーストウッド、主演 渡辺 謙

「父親達の星条旗」との2部作として同時期に造られた日本からみた硫黄島の戦いを描いた映画です。「父親達の星条旗」を先に見てから鑑賞すると、よくぞアメリカ人の監督がこれだけ日本人に優しい映画を作ったものだと一種の感激さえ覚えます。「父親達・・」が同じく国家のために死力を尽して戦った米軍の兵隊達を描いているのに、目まぐるしいフラッシュバックや時代の跳躍のために戦闘そのものにのめり込めない作りになっている一方で、「手紙」の方は指揮官・兵ともに故郷の想いを描きながらも戦闘経過を追う作りなので見る者を硫黄島の戦闘そのものに引き込ませる形になっています。

映画の醸し出す雰囲気は、出演者達が日本人だからと言い切れない日本人に違和感を感じさせないものであることも驚きでした。アメリカ映画の描く日本軍は「トラトラトラ」などのように日米合作でない限り、どこか軽蔑や滑稽さをこめた作りになることが殆どであるのに、この映画は硫黄島で戦った日本人達の「思い」や「気持ち」をそれぞれの信条の違いとともに非常にストレートに淡々と描いていて、近ごろの日本の戦争映画が異様に反戦や勇気、友情などの感情に力が入りすぎ、私にはなじめない物が多い中で、安心して感情移入ができる作りであった事が素晴らしいと感じました。

20年近く前ですが、小笠原諸島までの船の行程の倍(3日)を費やして、硫黄島を訪れた事があります。当時でも擂鉢山や飛行場近くの司令部跡など殆んど戦争時のまま残されていたことが思い出されます。硫黄の匂いと地熱のために洞窟に入って10分もいるだけでくらくらしました。12月でも昼間はクーラーを付けていました。周回する道路があるのですが、マラソン中に日本兵を見かけたなどという話しもありました。島そのものは地味でひっそりと静かな島でした。今、栗林中将と同年代になり、改めて当時母国と将来の日本のために尊い命を犠牲にされた先人達に感謝したい、また日常些細な事で文句を言ってはいかんなあ、と思わせる映画でした。アメリカ人は「父親達・・」を見てもそのような気持ちにはならないでしょう。クリントイーストウッドのこの2部作は米軍には大変きびしい映画だと思います。
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アメリカの原始的資本主義は終焉を迎えるのだろうか

2008-09-24 21:46:04 | 政治
サブプライム問題を引きがねにして、GDPの10倍にまで膨れ上がった米国資産がとても利益を出せない状態になり、それを扱う証券会社が次々に破綻してきています。額に汗して働く健全な社会の人々が幸せに暮らすための「手段」として資本主義は共産主義よりも優れた制度と世界で認められ、存在しているのですが、資本家や株主だけが儲かれば良いという誤った考えに基づく原始的資本主義は所詮淘汰されなければならないものです。

原始的資本主義の象徴的存在としてハゲタカファンドがあり、企業を育てる目的でなく搾取する目的で、健全な企業を吸収合併売却すると恐れられてきました。小泉内閣における郵政民営化も何故反対する人がいたかというと、民営化されて株式会社化されるとアメリカのハゲタカファンドに買収されて日本国民の虎の子である郵便貯金がファンドに吸い取られてしまうのではないかと危惧されたからです。

ハゲタカファンドに象徴される原始的資本主義が終焉を迎えるならば、世界にとってこんなにありがたい事はありません。私も郵政が民営化されること自体は悪い事ではないと思っていましたが、郵便貯金が日本人のものでなくなる可能性があるから賛成できないと思っていました。

アメリカ政府は公的資金を投入する企業と潰してしまう企業を選んでいます。その選択の基準は社会における重要度やcredit default swap(CDS)などをからめた影響度を考案して行っているようですが、この際アメリカにとっても健全な社会を作れる資本主義体制を作り直していこうと考えて資金投入をして欲しいと思います。そうなるならば今回の騒動も決して無駄な出血にはならないと思います。

まだ日本の経済評論などではこれでハゲタカのような資本主義は終わるだろうという話しは出てこないのですが、実際はどうなのか知りたい所です。
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勝敗がついた戦争において、敗者はどのように終わりを迎えるべきか

2008-09-22 22:35:38 | 映画
勝敗がついた戦争において、敗者はどのように終わりを迎えるべきか

ヒトラー最後の12日間 2004年 独・伊・オーストリア

監督 オリバーヒルシュビーゲル
主演 ブルーノ・ガンツ 他

勝敗がついた戦争において、敗者はどのように終わりを迎えるかを、ベルリンが陥落してヒトラーが自殺した(とされる)までの12日間を再現的に描いた作品です。誰の目にもドイツの敗戦は既に決定的であり、残る軍備も殆どない状態でヒトラーは首都ベルリンの死守を少年兵や民兵にまで命じます。側近達に既に存在しない予備軍が救援に来るはずだと怒鳴り散らし、いよいよ進退窮まる状態になって婚約者のエバブラウンとともに自殺します。あれほどドイツ帝国を愛し、ゲルマン民族を誇りに思っていたはずなのに、それらが滅んでしまうことと自分が死ぬことはヒトラーにとっては同じレベルの出来事として描かれます。

日本の敗戦においても恥や意地ではなく国家の再生を考えて国民の犠牲を少しでも少なくすることを優先する人々と降伏など考えず民族が絶滅しても最後の一人まで戦うのが良いとする人々の確執が起こりました。冷静に考えればどちらが本当の愛国者であるかは明らかなのですが戦中では軟弱、裏切り者という批難に耐えて前者を主張し続ける事は難しいものです。首都が陥落するまで戦い抜いたドイツは前者を主張する多数の良識を持ちながらナチスとヒトラーが後者であり続けたことが映画からも分かります。後半に紹介する「日本のいちばん長い日」では、終戦をめぐる両者の争いが克明に描かれています。これらの映画は敗戦国だからこそ作れた映画であると思いますが、このテーマは現代の国家においても、例えばイラク戦争や北朝鮮などにおいても、またもっと卑近な例では会社や組織のあり方においても我々自身の問題としてとらえなおすことができるのではないでしょうか。

日本のいちばん長い日 1967年 日本(東宝)

監督 岡本喜八
主演 三船敏郎他

原作は大宅惣一から実は半藤一利であったと最近訂正され、書籍も再販されました。それを読んでから見たのですが、映画が原作の内容をよく映像化していて改めて感動しました。それぞれの俳優陣の熱の入った演技は勿論ですが、天皇に対する特別な感情はやはり日本映画、日本の監督でないと描ききれないのだろうと思います。キリスト教におけるエホバ、イスラムにおけるアッラーに近い「厳粛で絶対的な存在」としての天皇の存在を理解していないと日本軍の発想、精神的なよりどころは外国人にはわからないでしょう。

敗戦を受け入れられない青年将校達、冷静に天皇の意を受容し青年将校たちに斬殺される師団長、軍の意向を背負いながらも最後は内閣の議決を受け入れて己の責任を自死をもってあがなう陸軍大臣、皆が真剣に生きていて、どの生き方をした人に対しても現代から笑える者はいないはずです。自分があの時代に生きていたら冷静に次代の日本のためを考えて行動できたか自信がありません。しかし戦後生まれの私としては、あそこで戦争を終わらせてくれて本当によかったと当時を真剣に生きたすべての父母の時代の人たちに感謝したいです。

「戦前の日本は悪でした」などという戦後日本支配のための嘘の教育は受けなくて良いから、現代の高校、大学生たちはこの映画か原作を鑑賞して当時の日本人たちがいかに日本の将来を考え、真剣に生きてきたかを学ぶべきだろうと思います。
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現代における理想の軍人像とは

2008-09-21 22:24:25 | 映画
パットン大戦車軍団(PATTON)1970年 監督:F.J.シャフナー 主演:ジョージCスコット 脚本:Fコッポラ

日本の題名は単なる戦車が縦横に走り回る戦争活劇のような印象を受けますが、原題名のPATTONの方が映画の本質をよく表していると思われます。原作はこの映画にも登場する同僚のアメリカ軍の将星ブラッドリー将軍ですが、彼が自分とは性格の異なる軍人であるパットンについて何故書き残したいと思ったのかこの映画を見るとわかる気がします。

戦車軍団を率いるパットン将軍は「軍神」と呼ぶにふさわしい稀代の用兵感覚を持ち、どのような困難な状況にあっても自軍を勝利に導きます。また人一倍ロマンチストであり、詩人でありナルシストでもあります。彼は古代ローマにまで遡り歴史上の激しい戦いの場には常に自分がいたと確信しています。卑怯な戦いは好まず、戦略を駆使し正面からぶつかる戦いを好みます。軍神がそのまま世界の支配者であった時代ならば彼は英雄として君臨することができたのですが、第二次大戦中の米軍というシビリアンコントロールと政治的駆け引きの下での軍人、として限られた自由しか与えられない情況では自分が既に時代遅れの存在であることは自覚しています。結局困難な闘いでは彼の才能が大いに使われるのですが、政治的バランス感覚を欠いた言動で解任されて戦争終了により引退することになります。ジェリーゴールドスミスのエコーの反射のような音楽はパットンの古代からの歴代軍神の生まれ変わりの様子を表していると解説されています。

一方原作を記したブラッドリー将軍は、軍人としても優秀ですがバランス感覚もあり、政治的に出過ぎることもなく、朝鮮戦争でも活躍することになります。私は現代における理想的軍人像はブラッドリーにあるだろうと思います。そして彼の流れを汲むのが第一次湾岸戦争時のパウエル統合参謀本部議長だろうと思います。パットンが政治に対してあまりにもナイーブであった一方で、政治的感覚が強かったのはアイゼンハワーやマッカーサー、日本で言えば石原莞爾などではないでしょうか。マッカーサーは戦後の日本を一つの理想社会として築こうとし、朝鮮戦争においてもアメリカのアジア支配の彼なりの形を作ろうと画策して結局解任されました。

日本の自衛隊にも軍人らしくないサラリーマン自衛官がいる一方で、現代のパットンや辻正信、ブラッドリーやパウエルに相当する人たちもいます。かつて自衛官たちと深く接していたときに善し悪しを含めて「これは人材の宝庫だ」と感じました。アメリカのようにしょっちゅう戦争をしていると実戦の巧者が上に上がることもあるでしょうが、日本ではなかなか難しい。それでも一番トップに出るような人たちはそれなりにどこの国の軍隊でもトップを取れるような逸材であると感じます。惜しむらくは彼らをコントロールするシビリアンたちが彼らほど優秀でないことです(だからかえって危険なのですが)。

この映画の見所は製作者皆が感嘆したという、本人が乗り移ったと思われるほど真に迫ったジョージCスコットの演技でしょう。パットンというのはこんなおやじだったんだろうなあ、直属の上司だったら大変だなあと思わせ、それでいて戦では鬼神のごとく彼に従えば勝利するだろうと思わせるものを十分に感じさせます。この映画は70年のアカデミー賞を7部門受賞していますが、ジョージCスコットは主演男優賞の受賞をなぜか拒否したというエピソードもあります。地獄の黙示録で有名なコッポラはこの映画の脚本でアカデミー賞を受賞していますが、映画の出だし、度肝を抜く大星条旗をバックにパットンが現れて聴衆を一切写さないまま「アメリカの名誉ある歴史を作るために戦え」と演説する様は戦意高揚のためにヒーローとして駆り出されたパットンを示しているとも言えますが、どうもパットンの姿自体がアメリカを象徴しているのではないかと思われてなりません。この映画の一番最後は凱旋行進する古代ローマ軍につれられた奴隷が「ご主人様、栄光は移ろいやすいものです。」と諌めることばで終わっています。この出だしとこの最後は当時世界一の覇権をソ連と争っていたアメリカに対して目立たないように発したメッセージと見るのはうがちすぎでしょうか。
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安かろう悪かろうは薬も一緒である

2008-09-13 23:59:18 | 医療
後発医薬品(ジェネリック医薬品)はゾロ品とも言われ、新開発の医薬品が一定期間が過ぎた後、元の製品と同じ主成分の薬品を製造して安い薬価で販売しているもので、医療費抑制の旗手として積極的な使用が推奨されています。05年の全医薬品に占める後発品のシェアは17%といわれ、厚労省は12年までに後発品のシェアを30%以上にするよう勧告を出し、本年4月から処方箋薬局において医師の処方箋に係わらず30%以上後発品を出せば1枚につき40円の調剤料の増収になるという得点まで付けました。

後発医薬品は効能・効果は同じで薬が安いだけだと厚労省は断言しています。しかしそれが嘘であることは医師・薬剤師・製薬会社も全て常識として承知しています。知らないのは薬を飲まされる患者だけです。勿論後発医薬品でも効果が同じであると言えるものもあります。しかし主成分が等しいだけで製造法や配合剤が同じでないものが元の薬品と同じはずがありません。薬は吸収され、血中に入り、臓器に達して細胞に取り込まれ、薬効を働くという過程を取ります。100%同じものでなければこれらの過程が同量の薬を投与されても変わってくることは普通に考えても理解できるはずです。

最近は後発品も「進化したジェネリック」として元の薬剤よりもより効果的であったり、副作用が少なかったり、飲みやすくなったりしているものもあり、一概に「後発品は悪い」といえなくなっていることも事実です。しかし売れ筋の薬になると、同じ薬剤にあまりにも多数のジェネリックが作られるため、どれが信頼できる後発品か見分けが付かないのが現状です。医師としては効果。副作用ともによくわかっている元の製品を患者さんに使ってほしいと考えるのが人情というものです。

具体的な製品名はあげませんが、先発品から後発品に変えた後に明らかに検査データが悪化した例は公の学会報告でも多数示されていますし、製薬会社ではそのようなデータをかなり収集しています。「薬の効果は二の次で、医療費が安くなることが何よりも優先」であることを前提にジェネリックの推進をしていることを厚労省は国民に説明しないといけません。

医師が処方する薬には、「絶対に飲まないといけない薬」、と「飲んだほうがよいと思われる薬」があります。糖尿病や高血圧、癌の治療薬などは飲まないと命にかかわる「絶対に飲まないといけない薬」でしょうし、高脂血症薬などは飲んだほうが将来のために良い薬でしょう。ビタミン剤や湿布薬、胃薬などは場合によってはどうでも良いものといえるかも知れません。医師によってはこの重要度に応じてジェネリックに変えないでほしいと考えている人もいます。私もその一人です。

オランダから医学部の学生が夏休みを利用して研修にきたことがあります。その一人が腹痛をおこしたので薬を出してやろうとしたのですが、「重大な病気でないのなら薬はいらない、自分は抗生物質も飲んだことがない」と言われて外国の若者はそんなものかと感心したことがあります。総じて日本人は薬好きです。私は外科医であり、薬は自分も飲まないし、患者さんにも必要最小限しか処方しませんが、外来などで「もっと薬をくれ」と言われて閉口することもあります。

前にも書きましたが、西洋医学では急性疾患と外科的疾患は治りますが、慢性疾患は症状をごまかすことはできても治すことは不可能です。治らない病気に対して出す薬は必要最小限でよいのであって、あれやこれやと取り混ぜて出すなどというのはナンセンスです。私はジェネリックの使用を増やして医療費を削減するのでなく、不要不急の薬は出さないことで医療費を減らすほうが良いと考えます。それでは薬屋や不要不急の薬を出して生活している医師達が困るではないかと言われるかも知れませんが、自分の命を削ってストレスフルなリスクの高い医療を行っている医師達こそが本当に患者さんの命を救っているのですから、医師たるものその本来の医師の領域に戻るべきなのであって楽をしていてはいけないのです。

世界の製薬業界は大手が中小の企業を吸収合併して再編が行われ、新薬開発に関して十分な体力がないと研究開発が困難な状況になってきています。私は日本の製薬会社を守る必要からもあまり薬価を下げて製薬会社の体力を奪うべきではないと思います。エイズの治療薬が欧米の大手製薬会社が開発し特許を持っていて安い後発品の販売を許さないからアフリカなどの後進国では患者がいても薬が買えない状態が続いています。新たな病気に対する薬を開発する能力がない場合、その国民の健康は薬を持っている他国に支配されることになります。つまり国防の観点からも製品開発が可能な製薬会社の体力を奪うのは良くないというのが私の意見です。
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書評 「朝鮮戦争(金日成とマッカーサーの陰謀)」

2008-09-11 00:51:40 | 書評
書評 「朝鮮戦争(金日成とマッカーサーの陰謀)」萩原遼 文春文庫1997年

1993年に文藝春秋社から出された単行本の文庫化されたもので、77年に情報公開されたアメリカ公文書館の160万ページに及ぶ朝鮮戦争時の資料から戦争に至った経緯、当時の北朝鮮側からみた韓国の状況などを公平な視点で詳述した好著だと思います。著者は大阪外語大の朝鮮語科を卒業して赤旗の記者として20年勤務し、平壌特派員も勤めていた朝鮮のエキスパートですが、内容はイデオロギーに捕われず、事実に即し、人間としての自然な感情に従い、欺瞞や非人間的な事態には右も左もなく分析批難するまっとうなジャーナリズム精神を持っておられる方であると思います。

北朝鮮が欺瞞と抑圧、餓え、犯罪の渦巻く収容所国家であることは現在では常識となりましたが、93年当時はまだ世界は社会主義の幻想からやっと覚醒したばかりで北朝鮮がこれほど酷い国だとは思っていなかったと思います。筆者は北朝鮮国家の成立時点まで遡って、朝鮮戦争発生の起源を探ってゆきます。

朝鮮半島北部を占領したソ連軍は、極東方面軍88特別狙撃旅団にいて亡命朝鮮人隊員「キムソンジュ」という33歳の大尉を1920年代からの伝説的な抗日の勇士金日成にすりかえて北朝鮮首班に指名し統治させました。北の施策は全てソ連の指示の下、最終的には朝鮮半島全体をソ連の指揮下に納めることが目的とされ朝鮮人による主体的国造りなど全く認められなかったのです。

朝鮮戦争の開戦は北の南進から始まったことは常識ですが、先に開戦したのは南であるという主張は「先に戦争を始めた方が倫理的な悪」という思想に基づいており、最近のグルジア紛争でもロシアかグルジアかで争われたように正義の旗印をかかげるためには必要な言い分と考えられています。計画的南進は計画的軍の配置を確認できれば容易に判断できることで、北の計画的南進は当時の軍の命令書や兵士達に開戦前に配布された南進後の行動計画などから弁解の余地はないものです。しかし題名に(金日成とマッカーサーの陰謀)とあるように、興味深いのは開戦前の時期から米軍側に北の間諜から計画的南進を示唆する多くの情報が寄せられていたにも係わらず米軍が南進を留まらせる策を何ら打っていなかったという事実があることです。

「アメリカは真珠湾攻撃を知っていた」、「911の直前に既に情報が入っていた」など、アメリカの戦争には優れた情報組織からの確実な情報を得ていながら、先に手を出させておいて自らのやりたい戦争を行うというパターンがあるようです。1950年の段階でその直前に成立した共産中国はアメリカのアジア支配にとって当時覇権を争っていたソ連との関連からも許しがたい状況にあったことは否めなかったでしょう。どこまで本気か不明ですが、北に手を出させて弱小北朝鮮軍を一機に蹴散らしてから、蒋介石と協力して共産中国も追い払うという戦略が考えられていたこともあったようです。実際マッカーサーは蒋と秘密に会談して大統領に叱責されています。

一方で金日成は南進の計画で米軍が参戦してくることは眼中になかったことが見て取れます。仁川上陸後、米軍に敗退した北朝鮮はソ連の参戦を望みますが、冷たく却下されます。ソ連一辺倒だった北がソ連と距離を置いて中国に近づくのはここからですが、もう一方の中国はアメリカの参戦を自国の脅威と戦略的に見ていたことが明らかなのもまた興味深い所です。

当時の中国人(共産党でなく)にとって他国である北朝鮮にアメリカが来ようがソ連が来ようがどうでもよいことだったはずです。それをのべ300万人を動員し、山を埋め尽くす人海戦術で装備が勝り、制空権を持つ米軍を38度線まで押し返した共産中国の裏事情というのは十分な情報はないものの、今後ますます明らかになってくるでしょう。大量の国民党軍の捕虜を背後から銃で脅して一機に処分したという話しもあります(http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070613/1181698643)。

本書にはその解釈はありませんが、私は朝鮮戦争は朝鮮の独立戦争であったのではないかと考察したことがあります。つまり当初の南進で北が勝っていれば、共産朝鮮の、南の巻き返しで北を中国に追い出していれば韓国が朝鮮を統一していたはずです。しかし米軍の参戦、中国の参戦がそれぞれの独立朝鮮の成立を阻み、現在もその両国の存在が朝鮮統一の障害になっている事実は変わりません。

北朝鮮は主席も動向不明(08年9月)とされ、韓国も対外債務がかさみ経済が破綻しかかっている現在、両国が建設的な方向で統一に向かう事は困難な状況です。しかし軍事は別として、米中の経済的命運が意外にも表裏一体と見られていることから、情勢判断が適確であれば将来的に朝鮮が平和的に統一できるチャンスはあるように思います。そのためにも両国民が欺瞞や見栄にとらわれないありのままの歴史解釈ができる人達に成長してくれることを隣人として望みます。
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医療は教科書通りにやって60点である(医学と法学の根本的違い)

2008-09-03 23:57:32 | 医療

(記事:毎日新聞社)

大野病院医療事故:県、懲戒処分見直しも 地検が控訴断念、医師の無罪確定へ /福島

 無罪確定へ--。大熊町の県立大野病院で04年に起きた医療死亡事故の裁判は29日、福島地検が控訴断念を明らかにし、業務上過失致死と医師法違反の罪に問われた加藤克彦医師(40)の無罪が確定することになった。県は、加藤医師の懲戒処分の見直しを検討している。【松本惇、西嶋正法、今井美津子、石川淳一】
 福島地検の村上満男次席検事は「事実関係はおおむね検察官の主張通り認定している」とした上で、「判決は刑罰を科す基準となる医学的準則を、ほとんどの者が従っていると言える一般性を有しなければならないとした。裁判所の要求も考え方としてあり得る」と述べた。加藤医師の起訴については「被告が持っていた医学書に(検察側主張に沿う)記載があり、産婦人科医の鑑定もあったので、違法とは思わない」と正当性を主張した。県警の佐々木賢・刑事総務課長は「法と証拠に基づき必要な捜査をした。医療行為の捜査は今後も慎重、適切に行いたい」と話した。
 一方、加藤医師の弁護団は「当然の結論。産科を中心に医療現場全般に与えた悪影響が収束することを期待する」とし、日本産科婦人科学会は「今後も母児ともに救命できる医療の確立を目指し、最大限の努力を続ける」との談話を発表した。
 また、県病院局の茂田士郎・病院事業管理者は「医療事故の再発防止に全力を尽くしたい」とコメント。加藤医師を減給1カ月(10分の1)とした05年6月の処分について、同局の林博行次長は「判決を吟味し、(加藤医師の過失を認めた)県事故調査委員会の報告書を含め、懲戒処分取り消しも視野に検討したい」と話した。
 保岡興治法相は会見で「医療事故の調査は、専門家らで構成する第三者委員会がリスクなどに専門的判断を下し、刑事司法はそれを尊重し対応する仕組みが必要」と語った。

(以上引用終わり)

 大野病院の事件は無罪判決が出た事で一段落を迎えた感がありますが、上に引用した毎日新聞の記事は医学と法学の根本的な考え方の違いを思わせる内容であり、我々「医師が当然のごとく考えていることも法律家には解らないのだなあ」と改めて考えさせるものでした。

 医師が大学を卒業して実践の医療現場に入るとまず感ずるのは「現実の患者さんは教科書通りでない」ことであり、指導医師に教えられるのは「医療は教科書通りにやって60点、それを70点80点に上げてゆくのが医師の腕である」ということです。実際、大病院などの第1線の医療機関で行っている医療は教科書の5年先の内容であり、大学病院で研究している医療は教科書の10年先の内容です。それらが成書として揺るぎない内容になって数年ごとに改定される教科書に記載され、医師国家試験に問題として出されるのはその後になります。医療の先進性だけの問題ではなく、実際のヒトの病気は100人100様であって、個々人の病態や人生観に合わせた「オーダーメイド医療」の必要性が叫ばれるのが当然であり、患者さん中心の医療とはまさに「教科書通り」や「医療保険のしばり通り」とは正反対の考え方なのです。

またいつも問題になるのですが、医師国家試験の正解が臨床医学において常に正解になるわけではないのは常識であり、医大で国家試験用の勉強を教えるべきなのか、実践的臨床医学を中心に教えるべきなのか、勉強する学生の方も戸惑う訳です。

 「国家試験的には」という枕詞を付けて説明することもしばしばであり、賢い学生達には容易に「国試用の医学」と「臨床医学」の使い分けはできるのですが、尻を叩きまくって国試合格のための勉強をさせているような大学では学生からも父兄からも「試験に受かる授業をしてくれ」と言われる羽目になります。

 主題がずれましたが、法律家にとっては「教科書(法律書)通り行わないというのは違法」という考え方であり、彼らにはそれが常識なのでしょう。しかし法律家の常識に医者も従えというのは100%誤りです。「医療事故」についての考え方もいまだに「結果が悪かったら医療事故」という概念の初歩的誤りから出ていません(少なくとも記事の上では)。これでは患者さんは「医療はうまく行って当たり前、結果が悪かったら医療事故なんだな」という誤解に基づく医療不信から一歩も出ない事になるでしょう。

 現在種々の疾患に「標準治療」や「治療のガイドライン」というものが学会主導で作成されていて、医療の標準化・均一化が図られています。これは一面大変良い所もあるのですが、個々の臨床医療にそぐわない場合も当然出てくるのでそれぞれのガイドラインは注意深く読むと多用な解釈ができるようになっているものもあります。

教科書・ガイドライン通り行って60点、残り40%の患者さんは上手く行かない可能性があります。「上手く行かなかった場合、教科書通りにやっても上手く行かなかったのなら罪にならないけど教科書通りでなかったら犯罪者ですよ」という法律家の考え方を押し付けられたら日本全国60点の医療しかやらなくなってしまう、という我々医師の叫びが理解していただけたでしょうか。
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